素直になるまで1cm
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海賊船らしからぬ香りが漂う潜水艦で、男達は疲れ切った身体を癒していた。蜂蜜のような甘い香りは訓練を受け疲弊しきった体に染み渡る。
「シャチって綺麗好きだよね。」
「…は?どこが?」
くるりと振り返ったのはシャチだけでは無かった。海へ潜った後の彼らから漂うのは磯の香りでは無い。
「いやシャチだけじゃないんだけどさ、この船のみんなってちゃんとシャワー浴びてるじゃない?」
「そんなこと!?普通だろ?」
「普通じゃないよ!!普通の海賊船だと水は貴重だし、お風呂に入る事なんて贅沢だし…そもそも入らないって人が多いし…」
「うげぇ…汚ねぇ…。は…もしかして姐さんも…?」
「私は入ってたよ!!でもそんなに頻繁には…能力で匂いは消してたけど…」
「あー通りでシャワー浴びるの早い訳だ…」
「おい、なんでお前がそんな事を知っている。」
「ひっキャプテン!!ほ、ほら!最初この船に来た時、俺が監視してたじゃないですか!!」
ぬっと名前とシャチの間に割って入ってきたのは、眉間に皺を寄せたロー。シャチは小動物のようにビクッと体を大きく震わせると慌てて弁明をする。
「見たのか?」
「み…みてな…」
「監視だからこっち見てたよね〜。あの時のシャチ可愛かったなー。」
「ね、姐さん!!ひでぇ!!売りやがったな!」
クスクスと微笑む彼女にシャチの脳裏には初めて悪女の名がチラついた。
「姐さんの能力って便利だよな。」
「うんうん!体が軽くなった気がするよ!」
「…役に立てて良かった。」
クルーの言葉に名前はゆっくりと目を細めた。彼らのお陰で初めてこの能力を得て良かったと思えたから。人を惑わすだけでは無いこの匂いも力も、以前までは封じ込めなければいけなかった。前の船で私の匂いと能力は不快だったらしい。だからこんなにも感謝される事実に未だ慣れない。
「おい、能力使い過ぎだ。」
「え?そうかな?」
「溢れてる。」
ローが床を指させば蜂蜜色の煙がじわりと床に広がっていた。初めて見るその色に思わず目を丸くする。今まで目視する事が出来る色はピンクだったはずだから。
「え…なにこれ知らない。ちょっと待ってね。」
床に広がる煙を眺めながら、いつも能力を解除している時のように力を入れれば煙はふわりと空気に舞って消える。もしかすると誘惑をする時に使っていた円のようなものは、癒す力としても有効なのかもしれない。いつも能力を発動する時のように、ゆっくりと呼吸をしそれを展開するように力を込めた。
ぶわりと広がる蜂蜜色の煙に、自分の能力である事も忘れ、わっと声を上げた
驚きの余り顔を上へ向ければ、ローも驚いた顔をしている。以前の能力だとこの煙の範囲に入れば理性を失う人が多数いた。慌てて周囲を見渡すが皆驚いているだけで、恍惚とした表情を見せるものは一人もいない。
「…船内で技の開発をするな。」
「ご、ごめん。自分でもびっくりして。あの不快感とかない?」
「いや?むしろ…」
身体が軽くなるような、ストレスが軽減されるかのような心地良さは全身に広がる。ポカポカと芯から温まる様な感覚は日向ぼっこでウトウトしてしまう心地良さに似ていた。
❥ ❥ ❥ ❥
何時もより体は疲弊していた。楽しみにしていた読書の続きが頭に入らない程に。コテンとソファの縁に頭を置き時計を見るが、普段ならまだ眠気が襲うような時刻では無い。
あの後、技の実験をいくつか行った。どうやら私の匂いには心を癒す効果もある様で、それがあの技だった。指先から生み出す飴玉は内から身体を癒すもので、外に放出する匂いは空気から心を癒すものだ。短時間で効果がある分、どうやら術者への体の負担もかかるようで、それが私にとっては睡眠らしい。今まで感じたことのない猛烈な睡魔が襲い掛かる。
「ん…」
「悪い起こしたな。」
「ごめん…眠い…」
自室へ戻ると本を膝の上に乗せたまま目をつむる名前の姿があった。能力を酷使し疲れたのだろうとも思ったが、彼女がこんな時間に眠る事は珍しい。念の為、体調を確認すべく彼女の体温を測ればゆるりと瞳は開く。が、どうやら限界の様で虚ろに開くその瞳は見た事も無いほどに無警戒で不用心だった。
「ここで寝るな。」
「ん。移動する。」
