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第一部

1 はじまり
 捻れた世界にやって来た。
 しかし、そこは女の知っているナイトレイブンカレッジではなかった。見知った式典服に身を包んだ生徒達に見覚えは無い。黒と紫に、金刺繍を施さ
れた豪華な服を着た男の群れ。女が彼等を好奇の目で見るように彼等も場違いな女をチラリと盗み見る。
 どうやら知っている生徒達がいる学年では無いようだった。
 真っ黒な棺桶から這い出して、きょろきょろと周りを見回していると、上から黒い羽が舞い落ちてくる。女の目の前に舞い降りて来たディア・クロウリーはふむ、と顎に手を当てて考える様な仕草をする。
 凄い、空を飛んでいる。女はぽかんとクロウリーを見上げた。
 金色の仮面の下の目がじっと此方を見ていた。
「貴女、女性ですね?しかも式典服も着ていない。魔力の気配もない。一体どうして此処に?」
「それは私が聞きたいんですが」聞かれても知る訳が無い。何時も通りに寝て起きたら此処にいたのだ。此処は知っているが知らない世界。しかし、どう答えたら正解なのだろう。クロウリーは見透かす様な目で女をみる。仮面の下はどんな顔をしているのだろう。
「貴女、ご出身は何処です?」
「日本です。でも多分、この世界では無いような……。私の知っている人間は空を飛びません」
 クロウリーは女の顔を覗き込む。表情を見ていると云うよりも、もっと奥深くの深淵を覗き込む様だ。
クロウリーは女を一目見て異質だと気付いた。異世界からやって来たと聞いて、すぐに納得する位には女は捻れた世界にとって異質だった。見た目だけを云うならば、それほど特異とは言えない。人魚や獣人が存在する世界なのだ。少しばかり顔が平たくて年齢不詳だったからといって、特段気にする程もない。そうではなく、存在が別物なのだ。もっと本質的なものだ。力のある魔法士として、多くのものを見てきたクロウリーは、女の纏う気配の異質さに興味を持った。強い魔法士はその存在のみで、周囲の空間そのものに影響を及ぼす。クロウリー自身もそう云う力を持つ存在だからこそ感じる異質。女の存在は、世界に継ぎ接ぎして無理矢理に貼り付けたように浮いていた。その世界の線上には在るのだが、どうにも馴染まない。
 その異質さとは裏腹に、女は無垢な瞳で不思議そうに辺りを見回していた。邪気が感じられないとでも云うのだろうか。ナイトレイブンカレッジではそうそうお目に掛かれない種類のものだ。クロウリーの様な者からすると危うさすら感じさせる。その目の中に光るものを見て、クロウリーの中に強烈な欲求が湧いてくる。あの煌めきが欲しい!抗い難い誘惑だ。クロウリーはキラキラしたものが大好きなのだ。ソレが不可思議で特別なら尚更。彼女の目には世界はどういう風に映るのだろう。それが知りたかった。
 クロウリーは芝居掛かった調子で話し出す。
「まさかそんな、おやおや、本当だ。貴女、随分遠い所から来られたようだ。しかし困りましたね。このナイトレイブンカレッジは優秀な魔法士を養成するための全寮制の学校。魔法が使えない人間を置いておくわけにはいきません。しかしながら、貴女が闇の鏡に選ばれてこの地に足を踏み入れたのも、また事実。そうだ、では私の屋敷で面倒を見ましょう!こんなか弱い女性を身一つで外に放り出すのも心が痛みます。私、優しいので」
 クロウリーは、一人で話しだして一人でそれっぽく纏めた。なんというか、まさに女の知るディア・クロウリーらしい振る舞いである。女は少し考えて答える。
「それは、ありがとうございます。何の手違いか分かりませんが、此処に来
てしまった以上は戻るまで居るしかありませんから……」
「ええ、分かっていますよ。細かい話はまた後で。先ずは入学式を終えないといけませんからね」言ってクロウリーは目の前から飛び去る。
 女に向けられる好奇の視線。不快だが仕方あるまい。監督生ではないが、クロウリーに面倒は見てもらえるようだ。女は安堵して会場の隅の方に寄る。学園には置いておけないと言われたので式典は関係が無いだろう。学園長の祝辞も教員達の挨拶も普通の学校の様だが、それを覆う空間が未知のものだった 
 星屑のような光が舞う空間。喋る鏡。生徒達を照らす灯りも宙に浮いている。なんて世界なのだろう。女が周囲の物を物珍しげに眺めている間に式典は終わったらしい。動く光の粒を追い掛けていると、いつの間にかクロウリーが目の前に立っている。
「この世界のものはそんなに珍しいですか?」辺りを見回しては目を輝かせている女を見ながらクロウリーが尋ねる。「ええ。そうですね。私のいた所には空飛ぶ人間も、動く蝋燭も意思を持った光の粒もいませんので」女は大袈裟に頷いて答えた。
「それはそれは、不思議な世界から来られたのですね」
「此方のほうが不思議で堪りませんが」
「では、一先ず私の屋敷に移動しましょう。手を出して頂けますか?」
「はい」女が手を差し出すと、クロウリーの金属の飾りのついた手に握られる。しっとりした革手袋の感触と金属の冷たさを感じる。女がクロウリーの顔を見上げると、仮面の下でほんのり笑った気がした。
 瞬間、空間が捻れて浮遊感に襲われる。身体が中に投げ出される感覚。落ちると思って身体に力を入れた時には、足は再び地に付いていた。

 女とクロウリーは大きな屋敷の前に立っていた。物語に出てくる洋館の様な場所。女は唖然として屋敷を見上げて、それから足元を見ると正面玄関の大理石の床があった。目の前には巨大な玄関扉がある。
 呆然としていると、クロウリーが女の眼の前で手を振る。
「大丈夫ですか?ああ、空間転移も初めてなのですね、これは失礼」
「びっくりしました。落ちるかと……」
「ははあ、私もそれなりに名の知れた魔法士ですのでそんなヘマはしませんよ」
「そうですか、すみません、何も分からなくて。魔法って凄いですね」
