短編
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(『愛しているから』の続話です)
はっと気づいたとき、その男は暗闇の中にいた。
(そうか……小生は……)
人から鬼へと姿を変えて生き、そしてひとりの少年の手によって朽ち果てたのだということを思い出す。
目印などないこの真っ暗闇の中で、どこに向かえばいいのかなんて男にはわかるはずもなかった。しかし、どこに向かっても行き着く先は地獄だということだけは理解していた。
たくさんの人を殺してきた。地獄でその罪を償いきれるとも思っていない。だけどもし、いつかその罪が許されるときが来たならば、男が願うことはたったひとつだけだった。
「あなた」
誰かの声が聞こえた。
その方向に目を遣る。
暗闇の中にひとり、女が立っていた。
女の両腕には皺や手垢のついた原稿用紙が抱えられていた。女は原稿用紙を大事そうに両腕に抱えたまま、小走りで男の元へと駆け寄り、控えめに広げられた腕の中に飛び込んだ。
小さな手は原稿用紙を握ったまま大きな背中にまわされ、人を殺めた大きな手は小さな身体を搔き抱いた。
「ああ、やっと会えた……」
「どうして……」
「どうして……?あなたとの約束を守りにきました。ただそれだけです」
女の瞳からはらりと涙が零れ落ちる。女につられてか、男の目からもまた静かに涙が溢れ出た。
「すまない……こんなところで君をひとり待たせてしまって、本当にすまないことをした。どうか許してくれ」
「私のほうこそ、黙ってあなたの前からいなくなってしまったこと、謝るわ……本当にごめんなさい。でも、私のことを見つけてくれて、私が一番好きだと言ったお話と一緒に送り出してくれて、嬉しかった」
女の涙が、ひとつ、またひとつと男の着物に染み込んでいく。暗闇の中で抱き合ったまま、女が続ける。
「あなたがくれたお話、何度も何度も読み返してたから、紙がぼろぼろになったしまったの」
「ごめんなさい」と女が再び謝ると、男は「かまわない」と言って女の髪を撫でた。
こうしていつまでも、2人抱き合いながら互いのぬくもりを感じていられるならば、どれだけ幸せか。
しかし男には、女と交わした約束を果たすために行かなければならないところがあった。
「いつまでもこうしてはいられない。小生はもう行かなくては……君も早く元いた場所へ戻るといい」
「……何を仰っているのですか?」
男の言葉に、再び逢えた喜びを噛みしめていた女の表情が曇った。
「小生はたくさんの人間を殺した。君と同じところには行けない」
「同じところ?」
「ここから先は地獄だ。君の来るべきところではない」
「……い、嫌っ、私も一緒に行きます」
「だめだ。こればかりは許してやることができない」
「嫌です、私も一緒に行きます!針の山でも、火の海でも、あなたと一緒に歩きますから……!」
地獄とはどんなところだろうか。
いつか地獄絵で見たような場所なのか。
人だった頃、遠い昔に見たものであるはずなのに、その絵の光景が男の頭の中で鮮明に蘇る。
「あなたの傍から離れることはありませんと、約束をしました。あなたも私のことを離さないと約束してくれた」
「それは……」
「約束を、破るのですか?」
「ち、違う!小生は……」
「違うと仰るなら私も連れて行って」
約束を破ろうだなんて、思ってなどいない。
ただ、この先で待ち構えている本物の地獄に、愛する者を連れていくことなど、男にとって簡単にできることではなかった。
加えて、自分のことを支えてくれていた、この健気でいじらしい女が、地獄で償うべき罪などあるはずがないと男は思っていた。
「君には地獄に行く理由がない。だから--」
「地獄に行く理由なら私にもあるはずです」
「そんな……君は、人を殺した小生とは、心も身体も鬼になってしまった小生とは違う」
「いいえ、私はたくさんの人を見殺しにした。あなたが鬼となり、人を殺していたことを知りながら、私は目を瞑っていた。あなたをとめることができなかった」
「だから一緒に行きましょう」と、女が男の手を取った。女の手は、どこか頼りなく、そしてあたたかい手だった。
思えば、この頼りなくもあたたかい手に、何度助けられてきただろうか。
それだけではない。他人が評価してくれずとも、彼女だけは自分のことを認め、支えてくれていた。まわりに嘘をついてまで、鬼になった自分のことを庇い、守ってくれていた。
男には女が必要だった。それが天国であろうと地獄であろうと、変わりはしないだろう。
気づいたときにはもう、男の手は女の手を「離さない」と言わんばかりに強く握っていた。
「この先、何があるかわからない。それでも小生と共に行くことを後悔しないか?」
「はい。後悔などしないと、今ここで誓います」
女が立てた誓いに「そうか」と呟いて、男は女に口づけた。ここが死後の世界だということも忘れて、2人は何度も唇を重ね合わせた。
しかし、唇が離れたと思えば、2人の視界に大きく分厚い門が映りこみ、その地獄の門が、2人を現実に引き戻した。
「……あなた」
「何だ?」
「もし私たちの罪が許されて、生まれ変わることができたなら、例えそれが人としてでなくても、あなたの傍にいます。だからあなたも、私のことを離さないで」
女は男の頬をすうっと撫でると、「もう一度約束して」と涙で濡れた瞳で男に笑いかけた。
男は「約束する」と微笑んで、分厚い地獄の門を片手でぐっと押し開けた。
