第一章
貴女のお名前は?
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「ねみぃ〜……腹減ったぁ〜……」
力ない声に朝霧が揺れた。
昨夜、三度に亘る妖怪達の襲撃によって回復を阻まれた腹減らしの声だ。
尤も、昨夜とは言え片が付いたのはつい先程のことだった―――
一度目の襲撃は昨日、宵闇に夜霧が立ち込めた頃。
何処からか射られた一本の矢が、うとうとと船を漕ぎ始めていた悟空の耳元で風切音を立て地面に突き刺さった。
視界が効かない中、全員警戒態勢を整えるが敵の姿は見えず、しかし小雨程度の矢は全て八戒のバリアによって防がれただけ。
「……終わり?」
「まさか。……え、マジで?」
「何だったんですかね…」
「気を緩めるんじゃねぇ。俺たちを狙ってのことなのは間違いねぇんだろうからな」
警戒網を張ったまま、深夜になって同様の襲撃。
「これ、地味に鬱陶しいんだけど…」
「霧さっきより濃くなってるしなぁ…いつも通り襲いかかってくりゃいいのに」
「嫌がらせとしては効果覿面ですね。これも多分毒矢ですし」
そして未明、三度目の襲撃に険相極まった三蔵から命が下った。
「悟空、悟浄、行け。お前らならまだ夜目が効くだろ」
「うへぇ…仕方ねーかぁ…」
「なぁんで俺まで。悟空一人で十分じゃね」
「一人より二人の方が早ぇだろうが!さっさとって片付けてこい!」
気抜けするような攻撃と消化できない眠気のせいで血管を浮き上がらせる三蔵を横目に
「名無子」
八戒は片手でバリアを張ったまま、何やら名無子に耳打ちした。
名無子は暫し思案。そして、
「悟浄」
悟浄を真っ直ぐ見詰め、八戒の言を忠実に全うした。
「えと…頑張って。騎士様」
「「「「………」」」」
四人の視線が注がれる中、悟浄の瞳が瞬き、やがて細く孤を描いた。
「仰せの侭に。姫」
名無子の手の甲に口付け、やおら立ち上がる。
「っっしゃぁあ!!そっこー片付けてくるから待ってろよ名無子ちゃん!」
「お、俺も行く!!てか騎士って何!?」
咆哮を響かせあっという間に霧中に姿を消した悟浄を追い、悟空もすぐに駆け出して行った。
「河童も煽てりゃ木に登る、ってな」
「…豚…」
「何とかと鋏は使いよう、とも言いますね」
「馬鹿…」
言いたい放題の二人を前に、無駄に神妙な面持ちの名無子。
「つまり……悟浄は、可哀想…?」
「いいえ名無子。この場合は"チョロい"が正解です」
「悟浄は…ちょろい…」
「あぁ。正解だな」
煙草をふかす三蔵の横で、名無子が何の役にも立たない脳内辞書のアップデートを果たしていた。
そうして日が昇り切る前に事は片付いたものの、結局碌に眠れぬまま朝日を見る羽目になった。
「姫様!騎士悟浄、只今任務を終え帰還しました!ってな」
「悟浄。おかえりなさい。悟空も。お疲れ様」
「おー。やっと終わったぁ…ねみぃ〜……腹減ったぁ〜……」
「二人共、お疲れ様でした。さて、霧も少し晴れてきましたし早いですがもう出ましょうか」
「八戒もお疲れ様。運転、大丈夫?」
「えぇ、大丈夫ですよ。事故っても名無子だけは守りますから安心してください」
「ばっか。名無子ちゃんを守るのは俺の役目だっつーの」
「俺も俺も!名無子には絶対怪我させねー!」
「先ずは事故らんようにしやがれ…」
草臥れた足取りで車へと姿を変えたジープへと向かう一同。
悟空の足がふと止まった。
「で、三蔵はやっぱ後ろ…?」
昨日の重苦しく白煙煙る空気に晒されていた悟空としては、普段どおりのポジションで心安らかに眠りたいところだったが、
「……」
後部座席に無言で乗り込んだ三蔵にその期待は儚くも潰え、大きく肩を落とした。
その光景に悟浄が髪を掻き上げ、大仰に息を吐き出す。
「わーったわーった。俺の負けでいい。大人しくしとけってこったろ?わかったからさっさと前行けクソ坊主」
両手を上げつつも毒吐くことは忘れない悟浄を睨みつけた三蔵だったが、睡眠不足でそれ以上の気力が湧かない。
そして三蔵としても、広い助手席で一刻も早く惰眠を貪りたかった。
「……さっさと乗りやがれ」
吐き捨てるように言うと、助手席へと移動し腰を据えた。
「…全く、妙なところでお子様で困るぜ」
「元はと言えばお前が悪いんだろ」
「名無子ちゃんがジープから落ちたらお前だって嫌だろーがよ」
「真ん中に座っててどうやって落ちんだよ……」
