人魚の恋
フロイドの誘いでオクタヴィネル寮にやってきた女とフロイドであるが、女が早々に水中にある建物に見惚れて足を止めた。
フロイドとしては、自分の料理の腕前に惚れ惚れして欲しかったのだが、女が楽しそうに光が反射する水面を眺めているので強引に引っ張っていくのを躊躇していた。
眼下から立ち昇ってくるあぶくが、光を反射しながら通り過ぎるのを女はずっと眺めていたい様子だった。
うっとりする女の顔を眺めいるのはフロイドも満更ではなかったが、その顔を向けて欲しかったのはフロイド自身であり、あぶくではない。
適当な所で声を掛けた。
「水の中、気に入ったならまた連れてきてあげるから、取り敢えずラウンジに移動しようね〜」
「はい!すみませんつい、物珍しくて。寮自体が水族館みたいでずっと見ていられそうですね!」
「そっかぁ」
フロイドには水中に面白いものなど無いが、女にはそれだけで楽しいらしかった。フロイドが、陸に上がっですぐに、何もかもが珍しく、面白かったのと同じだろうと考えた。
他人の心を慮り、待つなど普段のフロイドからは考えられないが、女と一緒にいる事に価値を見出しているフロイドにとっては特段問題ではなかった。
なお、その様子を見た通りすがりのオクタヴィネル寮生は、この後どんな惨劇が起きるのかと冷や冷やしながら、巻き込まれまいと足早に通り過ぎた。
思わぬ所で時間を食ったが、女が水を恐れていないのは良い傾向だと思った。人魚のフロイドと水中での生活は切っても切れない。陸で暮らすにしても、女の抵抗感が強ければ今後難儀しそうだと考えていた所である。フロイドならば何とでも出来るが、出来ることなら女にはフロイドのことも、フロイドの故郷の事も好意的に捉えて欲しかった。
「行こっかぁ~」
「はい!」
フロイドは女が水中を眺めいる間、離していた手を当然のように繋ぎなおして、ラウンジに向かって歩き出した。
女は少しだけ驚いたが、こういう文化圏なのだと自分に言い聞かせて、折角なので存分に楽しむ事にした。別段、困ることもない。己の心拍数がちょっとばかり上がるだけだ。
女には知らない事が一杯なのだ。
モストロラウンジ
学生が運営するとは思えない、高級感のある外装。外装に負けない、ボリューミーだが、高見えする料理。雰囲気を壊さない、しかし重厚すぎない様に考えられたのか、店内には軽快なジャズが流れている。
海の中を模した装飾が煌めいて、不思議な光を放っていた。
女の手を引いて、フロイドは人目に付きにくい奥のソファー席に女を通した。
女は、座り心地のいい革張りのソファーに腰掛けながら、想像以上に完成度の高いラウンジに感心していた。
学生がつくるカフェとは思えない造り込みに、アズール・アーシェングロットへの尊敬の念が湧いてくる。女は何かを創造する人間が好きだった。
薄暗い店内の中央に鎮座する、巨大水槽が幻想的な雰囲気を醸し出している。
ほうっと息を吐きながら、フロイドに誘われなくても、何度でも足を運びたい空間だと思った。
「ちょっと待っててねぇ〜俺のおすすめ出すつもりだけど、他にも食べたいものあったら頼んでいいからねぇ♡」
「はい。何から何まで、ありがとうございます。」
フロイドは、ここまで来る間に女の食の好みは聞き出していた。とっておきの一皿を出すべく、頭の中で食材の組み合わせを考えていた。
フロイドが、居ない間、女はぼんやりとモストロラウンジ店内を観察した。
非常によくできている。
空間の使い方が上手い。
高い天井と、真ん中に置かれた巨大水槽が、実際の店舗の広さ以上に空間を見せている。そして、他の席の客と、視線が合わないように絶妙にずらされた席配置。彼らの店舗経営は、学外でも成功するだろうと思えた。この繁盛具合なら初期の設備投資は分既に回収したのだろうか?食事の原価率は幾らだろう。現実世界だったら、早めに出資しておきたい優良企業だった。株式公開したら買わせてほしいなと早々を膨らませたくらいで、今はそんな事できる余裕も無ければ、そういった仕組みがあるのかすら分からないので夢のまた夢だと、小さくため息をついたのだった。
そんな事を考えていると、それを聞くことが出来る人物が都合よく現れた。
アズール・アーシェングロットである。
アズールは、女にさして興味は無かったが、何がどう転ぶか分からない世界で、商売人として顔を繋いでおいて損はない。そんな気持ちで、女に声をかけたのだった。
「こんばんは。はじめまして、このモストロラウンジの支配人にして、オクタヴィネル寮の寮長をしている、アズール・アーシェングロットと申します。以後お見知り置きを。貴方の事は、フロイドからお聞きしています。」
「はじめまして。私もアズールさんのことはフロイドさんからお聞きしていました。素敵なお店ですね。内装から、調度品まで、作り手のこだわりを感じる良いお店だと思います。」
「!ええ、わかりますか!?店のイメージに合わせて殆どの品をオーダーで発注したのですよ」
「そうなんですね。素晴らしいです!あの、こういう事を言うと何ですが、資金繰り大変だったのではないですか?飲食店は初期投資が大きいですよね。それにこれだけの品を揃えるとなると…あ、魔法で何とかなる部分もあるのですかね?すみませんそのあたりは無知でして…」
「ああ、貴方は魔法が使えないのでしたね。貴方が思っている程に魔法は万能では無いのですよ。お察しの通り、立ち上げが一番大変でしたね。学生で、何の実績もないしかも陸に上がりたての人魚に大口の出資をしようという人間は少ないですからね。しかし、いる所にはいますし、資本家は常に優良な出資先を探しているものです。」
「そうなんですね。ふふ、アズールさんなら出資者を納得させられるだけのプレゼンが出来そうですよね。お料理はまだなんですけど、この店の空間づくりが素晴らしいと思いました。天井を高めにして実際より店を広く見せたり、客席が客の視線が合わないように配置されてるところとか、圧迫感が無いように、観葉植物を配置したり、よく考えられつくられてるのを感じます。ああ、絵画の配置も素敵だと思いました、目線の高さに配置してあって、照明の角度も調整されていて、画廊でもないのに、ここまで作品をしっかり魅せているお店も珍しいですよね。ふふ、お料理もきっと美味しいでしょうね。」
女は、脳内で出しゃばりすぎ、喋り過ぎだと己を叱咤したが、回り始めた口は止まらない。魔法のことも、この世界の常識も分からないが、何となく知っている知識で話ができた気がして高揚していた。
それはアズールも同様だった。自分のこだわりを理解する人間は心地が良い。それに、特に期待していなかったが、女はかなり『使える』可能性出てきた。
「そこまで理解していただけるとは!支配人としても嬉しい限りです。今日は楽しんでいってくださいね。それとは別に、一度ゆっくりと“商売”のお話をしませんか?貴方の世界にしかないものの話を聞いてみたいのです。勿論、有用な案があれば対価はお支払いします。」
「いいんですか?楽しみです。私もこの世界の商売の仕方に興味があります。この世界に来て日が浅く、何も分からないので、基礎的な所からご教示いただけますと幸いです。」
「利害が一致したようで何よりです」
アズールと女が、にっこりと微笑みあっていたところで、寮服に着替え、飲み物と前菜を運んできたフロイドが割って入った。
「何話してんのぉ」
フロイドが、大きな体躯を揺らしながら慣れた手付きで皿を並べる。
さなか、アズールに視線だけを寄越して、『何、他人の雌にちょっかい出してんだよ』と不快を示す。
アズールは肩をすくめて答えた。
「おや、フロイド、新規のお客様に挨拶していただけですよ」
「ふぅん、この子はオレのお客様だから、タコちゃんはあっちいってていいよぉ」
「はいはい、嫉妬深い男は嫌われますよ」
「ほっとけ♡締めんぞ♡」
フロイドは、女の手前暴力に訴える事は無かったが、青筋を立てながら女に見えない角度で中指を立てたのを見てアズールは引き下がる事にした。思いの外面白いものを見つけたが、別にウツボの恋路の邪魔をしにきたわけではない。
アズールは女に向き直って、優秀な支配人としての仮面を被ると、一礼して離れた。
