平安無惨の安寧を守れ!
屋敷の主人は病弱らしいというのは、周囲の家の者も知っている様で、たまに立ち話をすると様子を聞かれたりする。といっても、平安時代的な価値観だと私はかなりの変人なのであまり声を掛けられることは無いが。でかいし、服装も変だ。女の癖に粗野で口答えばかりする。そんな所である。
流石にこちらの時代に合わせようと、服装は変えてみたりしているが、それでも着こなしがへんてこの様である。色の取り合わせなのか、そもそも丈がおかしいのか?どっちにしても、美的感覚が違うのだろう。
主人である無惨には失礼の無いようにしているが、女は基本的に何でも効率よく自分でやりたいという思考なので、屋敷の人間たちにもあまり受け入れられていない。カリカリしているように見えるらしい。それは元々の性格かもしれない。
主人である無惨の計らいで、屋敷の敷地内の離れを貰って、悠々と暮らしている贅沢者なので、別に困らないが。快適快適。
本日は他の者に無惨のお世話を任せて、まったり休日である。屋敷の者達も、たまには私にも休みを与えないと、発狂して出て行ってしまうと思ったらしい。その通りだ。
現代ならともかく、平安時代に衣食住を保障してもらえるならば、パワハラ主人にも我慢するが、それも限界はある。
家の前の庭に広がるのは素晴らしい庭園だ。家自体の造りは簡素だが、庭は屋敷の方と繋がっているので立派なのだ。陽射しを受けて、大きな牡丹と芍薬が咲き乱れている。人工的に作られた池には錦鯉が泳いでいる。大変に優雅な事である。娯楽の少ない中、庭を眺めながら、ごろごろしている時が一番幸せを感じる。
そんな風に思いながら寝転がっていると、何処かで笛を吹く者がある。管弦の音が響いてきて、うっとりと聞き入りながら目を瞑る。木漏れ日の照らす中、花の香が漂い、なんて風光明媚な事だろう。
最高だなぁとゆったりと着流し姿で畳の上に転がっていると、誰かが近付いてくる音がする。誰だ私の風流の時間を邪魔する奴は。
扉を開けて現れたのは無惨であった。体調がいいのか、血色がいい。艶のある黒髪は結わえられ、薄い直衣を着ていた。寝転がったまま、あんぐりと口を開けた私を無惨は静かに見下ろしている。紅い瞳は感情なくこちらを見ていた。怒ってはいない様だが、どうしたのだろう。
「む、無残様、失礼しました。どうされました?」
開けた着物を直して、正座する。居住まいを正した女を見下ろしながら、無惨は部屋を見渡す。
「いや、お前の住処を見てみたかっただけだ」
「そうですか。どうぞ」
「ああ」
座布団を引っ掴んで差し出す。無惨は女の前にゆっくりと腰掛けた。
体調がいいから何かしようと思ったけど、遠くにも行けないから屋敷の敷地内の散策でもしていたのだろうか。にしても、無惨一人とは。途中で体調が悪くなるかもしれないのに。誰がついていけよ。いや、無惨がついてくるなと言ったのかもしれない。この気難しい主人ならば言いそうである。
囲炉裏に火を焚べて、お湯を沸かす。庶民の家が珍しいのか無惨は家の中をキョロキョロと見回している。無惨のいる屋敷の中心部から私の離れまでは、同じ敷地内といえどそれなりに距離がある。
健康な私には苦も無い距離だが、身体の弱い無惨には中々に疲れる道程だろう。
沸かしたお湯でお茶を淹れて、無惨の前に差し出す。無惨が普段口にするような良いお茶ではないが勝手に来たのだから贅沢は言わないで欲しい。
無惨はお茶の香りを嗅いで眉を顰めたが文句を言わずにお茶を受け取り、一口啜って茶托に戻した。うん、あんまり好きじゃかったんだね。
「粗末だな」
「そうですか?それでも一般的な市井の暮らしより大分贅沢だと思います」
「そうか。膝を貸せ、少し疲れた」
「はい」
女が足を揃えると、無惨は女の太腿の上に頭を転がした。珍しい事もあるものだ。たまにはこういう戯れをしたい時もあるのだろう。
寝転がった時に乱れた髪を整えてやる。膝の上から女の顔を見上げている無惨の感情は読めない。不満げに引き結ばれた唇も、真っ赤な瞳もその意思の強さを表している。
結果的には、災厄を引き起こす事になる男だが、彼は、唯生きたいと願っていただけだ。
「私は二十歳まで生きられないと医者に言われた」
「そんな事はありませんよ。その内にいい方法が見つかります」
「お前は気休めばかりだ」
「だって無惨様は、まだ生きているじゃないですか」
「ある薬師が新薬を用意すると。これまでとは違う新しい薬だと。試してみる価値はあると思うか?」
「……そうですね。どうでしょうか」
まさか、青い彼岸花だろうか。そうであるならば、その薬で無惨は人で無くなる。飲ませていいのか?ここで始まらなければ、すべての厄災ははじまる前にここで終わるのか?