ノロノロと体を起こす彼女に手を貸せば相変わらずふわりと蜂蜜の香りが漂う。能力ではなく、彼女本来の匂いだろう。
「ロー…?」
「…早く寝ろ。」
疲弊した女を前に匂いを嗅ぎ足が止まるなんてどうかしていた。心配そうに顔を除く彼女の声にハッと我に返り、ベッドまで連れていけば彼女は直ぐに寝息を立てた。初めてこの船へ来た時、警戒心の強い彼女は俺の前で休息を取ることは無かった。そんな女は今無防備に眠っていた。
最初はただの好奇心だった。世界の全てを壊したいと思っていた時期にコラさんを除きたった1人優しく声を掛けてくれた人。手配書であの顔を見た時は他人の空似だと思っていた。だが、目が離せなくなった。自然と新聞に彼女の情報が乗ればそれを隅から隅まで確認していた。だからこそ、違う。と否定し続けた。あの時出会った女は、あんな事をする様な女には見えなかったから。
彼女が捕まったと知り、チャンスだと思った。危険が伴ったとしても一目見てみたいと思った。
あの頃とは違う女の瞳は多分哀しみに染っていた。仲間に裏切られ憎悪に染まった瞳だと最初は思っていたが、女の様子を近くで見てそれが哀しみであると気付いた。お前を裏切るような人間の何をそんなに恋しがるのか理解は出来ない。
❥ ❥ ❥ ❥
「姐さんの前の船ってどんな感じなんだ?」
ローはピタリと動かしていた足を止めた。なんとなく、この角を曲がっては行けないような気がしたから。ずっと聞きたかった過去の話をなんの迷いも無く聞けるのは彼女に対する単なる興味だろう。
「んー。戦争屋の所で傭兵海賊やってたよ。」
「へー!通りで戦い慣れてるんだな!俺、戦争屋嫌いだったけど姐さんは好きだぜ。」
「ふふ。ありがとう。私も戦争は嫌いだよ。出来ればもう参加したくないし、組織には関わりたくないかな。」
「この船にいる限りそんな事はしない!あー、前の船って恋しくなったりする?でも裏切られたんだよな…」
「姐さんを裏切るなんて有り得ねーよ!まぁお陰で俺達の仲間になってくれたから感謝すべきか?」
彼らの声に耳を傾けながら、とすっと背中を壁に預けた。踏み込んだ話題は話していなかったが、以前のように彼女の声色が落ちることは無かった。
「確かに、私もこの船に乗れて良かった。ふふ、そうだね。良かった。」
「そんなに喜ばれると照れるんですが…」
「でもさ、何でそんな船に乗ってたんだ?嫌な事やらされるなら、別の船に乗ればよかっただろ?」
「んー、恩があって最初は乗ってたんだけど、嫌になって逃げたら悪魔の実食べさせられちゃって、逃げれなくなっちゃった。ほら、私船の操縦出来ないし。」
「うわっなんだよそれ酷い話だな。」
「でも他の船とか行けなかったのか?」
「んー。何だかんだ仲間の事は好きだったのかも…。10年以上も一緒に居たし…。あ、今は何とも思ってないよ?次見掛けたら船沈めてやろうって思ってる!」
ハハハとクルーの大きな声が響く。彼女から前の船への未練や後悔は微塵も感じられない。この船へ来てかなりの時間が経った。未だ彼女の消息は不明の扱いを受けているが、そろそろ世間に公表してしまいたい程に彼女はもうこの船に住み着いていた。長い事停泊したこの場所からもそろそろ移動するべきなのかもしれない。
「…名前、ちょっといいか。」
「ん?どうしたの?」
彼女へ3つの手配書を渡せば、そのうち1つを見て彼女の瞳は大きく開いた。
「…生きてたんだね。懸賞金上がったんだ。」
「民間人相手に詐欺を働いてるらしいな。」
新聞を手渡すと、必死に表情を隠している彼女からは動揺の色が伺えた。記事と手配書は以前彼女が所属していた海賊団のもの。わざわざこんなものを渡すつもりは無かったが、確信が欲しかったのかもしれない。しかし予想していなかった彼女の表情は、今まで聞いていた話以外にもまだ謎があるように思えた。
「はぁ…ほんと最低だよ。お金に目が眩んでさ。海賊らしいと言えばそうなのかな…」
「お前に聞きたい事がある。」
なに?とこてんと首を傾げる彼女に、ぎゅっと拳を握った。なんとなく彼女との信頼関係が崩れてしまいそうだと感じたから。
「武器の密輸場所及び取引先を教えてくれ。」
一瞬で険しくなった彼女の顔は、先程の会話からは考えられないほど真剣な瞳だった。彼女がこの類の話を嫌っている事は理解していた、だが以前の話を聞く限り彼女は俺が欲しい情報を持っている可能性が高い。