「では、良い夜を」
「ありがとございます」
アズールが去っていって、女は久し振りに自分が興味のある話ができた事に高揚していた。そして、学園の生活に追われるのではなく、自分自身が興味のあることを積極的に話すという事が無かったことに気付いた。
フロイドは、女が、アズールの事を好意的にみている気配を感じ取って面白く無かった。
笑顔が引きつるのを感じながらも、努めて優しく声を掛ける。
「ねぇ、タコちゃんと何の話ししてたのぉ?」
「あ!モストロラウンジが凄い!という話をしてました。学生でこんな素敵なお店を経営されてるの凄いですよね!フロイドさんも一緒に立ち上げされたって言ってましたよね!」
「ふぅん、そういうの興味あるんだ?」
「そうですね、人が工夫してつくるものをみるのは好きです」
「じゃあ、今度はフロイドくんが工夫を凝らしたお料理をどうぞ♡一皿目は、鮮魚のカルパッチョでぇす♡」
「わぁ、美味しそうですね」
「美味しいでぇす♡」
「いただきます」
フロイドは女の興味を自身が用意した料理に移すと、女は嬉しそうに食事をし始めた。
そこからは、女の食事への大絶賛が始まった。
「うわ、凄いこれ、ソース何使ってるんですか?トマトっぽい味がしますけど、魚介の味もしますね!盛り付けはフレンチっぽい!うわ美味しい!わかってたけど美味しい!皿もいいですよね!このマットな感じに波模様っぽく釉薬がかかってるのがいいですね〜おしゃれ!!アズールさんのこだわりを感じます。こっちはジャガイモの冷製スープですか?うわ〜野菜の冷製スープってちょっといい店ででてくるイメージ!良いですねぇ!美味しい〜〜!」
「そんなにいっぱい喋れたんだぁ」
「あ、すみません興奮してしまって」
「いいよぉ♡そんだけ気に入ったんでしょ」
女は、再び喋り過ぎたと恥じたが、フロイドは驚きはしたものの、自分の料理を気に入った様子の女に気を良くした。
フロイドの目論見通り、女の胃袋を掴むことに成功したようだった。
「前菜から、デザートまで最高でした…こんなお店が学園内にあるなんて、それだけでこの学園にいてよかったと思いますね」
女は食に対する執着が強かった。
何度でも来たい、モストロラウンジ。
女は完全に陥落していた。
「あはっ、今日はフロイドさんの特別コースだから!何時もは出てこないよぉ~。だからぁ、食べたかったらオレに連絡してねぇ♡」
「うう、ありがとうございます。フロイドさんのお料理、美味しすぎました。」
「うんうん♡あ、支払い良いから、オレが誘ったんだからオレが持つって、いいから、行くよぉ〜」
フロイドは当然のように店を抜けて、女をオンボロ寮まで送ろうとしているが、良いのだろうか。そんな疑問をよそに、会計をしようとする女をフロイドが遮った。これだけの食事を用意してもらって、金も払わずに店を出るなんて、と女は青くなったがフロイドに誘導されて結局支払はしないままだった。フロイドは笑って、どう考えも一回の来店では多過ぎるスタンプを押されたポイントカードを握らせると女を店の外に引っ張っていった。
女はいくら異世界とはいえ、ここまで手を掛けるのは一後輩にする事ではないと分かっていた。それをフロイドに尋ねるべきかどうかを考えていたが、こういった問題は先延ばしにする程に複雑化するのだ。何にしろ、ここまでされた“対価”の支払が如何程になっているかを考えるとゾッとする。
フロイドは、そんな女の心中をは知らずに、意中の雌に自分が手掛けたものを食べさせるのはなかなか癖になる体験だなと考えていた。かわいい雌を自分で育てるのだ、今後もできるだけ女の食べ物は自分が用意しようと思考を巡らしていた。
女は、自分の手を引いて歩く、美しい人魚の背を見ながら、夢から覚める事を覚悟しつつ言葉をかけた。
「フロイドさんは、どうしてここまでしてくださるんですか?知り合ったのも最近ですし、客観的に見て、そこまでする理由がありません」
「なぁに?オレが構うのに理由がいんの?」
フロイドは、シャラリとチョウザメのピアスを揺らしながら振り返った。金色に輝く右目が一瞬獰猛な色を帯びたのを女は見逃さなかった。フロイドは己の行動に理屈だの、解釈だのを勝手に付与されるのを嫌うのだろうと思った。
「いえ、動機が分からないと不安になるというだけです。フロイドさんが私と遊んてくださるのは、嬉しいです。でも私には何も返せないから、フェアじゃないと思います。」
「そういう事ね。ちゃんと返してもらってるから大丈夫だよぉ。前から思ってたけど、自分の価値を低く見積もりすぎ。いい女と同じ時間が過ごせるってだけで、十分な価値でしょ〜」
予想外の答えに女は瞬いて、それからふと息を吐いた。
「…フロイドさん、モテるでしょう」
「まぁね♡」
「そう云う事なら、甘えておきます」
学生だからと甘く見ていたら、ウツボの人魚は随分大人だった様だ。してやられた気分で女はむくれた顔を作った。
「ンフフ♡かわいいねぇ♡」
「もっと貢いでもらえるように頑張ります」
女は笑って、握っていたフロイドの手を引いて腕を絡めた。積極的な女の態度に気分を良くしたフロイドは、女の方に肩を寄せて笑った。
「なにそれ、おもしれぇ~」
「ありがとうございます、フロイドさんのお陰でこの世界でも楽しい事、あるんだなって思えました。ずっと余裕無くて、焦っていたんです。」
女が目を細めてフロイドに微笑みかける。フロイドは隣で笑う女が酷く脆くて愛しいものに思えた。このか弱い人間の幸福な夢を、己が守ってやりたいと感じた。フロイドは優しく女に微笑み返した。
「そっかぁ、じゃあ、この世界の楽しい事、オレといっぱい見つけようね」
「ふふ、よろしくお願いします」
女は上機嫌でオンボロ寮に、帰った。
そして、青ざめた顔で部屋に突撃してくる監督生に遭遇した。
監督生は、今にも泣き出しそうであるし、泣くことを通り越して吐きそうですらあった。
「だ、大丈夫でしたか?!貴方がフロイド先輩に引き摺られていったと聞いて!!うう、無事で良かった!!」
「あはは、何ですかそれ?!私はフロイドさんにモストロラウンジで、お料理をご馳走になってただけですよ」
「ひぃ!モストロラウンジで!!!フロイド先輩に!!お料理を!!ご馳走に!聞くだけでも恐ろしい!!何を対価に要求されたんですか?!」
「いえ、特に要求とかはされて無いですけど」
「ひょええええ!利子が偉いことになってる?!怖い怖い怖い」
女は真実を話しているつもりなのだが、話せば話すほどに監督生の中で悪い想像が膨らんでいく様だった。フロイドの普段の行いからするとそういう評価になるのだろう。
やはり、女に対するフロイドの対応は“特別仕様”な様であった。女もフロイドの異常に好意的な態度に驚いていたが、監督生が余りにも激しいリアクションをするので冷静になっていた。まあ、フロイド・リーチであろうと、偶には女の子に優しくしたい気分の時もあるのだろう。叫び過ぎて、ゼイゼイ言い出した監督生を宥めながら、優しいフロイドに慣れてしまうと、通常運転のフロイドに戻った時に温度差で悲しくなってしまいそうだなと考えていた。それくらい、女の中でフロイドの存在は大きくなっていた。
翌朝、フロイドはまたしても、女がオンボロ寮から出てくるのを待っていた。
その日は監督生がまだ寮にいたので、女は朝から監督生の悲鳴を聞くことになった。
女ではなく、監督生に迎えられたフロイドは、昨日とは打って変わって尊大な態度で談話室まで上がり込むと、ギシギシと音を立てるソファーに腰掛け、長い脚を投げ出した。
悲鳴を上げる監督生で遊びながら、フロイドは女の身支度が整うのを待っていた。
女とは少々扱いが違うが、監督生もフロイドに気に入られているようであった。女は朝からフロイドに絞められる監督生を眺めながら、若いっていいなぁ、と今は自身も学生をしているのを忘れて暖かい視線を送った。
監督生は見てないで助けてくださいと目で訴えたが、思いは伝わらず女からは温かな微笑みが返ってきただけであった。監督生と女が視線で会話するのを見ていた、フロイドはむかっ腹を立てて監督生を海老反りにした。
「準備できたぁ?じゃあ、行こっかぁ♡」
「はい」