 青くなっていたかと思ったら、今度は凄いと言いながら手を叩く女を見てクロウリーは口角を上げた。
「貴女、いい反応しますねぇ!こんな新鮮な反応を貰うのは何年ぶりでしょう!いやぁ、此方も中々得難い体験をさせて頂きましたよ。学園にいるものは魔法が使える者達だけですからねぇ、張り合いがないったら」
「ふふ、魔法が当たり前の世界なんて私には夢みたいです」あまりにもエンターテイメント。現実感がなさ過ぎてアスレチックパークにでも来たような気分である。
「そうですか。貴女には何もかもが目新しく映るのでしょうね。さあ、此方にどうぞ」クロウリーが茶色の玄関扉を押し開ける。巨大な玄関ロビーは開けていて目の前には大きな階段がある。螺旋状になった階段は二階に続いている様だ。その広さにも驚いたが、女を驚愕させたのは調度品が動き回っている事である。
「す、凄い、色んな物が動いてる……あの、これは触って大丈夫なんでしょうか?」女が飛んできたレースのカーテンの様なものを指差して言う。目の前に飛んできたが、触って避けていいのかが分からない。
「ええ、構いませんよ。此処には危険な物はありませんので好きにして頂いて。彼等も何時も動き回っているわけでは無いのですよ。貴女が現れたから喜んでいるのです、全く、もう少し落ち着いて下さい!」クロウリーが空間に向かって声を掛けると応えるように飛んでいた物達はひらひらと元いた所に落ち着いていく。その中で、床に敷いてある赤いカーペットだけが這うようにして女の足元に転がってくる。此方を歩けと言う様に足元まで転がって来た敷物だが、ここに踏み出す勇気はない。クロウリーの方を困った様に見る。
「ふ、踏んで大丈夫なんですかね?」
「勿論。カーペットですからね。貴女に踏まれたくて動いて来たのです。全く行儀の悪い……」クロウリーはやれやれとでも言うように手を振る。慣れている様子だが、彼にはこれが当たり前なのだろうか。「ううん、凄い」女は床を移動してきた敷物に恐る恐る足をのせる。踏んでみると普通の厚手の敷物だ。意思を持って動いているのを見た後では抵抗があるが、動かなければただの上等な敷物である。いきなり巻き付かれたりしなくて良かったと胸を撫で下ろす。
 屋敷に足を一歩踏み入れるだけで、大分時間が掛かってしまった。
 女が屋敷の中に足を踏み入れのを確認して、クロウリーは仮面の下で微笑むと先を歩いていく。何が飛び出してくるかドキドキしながら、クロウリーの後について行く。大きな階段を登って二階の東側の奥に進んでいく。奥の扉の一つをクロウリーは開く。
「貴女は此方の部屋を使って下さいね」案内された部屋は客室の様で広い部屋にベッドやソファー、デスク、化粧台等一通り揃っている。奥の方には化粧室等も在るらしい。あまりにも上等な部屋を与えられて驚く。クロウリーというと、監督生に廃墟であったオンボロ寮を宛てがった位なので本当にこの部屋で合っているのかと不安になる。「良いんですかこんな綺麗な部屋を」
「ええ、勿論!この部屋は好きにして頂いて構いませんよ。家の中の事は基本的に使い魔が行いますので、困った事があれば何でもいい付けて下さいね。私は日中は学園に、夜は屋敷に戻りますので、夕食は一緒に取りましょう。ああ、私の部屋はあちらです。他の部屋は、魔法が使えない貴女には危険な物もありますので不用意に立ち入らない様に」女の不安を他所にクロウリーは、口元に笑みを浮かべて得意げな様子だ。クロウリーは己の自室だと言って西側の奥の扉を差す。何かあったら尋ねないといけないので、そこだけはしっかりと脳に刻み込む。
「分かりました。ありがとうございます」女が頷くと、クロウリーが続ける。
「とりあえず、私は学園に戻らなくてはいけないので、此方の部屋で休んでいて下さい。夕方には戻りますので、食事でも取りながら詳しい話をしましょう」
「はい。何から何までありがとうございます」
「ではまた後で」クロウリーは黒い羽の羽ばたきを残してその場から消えた。
 女はふうっと息をついて、与えられた部屋を見回す。生活に必要そうな家具は揃っているようだ。
 机の上やベットの上を見たが、使われていなさそうな割に、埃も溜まっていない。どの品も古めかしい雰囲気はあるが、職人の手の込んだ仕事が伺える上等な仕上がりだ。一先ず一通り部屋の中を見分する。奥の方にトイレや浴室、洗面台等も揃っていた。水回りは現代仕様で有り難い。上等なホテルの様だ。細かな意匠が彫られた木製の棚の中には何も入ってはいない。この棚は動いたりしない普通の棚だった。この部屋の家具は動かない様である。動く家具達は見ていて面白いが、落ち着かないので身の回りのものに意思がないのはありがたい。
 部屋の中を粗方見て回ってから、大きなベットに腰掛ける。そもそも、家の中だというのに靴を履いたままというのが落ち着かない。柔らかく沈むベットの上に座ると少しだけ気持ちが落ち着いてくる。
どうしたものか。ディア・クロウリーの屋敷に押し掛ける形になってしまったが、一体どうしてこんな事になったのか。考えてみるが、何も変わった事はしていない。運命の悪戯と考える以外にない。監督生という立場では無いということは、本編ストーリーとは別の世界線か、原作の時間軸の前か後ということになる。
 しかし、学園の生徒と言う訳ではないので、本編に巻き込まれることは無いだろう。クロウリーの家の居候として何か役割を貰いたい所だ。
 クロウリーが原作通りのディア・クロウリーならば、親切心で行き場の無い女にタダ飯を食わせてくれる様な男では無い筈だ。彼は巫山戯ているが抜け目ない魔法士である。監督生の事も他の生徒の事もそれなりに良いように使っていた。まあ、女が考えなくとも、クロウリーが使い所を考えるだろう。監督生にそうしたように。