「お前も本当は、私など早くいなくなればいいと思っているのだろう。そうすれば何処かに嫁に行って、幸せになれるのにと」
「まさか。無惨様が今の無惨様のままならば、私は長生きしてほしいと思っていますよ。長くお仕えしたいとも」
「今の、とは何だ。私が変わるというのか?私は二十歳まで生きられないと言われたのだぞッ!ああ、そうか、お前は弱く、情けない、死にそうな私の世話をする事で優越感を覚えているからな。真摯に仕える振りをしながらも、内心では私の事を馬鹿にしているんだろう」
「確かに、私は無惨様の世話をするのは好きですが、無惨様が健康になられて一緒に出歩いたり出来たらと思っていますよ。そしたら、私も仕事のしがいがありますからね。私は無惨様のお召し物選びをするのが一番楽しいので」
「また煙に巻くのか。お前は此処にいろ。勝手に出ていくことは許さん」
「ええ、もちろん」
緊張する問答である。無惨の問が何を求めているのか時々分からない。最近はいくぶんか気安くなった気がしていたのだが、相変わらず物事の受け止め方が偏っている。家に籠もりきりなせいだろうか。
無惨は、穏やかな顔で膝に寝転んだ己の髪を梳く女を唐突に殺したくなった。しかし、人を殺す等ということをしては如何に無惨といえど裁きの対象になる。言葉で追い込んで他人を死に追いやった事はあれど、直接、手に掛けたことはない。この女の首を絞めたらどんな顔をするのか。訳知り顔で無惨の理解者を気取る側仕えは、その時でも同様に笑っているのか。
無惨はゆっくりと身体を起こすと、櫛を持って髪を梳いていた女の手を掴む。病人とは思えない程の力で手首を掴まれた女は、声にならない悲鳴を上げて櫛を取り落とした。
カンッと櫛が落ちる音がして。その爪の一つが欠ける。
無惨がそのまま女を床に放ると、女は呆気なく倒れた。何か起こったのか分からない女は、後ろ向きに倒れたまま頭だけを起こして無残の方を見る。驚きと困惑。一気に形勢が変わって、無惨は愉快な気分になる。そのまま倒れた女の背中に覆い被さり、着物の裾に手を差し入れる。
柔らかな感触がした。
「あの後、誰か他の者に身体を開いたか?」
「いえ、無惨様だけです」
女は反射的に答えた。従順な答えに気分を良くしながら、無惨は女の着物を剥ぐ。
無惨は一度だけ女を抱いたことがあった。妻が死んだ後、何となく、この女もその内に何処か嫁に行って自分以外の男のものになるのかと思ったら口惜しくなったのだ。それならば手酷く抱いてやって、男とはどういう生き物か教えてやろうと思った。悪辣だとは思わない。女は無惨の持ち物なのだから、好きにするのは当然だ。むしろ、勝手に出ていくような真似をするのが裏切りである。
顕になった背中から胸までを撫でつける。艷やかな肌は眩しい程だ。年増だと思っていたが、こうしてみると薫りある、悪くない身体だ。柔らかな太腿の内側に手を指を差し込むと女が息を呑む気配がする。
無惨は女の身体に自身を擦り付けると、無理矢理に捩じ込んだ。女は痛みに身を捩ったが、唇を噛んで耐える。その内に段々と解れてくる。女の身体を征服するのは心地がいい。世の男共はこういう気分を味わいたくて、女を犯すのだろうか。
無惨の赤い目に見下された女は少しばかり呻き声を上げたが、捩じ込まれたものを受け入れた。無惨の体を気遣ってから体勢が楽になるように足を開いて、両腕で身体を支える。
「無惨様、お身体に、触りますよッ」
「黙っていろ。私がしたいからするのだ。私は自分の望みを叶えてやるッ」
息を上げながらも止めようとする女の腕を床に押し付けて覆い被さる。半身を密着させて何度も抜き挿しする。その度に女の身体は面白い程に跳ねた。無惨は女の顔を掴んで上向きにする。強引に口付けると、女の開いた唇から血が流れた。無惨の歯が当たって唇が切れたのだ。
再び律動を繰り返して、女の頭を床に押し付けながら達する。気分が良くなって、すっきりとした心地だ。悪くない。
無惨はぐったりした女を見下ろしながら、衣服を整える。
「お前、私の隣に部屋を移せ。こんな粗末な所は私は耐えられない」
「えっと、はい。あの、無惨様、体調は大丈夫ですか?」
「ああ、今はすこぶる気分がいい」
「はあ、それは、良かったです」
女は乱れた乱れた着物の裾を直しながら答えた。赤い顔をして俯く女を無惨は冷ややかに見詰める。女とは至極単純な生き物だな。情を交わすと簡単に恋に落ちる。
女は無惨を自室まで送り届けると、無惨の指示通りに荷物を運んで居を移した。
女は、側仕えというより、奥方の様な仕事をする事になってしまった。居処を移して、無惨の代わりに何かと家の中の事を細かく取り仕切るようになった。正直、辞めたい。
良くない顔していた屋敷の人間たちいたが、恐ろしい無惨よりも女に言伝をする方が楽なのが分かると掌を返した。いや、無惨に報告とかしたくないのは分かるけどね。もうちょっと頑張ってほしい。具体的には、無惨に意見してほしい。私は無理だけど。女は溜息を付く。
無惨の身の回りの世話に、屋敷の細々の執り成しまでとなると女は忙しい。
電気が存在しない世界での強制デジタルデトックスで、頭の中をクリーンにして、風流な生活が出来るぞと思っていたのに当てが外れた。めっちゃ働いてる。何でだよ。
女が嫌そうな顔で仕事をしていると、反対に無惨は愉快そうに女を見る。
気付いたのだが、無惨は私を虐めて楽しんでいるのである。それなりに真摯に仕えてきたのになんという仕打ち。悲しくなってきた。出ていってやろうかな。そんな事を思っていると、無惨が病床から這い出て、そっと囁いてくる。
「私にはお前が必要だ。傍にいてくれるな?」
「ハイ……」
無惨はわざとらしく眉を下げて哀しげな顔をしてみせる。完全に掌の上で踊らされている。
ちょっと寂しそうな顔をすればコイツ何でも言うこと聞くなと思われているようだ。
そうなんだけどさぁ。
結論、私は無惨に上手く使われている。
無惨の部屋にて、薬師が無惨と女に新薬の説明をする。三人で座って、薄紙で仕分けられた粉末状の粉を眺める。青い彼岸花。ついに来てしまった。
