20年04月
「持倉。これ」
そういうと担任教師は明希に今日の授業のプリントを数枚寄越した。
「なんですか、これ」
職員室に呼ばれてすぐにこれだ。
明確な意図を読み取れずに教師に問えば、「ミヤモト」とだけ帰ってくる。
――二年B組、宮本万結。
明希の頭の中にクラスの問題児の名前が浮かんだ。
「彼、今日も来ていませんでしたね」
明希の言葉に担任は興味なさそうにそっぽを向いた。
そのしぐさ。見たくないものを視界の外に追いやるその行動に、彼は手を焼きすぎてしまったんだ、と明希は思う。
「ちゃんと、持っていきます」
明希は一礼すると職員室の出口へと向かう。廊下に出る前にまた腰を折った。
曲げる際に小さな痛みを生みながら。
受け取ったプリントは丁寧に折りたたんでファイルにしまった。このまま帰宅途中に宮本に会いに行く。
嬉しいわけでも、嫌なわけでもない。ただこなすことをこなすだけ。
出来事の一つ一つにいちいち感情なんて持っていたら、身が持たない。だが、いつからか、湧き上がってくるものが何もなく自分の心の干上がりを感じるようになった。
乾いた足音を立てながら校舎の体内を流れていく。階段を一歩一歩降りるごとに自分は人間の皮をかぶったブリキの人形のように――無機質になりさがっていくような錯覚。
「おい、蔵。呼び出し?」
後ろから聞きたくない声が飛んできて、明希はビクリと肩を震わせた。
「い、井ノ宮……」
声だけではなくそっと尻を触られる。逃げようともがいても井ノ宮に壁側へと誘導され気が付けば逃げ場はない。
「やっべえ、もしかしてばれたとか?」
「ばれたって何が?」
視線を逸らしながら明希が言えば、井ノ宮の腕が伸びてくる。顎を掴まれてこちらを向かされれば、髭が映えてきた同級生の顔面が目の前にあった。
「んなわけねえよな? バレたら損すんのはお前のほうだろ」
口先で笑うと今度は強引に押しのけられる。宙を舞うように階段の踊り場でもつれ足で腰を床に打ち付ければ、昨日さんざん弄ばれた体内に響くようにして衝撃が明希を襲った。
「じゃな」
倒れた明希の目の前で手を振って、井ノ宮は去っていく。彼の引きずるような独特の足音が小さくなって絶えて聞こえなくなるまで、明希はその場を動けなかった。
古びた平屋建ての小さな家。物干し竿には、男物のパンツがそのまま吊るされていた。
ドアチャイムを押しても返事はない。明希の目の前に立ちはだかる平たい板、玄関の扉は思い切り蹴破れば壊れてしまいそうだ。
ここに、宮本が住んでいる。
「はい、どちら様?」
扉があいて顔を出したのは、中年の女性。どこか疲れているのか、色あせた印象の瞳が明希を空虚に見つめている。
「あの、万結くんに」
今日のプリントを持ってきました。そう言葉にする前に扉が閉まった。
「万結なら今、川!」
そう怒鳴るような声が後から追ってくる。
「か、川!?」
渡せずにそのままプリントを持ってきてしまった。
川と言えば川しかない。
宮本家の前の坂道を下るように歩けば、石造りの橋が見える。その下、五メートルくらい下に流水が小さく音を立てている。
「あ、いた!」
思わず橋から身を乗り出して明希は叫んだ。
人の姿だ。それも、うちの中学のジャージで。
下に降りようと思ったが、川の中に続く道などどこにもない。橋のすぐそばに立てられていた看板には立ち入り禁止の札。
「何してんの?」
川に膝まで足を突っ込んで歩いていたその人物が明希を捕えた。顔をあげた彼は、ふっと緩んだ軽やかな笑顔を見せる。
「またおつかい?」
「え?」
「プリント、届けに来てくれたんだろ、委員長」
宮本万結が明希のほうへと歩いてくる。川の周囲をぐるりと取り囲んだ柵を飛び越えると、明希の目の前に立った。手の中で握りしめられていたファイルをそっととった。
「ここ、立ち入り、禁止」
「いいじゃない。けち」
唇を尖らせながら反省の色をまったく見せない彼は、学校に来ない。きっと学校に来ていたらこんなふうに話したりできる相手じゃなかったかもしれない。
明希は宮本の成績が授業をほぼ受けていないのに群を抜いていいことを知っている。
そしてだから、担任が手を焼きすぎて、それでもどうにもならなかったから情熱が枯れて腐ったことも。
「川で何してたの」
「ん? 内緒」
悪戯が見つかった時の子供のような表情をする宮本の前髪から滴る雫。濡れた髪の奥に、何かが反射して光が散った。
あ、青い。
その日、明希は初めて、宮本万結の瞳の色が他者とは少し違うことを発見した。
「何? 俺、見てて面白い?」
「え、い、いや!!」
自分が宮本を凝視していたことに気が付いた明希は慌てて首を横に振る。
「あ、じゃ、これで!!」
