ひねもすのたりのたり
[ひねもすのたりのたり1-2]
お天気というのは、何気にアキの気分を左右してくれる。
雨が降れば、これが全部飴ならいいのに、なんて憂鬱になるし、雪が降ったら、それら全部が綿菓子に見えて興奮してくる。
そして、明るく晴れ渡った空を見れば、何がなくともそれだけで嬉しくなってしまうのだ。
今日の天気は快晴。
アキの最も嬉しい日となった。
ポカポカと射す日差しは、山の空気を適度に暖めてくれるから、たまには外を散歩するのもいいかもしれない。
アキだって、いつもいつもアニメばかり観てるわけではない。
実家にいたころは毎日のように山林を駆け回っていたし、学園に来た当初も森の中を散々探検しまくった。
たまたま今期は面白いアニメが目白押しで、どうしても外で遊ぶ時間が減ってしまうだけなのだ。
「う、あ、おそと、なのよ、するの、のよ」
本日の授業は大嫌いな国語で締めくくられたが、ようやく無事に放課後を迎えることができた。
実は深夜アニメだけではなく、リアルタイムで観ているアニメも、全部アキラが録ってくれている。
アキもアッキーもアーちゃんも、すぐに録画を忘れるし、録画していたことすら忘れるから、自然とアキラが請け負う形になったのだが。
アニメは後で観ることにして、今日はゆっくりとお散歩すると決めたアキは素早く行動に移すことにした。
まずは大好きな友人を誘うことからだ。
だが、そんなアキの考えを知ってか知らずか、アッくんはとんでもない先制攻撃をしかけてきた。
「アキ、図書室行くけど、一緒に行く?」
「うっ、ああっ、いやなのよ、のよっ」
「そっか、残念だな。じゃ、あとでね」
こんな散歩日和の日に、大好きな友人は暗くジメジメとした空間へとあっさりと旅立って行った。
しかも、アキをも連れ込もうとするとは、なんと残酷な友人なのか。
普段はとても優しいというのに、どうやらたまに悪魔に乗り移られるようだ。
いつかとんでもないことになるのでは、と一抹の不安がアキを襲うが、今のところは放置しておくことにした。
仕方なくひとりで散歩と決め込んで、まずは隣りのクラスに駆け込んでアッキーに荷物を託す。
「今日は、高橋の部屋にいる」
それは、今日のおやつはアーちゃんの部屋にある、とそういう意味だ。
幼馴染兼同居人は、仏頂面にぶっきらぼうな口調で、傍から見ればアキを恐喝でもしているかのようだが、そんな彼の手から成るお菓子はそれはもう絶品で、野菜の気配さえなければ完璧なのに、とアキは常々残念に思っていた。
とりあえず内容はどうあれ、おやつの確保は万全なようで、アキはあいとひとつ返しておいた。
学園は広い。
とにかく広い。
しかも、無駄に。
だがアキにとってこの広大な空間は、なんとも散歩しがいのある場所だ。
美しく整備された花園に散歩道、少しの油断が命取りになりかねない密林だってある。
「おはな、なの」
校庭に出てみると、すぐに目に付く綺麗な花と甘い香り。
ポカポカのお日様に花たちも喜んでいるようで、アキの頬も自然と緩んだ。
特に目的があるわけじゃない。
気の向くままにプラプラと遊歩道を歩いて行こう。
飽きてきたら、密林への大冒険に出かけるのもいい。
故郷の山を思い出しながら、自然と鼻歌なんかも漏れ出した。
当て所もなく歩いていると、ベンチがひとつポツンと置かれている空間に辿り着いた。
校舎と大きな木によって日差しが遮られているその場所は、どこかひっそりとしていて寂しく見える。
きっと、忘れられた場所なんだろう。
あまりにも広いせいか、この学園ではこういう場所は珍しくもない。
あまり手入れのなされていない灰色のベンチへと、アキは休憩とばかりに腰をおろした。
「あ、うう、あ~、なの、のよ~♪」
深夜アニメのOP曲を口ずさみ、元は白かったであろうベンチの背にもたれ、思いっきり伸びをする。