「こちらを朝夕、食事の後に服用して下さい。この薬は、これ迄にない特殊な配合です。飲み忘れることの無いように。側仕えの方もよくよく確認していただくようにお願いします」
「承知しました」
薬師の指示を紙に書き付けておく。配合はやはり分からない。青い彼岸花とは何なのか。しかし、ここで薬師を問い詰めるわけにもいくまい。無惨に怪しまれてしまう。
薬の説明を終えた薬師はそっと部屋から退室する。無惨と女だけが部屋に残された。
何にしても、ここでこの薬師を無惨に殺させなければ良いのだ。そうすればこの後の悲劇は避けられるし、無惨も陽の光のもとで生きていける。あれ?万々歳じゃない?そんなに、うまくいくものか?一人で首を捻っている女を、無惨が睨みつける。
「なんだ。どうせ効かぬと言いたいのか?」
「そんな事は。効くと思います、凄く」
むしろ効きすぎて困るんだよな。元気一杯どころか人ではなくなってしまうし。一人でうむうむ、と頷いていると気付く。薬師を殺さなくても、いずれ薬が切れたら無惨は鬼となるのだから一緒では?延命しただけで意味なくないか?あ、と気付いた時には、溶いた薬を無惨は口にしていた。
やってしまった。
いや、まだ青い彼岸花を発見しておけば良いのだ。うん。女が頭を抱えていると、何を思ったのか無惨が女を抱き寄せた。
「お前が頭を捻った所で私の病が治るわけではない」
「それは、そうなんですが」
女は項垂れた。所詮は傍観者なのだから、何も出来はしない。それは分かっているが、長年仕えていると、相手がどんな人でなしであっても、それなりに情が湧いてくるものだ。
私はここで無惨が病で倒れたとしても、鬼となって人を食ったとしても思い悩む事になるだろう。それでも多分、傍を離れられはしない。彼といる生活が習慣化したことによるバイアスかもしれないし、本当に無惨のことが好きになっているのかもしれない。何にしても、未来は暗い。
表情を曇らせた女の背を無惨が撫でる。
無惨は、女が無惨の事を思って塞ぎ込むのを心地よく眺めていた。女が自分の支配下に在るのは気分が良い。乾いたものが満たされるよな気持ちになる。
女は薬師に近付いた。手伝いを申し出てみたり、こっそりと後を付けたり。青い彼岸花が何なのか分かれば万事解決。無惨のためにと言うより、思い悩みたくない自分の為だ。
しかし、中々薬のレシピを教えてはくれない。教えられても医学も薬学の知識もないので分からないというのもあるが。何でもいいから青い彼岸花が何処で手に入るのかだけでも知りたい所だ。
だが、薬師を追い掛け回していると無惨に苦言を呈された。
「ずいぶんと薬師と親しくしているようだな。あの薬師に何か思い入れでもあるのか?」
「いえ、無惨様の飲む薬について詳しく知っておきたくて……」
「やめろ。うっとおしい」
「ハイ」
「暫くは私の傍にいろ。出歩くな」
「わかりました」
取り付く島もない。ピシャリと言い切られて、女はしおしおと引き下がる。いまだに無惨に意見する勇気はない。怖いし。
そういう訳で、病床に伏せる無惨に張り付いている。波打つ髪を梳いてやり、額の汗を拭ってやる。薬の効果があるのか無いのか、見た目では分からない。相変わらず無惨の体調は優れない事は確かだ。これは苛々するだろうなと思わずにはいられない。薬師が殺されるのを阻止したい女としては悩ましい限りだ。
何か気を引ける様な事がないものか。しかし、一般的な趣味みたいなものを無惨に勧めても、お前はそんな事ができるくらいに健康でいいなと云う様な事をねちねち言われるのがオチだ。自分で想像して鳥肌が立った。嫌過ぎる。
無惨が動かなくてよくて楽しめそうなもの。花とか、管弦とか?花でも生けてみるか?風流だし。無惨の性格的に他人が周りに来て音を奏でたりしたら嫌がりそうだ。私が何か練習してみるか?琴とか倉庫にあったような気がする。いや、素人の奏でる音楽ほど聞くに耐えないものはないよなぁ。こっそり練習するか。
無惨の部屋の一角に、花を生けてみる。屋敷の中でやんごとなき方々に教えを請うて生けたので、悲惨な事はない筈だ。なんとなく部屋が明るくなった様な気がする。
部屋の隅でごそごそやっていると布団に横になっていた無惨が目覚めた。
「何をしている」
「花を生けてみました。気分が良くなるかと」
「要らぬ事をするな。片付けろ」
「ハイ」
駄目だったわ。完全に撃沈した女は鉢ごと花を持って退室する。
無惨は下がっていく女の後ろ姿を見ながら唇を噛む。それから、何故いきなり花など持ち出したのかと考える。これまで、女は無惨が快適に過ごせる様には考えていたが、そういった気遣いは無かった。誰かが女に干渉しているのは間違いない。不快だ。
苦虫を噛み潰したような顔で女のいなくなった部屋を見る。忌々しい。
女が琴を習い始めたらしいと無惨は風の噂で聞いた。「ちょっと無惨様に気に入られてるからって、今度は貴族の子女の真似事か」と、下人達が噂していたのだ。何故、そんな事を。
これまでそんな素振りはなかったし、芸事に興味のある様な風雅な趣味は女に無かったはずだ。歌を詠むのも聞いたことが無いし、文字も書けはするようだがどうにも変な癖のついた文字を書く。
知識にも妙に偏りがあった。無惨でさえ知らないような事を知っている事もあれば、常識的な事が抜け落ちていたりする。
変化を好まない無惨には、女のこれまでとは違う理屈の動きはひたすらに居心地が悪かった。
無惨の世話をしに女が夕餉を持って参上する。食べれるだけの食事を進めながら、無惨は静かにお茶を淹れている女を見た。
「お前、芸事になど興味があったのか?」
「ええと、無惨様が音楽とか聞いたら気晴らしになるかなと思ったりしまして。あまり才能は無かったので、道は長そうですけれども……」
恩着せがましく聞こえただろうか。無惨の表情は冷たい。忌々しいとすら思っていそうだ。やはりこれも失敗だったかと女は内心で冷や汗をかく。
「そんな事はしなくていい。管弦が聞きたくなればその道の者を呼ぶ。お前はなんだ?私の側仕えとしての仕事をしろ」
「はい。余計な事をしました」
「誰がお前を唆した?今まで仕えてきて、そんな気遣いなどした事は無いだろう。誰だ?新しく入った下女か?牛飼い?ああ、あの薬師か」
