隊長たちの休日-2014秋の特別編-
[隊長たちの休日-2014秋の特別編-5]
タクシーは適当に拾うと告げたら、高橋君はそうそうに次のバイトに向かった。
あとは大通りまで移動して、タクシーを拾うだけ。
「鳥山、お腹すかない?」
「お腹? そういえば、少しすいてるかな」
「じゃあ、何か食べてから帰ろうよ」
「うん、いいけど」
そう返事をすると、御船がニヤリと口角を持ち上げた。
意地の悪さがもろに滲み出ている笑みは、長い付き合いでも見たことがないものだった。
とても、悪い予感がする……。
店は既に予約してると言われて、その手回しのよさに絶句した。
あんな笑顔を見せられたのだ、絶対に普通の店ではないだろう。
「ねぇ、どんなお店?」
「英国風の…、店」
すごく気になる言い方だなぁ。
「英国料理って、あんまりイメージが湧かないんだけど」
フィッシュ&チップスにローストビーフ……まともに食べられそうな物は他に何があったかな?
「料理はいたって普通だよ」
「普通って?」
「フレンチもあれば、イタリアンもあるってこと」
ごくありふれたお店ってことなのだろうか。
「だったらいいけど」
御船が案内してくれたのは、大きなビルの半地下に入っているお店だった。
外観は完全なまでに英国風で調えられていて、看板には流麗な英字体の文字。
重そうなドアを開けて中に入れば、英国風はさらに強調されていた。
しかし、すぐに店内というわけではなく、ワンクッションとしてエントランスが置かれていたのだ。
テーブル席は、どうやらその奥にある扉の先らしい。
ちょっと高級なところならば当然の処置も、店内の造りが変わっているせいで落ち着かない。
何も知らなければ、どこぞのお屋敷の玄関に紛れ込んだかと思うほど、一見邸宅風な造りをしていたせいで。
藤村様の東京のご実家も、こんな感じだったなぁ。
御船は一瞬だけ戸惑いを見せたが、カウンターが置かれてるのを見てホッとしたように力を抜いた。
御船も初めて来たのかもしれない。
それはさておきこのお店、御船が言ったような普通の店にはまったく見えなかった。
まず、カウンターにいる男性が、普通ではない。
普通とはなんぞやと聞かれると困るんだけど、少なくとも僕の感覚からいえばその辺にある店とは異なっていたのだ。
「ご予約のお名前は」
と尋ねてくる紳士――まさに紳士という呼び名がピッタリだった――の服装は、こんな街中ではまず見られないであろう、テールコート。
燕尾服というほうが、伝わりやすいかな。
下にはウェストコートも着ていて、シャツは糊のきいた白無地のボタンシャツ、首元には蝶ネクタイが締められていた。
完璧な礼服だ。
支配人だとしても、あまりにも行き過ぎた正装ぶりに、今から夜会でも開かれるのかとビクビクしてしまう。
「**様ですね。お待ちしておりました」
秘かに動揺している僕を放って、御船は着々と予約の確認。
だけど、**様というのは御船とも僕とも関わりのない名前だった。
紳士の、真っ白な手袋で覆われた手がペンと紙を差し出し、平然と受け取った御船が偽名で記入。
わざわざ偽名で予約してたってことは、まさか、まさか、やばい類の店じゃないだろうな。
御船を信頼してはいるものの、若干不安になってきた。
「なんとお呼びすればよろしいでしょうか」
「は……?」
「旦那様で」
「畏まりました。お連れ様はお決まりですか?」
「は……?」
「鳥山は、坊ちゃまでいいよね」
「へ……?」
「坊ちゃまで」
こらこらこら、僕を置いていくな!