「…知ってどうするの。」
「知りてェ事がある。別に悪事に加担する訳じゃない。」
「断ったら?」
「…自力で調べる。」
ジッと視線を交わらせた。時にして数秒だったが、やけに長く感じた。先に音を上げたのは彼女の方だった。
「詳しい場所は教えられない。知りたい事があるなら私が行くから何を知りたいのか教えて。」
「それは無理な話だ。…前の船の奴に会う可能性もあんだろ。」
「だから、今は私はハートの海賊団のクルーなの。もう昔の仲間とは関係ないでしょ。」
「ハン・ヘイノラ。」
彼女の手に収まっている手配書の中の1人の名前を呟いた。グシャリと紙を握る音、見たことも無い女の表情。お前にそんなに表情をさせるその男は一体何なのだ。
「そいつに用があるのか。」
「だから、昔の仲間に未練は無いって言ってるでしょ。」
「ただの仲間ならな。違うんだろ、その男は。」
「は…何を…」
「…嘘もつけねぇのか。なんだ?昔の男か。未練は無いと抜かしながら、分かりやすく動揺しやがって。場所を教える気がねェなら、話は終わりだ。悪かったな、嫌な事思い出させて。」
「ちょっと待ってよ!ロー!」
「触るな」
パシンと、肌の触れ合う音が響いた。決して優しい触れ合いではないその音に、只事では無いと甲板にいたクルー達がはざわりと騒ぎ出す
酷く動揺していたのは拒絶された名前ではなく、ローだった。彼女を拒絶した左手を握り締め、くるりと踵を返した。ちっぽけな独占欲だった。グルグルと渦を巻くドス黒い感情は初めて見た名前の表情に対する嫉妬だ。
「ッ…待ちなさいって…!!言ってんのよ!!!!」
「ぐっ…テメッ!?」
「きゃキャプテン!?」
名前はローの襟を掴むとそのままグイッと引いた。体格差は明らかであるのに、ローの体はそのまま地へ叩き付けられる。抵抗しようとするローに馬乗りになる形で押さえ付ける名前にクルーは悲鳴を上げた。
「テメェ自分が何してんのか分かってんのか。」
「分かってるわよ!!言いたい事があるならハッキリしてくんない!?急に不機嫌になったり、突き放したり意味わかんない。…要らないなら、捨てるつもりならもう優しくしないで!!」
はぁはぁと荒い呼吸で発した言葉。頭に血が上ってカッとするなんてらしくなかった。新米の海賊でもなければ、人との衝突を幾度も経験しそろそろ落ち着いてきた歳だと言うのに、自分よりも若いこの男の言葉に振り回されるなんて。我に返った名前は、ゆっくりとローを拘束していた手を解いた。
「ごめんなさい。忘れて。…ペンギンもごめん。不安なら海楼石持ってきてもいいから。船から降りろと言われたら従う。皆の船長に刃向かってごめんなさい。」
訓練の直後だったペンギンは槍を持っていた。咄嗟の判断で構えた彼の武器はしっかりと名前を捉えていた。いや…と一言放ち、柄は空を向くが船長に危害を加える船員なんてもう要らないだろう。ローの顔は見れなかった。心臓は抜き取られてるけど、彼らに潰されるならもうそれでもいいのかもしれない。立ち上がろうと足に力を入れた。
「ざっけんなよ…このクソ女ッ!」
「いっ…た!!なにすんのよ!?」
「ひぃ!!きゃキャプテン!?」
ゴツンと響いたのは互いの頭がぶつかる音。突然の衝撃に名前はおでこを抑えたが、ハッと顔を上げればローの額からは血が流れていた。咄嗟の判断で体は武装色を纏ったから、恐らく真に痛いのは彼の方だ。
「馬鹿!!血出てるから!なんてことしてんのよ!」
「それはこっちの台詞だ!黙ってれば好き放題ガタガタ抜かしやがって!!」
「待って!ロー血!!血を止めて先に!!」
「キャプテン!!1回話止めて!!落ち着いて!!!」
怒りを孕んだローの言葉は止まらない。名前もクルーも彼の心配で気が気じゃない。もはや誰が喋っているのか分からない状況だ。
「そんなにこの船から降りたいのならこれは返してやる。だが、もう誰にもお前を渡す気はねェ!地の果てまで追い回して必ず捕まえてやるよ!!誰がお前を捨てるだァ?過去の男と比べてんじゃねェよ…!」
「は…意味わかんない…」
トンと胸に押し付けられたソレは紛れもない名前の心臓。ドクンドクンと自身の鼓動が外から聞こえるのは不思議な感覚だ。だって、ローの言うことが分からないから。これを返されたら、私がここにいる意味はなに?
