泣血哀慟
ある時期から、初穂ちゃんは言葉の大半を失った。
それは初穂ちゃんの意思であったと、僕はそう思っている。
どうして初穂ちゃんは、言葉を捨てたのだろうか。
それは、もしかしたら、このときのためかもしれない。
今このときまで、内に秘めたモノを隠すために。
アキラと雪客がまったくの別モノであったように、初穂ちゃんもまた、別の個性を演じていたのではないか。
それにどんな意味があるかは、アキラたちにしか分からないことだけど、存外、すごく詰まらない理由からではないだろうか。
たとえば、ごく普通の日常を楽しむためとか、そんな常人には理解し難い理由から。
なんにしろ、初穂ちゃんは見事に隠しおおせた。
受け継がれた闇を誰にも――おそらくはアッキーにさえ悟らせず隠し続けてきたのだ。
「初穂のムロは閉ざされたの。あの人の手で。二度と開かないよう、ヌキを壊してもらったの」
ムロ――それは雪客の持つ、記録の納め殿だ。
初穂ちゃんには、それがある。あった。
藤村先輩のご子息で、鷺視とは無縁のはずの初穂ちゃんに、どうしてそれがあったかは謎だけど、今はそんなこと論じる必要はない。
大事なのは、アキラの手で封印されたということだ。
「どうして、アキラは、そんなことを……」
「最後だから。あの人で、お仕舞いだから。だから初穂は、空っぽのまま生きてくの。何も知らない、何も要らない、でも、約束は忘れない……」
約束とは、なんのことだ?
それは、誰の記憶なんだ?
「キミは、アキラの記憶を持っているの?」
「ちょっとだけ。本当に、ちょっとだけ……」
初穂ちゃんが、自分の胸に両手を当てる。
そこに大切なナニかが仕舞われてでもいるかのように、やけに満ち足りた顔で。
「初穂が知ってるのは、約束だけ。大切なものだということだけ。どうして大切なのか、初穂は知らない。
どうして交わされたのか、初穂は知らない。でも、初穂は憶えてる」
「何を約束したの? 誰と誰との約束なの?」
「……」
「初穂ちゃん、教えて」
「渡辺彬っ」
「っ、!?」
「藤村初穂は、何も知らぬ。記憶がないから。託されなかったから。だが、知ってるぞ。我を我を知っておるぞ」
小学生とは思えぬほどの威圧感に、押し潰されそうだった。
劇的な変化など見慣れてるはずが、あまりにも無様すぎる。
そんな僕を嘲笑う初穂ちゃんに、かつての彼の姿が自然と重なった。
「ゆえに、問いは、三つまで」
「そう、そうだったね……」
たとえ場所は違えども、ここは奈落と同義だ。
ならば、招かれたわけでもないのに質問が許されただけ、かなり温情溢れた措置といえる。
昔の出来事が、カウントされないことも。
「人は、簡単に嘘をつく。人は、容易に忘れる」
シミジミと漏らす言葉は、僕への苦言か。
いや、初穂ちゃんは、既に僕への興味を失っている。
俯くアーちゃんを視線に留めながら、彼はつい今しがた己を拘束していた右手へと、小さな掌を重ねていった。
そうして絡む、小指と小指。
それは誰もが知る、約束の形だった。
「だから、交わそう。何度でも指切りしよう」
アーちゃんは震えていた。
それは寒さからくる反射なのか、それとも……。
「ねぇ、何度目か、憶えてる?」
「んなの……憶えてねぇ……」
そのときの僕は、随分間の抜けた顔をしていたと思う。
純粋な驚きと不可思議な腹立たしさ、忘れかけていた希望と疑問で、ぐちゃぐちゃになっていたから。
「そっか、憶えてないだ……」
