第一章
貴女のお名前は?
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その夜、どうせ寝ないからと夜警を買って出た名無子は、川のせせらぎと、蛙の鳴き声と、悟空の鼾を聞きながら一人、ぼんやり星を眺めていた。
時折小さく爆ぜる焚き火が、名無子の頬に滲む喜色を仄かに照らしている。
「―――なんかいい事あった?」
囁くようなその声を辿れば、薄く片目を開けた悟浄と瞳がかち合った。
「悟浄。寝れないの?」
悟浄は起き上がると名無子の隣へ移動し、腰を下ろした。
「んー、名無子ちゃんが寝物語に話聞かせてくれたら寝れるかも?」
その言葉に名無子はふふっと笑うと、再び視線を天宙へと向け話し始めた。
「いざという時、壁にくらいはなれるってわかったから」
「……は?」
「いつもタイミング良くって訳には行かないだろうけど、それでも役に立てるって嬉しい」
澄み渡った星空のように澱みのない声に悟浄は愕然と思い出す。
「まさか三蔵が無傷だったのって…」
「違う違う。それは三蔵が言ってたとおり。私は何もしてないよ」
悟浄の零した可能性を、名無子が慌てて打ち消した。
「でも、守れるものもあるってわかったんだ。
勿論、無駄に怪我するつもりはないけど、この身体だからこそできることがある。
何もできないよりずっといい」
夜光に輝く瞳にも、横顔を彩る微笑にも、一片の曇りも感じられない。
その事実に只純粋に喜ぶ名無子が、悟浄は痛かった。
頭を沈め、腹の底から絞り出すような呻き声を上げる。
思いの外、分別はある。本人の言葉通り、無茶をするようなこともないのかもしれない。
それでも、その選択肢があること自体が悟浄は我慢ならなかった。
大きく深呼吸を一つ、勢いよく顔を上げた悟浄に、名無子が丸い瞳を瞬かせる。
「―――名無子ちゃん、俺のこと好き?」
冗談を含まないその声に、名無子は躊躇なく答えを返した。
「うん。好きだよ」
「俺が怪我するの、嫌?」
「うん。嫌だ」
「怪我しても八戒が治してくれるけど?それでも嫌?」
「それでも嫌」
「俺もさ、名無子ちゃんのこと好きなんだけど?」
その含意に、名無子は返す言葉を失った。
眉を顰め、目を伏せた名無子を悟浄が抱き寄せる。
抵抗するでもなく胸に収まった名無子に、小さく溜息を降らせた。
「悟空も言ってたろ。そこんとこ、忘れないでくれよ頼むから」
「だけど……ただでさえ迷惑かけてるし…足手纏いになったら、一緒にいられなくなる…」
「名無子…」
「でも、いざというときに少しでも役に立てれば一緒にいるの許してもらえるかなって…」
夜に溶けそうなか細い声に、悟浄ははたと気が付いた。
第一印象は、美しい人形。
無機質で無感情な、人の形をした何か。
しかし、この短い時間でも十分にわかった。
口数こそ多くないものの、そこに滲む感情。
特異な性質を除けば、察しが良くて心根の優しいただの女に過ぎなかった。
先程までのように嬉しければ笑うし、当然、傷付きもする。
名無子は何も言わなかったが、自分達の戸惑いと被った面倒事への不満は十二分に感じ取っていたはず。
そして幾度となく紡がれた『足手纏い』の文字に、何も思わなかったはずがないと。
悟浄はがしがしと頭を掻くと、露骨に舌打ちを響かせた。
「あ゛ーー……どこのどいつがンなこと言ったんだろうなぁ」
ぴくりともしない三蔵の背中を睨みつける悟浄に、
「でも、それは当然のことだから」
萎れた眉が小さく笑う。
悟浄はふぅと息を吐き出し、その顎を指で掬い言った。
「役に立ちたい、か……んじゃさ、名無子ちゃんにしかできないお役目、やる?」
その言葉に、狸寝入り中の若干名がエロ河童センサーを反応させる中、
「何…?」
名無子が首を傾げる。
にやり、悟浄が口の端を上げた。
「俺の、お姫様役」
「……??」
訳が分からず傾いたままの名無子を笑い、
「ナイトはお姫様守るときが一番力発揮できんだぜ」
額に口付けを降らせた。
擽ったそうに目を細めた名無子を再び胸に抱き寄せる。
「名無子ちゃんがお姫様やってくれるなら、俺のモチベーション爆上がりよ?
