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平安無惨の安寧を守れ!

 平安の世。
 私はどうしょうもなく立ち竦んでいた。
 道行く者たちは皆小さく、好奇の目で私を見る。それはそうだ。平安時代の基準では私は巨女だろう。現代日本の平均的な身長、少々痩せぎすの身体は好奇の視線を向けられている。どうしたものか。
 気付いたら平安時代だったなんてことがあるのだろうか。困ったものである。
 平安京。四角に区切られた道をとぼとぼ歩く。ここが何処だか分からないが、何処に着いた所で何も変わりはしない。同じところに立ち竦んでいても仕方が無いのでぷらぷらと歩いている。
 どうしようかと舗装されていない道を歩く。アスファルト舗装されていない道を歩くのも久し振りだ。
 適当に歩いていると、大きな屋敷の前に着いた。敷地に入るわけにもいかずに、立派な門構えを眺める。
 不審者扱いされるのもが嫌なので、流石に立ち去るかと思っていた所、門の向こうから人が出てきた。暗がりで顔は見えない。
「おい、娘。そこの面妖な格好をした娘、お前だ。私の屋敷の前で何をしている?」
「ああ、すみません。行く宛なく彷徨っておりまして適当に歩いていたら、立派なお屋敷だったので、凄いなぁと眺めていました」
「……行く宛がない?お前は高貴な出の者では無いのか?」
「いえ?そんな事は思いますけど。いや、この時代の基準ではそうなのかな?ええっと、色々あって、帰る場所がなくなってしまって、途方に暮れている所です」
「そうか。なら、側仕えとして私の屋敷に置いてやる。丁度、女房が居なくなって代わりを探していた所だ」
「ハァ、いいのですか?」
 そんな見ず知らずの者を家に入れていいのか?
 そして、屋敷に置いてやると言われたからといって私の方もこれ幸いと他人の家に入るのは危険が伴う。
 考えていると、暗がりから這い出てきた者の顔が見えた。この時代の者にしては大きな姿。スラリとして青白い手足。端正な顔には、血のように赤い瞳が二つ。緩い曲線を描く髪は長く艶めかしい。鬼舞辻無惨、その人である。いや、鬼というべきか。
 錯覚だと言ってくれ。無惨の顔を穴が空くほど見つめていたのだろう、うつくしい顔を歪めて、あの癇癪を起こしそうな気配を滾らせる。無惨の蟀谷にぴしぴしと血管が浮き上がった。
「何だその目は。私の姿が可笑しいか?」
「いえ、大変な美人でしたので驚きました。失礼しました。あの、よろしくお願いいたします」
 女は間抜けな顔で頭を下げた。無惨も一瞬呆気にとられて、口元を窄める。
「お前は私が死にそうだと思うか?そう見えるか?」
 これはあかんヤツだ。死んだわ。
 ええい、もう、どうにでもなれ。
「いえ、むしろ不死身の様に見えますが」
「貴様、私がそんな見え透いた嘘を喜ぶとでも?」
 無惨は再び青筋を立ててた。
 病弱そうな無惨に明らかな嘘をついたと思われている様だ。まあ、何言っても駄目だろうな。鬼舞辻無惨が相手だもの。女の心は諦めに差し掛かっている。だってねぇ?目の前にいるのは、鬼舞辻無惨だもの。特に意味もなく殺されるだろう。
「いえ、嘘ではなく。貴方は色々不便はありましょうが、この先も長く生きられると思います」
「何故、そういい切れる」
 無惨は怒りよりも疑念の方が勝ったらしい。癇癪を起こす手前だった所から、冷静な状態に頭が切り替わったようだ。
 紅く溶ける目を開いて女を見詰める。
「何故と言われましても、そう思うからとしか」
 貴方が最悪の悪党で、死にたくないあまりに、他の人間を殺しまくるからとは言えないよね。
「……まあいい。早く上がれ、仕事は他の者に聞け」
「畏まりました」
 女が頭を下げると、無惨は身体を引き摺るようにして去っていく。まだ鬼になる前の無惨のようだ。しかし、圧が凄い。向き合っただけで、人生を諦めてしまった。私の意志が弱すぎるだけかもしれないが。
 長い廊下を大きな身体を引き摺るようにして去っていく無残の後ろ姿は、あの凶悪な鬼達の祖と思うには何とも憐憫を誘うものであった。