「はァ…自分で考えろ。頭冷やしてくる。」
熱の篭った瞳はスっと冷静さを取り戻していた。取り乱しているのも、放心状態に陥っているのも名前1人だ。船員達の騒音が響く中でローが踏む地面の音だけがやけに鮮明に聞こえた。
ドクンドクンと動き続ける心臓を、膝の上に乗せたまま彼の言葉の意味を考えた。深く考える必要は無いのに、ローは仲間として受け入れると言っているのに素直に受け取れないのは自分が臆病だからだ。
「…姉さん、俺船長があんなに取り乱してるの初めて見たよ。」
「そう…なんだ。…いつも冷静だもんね。」
「あぁ。俺達に心配かけないように、あの人は危険な場所へ行く時いつもふらっと1人で消えちゃうんだ。信頼してない訳じゃない。多分もう何も失いたくないんだよ。」
名前は彼らの冒険を知らない。彼らの航海も生き様も何も知らずにここにいる。なのに、何故か惹かれた。彼等の真っ直ぐな心に、強い意志に。船長に向かって刃向かった私に対してもペンギンはこうして接してくれる。それは船長であるローの意志を理解しているから。
「コレを戻したら、私は逃げ出すかもよ。」
「んーそれは困るなぁ。でも、脅して船にいてもらうのは違うだろ?そうだな、コックに毎日シチュー作ってもらうように頼むか…」
「え?」
「あとは、服を裏返しに脱がないようにクルーに言い聞かせて、シャワーを浴びた後はしっかり服を着るように言って、名前がこっそり隠してるお金の在処も隠しておくよ。」
「…なんで知ってんの。」
ペラペラと話すペンギンの言葉は全て名前には心当たりがあるものばかり。しかも人に話したことがない事まで。
「あとは珈琲本当は嫌いなのに、船長に合わせて飲んでることとか?多分船長気付いてんぞ。」
「えっ…うそ、嘘だよね!?」
「ホントだよ。姐さんって噂通りの悪女なのかなーと思って最初は警戒してたんだけど、意外とアホだし抜けてるし、俺らより大人だからしっかりしなきゃってカッコつけてるけどさ、もっと楽にしていいんだぜ。」
「あ…アホ…?初めて言われたんだけど。」
クスクスと笑うペンギンに名前は口をあんぐりと開いていた。ペンギンがここまで自分を観察しているとは思っていなかったから。
「それだけ俺達には気を許してくれてるって事だろ?あー姐さんは能力使って誤魔化してたのか…ならアホなのは気が付かないかもな…。でも嘘つくのも下手だしなぁ…。どうやって裏社会で生きてきたんだ?」
「失礼ね!!!嘘ぐらいつけるから!!能力が無くても!!」
他人にここまで行動を分析されたのは初めてだった。強さこそが自分の生きる道であり存在意義だった。それだけが他者から受ける自分の評価だったと言うのに。
「だから、どんな姐さんでも俺達はもう仲間だと思ってんだ。ソレを受け取るかどうかは姐さんに任せるけど、船長は不器用なんだ。姐さんなら分かるだろ?」
「ありがとうペンギン。はぁやっぱ私姐さんなんて柄じゃ無いわ。普通に名前で呼んで?仲間として。」
「アイアイ名前!よろしくな!」
「うん。船長に謝ってくる。」
パシンと互いの手が触れた。グダグダ悩んでも過去は変えられない。今まで背負っていた呪縛の様な感情はこの船では感じられない。認めてしまおう。感情が抑えられなくなるのも、ムキになるのも全て彼の前だからなんだと。つまらない維持とトラウマは捨て、自分の信念を貫き通そう。
「シャチって綺麗好きだよね。」
「…は?どこが?」
くるりと振り返ったのはシャチだけでは無かった。海へ潜った後の彼らから漂うのは磯の香りでは無い。
「いやシャチだけじゃないんだけどさ、この船のみんなってちゃんとシャワー浴びてるじゃない?」
「そんなこと!?普通だろ?」
「普通じゃないよ!!普通の海賊船だと水は貴重だし、お風呂に入る事なんて贅沢だし…そもそも入らないって人が多いし…」
「うげぇ…汚ねぇ…。は…もしかして姐さんも…?」
「私は入ってたよ!!でもそんなに頻繁には…能力で匂いは消してたけど…」
「あー通りでシャワー浴びるの早い訳だ…」
