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平凡君の日々彼此-2014夏の特別編-

[平凡君の日々彼此-2014夏の特別編-10]


広々とした浴槽は、花の形をしていた。

「派手だ…」

しかもバスルームはガラス張りで、外の景色が丸見えだし……。
つまり、向こうからも丸見え?
ははは、まさかね。きっと特殊なガラスなんだよね。
どちらにしろ大雨のせいで煙っていて、ほとんど何も見えないに等しい。

痛む足を庇いながらシャワーを浴び、既に張られていたお湯にゆっくりと全身を浸した。
思ったよりも冷えていたらしく、ジワジワと温もってきた体に、ようやく感覚が戻ってきた感じがする。

「緊張してるはずなのに、のんびり入浴とか……僕って図太いかも」

初めて来た他人様の部屋ですることじゃないよね。

「ボクちゃーん、生きてる?」

え、ええええええええ!!

「はわっ!? はははは、はいぃぃぃっ!?」

高い声は明らかに女性のもので、女性となれば瞳子さんしかありえないわけで。
浴室と脱衣所を遮る薄い扉は、磨りガラス状になっていて、透けて見える影から扉の向こう側に、瞳子さんが立っているのがもろ分かり状態だった。

「大丈夫よ。覗かないから」

「あ、はははい、ありがとうございます!」

「あんまり長くいるとのぼせちゃうから、早く出なさいね」

「はい、ありがとうございます!」

「じゃ、後でね」

「はい、ありがとうございます!」

ふー、焦ったー!

いっぱいいっぱいの状況に、昨日に引き続き今日も疲労困憊気味だ。
だけど、いつまでもここにいるわけにもいかないから、瞳子さんのご忠告通りのぼせる前にバスルームを脱出することにした。

着慣れないバスローブは膝下までしか隠れず、下着も着けてない状態では若干心もとないものだった。
でもこれしか身に着けるものがないんだから、仕方ない。

浴室を出て、廊下の壁に凭れるようにして、もっとも明るい部屋に向かって歩いた。
そこは広いリビングで、大きな窓からは都会のビル郡が見下ろせるようになっている。
しかもマンションなのに、二階に上がる階段があったりもして、とにかくすごく豪華な高層マンションだってことは理解した。
こんなところに住んでるなんて、いったい何をやってる人なんだろう?

リビングに僕が現れると、瞳子さんは笑顔で手を差し伸べソファまで導いてくれた。

「飲み物は、紅茶でいいかしら?」

「はい、ありがとうございます」

緊張がばれないようできるだけ明るく応えたら、瞳子さんがクスクスと優しい笑みを漏らした。
何か、変なこと言ったかな?

「さっきから、そればっかり」

「え?」

「はい、ありがとうございます」

「え、あ、そうでした?」

「あまり緊張しないでね、といっても無理でしょうけど」

「はい、すみません」

人の良い、だけどちょっと意地悪な笑顔を見せる瞳子さんに、自然と緊張が解れているのに気が付いた。
アーちゃんがいなくては困るというほどの気詰まりもなく、アーちゃんがこの女性に僕を預けた意味が、なんとなく理解できた。
だからといって、まだまだ気軽に話せるというわけではないけども。
だってね、僕は瞳子さんのことを何も知らないんだもの。

「はい、どうぞ」

「ありがとうございます」

温かな紅茶が、僕の前に置かれる。
真っ白のティーカップはチューリップの形をしていて、よく見るとソーサーは葉っぱを模していた。
可愛い。
なんとなくほっこりしながら、添えられた角砂糖を溶かし入れ、銀のスプーンでゆっくりかき混ぜる。

「それ、私がデザインしたの」

「それって、このカップですか?」

僕と少し距離を開けて座った瞳子さんが、軽く頷く。

「うちの店で使ってるものなんだけど」

「店? 瞳子さんは、何かお店をしてるんですか?」

「カフェレストランを三件」

「すごい」

「メインは、ジュエリーショップのオーナー兼デザイナーだけどね」

「わぁ、本当にすごいですね…」

つまり瞳子さんは、女性実業家というわけなんだ。
だからこそ、こんな豪華なところに住めるんだね。

「他にも、趣味のお店を少々」

「趣味?」

「そう、趣味」

「趣味がお仕事になるっていいですね。どんなお店なんですか?」

「喫茶店」

「喫茶店ですか」

「執事専門の」

「へぇ、ひつじ専門ですか、それって猫カフェみたいなものですか?」

羊が専門ってことは、店内に羊がいるってことだよね。
猫と違って、ペットとして可愛がりたい人はそう多くはなさそうだけど、趣味の店ならそういうのもありなのかもしれない。