 それにしても、屋敷の前を彷徨いていたのは仕事欲しくてやって来たと思われていたのだか。しかし、女房って。貴族に仕えるのは貴族の娘で、なんというか、道端で拾うみたいな奴ではなくないか?ばっくれるかどうか考えていたが、その内に雨が降ってきたので急いで屋敷の軒先に避難する。入り込んでしまった形だが、まあ、何とかなるだろう。

 無惨の屋敷で世話になると決めたはいいが、どうしたものかと辺りを見回す。無惨が良しと言ったとて、勝手に上がり込んでいいものだろうか。彷徨いていると表の方に、初老の男が一人見えた。傍に寄っていって声を掛ける。
「あの、すみません。先ほど、男性の方が側仕えとして屋敷に置いてやると言って下さったんですが、どうすればいいでしょうか?」
「ああ、無惨様が屋敷に上げたと云う娘だね。おやまあ、ずいぶんと大きいねぇ。こっちにおいで」
「はい」
「お前が会った方はこの屋敷の主人、鬼舞辻無惨様。あの方はね、ご病気なんだ。それにお心も難しい。中々、仕える者が続かなくてね。奥様も次々にいくなってしまって。しかし、伏せっているご主人を世話する者は必要なんだ。丁度、行く宛がないと言っていたと聞いたよ。病人の看病はできるかい?布を取り替えたりだとか、薬湯を飲ませたりだとか」
「わかりません。やり方を教えていただけますか」
「分かったよ。一度、私がやるのをみておいで。それで次からはお前にやってもらうからね」
 初老の男はそういって女の前を歩く。
 初老の男から屋敷の執り成しと、無惨の看病について習ってすぐ、その男は屋敷の勤めを辞めた。
 なるほど、お前も辞めたかったのか。

 女はそっと、御簾の外から声を掛ける。無惨は少しだけ身体を起こした。
「無残様、お加減いかがですか?」
「ああ、少し頭痛がする」頭を抑えた無惨の顔色を確認する。そっと触れて体温を確認。少し熱い気もする。
「大丈夫ですか?冷やしましょうか。ああ、でもその前に着替えられた方がさっぱりしますかね?湯を持ってきましょう。体を拭いてから、またゆっくりお休みになられた方が良いかと」
「ああ」
 無惨は虚ろな目で返事をする。熱で朦朧としているのかもしれない。
「すぐお持ちしますね」
 女はそっと部屋を出る。
 最初は恐れていたが、まだ人間の無惨は、癇癪を起こす事よりも、弱りきって眠っている時のほうが多い。病床に伏していると病弱な色男なので、どうにも可哀想になって世話を焼きたくなってしまう。しかし、やり過ぎると忌々しく思われるのは分かっているので加減が難しい。
 基本的に無惨はされるがままだ。この時代の貴族というのはこういうものなのだろうか。私なら御免被りたい。自分でやれることはしたい。
 しかし、じっとりと汗をにじませた肌を拭かれている無惨は今はただの病人だ。したくても出来ないのかもしれない。
「無惨様。髪を梳きますね」
「ああ」
 女は布団の上に座る無惨の髪を梳く。豊かな黒髪はうつくしいが、うっとりしている暇はないので手早く済ませなければ。梳いた髪をまとめて、新しい着物を用意する。
「無惨様、着物を変えさせて頂きます」
「ああ」
 帯を解いて着物を剥ぐ。軽く体を拭いて着物を変えてやる。これまでは、毎日替えてはいなかったようだが、感覚が平安ではない女としては、毎日同じ肌着を身に付けているのは非常に気になるのだ。上はまだしも下は無理。無惨もこいつめっちゃ着替えさせるなと思っているかも知れないが、止めろとは言われていないので、寝てばかりいる身としてはさっぱりしていいのかも知れない。
 無惨から脱がした着物を軽く畳んで籠に放り込む。その様子ぼんやりと見ていた無残に向き直り尋ねる。
「お食事は召し上がられますか?」
「いや、今は食べたくない」
「畏まりました」
 無惨は布団の上にぼんやりと座って、宙を見つめている。病床から動く事もままならないのだ。苦しいだろう。調子のいい時は庭先に出たりも出来るが、そういう日は少ない。