「おい、なんでお前がそんな事を知っている。」
「ひっキャプテン!!ほ、ほら!最初この船に来た時、俺が監視してたじゃないですか!!」
ぬっと名前とシャチの間に割って入ってきたのは、眉間に皺を寄せたロー。シャチは小動物のようにビクッと体を大きく震わせると慌てて弁明をする。
「見たのか?」
「み…みてな…」
「監視だからこっち見てたよね〜。あの時のシャチ可愛かったなー。」
「ね、姐さん!!ひでぇ!!売りやがったな!」
クスクスと微笑む彼女にシャチの脳裏には初めて悪女の名がチラついた。
「姐さんの能力って便利だよな。」
「うんうん!体が軽くなった気がするよ!」
「…役に立てて良かった。」
クルーの言葉に名前はゆっくりと目を細めた。彼らのお陰で初めてこの能力を得て良かったと思えたから。人を惑わすだけでは無いこの匂いも力も、以前までは封じ込めなければいけなかった。前の船で私の匂いと能力は不快だったらしい。だからこんなにも感謝される事実に未だ慣れない。
「おい、能力使い過ぎだ。」
「え?そうかな?」
「溢れてる。」
ローが床を指させば蜂蜜色の煙がじわりと床に広がっていた。初めて見るその色に思わず目を丸くする。今まで目視する事が出来る色はピンクだったはずだから。
「え…なにこれ知らない。ちょっと待ってね。」
床に広がる煙を眺めながら、いつも能力を解除している時のように力を入れれば煙はふわりと空気に舞って消える。もしかすると誘惑をする時に使っていた円のようなものは、癒す力としても有効なのかもしれない。いつも能力を発動する時のように、ゆっくりと呼吸をしそれを展開するように力を込めた。
ぶわりと広がる蜂蜜色の煙に、自分の能力である事も忘れ、わっと声を上げた
驚きの余り顔を上へ向ければ、ローも驚いた顔をしている。以前の能力だとこの煙の範囲に入れば理性を失う人が多数いた。慌てて周囲を見渡すが皆驚いているだけで、恍惚とした表情を見せるものは一人もいない。
「…船内で技の開発をするな。」
「ご、ごめん。自分でもびっくりして。あの不快感とかない?」
「いや?むしろ…」
身体が軽くなるような、ストレスが軽減されるかのような心地良さは全身に広がる。ポカポカと芯から温まる様な感覚は日向ぼっこでウトウトしてしまう心地良さに似ていた。
❥ ❥ ❥ ❥
何時もより体は疲弊していた。楽しみにしていた読書の続きが頭に入らない程に。コテンとソファの縁に頭を置き時計を見るが、普段ならまだ眠気が襲うような時刻では無い。
あの後、技の実験をいくつか行った。どうやら私の匂いには心を癒す効果もある様で、それがあの技だった。指先から生み出す飴玉は内から身体を癒すもので、外に放出する匂いは空気から心を癒すものだ。短時間で効果がある分、どうやら術者への体の負担もかかるようで、それが私にとっては睡眠らしい。今まで感じたことのない猛烈な睡魔が襲い掛かる。
「ん…」
「悪い起こしたな。」
「ごめん…眠い…」
自室へ戻ると本を膝の上に乗せたまま目をつむる名前の姿があった。能力を酷使し疲れたのだろうとも思ったが、彼女がこんな時間に眠る事は珍しい。念の為、体調を確認すべく彼女の体温を測ればゆるりと瞳は開く。が、どうやら限界の様で虚ろに開くその瞳は見た事も無いほどに無警戒で不用心だった。
「ここで寝るな。」
「ん。移動する。」
ノロノロと体を起こす彼女に手を貸せば相変わらずふわりと蜂蜜の香りが漂う。能力ではなく、彼女本来の匂いだろう。
「ロー…?」
「…早く寝ろ。」
疲弊した女を前に匂いを嗅ぎ足が止まるなんてどうかしていた。心配そうに顔を除く彼女の声にハッと我に返り、ベッドまで連れていけば彼女は直ぐに寝息を立てた。初めてこの船へ来た時、警戒心の強い彼女は俺の前で休息を取ることは無かった。そんな女は今無防備に眠っていた。