まぁ軽く三割増しで戦えるね」
「三割増し…」
「これなら名無子ちゃんも役に立てるし俺も名無子ちゃんの傍にいれるしナイトとして株も上がるし一石三鳥ってね。
いかがですか?お姫サマ」
優しく頭を撫でながら饒舌に語る悟浄の言葉を咀嚼する。
そして、でも、と、悟浄を見上げた。
「私守るのに怪我したり―――」
「しねぇ。約束する」
言葉を被せ答えたのは、先程までの浮薄な声ではなかった。
「……本当に?」
「俺のこと、信じられない?」
「……私、悟浄の役に立てる?」
「モチロン。今まで野郎とばっか顔付き合わせて鬱陶しい妖怪共相手してさ、もうごじょさんの心はカッサカサだったわけですよ。
名無子ちゃんが来てからどれだけ俺の心が潤ってると思う?マジ感謝しかないって」
真っ直ぐ重なっていた視線が緩められ、唇に浮かんだ微笑が二つになった。
悟浄は小さく安堵の息を吐くと、名無子の耳元に口を寄せ、
「欲を言えば心だけでなく身体も潤してもらいたいところだけど、まぁそれは追々、な」
名無子にだけ聞こえるよう囁き、片目を瞑った。
満月のような瞳がぱちぱちと瞬く。
やがて細く弧を描き、
「…台無し」
そう零して失笑した。
霧の晴れた表情で笑う名無子に、悟浄の口元も綻ぶ。
「そうやって笑ってなよ。イイ女には笑顔が一番似合うんだからさ」
心地良い笑いの波が引いた頃、悟浄はぽつり口を開いた。
「昨日、八戒が旅の目的話したべ?」
「うん」
「最初その話が来た時、悟空は当然のように三蔵に着いて行くし、八戒も何だかんだ三蔵に恩を感じてっとこもあっから着いてくことになったけど、俺は成り行きっつーか…
桃源郷の異変を止めるとか、奪われた大事なもん取り返すとか大層な志は持っちゃいねぇのよ。
当然、ここまで来て放り出すような真似するつもりはないけどな」
ぼんやり空を見詰めながら語る悟浄の言葉に、名無子はその腕の中黙って耳を傾けていた。
「まぁ何が言いたいかっつーとだ」
何かを誤魔化すように咳払いを一つ、
「俺ですらこんなんなんだから名無子ちゃんがそんなに気負う必要はねぇし、少なくとも俺は、名無子ちゃんのこと迷惑とも足手纏いだとも思っちゃいねぇよ」
頭を撫でながら紡がれた言葉が、名無子の胸の奥を締め付けた。
「……私、邪魔じゃない?」
「ぜーんぜん」
「…ここに、いてもいい?」
「駄目って言うやつがいたら俺がぶっ飛ばしてやるよ」
「……ぶっ飛ばすのは、だめ…」
「ははっ。優しいねぇ、名無子ちゃんは」
生真面目で心優しい、人でも妖怪でもない何か―――
モノですらないとか、不死身だとか、そんなの知ったことかよ。
俺にとっちゃただのイイ女で、それだけで十分だ。
腕の中の柔らかな温もりに、いつしか悟浄の意識は淡く溶けていった。
翌朝、五人を乗せ再び走り出したジープの上に流れる一触即発の空気。
悟空は一人冷や汗をかきながら固唾を呑み込み、その只中にいるはずの名無子に至っては気にする素振りもなく後部座席の真ん中で気持ち良さそうに風を浴びていた。
ほんの少し前。導火線に火を着けたのは、
「揺れると危ないからな」
そう言って後部座席中央に座る名無子の肩に回し、その身を引き寄せた悟浄の腕だった。
瞬間、ぴり、と震えた空気。
経験上、舌打ち、ハリセン、最悪の場合鉛玉が飛んでくることを予感した悟空の肩がぴくりと跳ねたが、予想に反して何事も起こらない。
しかし前方からは気合いの入った殺気が確かに突き刺さってくる。
いつ爆発するともしれない爆弾を括り着けられているような緊張感に、悟空は為す術もなく晒されていた。
(悟浄、完全に調子付いてますね…)
心中毒吐きながら、八戒はバックミラーに視線を向けた。
至極ご機嫌な悟浄の隣では名無子が特段嫌がるでもなく、流れる景色を眺めている。
昨晩、床を出た悟浄の気配に、念の為と耳を欹てていた。
結果、齎されたのは細やかな良心の呵責と色を濃くした不安要素。
(名無子は…果たしてどこまで理解しているのでしょうか…)
これまで接している限り、赤子同然の純朴無垢というわけではないように思う。
わかった上で、悟浄のことも上手くあしらってくれればいうのは期待が過ぎるだろうか。
しかし今はそれよりも。
(どうしたものでしょうかねぇ…なんなら、名無子よりわかっていなさそうな人を……)
八戒はちらり視線を左に走らせ、火の着いた導火線の消火方法に思考を巡らせていた。
(うぜェ……)
挑発的でこれ見よがしな悟浄の行動に、三蔵の眉間の刻印が増してゆく。
しかし、根本的な原因は他にあった。
名無子に出会ってから幾度となく襲いかかる、得体の知れぬ感情。
正体不明の何かに踊らされているようで、三蔵の苛立ちは増すばかりだった。
一方で妙に冷静な自身の理性が囁く。
悟浄の女好きは今に始まったことじゃないだろう。
何が悪い?
