人魚の恋
女はフロイドを避けていた。
しかし、それに気付いたフロイドは、女がまだ目覚めないうちからオンボロ寮にやってきた。
朝日が昇らないうちから寮の前で待たれていれば出ていかざる得ない。
面倒くさくなった女は、フロイドと話をする事にした。
玄関扉を開けて、フロイドを談話室に招き入れる。
「おはようございます、フロイドさん」
表情は笑っているが目は笑っていないフロイドは開口一番、女を問い詰めた。
「ねぇ、なんでオレのこと無視するのぉ?」
「…こないだの一般開放日に、綺麗な女性といちゃついてるフロイドさんを見て不愉快な気持ちになったからですね」
寝起きの女は、何故フロイドの方が怒っているのかとムカムカしてきた。
「なぁに?それ」
「ねえ、それとジェイドと浮気すんの、なんか関係あんのぉ?」
フロイドは談話室に入った時に嗅いだ、嗅ぎ慣れた臭いの正体に気付いた。
「は?何言ってるんですか?話すり替えないでほしいんですけど?」
「そっちこそなぁに?顔が一緒なら誰でもいいわけ?」
女はフロイドの婚約者だという件の女性について話をしたかったのだが、そのことについて何の説明も、弁解すら無かった。
ジェイドの話をすれば、ジェイドがフロイドの婚約者の話を暴露したことを伝える事になる。それは避けたかった。
お互いに都合の悪い事を棚上げして罵りあうのが馬鹿らしくなって、女は投げやりになった。
「そうですか、もういいです」
「何がだよ」
「お望みの通り、ちょっとジェイドさんの所に行ってきますね」
「はぁ?させる訳ねえだろ」
外に出ようとした女を、フロイドが引き戻す。
「怒りたいのこっちだっつうの!結婚詐欺野郎!」
「待ってよ」
「冷静になりたいので放っといてください」
売り言葉に買い言葉で、言わなくていいことを言った。
女は、ばたばたと二階に駆け上がる。
自室に駆け込み、扉を閉める。
女はフロイドから愛されていると思っていた。フロイドが異性からモテるのは分かっていたが、興味のない相手にはとことんドライなのがフロイドである。
他に女の影があるとは思わなかった。
女はその日、初めて学校をサボった。
女は一日考えてから、引き摺っても問題を先延ばしにするだけだと結論付けた。
どちらにせよ傷付くなら、早いほうがいい。
ジェイドの事は巻き込まないつもりだったが、もういいだろう。
翌朝、女はきっちりと制服を着込み、泣き腫らした顔が少しでもマシに見えるように濃い目に化粧を施してオクタヴィネル寮に向かった。
女のほうが出向いたのは、乱闘になった際に、自寮内での揉め事を嫌うアズールが止めに入るだろうという打算である。
女は、ウツボの人魚の綺麗な顔を引っ叩く位はするつもりだった。
しかし、女が乗り込む前に、既にウツボの人魚は二人とも瀕死であった。
女と口論になった後、ジェイドが自分の雌にちょっかいを出した事に気付いたフロイドが寮に戻るなりジェイドをぶん殴ったのである。
ジェイドも嗤いながら殴り返し、オクタヴィネル寮は大怪獣ウツボブラザーズの災害指定区域となった。
半壊したオクタヴィネル寮に女は絶句する。
「なにこれ」
「おやおや、件のお姫様じゃないですか」
女の前では、何時も余裕を崩さないオクタヴィネルの寮長が、ずり落ちた眼鏡を直そうともせずに吐き捨てる様に言った。
「なんでこんな事になってるんですか?」
「聞きたいのはこっちですよ。貴方が誰と寝ようが構いませんがね、ええ、僕と関わりのない所でやってもらえますか?」
「何の話ですか?」
「貴方を巡って馬鹿な雄ウツボ二匹が大喧嘩してこの有り様です」
「…なんで?」
「知りませんよ!」
アズールは今にも叫び出しそうな剣幕である。
何時もなら綺麗に整えられている髪を、掻きむしりながら半壊した寮の修復にあたっていた。
「フロイドさんは何処にいますか?」
「ジェイドもフロイドも自室にいますよ」
「それ、何処ですか?」
「ああ、貴方が彼等の部屋に来るのは初めてでしたね、はぁ、案内します」
「お願いします」
アズールは見ていて可哀想になるくたびれ具合だった。
「失礼します。こんにちはフロイドさん、ジェイドさん」
「来てくれたんだぁ~」
ジェイドとフロイドは傷だらけで左右それぞれのベットに横たわっていた。
フロイドは女の姿を見ると顔をほころばせた。
女は包帯まみれで横たわるフロイドに微笑みかける。
「はい。ボロボロのフロイドさんに追い打ちをかけに来ました。」
「えっ」
反対側のベットで、面白くなってきたとばかりにジェイドが身を乗り出すのが見えた。
全く碌でもない人魚だと思いながら女は続ける。
「こないだの一般開放日の日、プラチナブロンドの美女がフロイドさんの上に乗っていた件なんですけど、彼女がフロイドさんの婚約者という話は本当ですか?」
「それは、親が決めたやつで、オレは全然そんなつもりねぇし…」
「本当だということですね」
「ウン」
女の冷たい視線にフロイドは黙った。
「その状態は今も継続してるってことですよね?」
「いや、オレはちゃんと別れるつもりで…」
「継続してるんですよね?」
「ウン」
「はぁ」
女の溜息を聞いて、部屋にいた三人の人魚は小さく震えた。
他人の恋路に関わる気の無かったアズールも、立ち去るタイミングを逃してしまい、部屋から出られなくなっていた。
女はどうしようか考えた。
今、フロイドの事を女は信じることが出来るだろうか。
女がぼんやりと考えている間、論外のウツボは絞首台に昇る罪人の様な面持ちだった。
「…言ってほしかったな」
「え?」
「いえ、婚約者の話も、その関係をまだ清算できてないこともフロイドさんから言ってほしかったなと思って、それに、私と一緒にいる事を考えてくれるなら婚約者さんが来た時も、あんな風に受け入れたりしないで欲しかった」
「それは、ごめん、でもあいつとは、何もしてねぇよ」
「ふぅん?」
「もうしないから」
この流れは非常に不味いと感じたフロイドは女を繋ぎ止める言葉を探したが、適切な言葉は見つからなかった。
「別に、もういいですよ、お別れしましょう。フロイドさん、素敵な人魚の婚約者さんと宜しくやってください。」
「っ、そんなのヤダぁ〜」
フロイドは子供の癇癪の様に、長い手足をばたつかせながら駄々をこねた。
191cmの大男が暴れたことによって、フロイドのベットがギシギシと悲鳴を上げた。
女の後ろで、神経質な蛸の人魚がハウスダストが舞うのを気にしていたが、口を挟む状況ではないと小言を言いかけた口を閉じた。
女は暫くフロイドの癇癪を眺めて言った。
「私だって、二股かける男、嫌ですよ」
「そんな事してねぇもん!アイツのことは忘れてただけだもん!」
「どういう言い訳ですか、それ」
「本当だし!一般開放日に久し振りに顔見て、こんな奴いたなぁって思ってたら、なんかすげえ怒ってるし、ジェイドと浮気するし!ひでぇよぉ!なんでオレがこんなに怒られんのぉヤダァ〜」
「いや、私は酷くないですよね?!後、ジェイドさんとは少し話をしてただけで浮気なんてしてないですからね?!」
「おやおや、僕のこと嫌いじゃないとおっしゃったのは嘘だったんですか?」