女が談話室に降りてくると、監督生の頭を大きな手でつかんでバスケットボール宜しく振り回していたフロイドは居住まいを正し、物語に出てくる王子様のように恭しく手を差し出した。
女は少しだけ迷った素振りを見せた後にその手を取った。
監督生は、フロイドの指の形に凹んでしまった己の頭皮を撫でながら、自分は一体何を見せられているだと困惑した。
相棒の魔獣はフロイドの到来と同時に、一目散に逃げ去っていったので、オンボロ寮には監督生一人になった。
「エース、デュース、今朝起こったことをありのままに話すぜ…」
呆然とした様子で登校した監督生は、今朝の出来事を誰かに話さずにいられなかった。かくして、フロイド・リーチに恋人ができたという噂が瞬く間に学園中に広がったのであった。
女は、その噂をあえて否定はしなかった。フロイドの恋人という立場は、女に不当な扱いをすれば暴力の制裁を受けるというのを暗に示すことが出来る。
フロイドの好意が一時の気まぐれであっても、その恩恵をあえて放棄するほど女は初心でもなかった。舐めた態度の相手には、それとなくフロイドの存在をちらつかせさえもした。ウツボの威をかる人である。
女は、当然にフロイドに恨みを持つものからの接触も想定していたが、そこは狡猾なウツボの人魚が事前に“お話”した事で事なきを得ていた。女はそれとなくフロイドの事前の立ち回りを感じていたが、そこはお互いに知らぬふりをして過ごした。そういう線引きが女とフロイドの間にはあった。
長期休みの前にふらりと現れたフロイドは、いつにも増して機嫌よく女に言った。
「ねえねぇ、今度の長期休暇、オレの故郷に一緒に行かねぇ?」
「フロイドさんの故郷というと、珊瑚の海ですか?私みたいな人間が行っても大丈夫な所なんですか?」
海という弱肉強食の世界。特にフロイドの故郷というと、中々にデンジャラスな深海の世界だということは聞き及んでいた。女としては、柔い己の身がその場に耐えられるのかが気に掛かる。
「ん〜、陸の人間が行くのは、あんまお勧め出来ねぇけど、今回はちゃんとオレが守ってあげっから大丈夫〜」
女はフロイドの言葉に一抹の不安を覚えながらも、興味を惹かれた。
フロイドは、幾分、いやかなり適当な所があるが、流石に女の生命の安全くらいは守ってくれるだろう。それよりも、見たことのない、今後もフロイドの手助け無しでは辿り着く事のできないであろう深海の世界への興味が女を頷かせた。
「おや、本当にいらっしゃったんですね」
「こんにちは、お邪魔してます」
フロイドに連れられて、暗い海の底への冒険の旅に出た女だったが、鏡を使って思いの外すんなりと目的地であるフロイドの実家に辿り着いた。
物語で見た竜宮城を思わせる海の中に佇む豪華な邸に圧倒されていると、フロイドとそっくりの顔が現れた。
フロイドの兄弟である、ジェイド・リーチである。
女の来訪はフロイドから聞いていたようで、言葉ほど驚いている様子は無い。アズールとは、モストロラウンジで話をして以来、定期的に会うが、ジェイドとゆっくり話をしたことはなかった。
ジェイドと女が近しくなるのをフロイドがよく思っていない節があるので、女はジェイドに対して深入りしようとはしていなかった。
ジェイドの方も、時折女に探るような目を向けるものの、強引に絡んでくることはなかった。
「素敵なお家ですね」
「そぉ?」
フロイドが首を傾げる。
「はい。私の世界で読んだ物語に出てくる竜宮城みたいです。」
夢見心地で、返事をする私にリーチ兄弟は不思議そうに顔を見合わせた。何がそんなに面白いのか分からないという顔である。
フロイドの両親に挨拶して、息子の彼女が陸の人間とは素直に受け入れがたいが、息子が女にべったりな以上、露骨に反対するのも如何なものか、というなんともいえない空気になった後に客間に通される。
人間が人魚を差別する様に、人魚側も陸の人間をよく思っていないのは何となく分かっていたので、女の方も両手を振って歓迎されるとは思っていなかった。
ぎこちないながらも最低限の社交辞令を交わして穏便に終わったので女としては上出来だった。
フロイドだけは、女を連れてきたことに上機嫌でずっと楽しそうにしていた。女はこの時程、フロイドが己の興味のあること以外に関心が無い人魚で良かったと思ったことはなかった。
数日の滞在だったが、海の中で生活するのは不思議な感覚だった。
長い手足を見せびらかすように陸を駆け回っているフロイドが、細長い尾鰭を広げて海中を漂っている姿は圧巻だった。
紛れもない強者の姿。
女は自分の隣で、女が置いてけぼりにならないように歩幅を合わせて歩くフロイドに慣れてきていたが、やはりフロイドは違う生き物なのだと思う。
暗い海の中で不思議な光を漂わせながら泳ぐフロイドを眺めながら、女は少しだけ悲しい気持ちになった。
女はしんみりした気持ちになっていたが、フロイドは、上機嫌だった。本来の人魚の姿で、女を抱えて海を泳ぐのはフロイドを幸福な気分にさせた。
人魚姿のフロイドの半分の大きさもない柔い身体を抱いて、そっと岩陰に身を潜める。
海中で成すすべもない女の身体に身を寄せて、鋭い爪で女の皮膚を傷つけない様にそっと女の頬を撫でた。
女の黒い目とフロイドの獰猛な瞳が交差する。
フロイドはうっそりと笑った。
人間の姿でも、フロイドの笑みは見るものを怖気させるが、暗い海の中で尚更恐ろしげだった。
女は生き物としての本能的な恐怖を感じた。
圧倒的強者であるフロイドに対して、女は海中で自由に動くことすら出来ない。
フロイドはそんな女の様子を見て、くすくす笑った。
暗闇の中で輝く目を細めて問う。
「怖い?」
「少し」
女は正直に答えた。海の中も、人魚の姿のフロイドも怖い。何よりも、この場所でフロイドに捨て置かれたら女の生命はないであろうと感じるのだ。女はフロイドに置いていかれることが何よりも怖かった。そんな筈はないと分かっていても、縋り付かずにはいられない。そういう場所だった。
女が震えながらフロイドに縋り付く姿を見て、フロイドはずっとこのままでいたいと思った。
ずっとこのまま、己の腕の中で、何にも寄る辺無く、フロイド以外に頼るものを持たずにいてくれたら、己を唯一にしてくれたらどんなにいいだろうと思った。
柔らかい女の身体を傷付けないように、やさしく尾鰭を巻き付ける。
冷たい尾鰭に抱かれた女は一瞬身体を縮こませたが、ちらりとフロイドの顔を見たかと思うと、フロイドの尾鰭を両手を包んだ。
フロイドの尾鰭に抱き着つくようにしたかと思うと、そっと頬を寄せた。
熱を交換するように、フロイドの尾鰭に頬をくっつけた女は、そのまま口元を寄せて、かぷりとフロイドの尾鰭を噛んだ。
女の可愛らしい反撃にフロイドは脳がクラクラしたが、衝動のままに女を絞め上げるを何とか回避した。
フロイドが女を全身で抱きしめてしまえば女の命は無いのである。今まさに命の危険があったことなど気付かない女は、くすくす笑いながらフロイドの尾鰭を弄んでいた。
フロイドは、とんでもない雌だと思いながら、女が苦しくない様にやさしく抱きしめた。
「貴方は、フロイドをどうしたいんですか?」
女はジェイドに問われた。
たまたま、フロイドが女から離れたタイミングで、見計らった様に現れたジェイドが女に問うたのである。
女は少し考えて答える。
「フロイドさんは、私をどうしたいんでしょうね?」
「質問に質問で返さないでほしいのですが。それに、それは僕が答えるべきことではありません。貴方だって分かっているでしょう。」
「私の回答は、フロイドさんの回答の如何によって変わるということですよ」
「おやおや、それまではフロイドを弄ぶと?酷い人ですね」
「酷い人魚がなんか言ってる」
「兄弟ながら趣味を疑います」
「左様ですか」
ジェイドは心底嫌そうな顔をした後に、思い出したかのように作り笑いを浮かべて嫌みを吐いた。
女としては、本当に聞きたい事だったのだが、ジェイドとしては煙に巻かれた様に感じたのだろう。
女にも、自分がどうしたいのかわからない。
人間の気持ちは揺れ動きやすいのだ。
ジェイドと女が無言で睨み合っていると、フロイドが戻ってきた。
「ジェイド、何してんの?」
