18年一本勝負さん参加録
寒いからあたためて
もう、何日もたったのにまだキスの残り香が残っている。
僕、村岡涼一は、かじかむような寒さのなか、手袋の中から線の薄い指を引き抜くと、そっと自分の唇に触れる。
ここに、彼の唇が触れて……。
ああ、あれは、もしかして、夢だったのではないだろうか。自分の願望を映した幻。
叶わぬ恋に身を焦がす、哀れな僕に対しての……。
いや、そうではないと僕は自分の乙女じみた思考を中断させる。
叶わぬ恋に身を焦がす? いや、あきらめていたじゃないか。いつもため息とともに僕は、石畳を靴でたたき、そこへ向かっていたではないか。
毎月、毎月。
一か月を乗り切るための、僕のおまじない。
あの美容室が僕に一瞬の幸せをくれる。あの美容室が、僕に永遠の苦しみを与える。
それは、一目ぼれだった。
彼のハサミを持つ姿。真剣な表情。その瞳は、スコープを覗いて、標的を狙うスナイパー。
彼の流れ弾は、僕の心に命中して、僕は彼の虜になってしまった。
僕は、美容院に通いだす。
彼が、僕を、まるで騎士のように、特等席にエスコートし、恭しい仕草で、タオルを肩にかけてくれる。
彼のその芸術品のように美しくて、どこか荒々しさもある、大きなごつごつとした手。その指が、繊細にまるで壊れやすいガラス細工を扱うかのように、僕の髪に触れる時、僕は甘美で孤独な幸福感に包まれる。
最初は名前さえ分からなかった。それでも、毎月通う間に少しずつ会話は生まれていく。髪を扱ってもらっている時間は、僕が王子様を独占できる唯一の時間。
シンデレラだって、魔法が解けたら、帰らなくちゃいけない。彼が、僕の髪から手を放した瞬間が、僕にとっての午前零時。
僕は、靴なんて置いて行かないけれど。
彼、麻生大介さんには、奥さんと子供がいる。
それでも、僕は通い続けた。
叶わなくてもいいんだ。ただ、彼に髪を切ってもらいたい。彼と同じ空間で、呼吸したい。ただそれだけで、僕は通う。半ば習慣のように。彼という弾丸に打ち抜かれて、心に穴が開いてしまった欠陥品のように、彼を……。
でも、その穴は永遠にふさぐことが出来ない。わかっているんだ。でも、それでも。
二週間前のことだ。
僕は、いつものように美容院に向かった。
出迎えてくれたのは、麻生さん。
いつもの笑顔で。白い歯を見せて、まるで八月のカラッと晴れた夏空のように。
でも、その笑顔に胸を締め付けられている僕もいる。
営業用のスマイル? 彼の愛する人には、どのように微笑むのだろう。はにかむように? すこし頬を赤らめたり?
結局は、僕は来客でそれ以上でもそれ以下にもなれない。それを突き付けられて、永久の苦しみが襲ってくるのをじっと耐える。
彼に誘われて、席に着く。
背後から回される手にどきりとする。ただ、首にタオルをまわすだけ。髪除けをかぶせるだけ。
でも、そのまま抱きしめてくれたら、どれほど、嬉しいだろう! そんな奇跡があったら、僕は喜んで、死を選ぶ。
彼が髪に触れる。
いつものように幸せな時間が流れる。
「伸びましたね?」
「どうします? そろえるだけでいいですか?」
「最近寒いけど、どうしています?」
「あはは、こたつ! いいですよね。入っちゃうと何時間もそこにいたくなる」
「首元が寒そうなので、切っちゃうのが何だかもったいないな……。そうだ、村岡さん、マフラーなんてどうです。村岡さんなら何でも似合うと思うんです」
彼の指が僕の髪から離れていく。
午前零時。夢物語の終わる瞬間。
彼は、髪除けをどける。そして首に巻いたタオルをとろうと、彼の身体が急接近した時。
それは、ほのかなヤニの匂い。
暖かな感触に僕は慄いた。
唇と唇が重なるこの行為を何と呼ぶのだろう。
……キス。
僕は、彼に、身も心も食われてしまいたいと、魂から願う、あの彼と唇を合われていた。
その接合部分から、まるで魂が抜き取られてしまったかのように、僕は、茫然とした。
それは一瞬のことだったのだ。
それから、どのように帰路についたのか、僕は、覚えていない。
あんな幻想のような時間が本当に流れていたのだろうか。
二週間たった今、僕は、考え過ぎて、思いを馳せすぎて、クラクラする脳みそで、美容院に向かう。
「あ、村岡さまですね」
出てきたのは、麻生さんではなかった。がっくりと肩を落とさないように、僕は笑顔を作る。
「麻生さんはいますか? 予約はしていないのですが、彼に見てもらいたくて」
僕の言葉を聞くなり、目の前の男はきゅうにしょんぼりした口調になって、答えた。
「彼は、先日、やめたんです」
……え?