「でも……忘れない。交わした数は、憶えてなくても、忘れない。……絶対にだ」
あまりにも淀みない台詞に、目を瞠った。
またか、なんて呆れすらも滲ませるものだから。
アーちゃんは、幾度となく同じ回答を口にしてきたのではないか。
忘れない。
ただそれだけのことを、何度も、何度も、誓わされてきたんじゃないだろうか。
「アッ…くん……」
キミが、呼ぶ。
弱々しい声で、懐かしい名前を。
限界まで掠れた声で、どことなく皮肉っぽい響きを混じえて、僕の名を口にする。
その瞬間、アーちゃんの身体は崩れ落ちた。
いよいよ限界が、迫ってきたのだ。
「ア、アーちゃん!」
咄嗟に駆け寄った僕を、アーちゃんが必死の形相で見上げてくる。
その瞳に宿るのは、薄まった狂気と疲労の影だ。
そう、狂気は、いまだ健在なのだ。
「アーちゃん、アーちゃん!!」
「アッくん……言って」
「え……」
「俺に、言え……」
何を? とは思わなかった。
僕が言うべき言葉――アーちゃんが知るべき事実など、一つしかないのだから。
「アーちゃんは、守人じゃない。キミは、継埜守人になれなかったんだ」
キツイ口調で突きつければ、アーちゃんが一瞬辛そうに顔をしかめた。
それが、偽りであり、真実なのだ。
そうだ、アーちゃんは守人じゃない。
そうであってはいけないし、そうでないことを責められるべきなのだ。
でもそれは、アーちゃんが担うべきことではない。
だから、自らを責めるキミを、僕が代わりに責めてあげよう。
決して赦さずにいてあげる。だからもういい。いいんだよ。
昔みたいに、飄々と棚上げしておけばいいんだ。
責任転嫁と言い逃れは、キミの十八番だろう。
「そうか……」
「うん、そうだよ。継埜守人を演じきれなかったキミに、狂う資格はないんだよ」
アーちゃんは守人であり守人ではない矛盾した存在で、そこに至ったのはアーちゃん自身の責任だ。
きっと初めのころ――アーちゃんが守人となったころは、彼らの目的はほぼ合致していた。
アキラの傍に居続ける意味では、守人になるのが最適で、守人にとっても、アーちゃんは都合良い人材だったのだろう。
だけど、後になればなるほど溝は深まり、雪客の死を切っ掛けに、とうとう両者の関係に亀裂が入った。
いずれ狂死することだけを願っていた守人に、反抗したのはアーちゃん。
守人の忠魂に逆らい、雪客を愛しい相手として求めたのだ。
雪客に跪くよりも、アキラを抱き締め口付けたい衝動が勝ったとき、守人には耐え難い苦痛となっただろう。
だけど、なにもかも遅かった。
結局アーちゃんは己を責め立てるのに躍起になり、守人の怨嗟をも背負うことになったのだ。
重みに耐えきれんとばかりに、アーちゃんの瞼が閉ざされた。
てっきり気を失ったかと思いきや、カラカラにひび割れた唇が、ここには居ないアッキーの名を綴る。
「アッキー……、動けない、限界……抱っこ、して……」
「アーちゃん? 何言って……って、えっ!?」
どこからともなく現れたアッキーに、腰が抜けそうなほど仰天した。
うっかり背後に倒れそうになった僕を、初穂ちゃんが支えてくれる。
「ど、どうして、アッキー? え、え?」
っていうか、いつから居たんだよ。
「最初から」
「まだ訊いてないよっ」
「どうせ訊くんだろ。いつから居たんだと」
「そ、そうだけど」
「先に答えてやったまでだ」
「そ、そうですか……」
これも、親切心だと受け取っていいんだろうか?