「おや、フロイド、ああそんなに怖い顔をしないでください。ちょっとした世間話ですよ、ね」
「そうですよ〜ジェイドさんはフロイドさんを待つ間、暇そうな私を構ってくれてたんです」
剣呑な気配を隠そうともしないフロイドに、嫌な予感を感じた女は明るく返事をして場を誤魔化した。フロイドは、眉を寄せて困り顔を作るジェイドに鋭い視線を投げたが、女の前で血生臭い諍いを起こす気はない。ジェイドを問い詰めるのは後に回す事にして、フロイドは女と共にその場を離れた。
一つのかけ違いは、女の方はフロイドの好意を、一時の気まぐれの女遊びだと認識していたが、フロイドの中では既に真剣交際がスタートしていた事であった。
女は、この学園で恋愛ごっこをしたければ、監督生か自分くらいしか相手がいないのだろう位に考えて、それならばこの状況をめいいっぱい楽しんで、利用してやろうと開き直っていた。その後の揺り戻しが怖いという事を除けば、フロイドと過ごす時間は何よりも楽しかった。
フロイドの方は、女と順調に仲を深めていると思っていたので、何の疑問も抱かずに、毎日飽きもせずに女に会いに行っては、めいいっぱいに愛を囁いた。
その掛け違いに最初に気づいたのは監督生だった。女と一つ屋根の下に暮らす自身へ、フロイドの向ける視線の剣呑さに怯えていたからである。そんなに敵意をむき出しにしなくても何もしませんよ!と叫びたい監督生であったが、実際は小さくなって震えることしかできなかった。よくこんな男と付き合えるなと、感心していた監督生であったが、女と話した時に時折感じる違和感があった。
「ふふ、最初は対価の請求が怖かったんですけど、フロイドさんが飽きるまでは、折角なので私も楽しんじゃおうかと思い直したんですよね」
「え、あの付き合ってるんですよね?」
「う〜ん、どうだろ?そういう話、しないですよ。ただ、一緒に居て楽しく過ごしてるだけ、そういう遊びなんじゃないですかね?」
ふわふわ笑った女を見て、監督生は天を仰いだ。
とんでもない真実を知ってしまったと。そして、これを絶対に論外のウツボに知られてはならないと。監督生から見て、フロイドの行いはどう考えても、気紛れのお遊びのお付き合いではない。女の人生を丸ごと引き摺り込もうとする獰猛な肉食魚の狩りである。
「ふ、フロイド先輩は、その、ものすごく、ものすごーく真剣にお付き合いされてると思いますけど…」
「そうなんですかね?そうなったらそうなったでお互い苦しいですよね、いつ元の世界に帰るかも分からないのに。傷が浅い内に離れておくべきなのかな…」
「何でそうなる」
監督生はうっかり心の声が口から出てきた。
「え?」
「いえ、その、フロイド先輩とずっと一緒にいたらいいんじゃないですか?ほら、先輩はあんな感じですけど、優秀な魔法士ですから将来食いっぱぐれることもないと思いますし、あれです、ほら、イケメンだし…」
監督生自身はフロイドの事を“論外”の名にふさわしいと思っているので、うまくフォローの言葉が見つからない。フロイドみたいな男と一緒にいたら将来がめちゃくちゃになってしまうという本心が邪魔をする。しかし、フロイドは女にだけは優しくて、気の利く男なのだから大丈夫だと無理やりに自分を納得させながら言葉を紡ぐ。
ここで女を説得出来なければ、荒れ狂うフロイドの理不尽な暴力の被害を被るのは必須である。監督生とて、オンボロ寮にやってくる、出張フロイド商店の恩恵に預かったのは一度や二度ではないのだ。女とフロイドの良好な関係を維持しなければ、監督生自身が危ない。
女はそんな監督生の様子を見ながら、女が思っているより、フロイドは真剣に女の事を好きなのかもしれないと思い始めた。フロイドの気紛れだと思いこむのは、自己を守るための言い訳でもあったからだ。そう自己弁護しておけば、傷付かずにいられるのだから。旗から見ていて、女のそういった態度は『不誠実』にうつるのだろうと解釈した。フロイドは何時だって、女に対しては真っ直ぐである。他の人間に対するフロイドは分からないが、少なくとも女の目にはそういう風に見えていた。それは旗から見ても同じだったのだろう。女がそんな風だから、ジェイドに嫌味の一つも言われるのだろう。
その上で、監督生はフロイドと女がうまく行ってほしいと思っているようだ。女の方はそれ程、将来を信じることはできなかった。フロイドは確かに今は女の事を気に入っているかも知れないが、所詮学生の恋愛である。彼等より少しだけ歳を重ねていた女は、それが簡単に終わる事を知っていた。まあ、監督生を無駄に不安にさせることもあるまいと思い直して、女は言った。
「そうですね、この先どうなるか分からないし、フロイドさんは勝負強いし、頼りになる方ですよね。私ももう少し、フロイドさんとちゃんと話してみようと思います。」
「ほんとですか?!」
「はい」
女は監督生を安心させる為に言った事であったが、元の世界に帰れないのならばどちらにしろ身の振り方は考えなくてはいけない。その時に、フロイドが隣にいてくれるなら、それは嬉しいことだと思った。あまり期待してしまうと、駄目だった時に落胆が大きいので、先の未来を考える時に、他人を勘定に入れないようにしているのだが、もう少しフロイドの事を信じてもいい気がした。
フロイドは、よく女に贈り物をした。最初は遠慮していた女も、そのうち慣れてあっさりと受け取るようになった。女の部屋の中に、フロイドからの贈り物が増えていった。
その日も女が放課後、図書館で勉強していると、ふらりと現れたフロイドは小さな包みを持っていた。
それをそっと女の手に握らせる。
「これ、あげる♡」
「何ですか?開けていいです?」
「もちろん」
フロイドの髪色を彷彿とさせるターコイズブルーの石がついたネックレスだった。
珍しいのは、石の台座に少し間抜けな顔をしたうつぼの銀細工が施されている事だ。
ウツボの人魚であるフロイドの自己主張の強さに女は笑った。
「かわいいですね、私こういうの好きです」
「だと思った♡着けてあげんねぇ〜」
フロイドは、するりと女の手からネックレスを取ると、そっと女の首にチェーンを回した。
フロイドの長い指が項を撫でるのがわかった。
「フロイドさんって、学園を卒業した後どうするですか?」
「ん〜どうして欲しい?」
女は、ふと監督生として話を思い出した。フロイドとの関係を真剣に考えてはどうかという話である。フロイドの『贈り物』は最初はちょっとしたお菓子や旅のお土産程度だったが、最近は服やらアクセサリーやらどんどん高価で意味ありげな贈り物になっている。フロイドとしては、もちろん“意味のある”贈り物なのだが、女の方はそれをプレッシャーに感じていた。もう少し関係性をはっきりさせたほうが良いと思ったのだった。
しかし、質問を質問で返されて女は言葉に詰まった。
少し考えてから、女は正直な気持ちを吐き出す。
「いえ、私は元の世界に帰れなかった場合、行く当てがないので、学園長に泣きついて学園に居残るか職を斡旋してもらうつもりなんで、どちらにしても賢者の島にいると思うんですが、フロイドさんが海に帰ってしまうなら会えなくなるなと思って」
「ふぅん、俺の行く先に付いて来るって言ってくれねえんだ?」
首の後ろに回る手がそっと首筋を撫でた。
フロイドは、全く笑っていなかった。
女は、自身の後ろに回ったフロイドの顔を見てはいなかったが、空気が冷えたのを感じた。
「言いませんよ。現実的に無理だと思うので。珊瑚の海に行って思いました。私は海では生きていけません。生き物としての強度が足りないと思います。」
「現実主義者なんだ」
「私は魔法、使えませんので」
「じゃあ、俺が魔法をかけてあげるね」
フロイドは、後からそっと女を抱き締めた。
女は何だか泣きたい気分になって、そっと目を伏せた。
フロイドは、女の頭を抱えると小さな頭をそっと撫でた。
女は色んなことが許された様な気がして、ほろほろと泣き出した。
女は誰かに甘えたかったのだ。
しかし、一度そうしてしまえば二度とこの世界で立ち上がることが出来ない気がして、ずっと避けていた。
フロイドは、そんな女の均衡が崩れるのをずっと待っていた。暗がりから獲物を狙う様に。その一瞬の隙を逃さないように。