「なんというか……まあ、いろいろあったみたいで、もうここはお辞めになってしまって」
もう、脳みその中は、真っ白で、何一つ言葉が、出てこない。
重たい扉を開けて、僕は美容院を後にする。
(彼が、やめたって……)
(彼がやめたんだ)
(彼はやめた。もう、会えない)
(もう、彼に会うことは無いのだ。さよなら。その一言もない)
もしかして、僕が彼に変な目を使っていたのが、ばれてしまったのでは? だから、彼は辞めたのか。
それならあの幻想のキスは、僕をからかっただけ? それとも試したのか。僕が本気かどうかを確かめようとしたのか。
気の間違いなら、きっと僕は、馬鹿みたいに笑い出すか、怒るかのどちらかだったろう。
でも、それが本気だとばれてしまった。
きっとあの時、僕はアホ顔をさらしていただろう。恋に溺れる哀れな表情から、全てを悟ってしまったのだろう!
何を考えているんだ、僕は。僕はただのお客で、彼にとっては、毎日髪を見る対象の一つに過ぎない。
(会いたい)
(ただ、会うだけでいい)
(姿をもう一度、見せて)
(お願い、これで、本当に最後にするから)
ふと、僕は足を止めた。
石畳の上。
周囲には、人々の楽しそうな往来。
そんな世界に僕がひとり。
(会いたい)
(もう一度だけ)
強く強く、胸の中で、願いを反芻していると、あの声が聞こえた。
「村岡さん?」
無理むくと、王子様が、そこにいた。
「よかった。ここにいたんですね。いつもなら、この時間に美容室に来ていたから、この時間、美容室の近くにいれば、貴方に会えると思っていました」
ふと、僕は違和感を覚える。彼がこの寒さの中、手袋をしていなかったからだ。
大切な、彼の宝物。あの魔法みたいな手。
もしかして、今、目の前にいる彼は、僕の願望が見せた夢?
「あっ」
僕は気が付いた。
彼の指に結婚指輪が、はめられていないこと。
「はは、先日、妻と別れまして」
彼は自虐気味に顔をくしゃくしゃにして笑った。
「私は、どうやら、器用貧乏みたいなんです。何をやってもそれなりに出来たから、あれも、これもと手を出して、結局何もできずにあわてて専門に行って、美容師になった。でも……」
僕は彼の言葉にそっと耳を傾ける。
「でも、それだけじゃなくて。その、人間関係でも、貧乏になってしまった。二兎追うものは、なんて、よく言いますよね」
「……麻生さん」
「私、妻に捨てられてしまって。あの店は、妻が経営しているものだから、とても、居れなくなってしまった。これから、別の店で働くことになります」
それなら、僕は、そのお店にまで通います。どんなに遠くても。
そんなこと、言えるわけがない。
「実は、好きな人が出来たんです、心から。妻にはばれてしまった。だから、私は」
そういうと麻生さんは、僕との距離を詰める。
「好きな、人」
「いつも、お店に通ってきてくれる、可愛いお客の一人に」
……!