「そこのウツボはこれ以上状況を引っ掻き回さないでください!」
「いいじゃないですか、面白くなってきたのに」
「は?嘘なの?何?ジェイド、騙したわけ?」
瞳孔の開いたフロイドの瞳が、ジェイドに向く。
「別に騙してはいません。彼女と夜を過ごしましたとお伝えしただけです。」
「ジェイドさん、ほんとに何やってんですか貴方…」
悪びれる様子のないジェイドに女は呆れた。
嘘ではないが、誤認させる気満々の情報の伝え方だ。
ジェイドとの乱闘の傷で、上手く立ち上がれないフロイドは床を這うようにして女の下まで来ると、女の足元に縋り付いた。
女の足に腕を巻き付けながら、目尻下げて今にも泣き出しそうな様子で懇願した。
「お願い、オレから離れていかないでぇ」
フロイド渾身の甘え顔に女は弱かった。
女の中で燃えていた怒りが霧散していくのを感じる。
「今回だけですよ。次やったら蒲焼にしますからね」
「うん♡」
ころっと元気になったフロイドは、フロイドに巻き付かれて腰を折った女の膝の上に転がると、女の腹部にぐりぐりと頭を押しつけた。
なんだかんだフロイドに絆されてしまった女は、元の関係性を取り戻した。
気紛れで艷やかなウツボ人魚はその時の気分で生きているので、こういう事もあるのかもしれないと思い直した。
どんな回復力をしているのか、全身生傷だらけ、包帯まみれだったフロイドは、数日で元の快活な姿を取り戻し、連日オンボロ寮に押しかけた。
不足分を取り戻すかのように、女にくっついて回り世話を焼いている。
「おはよぉ♡モーニングにホットサンド作ってきたんだぁ一緒に食べよぉ♡」
朝早くにオンボロ寮にやって来たフロイドは、右手に見慣れたモストロ印の紙袋を持ってやって来た。
寝起きでぼんやりしている女の寝癖のついた髪を愛しげに撫でた。
勝手知ったる様子でオンボロ寮の談話室に上がり込むと、慣れた様子で朝食の準備をしはじめた。
「…フロイド先輩おはようございます」
「旨そうな匂いがするんだぞ!」
「小エビちゃんとアザラシちゃんじゃん、おはよぉ~どうせいるだろうと思ってたから、お前らの分もあるよぉ♡オレって超やさしい♡」
「やったんだぞ!」
「ありがとうございます!」
監督生とグリムが、食べ物の匂いにつられて談話室に顔を出した。
監督生は遠慮がちだったが、グリムが飛び出していった手前顔を出さずにはいられなかったのだろう。
監督生は女に、二人の時間を邪魔してごめんなさいと視線を寄越して頭を下げる。
「ふふ、おはようございます。一緒に食べましょう。フロイドさんのご飯美味しいですから」
「うん、そんでぇ、食ったら、いちゃつくから出てけよぉ♡」
「ちょっと、正規の寮生を追い出さないで下さいよ」
「ええ〜いいじゃん」
わいわいと三人と一匹で朝食を囲む。
何だか懐かしい心地がした。
いつの間にか、借宿だったオンボロ寮は女にとっての家になっていた。それであれば、監督生やグリム、なぜか何時もいるフロイドは疑似家族であろうか。
「嬉しいな。なんだか家みたいです」
「私も思ってました、なんか、家族みたい。その、いきなり違う世界からやって来て困ってるのにこんな事言ったら駄目だなってずっと思ってたんですけど、お姉ちゃん出来たみたいでちょっと楽しいなって思ってたんです」
「私もだよ。学生としては先輩だけど、私もユウちゃん妹くらいの歳だなあって思ってましたよ」
「じゃあオレは、旦那さんでぇ、小エビちゃんのお兄さんねぇ!後、ペットのアザラシ」
「俺様はペットじゃねぇんだぞ!」
誰かが家にいて、他愛もない話をする。
そういう相手のいる生活が女は好きだった。
穏やかな顔をする女を眺めていたフロイドは、女は温かい家と家族が欲しかったのだと知った。
そして、それを己が与えてあげようと思ったのだった。
フロイドは、自由気で気まぐれな人魚だが、本当の意味で一人になったことはない。
生まれてすぐには、沢山の己にそっくりの兄弟がいたし、ジェイドと二人になってからも、なんだかんだとずっと一緒だった。
父親と母親は、ジェイドとフロイドを愛していたし、強靭で麗しい人魚だったフロイドは多くの者の注目を集める存在で、フロイドに惹かれる者は後を絶たなかった。
女は、元の世界ではそれなりに家族に愛されて育ったと思っているし、生きていける能力も稼ぎもあった。仕事は社会との繋がりを生んだし、楽しめる趣味もあった。
しかし、捻れた世界に放り出されてからは、一転した。世界と何の関わりも持たない女は、学校という閉鎖的な場所で孤独だった。女自身も、あくまでも元の世界に戻るまでの仮住まいに、多くを築く気がなかった。
今でこそ、この世界で無視出来ない存在であるフロイドが関わってきたことで状況が一変したが、そもそも女は孤独だった。
変化したのは、女の保護者ということになっているクロウリーとの関係もであった。
曲がりなりにも養女となった女は強かった。
試しにやってみた娘厶ーブが、思いの外クロウリーの心に刺さったようであった。
慣れた足取りで学園長室のドアを叩く。
クロウリーも慣れたもので、魔力感知に引っ掛からない生物の接近、そして、慣れた手付きで学園長の扉を軽くノックする音。女が来たのだとすぐに分かった。
「こんにちは、パパ」
「やあやあ、可愛いパンプキンちゃん!どうしたんですか!」
「今度の校外との交流パーティ、私と監督生さんも出ていいんですよね?」
「ええもちろんですよ!」
「実は、パーティ用のドレスが無いんです、それで、相談に」
「ええ、もちろん用意してあげますよ!買いに行きますか?」
「やった!じゃあ、黒くて素敵なパパの羽みたいなドレスがいいなぁ~」
「んもぅ!甘え上手なんですから!週末ブティックまで選びに行きましょうね!」
「楽しみ!監督生さんにも伝えておきますね♡
そうだ、クッキー作ってきたんです。時間あれば一緒にどうですか?お茶入れていいです?」
「もちろん、頂きますよ」
女はにっこり笑って、学園長室の奥に備え付けのキッチンに向かう。
フロイドに頼めば、大概の事はしてくれるのは分かっていたが、彼も身分は学生である。それに女からすれば歳下だった。
その点、クロウリーは大人だったし、学校一つ経営する男である。女にちょっと物を買い与えるくらい、痛くもかゆくもないことを知っている。しかも今は、形なりにも娘。甘える相手としては最適だった。
クロウリーも女もとんだ茶番だとわかっているが、それに乗っかるのもお互いに楽しいものだった。
オンボロ寮で女が監督生に声を掛ける。
「今度の学外との交流パーティ私達も出ていいそうです。あと週末にブティックでドレス買いに行きましょう。学園長に交渉してきました」
「えっ私も、良いんですか?ていうかどうやったんですか?」
「いや、普通にドレス欲しいなって言ったら買いに行きますかってなっただけですよ」
「何か面倒事を押し付けられたりは?」
「特に無い、かな」
「そんな…差別だ…やはり養女だからか?」
「あはは、監督生さんもクロウリーになっちゃいます?」
「いや、それは、ちょっと…」
「あはは」