ポキポキと背骨が小気味よい音を発したとき、じゃりと砂を踏む音が聞こえた。
音の方向へと視線を向けると、そこには見知った相手が戸惑い気味に立っている。
「あ、しーさんなの、のよ」
「アキ……」
大きな大きな体躯からは想像できないほどの、とても弱々しい声が返ってきた。
「う、すわるのよ、なのよ」
今にも身を翻してどこかに行ってしまいそうな相手に、アキは手招きをした。
ついでに、自分の横をペチペチと叩く。
一条静は、少し困ったように硝子玉のような瞳を泳がさせた。
アキが声を掛けなければ、そのままどこかに消えるつもりだったのだろう。
彼はいつもこうだ。
容姿が一番の学園でその名を轟かせている存在。
どんなときでも無口を貫く様が、周囲からはクールだと評されているが、それが単なる誤解だとアキは知っている。
人見知りが激しくて、人との会話を極端に苦手としているだけだ。
相手を不快にさせると怯えすぎるせいで、他人との距離を必要以上にとってしまう静は、だけど、悲しくなるほどに脆く、孤独を怖れる。
アキの誘いを断ることも、ましてや無視することもできずに、静は戸惑った表情のままに大人しくアキの横に座った。
ベンチが少し傾いた気がしたが、きっと気のせいだろう。
「アッくん、ごほんなの、のよ、アキ、いやなのよ、なのよ」
どんどん出てくる友人への愚痴を、静は黙って聞いてくれていた。
アキの話になど興味がないととれるほどに無表情で虚ろな瞳だが、実はかなり真剣に、そして楽しげに聞いているのを、アキはちゃんとわかっている。
いまだ感情の表し方に難儀しているようだが、中等部時代よりもかなり明るくなった静に、アキは喜びにこっそりと身を震わせた。
アキにとっては大事な友人のひとりで、キラキラ会副会長の重責にある男が、静をここまで変えたのだ。
本人にはそのつもりはなかったようだが、それは静の心の奥底に眠っていた思慕の念までをも掘り起こした。
それが良かったのか悪かったのかは、アキには判断つきかねるが、結果、誰もが憧れる書記様は、ただただ軽くて調子がいいだけの男に恋をしてしまった。
気が付けばアーちゃんの話題になっていて、それが愚痴ばかりであっても、静はとても興味深そうに耳を傾けてくれている。
そうして時間は過ぎ去って、お日様は山間へと沈み始めていた。
学園は山の上に建っているため、どうしても日暮れが早くなってしまうのだ。
「あ、しーさん、おなか、ぐーなの、のよ?」
「お腹……? 空いて、ない……」
「あうあ」
アキの下手な言葉をきちんと解する大柄な男が、たどたどしく応えてくれた。
アキとは違い成長期が終わったせいか、どうやら食への関心が薄いらしい。
確かに、ここまで大きくなったのだから、必要以上の栄養摂取は無意味かもしれない。
静が恋焦がれているアーちゃんの部屋では、アッキーがおやつを用意して待ってくれている。
危険な某所に向かったアッくんは、無事生還を果たしているだろうか。
アキラは、アキが来るまではと、大好きなお菓子を我慢しているに決まっている。
おやつが終わり暫く待てば、今度は暖かい夕食が待っていることだし、そろそろ部屋に向かうのが正解だ。
目的の散歩は中途に終わった感が否めないが、静と会えたことはとても嬉しかった。
散歩など、またいつでもできる。
さて、そろそろお暇しようかと別れの挨拶を述べようとしたとき、アキはふと考え込んだ。
静が役員総出での夕食に向かうまで、まだ数時間はあるだろう。
いくら空腹ではないとはいえ、やはりおやつ抜きでは胃袋が可哀想ではないか……。
自分は何か持ってはいなかったか、そんな逸る気持ちのまま、アキはズボンのポケットをまさぐった。
急に立ち上がったアキを、紫色の綺麗な瞳が不思議そうに眺めてくる。
「あう」