三蔵に聞こえぬよう小声で遣り取りしつつも、既に後部座席の真ん中に収まった名無子の両側に乗り込む。
「さ、出発しますよ。今日は夕方には街に着くはずです」
「街!飯!!布団!!」
「酒!風呂!!布団!!」
「女、じゃねーのか」
「三蔵サマよ。そーゆーことレディの前で言うもんじゃねぇのよ?」
「貴方がそれを言いますか…」
「……酒、風呂、女?」
「なっっ!?三蔵!お前が余計なこと言うから!!違うからな!?名無子ちゃん!!」
「別に何も違わなくね?」
「黙ってろクソ猿!!いや、マジで違うから!!」
「大丈夫だよ?悟浄?」
「だっ…何が!?名無子ちゃん!??」
喧騒と暁光を背にジープは走る。
眠りを妨げられた三蔵の手からいつもの銃声が鳴り響くまで、あと数分―――
「いやぁ、ギリギリだったなー」
「朝霧夜霧は晴れが定説なんですけどねぇ」
日没前に駆け込んだ宿の入口から空を見上げ、一行は安堵の息を漏らしていた。
太陽が天頂を過ぎた頃から数を増していった白雲は気付けば鈍色となって空全体を覆い、
一行が宿へと到着するのを待っていたかのように湛えていた水滴を空から落とした。
「とりあえず飯食おうぜ飯!」
「まぁ待てって。今八戒がチェックインしてっから」
「皆さん、部屋取れましたよ。何とシングルが5部屋です」
「やったー!個室!!」
「マジか!雨と言い部屋と言い…なんか運が良すぎねぇ?」
不運に慣れすぎてこの程度の幸運すら怪しく思えてしまう。
素直に喜べない悟浄が自嘲を零し、八戒も同調するように苦笑いを浮かべていた。
ふと、悟空がその場から消えた存在に気が付く。
「―――あれ?三蔵は?」
「先に部屋に向かいました。食事もいらないと」
「あー…マジで個室取れて良かったな…」
「ですね」
「…?」
何やら訳知り顔の面々に名無子が首を傾げる。
それを察したのか、悟空が顰めっ面で答えを返した。
「三蔵、雨の日すっげー暗いし機嫌悪くなるんだ。ずっとピリピリしてるしすぐキレる…」
「機嫌が悪いと言うか…得意じゃないんですよね」
「んだな。雨の日は放って置くに限る」
奥歯に物が挟まったような物言いに漂う沈鬱な雰囲気を感じ取った名無子が眉を曇らせる。
黙り込んだ名無子の頭に、八戒が掌を降らせた。
「そんな顔しなくても大丈夫ですよ。具合が悪くなるとか、そういうんじゃありませんから」
「そーそー。名無子ちゃんが心配してやる必要はなし!とりあえず部屋行く前に飯食うべ。
―――って、悟空どこ行った??」
「悟浄ー、八戒ー、名無子ー、早く来いよー!」
その声は宿に併設された食事処から。
待ちきれずに席に着いた悟空がぶんぶんと手を振っている。
呆れつつ、さりとて八戒も悟浄も空腹は否めない。
久方振りのまともな食事に胸踊らせながら食卓へと足を向けた。
夕食後、名無子は八戒の部屋にいた。
名無子の法衣を繕うついでにサイズを合わせないかとの提案に名無子が応じ、採寸すべく八戒の部屋に立ち寄ったのだ。
名無子の背後、メジャーで肩幅を測りながら
「まだ数日ですが…どうですか?ここでの生活は」
八戒が世間話程度に問い掛けた。
「嬉しい」
「嬉しい?」
「うん。みんな優しい」
柔らかな声と、顔を見ずともわかるその表情に、八戒の口元に微笑が浮かぶ。
ふと、思い立って尋ねてみた。
「……悟浄のこと、好きですか?」
暫しの沈黙、そして
「言いそびれてたけど、盗み聞きは良くないと思うよ?」
返ってきたむくれたような声に、あははと笑って誤魔化した。
「好きだよ。悟浄のこと」
「それは、親愛?それとももっと特別な何か……例えば、恋情ですか?」
「親愛だと思う。恋情は…よくわかんない」
八戒は人心地に息を零すと、メジャーを仕舞い名無子に椅子を勧めた。
それに向き合うような形で自身もベッドに腰を下ろし、であれば、と、言葉を続ける。
「今後、悟浄と二人きりの時はくれぐれも注意してください。
流石に嫌がる女性をどうこうする人ではないとは思いますが、口は上手いのでなぁなぁでそういう関係を持ってしまわないように。
勿論、わかった上でということであればそこはもう自由恋愛の範疇ですが…」
言いながら、何を母親じみたことをと思いはすれど、名無子のことを思えば念には念をと言葉を選び話す。
ほんの僅か、驚いたような表情を浮かべた名無子だったが、すぐにその目は細く微笑を描いた。
「八戒も優しいね」
続けられたのは、思いも寄らない言葉だった。