静かに涙を流す女の頭を撫でながら、やっと欲しいものを手に入れた靭は嗤った。
フロイドとしては、自分の料理の腕前に惚れ惚れして欲しかったのだが、女が楽しそうに光が反射する水面を眺めているので強引に引っ張っていくのを躊躇していた。
眼下から立ち昇ってくるあぶくが、光を反射しながら通り過ぎるのを女はずっと眺めていたい様子だった。
うっとりする女の顔を眺めいるのはフロイドも満更ではなかったが、その顔を向けて欲しかったのはフロイド自身であり、あぶくではない。
適当な所で声を掛けた。
「水の中、気に入ったならまた連れてきてあげるから、取り敢えずラウンジに移動しようね〜」
「はい!すみませんつい、物珍しくて。寮自体が水族館みたいでずっと見ていられそうですね!」
「そっかぁ」
フロイドには水中に面白いものなど無いが、女にはそれだけで楽しいらしかった。フロイドが、陸に上がっですぐに、何もかもが珍しく、面白かったのと同じだろうと考えた。
他人の心を慮り、待つなど普段のフロイドからは考えられないが、女と一緒にいる事に価値を見出しているフロイドにとっては特段問題ではなかった。
なお、その様子を見た通りすがりのオクタヴィネル寮生は、この後どんな惨劇が起きるのかと冷や冷やしながら、巻き込まれまいと足早に通り過ぎた。
思わぬ所で時間を食ったが、女が水を恐れていないのは良い傾向だと思った。人魚のフロイドと水中での生活は切っても切れない。陸で暮らすにしても、女の抵抗感が強ければ今後難儀しそうだと考えていた所である。フロイドならば何とでも出来るが、出来ることなら女にはフロイドのことも、フロイドの故郷の事も好意的に捉えて欲しかった。
「行こっかぁ~」
「はい!」
フロイドは女が水中を眺めいる間、離していた手を当然のように繋ぎなおして、ラウンジに向かって歩き出した。
女は少しだけ驚いたが、こういう文化圏なのだと自分に言い聞かせて、折角なので存分に楽しむ事にした。別段、困ることもない。己の心拍数がちょっとばかり上がるだけだ。
女には知らない事が一杯なのだ。
モストロラウンジ
学生が運営するとは思えない、高級感のある外装。外装に負けない、ボリューミーだが、高見えする料理。雰囲気を壊さない、しかし重厚すぎない様に考えられたのか、店内には軽快なジャズが流れている。
海の中を模した装飾が煌めいて、不思議な光を放っていた。
女の手を引いて、フロイドは人目に付きにくい奥のソファー席に女を通した。
女は、座り心地のいい革張りのソファーに腰掛けながら、想像以上に完成度の高いラウンジに感心していた。
学生がつくるカフェとは思えない造り込みに、アズール・アーシェングロットへの尊敬の念が湧いてくる。女は何かを創造する人間が好きだった。
薄暗い店内の中央に鎮座する、巨大水槽が幻想的な雰囲気を醸し出している。
ほうっと息を吐きながら、フロイドに誘われなくても、何度でも足を運びたい空間だと思った。
「ちょっと待っててねぇ〜俺のおすすめ出すつもりだけど、他にも食べたいものあったら頼んでいいからねぇ♡」
「はい。何から何まで、ありがとうございます。」
フロイドは、ここまで来る間に女の食の好みは聞き出していた。とっておきの一皿を出すべく、頭の中で食材の組み合わせを考えていた。
フロイドが、居ない間、女はぼんやりとモストロラウンジ店内を観察した。
非常によくできている。
空間の使い方が上手い。
高い天井と、真ん中に置かれた巨大水槽が、実際の店舗の広さ以上に空間を見せている。そして、他の席の客と、視線が合わないように絶妙にずらされた席配置。彼らの店舗経営は、学外でも成功するだろうと思えた。この繁盛具合なら初期の設備投資は分既に回収したのだろうか?食事の原価率は幾らだろう。現実世界だったら、早めに出資しておきたい優良企業だった。株式公開したら買わせてほしいなと早々を膨らませたくらいで、今はそんな事できる余裕も無ければ、そういった仕組みがあるのかすら分からないので夢のまた夢だと、小さくため息をついたのだった。
そんな事を考えていると、それを聞くことが出来る人物が都合よく現れた。
アズール・アーシェングロットである。
アズールは、女にさして興味は無かったが、何がどう転ぶか分からない世界で、商売人として顔を繋いでおいて損はない。そんな気持ちで、女に声をかけたのだった。
「こんばんは。はじめまして、このモストロラウンジの支配人にして、オクタヴィネル寮の寮長をしている、アズール・アーシェングロットと申します。以後お見知り置きを。貴方の事は、フロイドからお聞きしています。」
「はじめまして。私もアズールさんのことはフロイドさんからお聞きしていました。素敵なお店ですね。内装から、調度品まで、作り手のこだわりを感じる良いお店だと思います。」
「!ええ、わかりますか!?店のイメージに合わせて殆どの品をオーダーで発注したのですよ」
「そうなんですね。素晴らしいです!あの、こういう事を言うと何ですが、資金繰り大変だったのではないですか?飲食店は初期投資が大きいですよね。それにこれだけの品を揃えるとなると…あ、魔法で何とかなる部分もあるのですかね?すみませんそのあたりは無知でして…」
「ああ、貴方は魔法が使えないのでしたね。貴方が思っている程に魔法は万能では無いのですよ。お察しの通り、立ち上げが一番大変でしたね。学生で、何の実績もないしかも陸に上がりたての人魚に大口の出資をしようという人間は少ないですからね。しかし、いる所にはいますし、資本家は常に優良な出資先を探しているものです。」
「そうなんですね。ふふ、アズールさんなら出資者を納得させられるだけのプレゼンが出来そうですよね。お料理はまだなんですけど、この店の空間づくりが素晴らしいと思いました。天井を高めにして実際より店を広く見せたり、客席が客の視線が合わないように配置されてるところとか、圧迫感が無いように、観葉植物を配置したり、よく考えられつくられてるのを感じます。ああ、絵画の配置も素敵だと思いました、目線の高さに配置してあって、照明の角度も調整されていて、画廊でもないのに、ここまで作品をしっかり魅せているお店も珍しいですよね。ふふ、お料理もきっと美味しいでしょうね。」
女は、脳内で出しゃばりすぎ、喋り過ぎだと己を叱咤したが、回り始めた口は止まらない。魔法のことも、この世界の常識も分からないが、何となく知っている知識で話ができた気がして高揚していた。
それはアズールも同様だった。自分のこだわりを理解する人間は心地が良い。それに、特に期待していなかったが、女はかなり『使える』可能性出てきた。
「そこまで理解していただけるとは!支配人としても嬉しい限りです。今日は楽しんでいってくださいね。それとは別に、一度ゆっくりと“商売”のお話をしませんか?貴方の世界にしかないものの話を聞いてみたいのです。勿論、有用な案があれば対価はお支払いします。」
「いいんですか?楽しみです。私もこの世界の商売の仕方に興味があります。この世界に来て日が浅く、何も分からないので、基礎的な所からご教示いただけますと幸いです。」
「利害が一致したようで何よりです」
アズールと女が、にっこりと微笑みあっていたところで、寮服に着替え、飲み物と前菜を運んできたフロイドが割って入った。
「何話してんのぉ」
フロイドが、大きな体躯を揺らしながら慣れた手付きで皿を並べる。
さなか、アズールに視線だけを寄越して、『何、他人の雌にちょっかい出してんだよ』と不快を示す。
アズールは肩をすくめて答えた。
「おや、フロイド、新規のお客様に挨拶していただけですよ」
「ふぅん、この子はオレのお客様だから、タコちゃんはあっちいってていいよぉ」
「はいはい、嫉妬深い男は嫌われますよ」
「ほっとけ♡締めんぞ♡」
フロイドは、女の手前暴力に訴える事は無かったが、青筋を立てながら女に見えない角度で中指を立てたのを見てアズールは引き下がる事にした。思いの外面白いものを見つけたが、別にウツボの恋路の邪魔をしにきたわけではない。
アズールは女に向き直って、優秀な支配人としての仮面を被ると、一礼して離れた。
「では、良い夜を」
「ありがとございます」