 ぼんやりと考えていると、棚に本が置いてあるのが目に入る。立ち上がって一冊抜き取ると、見たことのない文字が書かれている。英語にも似ているが、意味はわからない。話し言葉は日本語だが、書き文字は日本語では無いようである。困った事だ。挿絵で内容を推量するが、よく分からなかった。ただ難しそうな本、とだけ。文字の大きさや本の厚さから子供向けの本でない事は確かだ。どれか読めるものがないかと、棚から引き出して
開いては戻す事を繰り返す。結局、何もわからないという事が理解出来ただけだった。文字くらい読めたら仕事の幅も広がるだろうに、先は長そうである。
 タオル類は置いてあったので、一先ずシャワーでも浴びてみる。着替えは無いがサッパリすれば気分も変わるだろう。
 タオルを巻いただけの姿で浴室から出て来ると部屋にクロウリーが居た。
「これは失礼!昼食の事を考えていなかったのを思い出しまして、軽食を持ってきたのですが、まさか入浴中とは!」
 なにか食事が入っているのだろう紙袋を持ったクロウリーが慌てて顔を背ける。
「いえ、すみません。ありがとうございます」はしたない格好だが、タオルは巻いている。見られて困る訳でもないかと思い紙袋を受け取って謝辞を述べる。受け取った紙袋を机の上に置いて、出て来た浴室に引っ込む。
「すみません。すぐ服を着ますので」女は手早く服を着ながら外のクロウリーに向かって声を掛ける。
「いやはや良いものを見てしまいました!あっ!で、では食事は渡しましたので私はこれで失礼しますよ!」
 色々と誤魔化せていない。しかし、昼ご飯を持ってきてくれたのはありがたい。
「はい、ありがとうございます」女の謝辞を聞いてか聞かずか、クロウリーは羽音を残して消える。突然現れて突然消えるものだから驚いてしまう。もしかすると外から声を掛けていたのかも知れないが、シャワーの音で気付かなかった様だ。それにしても、女の裸を見て喜ぶ様な気持ちがクロウリーにもあるのだな。老獪な鴉というイメージが強いクロウリーに普通の男みたいな反応は期待していなかった。何処までがパフォーマンスなのかは分からないが、案外取っつきやすい相手なのかもしれない。そういえば監督生を放置してバカンスに行ったりもしていたので、欲望には忠実な質なのかもしれない。それはそれで、ナイトレイブンカレッジの学園長らしいが。
 服を着て濡れた髪を纏めて浴室を出る。先程渡された紙袋の中にはサンドイッチとペットボトルに入った水。サンドイッチの方は、大きなバゲットにべーコンと卵、シャキシャキのサラダが挟まって手作り感の強い一品だ。学園でつくられているものなのだろうか。一つでも結構なボリュームがある。味も絶品でぺろりと平らげてしまった。異世界だというのに食い気だけは衰えない己に苦笑しつつも、これくらいは無くてはやっていけないとも思う。食べられる時に食べておくのは全ての基本だ。別に戦いに行く訳でもないが、気持ちの上ではそれくらいの覚悟が必要だろう。なんせ此処は異世界なのだから。
 そんな事を思いつつ、食事を済ませ、さてどうするかと考える。クロウリーが戻るまで時間があるだろう。
 少し休んでから屋敷内を見て回ることにする。危険なものは無いから触ってもいい、と言われた玄関の周りを散策してみるか。他の部屋を見て回って変な魔法道具で怪我をしたりはしたく無い。それにやるなと言われたことをわざわざやって、クロウリーの不興は買いたくない。私は面倒を見て貰う立場なのだから、彼に気に入られるように振る舞う必要がある。
 部屋を出て階段を降りていくと、またしても敷物が踊っている。カーテンもだ。女が歩くの合わせて踊るかのようにクルクルと舞う。試しにステップを踏んでみると、それに合わせてカーテンがバサバサ揺れた。敷物達は端の部分を折って足に見立てて同じ様にステップを踏む。
 楽しくなって、繰り返す。彼等も同じ様に応える。
「皆、私に合わせてくれてるの?ふふ、嬉しいな」女が笑いながら靴を鳴らすと、彼らも房を揺らしてその真似をする。女は楽しくなって繰り返す。
 カーテン達に手を引かれるようにして、包まり、流されるままにターンする。足元の敷物が女の足を滑らせて次の場所に移動させる。向かった先の花瓶にぶつかるかと思いきや、花瓶がくるりと回転して、女は更にその先で階段の手すりに捕まった。
「あはは!凄い!!」
「おや、随分楽しそうに過ごされているようで。屋敷に馴染めないのでは無いかと心配していましたが杞憂だった様です」背後から声がして慌てて振り返る。クロウリーがいつの間にか立っていた。黒い羽根のような肩掛けを揺らしている。
「クロウリーさん!すみません騒いでしまって。お仕事終わられたんですか?」
「ええ。本日の業務は終了です。生徒達は皆さん寮に戻りました」
「そうですか。お疲れ様です。お昼のサンドイッチありがとうございました。とても美味しかったです」
「そうですか。あれは学園の購買で販売されているものですから、気に入ったならまた買ってきますよ。貴女は今日はどうやって過ごしていましたか?最低限の説明しかできませんでしたので時間を持て余しているのでは無いかと心配していました」
「貸してもらっている部屋の確認と、後は此方の玄関前の所は触っても大丈夫というお話だったので、彼らに相手をしてもらっていました。私には動く家具というのが珍しくて……」
「そうでしたか。退屈していなかったら良いのです。夕飯にしようと思いますが、お腹は空いていますか?」
「はい!」女の明るい返事にクロウリーは笑みを深めた。
「それは良かった。此方に。食事は大体はこの部屋で取ります。食事の用意は料理の得意な使い魔がしますので味は保証しますよ。ああ、アルコールは嗜まれますか?」
「はい。飲めますが」
「大体は食事に合わせたワインですが、他のお酒もありますよ?どうします?」
「ではワインを。クロウリーさんと同じものを」
「ええ。良いでしょう」
 クロウリーに食事部屋まで案内されて、促されるまま向かい合って席につく。席には既にカトラリーの類が並べられており、配膳の準備は整っていた。