「私なんか、押し付けられたよくわかんない存在で、その上いつ消えるかもわからないのに」
「……え?」
「数日から数十年で消えるってあの人が言ってた。
私が意識を持って既に二十年が経ってるし、消える理由もわからないってことは、つまりそういうことでしょう?」
憂苦の欠片も滲まない、食事中の雑談とまるで変わらない調子で名無子は話す。
「消えるまで適当に放っておくことも、好きに利用することも、何処かに置き去りにして消えたってことにすることだってできるのに…八戒も、みんな優しい」
そう言って、只々嬉しそうに微笑む。
「大丈夫だよ。みんなに迷惑をかけるようなこと、するつもりはないから」
八戒は愕然とした。
これまで、決して多くない言葉の向こうに滲んでいた配慮は、全て自分たちに向けられたものであった。
それは名無子生来の気質に寄るものくらいにしか思っていなかったが、自分達が敢えて避けてきた核心に名無子自らが踏み込んだことによって、理解を伴ったより深き慮りとなって八戒の耳に届いた。
(いつ消えるとも知れぬとわかった上で、彼女は…)
真っ直ぐ見詰めてくるその瞳は、まるで厳冬の澄んだ夜空に冴え渡る銀月のようだった。
八戒は逸る心臓を宥めるように、ゆっくりと息を吸い込み、そして吐き出してから口を開いた。
「―――一つだけ、訂正した方が良いかもしれません」
全てを見透かすかのようなその瞳が、決して映し出さないもの。
それを八戒は知っていた。
「迷惑をかけられたくないから、じゃないです。貴女が大事だから、貴女に傷付いてほしくないからですよ」
吃驚に見開かれた瞳に、やはりか、と嘆息が零れた。
自身に優しさを向けることを苦手とするのは、八戒も同じだった。
しかしその根は大きく異なる。
名無子の場合、向けることができないのではない。向けることを知らないのだ。
その深謀遠慮をもって誰かを慈しむことはできても、我欲を満たし自身を慈しむという選択肢をそもそも持ち合わせていない。
だから大事なもののために自身を差し出すことを、自身を壁とすることに躊躇はないのだと。
大事な者に報いるために自身を守ることはあっても、そうでなければ彼女はきっと―――
八戒自身にも何故かはわからなかったがそれは予想ではなく、既知に近い確信であった。
(そうか じゃあ―――)
八戒は腰を上げると名無子の傍に立ち、そっと名無子を抱き寄せた。
「……八戒?」
「はい」
「…なんで?」
なすが侭、腕の中から聞こえてくる困惑の滲む声を八戒がくすりと笑った。
「嫌ですか?」
「ううん。嫌じゃない」
「じゃあ、もう少しだけ。このままで」
「…うん」
貴女がそれをしないなら、僕がそれに代わろう。
貴女自身の分まで、貴女を大切にしよう。
自分を大事にすることを知らない貴女が、それをできるようになるのを待つより
ずっと早そうだ―――
(悟浄のこと、笑ってられないですねぇ…)
自嘲を滲ませながら、八戒はただ黙って名無子の頭を撫でていた。
細かい雨粒が窓を濡らす。
電気を消した真っ暗な部屋に、三蔵が吐き出した白煙が満ちている。
何とはなしに見下ろした宿の裏庭。
その視界で、篠突く雨の向こう側に白い人影が揺らいだ。
暫くの間、三蔵は黙ってそれを見詰めていたがやがて舌打ちを一つ響かせ、部屋を後にした。
「雨がそんなに珍しいか」
不意に遮られた雨に、名無子が振り返る。
差し出された傘の下、不機嫌そうに細められた紫暗と目が合った。
「―――あの日と同じ」
銀糸を伝う、同じ色の雫がぽたりと落ちる。
「三蔵も、同じように傘差してくれた」
丸く見開かれた銀灰が嬉しそうに、しかし何処か憂いを帯びて三蔵に微笑んだ。
違う色をした同じ響きのその名が、三蔵の胸に爪を立てる。
(その瞳に映るのは―――)
疼くような痛みと不快感が、三蔵に口を開かせた。
「十三年前の雨の夜―――お師匠様は、妖怪から俺を庇って死んだ」
零れた言の葉に驚愕したのは三蔵自身だった。
意図せず吐かれた言葉を取り戻そうとするかのように口元を押さえ目を伏せる。
自身の口から自身の耳へと届けられた音はその闇を一層濃縮したようで、吐き気を伴って脳を揺さ振ってくる。
「三蔵」
(その名を……呼ぶな―――)
眉間に刻まれた刻印が深く影を落としていく。
噛み締めた奥歯が軋み、小さな音を立てた。
「寂しいね」
細い腕が、三蔵を抱き締めた。
「寂しい」
三蔵の胸に顔を埋め、震える肩が繰り返す。
その姿に重なったのは、あの日に置いてきた自分自身だった。
