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泣血哀慟

翌日、アーちゃんの世話をしたいと、アッキーに申し出た。
てっきり断られるかと思いきや、アッキーは意外なほどあっさりと承諾してくれた。
気の済むようにすればいい、と言いながら。
いずれ諦めて帰ることを想定しているのだろう。
僕も、そうなると予感している。
だから、期待してはいけない。
すべてをやりつくし、すべてに落胆し、そこで初めて"カレ"を過去にしようと決めていた。

アーちゃんの世話といっても、やれることは少ない。
重湯を作り、日に一度か二度、アーちゃんの元に運ぶくらいだ。
状態によっては、手足や顔を拭くこともあった。
伸びたヒゲはどうにもできなかったし、こびりついた垢は軽く拭く程度では取れないけど。
せめて着替えをと思っても、それは完全に拒絶された。

部屋にいる間、アーちゃんはほぼ一日中横たわっている。
それが、もっとも体力を温存できる体勢なのだろう。
目を閉じてる時間は多いが、だからといって寝ているわけじゃない。
アーちゃんが眠るのは、アキラに逢いに行った後の数時間だけなのだ。

アーちゃんは、毎日アキラに逢いに行く。
僕はそれを見送り続ける。
決して後を追いかけたりはしない。
二人の逢瀬を邪魔したくないから。
やがて一時間もすると、アッキーがアーちゃんを連れて戻ってくる。
アーちゃんが眠るのは、このときだけなのだ。

ぼんやりと天井を見上げてるときもあった。
結局何も見ていないから、目を閉じてるときと変わらないけど。
そして意識のある間は、常に何かを呟き続けるのだ。
それは、呼吸音にかき消されるほど小さくて、震える程にしか動かない唇からは、内容を把握するのは不可能だった。



一週間経ち10日がすぎ、とうとう年が改まっても、僕は構わず静かな狂気と寄り添い続けた。
洸夜のこと仕事のこと、気懸かりはたくさんあるけど、裕輔さんとアッキーの『気が済むまで』の言葉に甘え、ずるずるきている。
このまま冬が終われば、いずれ春がくるだろう……。
春までには……決断しようと思っている。

精神を病んだ人と生活してると、周囲も病んでいくと聞いたことがある。
初穂ちゃんは、離れに近づくことを禁止されていた。
だからなのか、あの子はいつも外で遊んでいる。
外からアーちゃんの様子を、窺おうとしてるのだろう。

アキもたまにやって来る。
そういうとき、僕は強制的に離れから連れ戻された。
アキとの対面は嬉しいし、尽きかけていた気力が戻ってくるようだ。
だけどそうなると、もう駄目なのだ。
アーちゃんのことばかり考えて、せっかく会えても気もそぞろになってしまう。
そのせいなのか、アキの滞在はいつも短い。

アキは、一度として離れを訪れたことはなかった。
アーちゃんのことを尋ねもしないし、彼の話をアキからしてくることもない。
アキが何を考えているのか、僕には分からない。
ううん、アッキーのこともだ。
二人が何をどう想っているのかは、僕なんかにはとんと分からないんだ。

よくよく振り返ってみれば、昔からそうだった。
彼らは、いつだって不可解で謎だらけ。
それは存在のみにあらず、その思考までもがそうだった。
そういうところも、僕を惹きつけてやまないのだろう。



今日もまた、アーちゃんは独り呟く。
誰にも聞き取れない音を。

春までには、まだ日がある。
だけどそろそろ、梅が咲くころではあるまいか。

今日のアーちゃんは幾分機嫌がよさそうだった。
だから、久しぶりに顔を拭いてみる。
抵抗はされない。
ついでだからと、これまで手を触れなかった髪に触れてみた。
一度も櫛を通してない髪は、汚れと油でぎとついていた。
伸び放題でボサボサで、ところどころ固まりになっていて、とてもじゃないが手のつけようがない。

「これは、切るしかないかな……」

フケだらけの髪を一房手にとり、濡れたタオルで拭いてみる。
灰色にくすんだ髪は、なかなか元の茶髪を取り戻してはくれない。

「今のキミを、アキラに見せたいよ。とてもじゃないけど、ギリイケメンなんて言葉は出てこないよ」

独り言には、もう慣れた。
アーちゃんの傍で、ことあるごとにアキラの話をしているけど、返事など一度として貰えたことはないから。
それでも諦めずに話しかけてしまうのは、僕がアキラのことを語りたくて堪らないからだろう。

手にした髪を、何度もタオルで擦った。
しつこいほどに拭いて、灰色が薄くなっても拭いて拭いて。
気がつけば、髪の汚れはタオルに移り、拭いたところが鈍く光っている。
そこでようやく、かつての色がとうに失われてると悟った。

恐怖から、一夜にして白髪になった話は聞いたことがあった。
でもまさか、現実に起こるとは。

面立ちも、体つきも、かつてのアーちゃんからほど遠い。
そうして髪の色までもが、思い出の中の彼とは別人のものになったのだ。

「アーちゃん……」

呼んで応えがあるはずもなく、彼は目線一つ動かさない。

「ずっと不思議だったんだよ。どうしてキミたちは、ううん、キミは、こんな僕を傍に置いてくれてたんだろう……」

アキラが僕を友として扱ってくれたから?
それだけなの?

キミは、たくさんの優しさをくれた。
信頼の意味を教えてくれた。
どこまでいっても平凡なヒトとしてしか、キミたちと接しれない僕に……。

「キラキラ会の平凡は、生涯ヒトなんだよ。キミたちのようにはなれない、ただの、ヒト……。
それは、きっと、キミたちのように、縛られないってことだよね。僕に、キミたちの理は通じないってことなんだよね……」

だからキミは、僕を傍に置いていたのだろうか。
真実などどうでもいい。
どうせキミは、何一つ答えないのだから。

天井を見上げながら、いまも何かを呟き続けるキミ。
いまでは華奢になってしまった首に、両手の指をソッと回す。
指に余るほどの細さと脆さを感じ取っても、僕の両手は震えもしなかった。

「アキラの傍に行きたい? だったら、僕が送ってあげる。キミのためなら……」

この手を汚すのに、なんら躊躇はしないよ。

両指に、軽く力を込めてみる。
キミからの反応は、ない。

「キミが望むなら……いますぐ、殺してあげる」

キミたちにできないことも、僕にならできる。
平凡なヒトにしかできないことが、この世にはあるんだ。

「だから、言って。ううん、ほんの少しでいい、一瞬でいいよ、キミの意志を見せて。殺して欲しいならっ」

僕を、見てよ――!
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