「無惨様、私は誰にも唆されてはいませんよ。無惨様に何か楽しめるものがあればと思って、手を出しやすそうな物がそれだっただけです。花は色と形のいいものを庭から貰ってこられますし、琴は倉庫にあったのを知っていましたから。差し出がましいことをして、ご不快にさせたなら申し訳ありません」
「ああ、不愉快だ。私はそんな事を命じていない。私の意を汲んだ気になって勝手な事をするな」
「すみません」
女は深く頭を下げた。涙が零れそうである。
こんな怒られることある?直接に迷惑がかけた訳でもないのにこんなボロクソに言われるとは。中々に傷付く。
しかし、無惨が癇癪を起こして人を殺さない様にという打算があっての動きなのが見て取れたのかもしれない。目の前の男は人間の作為や悪意に恐ろしく敏感な人なのだ。
それにしても、いちおうは無惨のことを考えての行いなのでショックではある。多分、一人になったら大泣きする。今も涙が出ているので頭を上げられない。どうにかして、そのまま下を向いて退室することが出来ないか考える。
目に見えてしょぼくれた女を無惨は疎ましく思いながらも、いい傾向かもしれないと考え直す。無惨に対して盲信的であるほど、傾倒しているほどその思考は読みやすく扱いやすい。しかし、情に訴える様なやり方は好かない。だが、同時にコレがこの女の限界だろうなとも思う。女は屋敷の人間たちの中では、よく無惨の事を理解し、働くが、無惨ほどに冷徹で冷酷にはなれない。何故そうなれないのか、無惨にとっては不可解だが、そういう人間はどうやっても卑怯な手段や愚劣な手段は用いる事ができない。それこそが女の可能性を潰していると思うのだが、それが女にとっての限界なのだ。つまらない枠組みに囚われている。
無惨が再び食事を再開する。
その間も女はずっと俯いていた。女は目を伏せたまま部屋を出ようとする。
「失礼します」
「待て、ここにいろ。……おい、泣いているのか?何故、泣く?」
「何故……?無惨様に喜んで頂きたく試行錯誤したですが、それが上手くいかなかったのが悲しいのです。それどころか不快にさせてしまいました。すみません」
顔を上げた女の目から大粒の涙が零れ落ちる。無惨には何故それほど感情的になるのか理解出来ない。むしろ、押し付けがましい善意は不快だ。女もそれを分かっているので、眉を顰める無惨を見て益々涙が出る。女は袖口で涙を拭うと再び深く頭を下げる。
「見苦しい所を。失礼致します」
「待てと言っている。二度も言わせるな。此処にいろ」
「……ハイ」
無惨に引き止められて、どうしょうもないので、女はボロボロと涙を零しながらも部屋の隅に侍る。どういう嫌がらせだ?無惨は無意味に女を虐める趣味があるので、単なる娯楽かもしれない。しくしく泣いてる人間を見て愉しむという遊び。
考えていたらなんで泣いてるのか分からなくなってきた。鬼舞辻無惨を相手に真っ当に接しようとして泣いてる私の方が馬鹿な気がする。大馬鹿だ。段々と冷静になってきた女は、大きく息を吐いて気持ちを切り替える。
無惨の食事が終わったら、寝間の用意をして、夜着に着替えさせる。それから希望があれば湯を用意して、とやる事を考える。泣いてる暇はない位にはする事があるのだ。無惨の言うことも最もだ。先ず、今ある仕事をきちんとしよう。
涙を拭い、思考が切り替わったららしい女を横目に見ながら、無惨は茶を啜る。いつもこうして傍に侍ってたさえいたらいいのだ。花も楽も要らぬ。そう思って、ふと己の思考に違和感を抱く。
まるで女に執着しているようだ。無惨には己以外に執着するものなどない。他者から軽んじられるのは耐えられないが、その者自体に興味があるわけではない。そうか、女を失いたくないと思っているのか。妙に腑に落ちて無惨の口元に笑みが浮かぶ。笑い出した無惨の様子を女が訝しげに見た。それがまた愉快で無惨は笑みを深めた。
「お前はずっと私の傍にいろ。いいな」
「はあ。分かりました」
突然言われた女はよくわかっていないような気の抜けた返事をした。機嫌のよくなったらしい無惨に首を傾げながら、膳を下げる。
「寝所を整えて、着替えを持って参ります」
「ああ」
静々と下がっていく女を見送りながら、無惨は己の気持ちの変わりように目を見張る。妻を娶っても目ざわりに思いこそすれ、ずっと近くに置いておこうとは思えなかった。病に伏せっていて傍にいることが出来なかったのもあるが、そもそも健康な若い女等見ていると不愉快なのだ。
無惨は血の気の無い顔で何時消えるかもわからない生命を繋いでいるのに、その横で蝶よ花よと育てられた華やかな娘が無邪気に笑うのを見ていると虫酸が走る。それが嫉妬と云われたらその通りだが、そんなものを無惨の前でひけらかすのが悪い。その様に考えていので、女を特別に思う事など自分には無いのだと思っていた。しかし今、無惨は確かに女を気に入っている。近くに置いておきたいと思っている。無惨が望む限りそれは叶うだろう。
女が着替えを持って部屋に入って来る。
女はやたらと無惨を着替えさせたがる。そしてやたらと拭きたがる。前の使用人達は何度も召し替えをしようとしなかった。無惨はほとんど病床に伏しているので当然だろう。女は毎日、湯と着替えを持ってくる。最初は奇妙に思えたが、慣れると心地よい。女の言うとおり、眠るしばらく前に身体を温めておくとよく眠れる。女は何かと無惨の身体を気遣って独自のやり方を模索している様だ。
女は優しく無惨の身体を濡らした布で拭いていく。
「熱く無いですか?他に気になるところは?」
「ない」
「分かりました。少し筋肉伸ばしておきましょう。寝てばかりだと固まりますからね」
「ああ」
女が内着だけを掛けた無惨の背中を押す。首から背中までを優しく揉みほぐしていく。それから腕をやさしく捻る。この按摩師の真似事も何時からか女がやりだした事だ。余計な事を、と思ったが理屈を聞くと効果があるような気がして許している。
実際、女が無惨の身体を手入れするようになって少し動くのが楽になった。病で伏せっているからといって、使わなければ肉体は必要の無い機能を失う。