「あ、ちょっと待っててもらえます?」
心の叫びが届いたのか、御船が紳士を遮る。
「鳥山、ここはね、執事喫茶なの。わかるよね」
「わからない……」
「メイド喫茶は知ってるでしょ」
「うん、一応は」
文化祭で見たしね。
「あ、その執事版ってこと?」
「似てるけど、まったく違う」
「御船、お願いだから、一度くらいはちゃんと説明してよ……」
今日はこんなことばかりで、ちょっとだけ泣けてきた。
◆
要は、執事が給仕してくれる料理店ということだね。
なんだ、普通じゃないか。
「うん、なんとなく分かってきた」
メイド喫茶と似てるけど、まったく違うと言ってた通り、確かに少々趣きが異なっている。
メイド喫茶はあくまでもコスプレ要員と遊ぶお店であり、実際のメイドからは程遠いキャピキャピしたメイドが、じゃんけんしたりオムライスにケチャップ絵を書くところ。
対して執事喫茶とは、コスプレ店ではあるものの、そういったノリは排除して、ちゃんとした食事やお茶を提供しつつ簡単な会話を楽しむ場所。
一緒になって騒ぐのではなく、執事に細々と気を使ってもらいながら、お嬢様気分を味わうのが醍醐味なんだって。
よしよし、理解できたぞ。
単にウェイターが執事の格好をしてるってだけで、中身はいたって普通の高級イタリアン&フレンチのお店ってことだよね。
これでもう何が起きても大丈夫。
「坊ちゃまでお願いします」
自ら告げれば、紳士からは完璧な笑顔が返ってきた。
呼称が決まれば、あとはここの設定に従って動くだけ。
その前にと受付の紳士は、店のシステムを事細かに説明してくれた。
これといって驚く内容は三点くらいしかなく、やはり普通なのだと実感する。
まぁ、この三点がかなり異色なんだけどね。
執事と会話するときは坊ちゃまに成りきれとか、勝手に席を離れてうろつくのは禁止とか、トイレに行くのにも執事を呼べとか。
「旦那様、坊ちゃま、お戻りをお待ちしておりました。ところで、当家の執事の名は覚えてらっしゃいますか?」
唐突に設定を口にした紳士に一瞬身構えてしまったが、それはつまり、執事の指名はあるかという意味だと理解できた自分が誇らしい。
ここは僕たちの家という設定だから、わざわざこんな聞き方をしてくるんだよね。
あはは、もうなんでも来いの心境だよ。
「もちろん覚えてるよ。タカハシです!」
「えええええええ!?」
立派なドアを開けてくれるのは、フリルシャツが愛らしいちょっと可愛い系の男性だった。
彼の役割は、フットマン。
フットマンというのは、いわゆる召使のことだ。
ここでは執事とフットマンがペアになり、給仕してくれるんだって。
ドアの向こう側には、深々とお辞儀した執事が待っていて……。
「おか……」
瞬時に硬直した執事と同じくらい、僕も固まってることだろう。
御船だけが、やけにやる気満々。
「こら、ちゃんとお出迎えしてよ」
「……えり、なさ、なさ、なさい、ませ……だ、だ、…だんな、さま、ぼ、ぼっちゃ、ま」
カウンターにいた紳士に睨まれつつ、ようやく出迎えの口上を終えた執事の顔は、可哀想なほどに引き攣っていた。
僕が悪いんじゃない、僕のせいじゃない、僕は何もしていない……ブツブツ。
早い話が、高橋君の次のバイト先が、この執事喫茶だったというだけのことだ。
御船はそれを知っていて、あえて偽名で予約した。
ここ、完全予約制だそうです。
「一ヶ月先まで埋まってたからね、円さんにお願いしちゃった」
えへと、どんな悪行も許せるほどの天使の笑みで、御船がしれっと白状する。
円さんというのは、東峰様のお母様の名前。
東峰夫人からのご紹介を断れるはずないよね……権力の使い方が歪んでるよ、御船。
まぁ、そんなこんなでテーブルに着くときに、流れるような動作で椅子を引く高橋君に、こちらこそ引きながらも、僕たちはイタリアンのコースを頼み、食前酒代わりのオレンジジュースで喉を潤していた。
その間、御船が、細々と状況説明をしてくれる。
ここのオーナーは、明石元首相のお孫さん、かの明石大雅の姉にあたる人物ということだった。
上流階級のご婦人方というのは数が限られているせいか、実に横の繋がりが強い。
東峰夫人や葛西夫人といった名士のご夫人方が、息抜きにこっそり足を運んでるんだってさ。
そのための完全個室がいくつか用意されていて、今回僕と御船が通されたのもそこだった。
「後で高橋君に怒られても、知らないよ」
「いいんだよ。4年前の仕返しなんだから」
「4年前に、何かあったの?」
「んー」
「あ、言いたくなかったら言わなくてもいいよ」
「うーん、鳥山なら話してもいいかな」
「無理には聞かないよ」
「僕が話したい気分なんだよ」
御船が話してくれたのは、僕たちが中学二年生になったばかりの頃のことだった。
佐藤君と出会い、東峰様との共闘を誓うまでの出来事。
佐藤君を叩いたという話には、さすがの僕も仰天したけど。
「その借りはね、去年返せたからいいんだ」
「どうやって返したんだい?」
「東峰様に一つ隠し事をすることで、チャラにしたのさ。といっても、どうせすぐにばれるのは分かってたんだけどね」
軽い口調ではあったものの、それは御船にとってはささやかな秘密では済まないものであったろう。
主と仰ぐ東峰様に、隠し事をするという重罪。彼なら、そう考えるはずだ。
「そっか、返せたならよかったね。で、高橋君への仕返しは、どのくだりにあるんだい?」
それを訊いたとき、御船の表情が翳った。
「僕はね、佐藤君のことで高橋に責められたことがあるんだ。こう襟を掴まれて、めいっぱい詰られたの」
御船が自分の服の襟元を掴んでみせた。
同時に卑屈な笑みが浮かべられる。
そんな顔、御船には似合わないよ。
だけど、詰られたから、仕返し?