大概のことが適当な女と違って、監督生は自分の感情や今迄築いてきたものを大切にする傾向があった。
もとの世界の家族のことを考えると、見るからに怪しい烏の養女になるのは心苦しいのだろう。
そんな監督生の義理堅い部分に女は好感を持っていた。女は実利があればいいと考えるタイプだったが、それだけで世の中が回らない事を知っている。
太陽光を受けて、硝子張りの天井が輝く。
鮮やかな服やアクセサリーが所狭しと並ぶ店内で、女と監督生とクロウリーはドレスを選んでいた。
慣れない場所に恐縮する監督生と違い、女は生き生きとしていた。
買い物は楽しい。どれだけ買っても自分の懐が痛まないとならば尚更。
「パパぁ、これとこれどっちが似合うと思います?」
「どっちもかわいいですよ、強いて言うなら黒いほうが引き締まって見えますねぇ」
「ですよね、ちょっとこれ試着してきます」
「はい、いってらっしゃい」
「靴とアクセサリーも、ご一緒に準備しました、如何ですか?」
「ありがとう」
この女は買いそうだと嗅ぎ付けた店員がすかさずドレスに合わせた靴とアクセサリーを見繕ってきた。
できる店員にほくそ笑みながら女は試着室に滑り込んだ。
お金はクロウリーの財布から出るので、女は何の遠慮もなかった。
クロウリーも特に咎める様子もなく、試着室から出てきて、ああでもないこうでもないとファッションショーを開始する女をソファーに座って眺めている。
それに驚いたのは監督生である。
「ぱ、パパ活だ…」
クロウリー性になったら、生活レベルが上がるかもしれないと真剣に考えていた監督生だったが、養女になったとしても、とても女の真似はできないと一人肩を落とした。
結局、一人でドレスを選べなかった監督生は、女の言われるがまま、似合うと言われた薄桃色のドレスを選んだ。
オロオロする監督生の横で、女が靴とアクセサリーを合わせて店員に申し付けていた。
会計は当然クロウリーが支払った。
がっかりしたのはフロイドであった。
女としては、フロイドに負担をかけない気遣いであったが、自分がとっておきのドレスを選んでプレゼントするつもりだったフロイドは内心穏やかではなかった。
パーティで、別の男に買ってもらったドレスを着る女をエスコートするのは複雑だった。
羽模様の刺繍された、黒い濡羽の様なタイトドレスは女によく似合っていた。
よく似合っているのがまたフロイドに追い打ちをかけた。
女の部屋で新しく買ったドレスを着た女を眺めて複雑な顔をするフロイドを他所に、女は有頂天だった。
この学園で女性らしい格好をすることは少ない。
学園長の財布からなので、何の遠慮もなく、ドレスにバッグに靴にアクセサリー、当日用の化粧道具まで買い漁ってきた。
最後の方はクロウリーの笑顔も引き攣っていたが、買ってやると言った手前止めることもできずに震える手でカードを切っていた。
女は黒いスカートを翻しながら姿見の前に立ち、ベッドを椅子代わりにして座るフロイドに向き直った。
「我ながらかわいいと思うんですけど、どうですか?」
「ウン、すげぇ似合ってるよぉ」
「あの美人の人魚に勝ってます?ねぇ?」
「勝ってるよぉ、まだ怒ってんのぉ?」
「いや、勝ってないですけどね?客観的に見てジャージ着ててもあっちのほうが上ですね」
「なんて言ったら正解なのぉ?!」
「なんて言っても負けでぇす」
「ひでぇよぉ、ずっと言うじゃん」
「私と一緒にいたら一生言われますから覚悟しててください」
「うえぇん」
フロイドは大きな身体を丸めて泣き真似をする。他の男に買ってもらった服を褒めさせられて、昔の女の事をチクチクと責め立てられながらフロイドは項垂れた。
女は最初に出会った頃と比べて、フロイドに遠慮がなくなっていた。受け入れられた事を嬉しく思いつつも、将来的に女の尻に敷かれる未来が見えてフロイドは震えた。
他校との交流パーティーは、共学の学校からも生徒がやってくるため、女や監督生がドレスアップしていても浮く事はなかった。
艷やかな黒いタイトドレスは、男子生徒用にデザインされた制服と違って、普段隠されている女の身体の曲線を露わにした。
何時もはスラックスの下に隠されている監督生のすらりとした脚が視線を奪う。
男装という程ではないが、普段『女』である事を意識させないように振る舞っている二人の艶やかな姿に、ナイトイレブンカレッジの学生達だけが異様に色めき立っていた。
普段は見れない他校の女子生徒も気になるが、よく知っていると思っていた人間の意外な姿というのは人の心をときめかせる。
しかし、どれだけ心をときめかせようとも、女の後ろには怖いウツボが付いているのでナイトイレブンカレッジの男子生徒は誰一人として声を掛ける事はできなかった。
だが、他校の生徒は別だ。
横に張りつく大柄な色男と親しげな雰囲気を出していようと、目に付く綺麗な女性には声を掛けずにいられない男は居る。むしろ、それこそが美しい女性へのマナーだと思っている。
広間のシャンデリアの光を浴びながら、髪も瞳も服さえも白銀の男が女の前に進み出た。
整った顔立ちの男は物語に出てくる騎士のような出で立ちであったが、白く光を反射する姿を、女は反射板のようだなと思った。
「こんばんは、レディ」
「こんばんは」
「私はロイヤルソードアカデミーのフォルトと申します。よければ一曲お付き合いいただけますか?」
「いいわけねぇだろ、オイ」
女の前にスッと手を差し出したフォルトの手を、大柄な男の手が遮った。女とフォルトの間に体を挟み込む様にしてフロイドが立ちはだかる。
仕立ての良い黒いスーツに身を包み、髪を軽くバックに流したフロイドは普段とは違う色香を放っていたが、清廉な雰囲気のフォルトと向き合って並ぶと、ならず者感が半端ではない。
青筋を立てるフロイドを見たナイトイレブンカレッジの生徒は、即座にフロイドの間合いから離れた。フロイドの機嫌が悪くなったら、フロイドの長い脚が届く範囲には入ってはいけないというのはナイトイレブンカレッジ生の常識だった。
そんな事は知らないフォルトは薄い唇に笑みを浮かべながら、フロイドの後ろに隠れた女に向かって声を掛ける。
「おや、貴方をお誘いしてはいませんよ、如何ですかレディ?」
「すみません、私、踊れませんので」
「そうですか、残念です。でしたら少しお話を」
「しねぇから!見てわかんねぇ?お前は邪魔なの」
フロイドの腕の隙間からひょこっと顔を出した女は返事をした。何を律儀に返事してんだよとフロイドは不機嫌になったが、それよりも目の前の男が気に入らない。
目の前で睨み合う男達をどうするべきかと女が思案していた所に、思わぬ人物が入ってきた。
「フロイド!ここにいたのね!探したのよ、連絡、全然返してくれないんだもん」
何時ぞや見たプラチナブロンドの美女が、真っ赤なヒールで軽快な音を立てながら現れた。
均整のとれた肉体、彫りの深い顔に強い意志を宿す瞳、真っ赤なルージュの似合う美しい女だった。
美女は早足で近付いてきた勢いのままフロイドにしなだれ掛かった。
フロイドは思わぬ伏兵にぎょっとして、自身の背に回りかけた美女の手を振り解く。
「触んな」