女は無惨の体を拭いて夜着を整えると、寝具も清潔なものに取り替えた。
「今日はお前も此方で寝ろ」
「……ハイ?」
事も無げに言い放った無惨を、女はギョッとして見る。それは平安ルール的にいいのだろうか?いいんだろうな。平安ルールより無惨ルールの方が上だ。うっかり変な返事をしてしまった。
「支度を整えて戻って来ます」
「早くしろ」
「はい。失礼します」
頭を下げて退出する。女は自分で返事をしておきながら、どういう状況なのだと首を傾げる。無惨にだって、たまには人恋しい日だってあるのかもしれない。今の無惨はまだ人間のはずだし。
慌てて湯を浴びて、汚いもの扱いされたら嫌なので全部着替えた。状況に流された事は何度かあるが、事前に考える時間があると逆に困る。一体どんな顔して一緒に寝るんだ?しかし、あまり待たせるわけにはいかない。そもそも、無惨は病人だ。素早く寝かしつけなくては。
御簾の向こうから声を掛けると、無惨から返事が返ってくる。無残は布団の上に座っていた。蝋燭の灯りに照らされた青白い顔は幽鬼の様で、薄暗い中に赤い目玉が二つ浮いている。妖しいうつくしさを称えた男は薄く笑った。
「なんだ、何時も入って来ているだろう。何を今更遠慮する事があるのだ」
「いえ、その、失礼します」
無惨は、眉を下げる女を傍に呼び込む。何時もはズカズカと入ってきて無惨を身体ごと引き起こして着物を剥ぎ取っていく女が神妙な顔をして近付いてくるのが面白いのだ。肌を重ねるのだって初めてでもあるまいに。
無惨が肩を撫でると、女はそっと身を寄せてくる。唇を重ねるとゆっくりと、寝具の上に引き倒す。仰向けになって無惨を見上げる女に気分を良くしながら、柔い頬を撫でた。
流石にこちらの時代に合わせようと、服装は変えてみたりしているが、それでも着こなしがへんてこの様である。色の取り合わせなのか、そもそも丈がおかしいのか?どっちにしても、美的感覚が違うのだろう。
主人である無惨には失礼の無いようにしているが、女は基本的に何でも効率よく自分でやりたいという思考なので、屋敷の人間たちにもあまり受け入れられていない。カリカリしているように見えるらしい。それは元々の性格かもしれない。
主人である無惨の計らいで、屋敷の敷地内の離れを貰って、悠々と暮らしている贅沢者なので、別に困らないが。快適快適。
本日は他の者に無惨のお世話を任せて、まったり休日である。屋敷の者達も、たまには私にも休みを与えないと、発狂して出て行ってしまうと思ったらしい。その通りだ。
現代ならともかく、平安時代に衣食住を保障してもらえるならば、パワハラ主人にも我慢するが、それも限界はある。
家の前の庭に広がるのは素晴らしい庭園だ。家自体の造りは簡素だが、庭は屋敷の方と繋がっているので立派なのだ。陽射しを受けて、大きな牡丹と芍薬が咲き乱れている。人工的に作られた池には錦鯉が泳いでいる。大変に優雅な事である。娯楽の少ない中、庭を眺めながら、ごろごろしている時が一番幸せを感じる。
そんな風に思いながら寝転がっていると、何処かで笛を吹く者がある。管弦の音が響いてきて、うっとりと聞き入りながら目を瞑る。木漏れ日の照らす中、花の香が漂い、なんて風光明媚な事だろう。
最高だなぁとゆったりと着流し姿で畳の上に転がっていると、誰かが近付いてくる音がする。誰だ私の風流の時間を邪魔する奴は。
扉を開けて現れたのは無惨であった。体調がいいのか、血色がいい。艶のある黒髪は結わえられ、薄い直衣を着ていた。寝転がったまま、あんぐりと口を開けた私を無惨は静かに見下ろしている。紅い瞳は感情なくこちらを見ていた。怒ってはいない様だが、どうしたのだろう。
「む、無残様、失礼しました。どうされました?」
開けた着物を直して、正座する。居住まいを正した女を見下ろしながら、無惨は部屋を見渡す。
「いや、お前の住処を見てみたかっただけだ」
「そうですか。どうぞ」
「ああ」
座布団を引っ掴んで差し出す。無惨は女の前にゆっくりと腰掛けた。
体調がいいから何かしようと思ったけど、遠くにも行けないから屋敷の敷地内の散策でもしていたのだろうか。にしても、無惨一人とは。途中で体調が悪くなるかもしれないのに。誰がついていけよ。いや、無惨がついてくるなと言ったのかもしれない。この気難しい主人ならば言いそうである。
囲炉裏に火を焚べて、お湯を沸かす。庶民の家が珍しいのか無惨は家の中をキョロキョロと見回している。無惨のいる屋敷の中心部から私の離れまでは、同じ敷地内といえどそれなりに距離がある。
健康な私には苦も無い距離だが、身体の弱い無惨には中々に疲れる道程だろう。
沸かしたお湯でお茶を淹れて、無惨の前に差し出す。無惨が普段口にするような良いお茶ではないが勝手に来たのだから贅沢は言わないで欲しい。
無惨はお茶の香りを嗅いで眉を顰めたが文句を言わずにお茶を受け取り、一口啜って茶托に戻した。うん、あんまり好きじゃかったんだね。
「粗末だな」
「そうですか?それでも一般的な市井の暮らしより大分贅沢だと思います」
「そうか。膝を貸せ、少し疲れた」
「はい」
女が足を揃えると、無惨は女の太腿の上に頭を転がした。珍しい事もあるものだ。たまにはこういう戯れをしたい時もあるのだろう。
寝転がった時に乱れた髪を整えてやる。膝の上から女の顔を見上げている無惨の感情は読めない。不満げに引き結ばれた唇も、真っ赤な瞳もその意思の強さを表している。
結果的には、災厄を引き起こす事になる男だが、彼は、唯生きたいと願っていただけだ。
「私は二十歳まで生きられないと医者に言われた」
「そんな事はありませんよ。その内にいい方法が見つかります」
「お前は気休めばかりだ」
「だって無惨様は、まだ生きているじゃないですか」
「ある薬師が新薬を用意すると。これまでとは違う新しい薬だと。試してみる価値はあると思うか?」
「……そうですね。どうでしょうか」
まさか、青い彼岸花だろうか。そうであるならば、その薬で無惨は人で無くなる。飲ませていいのか?ここで始まらなければ、すべての厄災ははじまる前にここで終わるのか?