あぁ、これは
あの日、俺が選べなかった俺だ―――
寂しいと、恋しいと、泣くことを許さなかった自分自身。
ただ、懐い、悼む。
それだけのことが、ずっとできずにいた。
前に進むため、後悔と自責で塗り潰した想いが今、温もりを纏って己が身を抱いていた。
「あぁ…そうだな……」
息を吐くように自然と、言葉が零れる。
心に浮かぶは、あの柔らかな微笑み。
伴う痛みが目を背けさせていたあの頃が鮮やかに甦る。
いつしか胸の軋みは消え、名無子の背に回された腕が強くその身を抱き締めていた。
雨音よりもやや大きな水音が扉越しに響いてくる。
少し前、三蔵に着いて宿に戻ってきた名無子は、自身の部屋の前で動きを止めた。
「……入らねぇのか」
「………」
腫れた目を擦り、物言いたげな視線を向けてくる名無子に、一つ隣の扉を開けようとしていた三蔵が折れた。
「……来い」
「うん」
溜息を吐き渋々、といった体を装ってはいたものの、その心は程遠く。
むず痒さを抱えながら部屋に入った三蔵の後に顔を綻ばせた名無子が続く。
「風呂に入ってこい。着替えは…乾くまでこれでも来てろ」
言って、自身の荷物から法衣とインナーを放ってやる。
「うん。ありがとう」
扉の向こうに消えていった名無子を見送り、自身も湿った法衣を脱ぎ捨てる。
現状と自分自身への戸惑いは拭えなかったが、紫煙に巻けば幾分か誤魔化せた気がした。
「ただいま」
ドアの開く音に続いて掛けられた声に、三蔵の心臓が跳ねた。
時間と共に返ってきた冷静さがいらぬ感情を掻き立てる。
「あぁ」
素っ気なく答え煙草を灰皿で押し潰すと、缶に残っていた生温いビールを喉に流し込んだ。
「前から気になってたんだけど、三蔵の服って三蔵とお揃い?」
「お揃いって何だ……そいつは三蔵法師の正装だ。あとややこしい言い方はやめろ」
「……光明三蔵法師様と玄奘三蔵法師様のお揃いの正装……」
「…お揃いはいらん。そして嗅ぐな」
気抜けしつつ、身に纏った法衣の匂いを嗅いでいる名無子を窘める。
「ちゃんと良い匂いだよ?」
「そういう問題じゃねぇ…」
「三蔵のはお香の匂いだったけど、三蔵のこれはふろーらる」
「……八戒の野郎…また妙な洗剤使いやがったな…」
舌打ちを一つ。
新作の柔軟剤がどうとの笑顔で語っていた八戒を思い出す。
「……こっちは煙草と火薬の匂い」
「だから嗅ぐなっつってるだろうが…」
椅子に掛けられた、三蔵が先程まで着ていた法衣を嗅いでくすくすと笑っている。
いつしか解れた空気に、三蔵が吐き出した煙が揺れた。
「三蔵、あのね。お願いがあるんだけど…」
暫くして名無子の濡れ髪が乾いた頃、遠慮がちに名無子が切り出した。
「なんだ」
「嫌だったら断ってくれて良いんだけど…」
「言われなくても嫌なら断る。早く言え」
「今日、隣で寝ていい?」
「……」
「……ごめん。やっぱり―――」
「駄目だとは言ってねぇ」
沈黙は、部屋に呼んだときからそのつもりだった自身に気付かされたことによる気恥ずかしさから来るものだったが、それを誤解した名無子を食い気味に引き止めてしまったこともまた、三蔵を内心で悶絶させた。
顔を直視できず、黙って布団へと潜り込む。
中央やや左に身を横たえ、名無子に背を向ける。
「連中が起きる前には部屋に戻れ」
「うん。ありがとう」
喜色の滲む声が答え、ベッドが沈む。
背中にそっと、温もりが触れた。
「もう一つ、お願い聞いてくれる?」
「……内容に寄る」
「お姉ちゃんって呼んd「却下だ。断る」」
言い切る前にきっぱりと、強かに一蹴。
可笑しそうに笑う名無子にベッドが揺れた。
「まぁそれは冗談なんだけどね」
「いらん知恵つけてんじゃねーよ…」
毒吐くも棘も朧で今一締まらない。
自嘲気味に嘆息を零していると
「あのね―――名前、呼んでほしい」
ぽつり、色を変えた言の葉が背に響いた。
爆発に巻き込まれたあの夜、初めて名を呼ばれたと血塗れで嬉しそうに笑った名無子を思い出す。
それ以来一度も呼ぶことのなかった名を、光明三蔵が名付けたその名を、三蔵は今一度口にした。
「……さっさと寝ろ。名無子」
求めに応じたことに他意はないと、背を向けてしまっていることを惜しく思うのも気のせいだと、自分に言い聞かせて。
「ありがとう。おやすみなさい、三蔵」
やがて聞こえてきた微かな寝息に釣られるように意識を手放しかけたその瞬間、
