19年一本勝負さん参加録

sweet home

 まだ温かくなってきたとはいえ、春の夜は肌寒かった。青年は、ひとり橋の上から月を照らす水面を見ていた。
 公園を住処にしているホームレス集団と寝床を同じにしていたが、なんだか今日は胸がくるしくてたまらなかった。川辺まで走ってきて、ただぽつんと風に揺れ形を変える衛星の姿に己を重ねる。
「俺、どうなっちゃうんだろう……」
 昔のことを思い出そうとしても、何も思い出すことが出来ない。記憶喪失というやつだ、と先輩路上生活者は言っていた。突然、名前も職業も自分を全て失って、行きつく先は路上生活しかなかった。
 体の内側から何かがせりあがってくる。今までこんなことは無かった。必死に止めようとするが、うまくいかない。その何かは青年の意思を無視して体外に排出された。
「うっ、助けてくれよぉ……」
 涙だった。大粒のものがこぼれて、散った。橋の下に落ちて行く。曖昧な形の月に。
「お前、何をやっているんだ」
 首だけで振り返ると、背後には黒い人影が月光に照らしだされていた。そのシルエットから人物の表情は読み取れない。青年よりも背は高く、その手は両方ともポケットの中に入りこんでいた。
「助けて……助けてください」
 誰にも、言えなかった言葉だった。すがることもできなかった。
 この時初めて、莉也は助けを他人に求めた。


***
「なんなんだ、この子は?」
 豹午郎は怪訝な顔で、同居人の莉也の顔を覗き込んだ。
「猫です」
 みゃーと子猫が豹午郎の鼻先で自己主張した。
「猫だな」
「はい、猫です」
「で、どうしてうちに猫がいる?」
 家主である椋下豹午朗の問いに、莉也は一瞬言葉を詰まらせたが、ええいままよと早口でことの次第を語り始めた。
「豹、あのさ、こないだ言ってた植木屋さんの親父さんが、洋食屋さんの……ほらなんだっけ、あ、そうそうランプハウスさんちだ! そこのお兄さんがみーみー言ってて、あ、みーみーは猫なんだけれど」
「莉也、ストップ」
「何? 飼ってもいいの!?」
 ただ単に話を中断させただけなのに、瞳を輝かせて見つめる莉也に豹午郎は辟易した。
「違う。話下手もいいところだ。全く肝心の内容が入ってこない。簡潔に言え」
「猫を飼いたいです」
「それならそうと早く言え。却下だ」
「えへへ。だって、いつもわかりやすく話せって豹はいつも言うだろ? だから順を追ってはなそうかな……と、って、ええええ!?」
 裏返った声で短く小さな悲鳴を上げた莉也は今にも倒れるかというくらい身体をのけぞらせた。
「なんで! この冷血漢! お前なんて大嫌いだ!」
「うちには四匹もいる。命を預かるには責任が必要だ。うちはもう、手一杯だ」
 くらりと世界が反転した。莉也の視界は真っ暗になった。視界とは反対に莉也の頭は真っ白になった。
 豹午郎の言葉が何回も反芻し、脳をかき乱していく。駄目なのか、この子をうちの子にすることは出来ないのか……。
「あっ、待って、うち、三匹じゃない」
 この時、莉也の脳裏に電流が走った。彼が居候している椋下家には既に名前のない三匹が居座っており、豹午郎の言った四匹という言葉と事実に相違があった。
「ほら」
 そういって豹午郎は、莉也の鼻先を指さした。
「へ?」
「お前が俺の拾った四匹目の猫だ」
「ふぇぇ。ひどい、人間ですよぉ」
「いや、家に金を入れてない時点で猫と同じだ」
「家事はしてますとも!」
「猫の家事は飼い主を癒すことだ。うちのチビたちはお前より家事がうまい」
「そんなぁ。じゃあ、外に出て働く」
「お前に出来るのか?」
「うっ」
 まだ自分の本当の名前すら思い出せていない莉也に職場を探すのは難題だった。
「じゃあ、捨てるのかよ!」
「それならお前が出ていけ! そうしたら俺はこいつを飼う!」
 そこまで言い放って、豹午郎は、はっとなった。莉也が消え入るような声で「嘘つき」とつぶやいたのが聞こえたからだ。
「いいって、お前はお前なんだから」
 いきなり、豹午郎の厚い胸板が目の前に迫ってきた。強引に頭を押し付けられる。莉也は豹午郎の胸の中にしっぽりと抱き込まれていた。
「……なんだよ」
「言い過ぎた。悪かった」
「あっそ」
 ほのかに家主の汗のにおいがする。彼の労働の名残だろうか。毎日、外に出て彼が働いた金で自分は飯を食っているのかと思うと、なんだか泣けてくる。
「ランプハウスさんちの裏にいたんだ。こいつ、ひとりで。みーみーって言ってて、あれ、おかしいなって、洋食のお兄さんが勝手口開けたらさ、助けてくれ助けてくれって泣いてたんだってさ」
 自分の悔しくて虚しい感情をまぎわらそうとして、莉也は話し出した。
「野良がね、いたんだって。母猫が子猫生んで、裏の空き地に巣をつくってたそうでさ、お兄さんびっくりして、あ、勝手口にいた子猫はひとりだったから。その子を抱いて、慌てて空き地に行ったら、死んでたって。皆死んでたんだ」
「……子猫がか?」
「うん。母親はその先の道路で轢かれてたらしくて」
「それで」
「頼むよ、豹。助けてって言ったんだ。精いっぱいに鳴いてたんだって。お兄さんが頑張って探して、植木屋さんも、ケーキ屋さんも手伝ってあげてるけど、見つからないんだ。俺、働いて返すから! 頼むよ」
 豹午郎は大きなため息をついて、莉也の癖の強い髪に頬を埋もれさせた。ぎゅっと強く彼を抱きしめると、莉也が肩を震わせているのに気が付いた。
「お前の背中見ていたら、どうしてか気になって仕方なかったんだ。しばらく見ていたら、気が付いてお前が振り向いた。そしたら、お前も泣いてたもんな」
「え?」
 何の話だろうと莉也は首をあげようと思ったが豹午郎の身体に全身を抱きすくめられていたので無理だった。
「豹、離してよ。苦しいって」
「ああ、すまん」
「じゃあ、俺行くね」
「? おいっ、どこへだよ」
「どこかって? うーん、わかんない」
 困ったように笑った莉也の手首を豹午郎は慌てて掴んだ。
「飼おう」
「へ?」
「それなら、問題ない」
「でも……」
「なんでもない。こちらが悪かっただけだ」
 豹午郎の様子を見て、莉也は頬を染めながら、何度もうなずいた。涙の破片があちこちに飛び散った。
「豹!」
 莉也がまた豹午郎の身体の中に飛び込んだ。彼の方から離してくれとは言わなかった。


***
「名前が無ければ不自由だろう」
 初めて足を踏み入れた椋下さんの家の臭いはなんだか消毒液臭かった。
「だから、よく分からなくて」
「ホームレスのお仲間がいるんだろう」
「でも、名前なんて必要なかったから」
 椋下さんは深くため息をついてから、彼に名前を与えた。
「なんでもいい。とにかく、思い出すまでは莉也でいろ。いいな?」
「はい。いつまで居させてくれるんですか?」
 莉也の返答に豹午郎は、目を丸くした。
「何言ってるんだ。拾ったなら最後まで面倒みましょう。先のことは気にせず、休めって」
「……」
 莉也は言葉がでない衝撃を抱えたまま、静かに笑顔を作って、一筋の涙を流した。
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