「何?フロイド、こないだから変よ?会いに行っても冷たいし、連絡は返してくれないし、ま、それは元々だけど、陸に行ってからおかしくなっちゃったんじゃないの?」
「おかしくねぇよ、もう来んなっつたろ」
「なんでよ!番なのに酷いじゃない!ていうか、なに、その子」
美しく着飾っていても本質は獰猛な人魚の雌らしく、目をぎらつかせながらフロイドの背にいる女を見た。そして、女に向かって真っ赤に塗られた爪を向けた。女に向かって伸ばされた人魚の手をフロイドの手がはたき落とす。
「他人の女に触んじゃねえよ」
「ハ?ああ、そういう事ね。フロイドは陸の雌に誑かされちゃったのね。馬鹿じゃないの?こんな稚魚ちゃんに絆されたって訳?海のギャングが聞いて呆れるわね」
「あのさぁ、雌だからってオレが手加減すると思ってんのぉ?オレは他人から束縛されんのが、大嫌いなの」
「ハッ生言ってんじゃないよ、ていうか、あんた、何なの?フロイドの後ろに隠れて、私はお姫様ですってか?私と対峙する度胸もないわけ?」
突然飛んできた矛先に、女は驚きつつも、その意見も最もだなと思って言葉を返した。
「うるさいアバズレ」
「はぁ?あんた今なんて?」
「いや、スタイル良くて羨ましいですねぇって」
「いけしゃあしゃあと嘘ついてんじゃないわよ!コケにするのもいい加減にしな小娘」
「いや、私下手したら貴方の倍生きてますけど」
「え?」
「え?」
この発言に驚いたのはフロイドもだった。
にやにやと笑う女に、ハッタリなのか真実なのか計りかねる。
美女は憤慨した。
「ババアじゃないの!」
「そうなんですよね。まあ、フロイドさんはそのババアが好きだったんじゃないですか?小娘じゃなくて、うふふ、残念ですね」
「こんのぉ」
怒りすぎて変身が解けかけ、顔に鱗模様をだしながら人魚が吠える。そこに事態を傍観していたフォルトが割って入った。
「まあまあ、美しい人、そんなに怒っては素敵な顔が台無しだよ」
「なんだ人間、殺すぞ」
「怒らないで、彼は貴方の魅力がわからない可哀想な人なのさ」
殺伐とした空気にそぐわない温和な笑顔を浮かべて人魚を宥めるフォルトに興が削がれた人魚の女は握りしめていた拳を下ろした。
フロイドの心が変わらないなら、この不毛な言い争いに意味が無いことを思い出した人魚の女は捨て台詞を吐き、フロイドに向かって中指を立てた。
「はっ、もういいわ、二度と顔見せんな」
「こっちの台詞だっつうの」
フロイドが舌を出して人魚の女を睨め付ける。
靴音を鳴らしながら美しい人魚の女は去っていった。
「人魚って激しいんですね」
「貴方も中々でしたよ」
女が他人事の様に言った言葉に、一連の揉め事を眺めていたジェイドが笑った。いつから見ていたのだろう。
女とフロイドの周りを取り囲んでいた野次馬の中からジェイドが歩み出る。
「ジェイドさんでしたか、あの人をけしかけたでしょ」
「まさか、フロイドを探しておいでだったので居場所をお伝えしただけですよ」
「ジェイド、後で話あっから覚悟しとけよ♡」
「おや、怖い怖い」
この兄弟はこんなのばっかりだなと思いながら女は息を吐いた。
何だかどっと疲れてしまった。
それにしても、フロイドがいたので強気に出たが人魚の女が言っていたことは的を射ていた。女は何時もフロイドに守られるばかり。それが悪いとは思っていない。腕力が無いのも、魔法が使えないのも仕方のない事だからだ。しかし、指摘されて傷付かない訳ではなかった。
女はうなだれた。
「ちょっと、疲れました。寮に戻ります」
「オレもいくよぉ」
寮に向かって歩き出した女の横にフロイドが並ぶ。女はその様子を一瞥して息を吐いた。
「ジェイドさん達と楽しんでていいですよ」
「意地悪いわないで、一緒に居させてよ」
「そうですか?まあ、フロイドさんがそうしたいなら」
「ウン、行こぉ」
この特別な日に調子が悪くなった女の相手をわざわざしなくてもいいという気遣いだったが、フロイドは突き放された様に感じた。
女の肩を優しく抱いてオンボロ寮までの道を歩く。
「フロイドさん、ほんとに良かったんですか?」
「何のことぉ?」
「あの人魚さん、というかあの人じゃなくても、もっと美人で強くて賢くて、魔法が使えて、素敵な人をフロイドさんは選べるでしょう?敢えて、魔法が使えない、いつ元の世界に戻るかも分からない私と一緒にいなくてもいいんですよ」
女は言うべきだと思った。ここで言わなくても、きっとこの気持ちはずっと抱えることになる。
フロイドは女の言わんとすることが理解できたが、女がそんな事を言う意味が分からなかった。
「なぁに、それ?」
「あのさ、それで、バイバイってしちゃえる程、オレって価値無いの?頼りにならないの?」
フロイドは立ち止まって俯いた。
その顔に表情はなかった。
「そういう訳じゃないですよ。フロイドさんの事は大切です、とっても。だからこそ、今、誠実に、この話をしてるんですよ。私にとって都合の悪い事をわざわざ言葉にして、選んでいいって言ってるんですよ。私は悪いやつだから、今しか、言いませんよ?」
女は薄く微笑んだ。やさしい声色だった。
フロイドの逆立つ心を包み込むような柔らかい言の葉。
しかし、フロイドにはそれが我慢ならなかった。
「そんなの、ウソじゃん、だって欲しいものはどんな事をしても手に入れたいじゃん。オレはそういうものになりてぇの。なのに、なんでそういう事、言うの?なんでオレから離れていこうとすんのぉ」
迷子の子供のような目で女を見たフロイドは、向き合っていた女の肩を掴んで抱き寄せた。
女が何処にもいかないように。
女がフロイドから離れていかないように。
そうしていないと女の小さな体がフロイドの手から抜け落ちてしまうような気がした。
女はきつく押し付けられたフロイドの胸に頭を預けた。
「離れるなんて言ってませんよ」
「でも、そういうことじゃん!やだ!」
女は少し笑って言葉を探した。
「難しいなぁ、大事な人だからこそ、私じゃない人と幸福になれるなら、その道を選ばせてあげたいって思う事、ないですか?」
「無ぇよ!そんなの、いい人ぶって気持ちよくなってるだけじゃん、オレはそんなのやだ!なんで選んでくれねぇの?なんで求めてくれねぇの?なんでオレが一番だって言ってくれねぇの?オレは、どうしたらいいの?」
「ありがとうフロイドさん。何時も私を大事にしてくれて、優しくしてくれて、頼らせてくれて。私はたぶん返せないけど、それでも、傍にいてくれてありがとう」
「なんなの、いみ、わかんねぇ」
「いいんですよ、わかんなくて。わかんなくても、フロイドさんがそうしたいと思ってくれるなら、一緒にいれます。私も一緒にいたいです。」
「ほんとに?」
「ほんとですよ」
根本的に違うのだろうと思った。それでも、その時の女の正直な気持ちだった。この美しい人魚を解放してあげてもいい、それが愛かも知れない、そう思ったのだ。
女を抱き締めて離さないフロイドの背にそっと手を回す。それに気付いたフロイドは一層強く女を抱き締めた。
「帰りましょう」
「ウン」
フロイドは女に背を軽く叩かれて渋々抱きしめていた手を解くと、そのまま女の手を握った。
二人で手を繋いで、寮までの道を歩いた。