『 無駄に足掻くから沈むんですよ。流れに身を任せることも、時には大事ですよ? 』
どこからか懐かしい声が聞こえた気がした。
力ない声に朝霧が揺れた。
昨夜、三度に亘る妖怪達の襲撃によって回復を阻まれた腹減らしの声だ。
尤も、昨夜とは言え片が付いたのはつい先程のことだった―――
一度目の襲撃は昨日、宵闇に夜霧が立ち込めた頃。
何処からか射られた一本の矢が、うとうとと船を漕ぎ始めていた悟空の耳元で風切音を立て地面に突き刺さった。
視界が効かない中、全員警戒態勢を整えるが敵の姿は見えず、しかし小雨程度の矢は全て八戒のバリアによって防がれただけ。
「……終わり?」
「まさか。……え、マジで?」
「何だったんですかね…」
「気を緩めるんじゃねぇ。俺たちを狙ってのことなのは間違いねぇんだろうからな」
警戒網を張ったまま、深夜になって同様の襲撃。
「これ、地味に鬱陶しいんだけど…」
「霧さっきより濃くなってるしなぁ…いつも通り襲いかかってくりゃいいのに」
「嫌がらせとしては効果覿面ですね。これも多分毒矢ですし」
そして未明、三度目の襲撃に険相極まった三蔵から命が下った。
「悟空、悟浄、行け。お前らならまだ夜目が効くだろ」
「うへぇ…仕方ねーかぁ…」
「なぁんで俺まで。悟空一人で十分じゃね」
「一人より二人の方が早ぇだろうが!さっさとって片付けてこい!」
気抜けするような攻撃と消化できない眠気のせいで血管を浮き上がらせる三蔵を横目に
「名無子」
八戒は片手でバリアを張ったまま、何やら名無子に耳打ちした。
名無子は暫し思案。そして、
「悟浄」
悟浄を真っ直ぐ見詰め、八戒の言を忠実に全うした。
「えと…頑張って。騎士様」
「「「「………」」」」
四人の視線が注がれる中、悟浄の瞳が瞬き、やがて細く孤を描いた。
「仰せの侭に。姫」
名無子の手の甲に口付け、やおら立ち上がる。
「っっしゃぁあ!!そっこー片付けてくるから待ってろよ名無子ちゃん!」
「お、俺も行く!!てか騎士って何!?」
咆哮を響かせあっという間に霧中に姿を消した悟浄を追い、悟空もすぐに駆け出して行った。
「河童も煽てりゃ木に登る、ってな」
「…豚…」
「何とかと鋏は使いよう、とも言いますね」
「馬鹿…」
言いたい放題の二人を前に、無駄に神妙な面持ちの名無子。
「つまり……悟浄は、可哀想…?」
「いいえ名無子。この場合は"チョロい"が正解です」
「悟浄は…ちょろい…」
「あぁ。正解だな」
煙草をふかす三蔵の横で、名無子が何の役にも立たない脳内辞書のアップデートを果たしていた。
そうして日が昇り切る前に事は片付いたものの、結局碌に眠れぬまま朝日を見る羽目になった。
「姫様!騎士悟浄、只今任務を終え帰還しました!ってな」
「悟浄。おかえりなさい。悟空も。お疲れ様」
「おー。やっと終わったぁ…ねみぃ〜……腹減ったぁ〜……」
「二人共、お疲れ様でした。さて、霧も少し晴れてきましたし早いですがもう出ましょうか」
「八戒もお疲れ様。運転、大丈夫?」
「えぇ、大丈夫ですよ。事故っても名無子だけは守りますから安心してください」
「ばっか。名無子ちゃんを守るのは俺の役目だっつーの」
「俺も俺も!名無子には絶対怪我させねー!」
「先ずは事故らんようにしやがれ…」
草臥れた足取りで車へと姿を変えたジープへと向かう一同。
悟空の足がふと止まった。
「で、三蔵はやっぱ後ろ…?」
昨日の重苦しく白煙煙る空気に晒されていた悟空としては、普段どおりのポジションで心安らかに眠りたいところだったが、
「……」
後部座席に無言で乗り込んだ三蔵にその期待は儚くも潰え、大きく肩を落とした。
その光景に悟浄が髪を掻き上げ、大仰に息を吐き出す。
「わーったわーった。俺の負けでいい。大人しくしとけってこったろ?わかったからさっさと前行けクソ坊主」
両手を上げつつも毒吐くことは忘れない悟浄を睨みつけた三蔵だったが、睡眠不足でそれ以上の気力が湧かない。
そして三蔵としても、広い助手席で一刻も早く惰眠を貪りたかった。
「……さっさと乗りやがれ」
吐き捨てるように言うと、助手席へと移動し腰を据えた。
「…全く、妙なところでお子様で困るぜ」
「元はと言えばお前が悪いんだろ」
「名無子ちゃんがジープから落ちたらお前だって嫌だろーがよ」
「真ん中に座っててどうやって落ちんだよ……」
三蔵に聞こえぬよう小声で遣り取りしつつも、既に後部座席の真ん中に収まった名無子の両側に乗り込む。