アズールが去っていって、女は久し振りに自分が興味のある話ができた事に高揚していた。そして、学園の生活に追われるのではなく、自分自身が興味のあることを積極的に話すという事が無かったことに気付いた。
フロイドは、女が、アズールの事を好意的にみている気配を感じ取って面白く無かった。
笑顔が引きつるのを感じながらも、努めて優しく声を掛ける。
「ねぇ、タコちゃんと何の話ししてたのぉ?」
「あ!モストロラウンジが凄い!という話をしてました。学生でこんな素敵なお店を経営されてるの凄いですよね!フロイドさんも一緒に立ち上げされたって言ってましたよね!」
「ふぅん、そういうの興味あるんだ?」
「そうですね、人が工夫してつくるものをみるのは好きです」
「じゃあ、今度はフロイドくんが工夫を凝らしたお料理をどうぞ♡一皿目は、鮮魚のカルパッチョでぇす♡」
「わぁ、美味しそうですね」
「美味しいでぇす♡」
「いただきます」
フロイドは女の興味を自身が用意した料理に移すと、女は嬉しそうに食事をし始めた。
そこからは、女の食事への大絶賛が始まった。
「うわ、凄いこれ、ソース何使ってるんですか?トマトっぽい味がしますけど、魚介の味もしますね!盛り付けはフレンチっぽい!うわ美味しい!わかってたけど美味しい!皿もいいですよね!このマットな感じに波模様っぽく釉薬がかかってるのがいいですね〜おしゃれ!!アズールさんのこだわりを感じます。こっちはジャガイモの冷製スープですか?うわ〜野菜の冷製スープってちょっといい店ででてくるイメージ!良いですねぇ!美味しい〜〜!」
「そんなにいっぱい喋れたんだぁ」
「あ、すみません興奮してしまって」
「いいよぉ♡そんだけ気に入ったんでしょ」
女は、再び喋り過ぎたと恥じたが、フロイドは驚きはしたものの、自分の料理を気に入った様子の女に気を良くした。
フロイドの目論見通り、女の胃袋を掴むことに成功したようだった。
「前菜から、デザートまで最高でした…こんなお店が学園内にあるなんて、それだけでこの学園にいてよかったと思いますね」
女は食に対する執着が強かった。
何度でも来たい、モストロラウンジ。
女は完全に陥落していた。
「あはっ、今日はフロイドさんの特別コースだから!何時もは出てこないよぉ~。だからぁ、食べたかったらオレに連絡してねぇ♡」
「うう、ありがとうございます。フロイドさんのお料理、美味しすぎました。」
「うんうん♡あ、支払い良いから、オレが誘ったんだからオレが持つって、いいから、行くよぉ〜」
フロイドは当然のように店を抜けて、女をオンボロ寮まで送ろうとしているが、良いのだろうか。そんな疑問をよそに、会計をしようとする女をフロイドが遮った。これだけの食事を用意してもらって、金も払わずに店を出るなんて、と女は青くなったがフロイドに誘導されて結局支払はしないままだった。フロイドは笑って、どう考えも一回の来店では多過ぎるスタンプを押されたポイントカードを握らせると女を店の外に引っ張っていった。
女はいくら異世界とはいえ、ここまで手を掛けるのは一後輩にする事ではないと分かっていた。それをフロイドに尋ねるべきかどうかを考えていたが、こういった問題は先延ばしにする程に複雑化するのだ。何にしろ、ここまでされた“対価”の支払が如何程になっているかを考えるとゾッとする。
フロイドは、そんな女の心中をは知らずに、意中の雌に自分が手掛けたものを食べさせるのはなかなか癖になる体験だなと考えていた。かわいい雌を自分で育てるのだ、今後もできるだけ女の食べ物は自分が用意しようと思考を巡らしていた。
女は、自分の手を引いて歩く、美しい人魚の背を見ながら、夢から覚める事を覚悟しつつ言葉をかけた。
「フロイドさんは、どうしてここまでしてくださるんですか?知り合ったのも最近ですし、客観的に見て、そこまでする理由がありません」
「なぁに?オレが構うのに理由がいんの?」
フロイドは、シャラリとチョウザメのピアスを揺らしながら振り返った。金色に輝く右目が一瞬獰猛な色を帯びたのを女は見逃さなかった。フロイドは己の行動に理屈だの、解釈だのを勝手に付与されるのを嫌うのだろうと思った。
「いえ、動機が分からないと不安になるというだけです。フロイドさんが私と遊んてくださるのは、嬉しいです。でも私には何も返せないから、フェアじゃないと思います。」
「そういう事ね。ちゃんと返してもらってるから大丈夫だよぉ。前から思ってたけど、自分の価値を低く見積もりすぎ。いい女と同じ時間が過ごせるってだけで、十分な価値でしょ〜」
予想外の答えに女は瞬いて、それからふと息を吐いた。
「…フロイドさん、モテるでしょう」
「まぁね♡」
「そう云う事なら、甘えておきます」
学生だからと甘く見ていたら、ウツボの人魚は随分大人だった様だ。してやられた気分で女はむくれた顔を作った。
「ンフフ♡かわいいねぇ♡」
「もっと貢いでもらえるように頑張ります」
女は笑って、握っていたフロイドの手を引いて腕を絡めた。積極的な女の態度に気分を良くしたフロイドは、女の方に肩を寄せて笑った。
「なにそれ、おもしれぇ~」
「ありがとうございます、フロイドさんのお陰でこの世界でも楽しい事、あるんだなって思えました。ずっと余裕無くて、焦っていたんです。」
女が目を細めてフロイドに微笑みかける。フロイドは隣で笑う女が酷く脆くて愛しいものに思えた。このか弱い人間の幸福な夢を、己が守ってやりたいと感じた。フロイドは優しく女に微笑み返した。
「そっかぁ、じゃあ、この世界の楽しい事、オレといっぱい見つけようね」
「ふふ、よろしくお願いします」
女は上機嫌でオンボロ寮に、帰った。
そして、青ざめた顔で部屋に突撃してくる監督生に遭遇した。
監督生は、今にも泣き出しそうであるし、泣くことを通り越して吐きそうですらあった。
「だ、大丈夫でしたか?!貴方がフロイド先輩に引き摺られていったと聞いて!!うう、無事で良かった!!」
「あはは、何ですかそれ?!私はフロイドさんにモストロラウンジで、お料理をご馳走になってただけですよ」
「ひぃ!モストロラウンジで!!!フロイド先輩に!!お料理を!!ご馳走に!聞くだけでも恐ろしい!!何を対価に要求されたんですか?!」
「いえ、特に要求とかはされて無いですけど」
「ひょええええ!利子が偉いことになってる?!怖い怖い怖い」
女は真実を話しているつもりなのだが、話せば話すほどに監督生の中で悪い想像が膨らんでいく様だった。フロイドの普段の行いからするとそういう評価になるのだろう。
やはり、女に対するフロイドの対応は“特別仕様”な様であった。女もフロイドの異常に好意的な態度に驚いていたが、監督生が余りにも激しいリアクションをするので冷静になっていた。まあ、フロイド・リーチであろうと、偶には女の子に優しくしたい気分の時もあるのだろう。叫び過ぎて、ゼイゼイ言い出した監督生を宥めながら、優しいフロイドに慣れてしまうと、通常運転のフロイドに戻った時に温度差で悲しくなってしまいそうだなと考えていた。それくらい、女の中でフロイドの存在は大きくなっていた。
翌朝、フロイドはまたしても、女がオンボロ寮から出てくるのを待っていた。
その日は監督生がまだ寮にいたので、女は朝から監督生の悲鳴を聞くことになった。
女ではなく、監督生に迎えられたフロイドは、昨日とは打って変わって尊大な態度で談話室まで上がり込むと、ギシギシと音を立てるソファーに腰掛け、長い脚を投げ出した。
悲鳴を上げる監督生で遊びながら、フロイドは女の身支度が整うのを待っていた。
女とは少々扱いが違うが、監督生もフロイドに気に入られているようであった。女は朝からフロイドに絞められる監督生を眺めながら、若いっていいなぁ、と今は自身も学生をしているのを忘れて暖かい視線を送った。
監督生は見てないで助けてくださいと目で訴えたが、思いは伝わらず女からは温かな微笑みが返ってきただけであった。監督生と女が視線で会話するのを見ていた、フロイドはむかっ腹を立てて監督生を海老反りにした。
「準備できたぁ?じゃあ、行こっかぁ♡」
「はい」
女が談話室に降りてくると、監督生の頭を大きな手でつかんでバスケットボール宜しく振り回していたフロイドは居住まいを正し、物語に出てくる王子様のように恭しく手を差し出した。
