18年一本勝負さん参加録
懐かしい君と
並木の桜が、だんだんと春めいてきた。つぼみがぽつぽつと灯り、優しげに行きかう人々を見下ろしている。
ふと男は足を止めた。
どこかで、子供たちの合唱が聞こえてくる。仰げば尊し。そういえば、もうそんな季節なのかと、男は思った。
彼は、今年で三十二になる。
中学校を卒業したのも、もう昔の話だ。
懐かしさに胸を打たれ、男も口ずさみ始めた。
「近藤?」
背後で男の名を呼び声がする。
「なあ、近藤だろ!」
声の持ち主は、男の肩をつかみ、無理やりに男を振り向かせた。
「に、しだ……?」
にっかりと白い歯を見せて笑うこの男の名前を彼は、覚えていた。
「どうしたんだ? こんな場所で会うなんて!」
西田は、喜びを隠せないといった勢いで、男につかみかかった。
「いや、近くに用があったんで」
男は手に持っていたアッタッシュケースを持ち上げて、彼に見せた。
「なんだ、仕事か」
西田の表情から、落胆の色が見える。
「そういうことだ」
「てっきり、ここの近くに住んでいるんじゃないかって思っちまったじゃねえかよ。そんな漫画みたいなことないよな」
西田は、せっかく再会したんだからと、連絡先を男にねだった。
男は少し逡巡したが、彼に携帯の番号を教えた。
「それにしても懐かしいよな」
彼が話題にしているのは、どこからか聞こえる子供たちの合唱だ。
「ああ」
男が、うなずくと、聞かれたわけでもないのに、西田が嬉しそうに話し出した。
「ここの通りをまっすぐ行った先に中学校があるんだ。いまどき、この曲歌うのは、ここらへんくらいだぜ。歌詞覚えているか?」
「いや、忘れた」
男は嘘をついた。
「そうか」
西田はそれきり黙った。
「じゃ、俺これで」
男は彼にあいさつするとその場を立ち去った。
振り返らなかった。
いや、振り返ることが出来なかった。
彼と同級生だったのは、中学の三年間だけだ。いや、三年間も同じクラスになれたのだから、かなりの縁だったのだろう。
西田との関係は、ただの友人、という枠には、収まりきらなかった。
当時は、思春期ということもあり、そういうことに、興味があった時期だった。
彼とは興味本位で、もしくは遊びで、そういう関係になっていた。
ただし、高校に進学する時期になって、それは終わりを迎える。
西田は地元の高校へ進学、男は東京の進学校への進学を決めた。
恋人とは言えない関係だったかもしれない。
けれど、その終わりの日、西田に群がる第二ボタンをねだる女子を蹴散らし、彼は男に駆け寄った。
そして、男のうなじにキスをした。
あのキスの意味を彼に聞いたことはない。
そのまま二人は、互いの高校に進学し、その後もなんとなく連絡が取れずにいた。就職も東京でし、故郷とは疎遠になってしまった為、彼との連絡も取れなくなっていた。
それが、今更になって、会ったところで何になるんだ。
今までの人生で、何人か女性と、お付き合いもした。
それでも忘れられなかった、あの日の……。
「ねえ、知ってる? キスの格言っていうのがあってね」
「へえ、何それ」
女学生の集団が、男の横を通りかかった。
「まずね、手の上なら尊敬のキスなんだって」
「へえ、じゃあ、おでこ!」
「それは友情のキス」
「じゃあ、首は?」
無邪気なことだ。男が足を速めようと下時。
「それは、欲望のキスなんだって」
男は足を止めた。
「へえ、そうなんだ」
「じゃあさ、次は……」
遠ざかっていく女子の笑い声。
男は、ぎょっとした形相で立ちすくんでいた。
欲望のキス。
お前を自分のものにしたい。
これから、遠ざかっていくお前を。
「……っ」
男の顔面は、誰が見ても明らかに真っ赤に染まっていた。
「ごめんっ、ごめんね」
思わず口にでたのはそんな言葉だった。
男は来た道を振り返った。
そして全力で走りだした。
桜だけが、男を見守っていた。
つぼみはもうすぐ開く。