「さ、出発しますよ。今日は夕方には街に着くはずです」
「街!飯!!布団!!」
「酒!風呂!!布団!!」
「女、じゃねーのか」
「三蔵サマよ。そーゆーことレディの前で言うもんじゃねぇのよ?」
「貴方がそれを言いますか…」
「……酒、風呂、女?」
「なっっ!?三蔵!お前が余計なこと言うから!!違うからな!?名無子ちゃん!!」
「別に何も違わなくね?」
「黙ってろクソ猿!!いや、マジで違うから!!」
「大丈夫だよ?悟浄?」
「だっ…何が!?名無子ちゃん!??」
喧騒と暁光を背にジープは走る。
眠りを妨げられた三蔵の手からいつもの銃声が鳴り響くまで、あと数分―――
「いやぁ、ギリギリだったなー」
「朝霧夜霧は晴れが定説なんですけどねぇ」
日没前に駆け込んだ宿の入口から空を見上げ、一行は安堵の息を漏らしていた。
太陽が天頂を過ぎた頃から数を増していった白雲は気付けば鈍色となって空全体を覆い、
一行が宿へと到着するのを待っていたかのように湛えていた水滴を空から落とした。
「とりあえず飯食おうぜ飯!」
「まぁ待てって。今八戒がチェックインしてっから」
「皆さん、部屋取れましたよ。何とシングルが5部屋です」
「やったー!個室!!」
「マジか!雨と言い部屋と言い…なんか運が良すぎねぇ?」
不運に慣れすぎてこの程度の幸運すら怪しく思えてしまう。
素直に喜べない悟浄が自嘲を零し、八戒も同調するように苦笑いを浮かべていた。
ふと、悟空がその場から消えた存在に気が付く。
「―――あれ?三蔵は?」
「先に部屋に向かいました。食事もいらないと」
「あー…マジで個室取れて良かったな…」
「ですね」
「…?」
何やら訳知り顔の面々に名無子が首を傾げる。
それを察したのか、悟空が顰めっ面で答えを返した。
「三蔵、雨の日すっげー暗いし機嫌悪くなるんだ。ずっとピリピリしてるしすぐキレる…」
「機嫌が悪いと言うか…得意じゃないんですよね」
「んだな。雨の日は放って置くに限る」
奥歯に物が挟まったような物言いに漂う沈鬱な雰囲気を感じ取った名無子が眉を曇らせる。
黙り込んだ名無子の頭に、八戒が掌を降らせた。
「そんな顔しなくても大丈夫ですよ。具合が悪くなるとか、そういうんじゃありませんから」
「そーそー。名無子ちゃんが心配してやる必要はなし!とりあえず部屋行く前に飯食うべ。
―――って、悟空どこ行った??」
「悟浄ー、八戒ー、名無子ー、早く来いよー!」
その声は宿に併設された食事処から。
待ちきれずに席に着いた悟空がぶんぶんと手を振っている。
呆れつつ、さりとて八戒も悟浄も空腹は否めない。
久方振りのまともな食事に胸踊らせながら食卓へと足を向けた。
夕食後、名無子は八戒の部屋にいた。
名無子の法衣を繕うついでにサイズを合わせないかとの提案に名無子が応じ、採寸すべく八戒の部屋に立ち寄ったのだ。
名無子の背後、メジャーで肩幅を測りながら
「まだ数日ですが…どうですか?ここでの生活は」
八戒が世間話程度に問い掛けた。
「嬉しい」
「嬉しい?」
「うん。みんな優しい」
柔らかな声と、顔を見ずともわかるその表情に、八戒の口元に微笑が浮かぶ。
ふと、思い立って尋ねてみた。
「……悟浄のこと、好きですか?」
暫しの沈黙、そして
「言いそびれてたけど、盗み聞きは良くないと思うよ?」
返ってきたむくれたような声に、あははと笑って誤魔化した。
「好きだよ。悟浄のこと」
「それは、親愛?それとももっと特別な何か……例えば、恋情ですか?」
「親愛だと思う。恋情は…よくわかんない」
八戒は人心地に息を零すと、メジャーを仕舞い名無子に椅子を勧めた。
それに向き合うような形で自身もベッドに腰を下ろし、であれば、と、言葉を続ける。
「今後、悟浄と二人きりの時はくれぐれも注意してください。
流石に嫌がる女性をどうこうする人ではないとは思いますが、口は上手いのでなぁなぁでそういう関係を持ってしまわないように。
勿論、わかった上でということであればそこはもう自由恋愛の範疇ですが…」
言いながら、何を母親じみたことをと思いはすれど、名無子のことを思えば念には念をと言葉を選び話す。
ほんの僅か、驚いたような表情を浮かべた名無子だったが、すぐにその目は細く微笑を描いた。
「八戒も優しいね」
続けられたのは、思いも寄らない言葉だった。
「私なんか、押し付けられたよくわかんない存在で、その上いつ消えるかもわからないのに」
「……え?」