なにかが触れる感触に、アキは歓喜の声をあげた。
少々小さいがこの感じから察するに、お菓子の袋に間違いない。
大急ぎでポケットから取り出したそれを、アキは自慢げに静の目前にかざした。
アキの手の中には、まだ開封されていない小袋。
派手な色合の包装には、キャンディとPOP調で書かれている。
下のほうにも真っ赤な文字で何か書かれているが、きっと味の説明文だろう。
よくあることなので、特に気にする必要もない。
アキは勢いよく袋を開けると、あい、と一言添えて静に差し出した。
中に入っている飴を取れと、そういう意味合いなのだが、静は困った様子でアキをみつめただけ。
その姿が、飼い主からはぐれ途方に暮れるワンコのように見えたのは、内緒だ。
「あげるの、のよ」
どうしていいかもわからずに、袋とアキを交互に見る静に、アキはグッと袋を押し付けながら、もう一度同じ言葉を言う。
「あげるの、のよ、なのよ」
キャンディがポケットに入っていたのは、本当に運が良かった。
どういった経緯で入っていたかは知らないが、これならばお腹いっぱいになりすぎることなく、甘い幸福感をほんの束の間味わうことができる。
根気よく勧めるアキに絆されたか、静が派手な袋へと恐る恐る手を伸ばしてきた。
カサッという音とともに、大きな手が小さな袋の中へと消えた。
暫くもぞもぞと動いたあと、袋の口からゆっくりと現れる緩く握られた白い拳。
満足だとばかりに微笑みながら頷くアキに、静は拳を開いてみせた。
広い掌にポツンと乗ったカラフルな包み。
飴は一個ずつ小分けされていたようだ。
アキがお菓子を譲るなど、本来ならばそうそうないこと。
しかし、寂しくて不器用で、そして優しさに溢れているこの大男に、一時でも温もりを与えてやりたくて仕方なかった。
彼が切に望むものはアキにはあげられないし、与えられることも、きっとない……。
だから少しだけ、今日のアキとの偶然を、ほんの少しだけでも良かったと、そう思ってもらえることがしたかった。
「あ、あ、あけるのよ、なの」
しかしそれ以上に、アキの口に入ることのない飴の味と行末が気になった。
自分には味わえない大事な甘味のことが、気になって気になって仕方ないのだ。
だからせめてもと、静の胃袋に消え行く飴の色、形が知りたい。
できれば、何味だったのかを、この耳で聞き遂げたい。
そんな想いから、早く包みから飴を解放しろと、アキは静に詰め寄った。
そんなアキの迫力にたじろいだのか、静が少し身を引きぎみにした。
だが、ぶどう色の瞳が若干細まり、ついでにくすりと笑みを零したのをアキは見逃さなかった。
静が包みをそっと破った。
白くて形のよい指先に、ひょいと摘まみあげられたキャンディに、アキは一瞬目を奪われる。
紅くてまん丸。
まるで美しい硝子玉のようで、こんな夕暮れではなく明るい陽光の下でなら、もっとキラキラと輝いてくれたに違いない。
「あ、う、たべるのよ、なのよ」
しかし、飴というのは見た目だけを楽しむものではない。
甘さを楽しむことで、はじめて飴という役割を果たすのだ。
一般的なキャンディは、だいたいフルーツ味と相場が決まっている。
ならば、静の指先で紅く輝く丸い玉は、イチゴ、もしくはりんご味だろう。
どちらもアキの大好きな味だ、とはいえ、普通の飴でアキの嫌いな味など存在しないが。
今度ははっきりと微笑んだ静が、アキに視線をとどめながら、おかしそうに飴を舌に乗せた。
閉じられた口内では、右に左にと甘い飴が揺れていることだろう。
アキはゴクリと唾を飲み込んだ。
「あ、あ、なのよ、のよ」
イチゴなのか、りんごなのか。
アキの予想は、りんごだ。
「……メロン…」
「あ、あうあっ」
じっくりと味わっている静からの感想に、アキは驚愕の雄叫びをあげた。
紅い色をしていたのに、まさかのメロン味とは!