春風が、ふっと流れていった。
並木の桜が、だんだんと春めいてきた。つぼみがぽつぽつと灯り、優しげに行きかう人々を見下ろしている。
ふと男は足を止めた。
どこかで、子供たちの合唱が聞こえてくる。仰げば尊し。そういえば、もうそんな季節なのかと、男は思った。
彼は、今年で三十二になる。
中学校を卒業したのも、もう昔の話だ。
懐かしさに胸を打たれ、男も口ずさみ始めた。
「近藤?」
背後で男の名を呼び声がする。
「なあ、近藤だろ!」
声の持ち主は、男の肩をつかみ、無理やりに男を振り向かせた。
「に、しだ……?」
にっかりと白い歯を見せて笑うこの男の名前を彼は、覚えていた。
「どうしたんだ? こんな場所で会うなんて!」
西田は、喜びを隠せないといった勢いで、男につかみかかった。
「いや、近くに用があったんで」
男は手に持っていたアッタッシュケースを持ち上げて、彼に見せた。
「なんだ、仕事か」
西田の表情から、落胆の色が見える。
「そういうことだ」
「てっきり、ここの近くに住んでいるんじゃないかって思っちまったじゃねえかよ。そんな漫画みたいなことないよな」
西田は、せっかく再会したんだからと、連絡先を男にねだった。
男は少し逡巡したが、彼に携帯の番号を教えた。
「それにしても懐かしいよな」
彼が話題にしているのは、どこからか聞こえる子供たちの合唱だ。
「ああ」
男が、うなずくと、聞かれたわけでもないのに、西田が嬉しそうに話し出した。
「ここの通りをまっすぐ行った先に中学校があるんだ。いまどき、この曲歌うのは、ここらへんくらいだぜ。歌詞覚えているか?」
「いや、忘れた」
男は嘘をついた。
「そうか」
西田はそれきり黙った。
「じゃ、俺これで」
男は彼にあいさつするとその場を立ち去った。
振り返らなかった。
いや、振り返ることが出来なかった。
彼と同級生だったのは、中学の三年間だけだ。いや、三年間も同じクラスになれたのだから、かなりの縁だったのだろう。
西田との関係は、ただの友人、という枠には、収まりきらなかった。
当時は、思春期ということもあり、そういうことに、興味があった時期だった。
彼とは興味本位で、もしくは遊びで、そういう関係になっていた。
ただし、高校に進学する時期になって、それは終わりを迎える。
西田は地元の高校へ進学、男は東京の進学校への進学を決めた。
恋人とは言えない関係だったかもしれない。
けれど、その終わりの日、西田に群がる第二ボタンをねだる女子を蹴散らし、彼は男に駆け寄った。
そして、男のうなじにキスをした。
あのキスの意味を彼に聞いたことはない。
そのまま二人は、互いの高校に進学し、その後もなんとなく連絡が取れずにいた。就職も東京でし、故郷とは疎遠になってしまった為、彼との連絡も取れなくなっていた。
それが、今更になって、会ったところで何になるんだ。
今までの人生で、何人か女性と、お付き合いもした。
それでも忘れられなかった、あの日の……。
「ねえ、知ってる? キスの格言っていうのがあってね」
「へえ、何それ」
女学生の集団が、男の横を通りかかった。
「まずね、手の上なら尊敬のキスなんだって」
「へえ、じゃあ、おでこ!」
「それは友情のキス」
「じゃあ、首は?」
無邪気なことだ。男が足を速めようと下時。
「それは、欲望のキスなんだって」
男は足を止めた。
「へえ、そうなんだ」
「じゃあさ、次は……」
遠ざかっていく女子の笑い声。
男は、ぎょっとした形相で立ちすくんでいた。
欲望のキス。
お前を自分のものにしたい。
これから、遠ざかっていくお前を。
「……っ」
男の顔面は、誰が見ても明らかに真っ赤に染まっていた。
「ごめんっ、ごめんね」
思わず口にでたのはそんな言葉だった。
男は来た道を振り返った。
そして全力で走りだした。
桜だけが、男を見守っていた。
つぼみはもうすぐ開く。
春風が、ふっと流れていった。