19年一本勝負さん参加録
carry scars
保険医は何も言わなかった。
今までの経験上、大人と分類される人種は、何かことを起したとき、必ず小言を漏らすか、冷たく人を見下げたような視線と態度で感情を表現するか、中身のない心配を言葉にして吐くか、そんなくだらない反応しかしないと思っていた。
だから眼前に飛び込んできたその手に、俺は驚いた。ぎょっとして立ち尽くしていると、手を俺に伸ばしたままの姿勢で、男は言った。
「まずはその右手からだ」
強引に俺の右手首を掴むと、椅子に座らせる。抵抗しようとしたら保険医の華奢な姿からは想像できないような力で対抗され、俺はまた驚いた。
彼は先月、就任したばかりだという。
夏だというのに薄手だが黒のタートルネックに白衣をまとう奇天烈なやつだ。だが、「清潔」を具現化したかのような男だった。
黒い髪はストレートでさらりと流れるように額の上に浮かび、丸眼鏡の奥で半月型に瞳が微笑む。血管が透けているほど白く細い腕の体毛は薄く、精密につくられた陶器の人形でも見ているかのようで、ぞっとした。ここまで無味無臭の人間がいるのかとばかりに、彼に動物じみた人間らしさを見出すことが出来ない。
俺はというと上級性とやりあったばかりで血と泥の臭いが生々しく匂っている。ガラス片が突き刺さったままの俺の腕からは体液が流れ、火照った肌は空気によって冷やされたばかりだった。
「抜くよ」
と短く抑揚のない声が、薄暗い保健室に響いた。薬品と消毒液の臭いが普段から密封された空間に、この男と二人きりでいるせいか、なんだか異世界に迷い込んでしまったかのような現実感が希薄になっていくような気持だ。
じっとりと汗ばんで気持ち悪かった。
身体に突き刺さっていた異物が取り除かれるときの痛みに顔をしかめる。と、同時に俺は男の口角が緩やかなカーブを描いていることに気が付いた。
「痛いけど、我慢ね」
まただ。
消毒液が染みた。耐え切れずに吐息とともに「うっ」と声を漏らしてしまう。すると男の微笑は隠し切れないくらいの笑みへと変化した。
「何がおかしいんだよ」
「いや、悪いね。何でもないよ」
やはり男は俺の傷口に向かって言う。長い前髪に隠された表情が読めない。
俺は我慢できなくなって、力任せに男の首元を掴んだ。
眼鏡のレンズの奥に驚いて見開いたブルーの瞳が見えた。それと同時に、掴んだタートルネックからのぞいた鬱血と瘡蓋、傷の跡に俺は思わず手を離し、後ずさりした。
「……見ちゃった?」
着衣の乱れを直しながら、保険医は聞いた。
俺は驚いて言葉が出なかった。
それは明らかに人間が付けた、暴力の痕跡だったからだ。
「痛いのか?」
口をついて出てきた言葉はそれだった。目の前の男はただ首を振った。
「さあね」
「さあねって、お前の身体じゃないのかよ」
「そうかも、しれない」
返答をどう受け取っていいのかが分からない。
「ガーゼ、巻こうか」
男がまた手を指しのばしてくる。俺は、その手首を捕まえると、ゆっくりと確かめるように長袖をめくり上げようとした。
――想像の通りだった。
「自分でこんなことを?」
非難するような口調になっていたことに俺は自分で驚いた。言った後に気が付いたが、首を絞めるようにしてついたそれは一人ではできない。
男は首を横に振る。
「じゃあ、誰だよ」
じれったい男の動作にむきになって大声を出した。自分の声が鼓膜の中を蠢いて増幅し、得体のしれない感情が心の隙間から顔を出す。
「おい、あんた!」
にじり寄りながら、俺は問う口調を強めた。
男は流し目に俺を見つめ、沈黙する。
「なあ、おい!」
目と鼻の先。一息で肌と肌が触れるだろう、そんな距離感にまで達しても、その熱は爆発することを知らなかった。
男はただ、ひんやりと、静止することしか出来ぬ置物のように俺に睨みつけられていたが、長い吐息を吐いた。俺の頬に風があたる。
「ガーゼ、巻かなくていいの?」
会話はそれだけだった。
血の味がする口内に侵入してきたそれが、全てを語っていた。