どこか腑に落ちないながらも、とりあえず首を傾げるだけで、この件は終わらせよう。
「んな無駄話、いらねー。早く、連れて、帰ってよ。寒い……」
着物一枚のアーちゃんには、この気温は堪えるだろう。
急ぎアーちゃんを抱き上げようとしたら、アッキーが横からひょいと担ぎ上げる。
片腕で軽々と持ち上げられたアーちゃんは、そのままアッキーの肩へと乗せられた。
「ぐえっ、ちょ、DVやめて……」
「姫抱きとやらを所望か?」
「ぐ……、これで、いいです……」
「渡辺」
「え?」
アッキーが、アーちゃんを支える腕とは逆の手を僕へと差し出した。
その意味が分からずにいたら、
「あと5人くらいなら余裕だ」
「え?」
「父上、おじたま、初穂におまかせよ。初穂おももりするの」
「そうか、では初穂に任せよう」
父子(?)の会話から、アッキーの意図をようやくにして察した。
僕のことも、担いでくれるつもりだったのだ。
確かにアッキーなら、5人くらい余裕だろう。
むしろ、どうして5人なのかが不思議なくらいだ。
「あ、そっか」
腕力の問題ではなく、面積の問題だったわけか。
そう考えると、アッキーの細い身体の、どこに5人も乗せられるのかが気になるな……。
それは初穂ちゃんの意思であったと、僕はそう思っている。
どうして初穂ちゃんは、言葉を捨てたのだろうか。
それは、もしかしたら、このときのためかもしれない。
今このときまで、内に秘めたモノを隠すために。
アキラと雪客がまったくの別モノであったように、初穂ちゃんもまた、別の個性を演じていたのではないか。
それにどんな意味があるかは、アキラたちにしか分からないことだけど、存外、すごく詰まらない理由からではないだろうか。
たとえば、ごく普通の日常を楽しむためとか、そんな常人には理解し難い理由から。
なんにしろ、初穂ちゃんは見事に隠しおおせた。
受け継がれた闇を誰にも――おそらくはアッキーにさえ悟らせず隠し続けてきたのだ。
「初穂のムロは閉ざされたの。あの人の手で。二度と開かないよう、ヌキを壊してもらったの」
ムロ――それは雪客の持つ、記録の納め殿だ。
初穂ちゃんには、それがある。あった。
藤村先輩のご子息で、鷺視とは無縁のはずの初穂ちゃんに、どうしてそれがあったかは謎だけど、今はそんなこと論じる必要はない。
大事なのは、アキラの手で封印されたということだ。
「どうして、アキラは、そんなことを……」
「最後だから。あの人で、お仕舞いだから。だから初穂は、空っぽのまま生きてくの。何も知らない、何も要らない、でも、約束は忘れない……」
約束とは、なんのことだ?
それは、誰の記憶なんだ?
「キミは、アキラの記憶を持っているの?」
「ちょっとだけ。本当に、ちょっとだけ……」
初穂ちゃんが、自分の胸に両手を当てる。
そこに大切なナニかが仕舞われてでもいるかのように、やけに満ち足りた顔で。
「初穂が知ってるのは、約束だけ。大切なものだということだけ。どうして大切なのか、初穂は知らない。
どうして交わされたのか、初穂は知らない。でも、初穂は憶えてる」
「何を約束したの? 誰と誰との約束なの?」
「……」
「初穂ちゃん、教えて」
「渡辺彬っ」
「っ、!?」
「藤村初穂は、何も知らぬ。記憶がないから。託されなかったから。だが、知ってるぞ。我を我を知っておるぞ」
小学生とは思えぬほどの威圧感に、押し潰されそうだった。
劇的な変化など見慣れてるはずが、あまりにも無様すぎる。
そんな僕を嘲笑う初穂ちゃんに、かつての彼の姿が自然と重なった。
「ゆえに、問いは、三つまで」
「そう、そうだったね……」
たとえ場所は違えども、ここは奈落と同義だ。
ならば、招かれたわけでもないのに質問が許されただけ、かなり温情溢れた措置といえる。
昔の出来事が、カウントされないことも。
「人は、簡単に嘘をつく。人は、容易に忘れる」
シミジミと漏らす言葉は、僕への苦言か。
いや、初穂ちゃんは、既に僕への興味を失っている。
俯くアーちゃんを視線に留めながら、彼はつい今しがた己を拘束していた右手へと、小さな掌を重ねていった。
そうして絡む、小指と小指。
それは誰もが知る、約束の形だった。
「だから、交わそう。何度でも指切りしよう」
アーちゃんは震えていた。
それは寒さからくる反射なのか、それとも……。
「ねぇ、何度目か、憶えてる?」
「んなの……憶えてねぇ……」
そのときの僕は、随分間の抜けた顔をしていたと思う。
純粋な驚きと不可思議な腹立たしさ、忘れかけていた希望と疑問で、ぐちゃぐちゃになっていたから。
「そっか、憶えてないだ……」