女は少しだけ迷った素振りを見せた後にその手を取った。
監督生は、フロイドの指の形に凹んでしまった己の頭皮を撫でながら、自分は一体何を見せられているだと困惑した。
相棒の魔獣はフロイドの到来と同時に、一目散に逃げ去っていったので、オンボロ寮には監督生一人になった。
「エース、デュース、今朝起こったことをありのままに話すぜ…」
呆然とした様子で登校した監督生は、今朝の出来事を誰かに話さずにいられなかった。かくして、フロイド・リーチに恋人ができたという噂が瞬く間に学園中に広がったのであった。
女は、その噂をあえて否定はしなかった。フロイドの恋人という立場は、女に不当な扱いをすれば暴力の制裁を受けるというのを暗に示すことが出来る。
フロイドの好意が一時の気まぐれであっても、その恩恵をあえて放棄するほど女は初心でもなかった。舐めた態度の相手には、それとなくフロイドの存在をちらつかせさえもした。ウツボの威をかる人である。
女は、当然にフロイドに恨みを持つものからの接触も想定していたが、そこは狡猾なウツボの人魚が事前に“お話”した事で事なきを得ていた。女はそれとなくフロイドの事前の立ち回りを感じていたが、そこはお互いに知らぬふりをして過ごした。そういう線引きが女とフロイドの間にはあった。
長期休みの前にふらりと現れたフロイドは、いつにも増して機嫌よく女に言った。
「ねえねぇ、今度の長期休暇、オレの故郷に一緒に行かねぇ?」
「フロイドさんの故郷というと、珊瑚の海ですか?私みたいな人間が行っても大丈夫な所なんですか?」
海という弱肉強食の世界。特にフロイドの故郷というと、中々にデンジャラスな深海の世界だということは聞き及んでいた。女としては、柔い己の身がその場に耐えられるのかが気に掛かる。
「ん〜、陸の人間が行くのは、あんまお勧め出来ねぇけど、今回はちゃんとオレが守ってあげっから大丈夫〜」
女はフロイドの言葉に一抹の不安を覚えながらも、興味を惹かれた。
フロイドは、幾分、いやかなり適当な所があるが、流石に女の生命の安全くらいは守ってくれるだろう。それよりも、見たことのない、今後もフロイドの手助け無しでは辿り着く事のできないであろう深海の世界への興味が女を頷かせた。
「おや、本当にいらっしゃったんですね」
「こんにちは、お邪魔してます」
フロイドに連れられて、暗い海の底への冒険の旅に出た女だったが、鏡を使って思いの外すんなりと目的地であるフロイドの実家に辿り着いた。
物語で見た竜宮城を思わせる海の中に佇む豪華な邸に圧倒されていると、フロイドとそっくりの顔が現れた。
フロイドの兄弟である、ジェイド・リーチである。
女の来訪はフロイドから聞いていたようで、言葉ほど驚いている様子は無い。アズールとは、モストロラウンジで話をして以来、定期的に会うが、ジェイドとゆっくり話をしたことはなかった。
ジェイドと女が近しくなるのをフロイドがよく思っていない節があるので、女はジェイドに対して深入りしようとはしていなかった。
ジェイドの方も、時折女に探るような目を向けるものの、強引に絡んでくることはなかった。
「素敵なお家ですね」
「そぉ?」
フロイドが首を傾げる。
「はい。私の世界で読んだ物語に出てくる竜宮城みたいです。」
夢見心地で、返事をする私にリーチ兄弟は不思議そうに顔を見合わせた。何がそんなに面白いのか分からないという顔である。
フロイドの両親に挨拶して、息子の彼女が陸の人間とは素直に受け入れがたいが、息子が女にべったりな以上、露骨に反対するのも如何なものか、というなんともいえない空気になった後に客間に通される。
人間が人魚を差別する様に、人魚側も陸の人間をよく思っていないのは何となく分かっていたので、女の方も両手を振って歓迎されるとは思っていなかった。
ぎこちないながらも最低限の社交辞令を交わして穏便に終わったので女としては上出来だった。
フロイドだけは、女を連れてきたことに上機嫌でずっと楽しそうにしていた。女はこの時程、フロイドが己の興味のあること以外に関心が無い人魚で良かったと思ったことはなかった。
数日の滞在だったが、海の中で生活するのは不思議な感覚だった。
長い手足を見せびらかすように陸を駆け回っているフロイドが、細長い尾鰭を広げて海中を漂っている姿は圧巻だった。
紛れもない強者の姿。
女は自分の隣で、女が置いてけぼりにならないように歩幅を合わせて歩くフロイドに慣れてきていたが、やはりフロイドは違う生き物なのだと思う。
暗い海の中で不思議な光を漂わせながら泳ぐフロイドを眺めながら、女は少しだけ悲しい気持ちになった。
女はしんみりした気持ちになっていたが、フロイドは、上機嫌だった。本来の人魚の姿で、女を抱えて海を泳ぐのはフロイドを幸福な気分にさせた。
人魚姿のフロイドの半分の大きさもない柔い身体を抱いて、そっと岩陰に身を潜める。
海中で成すすべもない女の身体に身を寄せて、鋭い爪で女の皮膚を傷つけない様にそっと女の頬を撫でた。
女の黒い目とフロイドの獰猛な瞳が交差する。
フロイドはうっそりと笑った。
人間の姿でも、フロイドの笑みは見るものを怖気させるが、暗い海の中で尚更恐ろしげだった。
女は生き物としての本能的な恐怖を感じた。
圧倒的強者であるフロイドに対して、女は海中で自由に動くことすら出来ない。
フロイドはそんな女の様子を見て、くすくす笑った。
暗闇の中で輝く目を細めて問う。
「怖い?」
「少し」
女は正直に答えた。海の中も、人魚の姿のフロイドも怖い。何よりも、この場所でフロイドに捨て置かれたら女の生命はないであろうと感じるのだ。女はフロイドに置いていかれることが何よりも怖かった。そんな筈はないと分かっていても、縋り付かずにはいられない。そういう場所だった。
女が震えながらフロイドに縋り付く姿を見て、フロイドはずっとこのままでいたいと思った。
ずっとこのまま、己の腕の中で、何にも寄る辺無く、フロイド以外に頼るものを持たずにいてくれたら、己を唯一にしてくれたらどんなにいいだろうと思った。
柔らかい女の身体を傷付けないように、やさしく尾鰭を巻き付ける。
冷たい尾鰭に抱かれた女は一瞬身体を縮こませたが、ちらりとフロイドの顔を見たかと思うと、フロイドの尾鰭を両手を包んだ。
フロイドの尾鰭に抱き着つくようにしたかと思うと、そっと頬を寄せた。
熱を交換するように、フロイドの尾鰭に頬をくっつけた女は、そのまま口元を寄せて、かぷりとフロイドの尾鰭を噛んだ。
女の可愛らしい反撃にフロイドは脳がクラクラしたが、衝動のままに女を絞め上げるを何とか回避した。
フロイドが女を全身で抱きしめてしまえば女の命は無いのである。今まさに命の危険があったことなど気付かない女は、くすくす笑いながらフロイドの尾鰭を弄んでいた。
フロイドは、とんでもない雌だと思いながら、女が苦しくない様にやさしく抱きしめた。
「貴方は、フロイドをどうしたいんですか?」
女はジェイドに問われた。
たまたま、フロイドが女から離れたタイミングで、見計らった様に現れたジェイドが女に問うたのである。
女は少し考えて答える。
「フロイドさんは、私をどうしたいんでしょうね?」
「質問に質問で返さないでほしいのですが。それに、それは僕が答えるべきことではありません。貴方だって分かっているでしょう。」
「私の回答は、フロイドさんの回答の如何によって変わるということですよ」
「おやおや、それまではフロイドを弄ぶと?酷い人ですね」
「酷い人魚がなんか言ってる」
「兄弟ながら趣味を疑います」
「左様ですか」
ジェイドは心底嫌そうな顔をした後に、思い出したかのように作り笑いを浮かべて嫌みを吐いた。
女としては、本当に聞きたい事だったのだが、ジェイドとしては煙に巻かれた様に感じたのだろう。
女にも、自分がどうしたいのかわからない。
人間の気持ちは揺れ動きやすいのだ。
ジェイドと女が無言で睨み合っていると、フロイドが戻ってきた。
「ジェイド、何してんの?」
「おや、フロイド、ああそんなに怖い顔をしないでください。ちょっとした世間話ですよ、ね」