 クロウリーが机に置かれたベルを鳴らすと、食事が運ばれてくる。
 小さな生き物たちがワイングラスを運んで来て、グラスにワインを注いでくれる。丸くふわふわした生き物だ。これがクロウリーの使い魔なのだろうか。それから前菜とスープが来て、クロウリーと軽く乾杯する。
「いただきます」
「ええ、召し上がれ」クロウリーが優しく応える。彼も食事の時は落ち着いているようだ。軽くワインに口付けて、その軽さに驚く。口当たりの良いワインだ。それなりに良いものだろう。といってもこの世界の常識が分からないのであくまでも女の感覚では、だが。食事も豪華だ。後からフィレ肉のソテー、ムール貝のレモンバター焼き、鯛の酒蒸し等豪華なメニューが次々と現れる。
「こんなに沢山……何時もこんな食事を?」
「いえ、今日は貴女がやってきた日ですから特別、腕によりを掛けさせました。私、優しいので」
「そんな、ありがとうございます。でもあの、私、此処でお世話になって何をすれば良いのでしょう。なにか役に立てることがあると良いのですか。今日確認したところ此方の文字も読めないようで、書類整理のようなお手伝いは無理だというのは分かったのですが……」
「おやおや、そんな事まで気にして下さっていたんですね。焦ることはありませんよ。私、優しいので。そうですね、貴女には家の事を任せたいと思いますから、先ずはこの家で過ごすのに慣れて下さい」
「分かりました。この家でのルーティン作業などがあれば教えて下さい」
「そうですねぇ、朝、私が起きて来たらコーヒーを淹れてくださると嬉しいです。あと新聞も持ってきて下さい。昼は基本戻りませんから、好きに過ごしていただいて、夜はこうして一緒に夕食を取る、と言った所でしょうか」
「掃除洗濯等は?」
「使い魔がやりますので気にしなくていいですよ。強いて言うなら仕事から帰ってきた私を労ってくださると嬉しいです。毎日生徒達に振り回されて大変なんですよッ!」
「あらあら、話を聞くくらいでしたら出来ますので何でも仰って下さいね」
「はあ、貴女を見てると癒やされますねぇ。自宅に美人の妻がいて労ってくれるというのが最近の夢だったのです」
「あら、あんまり美人じゃなくて申し訳ないんですけれども、お話は聞けますよ」
「貴女は美しいですよ、とても」口は上手いようである。
「ふふ、ありがとうございます。学園の生徒はそんなにお転婆なんですか?」
「お転婆なんてものではありません。うちの学園の生徒と言ったらどうしてこうも悪知恵が働くのか!先日はイグニハイド寮生がテストの答案データをハッキングしようとするし、マスターズシェフという、料理の単位を取る科目では、どの生徒も審査員を買収しようとするし。全く、いくら規則を作ってもイタチごっこなんですから!」
「それは、凄いですね……学校のセキュリティにハッキング出来る能力と、審査員を買収出来る交渉力は凄いですけど、学校の授業の目的からは遠ざかってますね」流石はナイトレイブンカレッジ生。やる事が学生ではない。
「そうなんですよッ!全く!悪賢いんですから!」
 貴方に似たのでは?と思うが黙っておく。学園の生徒達は時代が違っても相変わらずの様だ。流石は、ヴィランの学校。
 慣れない場所でアルコールを摂取したせいか回りが早い。熱っぽい頭で今後の事を考える。思ったよりもクロウリーは女に優しく接してくれている様だ。何か思惑があるのか、泳がせているのか分からないが、随分と贅沢な暮らしをさせてくれるつもりのようである。居候と云うよりも、賓客の様な扱いだ。不思議な心地で言葉を交わしながら食事を摂る。異世界からやって来た女の立ち位置が分からない以上、丁寧に扱っておくつもりなのかもしれない、何にしろ女にはありがたいことだった。その待遇が少しでも長く続く事を祈るしか無い。
 クロウリーの仕事の話を興味深く聞きながら晩餐は穏やかに終わった。
「着替え等も必要でしょうから、明日は生活必需品を購入しに行きましょう。学園の事は他の教員に任せて来ましたので、私も一緒に行きますよ。私、優しいので」
「本当ですか?ありがとうございます」
「いえいえ、貴女にとっては何もかもが初めての事で、一人では心細いでしょうから、何でも聞いて下さいね」
「助かります」
「ああ、貴女の部屋に使い魔を出入りさせても宜しいですか?部屋の整頓や掃除をさせますので」
「それは勿論、構いません」
「そうですか!では、仕度等も彼らが手助けしてくれますので、気軽に言いつけて下さいね。では、おやすみなさい」
「はい。ありがとうございます。おやすみなさいクロウリーさん」
 食事の後はクロウリーが宛がわれた女の自室まで送り届けてくれる。
 胡散臭い相手だが、何もわからない異世界で、形だけでも親切にしてくれて、質問に答えてくれる相手がいるのは心強かった。部屋の前で一礼して別れる。内心は分からないが、別れ際に口角を上げクロウリーは去っていく。黒い羽が揺れるのを見送って女は自室の扉を開けた。
 食事を取っただけなのに、気疲れしてしまった。クロウリーは威圧的な態度を取ったりはしないが、知らない相手との会食はそれだけで疲れてしまう。相手が得体のしれない魔法士となれば尚更。どの様な人物か、概要だけは知っているものの、実際に向き合って話をするとなれば全く勝手が違う。何を言っても見透かされている様な気がして終始クロウリーの顔色を伺っていた。それでも上手く出来たかは分からない。失礼な態度は取っていないつもりだが、だからといって気に入られる様な要素もない。溜息をついて大きなベットに転がる。
 潜り込んだベッドのシーツは糊が効いて皺一つ無かった。滑らかな表面に横たえられた肉体が自分のものではないような気がする。豪華な屋敷の一室で、一人で寝るには広いベットの上で寝転がっている己は本当に存在するのだろうか。夢なのでは無いかと想いながらも、柔らかな毛布を掴む手には現実の反発がある。指先に力を入れる度に跳ね返ってくる感覚が女を現実に引き戻す。