「あれ、瞳子さん?」

瞳子さんが、ソファに突っ伏し震えていた。
もしかしたら僕は、彼女の気に障ることを言ってしまったのかもしれない。



執事喫茶なんて、初めて聞いたよ……。
メイドの執事版? 意味が分からないよ。

「ボクちゃんおもしろすぎ、天然? マジ天然? 計算じゃなくて?」

ぎゃははと大笑いする様は、ある意味アーちゃんとご同類という感じだった。
だけど怒るわけにもいかず、そもそも物知らずな自分が悪いのだと、そう思うことで我慢した。

「ホント可愛いわね、ボクちゃんは」

「それ、褒めてません」

「ポジティブな評価は、素直に受け取っときなさい」

「は、はぁ…」

散々笑い者にしてのこのご意見。
年上の言葉だし、ありがたく頂戴しとこっと。

「アーちゃん、遅いですね」

「買出しも兼ねてるからね」

「買出し?」

「そ、昼食用の買出し」

そういえば、お腹空いてきたなぁ。
本来ならカスクルートを食べてるはずだったのに。

窓の外は相変わらずの豪雨。
映画すらもダメにしたにっくき雨を、ボンヤリと眺める。
瞳子さんは、どこかからスケッチブックを持ってきて右手を動かしていた。
そのサラサラと描く音が、なんだか心地いい。

「瞳子さんとアーちゃんのこと、聞いてもいいですか?」

鉛筆がピタリと止まった。
瞳子さんが顔を上げ、不思議そうに僕を眺める。

「そういうのを勝手に聞いたら、昭が嫌がるって思わないの?」

「だったら、僕をここに連れて来ないと思います。
たぶん、瞳子さんが何を語っても構わないって考えてるんじゃないかと」

「ふうん、信頼しあってるんだ」

「え、そういうわけでは……あ、いえ、そうかもしれないです」

「いいわね、そういう関係」

「はい」



「初めて会ったのは、昭が中三のとき。今とは違って、まだまだ子供で可愛げがあったのよね」

昔の記憶を探りながら、瞳子さんがゆっくりと語ってくれる。

「切欠は、私の親友なの。この親友がね、とにかく地味でパッとしないコでね。
彼氏いない歴年齢みたいなコなのよ」

親友だからこそなのか、なかなかに厳しい評価だ。

「そんなコが、男連れて歩いてるのを目撃して、瞳子さん大パニックになっちゃって、」

どうして親友が男連れてたらパニックになるんだろう?
そこは素直に祝福してあげればいいんじゃないかな。

「だから取っちゃった」

あれ、なんか聞き逃したかな?

「それが昭ってわけ。ただね、彼氏だと思い込んでたけど、実は単なるセフレでしたってオチなのよね」

「し、親友の彼氏を取っちゃったんですか!?」

「そう思ってただけ、実は違ったの」

「いやいやいや、そういう問題じゃ」

「大丈夫よ。あのロクデナシ、親友とも切れてないから。
むしろ栞とのほうが、頻繁に会ってるもの」

「栞?」

「ああ、親友の名前。地味でどうしようもないのに、名前は綺麗でしょ」

その瞬間だけ、瞳子さんの瞳が細まった。
まるで懐かしむように、それでいてうっとりと。
どうしてそんな表情をするんだろう?
だけどそれを見せられたとき、親友の彼氏を奪うような瞳子さんのことを、責める気持ちも嫌悪する気持ちもなくなっていた。
本当に、不思議な魅力のある女性だ。

「子供のアーちゃんって、どんな感じでした?」

「オス臭いガキ」

まったくイメージが湧かない……。

「でも頭はよかったわね、器用だし」

「そうですね」

「教えることはなんでもすぐに覚えちゃったしね」

「教える? アーちゃんに何か教えてたんですか?」

「いろいろ教えたわよ。ダンス、お酒の飲み方、マナーも完璧に仕込んだし、他にもたくさん」

「へぇ」

教わってるアーちゃんを想像したら、笑えてきた。

「あと、女の抱き方」

「っ……」

「やーだー、赤くなっちゃって。高二でも、こういう話題は恥ずかしいの?」

「と、年は、関係ないかと」

「そんなことないわよ。私くらいの年齢でそんな反応してたら、確実に叱られるもの」

これ、罠じゃない? 罠だよね?
ここで、そうですね、なんて言ったら、絶対に怒られるよね。

「つ、つまり瞳子さんは、アーちゃんの先生ってことですね」

「あら、上手く逃げたわね」

「う、ううう」

「冗談よ。あまり虐めたら怒られるわね」

瞳子さんが、とても可愛らしく笑った。
さっきまでの印象とあまりにも違うその笑顔に、ドキリとさせられる。

「先生といってもね、私もいろいろ教わったから、トントンかな」

「アーちゃんから、何を教わったんです?」

「伊仏独語。あいつ、子供のクセにペラッペラだったから」

「アーちゃんは、そういうのがすごく得意なんです」

「仕事柄必要だったしね。それはもう念入りに仕込んでもらったわ、ベッドの中でね」

「う……」

どうしてこういうタイプの人って、すぐに僕をからかうんだろうか。
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