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泣血哀慟

"カレ"は、とうに死んでいた。
還ってきたわけでも、生きてるわけでもなかった。
アレは、ただの肉塊でしかないのだ。



離れを出たあと、アッキーが車を用意すると言い出した。
僕が帰りたがってると思ったのだろう。
すぐに申し出は辞退して、最初に決めていたとおり、暫く滞在する旨を改めて告げた。

滞在する間の部屋は、母屋に用意された。
浴場が隣接していて、そこで臭いを落とせと言われたときに、離れの悪臭を思い出す。
どれほど感覚が麻痺しようとも、体に染み付いた臭いはそうそう消えない。
だから、言われたとおりにお風呂に入った。
それから食事をして、初穂ちゃんとおしゃべりして、少しボンヤリしたりもして……。

あんな"カレ"を見せ付けられたのに、僕の行動は驚くほど平静だった。
取り乱すこともなければ、ひどく落ち込むこともない。
ごくごく当たり前の生活を続けられるのは、とうに答えが出ているせいだ。

"カレ"は不幸ではない。
死んだ精神と、生きようとする本能に支配された肉体はボロボロで、苦痛の声を上げているだろう。
だが肉体に、魂は宿っていないのだ。
ならば、不幸にはなりえないではないか。
いや、そもそも幸も不幸も"カレ"には関係なかった。
死人に、そんな感情はないのだから。



夕刻、懐中電灯を借りて外に出た。
アキラと東峰さんの眠る霊廟は、ここからそう遠くはない。
山道は谷や崖の類には近づけないよう配慮されてるし、白儿の領域で危険な獣もいないから、一人でも安心だ。

まだかろうじて明るいなか、教えてもらった道を急ぎ進む僕の目の前に、一匹の獣が姿を現した。
一見狐のようだけど、骨格はかなりがっしりしている。
見ようによっては犬にも酷似している動物は、今日では絶滅したが定説となっている生き物だった。
肉食獣として有名ではあるけれど、僕に焦りはない。
普段集団で生活してる彼らは、この山の守り神ともいえる存在なのだから。

「僕のこと、覚えてる?」

仲間を伴わず、たった一人姿を見せた彼に、当たり前のように問いかけた。
犬とは違い、滅多なことでは上がらない尻尾の先が、軽く揺れる。
懐かしさに破顔すると、彼もその場でクルリと一周した。

初めて存在を知らされたとき、彼らの知性の高さに驚かされた。
覚えた匂いは決して忘れず、こうしてたまにしか訪れぬ僕のことも覚えてくれてるのだ。
初対面のときからすでに何度も代替わりしてるだろうに、山に許された人間とそうでない人間を嗅ぎ分ける能力は驚異的だった。
まさに、守り神だ。
彼らがいればこそ、誰も僕の一人歩きを止めないのだ。

彼はサッと尻を見せたかと思うと、率先して僕の前を歩きだした。
ついてこいと言ったところか。
これには心の底から感謝した。
一度しか行ったことがないから、実はけっこう不安だったんだ。

「よろしく、オオカミさん」



オオカミについて行くと、すぐに石造りの階段に辿りついた。
一月前にも昇ったはずなのに、初めて見るような感じがする。
それもそのはずか、あのときは取り乱しすぎていて、ほとんど覚えてないのだから。

段数が少ないおかげで、きつくはなかった。
たまに絶望的な段数を誇る階段があるけど、それと比べたら遥かに常識的な数だ。
息切れもほぼないままに昇りきれば、こじんまりとした小さな空間に行き当たる。

その一瞬、ここが山であることを忘れた。

そこは、この国に数多おわす神々や、かつての偉人たちを祀る場所と比べたら、あまりにも小さくて狭い空間だ。
それは、彼らの存在からすれば、見合っていないと言わざるをえないほどのもの。
だがしかし、これほどまでに美しい世界を、僕は知らない。

澄んだ空気を吸いながら、一歩足を踏み出す。
堅い石の感触が伝わって、当たり前のことなのに奇妙なほど安堵した。

本来地面があるはずの地には、限界まで磨かれた石が敷き詰められている。
空間のすべてを覆いつくすほどの敷石は、目を凝らしても接地面が見つからず、まるで元から一枚であるかのようだった。
それがどれほど贅沢なことなのか、いかに労力を費やすのか、そんなこと僕は知らない。
ただ一つ分かるのは、枯葉一枚塵ひとつ落ちていない石の表面には、艶やかな輝きが満ちていて、中天を鮮やかに映し出すということだけ。
光の反射も相俟って、まるでキラキラさざめく波間に立っているようだった。
そんな、海面と見紛うばかりの敷石の真ん中には、小さな廟が建っている。
派手さはなく大きくもないけど、荘厳さは雪客そのもののようだ。
自然と頭を下げたくなる佇まいに、逆らうことなく礼をした。

奉られるは、天と海と、大地と。
三界を従え傅かれ、雪客たちが眠る場所。
いまは、最後の雪客も共に……。

ヒトならざるモノが築いた、ヒトが知ることのない場所は、俗世の空気に侵されることなく、この先もずっとあり続けるのだろう。
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