「そうですよ〜ジェイドさんはフロイドさんを待つ間、暇そうな私を構ってくれてたんです」
剣呑な気配を隠そうともしないフロイドに、嫌な予感を感じた女は明るく返事をして場を誤魔化した。フロイドは、眉を寄せて困り顔を作るジェイドに鋭い視線を投げたが、女の前で血生臭い諍いを起こす気はない。ジェイドを問い詰めるのは後に回す事にして、フロイドは女と共にその場を離れた。
一つのかけ違いは、女の方はフロイドの好意を、一時の気まぐれの女遊びだと認識していたが、フロイドの中では既に真剣交際がスタートしていた事であった。
女は、この学園で恋愛ごっこをしたければ、監督生か自分くらいしか相手がいないのだろう位に考えて、それならばこの状況をめいいっぱい楽しんで、利用してやろうと開き直っていた。その後の揺り戻しが怖いという事を除けば、フロイドと過ごす時間は何よりも楽しかった。
フロイドの方は、女と順調に仲を深めていると思っていたので、何の疑問も抱かずに、毎日飽きもせずに女に会いに行っては、めいいっぱいに愛を囁いた。
その掛け違いに最初に気づいたのは監督生だった。女と一つ屋根の下に暮らす自身へ、フロイドの向ける視線の剣呑さに怯えていたからである。そんなに敵意をむき出しにしなくても何もしませんよ!と叫びたい監督生であったが、実際は小さくなって震えることしかできなかった。よくこんな男と付き合えるなと、感心していた監督生であったが、女と話した時に時折感じる違和感があった。
「ふふ、最初は対価の請求が怖かったんですけど、フロイドさんが飽きるまでは、折角なので私も楽しんじゃおうかと思い直したんですよね」
「え、あの付き合ってるんですよね?」
「う〜ん、どうだろ?そういう話、しないですよ。ただ、一緒に居て楽しく過ごしてるだけ、そういう遊びなんじゃないですかね?」
ふわふわ笑った女を見て、監督生は天を仰いだ。
とんでもない真実を知ってしまったと。そして、これを絶対に論外のウツボに知られてはならないと。監督生から見て、フロイドの行いはどう考えても、気紛れのお遊びのお付き合いではない。女の人生を丸ごと引き摺り込もうとする獰猛な肉食魚の狩りである。
「ふ、フロイド先輩は、その、ものすごく、ものすごーく真剣にお付き合いされてると思いますけど…」
「そうなんですかね?そうなったらそうなったでお互い苦しいですよね、いつ元の世界に帰るかも分からないのに。傷が浅い内に離れておくべきなのかな…」
「何でそうなる」
監督生はうっかり心の声が口から出てきた。
「え?」
「いえ、その、フロイド先輩とずっと一緒にいたらいいんじゃないですか?ほら、先輩はあんな感じですけど、優秀な魔法士ですから将来食いっぱぐれることもないと思いますし、あれです、ほら、イケメンだし…」
監督生自身はフロイドの事を“論外”の名にふさわしいと思っているので、うまくフォローの言葉が見つからない。フロイドみたいな男と一緒にいたら将来がめちゃくちゃになってしまうという本心が邪魔をする。しかし、フロイドは女にだけは優しくて、気の利く男なのだから大丈夫だと無理やりに自分を納得させながら言葉を紡ぐ。
ここで女を説得出来なければ、荒れ狂うフロイドの理不尽な暴力の被害を被るのは必須である。監督生とて、オンボロ寮にやってくる、出張フロイド商店の恩恵に預かったのは一度や二度ではないのだ。女とフロイドの良好な関係を維持しなければ、監督生自身が危ない。
女はそんな監督生の様子を見ながら、女が思っているより、フロイドは真剣に女の事を好きなのかもしれないと思い始めた。フロイドの気紛れだと思いこむのは、自己を守るための言い訳でもあったからだ。そう自己弁護しておけば、傷付かずにいられるのだから。旗から見ていて、女のそういった態度は『不誠実』にうつるのだろうと解釈した。フロイドは何時だって、女に対しては真っ直ぐである。他の人間に対するフロイドは分からないが、少なくとも女の目にはそういう風に見えていた。それは旗から見ても同じだったのだろう。女がそんな風だから、ジェイドに嫌味の一つも言われるのだろう。
その上で、監督生はフロイドと女がうまく行ってほしいと思っているようだ。女の方はそれ程、将来を信じることはできなかった。フロイドは確かに今は女の事を気に入っているかも知れないが、所詮学生の恋愛である。彼等より少しだけ歳を重ねていた女は、それが簡単に終わる事を知っていた。まあ、監督生を無駄に不安にさせることもあるまいと思い直して、女は言った。
「そうですね、この先どうなるか分からないし、フロイドさんは勝負強いし、頼りになる方ですよね。私ももう少し、フロイドさんとちゃんと話してみようと思います。」
「ほんとですか?!」
「はい」
女は監督生を安心させる為に言った事であったが、元の世界に帰れないのならばどちらにしろ身の振り方は考えなくてはいけない。その時に、フロイドが隣にいてくれるなら、それは嬉しいことだと思った。あまり期待してしまうと、駄目だった時に落胆が大きいので、先の未来を考える時に、他人を勘定に入れないようにしているのだが、もう少しフロイドの事を信じてもいい気がした。
フロイドは、よく女に贈り物をした。最初は遠慮していた女も、そのうち慣れてあっさりと受け取るようになった。女の部屋の中に、フロイドからの贈り物が増えていった。
その日も女が放課後、図書館で勉強していると、ふらりと現れたフロイドは小さな包みを持っていた。
それをそっと女の手に握らせる。
「これ、あげる♡」
「何ですか?開けていいです?」
「もちろん」
フロイドの髪色を彷彿とさせるターコイズブルーの石がついたネックレスだった。
珍しいのは、石の台座に少し間抜けな顔をしたうつぼの銀細工が施されている事だ。
ウツボの人魚であるフロイドの自己主張の強さに女は笑った。
「かわいいですね、私こういうの好きです」
「だと思った♡着けてあげんねぇ〜」
フロイドは、するりと女の手からネックレスを取ると、そっと女の首にチェーンを回した。
フロイドの長い指が項を撫でるのがわかった。
「フロイドさんって、学園を卒業した後どうするですか?」
「ん〜どうして欲しい?」
女は、ふと監督生として話を思い出した。フロイドとの関係を真剣に考えてはどうかという話である。フロイドの『贈り物』は最初はちょっとしたお菓子や旅のお土産程度だったが、最近は服やらアクセサリーやらどんどん高価で意味ありげな贈り物になっている。フロイドとしては、もちろん“意味のある”贈り物なのだが、女の方はそれをプレッシャーに感じていた。もう少し関係性をはっきりさせたほうが良いと思ったのだった。
しかし、質問を質問で返されて女は言葉に詰まった。
少し考えてから、女は正直な気持ちを吐き出す。
「いえ、私は元の世界に帰れなかった場合、行く当てがないので、学園長に泣きついて学園に居残るか職を斡旋してもらうつもりなんで、どちらにしても賢者の島にいると思うんですが、フロイドさんが海に帰ってしまうなら会えなくなるなと思って」
「ふぅん、俺の行く先に付いて来るって言ってくれねえんだ?」
首の後ろに回る手がそっと首筋を撫でた。
フロイドは、全く笑っていなかった。
女は、自身の後ろに回ったフロイドの顔を見てはいなかったが、空気が冷えたのを感じた。
「言いませんよ。現実的に無理だと思うので。珊瑚の海に行って思いました。私は海では生きていけません。生き物としての強度が足りないと思います。」
「現実主義者なんだ」
「私は魔法、使えませんので」
「じゃあ、俺が魔法をかけてあげるね」
フロイドは、後からそっと女を抱き締めた。
女は何だか泣きたい気分になって、そっと目を伏せた。
フロイドは、女の頭を抱えると小さな頭をそっと撫でた。
女は色んなことが許された様な気がして、ほろほろと泣き出した。
女は誰かに甘えたかったのだ。
しかし、一度そうしてしまえば二度とこの世界で立ち上がることが出来ない気がして、ずっと避けていた。
フロイドは、そんな女の均衡が崩れるのをずっと待っていた。暗がりから獲物を狙う様に。その一瞬の隙を逃さないように。
静かに涙を流す女の頭を撫でながら、やっと欲しいものを手に入れた靭は嗤った。