やられた……チーズケーキのつもりが、チョコレートケーキだったというくらいに驚いた。
りんごのつもりで唾を飲み込んだことが、なぜだかとても口惜しい。
「ありがとう……」
謎の敗北感に襲われていたアキの耳に届けられた、素っ気無い言葉。
だけど、たった五文字にこめられた彼の気持ちは、アキの胸に真っ直ぐに届いた。
「あい、なのよ」
今日のおやつはごぼうのプリンだった。
なぜそこでごぼう!?
どうして卵と牛乳と砂糖だけで作れないのだろうかと、アキは残念な思いでいっぱいになったが、何より許せなかったのはその邪道プリンを絶賛する面々。
アッくんは作り方を教えてよ、などと笑顔でのたまい、アキラは嬉々とした表情でおかわりをせがみ、アーちゃんは大成功じゃん、とふざけた賛辞を送った。
哀しいことに、誰も彼も、アキの気持ちに賛同してはくれない。
「するの、なのよ」
「駄目だ」
「あ、あああっ」
そんな中、アキへの嫌がらせだけでは飽きたらず、冷静な態度で4つ目を却下したアッキーのことが、最も許せない!
「アキ、すぐに夕飯だよ」
まだまだ上に伸び盛りの身の上では、この量で満足などと到底無理な話だ。
「そうですよ。すぐに夕飯なのですから、これ以上は駄目です」
6個もたいらげた相手の言葉は、あまりにも説得力がなさすぎる。
「最近ブタってきたんじゃね?」
「ううう、あああ!」
とりあえずアーちゃんの背中に回し蹴りをお見舞いすれば、少しばかり溜飲が下がった。
ちなみに、最近体重が増えてきたことを、アキは一向に気にしてはいない。
それは身長が伸びているせいなのだと、そう信じているから。
暫くビデオを観ていると、アーちゃんが座卓を出してきた。
それをキラキラ会全員で取り囲んでの食事に、アキの気分は上々だ。
「そういえば、この間貰ったアレ、裕輔さんと試してみたよ」
くすくすと笑うアッくんに、"アレ"とはなんのことだろう、とアキは首を傾げた。
「おや、さっそくですか。で、どうでしたか?」
「うん、もったいないから、まだ一個ずつしか食べてないけど、ハズレは出なかったよ」
「ふふ、どうやらアーちゃんほどに、運は悪くないようですね」
「うっせ」
アーちゃんが、ぶすっとした表情で筑前煮を頬張った。
「アキ、アレはもう試した?」
アレ?
アッくんのいうアレ……、
「あっ」
あまりのことに、箸をポロリと落としてしまった。
アッキーが無言で眉をひそめ、新たな箸を持ってきてくれる。
「あ、ありがと、なのよ……」
「急に大声出して、どうしたの?」
箸を受け取りながらも、どこか落ち着きなくしているアキに、アッくんが当然の質問を投げかけてきた。
それにどう返事をしていいか悩み、結局俯くことしかできなかった。
「ロシアンキャンディ貰ったこと、忘れてたんじゃねーの」
いまだぶすったれたままのアーちゃんの言葉は、悔しいことに正解だ。
「あ、あう…」
「ハズレは激辛ですからね。アキ、試すときは、ちゃんと相手は選ばないといけませんよ」
「あ、あい、なの、なの……」
その味を思い出したのか、アーちゃんが忌々しげに表情を歪めたが、今のアキにはそんな些末なことはどうでもいい。
なんといっても、アキは今日、とんでもないことをしでかしてしまったのだから。
いや、正確には、しでかしてしまいそうになったのだ。
先日アキラから譲られた恐るべき兵器、その名も「ロシアンキャンディ」を、あろうことか静に対し使用してしまった。
苦しみもがく誰かを嘲笑うという非道極まりない行為のため、ほくそ笑みながらズボンのポケットに忍び込ませたのは、まぎれもなく己。
そして、そのことをうっかりと忘れていた。
アキは自分の愚かさに、茶碗を持つ手をガクガクと震わせた。
恐ろしい……なんという恐ろしいことを、自分はしてしまったのだろう。
たったの5分の1の確立。