 屋敷の者は無惨を何時も遠巻きにしている。いくら美しい主人であろうと、病気持ちで癇癪持ちとなれば中々に、扱いづらかろう。
 位は持っている様だが、あの身体では宮中に上がるのは難しい。たまに顔を出すこともあるようだが、それも少ない。よい家柄の生まれといえど、仕官できないとなれば厚く遇されるということはない。病以外にも頭の痛い状況がある様だ。
 私は、ひとまず平安の世に居場所ができたので安堵している。無惨に直接対峙するという、屋敷の者からすれば一番やりたくない仕事を担っているので、周りから邪険にされることはない。病原菌扱いされることはあるが。
 無惨の病は伝染るものではないと思っているのだが。感染するならばとっくに倒れている筈だ。無惨が鬼になるまではこの屋敷にいるのも悪くない気がしている。

「ゴホッゴホッ」
 無惨が口元を抑えて咳き込む。玉のような汗が噴き出す。すぐに寄って背を撫でてやるが、収まる気配は無い。
「すぐに薬湯を貰ってきますッ」
 ひとまず気休めでも薬を飲ますべきだろう。座敷から立ち上がって廊下に出る。走って薬湯とタオルを持って戻る。
 部屋に戻ると、畳の上を這うようにしながら無惨は呻いていた。
「無惨様、飲めますか?」
 無惨の体を無理やり抱き起こして、息がしやすいようにしてやる。持ってきた薬湯をそっと口に運ぶ。忌々しげにしながらも、そうしなければならないとばかりに薬を飲んだ無惨は再び咳き込む。
「ゴホッ……ハァハァ」
「無惨様……」
「私の側仕えは、皆、私の病が伝染ると。死にとうないと出て行ったぞ。お前はどうするんだ。お前も出ていくのだろうな!拾ってやった恩も忘れてッ」
 無惨が髪を振り乱して叫ぶ。今日はすこぶる調子が悪いらしい。前屈みに倒れ込む様な格好で呻く無惨の体を支えて起こす。引っ張り上げて、引き摺るようにしながらそのまま布団に横たえる。
「私は此処にいますよ」
 無理やり布団に寝かせ無惨の顔に張り付いた髪を払ってやる。癇癪持ちの無惨をいなすのも何度もやっていると慣れるものだ。
 冷やした布を額にのせてやる。物理的にも頭が冷えたのか、血走っていた無残の目に段々と冷静な光が戻って来る。
 哀れな事だと思ってしまう。
 しかし、こういう同情が一番彼の嫌う類のものだ。善意とか憐れみとか。要らないことを言わないのが彼と上手くやるコツなのは最初の方で学んだ。
無惨の顔色が良くなったのを確認して下がる。
 眠ったら少し落ち着くだろう。


 新しい奥方が来た。平安時代の作法はよく知らないが、男の方が女の元に通うのではなかったか。しかし、肝心の無惨があの状態では難しかろう。家の人間たちから色々と配慮されたのかもしれない。
 新たに無惨の北の方になる人は美しい人だった。遠い所から無惨の屋敷まで移ってきたらしい。御簾に囲まれた部屋で寛ぐ十二単の女は長い黒髪を散らしながら座っている。
 無惨の美貌は光源氏もかくやという位なので並ぶと申し分ない夫婦だろう。
 なんだか、世話をしている内に無惨の手下感が出てきた私は、奥方を確認すると満足げな顔で頷いた。うむうむ、お前さんほどの器量良しであれば、無惨様と並んでも許すぞい、という感じである。本当にどの立場なんだ私は。
 奥方の傍に男は近付けないので、私は今度は奥方の住処にも出入りすることになる。
 新しい奥方の登場で、陰鬱な気配が立ち篭めるにこの屋敷に新しい風が吹くかもしれない。屋敷の者は皆、口にはしないがそれを望んでいる。