しかし、それに気付いたフロイドは、女がまだ目覚めないうちからオンボロ寮にやってきた。
朝日が昇らないうちから寮の前で待たれていれば出ていかざる得ない。
面倒くさくなった女は、フロイドと話をする事にした。
玄関扉を開けて、フロイドを談話室に招き入れる。
「おはようございます、フロイドさん」
表情は笑っているが目は笑っていないフロイドは開口一番、女を問い詰めた。
「ねぇ、なんでオレのこと無視するのぉ?」
「…こないだの一般開放日に、綺麗な女性といちゃついてるフロイドさんを見て不愉快な気持ちになったからですね」
寝起きの女は、何故フロイドの方が怒っているのかとムカムカしてきた。
「なぁに?それ」
「ねえ、それとジェイドと浮気すんの、なんか関係あんのぉ?」
フロイドは談話室に入った時に嗅いだ、嗅ぎ慣れた臭いの正体に気付いた。
「は?何言ってるんですか?話すり替えないでほしいんですけど?」
「そっちこそなぁに?顔が一緒なら誰でもいいわけ?」
女はフロイドの婚約者だという件の女性について話をしたかったのだが、そのことについて何の説明も、弁解すら無かった。
ジェイドの話をすれば、ジェイドがフロイドの婚約者の話を暴露したことを伝える事になる。それは避けたかった。
お互いに都合の悪い事を棚上げして罵りあうのが馬鹿らしくなって、女は投げやりになった。
「そうですか、もういいです」
「何がだよ」
「お望みの通り、ちょっとジェイドさんの所に行ってきますね」
「はぁ?させる訳ねえだろ」
外に出ようとした女を、フロイドが引き戻す。
「怒りたいのこっちだっつうの!結婚詐欺野郎!」
「待ってよ」
「冷静になりたいので放っといてください」
売り言葉に買い言葉で、言わなくていいことを言った。
女は、ばたばたと二階に駆け上がる。
自室に駆け込み、扉を閉める。
女はフロイドから愛されていると思っていた。フロイドが異性からモテるのは分かっていたが、興味のない相手にはとことんドライなのがフロイドである。
他に女の影があるとは思わなかった。
女はその日、初めて学校をサボった。
女は一日考えてから、引き摺っても問題を先延ばしにするだけだと結論付けた。
どちらにせよ傷付くなら、早いほうがいい。
ジェイドの事は巻き込まないつもりだったが、もういいだろう。
翌朝、女はきっちりと制服を着込み、泣き腫らした顔が少しでもマシに見えるように濃い目に化粧を施してオクタヴィネル寮に向かった。
女のほうが出向いたのは、乱闘になった際に、自寮内での揉め事を嫌うアズールが止めに入るだろうという打算である。
女は、ウツボの人魚の綺麗な顔を引っ叩く位はするつもりだった。
しかし、女が乗り込む前に、既にウツボの人魚は二人とも瀕死であった。
女と口論になった後、ジェイドが自分の雌にちょっかいを出した事に気付いたフロイドが寮に戻るなりジェイドをぶん殴ったのである。
ジェイドも嗤いながら殴り返し、オクタヴィネル寮は大怪獣ウツボブラザーズの災害指定区域となった。
半壊したオクタヴィネル寮に女は絶句する。
「なにこれ」
「おやおや、件のお姫様じゃないですか」
女の前では、何時も余裕を崩さないオクタヴィネルの寮長が、ずり落ちた眼鏡を直そうともせずに吐き捨てる様に言った。
「なんでこんな事になってるんですか?」
「聞きたいのはこっちですよ。貴方が誰と寝ようが構いませんがね、ええ、僕と関わりのない所でやってもらえますか?」
「何の話ですか?」
「貴方を巡って馬鹿な雄ウツボ二匹が大喧嘩してこの有り様です」
「…なんで?」
「知りませんよ!」
アズールは今にも叫び出しそうな剣幕である。
何時もなら綺麗に整えられている髪を、掻きむしりながら半壊した寮の修復にあたっていた。
「フロイドさんは何処にいますか?」
「ジェイドもフロイドも自室にいますよ」
「それ、何処ですか?」
「ああ、貴方が彼等の部屋に来るのは初めてでしたね、はぁ、案内します」
「お願いします」
アズールは見ていて可哀想になるくたびれ具合だった。
「失礼します。こんにちはフロイドさん、ジェイドさん」
「来てくれたんだぁ~」
ジェイドとフロイドは傷だらけで左右それぞれのベットに横たわっていた。
フロイドは女の姿を見ると顔をほころばせた。
女は包帯まみれで横たわるフロイドに微笑みかける。
「はい。ボロボロのフロイドさんに追い打ちをかけに来ました。」
「えっ」
反対側のベットで、面白くなってきたとばかりにジェイドが身を乗り出すのが見えた。
全く碌でもない人魚だと思いながら女は続ける。
「こないだの一般開放日の日、プラチナブロンドの美女がフロイドさんの上に乗っていた件なんですけど、彼女がフロイドさんの婚約者という話は本当ですか?」
「それは、親が決めたやつで、オレは全然そんなつもりねぇし…」
「本当だということですね」
「ウン」
女の冷たい視線にフロイドは黙った。
「その状態は今も継続してるってことですよね?」
「いや、オレはちゃんと別れるつもりで…」
「継続してるんですよね?」
「ウン」
「はぁ」
女の溜息を聞いて、部屋にいた三人の人魚は小さく震えた。
他人の恋路に関わる気の無かったアズールも、立ち去るタイミングを逃してしまい、部屋から出られなくなっていた。
女はどうしようか考えた。
今、フロイドの事を女は信じることが出来るだろうか。
女がぼんやりと考えている間、論外のウツボは絞首台に昇る罪人の様な面持ちだった。
「…言ってほしかったな」
「え?」
「いえ、婚約者の話も、その関係をまだ清算できてないこともフロイドさんから言ってほしかったなと思って、それに、私と一緒にいる事を考えてくれるなら婚約者さんが来た時も、あんな風に受け入れたりしないで欲しかった」
「それは、ごめん、でもあいつとは、何もしてねぇよ」
「ふぅん?」
「もうしないから」
この流れは非常に不味いと感じたフロイドは女を繋ぎ止める言葉を探したが、適切な言葉は見つからなかった。
「別に、もういいですよ、お別れしましょう。フロイドさん、素敵な人魚の婚約者さんと宜しくやってください。」
「っ、そんなのヤダぁ〜」
フロイドは子供の癇癪の様に、長い手足をばたつかせながら駄々をこねた。
191cmの大男が暴れたことによって、フロイドのベットがギシギシと悲鳴を上げた。
女の後ろで、神経質な蛸の人魚がハウスダストが舞うのを気にしていたが、口を挟む状況ではないと小言を言いかけた口を閉じた。
女は暫くフロイドの癇癪を眺めて言った。
「私だって、二股かける男、嫌ですよ」
「そんな事してねぇもん!アイツのことは忘れてただけだもん!」
「どういう言い訳ですか、それ」
「本当だし!一般開放日に久し振りに顔見て、こんな奴いたなぁって思ってたら、なんかすげえ怒ってるし、ジェイドと浮気するし!ひでぇよぉ!なんでオレがこんなに怒られんのぉヤダァ〜」
「いや、私は酷くないですよね?!後、ジェイドさんとは少し話をしてただけで浮気なんてしてないですからね?!」
「おやおや、僕のこと嫌いじゃないとおっしゃったのは嘘だったんですか?」