「お前も本当は、私など早くいなくなればいいと思っているのだろう。そうすれば何処かに嫁に行って、幸せになれるのにと」
「まさか。無惨様が今の無惨様のままならば、私は長生きしてほしいと思っていますよ。長くお仕えしたいとも」
「今の、とは何だ。私が変わるというのか?私は二十歳まで生きられないと言われたのだぞッ!ああ、そうか、お前は弱く、情けない、死にそうな私の世話をする事で優越感を覚えているからな。真摯に仕える振りをしながらも、内心では私の事を馬鹿にしているんだろう」
「確かに、私は無惨様の世話をするのは好きですが、無惨様が健康になられて一緒に出歩いたり出来たらと思っていますよ。そしたら、私も仕事のしがいがありますからね。私は無惨様のお召し物選びをするのが一番楽しいので」
「また煙に巻くのか。お前は此処にいろ。勝手に出ていくことは許さん」
「ええ、もちろん」
緊張する問答である。無惨の問が何を求めているのか時々分からない。最近はいくぶんか気安くなった気がしていたのだが、相変わらず物事の受け止め方が偏っている。家に籠もりきりなせいだろうか。
無惨は、穏やかな顔で膝に寝転んだ己の髪を梳く女を唐突に殺したくなった。しかし、人を殺す等ということをしては如何に無惨といえど裁きの対象になる。言葉で追い込んで他人を死に追いやった事はあれど、直接、手に掛けたことはない。この女の首を絞めたらどんな顔をするのか。訳知り顔で無惨の理解者を気取る側仕えは、その時でも同様に笑っているのか。
無惨はゆっくりと身体を起こすと、櫛を持って髪を梳いていた女の手を掴む。病人とは思えない程の力で手首を掴まれた女は、声にならない悲鳴を上げて櫛を取り落とした。
カンッと櫛が落ちる音がして。その爪の一つが欠ける。
無惨がそのまま女を床に放ると、女は呆気なく倒れた。何か起こったのか分からない女は、後ろ向きに倒れたまま頭だけを起こして無残の方を見る。驚きと困惑。一気に形勢が変わって、無惨は愉快な気分になる。そのまま倒れた女の背中に覆い被さり、着物の裾に手を差し入れる。
柔らかな感触がした。
「あの後、誰か他の者に身体を開いたか?」
「いえ、無惨様だけです」
女は反射的に答えた。従順な答えに気分を良くしながら、無惨は女の着物を剥ぐ。
無惨は一度だけ女を抱いたことがあった。妻が死んだ後、何となく、この女もその内に何処か嫁に行って自分以外の男のものになるのかと思ったら口惜しくなったのだ。それならば手酷く抱いてやって、男とはどういう生き物か教えてやろうと思った。悪辣だとは思わない。女は無惨の持ち物なのだから、好きにするのは当然だ。むしろ、勝手に出ていくような真似をするのが裏切りである。
顕になった背中から胸までを撫でつける。艷やかな肌は眩しい程だ。年増だと思っていたが、こうしてみると薫りある、悪くない身体だ。柔らかな太腿の内側に手を指を差し込むと女が息を呑む気配がする。
無惨は女の身体に自身を擦り付けると、無理矢理に捩じ込んだ。女は痛みに身を捩ったが、唇を噛んで耐える。その内に段々と解れてくる。女の身体を征服するのは心地がいい。世の男共はこういう気分を味わいたくて、女を犯すのだろうか。
無惨の赤い目に見下された女は少しばかり呻き声を上げたが、捩じ込まれたものを受け入れた。無惨の体を気遣ってから体勢が楽になるように足を開いて、両腕で身体を支える。
「無惨様、お身体に、触りますよッ」
「黙っていろ。私がしたいからするのだ。私は自分の望みを叶えてやるッ」
息を上げながらも止めようとする女の腕を床に押し付けて覆い被さる。半身を密着させて何度も抜き挿しする。その度に女の身体は面白い程に跳ねた。無惨は女の顔を掴んで上向きにする。強引に口付けると、女の開いた唇から血が流れた。無惨の歯が当たって唇が切れたのだ。
再び律動を繰り返して、女の頭を床に押し付けながら達する。気分が良くなって、すっきりとした心地だ。悪くない。
無惨はぐったりした女を見下ろしながら、衣服を整える。
「お前、私の隣に部屋を移せ。こんな粗末な所は私は耐えられない」
「えっと、はい。あの、無惨様、体調は大丈夫ですか?」
「ああ、今はすこぶる気分がいい」
「はあ、それは、良かったです」
女は乱れた乱れた着物の裾を直しながら答えた。赤い顔をして俯く女を無惨は冷ややかに見詰める。女とは至極単純な生き物だな。情を交わすと簡単に恋に落ちる。
女は無惨を自室まで送り届けると、無惨の指示通りに荷物を運んで居を移した。
女は、側仕えというより、奥方の様な仕事をする事になってしまった。居処を移して、無惨の代わりに何かと家の中の事を細かく取り仕切るようになった。正直、辞めたい。
良くない顔していた屋敷の人間たちいたが、恐ろしい無惨よりも女に言伝をする方が楽なのが分かると掌を返した。いや、無惨に報告とかしたくないのは分かるけどね。もうちょっと頑張ってほしい。具体的には、無惨に意見してほしい。私は無理だけど。女は溜息を付く。
無惨の身の回りの世話に、屋敷の細々の執り成しまでとなると女は忙しい。
電気が存在しない世界での強制デジタルデトックスで、頭の中をクリーンにして、風流な生活が出来るぞと思っていたのに当てが外れた。めっちゃ働いてる。何でだよ。
女が嫌そうな顔で仕事をしていると、反対に無惨は愉快そうに女を見る。
気付いたのだが、無惨は私を虐めて楽しんでいるのである。それなりに真摯に仕えてきたのになんという仕打ち。悲しくなってきた。出ていってやろうかな。そんな事を思っていると、無惨が病床から這い出て、そっと囁いてくる。
「私にはお前が必要だ。傍にいてくれるな?」
「ハイ……」
無惨はわざとらしく眉を下げて哀しげな顔をしてみせる。完全に掌の上で踊らされている。
ちょっと寂しそうな顔をすればコイツ何でも言うこと聞くなと思われているようだ。
そうなんだけどさぁ。
結論、私は無惨に上手く使われている。
無惨の部屋にて、薬師が無惨と女に新薬の説明をする。三人で座って、薄紙で仕分けられた粉末状の粉を眺める。青い彼岸花。ついに来てしまった。
「こちらを朝夕、食事の後に服用して下さい。この薬は、これ迄にない特殊な配合です。飲み忘れることの無いように。側仕えの方もよくよく確認していただくようにお願いします」
「承知しました」
薬師の指示を紙に書き付けておく。配合はやはり分からない。青い彼岸花とは何なのか。しかし、ここで薬師を問い詰めるわけにもいくまい。無惨に怪しまれてしまう。
薬の説明を終えた薬師はそっと部屋から退室する。無惨と女だけが部屋に残された。