 無惨はもう聞いているのだろうか。新しい奥方と会ったのだろうか。ちょっと聞いてみるかと、部屋を尋ねる。誰も近付きたがらないのでまだ知らないかもしれない。御簾越しに声を掛けて中に入る。
「無惨様、失礼します」
「なんだ、お前か」
 無惨は興味無さげに女を見る。しかし、受け答えははっきりしているので本日は調子が良いようだ。
「はい。体調は如何ですか?奥様が此方の屋敷に移って来ておられますよ。先程、私もご挨拶して来ました。大変お綺麗な方でしたよ」
 無惨様には負けますけどね。こんな事を思うわけだから完全に三下感出ている。我ながらちょろい。
「ああ、今晩はあちらに赴く。支度をしておけ」
「畏まりました」
 光源氏だ!知らんけど。なんだか私は楽しくなってきたぞ。
 屋敷の奥から、平安的お洒落着を沢山持ち出してどれを無惨に着せようかなと考える。無惨は興味なさそうだが、ダサいのは嫌がる。私は張り切って準備する。着せる予定の直衣に香を炊きしめておいて、血色の悪い無惨のために紅でも用意しておくか。やり過ぎ?気合入り過ぎ?
 いやしかし、ここはあの類稀な美貌を生かして奥さんをメロメロにしておくべきだろう。そうでなくては、また無惨は捻くれて癇癪を起こすに違いない。
 奥方を毎度ノイローゼに追い込んで自死させるという、凄まじい男なのだ。そんな奴いる?今が何人目か知らないが他の者の話では、無惨と関係した女は漏れなく死んだそうである。怖すぎだろ。
 今度はもう少し上手くいくと良いのだが。この時代女性は、大変たおやかと言えば聞こえがいいが、不健康で気が弱い。すぐ病んでしまう。パワハラ上司並みの圧をかけてくる無惨とは大変に相性が悪い。それを補って余りある盲信で包まないとやってられないのだ。むしろイカれてる方がいいまである。
 なので、無惨の類稀なる美貌でうっとりさせて、欠陥には目を瞑らせる作戦だ。
 個人的には、鬼の癇癪でなく、病人の癇癪なので今の所はどうにでも出来るが。無い方がいいのは間違いない。まあ、私は仕事だから世話できるけど、夫があんなに癇癪持ちだったら嫌だよね。考えたら少し背筋が寒くなった。
 
 無惨は、平安貴族の決まり通りに、三晩ほど新しく妻になった女の元に通い、文を交わしたがそれ以降は近付こうとしなかった。体調が悪いのもあるだろうが、それでも行って話くらいは出来るだろう。あまり気に入らなかったのかもしれない。どういったやりとりがあったのかは知らない。

 無惨の新たなる妻は段々と心病んでいった。頼りになる筈の夫が来ないので、気が滅入ってしまったらしい。御簾の奥、唐衣を涙で濡らしながら咽び泣く。
「あのひとは私のことなど愛していないのよッだから通っても下さらないッ!前の奥方もこんな風だから亡くなってしまわれたのだわ!だから、こんな所に来るのは嫌だったのよッ」
 奥方は乱心している。無惨が渡りに来ないのを恨めしく思っているのだ。シクシクと泣きながら、愚痴を零す。
 平安の女とは大変なものだ。文句を言いたくても、相手が来ないと直接言うことも出来ない。離縁も出来はするが、貴族の姫は政治の道具だ。そう簡単にはいくまい。なんだか可哀想になってきた。
「私からも申し上げてみますね。無惨様は体調が優れない時は中々お渡りになれないのです。あまり加減がよくない所を見せて心配させてはいけないと思っていらっしゃるのでは?」
「気休めはよして……。そんな事が無いのは貴女が一番よく分かってらっしゃるでしょう」
 それはそうなんだけど。私は無惨と一番近い使用人なので彼が妻に興味が無いのはよく知っている。だからといって、そうですね!諦めて、金持ちの屋敷で贅沢しながら楽しく過ごしなよ!とは言えない。愛想笑いを浮かべて返す。
「ううん。無惨様も難しいお方ですから。奥様もあまり塞ぎ込まずに、お庭で花見でもされては?良い天気ですよ」
「貴女は本当に気楽でよいわね」
 十二単の女は黒い歯で唇を噛む。
「そうですね。貴族の方の苦労はわかりかねます。失礼いたします」
 嫌味を言われてなんとなく面白くなくて、退室する。
 無惨に嫌味を言われても、暴言を吐かれても、仕方ないなぁで済ませることができるのに奥方に言われるとカチンとくるのは何故だろう。やはり女だから対抗意識が湧いているのだろうか。
 あんまりいい傾向ではないなと思いつつも、今度は無残の部屋に移動する。家の中なのに伝言ゲームをしないと家族の会話もままならないのだ。
 平安時代らしく、風雅な感じで文を交わし合うのかと思っていたが、無惨が筆も取らないので、なんとなくお互いの言い分を伝えている内に伝書鳩になってしまった。
 無惨の部屋に湯と着替えを持って入る。
「失礼します。湯と着替えを持って参りました」
「ああ。背中を拭いてくれ。汗をかいた」
「はい。失礼いたします」
 無惨も最近は素直に要望を伝えてくる。せっかく世話をするのだから、出来るだけ快適にしてあげたいとは思う。この進歩は少しだけ嬉しい。
 無残の着物を半分ほど脱がして、体を拭いてやる。
「そういえば、奥様がお渡りがないと嘆いておられましたよ」
「フン、そうか。長生きしない夫など要らぬと言っていたのにな」
「そんな事を……。ま、まあ、夫婦で喧嘩することもあるでしょうね」
「なんだ、お前、知らないのか。あの女は、私の妻でありながら兵部官の男とまだ続いている。だから、私がさっさと亡き者になればと思っているのだ」
「はぁ?なんですかそれ、そんな奴はさっさと離縁しては?」
 秒で手のひらを返してしまった。無惨の相手に悪手過ぎる手を取るなよ。私の努力をなんだと思ってるんだ。むかっ腹を立てる私を無惨は面白そうに見やる。
「フン、そうもいかん。貴族の結婚とは家同士の契約だ。それに、私は彼奴等に興味がない」
「そうですか。そういう事ならば、もう奥様の事は申しません。不快な事を聞かせてしまって申し訳ありません」
「ふん」
 無惨は鼻を鳴らして、着せ替えられた着物の襟を直した。奥方の事を無惨に相手にされなくて可愛そうだなと思っていたが、女も見事に騙されていた様である。愛と欲望が渦巻く平安恋物語はここでも繰り広げられていたらしい。他所でやってほしい。