 頭の中の混乱が形となったように女の頬を涙が伝った。 
 
2 街へ出よう 
 朝日が差し込んできて目が覚める。ぼんやりと天井を見上げると、白い彫刻が目に入った。何処かの教会にでも有りそうな彫り物を眺めながら、女は昨日の事を思い出す。ああ、此処は家ではなかった。ディア・クロウリーの屋敷の一室。息を吐いて女が起き上がると、小さな妖精が辺りを飛んでいるのに気付いた。クロウリーが昨晩言っていた使い魔とやらかと思い出す。
「おはようございます」女の挨拶に応えるように、光の粒を撒き散らしながら手のひらサイズの妖精が宙を舞う。言葉は返ってこなかったが、微かに笑った様な気配がした。妖精たちが四羽で四隅の角を持つようにして黒い塊を運んで来る。女の手元まで運んで来られたそれを受け取った。
「黒い、ワンピース?下着もある……」無駄な装飾のないシンプルな黒いワンピースに、これまた黒い下着のセット。スッキリとした見た目は飾り気が無い分シルエットが綺麗に見えた。洋服の下にあった紙箱には黒いハイヒールが入っている。この世界に来たときは、室内履きのスリッパだったので助かった。。屋敷の中は問題無いが、スリッパで外に出るのは躊躇いがある。ヒールも大分歩きにくそうではあるが。
「これ、着ていいの?」恐らくそうだろうと思いつつも運んで来た妖精達に向かって尋ねる。再び彼らが笑うような気配がして、光がぱちんと弾けると何処かに消えた。慌てて辺りを見回すが既に居なくなった様である。
 クロウリーといい、妖精たちといい親切だが気紛れのようだ。
 シャワーを浴びて用意された服を着る。ワンピースは些かタイトなつくりだが、肌触りの良い素材で動きやすい。
 朝、コーヒーを淹れて欲しいと云う様な事をクロウリーが言っていたのを思い出して部屋を出る。炊事場は何処だろうか。一先ず、昨晩食事をした部屋まで出て行くと、既に起きていたらしいクロウリーが椅子に腰掛けて新聞を開いている。クロウリーは部屋に入ってきた女に気付いて立ち上がった。
「おはようございます。おや、よくお似合いですね。昨晩、出掛ける約束をしたは良いですが、当日着る物も無いということを思い出しましてね。妖精たちに届けて頂いたのです。ええ、構わないんですよ、私、優しいので」
「助かりました。何から何までお世話になってしまってすみません。何時かお礼をさせて下さい」女が頭を下げる。クロウリーは気にしていないと云う様に手を振って応える。
「ええ、ええ。お気持ちだけで充分ですよ。自分の家だと思って寛いでくださいね。何も遠慮は要りません」
 本当にディア・クロウリーだろうか。あまりにも親切過ぎて怖い。
「ありがとうございます。そうだ、朝のコーヒーを淹れると云う様な話を昨日していましたよね?クロウリーさんの所に用意して持っていこうと思ったのですが、場所も段取りも分からないので聞きたいと思って。もう済ませてしまわれました?」
「ああ、覚えていて下さって嬉しいですよ。実は教えようと思って、貴女が来るのを待っていたのです」
「なら、お待たせしてしまいましたか?すみません逆に気を遣わせてしまって」
「いえ、私も家族が増えるのは楽しいですからね。はしゃいでしまって早く起きてしまったのです」クロウリーがお茶目っぽく答える。
「ふふ、そうでしたか」
「先ず新聞の場所ですが、今日は私が取ってきてしまったのですが、昨日入ってきた玄関の前に朝になると置いてありますので回収して此方に置いておいて下さい。それからコーヒーは一緒に淹れましょう」クロウリーに促されてカウンターの奥の炊事場に入って行く。戸棚に豆とミールが置いてある。クロウリーが慣れた手つきでそれらを引き出す。
「食事の準備なんかは使い魔達に任せてしまうのですが、この朝の時間は彼等の契約外でして。朝のコーヒータイムと軽い朝食は自分で準備しています。貴女にはそれをお任せしたいのです。此方にあるものは好きに使って良いですので。何か必要なものがあれば私にでも、使い魔でも言っていただければ用意します」
 契約時間外なんてものがあるのか。使い魔と云うものを何でもいうことを聞いてくれる便利な存在かと思っていたがそう云う訳でもないらしい。よくわからないので、困った事があればクロウリーに直接相談しよう。
 クロウリーは同じ棚から引き出したフィルターをセットして、弾いた豆を蒸らして透明なポットに落としていく。茶色の液体がポツポツと溜まっていく。コーヒーの淹れ方は女のいた世界と変わらないらしい。これならば出来そうだ。
「成程。今日は、朝食は召し上がられますか?簡単な調理なら私も出来ますが……」
「おや、ではお願いしましょうかね。材料はそこの冷蔵庫に入っているものを使って下さい。バゲットはそこの籠に入っています」クロウリーが指す方を確認して、冷蔵庫の中身を軽くチェックする。卵とべーコン、トマトがあるので。軽く火を通して並べるだけでも朝食らしくなるだろう。それからバゲットを温めてバターを塗れば完璧だ。
「クロウリーさんは何かお嫌いなものはありますか?」
「辛いものが苦手ですかね、それ以外は特にありませんよ」
「分かりました。ではすぐ出来ると思いますので、コーヒーと一緒に持ってきますね」
「ええ、では私は向こうに行っています!いやぁ、貴女は出来る奥様になりますねぇ」調子のいいことを言う。煽てても何も出ないのだが。
「まさか。作ってみますがお口に合わなかったら申し訳ありません。料理が得意という訳でもないので……」
「良いんですよ!それこそ、これから出来るようになれば良いんですからね」
 何故かウキウキした様子のクロウリーはご機嫌に炊事場を出て行く。朝食の準備を他人に押し付けることが出来て嬉しいのだろうか。基本的に魔法で済ませていることの多い家の事をこれで完全に外注出来るので彼としては楽なのかもしれない。
