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根岸保小夜曲(セレナーデ)

物心ついた頃から、両親は不仲だった。
いつでも些細なことで揉め、最後は『リコン』の三文字で締めくくる。
子供心に、この夫婦は近々別れると思っていた。

離婚が現実になったのは、僕が小学四年のときだった。
特別悲しいとか思わなくて、むしろようやく終わったと安堵していた。
こうなっては、僕は母のもとに行くのだろう。
だけど、二人ともが親権を放棄したことで、彼らの不仲の原因が僕にあると思い至った。

漠然と施設に行くことを考えてたけど、最終的には母の実母――祖母が僕を引き取ってくれた。
世間体、というもののためらしい。

祖母は母の兄――伯父夫婦と同居していた。
向こうには、伯父の奥さんと中学一年の従兄弟がいたから、当然のごとく揉めた。
それでも祖母のもとに行くのは確定され、僕は転校したのだ。



転入の挨拶は、大失敗だった。
いや、僕からしたら失敗ではなく、いつもどおりでしかない。
僕は、人と話すのが苦手だ。
決して嫌ってるわけじゃない、むしろ仲良くしたいと望んでるのに、どうしたって緊張が先に立つ。
そうなると、もう声が出ない。
喉をギュッと絞められたみたいに、声が全部堰き止められてしまうんだ。

自己紹介の声が聞こえないと指摘された。
だったら、声を張り上げてもう一度すればいい。
そんな簡単なことができず、小さく縮こまる僕を見て、新しい級友たちは何を思うだろうか?
きっと、困惑してる。
怒ってるかもしれない。
不快に思ってるに決まってる。

ようやく着席を許されても、緊張は解けなかった。
ガクガクと体が震え、手の平は汗でびっしょり。
臆病で人見知りが激しくて、相手に不快感しか与えない僕なんか、両親に捨てられて当然だった。

転校生への接し方など、だいたいどこでも同じだろう。
だから、休憩時間が怖かった。
いろいろ訊かれても、僕は満足に答えられないから。
だけど、もっとも怖れていた時間は、僕の想定しないものになった。
まずは、チャイムと同時に席を立った生徒が、僕の机に体当たりしてくる。

「うぐっ」

苦痛の声を上げる生徒に、大丈夫かと声をかけるつもりだった。
でも喉はいつも通り役立たずで、結局オロオロするしかなかった。
そうしてる間にも、ぶつかった生徒は痛みに堪え、微笑いかけてくる。

「ぼ、僕、僕もね、保って言うんだ。門倉保、根岸君と一緒だね」

目の前に、突如天使が舞い降りた。
愛らしい姿で、慈愛に満ちた微笑を浮かべ、僕を優しく見詰める天使の名は、門倉保(かどくらたもつ)。
僕と、同じ名を持っていた。



彼の名前を知ったとき、暗い気持ちになった。
根岸保(ねぎしたもつ)、それが僕の名前だから。

誰にでも好かれる、天使のように愛らしい少年、門倉保。
いつでもオドオドするだけで、まともな会話ができない、根岸保。

同じクラスで同じ名前、同じく転校生――門倉君も去年転校してきたらしい――だというのに、どうしてこうまで違うんだろ。
できれば、関わりたくなかった。
比較されるのは嫌だし、注目されるのが怖かったから。
でも一番怖かったのは、門倉君を不快にさせることだ。
いつまで経っても打ち解けない僕に、いつか愛想をつかすだろう。
それが怖かったから、ますます萎縮した。

それでも門倉君は毎日僕の傍に来ては、いろんな話をしてくれた。
会話なんて成立してないのに、呆れたりしなかった。
門倉君がそこまでしてくれるのは、同名が原因で僕が虐められると危惧してるからだ。

彼は、僕を守ろうとしている。
だったら、僕も変わらなくちゃいけない。
門倉君の気持ちに、応えたい。

「それでね、ルカがね、」

今日も、いつものように話しかけてくる門倉君に、なけなしの勇気を振り絞る。
いつもいつも、喉で絡んで出てこない言葉を、今日こそちゃんと解放するんだ。

「ひ、日向、君、だ、よね……?」

『ルカ』とは、門倉君の従兄弟の名前だ。
門倉君の話に頻繁に出てくる『ルカ』が、実は同じクラスの日向琉夏(ひなたるか)君だってことも、最初のほうに教えてもらっていた。
だから思い切って、その名を口にした。
門倉君は、ポカンとしてる。

間違っただろうか?
それ以前に、これでは会話として、成立してないよね。
言葉を返すことばかりに夢中で、とんでもない失敗をした。
焦りまくる僕に、門倉君は気分を害することもなく、優しく言ってくれたんだ。

「うん、そうだよ。日向琉夏(ひなたるか)。嬉しい、僕の話覚えててくれたんだ」

門倉君は天使のように可愛いと、みんなが口ずさんでいる。
僕も、そう思う。
でも愛らしいのは外見だけじゃない、内面こそ、天使のように美しいんだ。



手紙が机に入れられてたのは、少しずつでもクラスに馴染もうとしてた頃だった。
おそるおそる読んでみると、僕を呼び出す内容だった。
恐れていた事態に、目の前が真っ暗になる。

どうしたって、僕は虐めの的にされやすい。
今だって、ヒソヒソ悪口を言われている。
怖いのも痛いのも嫌だけど、逃げたってどうしようもない。
せめてもの救いは、差出人が『日向琉夏』になってたことだった。