その5分の1がメロンであったことに、アキは神に感謝していた。
と同時に、次こそは相応しい相手に対し、無慈悲なまでの暴虐ぶりを披露してみせようと、そう決意を新たにした。
残りの飴数――4個。
お天気というのは、何気にアキの気分を左右してくれる。
雨が降れば、これが全部飴ならいいのに、なんて憂鬱になるし、雪が降ったら、それら全部が綿菓子に見えて興奮してくる。
そして、明るく晴れ渡った空を見れば、何がなくともそれだけで嬉しくなってしまうのだ。
今日の天気は快晴。
アキの最も嬉しい日となった。
ポカポカと射す日差しは、山の空気を適度に暖めてくれるから、たまには外を散歩するのもいいかもしれない。
アキだって、いつもいつもアニメばかり観てるわけではない。
実家にいたころは毎日のように山林を駆け回っていたし、学園に来た当初も森の中を散々探検しまくった。
たまたま今期は面白いアニメが目白押しで、どうしても外で遊ぶ時間が減ってしまうだけなのだ。
「う、あ、おそと、なのよ、するの、のよ」
本日の授業は大嫌いな国語で締めくくられたが、ようやく無事に放課後を迎えることができた。
実は深夜アニメだけではなく、リアルタイムで観ているアニメも、全部アキラが録ってくれている。
アキもアッキーもアーちゃんも、すぐに録画を忘れるし、録画していたことすら忘れるから、自然とアキラが請け負う形になったのだが。
アニメは後で観ることにして、今日はゆっくりとお散歩すると決めたアキは素早く行動に移すことにした。
まずは大好きな友人を誘うことからだ。
だが、そんなアキの考えを知ってか知らずか、アッくんはとんでもない先制攻撃をしかけてきた。
「アキ、図書室行くけど、一緒に行く?」
「うっ、ああっ、いやなのよ、のよっ」
「そっか、残念だな。じゃ、あとでね」
こんな散歩日和の日に、大好きな友人は暗くジメジメとした空間へとあっさりと旅立って行った。
しかも、アキをも連れ込もうとするとは、なんと残酷な友人なのか。
普段はとても優しいというのに、どうやらたまに悪魔に乗り移られるようだ。
いつかとんでもないことになるのでは、と一抹の不安がアキを襲うが、今のところは放置しておくことにした。
仕方なくひとりで散歩と決め込んで、まずは隣りのクラスに駆け込んでアッキーに荷物を託す。
「今日は、高橋の部屋にいる」
それは、今日のおやつはアーちゃんの部屋にある、とそういう意味だ。
幼馴染兼同居人は、仏頂面にぶっきらぼうな口調で、傍から見ればアキを恐喝でもしているかのようだが、そんな彼の手から成るお菓子はそれはもう絶品で、野菜の気配さえなければ完璧なのに、とアキは常々残念に思っていた。
とりあえず内容はどうあれ、おやつの確保は万全なようで、アキはあいとひとつ返しておいた。
学園は広い。
とにかく広い。
しかも、無駄に。
だがアキにとってこの広大な空間は、なんとも散歩しがいのある場所だ。
美しく整備された花園に散歩道、少しの油断が命取りになりかねない密林だってある。
「おはな、なの」
校庭に出てみると、すぐに目に付く綺麗な花と甘い香り。
ポカポカのお日様に花たちも喜んでいるようで、アキの頬も自然と緩んだ。
特に目的があるわけじゃない。
気の向くままにプラプラと遊歩道を歩いて行こう。
飽きてきたら、密林への大冒険に出かけるのもいい。
故郷の山を思い出しながら、自然と鼻歌なんかも漏れ出した。
当て所もなく歩いていると、ベンチがひとつポツンと置かれている空間に辿り着いた。
校舎と大きな木によって日差しが遮られているその場所は、どこかひっそりとしていて寂しく見える。
きっと、忘れられた場所なんだろう。
あまりにも広いせいか、この学園ではこういう場所は珍しくもない。
あまり手入れのなされていない灰色のベンチへと、アキは休憩とばかりに腰をおろした。
「あ、うう、あ~、なの、のよ~♪」