最初はただの好奇心だった。世界の全てを壊したいと思っていた時期にコラさんを除きたった1人優しく声を掛けてくれた人。手配書であの顔を見た時は他人の空似だと思っていた。だが、目が離せなくなった。自然と新聞に彼女の情報が乗ればそれを隅から隅まで確認していた。だからこそ、違う。と否定し続けた。あの時出会った女は、あんな事をする様な女には見えなかったから。
彼女が捕まったと知り、チャンスだと思った。危険が伴ったとしても一目見てみたいと思った。
あの頃とは違う女の瞳は多分哀しみに染っていた。仲間に裏切られ憎悪に染まった瞳だと最初は思っていたが、女の様子を近くで見てそれが哀しみであると気付いた。お前を裏切るような人間の何をそんなに恋しがるのか理解は出来ない。
❥ ❥ ❥ ❥
「姐さんの前の船ってどんな感じなんだ?」
ローはピタリと動かしていた足を止めた。なんとなく、この角を曲がっては行けないような気がしたから。ずっと聞きたかった過去の話をなんの迷いも無く聞けるのは彼女に対する単なる興味だろう。
「んー。戦争屋の所で傭兵海賊やってたよ。」
「へー!通りで戦い慣れてるんだな!俺、戦争屋嫌いだったけど姐さんは好きだぜ。」
「ふふ。ありがとう。私も戦争は嫌いだよ。出来ればもう参加したくないし、組織には関わりたくないかな。」
「この船にいる限りそんな事はしない!あー、前の船って恋しくなったりする?でも裏切られたんだよな…」
「姐さんを裏切るなんて有り得ねーよ!まぁお陰で俺達の仲間になってくれたから感謝すべきか?」
彼らの声に耳を傾けながら、とすっと背中を壁に預けた。踏み込んだ話題は話していなかったが、以前のように彼女の声色が落ちることは無かった。
「確かに、私もこの船に乗れて良かった。ふふ、そうだね。良かった。」
「そんなに喜ばれると照れるんですが…」
「でもさ、何でそんな船に乗ってたんだ?嫌な事やらされるなら、別の船に乗ればよかっただろ?」
「んー、恩があって最初は乗ってたんだけど、嫌になって逃げたら悪魔の実食べさせられちゃって、逃げれなくなっちゃった。ほら、私船の操縦出来ないし。」
「うわっなんだよそれ酷い話だな。」
「でも他の船とか行けなかったのか?」
「んー。何だかんだ仲間の事は好きだったのかも…。10年以上も一緒に居たし…。あ、今は何とも思ってないよ?次見掛けたら船沈めてやろうって思ってる!」
ハハハとクルーの大きな声が響く。彼女から前の船への未練や後悔は微塵も感じられない。この船へ来てかなりの時間が経った。未だ彼女の消息は不明の扱いを受けているが、そろそろ世間に公表してしまいたい程に彼女はもうこの船に住み着いていた。長い事停泊したこの場所からもそろそろ移動するべきなのかもしれない。
「…名前、ちょっといいか。」
「ん?どうしたの?」
彼女へ3つの手配書を渡せば、そのうち1つを見て彼女の瞳は大きく開いた。
「…生きてたんだね。懸賞金上がったんだ。」
「民間人相手に詐欺を働いてるらしいな。」
新聞を手渡すと、必死に表情を隠している彼女からは動揺の色が伺えた。記事と手配書は以前彼女が所属していた海賊団のもの。わざわざこんなものを渡すつもりは無かったが、確信が欲しかったのかもしれない。しかし予想していなかった彼女の表情は、今まで聞いていた話以外にもまだ謎があるように思えた。
「はぁ…ほんと最低だよ。お金に目が眩んでさ。海賊らしいと言えばそうなのかな…」
「お前に聞きたい事がある。」
なに?とこてんと首を傾げる彼女に、ぎゅっと拳を握った。なんとなく彼女との信頼関係が崩れてしまいそうだと感じたから。
「武器の密輸場所及び取引先を教えてくれ。」
一瞬で険しくなった彼女の顔は、先程の会話からは考えられないほど真剣な瞳だった。彼女がこの類の話を嫌っている事は理解していた、だが以前の話を聞く限り彼女は俺が欲しい情報を持っている可能性が高い。
「…知ってどうするの。」
「知りてェ事がある。別に悪事に加担する訳じゃない。」
「断ったら?」
「…自力で調べる。」
ジッと視線を交わらせた。時にして数秒だったが、やけに長く感じた。先に音を上げたのは彼女の方だった。