「そこのウツボはこれ以上状況を引っ掻き回さないでください!」
「いいじゃないですか、面白くなってきたのに」
「は?嘘なの?何?ジェイド、騙したわけ?」
瞳孔の開いたフロイドの瞳が、ジェイドに向く。
「別に騙してはいません。彼女と夜を過ごしましたとお伝えしただけです。」
「ジェイドさん、ほんとに何やってんですか貴方…」
悪びれる様子のないジェイドに女は呆れた。
嘘ではないが、誤認させる気満々の情報の伝え方だ。
ジェイドとの乱闘の傷で、上手く立ち上がれないフロイドは床を這うようにして女の下まで来ると、女の足元に縋り付いた。
女の足に腕を巻き付けながら、目尻下げて今にも泣き出しそうな様子で懇願した。
「お願い、オレから離れていかないでぇ」
フロイド渾身の甘え顔に女は弱かった。
女の中で燃えていた怒りが霧散していくのを感じる。
「今回だけですよ。次やったら蒲焼にしますからね」
「うん♡」
ころっと元気になったフロイドは、フロイドに巻き付かれて腰を折った女の膝の上に転がると、女の腹部にぐりぐりと頭を押しつけた。
なんだかんだフロイドに絆されてしまった女は、元の関係性を取り戻した。
気紛れで艷やかなウツボ人魚はその時の気分で生きているので、こういう事もあるのかもしれないと思い直した。
どんな回復力をしているのか、全身生傷だらけ、包帯まみれだったフロイドは、数日で元の快活な姿を取り戻し、連日オンボロ寮に押しかけた。
不足分を取り戻すかのように、女にくっついて回り世話を焼いている。
「おはよぉ♡モーニングにホットサンド作ってきたんだぁ一緒に食べよぉ♡」
朝早くにオンボロ寮にやって来たフロイドは、右手に見慣れたモストロ印の紙袋を持ってやって来た。
寝起きでぼんやりしている女の寝癖のついた髪を愛しげに撫でた。
勝手知ったる様子でオンボロ寮の談話室に上がり込むと、慣れた様子で朝食の準備をしはじめた。
「…フロイド先輩おはようございます」
「旨そうな匂いがするんだぞ!」
「小エビちゃんとアザラシちゃんじゃん、おはよぉ~どうせいるだろうと思ってたから、お前らの分もあるよぉ♡オレって超やさしい♡」
「やったんだぞ!」
「ありがとうございます!」
監督生とグリムが、食べ物の匂いにつられて談話室に顔を出した。
監督生は遠慮がちだったが、グリムが飛び出していった手前顔を出さずにはいられなかったのだろう。
監督生は女に、二人の時間を邪魔してごめんなさいと視線を寄越して頭を下げる。
「ふふ、おはようございます。一緒に食べましょう。フロイドさんのご飯美味しいですから」
「うん、そんでぇ、食ったら、いちゃつくから出てけよぉ♡」
「ちょっと、正規の寮生を追い出さないで下さいよ」
「ええ〜いいじゃん」
わいわいと三人と一匹で朝食を囲む。
何だか懐かしい心地がした。
いつの間にか、借宿だったオンボロ寮は女にとっての家になっていた。それであれば、監督生やグリム、なぜか何時もいるフロイドは疑似家族であろうか。
「嬉しいな。なんだか家みたいです」
「私も思ってました、なんか、家族みたい。その、いきなり違う世界からやって来て困ってるのにこんな事言ったら駄目だなってずっと思ってたんですけど、お姉ちゃん出来たみたいでちょっと楽しいなって思ってたんです」
「私もだよ。学生としては先輩だけど、私もユウちゃん妹くらいの歳だなあって思ってましたよ」
「じゃあオレは、旦那さんでぇ、小エビちゃんのお兄さんねぇ!後、ペットのアザラシ」
「俺様はペットじゃねぇんだぞ!」
誰かが家にいて、他愛もない話をする。
そういう相手のいる生活が女は好きだった。
穏やかな顔をする女を眺めていたフロイドは、女は温かい家と家族が欲しかったのだと知った。
そして、それを己が与えてあげようと思ったのだった。
フロイドは、自由気で気まぐれな人魚だが、本当の意味で一人になったことはない。
生まれてすぐには、沢山の己にそっくりの兄弟がいたし、ジェイドと二人になってからも、なんだかんだとずっと一緒だった。
父親と母親は、ジェイドとフロイドを愛していたし、強靭で麗しい人魚だったフロイドは多くの者の注目を集める存在で、フロイドに惹かれる者は後を絶たなかった。
女は、元の世界ではそれなりに家族に愛されて育ったと思っているし、生きていける能力も稼ぎもあった。仕事は社会との繋がりを生んだし、楽しめる趣味もあった。
しかし、捻れた世界に放り出されてからは、一転した。世界と何の関わりも持たない女は、学校という閉鎖的な場所で孤独だった。女自身も、あくまでも元の世界に戻るまでの仮住まいに、多くを築く気がなかった。
今でこそ、この世界で無視出来ない存在であるフロイドが関わってきたことで状況が一変したが、そもそも女は孤独だった。
変化したのは、女の保護者ということになっているクロウリーとの関係もであった。
曲がりなりにも養女となった女は強かった。
試しにやってみた娘厶ーブが、思いの外クロウリーの心に刺さったようであった。
慣れた足取りで学園長室のドアを叩く。
クロウリーも慣れたもので、魔力感知に引っ掛からない生物の接近、そして、慣れた手付きで学園長の扉を軽くノックする音。女が来たのだとすぐに分かった。
「こんにちは、パパ」
「やあやあ、可愛いパンプキンちゃん!どうしたんですか!」
「今度の校外との交流パーティ、私と監督生さんも出ていいんですよね?」
「ええもちろんですよ!」
「実は、パーティ用のドレスが無いんです、それで、相談に」
「ええ、もちろん用意してあげますよ!買いに行きますか?」
「やった!じゃあ、黒くて素敵なパパの羽みたいなドレスがいいなぁ~」
「んもぅ!甘え上手なんですから!週末ブティックまで選びに行きましょうね!」
「楽しみ!監督生さんにも伝えておきますね♡
そうだ、クッキー作ってきたんです。時間あれば一緒にどうですか?お茶入れていいです?」
「もちろん、頂きますよ」
女はにっこり笑って、学園長室の奥に備え付けのキッチンに向かう。
フロイドに頼めば、大概の事はしてくれるのは分かっていたが、彼も身分は学生である。それに女からすれば歳下だった。
その点、クロウリーは大人だったし、学校一つ経営する男である。女にちょっと物を買い与えるくらい、痛くもかゆくもないことを知っている。しかも今は、形なりにも娘。甘える相手としては最適だった。
クロウリーも女もとんだ茶番だとわかっているが、それに乗っかるのもお互いに楽しいものだった。
オンボロ寮で女が監督生に声を掛ける。
「今度の学外との交流パーティ私達も出ていいそうです。あと週末にブティックでドレス買いに行きましょう。学園長に交渉してきました」
「えっ私も、良いんですか?ていうかどうやったんですか?」
「いや、普通にドレス欲しいなって言ったら買いに行きますかってなっただけですよ」
「何か面倒事を押し付けられたりは?」
「特に無い、かな」
「そんな…差別だ…やはり養女だからか?」
「あはは、監督生さんもクロウリーになっちゃいます?」
「いや、それは、ちょっと…」
「あはは」
大概のことが適当な女と違って、監督生は自分の感情や今迄築いてきたものを大切にする傾向があった。