「数日から数十年で消えるってあの人が言ってた。
私が意識を持って既に二十年が経ってるし、消える理由もわからないってことは、つまりそういうことでしょう?」
憂苦の欠片も滲まない、食事中の雑談とまるで変わらない調子で名無子は話す。
「消えるまで適当に放っておくことも、好きに利用することも、何処かに置き去りにして消えたってことにすることだってできるのに…八戒も、みんな優しい」
そう言って、只々嬉しそうに微笑む。
「大丈夫だよ。みんなに迷惑をかけるようなこと、するつもりはないから」
八戒は愕然とした。
これまで、決して多くない言葉の向こうに滲んでいた配慮は、全て自分たちに向けられたものであった。
それは名無子生来の気質に寄るものくらいにしか思っていなかったが、自分達が敢えて避けてきた核心に名無子自らが踏み込んだことによって、理解を伴ったより深き慮りとなって八戒の耳に届いた。
(いつ消えるとも知れぬとわかった上で、彼女は…)
真っ直ぐ見詰めてくるその瞳は、まるで厳冬の澄んだ夜空に冴え渡る銀月のようだった。
八戒は逸る心臓を宥めるように、ゆっくりと息を吸い込み、そして吐き出してから口を開いた。
「―――一つだけ、訂正した方が良いかもしれません」
全てを見透かすかのようなその瞳が、決して映し出さないもの。
それを八戒は知っていた。
「迷惑をかけられたくないから、じゃないです。貴女が大事だから、貴女に傷付いてほしくないからですよ」
吃驚に見開かれた瞳に、やはりか、と嘆息が零れた。
自身に優しさを向けることを苦手とするのは、八戒も同じだった。
しかしその根は大きく異なる。
名無子の場合、向けることができないのではない。向けることを知らないのだ。
その深謀遠慮をもって誰かを慈しむことはできても、我欲を満たし自身を慈しむという選択肢をそもそも持ち合わせていない。
だから大事なもののために自身を差し出すことを、自身を壁とすることに躊躇はないのだと。
大事な者に報いるために自身を守ることはあっても、そうでなければ彼女はきっと―――
八戒自身にも何故かはわからなかったがそれは予想ではなく、既知に近い確信であった。
(そうか じゃあ―――)
八戒は腰を上げると名無子の傍に立ち、そっと名無子を抱き寄せた。
「……八戒?」
「はい」
「…なんで?」
なすが侭、腕の中から聞こえてくる困惑の滲む声を八戒がくすりと笑った。
「嫌ですか?」
「ううん。嫌じゃない」
「じゃあ、もう少しだけ。このままで」
「…うん」
貴女がそれをしないなら、僕がそれに代わろう。
貴女自身の分まで、貴女を大切にしよう。
自分を大事にすることを知らない貴女が、それをできるようになるのを待つより
ずっと早そうだ―――
(悟浄のこと、笑ってられないですねぇ…)
自嘲を滲ませながら、八戒はただ黙って名無子の頭を撫でていた。
細かい雨粒が窓を濡らす。
電気を消した真っ暗な部屋に、三蔵が吐き出した白煙が満ちている。
何とはなしに見下ろした宿の裏庭。
その視界で、篠突く雨の向こう側に白い人影が揺らいだ。
暫くの間、三蔵は黙ってそれを見詰めていたがやがて舌打ちを一つ響かせ、部屋を後にした。
「雨がそんなに珍しいか」
不意に遮られた雨に、名無子が振り返る。
差し出された傘の下、不機嫌そうに細められた紫暗と目が合った。
「―――あの日と同じ」
銀糸を伝う、同じ色の雫がぽたりと落ちる。
「三蔵も、同じように傘差してくれた」
丸く見開かれた銀灰が嬉しそうに、しかし何処か憂いを帯びて三蔵に微笑んだ。
違う色をした同じ響きのその名が、三蔵の胸に爪を立てる。
(その瞳に映るのは―――)
疼くような痛みと不快感が、三蔵に口を開かせた。
「十三年前の雨の夜―――お師匠様は、妖怪から俺を庇って死んだ」
零れた言の葉に驚愕したのは三蔵自身だった。
意図せず吐かれた言葉を取り戻そうとするかのように口元を押さえ目を伏せる。
自身の口から自身の耳へと届けられた音はその闇を一層濃縮したようで、吐き気を伴って脳を揺さ振ってくる。
「三蔵」
(その名を……呼ぶな―――)
眉間に刻まれた刻印が深く影を落としていく。
噛み締めた奥歯が軋み、小さな音を立てた。
「寂しいね」
細い腕が、三蔵を抱き締めた。
「寂しい」
三蔵の胸に顔を埋め、震える肩が繰り返す。
その姿に重なったのは、あの日に置いてきた自分自身だった。
あぁ、これは
あの日、俺が選べなかった俺だ―――