「詳しい場所は教えられない。知りたい事があるなら私が行くから何を知りたいのか教えて。」
「それは無理な話だ。…前の船の奴に会う可能性もあんだろ。」
「だから、今は私はハートの海賊団のクルーなの。もう昔の仲間とは関係ないでしょ。」
「ハン・ヘイノラ。」
彼女の手に収まっている手配書の中の1人の名前を呟いた。グシャリと紙を握る音、見たことも無い女の表情。お前にそんなに表情をさせるその男は一体何なのだ。
「そいつに用があるのか。」
「だから、昔の仲間に未練は無いって言ってるでしょ。」
「ただの仲間ならな。違うんだろ、その男は。」
「は…何を…」
「…嘘もつけねぇのか。なんだ?昔の男か。未練は無いと抜かしながら、分かりやすく動揺しやがって。場所を教える気がねェなら、話は終わりだ。悪かったな、嫌な事思い出させて。」
「ちょっと待ってよ!ロー!」
「触るな」
パシンと、肌の触れ合う音が響いた。決して優しい触れ合いではないその音に、只事では無いと甲板にいたクルー達がはざわりと騒ぎ出す
酷く動揺していたのは拒絶された名前ではなく、ローだった。彼女を拒絶した左手を握り締め、くるりと踵を返した。ちっぽけな独占欲だった。グルグルと渦を巻くドス黒い感情は初めて見た名前の表情に対する嫉妬だ。
「ッ…待ちなさいって…!!言ってんのよ!!!!」
「ぐっ…テメッ!?」
「きゃキャプテン!?」
名前はローの襟を掴むとそのままグイッと引いた。体格差は明らかであるのに、ローの体はそのまま地へ叩き付けられる。抵抗しようとするローに馬乗りになる形で押さえ付ける名前にクルーは悲鳴を上げた。
「テメェ自分が何してんのか分かってんのか。」
「分かってるわよ!!言いたい事があるならハッキリしてくんない!?急に不機嫌になったり、突き放したり意味わかんない。…要らないなら、捨てるつもりならもう優しくしないで!!」
はぁはぁと荒い呼吸で発した言葉。頭に血が上ってカッとするなんてらしくなかった。新米の海賊でもなければ、人との衝突を幾度も経験しそろそろ落ち着いてきた歳だと言うのに、自分よりも若いこの男の言葉に振り回されるなんて。我に返った名前は、ゆっくりとローを拘束していた手を解いた。
「ごめんなさい。忘れて。…ペンギンもごめん。不安なら海楼石持ってきてもいいから。船から降りろと言われたら従う。皆の船長に刃向かってごめんなさい。」
訓練の直後だったペンギンは槍を持っていた。咄嗟の判断で構えた彼の武器はしっかりと名前を捉えていた。いや…と一言放ち、柄は空を向くが船長に危害を加える船員なんてもう要らないだろう。ローの顔は見れなかった。心臓は抜き取られてるけど、彼らに潰されるならもうそれでもいいのかもしれない。立ち上がろうと足に力を入れた。
「ざっけんなよ…このクソ女ッ!」
「いっ…た!!なにすんのよ!?」
「ひぃ!!きゃキャプテン!?」
ゴツンと響いたのは互いの頭がぶつかる音。突然の衝撃に名前はおでこを抑えたが、ハッと顔を上げればローの額からは血が流れていた。咄嗟の判断で体は武装色を纏ったから、恐らく真に痛いのは彼の方だ。
「馬鹿!!血出てるから!なんてことしてんのよ!」
「それはこっちの台詞だ!黙ってれば好き放題ガタガタ抜かしやがって!!」
「待って!ロー血!!血を止めて先に!!」
「キャプテン!!1回話止めて!!落ち着いて!!!」
怒りを孕んだローの言葉は止まらない。名前もクルーも彼の心配で気が気じゃない。もはや誰が喋っているのか分からない状況だ。
「そんなにこの船から降りたいのならこれは返してやる。だが、もう誰にもお前を渡す気はねェ!地の果てまで追い回して必ず捕まえてやるよ!!誰がお前を捨てるだァ?過去の男と比べてんじゃねェよ…!」
「は…意味わかんない…」
トンと胸に押し付けられたソレは紛れもない名前の心臓。ドクンドクンと自身の鼓動が外から聞こえるのは不思議な感覚だ。だって、ローの言うことが分からないから。これを返されたら、私がここにいる意味はなに?