慌てて帰ろうとしたところ、「あのさあ」とあきれるくらい間延びした宮本の声が追ってきた。
明希が振り向いた時、宮本はずけずけと聞いてくる。
「井ノ宮とヤってるってホント?」
どこから聞いてきた、そんなこと。
いや、その前に明希の目の前に大きな壁が立ちはだかるのを感じた。どこにも逃げられない。それは、明希を氷漬けにするかのように、足先からじわじわと体温を奪っていく。
「あ、いや、噂、ただの噂だって。しゃーねえなぁ、俺も」
ははと乾いた笑いを浮かべる宮本。笑えない明希。
「あのさ、委員長。学級委員だからって何でもかんでもしなくていいんだぞ。俺のだって、めんどくさけりゃ持ってきなくていい。嫌なことは嫌っていえよ」
だが、宮本の目は笑っていなかった。真摯な光をたたえたまま動けないでいる明希を射止める。
「だ、で、でも、お前こそ大丈夫なのかよ」
お前は、学校来ない癖に。
乾いた唇から漏らした言葉はきっと簡単に崩れてしまう砂糖菓子のようだ。そこには本心も彼への心配も何もない。空虚。
「お、心配か。ありがてえ。だけどさ、委員長。考えてもみろよ。木ってさ、なんであんなにデカいんだって」
突然、話が変わった。
「きっとさ、地中深くから始まるからデカいんだよ。屈折しているっていうかさ、まっすぐに進もうと思ったらその進行方向には大きな硬い石が置いてあって、ぐにゃって曲がっちゃうわけ。分かる?」
話ながら、宮本が歩き出す。
彼の動作を追おうと足を明希は動かしてみた。動く。さっきの金縛りは簡単にもほどけた。
「まっすぐになんて進んで行けるわけないのに、お前は直線的に行こうとしているってこと。そんなの無理じゃん。いくらまっすぐに憧れてたってさ、地上にたどり着かなかったらそこで終わりだよ。曲がってたってひねくれてたっていいじゃん。ちゃんと地面の上、日の当たるところに顔出せたらさ」
だからお前は何がいいたいのさ。
そんなことを単純に尋ねられたら、きっと、自分はもっと人間臭い表情をしているはずだ。
明希は先を行く宮本の顔を見た。
きっと、お前みたいに。
(了)
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✿一次創作BL版深夜の真剣120分一本勝負参加作。第372回お題(滴る雫/青/「〇〇、禁止!」)をお借りしました。2020.04.13
そういうと担任教師は明希に今日の授業のプリントを数枚寄越した。
「なんですか、これ」
職員室に呼ばれてすぐにこれだ。
明確な意図を読み取れずに教師に問えば、「ミヤモト」とだけ帰ってくる。
――二年B組、宮本万結。
明希の頭の中にクラスの問題児の名前が浮かんだ。
「彼、今日も来ていませんでしたね」
明希の言葉に担任は興味なさそうにそっぽを向いた。
そのしぐさ。見たくないものを視界の外に追いやるその行動に、彼は手を焼きすぎてしまったんだ、と明希は思う。
「ちゃんと、持っていきます」
明希は一礼すると職員室の出口へと向かう。廊下に出る前にまた腰を折った。
曲げる際に小さな痛みを生みながら。
受け取ったプリントは丁寧に折りたたんでファイルにしまった。このまま帰宅途中に宮本に会いに行く。
嬉しいわけでも、嫌なわけでもない。ただこなすことをこなすだけ。
出来事の一つ一つにいちいち感情なんて持っていたら、身が持たない。だが、いつからか、湧き上がってくるものが何もなく自分の心の干上がりを感じるようになった。
乾いた足音を立てながら校舎の体内を流れていく。階段を一歩一歩降りるごとに自分は人間の皮をかぶったブリキの人形のように――無機質になりさがっていくような錯覚。
「おい、蔵。呼び出し?」
後ろから聞きたくない声が飛んできて、明希はビクリと肩を震わせた。
「い、井ノ宮……」
声だけではなくそっと尻を触られる。逃げようともがいても井ノ宮に壁側へと誘導され気が付けば逃げ場はない。
「やっべえ、もしかしてばれたとか?」
「ばれたって何が?」
視線を逸らしながら明希が言えば、井ノ宮の腕が伸びてくる。顎を掴まれてこちらを向かされれば、髭が映えてきた同級生の顔面が目の前にあった。
「んなわけねえよな? バレたら損すんのはお前のほうだろ」
口先で笑うと今度は強引に押しのけられる。宙を舞うように階段の踊り場でもつれ足で腰を床に打ち付ければ、昨日さんざん弄ばれた体内に響くようにして衝撃が明希を襲った。
「じゃな」
倒れた明希の目の前で手を振って、井ノ宮は去っていく。彼の引きずるような独特の足音が小さくなって絶えて聞こえなくなるまで、明希はその場を動けなかった。
古びた平屋建ての小さな家。物干し竿には、男物のパンツがそのまま吊るされていた。