それこそあまりにも御船らしくないではないか。
「それがあまりにも恐くて、僕は身動ぎ一つできなかったんだよ。相手はまだ小学校を出たばかりの子供だというのにね。
なのに恐怖のあまり声も出せずに震えていた。もしかしたら死をも覚悟していたかもしれない。すごく、すごくね、みっともなかったんだ……」
「……口惜しかったんだね」
「うん、そういうことなんだろうね。でもね、やり込められたからじゃなくて……」
「分かるよ。向こうのほうが遥か高見に居るようで、それが口惜しかったんでしょ」
「やっぱり鳥山は、わかってくれるね」
当時の御船は、いわば空っぽの器だったのだ。いや、器にすら成りきれていなかった。
たくさんのものが欠けていた。
それは決意であり、死をも凌駕するほどの覚悟、そして仕えるべき主となる人物。
それらのものが、高橋君には最初から備わっていたのだろう。
それは逆に、多くのものが欠けているともいえる。
御船のような迷いや躊躇、人の持つ倫理観や価値観、そんなものを持っていない相手に、とうにそこへと行き着いてしまっていた彼に、御船は怯えながらも嫉妬し、そして惨敗したのだ。
「今なら、そこそこ渡り合えるとは思うんだけどね」
吹っ切るようにオレンジジュースを手に持つ御船。
僕も同じくオレンジジュースを手にし、二人同時に前に突き出す。
「仕返しも済んだことだし、これで許してあげなよ」
「分かってるよ。これで水に流して忘れるよ」
カチンとぶつかりあうグラス。
それを待っていたかのようなタイミングで運ばれてくる前菜、もちろん持ってきたのは我らが執事だ。
今日を締めくくる晩餐は、執事の有能さに惚れ惚れするばかりの夜と相成ったのでございます。
タクシーは適当に拾うと告げたら、高橋君はそうそうに次のバイトに向かった。
あとは大通りまで移動して、タクシーを拾うだけ。
「鳥山、お腹すかない?」
「お腹? そういえば、少しすいてるかな」
「じゃあ、何か食べてから帰ろうよ」
「うん、いいけど」
そう返事をすると、御船がニヤリと口角を持ち上げた。
意地の悪さがもろに滲み出ている笑みは、長い付き合いでも見たことがないものだった。
とても、悪い予感がする……。
店は既に予約してると言われて、その手回しのよさに絶句した。
あんな笑顔を見せられたのだ、絶対に普通の店ではないだろう。
「ねぇ、どんなお店?」
「英国風の…、店」
すごく気になる言い方だなぁ。
「英国料理って、あんまりイメージが湧かないんだけど」
フィッシュ&チップスにローストビーフ……まともに食べられそうな物は他に何があったかな?
「料理はいたって普通だよ」
「普通って?」
「フレンチもあれば、イタリアンもあるってこと」
ごくありふれたお店ってことなのだろうか。
「だったらいいけど」
御船が案内してくれたのは、大きなビルの半地下に入っているお店だった。
外観は完全なまでに英国風で調えられていて、看板には流麗な英字体の文字。
重そうなドアを開けて中に入れば、英国風はさらに強調されていた。
しかし、すぐに店内というわけではなく、ワンクッションとしてエントランスが置かれていたのだ。
テーブル席は、どうやらその奥にある扉の先らしい。
ちょっと高級なところならば当然の処置も、店内の造りが変わっているせいで落ち着かない。
何も知らなければ、どこぞのお屋敷の玄関に紛れ込んだかと思うほど、一見邸宅風な造りをしていたせいで。
藤村様の東京のご実家も、こんな感じだったなぁ。
御船は一瞬だけ戸惑いを見せたが、カウンターが置かれてるのを見てホッとしたように力を抜いた。
御船も初めて来たのかもしれない。
それはさておきこのお店、御船が言ったような普通の店にはまったく見えなかった。
まず、カウンターにいる男性が、普通ではない。
普通とはなんぞやと聞かれると困るんだけど、少なくとも僕の感覚からいえばその辺にある店とは異なっていたのだ。
「ご予約のお名前は」
と尋ねてくる紳士――まさに紳士という呼び名がピッタリだった――の服装は、こんな街中ではまず見られないであろう、テールコート。
燕尾服というほうが、伝わりやすいかな。
下にはウェストコートも着ていて、シャツは糊のきいた白無地のボタンシャツ、首元には蝶ネクタイが締められていた。
完璧な礼服だ。
支配人だとしても、あまりにも行き過ぎた正装ぶりに、今から夜会でも開かれるのかとビクビクしてしまう。
「**様ですね。お待ちしておりました」
秘かに動揺している僕を放って、御船は着々と予約の確認。
だけど、**様というのは御船とも僕とも関わりのない名前だった。
紳士の、真っ白な手袋で覆われた手がペンと紙を差し出し、平然と受け取った御船が偽名で記入。
わざわざ偽名で予約してたってことは、まさか、まさか、やばい類の店じゃないだろうな。
御船を信頼してはいるものの、若干不安になってきた。
「なんとお呼びすればよろしいでしょうか」
「は……?」
「旦那様で」
「畏まりました。お連れ様はお決まりですか?」
「は……?」
「鳥山は、坊ちゃまでいいよね」
「へ……?」
「坊ちゃまで」
こらこらこら、僕を置いていくな!