ざわめく、街中で、僕たち二人に目を配る者など、誰もいなかった。
僕は、彼のあの、美しい手に、自分の手をからませた。
寒さが、僕の手に伝わってくる。
もし、もし、これが夢じゃないのなら、僕は、この手をずっと、ずっと握りしめていてもいいのだろうか。
寒いから、あたためて。
もう、何日もたったのにまだキスの残り香が残っている。
僕、村岡涼一は、かじかむような寒さのなか、手袋の中から線の薄い指を引き抜くと、そっと自分の唇に触れる。
ここに、彼の唇が触れて……。
ああ、あれは、もしかして、夢だったのではないだろうか。自分の願望を映した幻。
叶わぬ恋に身を焦がす、哀れな僕に対しての……。
いや、そうではないと僕は自分の乙女じみた思考を中断させる。
叶わぬ恋に身を焦がす? いや、あきらめていたじゃないか。いつもため息とともに僕は、石畳を靴でたたき、そこへ向かっていたではないか。
毎月、毎月。
一か月を乗り切るための、僕のおまじない。
あの美容室が僕に一瞬の幸せをくれる。あの美容室が、僕に永遠の苦しみを与える。
それは、一目ぼれだった。
彼のハサミを持つ姿。真剣な表情。その瞳は、スコープを覗いて、標的を狙うスナイパー。
彼の流れ弾は、僕の心に命中して、僕は彼の虜になってしまった。
僕は、美容院に通いだす。
彼が、僕を、まるで騎士のように、特等席にエスコートし、恭しい仕草で、タオルを肩にかけてくれる。
彼のその芸術品のように美しくて、どこか荒々しさもある、大きなごつごつとした手。その指が、繊細にまるで壊れやすいガラス細工を扱うかのように、僕の髪に触れる時、僕は甘美で孤独な幸福感に包まれる。
最初は名前さえ分からなかった。それでも、毎月通う間に少しずつ会話は生まれていく。髪を扱ってもらっている時間は、僕が王子様を独占できる唯一の時間。
シンデレラだって、魔法が解けたら、帰らなくちゃいけない。彼が、僕の髪から手を放した瞬間が、僕にとっての午前零時。
僕は、靴なんて置いて行かないけれど。
彼、麻生大介さんには、奥さんと子供がいる。
それでも、僕は通い続けた。
叶わなくてもいいんだ。ただ、彼に髪を切ってもらいたい。彼と同じ空間で、呼吸したい。ただそれだけで、僕は通う。半ば習慣のように。彼という弾丸に打ち抜かれて、心に穴が開いてしまった欠陥品のように、彼を……。
でも、その穴は永遠にふさぐことが出来ない。わかっているんだ。でも、それでも。
二週間前のことだ。
僕は、いつものように美容院に向かった。
出迎えてくれたのは、麻生さん。
いつもの笑顔で。白い歯を見せて、まるで八月のカラッと晴れた夏空のように。
でも、その笑顔に胸を締め付けられている僕もいる。
営業用のスマイル? 彼の愛する人には、どのように微笑むのだろう。はにかむように? すこし頬を赤らめたり?
結局は、僕は来客でそれ以上でもそれ以下にもなれない。それを突き付けられて、永久の苦しみが襲ってくるのをじっと耐える。
彼に誘われて、席に着く。
背後から回される手にどきりとする。ただ、首にタオルをまわすだけ。髪除けをかぶせるだけ。
でも、そのまま抱きしめてくれたら、どれほど、嬉しいだろう! そんな奇跡があったら、僕は喜んで、死を選ぶ。
彼が髪に触れる。
いつものように幸せな時間が流れる。
「伸びましたね?」
「どうします? そろえるだけでいいですか?」
「最近寒いけど、どうしています?」
「あはは、こたつ! いいですよね。入っちゃうと何時間もそこにいたくなる」
「首元が寒そうなので、切っちゃうのが何だかもったいないな……。そうだ、村岡さん、マフラーなんてどうです。村岡さんなら何でも似合うと思うんです」
彼の指が僕の髪から離れていく。
午前零時。夢物語の終わる瞬間。
彼は、髪除けをどける。そして首に巻いたタオルをとろうと、彼の身体が急接近した時。
それは、ほのかなヤニの匂い。
暖かな感触に僕は慄いた。
唇と唇が重なるこの行為を何と呼ぶのだろう。
……キス。
僕は、彼に、身も心も食われてしまいたいと、魂から願う、あの彼と唇を合われていた。
その接合部分から、まるで魂が抜き取られてしまったかのように、僕は、茫然とした。
それは一瞬のことだったのだ。
それから、どのように帰路についたのか、僕は、覚えていない。
あんな幻想のような時間が本当に流れていたのだろうか。
二週間たった今、僕は、考え過ぎて、思いを馳せすぎて、クラクラする脳みそで、美容院に向かう。
「あ、村岡さまですね」
出てきたのは、麻生さんではなかった。がっくりと肩を落とさないように、僕は笑顔を作る。
「麻生さんはいますか? 予約はしていないのですが、彼に見てもらいたくて」
僕の言葉を聞くなり、目の前の男はきゅうにしょんぼりした口調になって、答えた。
「彼は、先日、やめたんです」
……え?
