ひねもすのたりのたり
[ひねもすのたりのたり-アッキー編-]
肌に纏わり付く湿気と、独特の匂いで目が覚めた。
時刻は深夜。俗に言う丑三つ時だ。
雨の降る気配に、足音を立てないよう起き出し、そのまま部屋を出る。
まだ降りだしてはいないようだが、時間の問題だろう。
どれほど気をつけようとも、さすがにドアの開閉音は消せない。
防音の行き届いた寮内、そんな些細な音は気にもならないが、夜半ということでできるだけ配慮するにこしたことはないだろう。
とはいえ、一番気を使わなければいけない相手、午後9時にはベッドに入り現在爆睡中の同居人は、平素から物音に頓着しないのが売りだ。
気を使うだけ無駄だということは承知している。
リビングを横切り、高鼾中であろう同居人の部屋に向かう。
扉一枚隔てた向こうからは、不思議な寝言と大らかな寝息が微かに聞こえた。
これまた無駄な配慮を心掛けながら、鍵などかけたことのない扉を開ける。
開けた先、部屋の主は気持ち良さそうにベッドに横たわっていた。
掛け布団が半分敷物と化す見事な寝相に、かなり呆れて苦笑する。
これでも大分マシになったほうだ。
「むにゅ、わりわり、むげん、なにょ、なにょよ……うみゅ」
どうやら、プリンのおかわりを却下したことに、かなりの恨みを抱いてるらしい。
夢にまで見るとは、どうにも最近食い意地が張りすぎている。
いよいよ雨の匂いが強くなった頃、アキの右手が大きく宙に向けられたかと思うと、そのまま口元に向かった。
「む、む、しろいの、なにょ……あむ、みゅ」
何を食べているつもりになっているのか……。
もう少し観察していたかったが、とうとう降り出した雨に、そうも言ってられなくなった。
急いでアキの身体を壁際に寄せ、空いた一方に身を滑り込ませる。
ついでに、布団も掛け直す。
「ん、ん、う、うにゅ」
今しがた降り出した雨は、かなり雨足が強い。
耳を済ませずとも自然と聴こえるその激しさに、アキの身体を両腕に抱きこんだ。
「ん、あ、うむ、うう」
耳を塞いだこともあったが、アキにはまったく効果がなかった。
音は空気を振動させることで伝わる。
空気の揺らぎからも音を感じ取る音無に、例え音そのものを聴こえぬようにしても意味がない。
「ああ、うう、うああ」
アキの手足がバタバタと動く。
まるで、見えぬ何かから逃げるように、怯えるように。
「あああ、おああ、あうあああっ――」
背中に回した両腕に少し力を入れ、己へと引き寄せる。
「うああ、おああさ、う、うあ、おああさん、おああさん」
アキの母親があの状態になり、アキが保護されるまで、実に一ヶ月を要してしまった。
あの時、アキの頬を張ったあの瞬間、持てる権限すべてを使い、無理にでもアキを手元に置いておけば、彼女もああなってはいなかっただろう。
アキが牟韻のモノだと知ったとき、各家不介入の慣例に諾々と従った自分を、後悔してももう遅い。
「おああさん、なくの、アキなのよ、アキ、わるいのよ、おああさんっ」
その音が母の泣声を思い起こさせるのか、雨の夜アキはいつも懺悔をする。
「アキ、わるいのよ、いいこするの、なくの、ないのよ、ないの」
あの一ヶ月、彼女は常に泣いていたのだろう。
俺たちが保護したとき、家内には大量のケーキが散乱していた。
その上に折り重なるようにして息を引き取っていた母親に、取りすがって許しを請うアキ。
顔は無惨に腫れ上がり、身体のいたるところに内出血を伴い、げっそりとやつれはててはいたが、それでもギリギリ生きていた。
ケーキに含まれる糖分と脂肪分のお陰だと、後に継埜から聞かされた。
逆に母親の胃には何も入っておらず、いつ衰弱死してもおかしくない状態だったらしい。
己は食さずとも、アキには食べ続けさせた、ということだろう。
彼女に、最後の理性があったことが、救いだ。
「わるいの、わるいこよ、アキ、なの、ないの、おああさん、なくの、ないのよ」
自分を責めるあまり、その身を傷つけようとするアキ。
アキの手が動かぬよう、また少しばかり力を込めて抱き、一定のリズムで背を叩き続ける。
そうしながら、何度も何度もアキの耳に囁きかけた。
すべての音が拾えるアキになら、きっと届いているだろうと信じて。
すべての悲劇が己のせいだと責めるアキに、それは違うといくら言葉を並べ立てようとも無意味。
だから、それはしない。そして、何度でも声に出す。
「もういい、俺が赦す」
それが罪だと、そう信じる者にこそ、すべてを赦す存在がいるのだと、俺に教えたのは鏡吾だった。
ならば、アキの罪は俺が赦す。
些細な言葉に俺が赦されたように、救いと感じたように、いつかアキも夜雨に泣かぬ日が来るといい。
やがて懺悔の言葉は小さくなり、アキの身体がゆっくりと弛緩していく。
未だ激しく降る雨も、明け方には止みそうな気配だ。
それに安堵し、いくばくか力を弛め小さな背を叩き続けた。
「う、うう、わりわり、するの……うみゅ、アッ……うう、いやなの、あみゅ、わるいの、なのよ、むにゅ」
アッのあとには、キーと続くはずだったのか。
「失礼なやつだ」