何にしても、ここでこの薬師を無惨に殺させなければ良いのだ。そうすればこの後の悲劇は避けられるし、無惨も陽の光のもとで生きていける。あれ?万々歳じゃない?そんなに、うまくいくものか?一人で首を捻っている女を、無惨が睨みつける。
「なんだ。どうせ効かぬと言いたいのか?」
「そんな事は。効くと思います、凄く」
むしろ効きすぎて困るんだよな。元気一杯どころか人ではなくなってしまうし。一人でうむうむ、と頷いていると気付く。薬師を殺さなくても、いずれ薬が切れたら無惨は鬼となるのだから一緒では?延命しただけで意味なくないか?あ、と気付いた時には、溶いた薬を無惨は口にしていた。
やってしまった。
いや、まだ青い彼岸花を発見しておけば良いのだ。うん。女が頭を抱えていると、何を思ったのか無惨が女を抱き寄せた。
「お前が頭を捻った所で私の病が治るわけではない」
「それは、そうなんですが」
女は項垂れた。所詮は傍観者なのだから、何も出来はしない。それは分かっているが、長年仕えていると、相手がどんな人でなしであっても、それなりに情が湧いてくるものだ。
私はここで無惨が病で倒れたとしても、鬼となって人を食ったとしても思い悩む事になるだろう。それでも多分、傍を離れられはしない。彼といる生活が習慣化したことによるバイアスかもしれないし、本当に無惨のことが好きになっているのかもしれない。何にしても、未来は暗い。
表情を曇らせた女の背を無惨が撫でる。
無惨は、女が無惨の事を思って塞ぎ込むのを心地よく眺めていた。女が自分の支配下に在るのは気分が良い。乾いたものが満たされるよな気持ちになる。
女は薬師に近付いた。手伝いを申し出てみたり、こっそりと後を付けたり。青い彼岸花が何なのか分かれば万事解決。無惨のためにと言うより、思い悩みたくない自分の為だ。
しかし、中々薬のレシピを教えてはくれない。教えられても医学も薬学の知識もないので分からないというのもあるが。何でもいいから青い彼岸花が何処で手に入るのかだけでも知りたい所だ。
だが、薬師を追い掛け回していると無惨に苦言を呈された。
「ずいぶんと薬師と親しくしているようだな。あの薬師に何か思い入れでもあるのか?」
「いえ、無惨様の飲む薬について詳しく知っておきたくて……」
「やめろ。うっとおしい」
「ハイ」
「暫くは私の傍にいろ。出歩くな」
「わかりました」
取り付く島もない。ピシャリと言い切られて、女はしおしおと引き下がる。いまだに無惨に意見する勇気はない。怖いし。
そういう訳で、病床に伏せる無惨に張り付いている。波打つ髪を梳いてやり、額の汗を拭ってやる。薬の効果があるのか無いのか、見た目では分からない。相変わらず無惨の体調は優れない事は確かだ。これは苛々するだろうなと思わずにはいられない。薬師が殺されるのを阻止したい女としては悩ましい限りだ。
何か気を引ける様な事がないものか。しかし、一般的な趣味みたいなものを無惨に勧めても、お前はそんな事ができるくらいに健康でいいなと云う様な事をねちねち言われるのがオチだ。自分で想像して鳥肌が立った。嫌過ぎる。
無惨が動かなくてよくて楽しめそうなもの。花とか、管弦とか?花でも生けてみるか?風流だし。無惨の性格的に他人が周りに来て音を奏でたりしたら嫌がりそうだ。私が何か練習してみるか?琴とか倉庫にあったような気がする。いや、素人の奏でる音楽ほど聞くに耐えないものはないよなぁ。こっそり練習するか。
無惨の部屋の一角に、花を生けてみる。屋敷の中でやんごとなき方々に教えを請うて生けたので、悲惨な事はない筈だ。なんとなく部屋が明るくなった様な気がする。
部屋の隅でごそごそやっていると布団に横になっていた無惨が目覚めた。
「何をしている」
「花を生けてみました。気分が良くなるかと」
「要らぬ事をするな。片付けろ」
「ハイ」
駄目だったわ。完全に撃沈した女は鉢ごと花を持って退室する。
無惨は下がっていく女の後ろ姿を見ながら唇を噛む。それから、何故いきなり花など持ち出したのかと考える。これまで、女は無惨が快適に過ごせる様には考えていたが、そういった気遣いは無かった。誰かが女に干渉しているのは間違いない。不快だ。
苦虫を噛み潰したような顔で女のいなくなった部屋を見る。忌々しい。
女が琴を習い始めたらしいと無惨は風の噂で聞いた。「ちょっと無惨様に気に入られてるからって、今度は貴族の子女の真似事か」と、下人達が噂していたのだ。何故、そんな事を。
これまでそんな素振りはなかったし、芸事に興味のある様な風雅な趣味は女に無かったはずだ。歌を詠むのも聞いたことが無いし、文字も書けはするようだがどうにも変な癖のついた文字を書く。
知識にも妙に偏りがあった。無惨でさえ知らないような事を知っている事もあれば、常識的な事が抜け落ちていたりする。
変化を好まない無惨には、女のこれまでとは違う理屈の動きはひたすらに居心地が悪かった。
無惨の世話をしに女が夕餉を持って参上する。食べれるだけの食事を進めながら、無惨は静かにお茶を淹れている女を見た。
「お前、芸事になど興味があったのか?」
「ええと、無惨様が音楽とか聞いたら気晴らしになるかなと思ったりしまして。あまり才能は無かったので、道は長そうですけれども……」
恩着せがましく聞こえただろうか。無惨の表情は冷たい。忌々しいとすら思っていそうだ。やはりこれも失敗だったかと女は内心で冷や汗をかく。
「そんな事はしなくていい。管弦が聞きたくなればその道の者を呼ぶ。お前はなんだ?私の側仕えとしての仕事をしろ」
「はい。余計な事をしました」
「誰がお前を唆した?今まで仕えてきて、そんな気遣いなどした事は無いだろう。誰だ?新しく入った下女か?牛飼い?ああ、あの薬師か」
「無惨様、私は誰にも唆されてはいませんよ。無惨様に何か楽しめるものがあればと思って、手を出しやすそうな物がそれだっただけです。花は色と形のいいものを庭から貰ってこられますし、琴は倉庫にあったのを知っていましたから。差し出がましいことをして、ご不快にさせたなら申し訳ありません」
「ああ、不愉快だ。私はそんな事を命じていない。私の意を汲んだ気になって勝手な事をするな」
「すみません」
女は深く頭を下げた。涙が零れそうである。
こんな怒られることある?直接に迷惑がかけた訳でもないのにこんなボロクソに言われるとは。中々に傷付く。
しかし、無惨が癇癪を起こして人を殺さない様にという打算があっての動きなのが見て取れたのかもしれない。目の前の男は人間の作為や悪意に恐ろしく敏感な人なのだ。
それにしても、いちおうは無惨のことを考えての行いなのでショックではある。多分、一人になったら大泣きする。今も涙が出ているので頭を上げられない。どうにかして、そのまま下を向いて退室することが出来ないか考える。