「はァ…自分で考えろ。頭冷やしてくる。」
熱の篭った瞳はスっと冷静さを取り戻していた。取り乱しているのも、放心状態に陥っているのも名前1人だ。船員達の騒音が響く中でローが踏む地面の音だけがやけに鮮明に聞こえた。
ドクンドクンと動き続ける心臓を、膝の上に乗せたまま彼の言葉の意味を考えた。深く考える必要は無いのに、ローは仲間として受け入れると言っているのに素直に受け取れないのは自分が臆病だからだ。
「…姉さん、俺船長があんなに取り乱してるの初めて見たよ。」
「そう…なんだ。…いつも冷静だもんね。」
「あぁ。俺達に心配かけないように、あの人は危険な場所へ行く時いつもふらっと1人で消えちゃうんだ。信頼してない訳じゃない。多分もう何も失いたくないんだよ。」
名前は彼らの冒険を知らない。彼らの航海も生き様も何も知らずにここにいる。なのに、何故か惹かれた。彼等の真っ直ぐな心に、強い意志に。船長に向かって刃向かった私に対してもペンギンはこうして接してくれる。それは船長であるローの意志を理解しているから。
「コレを戻したら、私は逃げ出すかもよ。」
「んーそれは困るなぁ。でも、脅して船にいてもらうのは違うだろ?そうだな、コックに毎日シチュー作ってもらうように頼むか…」
「え?」
「あとは、服を裏返しに脱がないようにクルーに言い聞かせて、シャワーを浴びた後はしっかり服を着るように言って、名前がこっそり隠してるお金の在処も隠しておくよ。」
「…なんで知ってんの。」
ペラペラと話すペンギンの言葉は全て名前には心当たりがあるものばかり。しかも人に話したことがない事まで。
「あとは珈琲本当は嫌いなのに、船長に合わせて飲んでることとか?多分船長気付いてんぞ。」
「えっ…うそ、嘘だよね!?」
「ホントだよ。姐さんって噂通りの悪女なのかなーと思って最初は警戒してたんだけど、意外とアホだし抜けてるし、俺らより大人だからしっかりしなきゃってカッコつけてるけどさ、もっと楽にしていいんだぜ。」
「あ…アホ…?初めて言われたんだけど。」
クスクスと笑うペンギンに名前は口をあんぐりと開いていた。ペンギンがここまで自分を観察しているとは思っていなかったから。
「それだけ俺達には気を許してくれてるって事だろ?あー姐さんは能力使って誤魔化してたのか…ならアホなのは気が付かないかもな…。でも嘘つくのも下手だしなぁ…。どうやって裏社会で生きてきたんだ?」
「失礼ね!!!嘘ぐらいつけるから!!能力が無くても!!」
他人にここまで行動を分析されたのは初めてだった。強さこそが自分の生きる道であり存在意義だった。それだけが他者から受ける自分の評価だったと言うのに。
「だから、どんな姐さんでも俺達はもう仲間だと思ってんだ。ソレを受け取るかどうかは姐さんに任せるけど、船長は不器用なんだ。姐さんなら分かるだろ?」
「ありがとうペンギン。はぁやっぱ私姐さんなんて柄じゃ無いわ。普通に名前で呼んで?仲間として。」
「アイアイ名前!よろしくな!」
「うん。船長に謝ってくる。」
パシンと互いの手が触れた。グダグダ悩んでも過去は変えられない。今まで背負っていた呪縛の様な感情はこの船では感じられない。認めてしまおう。感情が抑えられなくなるのも、ムキになるのも全て彼の前だからなんだと。つまらない維持とトラウマは捨て、自分の信念を貫き通そう。