深夜アニメのOP曲を口ずさみ、元は白かったであろうベンチの背にもたれ、思いっきり伸びをする。
ポキポキと背骨が小気味よい音を発したとき、じゃりと砂を踏む音が聞こえた。
音の方向へと視線を向けると、そこには見知った相手が戸惑い気味に立っている。
「あ、しーさんなの、のよ」
「アキ……」
大きな大きな体躯からは想像できないほどの、とても弱々しい声が返ってきた。
「う、すわるのよ、なのよ」
今にも身を翻してどこかに行ってしまいそうな相手に、アキは手招きをした。
ついでに、自分の横をペチペチと叩く。
一条静は、少し困ったように硝子玉のような瞳を泳がさせた。
アキが声を掛けなければ、そのままどこかに消えるつもりだったのだろう。
彼はいつもこうだ。
容姿が一番の学園でその名を轟かせている存在。
どんなときでも無口を貫く様が、周囲からはクールだと評されているが、それが単なる誤解だとアキは知っている。
人見知りが激しくて、人との会話を極端に苦手としているだけだ。
相手を不快にさせると怯えすぎるせいで、他人との距離を必要以上にとってしまう静は、だけど、悲しくなるほどに脆く、孤独を怖れる。
アキの誘いを断ることも、ましてや無視することもできずに、静は戸惑った表情のままに大人しくアキの横に座った。
ベンチが少し傾いた気がしたが、きっと気のせいだろう。
「アッくん、ごほんなの、のよ、アキ、いやなのよ、なのよ」
どんどん出てくる友人への愚痴を、静は黙って聞いてくれていた。
アキの話になど興味がないととれるほどに無表情で虚ろな瞳だが、実はかなり真剣に、そして楽しげに聞いているのを、アキはちゃんとわかっている。
いまだ感情の表し方に難儀しているようだが、中等部時代よりもかなり明るくなった静に、アキは喜びにこっそりと身を震わせた。
アキにとっては大事な友人のひとりで、キラキラ会副会長の重責にある男が、静をここまで変えたのだ。
本人にはそのつもりはなかったようだが、それは静の心の奥底に眠っていた思慕の念までをも掘り起こした。
それが良かったのか悪かったのかは、アキには判断つきかねるが、結果、誰もが憧れる書記様は、ただただ軽くて調子がいいだけの男に恋をしてしまった。
気が付けばアーちゃんの話題になっていて、それが愚痴ばかりであっても、静はとても興味深そうに耳を傾けてくれている。
そうして時間は過ぎ去って、お日様は山間へと沈み始めていた。
学園は山の上に建っているため、どうしても日暮れが早くなってしまうのだ。
「あ、しーさん、おなか、ぐーなの、のよ?」
「お腹……? 空いて、ない……」
「あうあ」
アキの下手な言葉をきちんと解する大柄な男が、たどたどしく応えてくれた。
アキとは違い成長期が終わったせいか、どうやら食への関心が薄いらしい。
確かに、ここまで大きくなったのだから、必要以上の栄養摂取は無意味かもしれない。
静が恋焦がれているアーちゃんの部屋では、アッキーがおやつを用意して待ってくれている。
危険な某所に向かったアッくんは、無事生還を果たしているだろうか。
アキラは、アキが来るまではと、大好きなお菓子を我慢しているに決まっている。
おやつが終わり暫く待てば、今度は暖かい夕食が待っていることだし、そろそろ部屋に向かうのが正解だ。
目的の散歩は中途に終わった感が否めないが、静と会えたことはとても嬉しかった。
散歩など、またいつでもできる。
さて、そろそろお暇しようかと別れの挨拶を述べようとしたとき、アキはふと考え込んだ。
静が役員総出での夕食に向かうまで、まだ数時間はあるだろう。
いくら空腹ではないとはいえ、やはりおやつ抜きでは胃袋が可哀想ではないか……。
自分は何か持ってはいなかったか、そんな逸る気持ちのまま、アキはズボンのポケットをまさぐった。
急に立ち上がったアキを、紫色の綺麗な瞳が不思議そうに眺めてくる。