目に見えてしょぼくれた女を無惨は疎ましく思いながらも、いい傾向かもしれないと考え直す。無惨に対して盲信的であるほど、傾倒しているほどその思考は読みやすく扱いやすい。しかし、情に訴える様なやり方は好かない。だが、同時にコレがこの女の限界だろうなとも思う。女は屋敷の人間たちの中では、よく無惨の事を理解し、働くが、無惨ほどに冷徹で冷酷にはなれない。何故そうなれないのか、無惨にとっては不可解だが、そういう人間はどうやっても卑怯な手段や愚劣な手段は用いる事ができない。それこそが女の可能性を潰していると思うのだが、それが女にとっての限界なのだ。つまらない枠組みに囚われている。
無惨が再び食事を再開する。
その間も女はずっと俯いていた。女は目を伏せたまま部屋を出ようとする。
「失礼します」
「待て、ここにいろ。……おい、泣いているのか?何故、泣く?」
「何故……?無惨様に喜んで頂きたく試行錯誤したですが、それが上手くいかなかったのが悲しいのです。それどころか不快にさせてしまいました。すみません」
顔を上げた女の目から大粒の涙が零れ落ちる。無惨には何故それほど感情的になるのか理解出来ない。むしろ、押し付けがましい善意は不快だ。女もそれを分かっているので、眉を顰める無惨を見て益々涙が出る。女は袖口で涙を拭うと再び深く頭を下げる。
「見苦しい所を。失礼致します」
「待てと言っている。二度も言わせるな。此処にいろ」
「……ハイ」
無惨に引き止められて、どうしょうもないので、女はボロボロと涙を零しながらも部屋の隅に侍る。どういう嫌がらせだ?無惨は無意味に女を虐める趣味があるので、単なる娯楽かもしれない。しくしく泣いてる人間を見て愉しむという遊び。
考えていたらなんで泣いてるのか分からなくなってきた。鬼舞辻無惨を相手に真っ当に接しようとして泣いてる私の方が馬鹿な気がする。大馬鹿だ。段々と冷静になってきた女は、大きく息を吐いて気持ちを切り替える。
無惨の食事が終わったら、寝間の用意をして、夜着に着替えさせる。それから希望があれば湯を用意して、とやる事を考える。泣いてる暇はない位にはする事があるのだ。無惨の言うことも最もだ。先ず、今ある仕事をきちんとしよう。
涙を拭い、思考が切り替わったららしい女を横目に見ながら、無惨は茶を啜る。いつもこうして傍に侍ってたさえいたらいいのだ。花も楽も要らぬ。そう思って、ふと己の思考に違和感を抱く。
まるで女に執着しているようだ。無惨には己以外に執着するものなどない。他者から軽んじられるのは耐えられないが、その者自体に興味があるわけではない。そうか、女を失いたくないと思っているのか。妙に腑に落ちて無惨の口元に笑みが浮かぶ。笑い出した無惨の様子を女が訝しげに見た。それがまた愉快で無惨は笑みを深めた。
「お前はずっと私の傍にいろ。いいな」
「はあ。分かりました」
突然言われた女はよくわかっていないような気の抜けた返事をした。機嫌のよくなったらしい無惨に首を傾げながら、膳を下げる。
「寝所を整えて、着替えを持って参ります」
「ああ」
静々と下がっていく女を見送りながら、無惨は己の気持ちの変わりように目を見張る。妻を娶っても目ざわりに思いこそすれ、ずっと近くに置いておこうとは思えなかった。病に伏せっていて傍にいることが出来なかったのもあるが、そもそも健康な若い女等見ていると不愉快なのだ。
無惨は血の気の無い顔で何時消えるかもわからない生命を繋いでいるのに、その横で蝶よ花よと育てられた華やかな娘が無邪気に笑うのを見ていると虫酸が走る。それが嫉妬と云われたらその通りだが、そんなものを無惨の前でひけらかすのが悪い。その様に考えていので、女を特別に思う事など自分には無いのだと思っていた。しかし今、無惨は確かに女を気に入っている。近くに置いておきたいと思っている。無惨が望む限りそれは叶うだろう。
女が着替えを持って部屋に入って来る。
女はやたらと無惨を着替えさせたがる。そしてやたらと拭きたがる。前の使用人達は何度も召し替えをしようとしなかった。無惨はほとんど病床に伏しているので当然だろう。女は毎日、湯と着替えを持ってくる。最初は奇妙に思えたが、慣れると心地よい。女の言うとおり、眠るしばらく前に身体を温めておくとよく眠れる。女は何かと無惨の身体を気遣って独自のやり方を模索している様だ。
女は優しく無惨の身体を濡らした布で拭いていく。
「熱く無いですか?他に気になるところは?」
「ない」
「分かりました。少し筋肉伸ばしておきましょう。寝てばかりだと固まりますからね」
「ああ」
女が内着だけを掛けた無惨の背中を押す。首から背中までを優しく揉みほぐしていく。それから腕をやさしく捻る。この按摩師の真似事も何時からか女がやりだした事だ。余計な事を、と思ったが理屈を聞くと効果があるような気がして許している。
実際、女が無惨の身体を手入れするようになって少し動くのが楽になった。病で伏せっているからといって、使わなければ肉体は必要の無い機能を失う。
女は無惨の体を拭いて夜着を整えると、寝具も清潔なものに取り替えた。
「今日はお前も此方で寝ろ」
「……ハイ?」
事も無げに言い放った無惨を、女はギョッとして見る。それは平安ルール的にいいのだろうか?いいんだろうな。平安ルールより無惨ルールの方が上だ。うっかり変な返事をしてしまった。
「支度を整えて戻って来ます」
「早くしろ」
「はい。失礼します」
頭を下げて退出する。女は自分で返事をしておきながら、どういう状況なのだと首を傾げる。無惨にだって、たまには人恋しい日だってあるのかもしれない。今の無惨はまだ人間のはずだし。
慌てて湯を浴びて、汚いもの扱いされたら嫌なので全部着替えた。状況に流された事は何度かあるが、事前に考える時間があると逆に困る。一体どんな顔して一緒に寝るんだ?しかし、あまり待たせるわけにはいかない。そもそも、無惨は病人だ。素早く寝かしつけなくては。
御簾の向こうから声を掛けると、無惨から返事が返ってくる。無残は布団の上に座っていた。蝋燭の灯りに照らされた青白い顔は幽鬼の様で、薄暗い中に赤い目玉が二つ浮いている。妖しいうつくしさを称えた男は薄く笑った。
「なんだ、何時も入って来ているだろう。何を今更遠慮する事があるのだ」
「いえ、その、失礼します」
無惨は、眉を下げる女を傍に呼び込む。何時もはズカズカと入ってきて無惨を身体ごと引き起こして着物を剥ぎ取っていく女が神妙な顔をして近付いてくるのが面白いのだ。肌を重ねるのだって初めてでもあるまいに。
無惨が肩を撫でると、女はそっと身を寄せてくる。唇を重ねるとゆっくりと、寝具の上に引き倒す。仰向けになって無惨を見上げる女に気分を良くしながら、柔い頬を撫でた。
