18年一本勝負さん参加録

不謹慎なその表情に

 彼が突然、口を開かなくなった。
「立花くん!」
 思い切って、私は、彼を呼びとめた。
 彼とは三か月前から私のアパートで同棲を始めた。
 付き合い始めたのは、二年前。
 告白は、彼からだった。
 優しげなブルーブラックの瞳に、柔らかい髪質。子犬のような可愛い青年。
 去年、出版社に就職して、毎日締切に追われる日々になった。
 私も、忙しい職種な為か、ほとんど家で顔を合わせない。
 なのに。何故だ。
 何故彼は、私にこんなに冷たくするのだろう。
 さっきから、氷のような表情が痛い。口を開いてくれないのが辛い。
「なあ、立花くん!」
 私は、彼の両肩を掴んで、こちらへ振り向かせた。
 驚いたように目を見開いた後、すぐにその表情は崩れる。眉間に皺が寄り、ものすごく険悪な汚物を見るような顔に変化してしまった。
「おい、離せよ」
「嫌だ。何故、私を無視する」
 私は、できるだけ声を低くして、問う。
「最近の君は、変じゃないか。久しぶりに一緒にいれるっていうのに、何故、そうまでしてつれないんだい?」
 彼は、嫌な表情を崩さない。
「わからないのかよ。もうボケか? 准教授さん」
「そんなボケしまったら、教員職なんてできないよ、立花くん」
 優しげに言葉を返したら、彼がため息をつく。私は、彼の肩を握っていた手を彼から離した。自由になった彼の身体がそっぽを向く。ソファにまで移動するとどっかりと深く腰掛けた。
「先生、俺のニット、洗ったでしょ」
 上目づかいで睨んでくる彼。
 確かに洗ったのだが、一体何が問題なのだろう。
「そうだが、それがどうしたんだい」
 私の言葉に彼は、ぎょっとしたような顔になった。
「え、まだわかんないの……」
 彼が指さした先。テーブルの上に、先ほど取り込んだ洗濯物が置いてあった。
「俺のニット、よく見てみて」
 私は言われたとおりに、ブラックの毛玉を取り出す。
 ……ん?
 ブラックの毛玉?
「うわあ、ち、縮んでいる!」
 思わず大きな声を出してしまった。
 そうか、彼のお気に入りの物を、こんなにも残念な姿にしてしまったのか。かわいそうに立花くん。
「すまない」
 私は、静かに頭を下げる。
 彼と始めた同棲だったが、始めたころはほとんど彼が家事をしてくれていた。
 しかし、最近は私も家事に参加するようにしている。ただでさえ、忙しい彼に全てを押し付けては、彼の負担が大きいからだ。
 しかし、このような失態を冒してしまうなんて……。
「同じものを買ってこよう。弁償する」
 私の言葉に彼が反応する。
「は? 何言ってんの。それと同じものは、もうこの世にはないよ」
 うっ。何かの限定品だったのだろうか。それはとてもまずいことをした。
「それなら、別の何か。そうだな、立花くんは何かないか」
「それなら休日がほしい。先生と一緒に入れるような時間」
 ううっ。
「すまない。しばらく予定が詰まっていて」
 ……どうしよう。
 彼に何かをしてあげたいという気持ちはある。それなのに、いつも、それとは反対のことをしてしまう。
「……いいって」
 彼が、深いため息をついた。
「もう、いいって。俺こそごめん」
「いや、こんな大事な限定品をこんなにしてしまったのは私なのだから、何か償いをさせてくれ」
「は?」
 きょとんとした彼の目が、私を温かく見つめる。
「限定品? それが?」
 彼の笑い声が、部屋に響く。彼は腹を抱えて笑った。
「あはははははははは。傑作だな!」
 けたけたと笑い転げる彼を見て、私は何が何だかさっぱりな気分だ。
「一体、何なんだい、立花くん」
「せんせぇ、忘れちゃったの、これ」
「え?」
 忘れちゃったって、何が?
「そういう不謹慎な顔するなよ。俺、おこってるんだからな」
 はっ。しまった。
 確かに私は、彼にひどいことをしていた。
 いきなり彼が笑い出したので、あっけにとられ、忘れてしまったが、私は、彼に許しを乞うていたのだ。
 表情を引き締めた私を見て、彼がまたにやりと微笑んだ。
「先生、反省しているなら、俺と一緒にお風呂入って」
「えっ」
 また突然の奇行。そんな、二人で風呂に入ったら湯船が壊れてしまうんじゃないのか。
「……狭いぞ」
「もう、色気ないな。じゃ、そういうことで」
 彼は立ち上がり、浴室へと足を進める。
「せんせー! 早く!」
 ええい、どうにでもなれ。
 私は、彼の後について行った。

 もう先生は忘れちゃったみたいだけど、あのニット帽は、初めてのデートの時に先生が買ってくれたもの。
 この世に一つしかない、特別な思い出のしみ込んだ大切な宝物の一つだった。
(まったく、それをあんなに小さくししまうなんて、ひどいよ、先生)
 俺は、上半身を覆っていたYシャツを床に脱ぎ捨てる。
 先生は、それを見て、俺のYシャツを洗濯籠に入れた。
『寒くないのかい。ほら、コレなんてどうだ』
 あの頃俺は、髪を思い切り短くしていた。先生に好かれようと思ってイメチェンしようと思って。
 しかし、この人はそれにも気が付かずに、短くなった髪の分、冬の寒さを心配して、店の中から黒いニット帽を取り出してきた。
 素早く支払いを済ませ、値札のとれたそれを俺の頭にかぶせてくれる。
『なかなか可愛いじゃないか』
 ……可愛いってなんだよ。
 その時はそう思ったけど、先生に褒められるなら、どんな文句でも嬉しい。
「先生、何、ジロジロ見てんの? えっち」
 わざとらしく、そう伝えると、先生の顔が真っ赤に染まる。
 本当に、面白い人。
 でも、鈍すぎる。
 大切な思い出を覚えているのって、俺だけなのかな。
 まったく、それなのに、なんでこんなに好きなんだろ。
「立花くん」
 先生が、おどおどした口調で話しかけてくる。
「ごめん、別に変な気持になったわけではないんだ」
「うん、わかってる。からかっただけだって」
 誘っている時にも、真面目な表情ばっか。そんな不謹慎な表情をいつか、崩してやる。
 先生、覚悟しておいてよね。

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