日向琉夏君――同じクラスだけど、これまで話したこともなければ、顔もまともに見たことない。
門倉君の従兄弟だから、名前だけは覚えてるけど、まったく知らない人物だった。
でも、噂ならよく耳にしている。
すごくカッコいいと評判で、頭が良くてスポーツ万能で、門倉君と同様にみんなに慕われる人気者だ。
そんな彼が僕を呼び出す理由なんて、一つしかなかった。
門倉君に迷惑ばかりかける僕を、腹立たしく思ってるんだ。

放課後、指定された場所に向かった。
すごく怖くて足が竦むけど、行かないわけにいかない。
頭の中には、嫌なことばかり浮かんでくる。
相手が日向君じゃなかったら、どうしよう。
ううん、本当に日向君だとして、大人数で待ってたら、どうしたらいいんだろう?
たくさんの人に暴力を振るわれたら、どうしよう。

待ち合わせ場所に到着し、ビクビクしながら相手を確認したら、そこにいたのは日向君一人だけだった。
ホッとしたのも束の間、急に怖くなってきて、気が付いたら逆方向に走り出していた。
結局あっさり捕まって、せめてもと必死で謝罪する。

「ご、ごめ、なさ……ごめん、なさいっ」

「根岸、謝るようなことしたの?」

「ご、ごめ、ごめ……っ」

「そうじゃなくて、俺に謝らなきゃいけないようなこと、したのかって聞いてんの」

僕がちゃんと謝れないから、日向君を苛立たせてしまった。
今度こそ、ちゃんと言わなきゃ。

「俺のほうが、ごめんなさい。とりあえず、泣き止んで」

僕こそ謝るべきところで、なぜだか日向君に謝罪された。
どうしてだろ?
泣き止めって、どういうことだろ?
僕は、泣いてなんかいないのに。

「な、泣いて、ない……」

「ホントに?」

ああ、疑われてる。
僕みたいな弱虫なら、絶対に泣くって思われてるんだ。

「ホントだ、泣いてない。良かったー」

いきなり両頬を掴まれて、勢いよく顔を上げさせられた。
目の前に、日向君の顔がある。
初めて正面からまともに見て、心臓が飛び出そうだった。
なんて、綺麗な人なんだろ……。
怖さで震えていた身体が、別のことで震えだした。
頬が上気し、まるで発熱したみたいだ。

「あのさ、虐めるとかじゃないから。ちょっと聞きたいことがあるんだよ」

「な、なに?」

「保、あ、門倉保な」

日向君に名前を呼ばれて、ドキリとする。
すかさず門倉君のことだと言われて、当たり前なのに少し寂しかった。
日向君が、僕の下の名なんか呼ぶわけないのに。
それ以前に、僕も『タモツ』だと知らなさそうだ。

「かど、くら……君……?」

「あいつ……俺の従兄弟なんだけど、知ってた?」

「う、うん……」

「じゃあ、率直に聞くけど、保のこと迷惑じゃない?」

「め、迷惑?」

「うん、あいつ、毎日煩いだろ。根岸、迷惑してない?」

「そ、そんな、か、門倉君を、迷惑、なんてっ、そん、そんなっ」

あまりにも予想だにしなかった質問に、パニックに陥った。
とにかく否定したい一心で、闇雲に頭を横に振る。
門倉君が迷惑だなんて、そんなことあるはずないのに。
僕が一方的に、迷惑かけてるのに。

「わ、分かった。分かったから」

「か、門倉君は、僕を気に掛けてくれて、だから、いっぱい、話してくれて、だから…っ」

「迷惑じゃない?」

「め、迷惑な、わけ、ないっ」

「良かったー。じゃあ、これからも、保と仲良くしてあげて」

「え……? いい、の……?」

離れろって言うために、呼び出したんじゃないの?
門倉君が僕なんかに構ってて、嫌なんじゃないの?
どうして僕を、怒らないの?

「なにが?」

「あの……門倉君と、いい…の?」

「うん、そう言ってんじゃん。ついでに、俺とも仲良くしよーよ」

「え……」

あまりのことに、何がなんだか分からなくなってきた。
仲良くだなんて、そんなこと言われるはずない。

「でも、仲良くってどうやるんだろ? そだ、今から俺ん家来ない?」

「ええっ」

まさか本当に、僕なんかと仲良くしてくれるの?
迷惑と言われるならともかく、どうしてそんなことを言うの?
もしかして、からかわれてるの?

「いったん根岸の家に寄って、それから俺ん家行こうーよ」

「う、ううん、それは、いい」

根岸の家と言われ、一気に現実に引き戻された。
家には叔母が居るけど、僕が居ると不機嫌になるから、学校が終わってもギリギリまで帰らないようにしている。

「いいって。親に言っとかなくて、いいの?」

「うん、だ、大丈夫……でも、あの」

「じゃあ、決まり。保は掃除当番だから、先に帰って待ってよ」

「え、えええっ」

いくら話すのが苦手だからって、本来なら断るべきだろう。
日向君と一緒に帰るなんて、ましてや家に遊びに行くなんて、緊張以前に分不相応すぎるもの。
それなのに素直に付いて行ったのは、この機を逃せば二度と日向君に近づけないと思ったから。
そう、僕は卑怯にも、そんなことを考えたんだ。
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