「あ、ちょっと待っててもらえます?」
心の叫びが届いたのか、御船が紳士を遮る。
「鳥山、ここはね、執事喫茶なの。わかるよね」
「わからない……」
「メイド喫茶は知ってるでしょ」
「うん、一応は」
文化祭で見たしね。
「あ、その執事版ってこと?」
「似てるけど、まったく違う」
「御船、お願いだから、一度くらいはちゃんと説明してよ……」
今日はこんなことばかりで、ちょっとだけ泣けてきた。
◆
要は、執事が給仕してくれる料理店ということだね。
なんだ、普通じゃないか。
「うん、なんとなく分かってきた」
メイド喫茶と似てるけど、まったく違うと言ってた通り、確かに少々趣きが異なっている。
メイド喫茶はあくまでもコスプレ要員と遊ぶお店であり、実際のメイドからは程遠いキャピキャピしたメイドが、じゃんけんしたりオムライスにケチャップ絵を書くところ。
対して執事喫茶とは、コスプレ店ではあるものの、そういったノリは排除して、ちゃんとした食事やお茶を提供しつつ簡単な会話を楽しむ場所。
一緒になって騒ぐのではなく、執事に細々と気を使ってもらいながら、お嬢様気分を味わうのが醍醐味なんだって。
よしよし、理解できたぞ。
単にウェイターが執事の格好をしてるってだけで、中身はいたって普通の高級イタリアン&フレンチのお店ってことだよね。
これでもう何が起きても大丈夫。
「坊ちゃまでお願いします」
自ら告げれば、紳士からは完璧な笑顔が返ってきた。
呼称が決まれば、あとはここの設定に従って動くだけ。
その前にと受付の紳士は、店のシステムを事細かに説明してくれた。
これといって驚く内容は三点くらいしかなく、やはり普通なのだと実感する。
まぁ、この三点がかなり異色なんだけどね。
執事と会話するときは坊ちゃまに成りきれとか、勝手に席を離れてうろつくのは禁止とか、トイレに行くのにも執事を呼べとか。
「旦那様、坊ちゃま、お戻りをお待ちしておりました。ところで、当家の執事の名は覚えてらっしゃいますか?」
唐突に設定を口にした紳士に一瞬身構えてしまったが、それはつまり、執事の指名はあるかという意味だと理解できた自分が誇らしい。
ここは僕たちの家という設定だから、わざわざこんな聞き方をしてくるんだよね。
あはは、もうなんでも来いの心境だよ。
「もちろん覚えてるよ。タカハシです!」
「えええええええ!?」
立派なドアを開けてくれるのは、フリルシャツが愛らしいちょっと可愛い系の男性だった。
彼の役割は、フットマン。
フットマンというのは、いわゆる召使のことだ。
ここでは執事とフットマンがペアになり、給仕してくれるんだって。
ドアの向こう側には、深々とお辞儀した執事が待っていて……。
「おか……」
瞬時に硬直した執事と同じくらい、僕も固まってることだろう。
御船だけが、やけにやる気満々。
「こら、ちゃんとお出迎えしてよ」
「……えり、なさ、なさ、なさい、ませ……だ、だ、…だんな、さま、ぼ、ぼっちゃ、ま」
カウンターにいた紳士に睨まれつつ、ようやく出迎えの口上を終えた執事の顔は、可哀想なほどに引き攣っていた。
僕が悪いんじゃない、僕のせいじゃない、僕は何もしていない……ブツブツ。
早い話が、高橋君の次のバイト先が、この執事喫茶だったというだけのことだ。
御船はそれを知っていて、あえて偽名で予約した。
ここ、完全予約制だそうです。
「一ヶ月先まで埋まってたからね、円さんにお願いしちゃった」
えへと、どんな悪行も許せるほどの天使の笑みで、御船がしれっと白状する。
円さんというのは、東峰様のお母様の名前。
東峰夫人からのご紹介を断れるはずないよね……権力の使い方が歪んでるよ、御船。