 一つ一つが難しい事では無いが、毎日の家事というのは侮れない。疲れているときなんかは立ち上がるのも億劫になるのだから、他人にやって貰えればと願う事が女にもあった。フライパンに火を入れて、手早く卵とべーコンを炒める。野菜室から取り出したトマトを切って付け合わせた。温めたバゲットにバターをのせるとそれなりに朝食らしいものになった。
 食器棚からトレーを取り出して載せ、コーヒーと共に運んで行く。簡単なものだが最初はこの位で良いだろう。量や味付けの調整はクロウリーの反応を見ながら変えていこうと思いつつテーブルに二人分用意する。
 勝手ながらご相伴に預かるつもりである。家族が増えて嬉しいと言ったクロウリーに、彼の分だけを用意するというのも、給仕の仕事の様で変だと思ったのだ。家族と言うなら親しみを込めた振る舞いをする方がいいのだろう。
「簡単なものですが。好みじゃなければ教えて下さいね。今後直していきますので」
「美味しそうですね!誰かがつくった食事というのは良いものですねぇ!それに一緒に食卓を囲んでくれる相手がいるというのも久し振りの事です」
「それは良かったです。いただきます」
「いただきます」女に倣ってかクロウリーも手を合わせる。如何にも洋風の紳士(というには仮装感が強過ぎるが)が日本式の食事の挨拶をする様子はチグハグである。
 喜んで朝食を口に運ぶクロウリーを見て女は微笑む。コーヒーが冷めないうちにと、手早く仕上げたが今度は少し手の込んだものを用意してみよう。和風の食事は好きだろうか。
「少なかったですか?どれくらい食べられるか分からなかったので。朝ですから全体的に少なめにしたのですが」
「いえ、丁度いい位ですよ。味付けも丁度いい」バターをたっぷり塗ったバケットを頬張りながらクロウリーが応える。
「そうですか良かったです。バゲットが置いてあると云う事は何時も朝食はパンですか?和食も食べられます?明日からのメニューどうしようかと思いまして」
「私は料理が得意というわけでもありませんので作りませんでしたが、和食も好きですよ!つくって下さるので?これは毎朝楽しみですねぇ」
「そうですか。良かったです。でしたら時々は和食も用意しますね。今日お買い物に出るならば食材を買い足しておいても?」
 女の生活必需品の買い入れと言っていたが、流石にそれだけは心苦しい。金を出すことになるのはクロウリーなので、この提案も彼に金銭的な負担を強いる事には違いないがそれでもクロウリーの為にもなる出費の方が女の気持ちの上での負担が少ない。それに、朝食づくりはこの屋敷での主な女の仕事になる様なので気合を入れて臨みたい所だ。クロウリーも女の提案にご機嫌である。
「ええ、勿論ですよ!いやはや優秀な嫁がきて嬉しいですねぇ!おっと失礼!ええ、それくらい貴女を歓迎しているという事ですよ、私、優しいので」
 嫁という歳なのだろうか。娘とかでは無く?と思ったが口には出さず、曖昧に微笑んでおいた。冗談なのか本気なのか。目の前の年齢不詳の鴉は、何なら人なのかも分からないので答えようも無い。

 クロウリーと談笑しながらの朝食を取り終えて、食器を片付ける。クロウリーと女は準備を終え次第、玄関前に再集合する運びとなった。
 といっても女の準備は何も無いので、自室の洗面台で軽く髪を整える位しかする事がない。クロウリーの許しが出れば基礎化粧品位は買わせてもらおう。一息ついてお手洗いを済ませて部屋を出る。
 今後どうなっていくのかは分からないが今はクロウリーの善意に甘えるしか無い。本当に善意なのか、何か意図があってものもなのかは不明だが何とかなっていくだろう。そうでなければこの賢者の島でのサバイバル生活に突入するかもしれない。元いた世界でも望みたくはないが、謎の魔法植物が繁っているであろう野山での生活は特に遠慮したい所だ。
 しかし、今の所はそんな気配は無い。と云うよりも、あまりにも丁重に扱われていて此方の方が恐縮してしまう。何処かに売り飛ばされるなり、門の外に捨て置くなりされても可笑しくないのだが。もし自分が見ず知らずの人間を拾ったとしても、此処までしてあげられるだろうか。彼が裕福だとしても、度を越している気もする。適当なボランティア団体や行政のセーフティにでも投げてしまえば良いものを。それとも、異世界人を学園に紛れ込ませてしまったというのはクロウリーが管理責任を問われたりするのだろうか。魔法が使える彼と違い、私に何か特別な力がある訳でもない。それとも来世に向けて徳でも積んでいるのだろうか。案外思惑など無く、丁度、食事時の話し相手が欲しかったとかそんなものかもしれない。邪魔になったら追い出せば良い。仮面をつけた魔法士の真意は分からないが、享受するのが今の最善であるとは思う。

 階段を降りて玄関前に向かうと、クロウリーが立っている。何時もの仮面にハット、羽根のような肩掛けを羽織り、仕立てはいいが些か舞台掛かった装いだ。このファッションが当然に許容されている世界というのが女には受け入れ難いが、翠掛かった艷やかな黒髪の仮面の男に違和感は無い。彼を見ていると、こうあるのが当然という気がしてくる。
「では、行きましょうか」
「はい。宜しくお願いします」
 クロウリーに手を差し出される。昨日と同じ空間転移かと思い、手を重ねる。何処かに飛ばす様なヘマはしないと言っていたが、それでも不安でクロウリーの腕に張り付く。クロウリーが此方を向いたような気配がしたが、私はそれどころではない。身体がバラバラになったりしたら困るので此処はしがみつかせてもらう。不安な気持ちを察したのかクロウリーも手を強く握り直してくれる。何やら腕を組むような形になったが仕方無し。
 空間が捻れて、浮遊感を感じる。目を開けると裏路地に出た。
「此方ですよ」