もとの世界の家族のことを考えると、見るからに怪しい烏の養女になるのは心苦しいのだろう。
そんな監督生の義理堅い部分に女は好感を持っていた。女は実利があればいいと考えるタイプだったが、それだけで世の中が回らない事を知っている。
太陽光を受けて、硝子張りの天井が輝く。
鮮やかな服やアクセサリーが所狭しと並ぶ店内で、女と監督生とクロウリーはドレスを選んでいた。
慣れない場所に恐縮する監督生と違い、女は生き生きとしていた。
買い物は楽しい。どれだけ買っても自分の懐が痛まないとならば尚更。
「パパぁ、これとこれどっちが似合うと思います?」
「どっちもかわいいですよ、強いて言うなら黒いほうが引き締まって見えますねぇ」
「ですよね、ちょっとこれ試着してきます」
「はい、いってらっしゃい」
「靴とアクセサリーも、ご一緒に準備しました、如何ですか?」
「ありがとう」
この女は買いそうだと嗅ぎ付けた店員がすかさずドレスに合わせた靴とアクセサリーを見繕ってきた。
できる店員にほくそ笑みながら女は試着室に滑り込んだ。
お金はクロウリーの財布から出るので、女は何の遠慮もなかった。
クロウリーも特に咎める様子もなく、試着室から出てきて、ああでもないこうでもないとファッションショーを開始する女をソファーに座って眺めている。
それに驚いたのは監督生である。
「ぱ、パパ活だ…」
クロウリー性になったら、生活レベルが上がるかもしれないと真剣に考えていた監督生だったが、養女になったとしても、とても女の真似はできないと一人肩を落とした。
結局、一人でドレスを選べなかった監督生は、女の言われるがまま、似合うと言われた薄桃色のドレスを選んだ。
オロオロする監督生の横で、女が靴とアクセサリーを合わせて店員に申し付けていた。
会計は当然クロウリーが支払った。
がっかりしたのはフロイドであった。
女としては、フロイドに負担をかけない気遣いであったが、自分がとっておきのドレスを選んでプレゼントするつもりだったフロイドは内心穏やかではなかった。
パーティで、別の男に買ってもらったドレスを着る女をエスコートするのは複雑だった。
羽模様の刺繍された、黒い濡羽の様なタイトドレスは女によく似合っていた。
よく似合っているのがまたフロイドに追い打ちをかけた。
女の部屋で新しく買ったドレスを着た女を眺めて複雑な顔をするフロイドを他所に、女は有頂天だった。
この学園で女性らしい格好をすることは少ない。
学園長の財布からなので、何の遠慮もなく、ドレスにバッグに靴にアクセサリー、当日用の化粧道具まで買い漁ってきた。
最後の方はクロウリーの笑顔も引き攣っていたが、買ってやると言った手前止めることもできずに震える手でカードを切っていた。
女は黒いスカートを翻しながら姿見の前に立ち、ベッドを椅子代わりにして座るフロイドに向き直った。
「我ながらかわいいと思うんですけど、どうですか?」
「ウン、すげぇ似合ってるよぉ」
「あの美人の人魚に勝ってます?ねぇ?」
「勝ってるよぉ、まだ怒ってんのぉ?」
「いや、勝ってないですけどね?客観的に見てジャージ着ててもあっちのほうが上ですね」
「なんて言ったら正解なのぉ?!」
「なんて言っても負けでぇす」
「ひでぇよぉ、ずっと言うじゃん」
「私と一緒にいたら一生言われますから覚悟しててください」
「うえぇん」
フロイドは大きな身体を丸めて泣き真似をする。他の男に買ってもらった服を褒めさせられて、昔の女の事をチクチクと責め立てられながらフロイドは項垂れた。
女は最初に出会った頃と比べて、フロイドに遠慮がなくなっていた。受け入れられた事を嬉しく思いつつも、将来的に女の尻に敷かれる未来が見えてフロイドは震えた。
他校との交流パーティーは、共学の学校からも生徒がやってくるため、女や監督生がドレスアップしていても浮く事はなかった。
艷やかな黒いタイトドレスは、男子生徒用にデザインされた制服と違って、普段隠されている女の身体の曲線を露わにした。
何時もはスラックスの下に隠されている監督生のすらりとした脚が視線を奪う。
男装という程ではないが、普段『女』である事を意識させないように振る舞っている二人の艶やかな姿に、ナイトイレブンカレッジの学生達だけが異様に色めき立っていた。
普段は見れない他校の女子生徒も気になるが、よく知っていると思っていた人間の意外な姿というのは人の心をときめかせる。
しかし、どれだけ心をときめかせようとも、女の後ろには怖いウツボが付いているのでナイトイレブンカレッジの男子生徒は誰一人として声を掛ける事はできなかった。
だが、他校の生徒は別だ。
横に張りつく大柄な色男と親しげな雰囲気を出していようと、目に付く綺麗な女性には声を掛けずにいられない男は居る。むしろ、それこそが美しい女性へのマナーだと思っている。
広間のシャンデリアの光を浴びながら、髪も瞳も服さえも白銀の男が女の前に進み出た。
整った顔立ちの男は物語に出てくる騎士のような出で立ちであったが、白く光を反射する姿を、女は反射板のようだなと思った。
「こんばんは、レディ」
「こんばんは」
「私はロイヤルソードアカデミーのフォルトと申します。よければ一曲お付き合いいただけますか?」
「いいわけねぇだろ、オイ」
女の前にスッと手を差し出したフォルトの手を、大柄な男の手が遮った。女とフォルトの間に体を挟み込む様にしてフロイドが立ちはだかる。
仕立ての良い黒いスーツに身を包み、髪を軽くバックに流したフロイドは普段とは違う色香を放っていたが、清廉な雰囲気のフォルトと向き合って並ぶと、ならず者感が半端ではない。
青筋を立てるフロイドを見たナイトイレブンカレッジの生徒は、即座にフロイドの間合いから離れた。フロイドの機嫌が悪くなったら、フロイドの長い脚が届く範囲には入ってはいけないというのはナイトイレブンカレッジ生の常識だった。
そんな事は知らないフォルトは薄い唇に笑みを浮かべながら、フロイドの後ろに隠れた女に向かって声を掛ける。
「おや、貴方をお誘いしてはいませんよ、如何ですかレディ?」
「すみません、私、踊れませんので」
「そうですか、残念です。でしたら少しお話を」
「しねぇから!見てわかんねぇ?お前は邪魔なの」
フロイドの腕の隙間からひょこっと顔を出した女は返事をした。何を律儀に返事してんだよとフロイドは不機嫌になったが、それよりも目の前の男が気に入らない。
目の前で睨み合う男達をどうするべきかと女が思案していた所に、思わぬ人物が入ってきた。
「フロイド!ここにいたのね!探したのよ、連絡、全然返してくれないんだもん」
何時ぞや見たプラチナブロンドの美女が、真っ赤なヒールで軽快な音を立てながら現れた。
均整のとれた肉体、彫りの深い顔に強い意志を宿す瞳、真っ赤なルージュの似合う美しい女だった。
美女は早足で近付いてきた勢いのままフロイドにしなだれ掛かった。
フロイドは思わぬ伏兵にぎょっとして、自身の背に回りかけた美女の手を振り解く。
「触んな」