保険医は何も言わなかった。
今までの経験上、大人と分類される人種は、何かことを起したとき、必ず小言を漏らすか、冷たく人を見下げたような視線と態度で感情を表現するか、中身のない心配を言葉にして吐くか、そんなくだらない反応しかしないと思っていた。
だから眼前に飛び込んできたその手に、俺は驚いた。ぎょっとして立ち尽くしていると、手を俺に伸ばしたままの姿勢で、男は言った。
「まずはその右手からだ」
強引に俺の右手首を掴むと、椅子に座らせる。抵抗しようとしたら保険医の華奢な姿からは想像できないような力で対抗され、俺はまた驚いた。
彼は先月、就任したばかりだという。
夏だというのに薄手だが黒のタートルネックに白衣をまとう奇天烈なやつだ。だが、「清潔」を具現化したかのような男だった。
黒い髪はストレートでさらりと流れるように額の上に浮かび、丸眼鏡の奥で半月型に瞳が微笑む。血管が透けているほど白く細い腕の体毛は薄く、精密につくられた陶器の人形でも見ているかのようで、ぞっとした。ここまで無味無臭の人間がいるのかとばかりに、彼に動物じみた人間らしさを見出すことが出来ない。
俺はというと上級性とやりあったばかりで血と泥の臭いが生々しく匂っている。ガラス片が突き刺さったままの俺の腕からは体液が流れ、火照った肌は空気によって冷やされたばかりだった。
「抜くよ」
と短く抑揚のない声が、薄暗い保健室に響いた。薬品と消毒液の臭いが普段から密封された空間に、この男と二人きりでいるせいか、なんだか異世界に迷い込んでしまったかのような現実感が希薄になっていくような気持だ。
じっとりと汗ばんで気持ち悪かった。
身体に突き刺さっていた異物が取り除かれるときの痛みに顔をしかめる。と、同時に俺は男の口角が緩やかなカーブを描いていることに気が付いた。
「痛いけど、我慢ね」
まただ。
消毒液が染みた。耐え切れずに吐息とともに「うっ」と声を漏らしてしまう。すると男の微笑は隠し切れないくらいの笑みへと変化した。
「何がおかしいんだよ」
「いや、悪いね。何でもないよ」
やはり男は俺の傷口に向かって言う。長い前髪に隠された表情が読めない。
俺は我慢できなくなって、力任せに男の首元を掴んだ。
眼鏡のレンズの奥に驚いて見開いたブルーの瞳が見えた。それと同時に、掴んだタートルネックからのぞいた鬱血と瘡蓋、傷の跡に俺は思わず手を離し、後ずさりした。
「……見ちゃった?」
着衣の乱れを直しながら、保険医は聞いた。
俺は驚いて言葉が出なかった。
それは明らかに人間が付けた、暴力の痕跡だったからだ。
「痛いのか?」
口をついて出てきた言葉はそれだった。目の前の男はただ首を振った。
「さあね」
「さあねって、お前の身体じゃないのかよ」
「そうかも、しれない」
返答をどう受け取っていいのかが分からない。
「ガーゼ、巻こうか」
男がまた手を指しのばしてくる。俺は、その手首を捕まえると、ゆっくりと確かめるように長袖をめくり上げようとした。
――想像の通りだった。
「自分でこんなことを?」
非難するような口調になっていたことに俺は自分で驚いた。言った後に気が付いたが、首を絞めるようにしてついたそれは一人ではできない。
男は首を横に振る。
「じゃあ、誰だよ」
じれったい男の動作にむきになって大声を出した。自分の声が鼓膜の中を蠢いて増幅し、得体のしれない感情が心の隙間から顔を出す。
「おい、あんた!」
にじり寄りながら、俺は問う口調を強めた。
男は流し目に俺を見つめ、沈黙する。
「なあ、おい!」
目と鼻の先。一息で肌と肌が触れるだろう、そんな距離感にまで達しても、その熱は爆発することを知らなかった。
男はただ、ひんやりと、静止することしか出来ぬ置物のように俺に睨みつけられていたが、長い吐息を吐いた。俺の頬に風があたる。
「ガーゼ、巻かなくていいの?」
会話はそれだけだった。
血の味がする口内に侵入してきたそれが、全てを語っていた。