「あ、はい」繋いだままの手をクロウリーに引かれて歩き出す。迷子の子供のような格好だが、クロウリーに離す気が無いのなら態々振り解くのも憚られてそのままにしておく。裏路地を出ると西洋風の街並みがあって、街頭には店が並んでいる。飲食店からブティックまで様々だ。海外旅行にでも来たような気分である。
「さて、先ず服を揃えましょうか。と言っても私も女性用の服には馴染みがありませんのであまり詳しくは無いのですが。行き付けの店が女性服も手掛けていた筈ですから少し聞いてみましょう」
「はい!よろしくお願いします」行き付けの店、なんて一度は言ってみたい台詞である。街を歩いていると、そこかしこから視線を感じる。
「あれ、学園長じゃね?」「女と手繋いで歩いてる……彼女?」
「奥さん?結婚してたのか学園長って」「寧ろ、愛人?」言いたい放題である。年若い男数人のグループだ。恐らくナイトレイブンカレッジの学生なのだろう。学校に行っていないのか?いや、何かの研修で外に出ているのだろうか。何にしても、勝手な噂を立てられているようである。良いんだろうか。
 隣のクロウリーをチラリと見るが、楽しげに歩いているだけである。口角は上がっているが、黒い仮面をしているので何を考えているのか表情からは分からない。学生達の噂話が女に聞こえているという事は、彼にも聞こえていることだろう。彼が咎めないのならば女が何か言うのも憚られる。
 知らない振りをして歩を進める。その方がやましい事など無いのだと示す事になるのかも知れない「いやぁ、こんな綺麗な人が奥さんだなんて照れちゃいますねぇ」生徒達から少し離れてクロウリーが呟く。しっかり聞こえていたらしかった。心なしか喜色が滲んでいる。
「あ、やっぱり聞こえてたんですか?良かったんですか?ナイトレイブンカレッジの学生かと思ったんですがクロウリーさんは敢えて触れなかったのかと思って……」
「そうですね!我が校では生徒達の自主性を重んじているので」
「成程」サボりの黙認?まあ、私が口を挟むことではない。実際、机の上で学ぶ事より、外に出て実体験で学ぶ事も多いだろう。

「さ、此方ですよ」クロウリーが立ち止まった店は、煉瓦造りに金細工が施された大きな硝子張りの店だった。ショーウィンドウには赤いチェックのスーツの男性のマネキンと、深いグリーンのドレスの女性のマネキンが並んでいる。どちらも立派な仕立てだ。「随分と立派な店構えですけど、その、高いのでは?」
「まあ、良いものの値が張るのは仕方のない事です。貴女が気にすることではありません!さ、入りますよ」そんな事を言われても気にするのだが。
 よく分からないまま品の良いテーラーに採寸される。何が出てくるのだろうか。サイズを測られても一体何をつくられるのかも分からない。レディーススーツを仕立てれらるのだろうか。クロウリーと並ぶことを考えるとスーツに違和感は無いが、居候の朝食作りがスーツと云うのも妙な感じがする。私と並んで歩くのだから、きちんとした格好でいて下さいということだろうか。というか、生活必需品の最初に用意するのがスーツというのは庶民とは大分感覚が違う気がするのだが。
「そっちのネイビーの方が良い気がしますねぇ。貴女はどちらが良いですか?」
「私もこの二つならネイビーですかね……」ダークグリーンとネイビーの布を充てられながら応える。確かに素敵な生地だが、スーツの前に寝間着とか下着とかが欲しい。買ってもらう身分で文句を付けるのも烏滸がましいので何も言わないで付き合っているが、今後が不安であまり集中できていない。ちゃんと普通の服は買ってもらえるのだろうか。
「じゃあ、次に行きましょう!」店を出てクロウリーに付いて行く。今度こそ普通の量販店に向かって欲しい。歩き出す前に何故か再び手を握られた。迷子になると思われているのだろうか。別に困るわけでもないのでそのままついて行く。

 着いたのはランジェリーショップ。鮮やかなピンクの看板。表にディスプレイされたカラフルな下着達は確かに可愛らしいが、何故こうも高そうな店ばかりなのか。黒い総レースのブラとショーツがスタイルの良いマネキンに掛かっているのを眺めつつ顔を引き攣らせる。
「いやぁ、こういう店に入ることはないので緊張しますねぇ」
「……まあ、そうですよね」男性なのであまりピンときていないのだろうか。いや、私が知らないだけで案外手頃な価格帯の店なのかも知れない。この世界の女性用下着事情等は知る由もないのだ。クロウリーが恥ずかしい思いをしながらも連れてきてくれたのだから、此処は厄介になろう。私も下着のない生活は耐え難い。
 店に入ると女性の店員が声を掛けてくれる。
「どの様なものをお探しですか?」
「あの、普通の下着を……」
「サイズは分かられます?」
「いえ」元の世界ならともかく、この世界でどう風に測るのかは知らない。女が首を振ると店員が安心させる様に微笑む。
「では先ず測りましょうか、お連れ様は此方でお待ち下さいね」
「はい、いってらっしゃい」女と対象的に陽気なクロウリーは女性下着に囲まれながら興味深そうに眺めている。女性用下着の専門店に大柄な男性という物凄い違和感をものともせず堂々とした佇まい。見習いたいくらいだ。
 サイズを計測してもらった後、女性店員に声掛けされて幾つか下着が持ち込まれた。ディスプレイされていた黒いレースの下着に、ラインストーンが沢山付いたブラ等が店員の持って来た籠一杯に詰められている。
「お連れ様がこういうのはどうでしょうかねぇ、だそうです」
「く、クロウリーさん……」
「光り物がお好きらしいですよ」
「はぁ……ええ、可愛いですよね、ハイ……」これはどうすべきなんだ?女性のブラを選びたがる男に会った事がないので正解が分からない。しかし、選んで持ってこさせたという事はそれなりに好みがあるのだろう。身の回りにいる人間にも自分のファッションを押し付けたいタイプなのだろうか。見えないないのに?好みのパンツとブラを履かせてどうするんだ?特に深い意図がある訳では無く、折角来たから選んでみたのだろうか?いや、女が遠慮するのを見越して見繕ったのかも知れない。親切が明後日の方向に向かってしまったのか?試着室で頭を抱える。完全に深読みして沼に嵌っている。
