19年一本勝負さん参加録
今だけは
人影が見えた。
誰もいないはずの教室。曇りガラスの内側で白い物体が動いているのがわかる。
おそらくは人間。それも調理用の教室だったから、白色の正体もなんとなくわかる。そして、夕食後の自由時間でさえ予習復習に費やすような寝食削り野郎の名前も。
「和泉! お前まだ残っていたのか!」
扉を開けた先には、案の定、作業着を着た和泉がいた。
スポンジとにらめっこの体制のまま青年を一瞥し「高崎か」とつぶやいた。
褐色の首筋が未使用の消しゴムのような白い作業着から覗いている。髪はバンダナに隠れて見えないが、水浴びをしたカラスの翼のように神秘的な漆黒だ。
「練習? 今日の部活。死ぬほどまずかったよなぁ」
ちょっと言い過ぎたかもしれない。放課後に作ったフルーツケーキがあまり良くなかったのだ。
和泉も高橋も製菓部の部員だ。その名の通り菓子作りをするのが一応メインの活動ではある。全寮制の男子校だから、食いたいという部員はいても作りたいという部員は少数だ。実際に菓子作りをしているのは部長、副部長、和泉、手伝い感覚の高橋を足しても四人しかいない。
「高橋、食っていけよ」
「えー、寝る前に食うとニキビになるじゃん」
「大丈夫。今回は成功させるから」
「ばっか、太っちゃうだろ! それにニキビも! もしそれで不味かったら、お前全裸で工程一周決定だからな!」
彼の態度に変化はない。良く見ると肩がかすかに震えている。爛々と輝く目を三日月型に変化させて、うなずいた。
和泉の動作を確認するために彼の背後に回ったはずの高崎だったが、しゃがみ込んでスポンジを見つめる彼のうなじにごくりと生唾を飲んだ。布から零れ落ちた濡れ場色の髪、しっとりとした肌質。妙な色っぽさが襲う。
体格は高橋より高橋の方がいい。恰幅もあり、均整にとれた美しい筋肉と骨格を持っているのが服の上からもよく分かる。身長も五センチくらい違う。焦がしたアーモンドのような肌も相まって、彼は少し乱暴な大人の魅力を持っている。
が、接してみれば、どうにも子供らしい。ストイックに練習に励む後ろ姿は、普段のかっこいいイメージとは正反対に、プラモデルであどけなく遊ぶような幼さがほとばしっている。
要は純粋で曇りがなく、下心がない人間なのだ。こいつは本気で菓子が好きなのだろう。彼の瞳には菓子しか映らないのだ。
「なあ、和泉」
「ん?」
和泉は泡立てた生クリームで繊細なスポンジを囲んでいく。視線はそこから離れない。
「お前、菓子好きだよな」
「ああ」
「菓子以外にはなんか興味ないの」
「ニキビを気にする男」
いたって淡々とした答えが心臓を突き抜けていく。
「ばっかだな、ほんと」
「何が?」
「そういうのって、こっち向いて言うべきじゃない?」
すねたように言えば、恥じらいも知らぬ子供の様に素直な返答が返ってくる。
「今だけは、無理」
彼の視線はこれから高橋の食道に流れ込む甘いケーキに変化しようとしているスポンジと生クリームに注がれている。
第314回 2019.09.07 1h
お題:甘いケーキ/誰もいない教室/「今だけは」
人影が見えた。
誰もいないはずの教室。曇りガラスの内側で白い物体が動いているのがわかる。
おそらくは人間。それも調理用の教室だったから、白色の正体もなんとなくわかる。そして、夕食後の自由時間でさえ予習復習に費やすような寝食削り野郎の名前も。
「和泉! お前まだ残っていたのか!」
扉を開けた先には、案の定、作業着を着た和泉がいた。
スポンジとにらめっこの体制のまま青年を一瞥し「高崎か」とつぶやいた。
褐色の首筋が未使用の消しゴムのような白い作業着から覗いている。髪はバンダナに隠れて見えないが、水浴びをしたカラスの翼のように神秘的な漆黒だ。
「練習? 今日の部活。死ぬほどまずかったよなぁ」
ちょっと言い過ぎたかもしれない。放課後に作ったフルーツケーキがあまり良くなかったのだ。
和泉も高橋も製菓部の部員だ。その名の通り菓子作りをするのが一応メインの活動ではある。全寮制の男子校だから、食いたいという部員はいても作りたいという部員は少数だ。実際に菓子作りをしているのは部長、副部長、和泉、手伝い感覚の高橋を足しても四人しかいない。
「高橋、食っていけよ」
「えー、寝る前に食うとニキビになるじゃん」
「大丈夫。今回は成功させるから」
「ばっか、太っちゃうだろ! それにニキビも! もしそれで不味かったら、お前全裸で工程一周決定だからな!」
彼の態度に変化はない。良く見ると肩がかすかに震えている。爛々と輝く目を三日月型に変化させて、うなずいた。
和泉の動作を確認するために彼の背後に回ったはずの高崎だったが、しゃがみ込んでスポンジを見つめる彼のうなじにごくりと生唾を飲んだ。布から零れ落ちた濡れ場色の髪、しっとりとした肌質。妙な色っぽさが襲う。
体格は高橋より高橋の方がいい。恰幅もあり、均整にとれた美しい筋肉と骨格を持っているのが服の上からもよく分かる。身長も五センチくらい違う。焦がしたアーモンドのような肌も相まって、彼は少し乱暴な大人の魅力を持っている。
が、接してみれば、どうにも子供らしい。ストイックに練習に励む後ろ姿は、普段のかっこいいイメージとは正反対に、プラモデルであどけなく遊ぶような幼さがほとばしっている。
要は純粋で曇りがなく、下心がない人間なのだ。こいつは本気で菓子が好きなのだろう。彼の瞳には菓子しか映らないのだ。
「なあ、和泉」
「ん?」
和泉は泡立てた生クリームで繊細なスポンジを囲んでいく。視線はそこから離れない。
「お前、菓子好きだよな」
「ああ」
「菓子以外にはなんか興味ないの」
「ニキビを気にする男」
いたって淡々とした答えが心臓を突き抜けていく。
「ばっかだな、ほんと」
「何が?」
「そういうのって、こっち向いて言うべきじゃない?」
すねたように言えば、恥じらいも知らぬ子供の様に素直な返答が返ってくる。
「今だけは、無理」
彼の視線はこれから高橋の食道に流れ込む甘いケーキに変化しようとしているスポンジと生クリームに注がれている。
第314回 2019.09.07 1h
お題:甘いケーキ/誰もいない教室/「今だけは」