「何?フロイド、こないだから変よ?会いに行っても冷たいし、連絡は返してくれないし、ま、それは元々だけど、陸に行ってからおかしくなっちゃったんじゃないの?」
「おかしくねぇよ、もう来んなっつたろ」
「なんでよ!番なのに酷いじゃない!ていうか、なに、その子」
美しく着飾っていても本質は獰猛な人魚の雌らしく、目をぎらつかせながらフロイドの背にいる女を見た。そして、女に向かって真っ赤に塗られた爪を向けた。女に向かって伸ばされた人魚の手をフロイドの手がはたき落とす。
「他人の女に触んじゃねえよ」
「ハ?ああ、そういう事ね。フロイドは陸の雌に誑かされちゃったのね。馬鹿じゃないの?こんな稚魚ちゃんに絆されたって訳?海のギャングが聞いて呆れるわね」
「あのさぁ、雌だからってオレが手加減すると思ってんのぉ?オレは他人から束縛されんのが、大嫌いなの」
「ハッ生言ってんじゃないよ、ていうか、あんた、何なの?フロイドの後ろに隠れて、私はお姫様ですってか?私と対峙する度胸もないわけ?」
突然飛んできた矛先に、女は驚きつつも、その意見も最もだなと思って言葉を返した。
「うるさいアバズレ」
「はぁ?あんた今なんて?」
「いや、スタイル良くて羨ましいですねぇって」
「いけしゃあしゃあと嘘ついてんじゃないわよ!コケにするのもいい加減にしな小娘」
「いや、私下手したら貴方の倍生きてますけど」
「え?」
「え?」
この発言に驚いたのはフロイドもだった。
にやにやと笑う女に、ハッタリなのか真実なのか計りかねる。
美女は憤慨した。
「ババアじゃないの!」
「そうなんですよね。まあ、フロイドさんはそのババアが好きだったんじゃないですか?小娘じゃなくて、うふふ、残念ですね」
「こんのぉ」
怒りすぎて変身が解けかけ、顔に鱗模様をだしながら人魚が吠える。そこに事態を傍観していたフォルトが割って入った。
「まあまあ、美しい人、そんなに怒っては素敵な顔が台無しだよ」
「なんだ人間、殺すぞ」
「怒らないで、彼は貴方の魅力がわからない可哀想な人なのさ」
殺伐とした空気にそぐわない温和な笑顔を浮かべて人魚を宥めるフォルトに興が削がれた人魚の女は握りしめていた拳を下ろした。
フロイドの心が変わらないなら、この不毛な言い争いに意味が無いことを思い出した人魚の女は捨て台詞を吐き、フロイドに向かって中指を立てた。
「はっ、もういいわ、二度と顔見せんな」
「こっちの台詞だっつうの」
フロイドが舌を出して人魚の女を睨め付ける。
靴音を鳴らしながら美しい人魚の女は去っていった。
「人魚って激しいんですね」
「貴方も中々でしたよ」
女が他人事の様に言った言葉に、一連の揉め事を眺めていたジェイドが笑った。いつから見ていたのだろう。
女とフロイドの周りを取り囲んでいた野次馬の中からジェイドが歩み出る。
「ジェイドさんでしたか、あの人をけしかけたでしょ」
「まさか、フロイドを探しておいでだったので居場所をお伝えしただけですよ」
「ジェイド、後で話あっから覚悟しとけよ♡」
「おや、怖い怖い」
この兄弟はこんなのばっかりだなと思いながら女は息を吐いた。
何だかどっと疲れてしまった。
それにしても、フロイドがいたので強気に出たが人魚の女が言っていたことは的を射ていた。女は何時もフロイドに守られるばかり。それが悪いとは思っていない。腕力が無いのも、魔法が使えないのも仕方のない事だからだ。しかし、指摘されて傷付かない訳ではなかった。
女はうなだれた。
「ちょっと、疲れました。寮に戻ります」
「オレもいくよぉ」
寮に向かって歩き出した女の横にフロイドが並ぶ。女はその様子を一瞥して息を吐いた。
「ジェイドさん達と楽しんでていいですよ」
「意地悪いわないで、一緒に居させてよ」
「そうですか?まあ、フロイドさんがそうしたいなら」
「ウン、行こぉ」
この特別な日に調子が悪くなった女の相手をわざわざしなくてもいいという気遣いだったが、フロイドは突き放された様に感じた。
女の肩を優しく抱いてオンボロ寮までの道を歩く。
「フロイドさん、ほんとに良かったんですか?」
「何のことぉ?」
「あの人魚さん、というかあの人じゃなくても、もっと美人で強くて賢くて、魔法が使えて、素敵な人をフロイドさんは選べるでしょう?敢えて、魔法が使えない、いつ元の世界に戻るかも分からない私と一緒にいなくてもいいんですよ」
女は言うべきだと思った。ここで言わなくても、きっとこの気持ちはずっと抱えることになる。
フロイドは女の言わんとすることが理解できたが、女がそんな事を言う意味が分からなかった。
「なぁに、それ?」
「あのさ、それで、バイバイってしちゃえる程、オレって価値無いの?頼りにならないの?」
フロイドは立ち止まって俯いた。
その顔に表情はなかった。
「そういう訳じゃないですよ。フロイドさんの事は大切です、とっても。だからこそ、今、誠実に、この話をしてるんですよ。私にとって都合の悪い事をわざわざ言葉にして、選んでいいって言ってるんですよ。私は悪いやつだから、今しか、言いませんよ?」
女は薄く微笑んだ。やさしい声色だった。
フロイドの逆立つ心を包み込むような柔らかい言の葉。
しかし、フロイドにはそれが我慢ならなかった。
「そんなの、ウソじゃん、だって欲しいものはどんな事をしても手に入れたいじゃん。オレはそういうものになりてぇの。なのに、なんでそういう事、言うの?なんでオレから離れていこうとすんのぉ」
迷子の子供のような目で女を見たフロイドは、向き合っていた女の肩を掴んで抱き寄せた。
女が何処にもいかないように。
女がフロイドから離れていかないように。
そうしていないと女の小さな体がフロイドの手から抜け落ちてしまうような気がした。
女はきつく押し付けられたフロイドの胸に頭を預けた。
「離れるなんて言ってませんよ」
「でも、そういうことじゃん!やだ!」
女は少し笑って言葉を探した。
「難しいなぁ、大事な人だからこそ、私じゃない人と幸福になれるなら、その道を選ばせてあげたいって思う事、ないですか?」
「無ぇよ!そんなの、いい人ぶって気持ちよくなってるだけじゃん、オレはそんなのやだ!なんで選んでくれねぇの?なんで求めてくれねぇの?なんでオレが一番だって言ってくれねぇの?オレは、どうしたらいいの?」
「ありがとうフロイドさん。何時も私を大事にしてくれて、優しくしてくれて、頼らせてくれて。私はたぶん返せないけど、それでも、傍にいてくれてありがとう」
「なんなの、いみ、わかんねぇ」
「いいんですよ、わかんなくて。わかんなくても、フロイドさんがそうしたいと思ってくれるなら、一緒にいれます。私も一緒にいたいです。」
「ほんとに?」
「ほんとですよ」
根本的に違うのだろうと思った。それでも、その時の女の正直な気持ちだった。この美しい人魚を解放してあげてもいい、それが愛かも知れない、そう思ったのだ。
女を抱き締めて離さないフロイドの背にそっと手を回す。それに気付いたフロイドは一層強く女を抱き締めた。
「帰りましょう」
「ウン」
フロイドは女に背を軽く叩かれて渋々抱きしめていた手を解くと、そのまま女の手を握った。
二人で手を繋いで、寮までの道を歩いた。