「なんというか……まあ、いろいろあったみたいで、もうここはお辞めになってしまって」
もう、脳みその中は、真っ白で、何一つ言葉が、出てこない。
重たい扉を開けて、僕は美容院を後にする。
(彼が、やめたって……)
(彼がやめたんだ)
(彼はやめた。もう、会えない)
(もう、彼に会うことは無いのだ。さよなら。その一言もない)
もしかして、僕が彼に変な目を使っていたのが、ばれてしまったのでは? だから、彼は辞めたのか。
それならあの幻想のキスは、僕をからかっただけ? それとも試したのか。僕が本気かどうかを確かめようとしたのか。
気の間違いなら、きっと僕は、馬鹿みたいに笑い出すか、怒るかのどちらかだったろう。
でも、それが本気だとばれてしまった。
きっとあの時、僕はアホ顔をさらしていただろう。恋に溺れる哀れな表情から、全てを悟ってしまったのだろう!
何を考えているんだ、僕は。僕はただのお客で、彼にとっては、毎日髪を見る対象の一つに過ぎない。
(会いたい)
(ただ、会うだけでいい)
(姿をもう一度、見せて)
(お願い、これで、本当に最後にするから)
ふと、僕は足を止めた。
石畳の上。
周囲には、人々の楽しそうな往来。
そんな世界に僕がひとり。
(会いたい)
(もう一度だけ)
強く強く、胸の中で、願いを反芻していると、あの声が聞こえた。
「村岡さん?」
無理むくと、王子様が、そこにいた。
「よかった。ここにいたんですね。いつもなら、この時間に美容室に来ていたから、この時間、美容室の近くにいれば、貴方に会えると思っていました」
ふと、僕は違和感を覚える。彼がこの寒さの中、手袋をしていなかったからだ。
大切な、彼の宝物。あの魔法みたいな手。
もしかして、今、目の前にいる彼は、僕の願望が見せた夢?
「あっ」
僕は気が付いた。
彼の指に結婚指輪が、はめられていないこと。
「はは、先日、妻と別れまして」
彼は自虐気味に顔をくしゃくしゃにして笑った。
「私は、どうやら、器用貧乏みたいなんです。何をやってもそれなりに出来たから、あれも、これもと手を出して、結局何もできずにあわてて専門に行って、美容師になった。でも……」
僕は彼の言葉にそっと耳を傾ける。
「でも、それだけじゃなくて。その、人間関係でも、貧乏になってしまった。二兎追うものは、なんて、よく言いますよね」
「……麻生さん」
「私、妻に捨てられてしまって。あの店は、妻が経営しているものだから、とても、居れなくなってしまった。これから、別の店で働くことになります」
それなら、僕は、そのお店にまで通います。どんなに遠くても。
そんなこと、言えるわけがない。
「実は、好きな人が出来たんです、心から。妻にはばれてしまった。だから、私は」
そういうと麻生さんは、僕との距離を詰める。
「好きな、人」
「いつも、お店に通ってきてくれる、可愛いお客の一人に」
……!
ざわめく、街中で、僕たち二人に目を配る者など、誰もいなかった。
僕は、彼のあの、美しい手に、自分の手をからませた。
寒さが、僕の手に伝わってくる。
もし、もし、これが夢じゃないのなら、僕は、この手をずっと、ずっと握りしめていてもいいのだろうか。
寒いから、あたためて。