「でも……忘れない。交わした数は、憶えてなくても、忘れない。……絶対にだ」
あまりにも淀みない台詞に、目を瞠った。
またか、なんて呆れすらも滲ませるものだから。
アーちゃんは、幾度となく同じ回答を口にしてきたのではないか。
忘れない。
ただそれだけのことを、何度も、何度も、誓わされてきたんじゃないだろうか。
「アッ…くん……」
キミが、呼ぶ。
弱々しい声で、懐かしい名前を。
限界まで掠れた声で、どことなく皮肉っぽい響きを混じえて、僕の名を口にする。
その瞬間、アーちゃんの身体は崩れ落ちた。
いよいよ限界が、迫ってきたのだ。
「ア、アーちゃん!」
咄嗟に駆け寄った僕を、アーちゃんが必死の形相で見上げてくる。
その瞳に宿るのは、薄まった狂気と疲労の影だ。
そう、狂気は、いまだ健在なのだ。
「アーちゃん、アーちゃん!!」
「アッくん……言って」
「え……」
「俺に、言え……」
何を? とは思わなかった。
僕が言うべき言葉――アーちゃんが知るべき事実など、一つしかないのだから。
「アーちゃんは、守人じゃない。キミは、継埜守人になれなかったんだ」
キツイ口調で突きつければ、アーちゃんが一瞬辛そうに顔をしかめた。
それが、偽りであり、真実なのだ。
そうだ、アーちゃんは守人じゃない。
そうであってはいけないし、そうでないことを責められるべきなのだ。
でもそれは、アーちゃんが担うべきことではない。
だから、自らを責めるキミを、僕が代わりに責めてあげよう。
決して赦さずにいてあげる。だからもういい。いいんだよ。
昔みたいに、飄々と棚上げしておけばいいんだ。
責任転嫁と言い逃れは、キミの十八番だろう。
「そうか……」
「うん、そうだよ。継埜守人を演じきれなかったキミに、狂う資格はないんだよ」
アーちゃんは守人であり守人ではない矛盾した存在で、そこに至ったのはアーちゃん自身の責任だ。
きっと初めのころ――アーちゃんが守人となったころは、彼らの目的はほぼ合致していた。
アキラの傍に居続ける意味では、守人になるのが最適で、守人にとっても、アーちゃんは都合良い人材だったのだろう。
だけど、後になればなるほど溝は深まり、雪客の死を切っ掛けに、とうとう両者の関係に亀裂が入った。
いずれ狂死することだけを願っていた守人に、反抗したのはアーちゃん。
守人の忠魂に逆らい、雪客を愛しい相手として求めたのだ。
雪客に跪くよりも、アキラを抱き締め口付けたい衝動が勝ったとき、守人には耐え難い苦痛となっただろう。
だけど、なにもかも遅かった。
結局アーちゃんは己を責め立てるのに躍起になり、守人の怨嗟をも背負うことになったのだ。
重みに耐えきれんとばかりに、アーちゃんの瞼が閉ざされた。
てっきり気を失ったかと思いきや、カラカラにひび割れた唇が、ここには居ないアッキーの名を綴る。
「アッキー……、動けない、限界……抱っこ、して……」
「アーちゃん? 何言って……って、えっ!?」
どこからともなく現れたアッキーに、腰が抜けそうなほど仰天した。
うっかり背後に倒れそうになった僕を、初穂ちゃんが支えてくれる。
「ど、どうして、アッキー? え、え?」
っていうか、いつから居たんだよ。
「最初から」
「まだ訊いてないよっ」
「どうせ訊くんだろ。いつから居たんだと」
「そ、そうだけど」
「先に答えてやったまでだ」
「そ、そうですか……」
これも、親切心だと受け取っていいんだろうか?
どこか腑に落ちないながらも、とりあえず首を傾げるだけで、この件は終わらせよう。
「んな無駄話、いらねー。早く、連れて、帰ってよ。寒い……」
着物一枚のアーちゃんには、この気温は堪えるだろう。
急ぎアーちゃんを抱き上げようとしたら、アッキーが横からひょいと担ぎ上げる。
片腕で軽々と持ち上げられたアーちゃんは、そのままアッキーの肩へと乗せられた。
「ぐえっ、ちょ、DVやめて……」
「姫抱きとやらを所望か?」
「ぐ……、これで、いいです……」
「渡辺」
「え?」
アッキーが、アーちゃんを支える腕とは逆の手を僕へと差し出した。
その意味が分からずにいたら、
「あと5人くらいなら余裕だ」
「え?」
「父上、おじたま、初穂におまかせよ。初穂おももりするの」
「そうか、では初穂に任せよう」
父子(?)の会話から、アッキーの意図をようやくにして察した。
僕のことも、担いでくれるつもりだったのだ。
確かにアッキーなら、5人くらい余裕だろう。
むしろ、どうして5人なのかが不思議なくらいだ。
「あ、そっか」
腕力の問題ではなく、面積の問題だったわけか。
そう考えると、アッキーの細い身体の、どこに5人も乗せられるのかが気になるな……。