今日の朝食には、トマトのブルスケッタを添えてやろう。
肌に纏わり付く湿気と、独特の匂いで目が覚めた。
時刻は深夜。俗に言う丑三つ時だ。
雨の降る気配に、足音を立てないよう起き出し、そのまま部屋を出る。
まだ降りだしてはいないようだが、時間の問題だろう。
どれほど気をつけようとも、さすがにドアの開閉音は消せない。
防音の行き届いた寮内、そんな些細な音は気にもならないが、夜半ということでできるだけ配慮するにこしたことはないだろう。
とはいえ、一番気を使わなければいけない相手、午後9時にはベッドに入り現在爆睡中の同居人は、平素から物音に頓着しないのが売りだ。
気を使うだけ無駄だということは承知している。
リビングを横切り、高鼾中であろう同居人の部屋に向かう。
扉一枚隔てた向こうからは、不思議な寝言と大らかな寝息が微かに聞こえた。
これまた無駄な配慮を心掛けながら、鍵などかけたことのない扉を開ける。
開けた先、部屋の主は気持ち良さそうにベッドに横たわっていた。
掛け布団が半分敷物と化す見事な寝相に、かなり呆れて苦笑する。
これでも大分マシになったほうだ。
「むにゅ、わりわり、むげん、なにょ、なにょよ……うみゅ」
どうやら、プリンのおかわりを却下したことに、かなりの恨みを抱いてるらしい。
夢にまで見るとは、どうにも最近食い意地が張りすぎている。
いよいよ雨の匂いが強くなった頃、アキの右手が大きく宙に向けられたかと思うと、そのまま口元に向かった。
「む、む、しろいの、なにょ……あむ、みゅ」
何を食べているつもりになっているのか……。
もう少し観察していたかったが、とうとう降り出した雨に、そうも言ってられなくなった。
急いでアキの身体を壁際に寄せ、空いた一方に身を滑り込ませる。
ついでに、布団も掛け直す。
「ん、ん、う、うにゅ」
今しがた降り出した雨は、かなり雨足が強い。
耳を済ませずとも自然と聴こえるその激しさに、アキの身体を両腕に抱きこんだ。
「ん、あ、うむ、うう」
耳を塞いだこともあったが、アキにはまったく効果がなかった。
音は空気を振動させることで伝わる。
空気の揺らぎからも音を感じ取る音無に、例え音そのものを聴こえぬようにしても意味がない。
「ああ、うう、うああ」
アキの手足がバタバタと動く。
まるで、見えぬ何かから逃げるように、怯えるように。
「あああ、おああ、あうあああっ――」
背中に回した両腕に少し力を入れ、己へと引き寄せる。
「うああ、おああさ、う、うあ、おああさん、おああさん」
アキの母親があの状態になり、アキが保護されるまで、実に一ヶ月を要してしまった。
あの時、アキの頬を張ったあの瞬間、持てる権限すべてを使い、無理にでもアキを手元に置いておけば、彼女もああなってはいなかっただろう。
アキが牟韻のモノだと知ったとき、各家不介入の慣例に諾々と従った自分を、後悔してももう遅い。
「おああさん、なくの、アキなのよ、アキ、わるいのよ、おああさんっ」
その音が母の泣声を思い起こさせるのか、雨の夜アキはいつも懺悔をする。
「アキ、わるいのよ、いいこするの、なくの、ないのよ、ないの」
あの一ヶ月、彼女は常に泣いていたのだろう。
俺たちが保護したとき、家内には大量のケーキが散乱していた。
その上に折り重なるようにして息を引き取っていた母親に、取りすがって許しを請うアキ。
顔は無惨に腫れ上がり、身体のいたるところに内出血を伴い、げっそりとやつれはててはいたが、それでもギリギリ生きていた。
ケーキに含まれる糖分と脂肪分のお陰だと、後に継埜から聞かされた。
逆に母親の胃には何も入っておらず、いつ衰弱死してもおかしくない状態だったらしい。
己は食さずとも、アキには食べ続けさせた、ということだろう。
彼女に、最後の理性があったことが、救いだ。
「わるいの、わるいこよ、アキ、なの、ないの、おああさん、なくの、ないのよ」
自分を責めるあまり、その身を傷つけようとするアキ。
アキの手が動かぬよう、また少しばかり力を込めて抱き、一定のリズムで背を叩き続ける。
そうしながら、何度も何度もアキの耳に囁きかけた。
すべての音が拾えるアキになら、きっと届いているだろうと信じて。
すべての悲劇が己のせいだと責めるアキに、それは違うといくら言葉を並べ立てようとも無意味。
だから、それはしない。そして、何度でも声に出す。
「もういい、俺が赦す」
それが罪だと、そう信じる者にこそ、すべてを赦す存在がいるのだと、俺に教えたのは鏡吾だった。
ならば、アキの罪は俺が赦す。
些細な言葉に俺が赦されたように、救いと感じたように、いつかアキも夜雨に泣かぬ日が来るといい。
やがて懺悔の言葉は小さくなり、アキの身体がゆっくりと弛緩していく。
未だ激しく降る雨も、明け方には止みそうな気配だ。
それに安堵し、いくばくか力を弛め小さな背を叩き続けた。
「う、うう、わりわり、するの……うみゅ、アッ……うう、いやなの、あみゅ、わるいの、なのよ、むにゅ」
アッのあとには、キーと続くはずだったのか。
「失礼なやつだ」
今日の朝食には、トマトのブルスケッタを添えてやろう。