 女が無惨の身の回りの世話をしていると、庭先に立った無惨はぼんやりと空を見上げた。春の日のことだった。桜吹雪に見舞われる無惨の姿は絵に描いたようにうつくしい。
 儚げな美貌が際立って溜息が漏れる。しかし、『儚い』、『淡い』等の、ともすれば弱さに繋がる表現は無惨の地雷である。悪い意味で使わなくとも眉を顰められるので口には出さない。
「今夜は北の方の所に行く。支度をしておけ」
 庭先から戻って来た無惨がぽつりと呟く。女は驚きつつも了承した。
「畏まりました」
 頭を下げた女の横を無残が通り過ぎる。スルスルと部屋の奥に消えていく無惨の姿を眺めながら珍しい事だと首を傾げた。

 無惨が渡った次の夜、北の方が死んだ。
 自死だった。重たい十二単を脱ぎ捨てて川辺まで移動して入水したらしい。
 無惨と妻の間で何かあったのは間違いないが、怖くて聞けない。私は知らない振りをして無惨の世話を続けている。
 まだ人の姿をしている。病気だから。色々と理由をつけて生活を共にしているが潮時かもしれない。まだ件の薬師が現れていないので平気かと思ったが身の振り方を考えるべきかもしれない。言葉で人を死に追いやれる人間と長くいるべきではない。
 そんな風な心を読んだように、無惨は女を呼び付けた。
「此方へ来い」
「はい」
 足を揃えてにじり寄ると、無惨が手招きする。
「もっと傍に寄れ」
「はい」
 触れるほどの距離まで近付くと、無惨に腕を引かれて押し倒される。無惨の艶やかな黒髪が女の頬を掠めた。はだけた着物の隙間から、病床に伏していた割に豊かな肉体が顕になる。
 覆い被さってきた無惨の唇がそっと触れた。ひんやりとしていて、人の唇とは思えぬ程に冷たい。それがなんだか哀しくて、そっと無惨の頬を撫でる。
「なんだ、お前は私を哀れんでいるのか?」
「違います。私は貴方の隣には立てないから、それが悲しいんです」
生きている階層が違う。彼は人でありながら人ではない。そして、ずっと一人だ。本人もそれでいいと思っている。他人を信用していないから。それをどうにかしようとは思わないが、悲しく思わないわけではない。
「お前の云うことはよく分からない。私が嫌いか?」
「そんな事はありません。そうであったら此処にはいません」
「それもそうだな」
無惨が女の着物を剥いだ。無惨の肌と比べれは血色の良い、瑞々しい肌が広がる。無惨が恨めしそうに女の身体を撫でた。
「お前はうつくしいな。文句のつけようもなく。若く、健康で、うつくしい!私と違ってなッ」
「無惨様……」 
 女は困惑して無惨の顔を見上げる。どうするのが一番の慰めになるだろうかと考えて、その思考こそが無残を苛立たせるのだと思った。プライドの高い彼は他人に憐れまれるのを酷く嫌う。
 無惨は女を手酷く抱いた。気紛れだったのかもしれないし、八つ当たりだったのかもしれない。しかし、上気した女の身体は少しだけ無惨の渇きを癒す気がした。