はっと気づいたとき、その男は暗闇の中にいた。
(そうか……小生は……)
人から鬼へと姿を変えて生き、そしてひとりの少年の手によって朽ち果てたのだということを思い出す。
目印などないこの真っ暗闇の中で、どこに向かえばいいのかなんて男にはわかるはずもなかった。しかし、どこに向かっても行き着く先は地獄だということだけは理解していた。
たくさんの人を殺してきた。地獄でその罪を償いきれるとも思っていない。だけどもし、いつかその罪が許されるときが来たならば、男が願うことはたったひとつだけだった。
「あなた」
誰かの声が聞こえた。
その方向に目を遣る。
暗闇の中にひとり、女が立っていた。
女の両腕には皺や手垢のついた原稿用紙が抱えられていた。女は原稿用紙を大事そうに両腕に抱えたまま、小走りで男の元へと駆け寄り、控えめに広げられた腕の中に飛び込んだ。
小さな手は原稿用紙を握ったまま大きな背中にまわされ、人を殺めた大きな手は小さな身体を搔き抱いた。
「ああ、やっと会えた……」
「どうして……」
「どうして……?あなたとの約束を守りにきました。ただそれだけです」
女の瞳からはらりと涙が零れ落ちる。女につられてか、男の目からもまた静かに涙が溢れ出た。
「すまない……こんなところで君をひとり待たせてしまって、本当にすまないことをした。どうか許してくれ」
「私のほうこそ、黙ってあなたの前からいなくなってしまったこと、謝るわ……本当にごめんなさい。でも、私のことを見つけてくれて、私が一番好きだと言ったお話と一緒に送り出してくれて、嬉しかった」
女の涙が、ひとつ、またひとつと男の着物に染み込んでいく。暗闇の中で抱き合ったまま、女が続ける。
「あなたがくれたお話、何度も何度も読み返してたから、紙がぼろぼろになったしまったの」
「ごめんなさい」と女が再び謝ると、男は「かまわない」と言って女の髪を撫でた。
こうしていつまでも、2人抱き合いながら互いのぬくもりを感じていられるならば、どれだけ幸せか。
しかし男には、女と交わした約束を果たすために行かなければならないところがあった。
「いつまでもこうしてはいられない。小生はもう行かなくては……君も早く元いた場所へ戻るといい」
「……何を仰っているのですか?」
男の言葉に、再び逢えた喜びを噛みしめていた女の表情が曇った。
「小生はたくさんの人間を殺した。君と同じところには行けない」
「同じところ?」
「ここから先は地獄だ。君の来るべきところではない」
「……い、嫌っ、私も一緒に行きます」
「だめだ。こればかりは許してやることができない」
「嫌です、私も一緒に行きます!針の山でも、火の海でも、あなたと一緒に歩きますから……!」
地獄とはどんなところだろうか。
いつか地獄絵で見たような場所なのか。
人だった頃、遠い昔に見たものであるはずなのに、その絵の光景が男の頭の中で鮮明に蘇る。
「あなたの傍から離れることはありませんと、約束をしました。あなたも私のことを離さないと約束してくれた」
「それは……」
「約束を、破るのですか?」
「ち、違う!小生は……」
「違うと仰るなら私も連れて行って」
約束を破ろうだなんて、思ってなどいない。
ただ、この先で待ち構えている本物の地獄に、愛する者を連れていくことなど、男にとって簡単にできることではなかった。
加えて、自分のことを支えてくれていた、この健気でいじらしい女が、地獄で償うべき罪などあるはずがないと男は思っていた。
「君には地獄に行く理由がない。だから--」
「地獄に行く理由なら私にもあるはずです」
「そんな……君は、人を殺した小生とは、心も身体も鬼になってしまった小生とは違う」
「いいえ、私はたくさんの人を見殺しにした。あなたが鬼となり、人を殺していたことを知りながら、私は目を瞑っていた。あなたをとめることができなかった」
「だから一緒に行きましょう」と、女が男の手を取った。女の手は、どこか頼りなく、そしてあたたかい手だった。
思えば、この頼りなくもあたたかい手に、何度助けられてきただろうか。
それだけではない。他人が評価してくれずとも、彼女だけは自分のことを認め、支えてくれていた。まわりに嘘をついてまで、鬼になった自分のことを庇い、守ってくれていた。
男には女が必要だった。それが天国であろうと地獄であろうと、変わりはしないだろう。
気づいたときにはもう、男の手は女の手を「離さない」と言わんばかりに強く握っていた。
「この先、何があるかわからない。それでも小生と共に行くことを後悔しないか?」
「はい。後悔などしないと、今ここで誓います」
女が立てた誓いに「そうか」と呟いて、男は女に口づけた。ここが死後の世界だということも忘れて、2人は何度も唇を重ね合わせた。
しかし、唇が離れたと思えば、2人の視界に大きく分厚い門が映りこみ、その地獄の門が、2人を現実に引き戻した。
「……あなた」
「何だ?」
「もし私たちの罪が許されて、生まれ変わることができたなら、例えそれが人としてでなくても、あなたの傍にいます。だからあなたも、私のことを離さないで」
女は男の頬をすうっと撫でると、「もう一度約束して」と涙で濡れた瞳で男に笑いかけた。
男は「約束する」と微笑んで、分厚い地獄の門を片手でぐっと押し開けた。
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