まぁ、そんなこんなでテーブルに着くときに、流れるような動作で椅子を引く高橋君に、こちらこそ引きながらも、僕たちはイタリアンのコースを頼み、食前酒代わりのオレンジジュースで喉を潤していた。
その間、御船が、細々と状況説明をしてくれる。
ここのオーナーは、明石元首相のお孫さん、かの明石大雅の姉にあたる人物ということだった。
上流階級のご婦人方というのは数が限られているせいか、実に横の繋がりが強い。
東峰夫人や葛西夫人といった名士のご夫人方が、息抜きにこっそり足を運んでるんだってさ。
そのための完全個室がいくつか用意されていて、今回僕と御船が通されたのもそこだった。
「後で高橋君に怒られても、知らないよ」
「いいんだよ。4年前の仕返しなんだから」
「4年前に、何かあったの?」
「んー」
「あ、言いたくなかったら言わなくてもいいよ」
「うーん、鳥山なら話してもいいかな」
「無理には聞かないよ」
「僕が話したい気分なんだよ」
御船が話してくれたのは、僕たちが中学二年生になったばかりの頃のことだった。
佐藤君と出会い、東峰様との共闘を誓うまでの出来事。
佐藤君を叩いたという話には、さすがの僕も仰天したけど。
「その借りはね、去年返せたからいいんだ」
「どうやって返したんだい?」
「東峰様に一つ隠し事をすることで、チャラにしたのさ。といっても、どうせすぐにばれるのは分かってたんだけどね」
軽い口調ではあったものの、それは御船にとってはささやかな秘密では済まないものであったろう。
主と仰ぐ東峰様に、隠し事をするという重罪。彼なら、そう考えるはずだ。
「そっか、返せたならよかったね。で、高橋君への仕返しは、どのくだりにあるんだい?」
それを訊いたとき、御船の表情が翳った。
「僕はね、佐藤君のことで高橋に責められたことがあるんだ。こう襟を掴まれて、めいっぱい詰られたの」
御船が自分の服の襟元を掴んでみせた。
同時に卑屈な笑みが浮かべられる。
そんな顔、御船には似合わないよ。
だけど、詰られたから、仕返し?
それこそあまりにも御船らしくないではないか。
「それがあまりにも恐くて、僕は身動ぎ一つできなかったんだよ。相手はまだ小学校を出たばかりの子供だというのにね。
なのに恐怖のあまり声も出せずに震えていた。もしかしたら死をも覚悟していたかもしれない。すごく、すごくね、みっともなかったんだ……」
「……口惜しかったんだね」
「うん、そういうことなんだろうね。でもね、やり込められたからじゃなくて……」
「分かるよ。向こうのほうが遥か高見に居るようで、それが口惜しかったんでしょ」
「やっぱり鳥山は、わかってくれるね」
当時の御船は、いわば空っぽの器だったのだ。いや、器にすら成りきれていなかった。
たくさんのものが欠けていた。
それは決意であり、死をも凌駕するほどの覚悟、そして仕えるべき主となる人物。
それらのものが、高橋君には最初から備わっていたのだろう。
それは逆に、多くのものが欠けているともいえる。
御船のような迷いや躊躇、人の持つ倫理観や価値観、そんなものを持っていない相手に、とうにそこへと行き着いてしまっていた彼に、御船は怯えながらも嫉妬し、そして惨敗したのだ。
「今なら、そこそこ渡り合えるとは思うんだけどね」
吹っ切るようにオレンジジュースを手に持つ御船。
僕も同じくオレンジジュースを手にし、二人同時に前に突き出す。
「仕返しも済んだことだし、これで許してあげなよ」
「分かってるよ。これで水に流して忘れるよ」
カチンとぶつかりあうグラス。
それを待っていたかのようなタイミングで運ばれてくる前菜、もちろん持ってきたのは我らが執事だ。
今日を締めくくる晩餐は、執事の有能さに惚れ惚れするばかりの夜と相成ったのでございます。