ドアチャイムを押しても返事はない。明希の目の前に立ちはだかる平たい板、玄関の扉は思い切り蹴破れば壊れてしまいそうだ。
ここに、宮本が住んでいる。
「はい、どちら様?」
扉があいて顔を出したのは、中年の女性。どこか疲れているのか、色あせた印象の瞳が明希を空虚に見つめている。
「あの、万結くんに」
今日のプリントを持ってきました。そう言葉にする前に扉が閉まった。
「万結なら今、川!」
そう怒鳴るような声が後から追ってくる。
「か、川!?」
渡せずにそのままプリントを持ってきてしまった。
川と言えば川しかない。
宮本家の前の坂道を下るように歩けば、石造りの橋が見える。その下、五メートルくらい下に流水が小さく音を立てている。
「あ、いた!」
思わず橋から身を乗り出して明希は叫んだ。
人の姿だ。それも、うちの中学のジャージで。
下に降りようと思ったが、川の中に続く道などどこにもない。橋のすぐそばに立てられていた看板には立ち入り禁止の札。
「何してんの?」
川に膝まで足を突っ込んで歩いていたその人物が明希を捕えた。顔をあげた彼は、ふっと緩んだ軽やかな笑顔を見せる。
「またおつかい?」
「え?」
「プリント、届けに来てくれたんだろ、委員長」
宮本万結が明希のほうへと歩いてくる。川の周囲をぐるりと取り囲んだ柵を飛び越えると、明希の目の前に立った。手の中で握りしめられていたファイルをそっととった。
「ここ、立ち入り、禁止」
「いいじゃない。けち」
唇を尖らせながら反省の色をまったく見せない彼は、学校に来ない。きっと学校に来ていたらこんなふうに話したりできる相手じゃなかったかもしれない。
明希は宮本の成績が授業をほぼ受けていないのに群を抜いていいことを知っている。
そしてだから、担任が手を焼きすぎて、それでもどうにもならなかったから情熱が枯れて腐ったことも。
「川で何してたの」
「ん? 内緒」
悪戯が見つかった時の子供のような表情をする宮本の前髪から滴る雫。濡れた髪の奥に、何かが反射して光が散った。
あ、青い。
その日、明希は初めて、宮本万結の瞳の色が他者とは少し違うことを発見した。
「何? 俺、見てて面白い?」
「え、い、いや!!」
自分が宮本を凝視していたことに気が付いた明希は慌てて首を横に振る。
「あ、じゃ、これで!!」
慌てて帰ろうとしたところ、「あのさあ」とあきれるくらい間延びした宮本の声が追ってきた。
明希が振り向いた時、宮本はずけずけと聞いてくる。
「井ノ宮とヤってるってホント?」
どこから聞いてきた、そんなこと。
いや、その前に明希の目の前に大きな壁が立ちはだかるのを感じた。どこにも逃げられない。それは、明希を氷漬けにするかのように、足先からじわじわと体温を奪っていく。
「あ、いや、噂、ただの噂だって。しゃーねえなぁ、俺も」
ははと乾いた笑いを浮かべる宮本。笑えない明希。
「あのさ、委員長。学級委員だからって何でもかんでもしなくていいんだぞ。俺のだって、めんどくさけりゃ持ってきなくていい。嫌なことは嫌っていえよ」
だが、宮本の目は笑っていなかった。真摯な光をたたえたまま動けないでいる明希を射止める。
「だ、で、でも、お前こそ大丈夫なのかよ」
お前は、学校来ない癖に。
乾いた唇から漏らした言葉はきっと簡単に崩れてしまう砂糖菓子のようだ。そこには本心も彼への心配も何もない。空虚。
「お、心配か。ありがてえ。だけどさ、委員長。考えてもみろよ。木ってさ、なんであんなにデカいんだって」
突然、話が変わった。
「きっとさ、地中深くから始まるからデカいんだよ。屈折しているっていうかさ、まっすぐに進もうと思ったらその進行方向には大きな硬い石が置いてあって、ぐにゃって曲がっちゃうわけ。分かる?」
話ながら、宮本が歩き出す。
彼の動作を追おうと足を明希は動かしてみた。動く。さっきの金縛りは簡単にもほどけた。
「まっすぐになんて進んで行けるわけないのに、お前は直線的に行こうとしているってこと。そんなの無理じゃん。いくらまっすぐに憧れてたってさ、地上にたどり着かなかったらそこで終わりだよ。曲がってたってひねくれてたっていいじゃん。ちゃんと地面の上、日の当たるところに顔出せたらさ」
だからお前は何がいいたいのさ。
そんなことを単純に尋ねられたら、きっと、自分はもっと人間臭い表情をしているはずだ。
明希は先を行く宮本の顔を見た。
きっと、お前みたいに。
(了)
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✿一次創作BL版深夜の真剣120分一本勝負参加作。第372回お題(滴る雫/青/「〇〇、禁止!」)をお借りしました。2020.04.13