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泣血哀慟

石段まで辿り着きながら、アーちゃんは霊廟ではなく帰るほうを選んだ。
結果、以前も今も一貫して態度の変わらないアッキーに、荷物のように運ばれたわけだけど、家に着く前にはさすがに意識を喪失していた。
僕は僕で、初穂ちゃんの小さな肩を借りて、どうにか自力で戻ったはいいけど、着いた途端意識を手放したのだった。

アーちゃんが狂気から脱したとき、僕の胸中は喜びと驚きで溢れかえっていた。
当たり前といえば、当たり前の反応だろう。
だけど、少しばかりの違和感もあった。
いや、僕自身がそう感じたわけじゃない。
客観的にみたときに、違和感が生じるだろうなと思っただけだ。

初穂ちゃんのことを除外しても、アーちゃんの身に起こった出来事は、かなり衝撃的だったといえる。
それは、たとえようのない感動を、僕に、僕たちに抱かせてもおかしくないはずだった。
心は動いた。
大きく、激しく、揺さぶられた。
ところが終わってみると、割れんばかりの拍手喝采とは程遠い、ごくごく静かな終幕を迎えていたのだ。

結局のところ、僕は台本ありきの一演者だったのではないだろうか。
決められた通りに動いただけで、このラストをどこかで想定してたというわけだ。
だというのに、僕は物語の半分しか知らない。
そう、半分、半分だけだ。
アキラの物語は、いまだ一つも語られないまま、あっさりと幕は閉じたのだから。
それは多分に、創り手の責任であろう。
だが、再演はない。続きもない。
最後の舞台は、これにて真の閉幕と相成り、彼の心情が語られる日はこないのだ、永遠に……。



あれから僕は、母屋の一室へと運ばれ、丸一昼夜眠っていた。
目覚めたとき、目の前には心配そうに覗き込むアキがいて、僕は真っ先にアーちゃんのことを尋ねた。
アキは少し戸惑いながらも、彼もまた眠りっぱなしだと教えてくれた。
一瞬、以前の状態に戻ったのかと落胆しかけたが、そうではなく体力の限界を迎えたがゆえの睡眠だと言われ、胸を撫で下ろしたのだった。

そうして三日。
アーちゃんは、いまだ目覚めていない。
例の離れで、別途用意された温かな部屋で、昏々と眠り続けている。
最初こそ心配で堪らなかったが、彼の腕に施された点滴や、清潔な寝具、新品のような寝間着に、不安な気持ちは徐々に緩和された。
僕自身も過労からか床に就くことが多かったが、目覚めるたびに顔を出すアキと食事、そして温かいお湯に浸かることで十分回復した。

そして、さらに三日が過ぎたころ、ようやくにして目覚めたアーちゃんの第一声は、

「風呂…入りてぇ」

だった。



梅の時季はとうに終わり、桜の花芽が膨らんだころ、僕はアキラの元を訪れた。
例の石段を息を切らし上り詰め、広い敷石に足を乗せれば、そこには先客が。
廟の前で跪く後姿は、アーちゃんのものだった。

「アーちゃん」

僕の呼びかけに、アーちゃんがゆっくりと立ち上がり振り向く。
あのころの擦り切れボロボロだった着物とは違い、今のアーちゃんは紺の着流しに羽織を着ていた。

「葛西、何時に来るって?」

「んと、昼過ぎって言ってたから……」

「そ。ま、よろしく言っといてよ」

「え、会わないの?」

「わざわざ見たい面でもないしね」

「そんな……」

「そのうちイヤでも突き合わせるんだ。そんときでいいよ」

「そう、分かった。じゃあ、アーちゃんがよろしく言ってたって伝えとくよ」

いまだ面窶れした頬が、自然な笑顔を造りあげる。
離れを出、母屋で生活してる彼の肉体は、日増しに元の状態に戻りつつあった。
それでも、失った色は取り戻せない。
今では真っ白になった頭髪を、アーちゃんがうっとうしげに掻きあげる。

「そういえば、受験だって?」

「え? あ、洸夜? うん、そう。中等部をね、受けるつもりらしくて」

「受かれば、俺たちの後輩か」

「そうだね。受かればね」

もうすぐ洸夜は、小学6年生になる。
帰宅したら、すぐに新学期の準備をしなければならない。
受験のこともあるし、結構忙しい年になりそうだ。

寒いのか、アーちゃんが両手を袖の中に入れた。
もともと和服のほうを好んでるだけに、そういう仕草がすごく馴染んでいる。

「アーちゃん、もういいの?」

廟に背を向け歩き出すアーちゃん。
咄嗟に声を掛けたのは、どこか離れがたく感じたからか。

「ああ、戻って二度寝でもするよ」

「そう。また、会えるよね」

「当たり前でしょ。もうちょいしたら俺も帰るし、飲みにでも行こうぜ」

「うん……あ、ねぇ」

「なに?」

「言いたかったことは、言えた?」

これまでの僕なら、絶対に訊けなかった。
アーちゃんは、アキラに言えたんだろうか。
長年押し隠してきた気持ちを、伝えられたんだろうか。
もちろん、答えなんか期待してない。
悪趣味なジョークとして、皮肉っぽく笑い飛ばしてくれればいい。

「今のうちに、せいぜい楽しんどけ」

「え?」

「ケダモノに、水差しといた」

「ケ、ケダモノ……?」

もしかしたら、東峰さんのことだろうか?
いや、間違いなく東峰さんのことだろう。

「ノホホンには……愛してるって言っといた」

その一瞬だけ、満ち足りていながらも、切なげに揺れた瞳。
隠すようにして項垂れた首筋に、銀糸のような髪が舞い降りる。

「ねぇ、アーちゃん…アキラは…」

「え、なに?」

「ううん、なんでもない」

「そ。じゃ、またね」

「うん、また……」

颯爽と去って行く背中には、なんの蟠りも残っていなかった。
彼は、愛してると言っていたのだ。
愛していたではなく、愛している、と。
彼は、ようやく決心したのだろう。
忠誠ではなく、愛を。
この世でもっとも覚束ず脆い想いを、永遠に捧げる覚悟を決めたのだろう。

一人取り残された僕は、再度心の中で問いかけた。
ねぇ、アキラ。
キミは、アーちゃんをどうしたかったの?
連れて行くことはできなかったの?
置いて逝くことに不安はなかった?
キミは、アーちゃんの気持ちを、知っていたのだろうか……?

あの日と同じく、応えを得ることはできなかった。
だけど、あの日とは違う温かい空気が、僕を包み込んでくれている。

アキラ。
キミの気持ちも本心も仕舞われたまま、すべては終わってしまったね。

この先アーちゃんが、自ら死を選ぶことはないだろう。
狂うほどの絶望が、彼を襲うこともない。
そうして、死ぬまで愛し抜くのだ。
否、死した後も、愛し続けるのだろう。キミだけを……。
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