「あう」
なにかが触れる感触に、アキは歓喜の声をあげた。
少々小さいがこの感じから察するに、お菓子の袋に間違いない。
大急ぎでポケットから取り出したそれを、アキは自慢げに静の目前にかざした。
アキの手の中には、まだ開封されていない小袋。
派手な色合の包装には、キャンディとPOP調で書かれている。
下のほうにも真っ赤な文字で何か書かれているが、きっと味の説明文だろう。
よくあることなので、特に気にする必要もない。
アキは勢いよく袋を開けると、あい、と一言添えて静に差し出した。
中に入っている飴を取れと、そういう意味合いなのだが、静は困った様子でアキをみつめただけ。
その姿が、飼い主からはぐれ途方に暮れるワンコのように見えたのは、内緒だ。
「あげるの、のよ」
どうしていいかもわからずに、袋とアキを交互に見る静に、アキはグッと袋を押し付けながら、もう一度同じ言葉を言う。
「あげるの、のよ、なのよ」
キャンディがポケットに入っていたのは、本当に運が良かった。
どういった経緯で入っていたかは知らないが、これならばお腹いっぱいになりすぎることなく、甘い幸福感をほんの束の間味わうことができる。
根気よく勧めるアキに絆されたか、静が派手な袋へと恐る恐る手を伸ばしてきた。
カサッという音とともに、大きな手が小さな袋の中へと消えた。
暫くもぞもぞと動いたあと、袋の口からゆっくりと現れる緩く握られた白い拳。
満足だとばかりに微笑みながら頷くアキに、静は拳を開いてみせた。
広い掌にポツンと乗ったカラフルな包み。
飴は一個ずつ小分けされていたようだ。
アキがお菓子を譲るなど、本来ならばそうそうないこと。
しかし、寂しくて不器用で、そして優しさに溢れているこの大男に、一時でも温もりを与えてやりたくて仕方なかった。
彼が切に望むものはアキにはあげられないし、与えられることも、きっとない……。
だから少しだけ、今日のアキとの偶然を、ほんの少しだけでも良かったと、そう思ってもらえることがしたかった。
「あ、あ、あけるのよ、なの」
しかしそれ以上に、アキの口に入ることのない飴の味と行末が気になった。
自分には味わえない大事な甘味のことが、気になって気になって仕方ないのだ。
だからせめてもと、静の胃袋に消え行く飴の色、形が知りたい。
できれば、何味だったのかを、この耳で聞き遂げたい。
そんな想いから、早く包みから飴を解放しろと、アキは静に詰め寄った。
そんなアキの迫力にたじろいだのか、静が少し身を引きぎみにした。
だが、ぶどう色の瞳が若干細まり、ついでにくすりと笑みを零したのをアキは見逃さなかった。
静が包みをそっと破った。
白くて形のよい指先に、ひょいと摘まみあげられたキャンディに、アキは一瞬目を奪われる。
紅くてまん丸。
まるで美しい硝子玉のようで、こんな夕暮れではなく明るい陽光の下でなら、もっとキラキラと輝いてくれたに違いない。
「あ、う、たべるのよ、なのよ」
しかし、飴というのは見た目だけを楽しむものではない。
甘さを楽しむことで、はじめて飴という役割を果たすのだ。
一般的なキャンディは、だいたいフルーツ味と相場が決まっている。
ならば、静の指先で紅く輝く丸い玉は、イチゴ、もしくはりんご味だろう。
どちらもアキの大好きな味だ、とはいえ、普通の飴でアキの嫌いな味など存在しないが。
今度ははっきりと微笑んだ静が、アキに視線をとどめながら、おかしそうに飴を舌に乗せた。
閉じられた口内では、右に左にと甘い飴が揺れていることだろう。
アキはゴクリと唾を飲み込んだ。
「あ、あ、なのよ、のよ」
イチゴなのか、りんごなのか。
アキの予想は、りんごだ。
「……メロン…」
「あ、あうあっ」
じっくりと味わっている静からの感想に、アキは驚愕の雄叫びをあげた。
紅い色をしていたのに、まさかのメロン味とは!