 病に蝕まれる肉体は少しずつ弱っていった。医者やら祈祷師やらが代わる代わるにやって来て何やら施していくが、無惨は少しずつ弱っていく。
 女が倉庫で荷物を整理していると、女中がバタバタと走ってくる。私の顔を見ると安堵の表情を浮かべる。
「ああ、いた、無惨様がッ。お前、早く行ってお慰めしておいでッ」
「はいはい」
 最近の無惨はご機嫌が悪い。八つ当たりが激しいのだ。いつの間にか、この屋敷で無惨に仕える者の中では私が一番長くなってしまった。無惨のご機嫌取りといえば私という風な具合だ。
 今の所、無惨はまだ人間なのでいいが、鬼になったらもう無理だろうなと冷静に思う。いつ件の薬師がやって来るかは分からないが、無惨の方は相当に荒れている。

 無惨の部屋に向かうと、御簾が落ちて、倒れ込む様にして無惨も床に横たわっている。癇癪を起こして、暴れた結果、具合を悪くしたという所だろう。言うことを聞かない身体が一番恨めしいのは無惨本人である。女は駆け寄って無惨の身体を抱き起こす。
「無惨様、立てますか?布団に戻りましょう。薬も飲んで下さい」
「ゴホッゴホッ、なんだ、お前か。ゲホッ、汗をかいた。着替えを持って来い」
「畏まりました。しかし、その前に息を整えましょう。薬を飲んで呼吸を整えて。あまり咳が酷いとそのまま肺炎になってしまいます」
 無惨の背中を擦り、咳が止まるのを待つ。咳止めを飲ませて、少し水分を取らせたほうがいいだろう。私にも何の薬だかよく分からないが、無いよりマシだと言い聞かせて、無惨の口に押し込む。
 しばらくして落ち着いたのか、無惨は冷静さを取りもどして女を見る。
「もういい、落ち着いた」
「分かりました。では着替えとお湯を持ってきますね。少しお待ち下さい」
 軽く頭を下げて引き下がる。無惨は胸を押さえながら布団の上に座り込んでいた。
 無惨の部屋は物が少ないので、暴れたからといって怪我するようなものは無い。布団やら薬やらが少し飛んで、御簾が落ちる位だ。破れてはいなかったので、また引っ掛ければいいだろう。無惨を休ませたら寝てる間にやってしまおうかな。考えながら着替えを引っ張り出して、厨房からお湯を貰ってくる。
 準備をして戻ると、無惨はじっとりと女に視線を向ける。物言いたげな視線。どうしたのだろうか。最近は、言いたいことはズバズバ言ってくるようになったと思ったのだが。
「縁談の話が来ているというのは本当か?」
「縁談?無惨様のですか?存じ上げませんけど」
 また新しい奥さんが来るのだろうか。止めとけばいいのに。首を傾げた女を無惨は胡乱な目で見る。
「違う。お前のだ」
「ん?ああ、そうですね。そんな話がありましたね」
 そんな話を屋敷の者からされたのだ。無惨の新しい着物選びで頭が一杯で忘れていた。美人の着物選びが一番楽しい。無惨は口を開けば悪魔みたいな奴だが見目は良い。
「受けるのか?」
「さあ、会ってみて決めようかと思っていますが」
 貴族の流儀は知らないが、私は未だに感覚は庶民なので会いに行って決めるし、気に入らなかったら結婚などすまい。幸い、屋敷の仕事があるので一人だって食うに困ることも無い。無惨は紅い瞳で女を見る。
「会う必要は無い。断れ。お前にいなくなられると私が不便だ」
 女に着替えさせられながら無惨が言う。なるほどと思うと同時に、喜びが湧いてくる。抑えなければと思いつつも、顔に笑みが浮かんでしまう。
「そうですか……。はい。分かりました」
「なんだ、何が可笑しい」
「いえ、私がいなくなると不便を感じる位には役立てているようで嬉しいですよ」
 にやにや笑う女を見ながら無惨は鼻を鳴らす。奴隷根性が凄くて我ながら笑ってしまうが、何とも離れがたくなってしまったものだ。DV夫から離れられない妻ってこんな感じなのかもしれない。
 無惨は他人の気持への共感を持ち合わせていないので、言葉の通りにいなくなったら不便だと言っているのだろうが、何時も癇癪を起こして人を遠ざけている男が素直に必要を認めるのは言いようもない愛くるしさがある。その内に鬼になった無惨に食われて死ぬかしれないのに、私にも困ったものだ。


 







 
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