 一先ず試着して、着れるものは残そう。どうせサイズ感が合わなければ着用する事は出来ない。
「サイズ等如何ですか?」試着室で着ては脱ぎを繰り返していると外の店員から声が掛かる。
「あ、はい、大丈夫です」籠に残った下着の束をどうすべきなんだ。サイズは確かめたが、ついでにタグの値段も確認した。この世界の通貨の価値が分からない以上ハッキリとは分からないが、高い。何なら零が多い気がする。
 女の金銭感覚では、自分へのご褒美に買うかどうか迷うくらいの値段だ。最低限、数種類買うとしてもそれなりの出費になる。しかし、此処を逃して今後の生活に下着が無いのはもっと嫌だ。やむを得ない。他人の金で買えてラッキーだと思う位の強い心を持とう。
 試着を終えて外に出ると、店員と少し離れてクロウリーが立っている。
「如何でしたか?」店員が笑顔で尋ねた。
「はい、この辺はサイズ的には問題無いかなと……」女は選り分けていた下着の束を指す。ここから幾つか減らして絞るつもりだと言う前にクロウリーが楽しげに言う。「そうですか!ではそれを全部包んで下さい」
「え?そんなに要らないと思いますが……」
「替えも必要になりますから、買っておいて損はないでしょう!お洒落は見えない所からとも言いますし、構いませんよ、私、優しいので」
「……すいません、ありがとうございます」気遣いが明後日の方向な気がするがありがたい事だ。何故、異世界最初の買い物でスーツと勝負下着を買っているのだろう。もっと地味な、ラインの響かない様な物でいいのに。それとも男性にはいまいち想像がつかない故のミステイクなのだろうか。まあ、下着なし生活は回避できたので無問題だ。そういう事にしておこう。
「ふむ、一息ついて昼食でも食べましょうか!」
 クロウリーの提案に頷いて、近くのカフェに入る。慣れないせいでドッと疲れた。この世界にも、クロウリーにも未だ慣れない。それでもお腹は空くもので、ランチのパスタを頬張った。クロウリーは金属の飾りの付いた指先で器用にフォークを持ち上げて麺を口に運ぶ。曲芸の様である。
「後は、普段着と日用品ですかねぇ。ショッピング・モールがあるのでそちらに移動しましょうか。それなら一気に済みますから。私が付いて回ると買いにくいものをあるでしょうから後で現金をお渡ししましょう」
「……はい。お気遣いありがとうございます」
 最初っからショッピング・モールだけで良くなったか?初手でスーツと下着を買ったのは何だったんだ?いやもう考えるのは止そう。ここは異世界。女の常識は通じない。女は蟀谷を抑えつつ、引き攣った笑顔を浮かべる。
 昼食を終えて、クロウリーと女はショッピング・モールに移動する。女の知るショッピング・モールとそんなに変わらない。内装が洋風な感じがするが、強大な箱の中に専門店が其々並んで人が行き交いする様子は懐かしさすらある。
「では、一時間後に集合としましょうか。買い忘れがあればまた来ればいいですし、一先ず必要そうな物を揃えてきて下さい。予備の携帯を渡しておきますから何かあったらすぐに連絡して下さいね。渡したお金は好きに使って下さって良いですよ、私、優しいので」
 クロウリーからマドルの束を渡されて、一時解放された女は安堵の息を吐く。クロウリーは優しく接してくれるが、殆ど知らない相手とずっと一緒に過ごすのはそれだけで疲れる。しかも、クロウリーは女の生殺与奪権を握っているのだ。緊張しない方が可笑しい。

 しかし、一時間で買い物を終えないといけない。洗面用具からクロウリーに買ってきてもらうのが憚られると云えば生理用品とかだろうか。思い付くものを片っ端から籠にぶち込んで会計する。
 普段着用の服に、スニーカー、鞄、シャツに靴下、化粧品に紙とペン、辞書に簡単そうな文字の本。それから食料品を少し。クロウリーに教えられた通りに最低限以外は屋敷に郵送の手配をする。こんなに色々なものを買い足すのは一人暮らしを始めた時以来だ。高いか安いか吟味している時間もない。クロウリーに借りた携帯で時間を確認して、きっかり一時間で集合場所に舞い戻る。やりきった感が一杯であるが、他人の金で買い物しただけで何も成してはいないなと女は自嘲する。
 集合場所である大きなからくり時計の下に付くと、クロウリーは近くのベンチに腰掛けてテイクアウトのドリンクを啜っている。
「クロウリーさん、お待たせしました」
「いえいえ、私も今戻った所ですよ。買い物は出来ましたか?」
「はい。一通り出来たと思います。本当に何もかもありかとうございます」
「いえいえ、良いんですよ。貴女を家に置くと言ったのは私ですからね」
 にこやかな返答に悪意は感じられない。しかし何となく居心地が悪い。恩を売られっぱなしというのは堪える。あくまでもクロウリー個人の良心と親切心に支えられているだけの薄氷の上の代物というのがまた女を不安にさせる。すぐには無理でも自活能力は早めに身に付けないといけない。他ならぬ女自身の心の平穏の為に。
 決意を新たにしても現状がいきなり変わることは無い。何かを成すために最も無駄な事は決意を新たにすることだとはよく言ったもので、気持ちが盛り上がっても行動か伴わなければ何も変わらない。そして行いを積み重ねる事は地味で大変である。
 クロウリーが一息ついて女に手を差し出す。「さて、一通り終わりましたかね。初めて来る場所で疲れたでしょう。屋敷に戻りましょうか」
「はい。でも、色々と、新しい事が知れて良かっです。連れてきて頂いてありがとうございます」
 クロウリーが軽く頷いて、繋いだ手から光が飛び出す。空間が捻れて、視界が反転していく。
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