寂しいと、恋しいと、泣くことを許さなかった自分自身。
ただ、懐い、悼む。
それだけのことが、ずっとできずにいた。
前に進むため、後悔と自責で塗り潰した想いが今、温もりを纏って己が身を抱いていた。
「あぁ…そうだな……」
息を吐くように自然と、言葉が零れる。
心に浮かぶは、あの柔らかな微笑み。
伴う痛みが目を背けさせていたあの頃が鮮やかに甦る。
いつしか胸の軋みは消え、名無子の背に回された腕が強くその身を抱き締めていた。
雨音よりもやや大きな水音が扉越しに響いてくる。
少し前、三蔵に着いて宿に戻ってきた名無子は、自身の部屋の前で動きを止めた。
「……入らねぇのか」
「………」
腫れた目を擦り、物言いたげな視線を向けてくる名無子に、一つ隣の扉を開けようとしていた三蔵が折れた。
「……来い」
「うん」
溜息を吐き渋々、といった体を装ってはいたものの、その心は程遠く。
むず痒さを抱えながら部屋に入った三蔵の後に顔を綻ばせた名無子が続く。
「風呂に入ってこい。着替えは…乾くまでこれでも来てろ」
言って、自身の荷物から法衣とインナーを放ってやる。
「うん。ありがとう」
扉の向こうに消えていった名無子を見送り、自身も湿った法衣を脱ぎ捨てる。
現状と自分自身への戸惑いは拭えなかったが、紫煙に巻けば幾分か誤魔化せた気がした。
「ただいま」
ドアの開く音に続いて掛けられた声に、三蔵の心臓が跳ねた。
時間と共に返ってきた冷静さがいらぬ感情を掻き立てる。
「あぁ」
素っ気なく答え煙草を灰皿で押し潰すと、缶に残っていた生温いビールを喉に流し込んだ。
「前から気になってたんだけど、三蔵の服って三蔵とお揃い?」
「お揃いって何だ……そいつは三蔵法師の正装だ。あとややこしい言い方はやめろ」
「……光明三蔵法師様と玄奘三蔵法師様のお揃いの正装……」
「…お揃いはいらん。そして嗅ぐな」
気抜けしつつ、身に纏った法衣の匂いを嗅いでいる名無子を窘める。
「ちゃんと良い匂いだよ?」
「そういう問題じゃねぇ…」
「三蔵のはお香の匂いだったけど、三蔵のこれはふろーらる」
「……八戒の野郎…また妙な洗剤使いやがったな…」
舌打ちを一つ。
新作の柔軟剤がどうとの笑顔で語っていた八戒を思い出す。
「……こっちは煙草と火薬の匂い」
「だから嗅ぐなっつってるだろうが…」
椅子に掛けられた、三蔵が先程まで着ていた法衣を嗅いでくすくすと笑っている。
いつしか解れた空気に、三蔵が吐き出した煙が揺れた。
「三蔵、あのね。お願いがあるんだけど…」
暫くして名無子の濡れ髪が乾いた頃、遠慮がちに名無子が切り出した。
「なんだ」
「嫌だったら断ってくれて良いんだけど…」
「言われなくても嫌なら断る。早く言え」
「今日、隣で寝ていい?」
「……」
「……ごめん。やっぱり―――」
「駄目だとは言ってねぇ」
沈黙は、部屋に呼んだときからそのつもりだった自身に気付かされたことによる気恥ずかしさから来るものだったが、それを誤解した名無子を食い気味に引き止めてしまったこともまた、三蔵を内心で悶絶させた。
顔を直視できず、黙って布団へと潜り込む。
中央やや左に身を横たえ、名無子に背を向ける。
「連中が起きる前には部屋に戻れ」
「うん。ありがとう」
喜色の滲む声が答え、ベッドが沈む。
背中にそっと、温もりが触れた。
「もう一つ、お願い聞いてくれる?」
「……内容に寄る」
「お姉ちゃんって呼んd「却下だ。断る」」
言い切る前にきっぱりと、強かに一蹴。
可笑しそうに笑う名無子にベッドが揺れた。
「まぁそれは冗談なんだけどね」
「いらん知恵つけてんじゃねーよ…」
毒吐くも棘も朧で今一締まらない。
自嘲気味に嘆息を零していると
「あのね―――名前、呼んでほしい」
ぽつり、色を変えた言の葉が背に響いた。
爆発に巻き込まれたあの夜、初めて名を呼ばれたと血塗れで嬉しそうに笑った名無子を思い出す。
それ以来一度も呼ぶことのなかった名を、光明三蔵が名付けたその名を、三蔵は今一度口にした。
「……さっさと寝ろ。名無子」
求めに応じたことに他意はないと、背を向けてしまっていることを惜しく思うのも気のせいだと、自分に言い聞かせて。
「ありがとう。おやすみなさい、三蔵」
やがて聞こえてきた微かな寝息に釣られるように意識を手放しかけたその瞬間、
『 無駄に足掻くから沈むんですよ。流れに身を任せることも、時には大事ですよ? 』
どこからか懐かしい声が聞こえた気がした。