やられた……チーズケーキのつもりが、チョコレートケーキだったというくらいに驚いた。
りんごのつもりで唾を飲み込んだことが、なぜだかとても口惜しい。
「ありがとう……」
謎の敗北感に襲われていたアキの耳に届けられた、素っ気無い言葉。
だけど、たった五文字にこめられた彼の気持ちは、アキの胸に真っ直ぐに届いた。
「あい、なのよ」
今日のおやつはごぼうのプリンだった。
なぜそこでごぼう!?
どうして卵と牛乳と砂糖だけで作れないのだろうかと、アキは残念な思いでいっぱいになったが、何より許せなかったのはその邪道プリンを絶賛する面々。
アッくんは作り方を教えてよ、などと笑顔でのたまい、アキラは嬉々とした表情でおかわりをせがみ、アーちゃんは大成功じゃん、とふざけた賛辞を送った。
哀しいことに、誰も彼も、アキの気持ちに賛同してはくれない。
「するの、なのよ」
「駄目だ」
「あ、あああっ」
そんな中、アキへの嫌がらせだけでは飽きたらず、冷静な態度で4つ目を却下したアッキーのことが、最も許せない!
「アキ、すぐに夕飯だよ」
まだまだ上に伸び盛りの身の上では、この量で満足などと到底無理な話だ。
「そうですよ。すぐに夕飯なのですから、これ以上は駄目です」
6個もたいらげた相手の言葉は、あまりにも説得力がなさすぎる。
「最近ブタってきたんじゃね?」
「ううう、あああ!」
とりあえずアーちゃんの背中に回し蹴りをお見舞いすれば、少しばかり溜飲が下がった。
ちなみに、最近体重が増えてきたことを、アキは一向に気にしてはいない。
それは身長が伸びているせいなのだと、そう信じているから。
暫くビデオを観ていると、アーちゃんが座卓を出してきた。
それをキラキラ会全員で取り囲んでの食事に、アキの気分は上々だ。
「そういえば、この間貰ったアレ、裕輔さんと試してみたよ」
くすくすと笑うアッくんに、"アレ"とはなんのことだろう、とアキは首を傾げた。
「おや、さっそくですか。で、どうでしたか?」
「うん、もったいないから、まだ一個ずつしか食べてないけど、ハズレは出なかったよ」
「ふふ、どうやらアーちゃんほどに、運は悪くないようですね」
「うっせ」
アーちゃんが、ぶすっとした表情で筑前煮を頬張った。
「アキ、アレはもう試した?」
アレ?
アッくんのいうアレ……、
「あっ」
あまりのことに、箸をポロリと落としてしまった。
アッキーが無言で眉をひそめ、新たな箸を持ってきてくれる。
「あ、ありがと、なのよ……」
「急に大声出して、どうしたの?」
箸を受け取りながらも、どこか落ち着きなくしているアキに、アッくんが当然の質問を投げかけてきた。
それにどう返事をしていいか悩み、結局俯くことしかできなかった。
「ロシアンキャンディ貰ったこと、忘れてたんじゃねーの」
いまだぶすったれたままのアーちゃんの言葉は、悔しいことに正解だ。
「あ、あう…」
「ハズレは激辛ですからね。アキ、試すときは、ちゃんと相手は選ばないといけませんよ」
「あ、あい、なの、なの……」
その味を思い出したのか、アーちゃんが忌々しげに表情を歪めたが、今のアキにはそんな些末なことはどうでもいい。
なんといっても、アキは今日、とんでもないことをしでかしてしまったのだから。
いや、正確には、しでかしてしまいそうになったのだ。
先日アキラから譲られた恐るべき兵器、その名も「ロシアンキャンディ」を、あろうことか静に対し使用してしまった。
苦しみもがく誰かを嘲笑うという非道極まりない行為のため、ほくそ笑みながらズボンのポケットに忍び込ませたのは、まぎれもなく己。
そして、そのことをうっかりと忘れていた。
アキは自分の愚かさに、茶碗を持つ手をガクガクと震わせた。
恐ろしい……なんという恐ろしいことを、自分はしてしまったのだろう。
たったの5分の1の確立。
その5分の1がメロンであったことに、アキは神に感謝していた。
と同時に、次こそは相応しい相手に対し、無慈悲なまでの暴虐ぶりを披露してみせようと、そう決意を新たにした。
残りの飴数――4個。