旅の邪魔にさえならなければ、悟浄が言う通り三割増しで働けるならそれでいい。
名無子が足手纏いなのは紛れもない事実で、間違ったことは何一つ言っていない。
なのに―――
宛てのない堂々巡りを繰り返し、煙草を消費していく。
三蔵の中で燻っていた謎の火種が悟浄によって煽られ、それでもその根がわからぬが故に感情の発露に至ることができない。
車内は正に、不完全燃焼によって発生した毒煙が漂っているような状況だった。
悟空の腹の虫すら鳴りを潜めた、ひりつくような沈黙を裂いたのは
「三蔵一行ォォォっ!!今日こそはその経文貰い受ける!!」
聞き飽きたお決まりの文句。
ジープが完全に動きを止めるより早くジープから飛び降りたのは、車内に流れる空気に毒され辟易していた悟空と、当たり処を求めていた三蔵だった。
「おーお。どうした、三蔵サマ珍しくやる気じゃん」
「悟浄あなたねぇ…頭に気を付けた方が良いですよ。本当に」
既に銃声と悲鳴が鳴り響く中、悟浄に続いて八戒は呆れ顔でジープから降りた。
「名無子ちゃん、すぐ終わるから大人しく―――あれ?」
悟浄の視線が一瞬名無子の姿を見失ったが、少し視線を下げると
「大丈夫。ちゃんと隠れとく」
後部座席の足元で身を屈め蹲る名無子が僅かに顔を上げて頷いた。
「ははっ。流石俺のお姫サマ」
「馬鹿言ってる間に騎士様の出番なくなりそうですよ?」
「うぉっ!?ちょ、俺の分残しとけって!!」
錫杖を手に駆け出していった悟浄を溜息で見送る。
戦況は圧倒的。八戒はジープの傍に敢えて残った。
「…八戒は行かないの?」
「えぇ。僕の出番はなさそうですし。たまには楽させてもらいます」
「……私がいるから?」
声に潜む不安の影に、八戒が苦笑した。
「いいえ。いや、まぁ口実ではあるのですが…名無子、あれ見てください」
指さされた先を、助手席の影から覗き見る。
十倍近い数を歯牙にも掛けず、いっそ楽しげに生き生きと敵を蹴散らしていく三人の姿がそこにはあった。
「ね?みんなちゃんと強いでしょう?悟空はいつものことながら、普段やる気のない三蔵も今回はあの鬼神の如き働きっぷりですし、悟浄も宣言通り三割増しで稼働中です」
「……起きてた?」
目を逸らさぬままに耳聡く反応した名無子を空笑いで誤魔化し、言葉を続ける。
「加えて、今僕がサボれているのも貴女のお陰です。
―――さて、そんな貴女はただの足手纏いでしょうか?」
冗談めかした言葉の裏側に、名無子は視線を向けた。
くすり、八戒が笑う。
「いいんですよ、頼ってくれて。貴女の騎士の役目なら僕も喜んで承りますから」
穏やかな声が心に染み入り澱を溶かしていくようで、いつしか名無子の頬には微笑が戻っていた。
「ありがとう。八戒」
一仕事を終え晴れやかな表情で戻ってくる三人を、二つの笑みが出迎えた。
「あーすっきりした!」
「お疲れ様でした皆さん」
「名無子ちゃん、俺の活躍ちゃんと見てた?」
「うん。見てた。凄かった」
満面の笑みで名無子の頭を撫でる悟浄を目に、助手席へと乗り込もうとしていた三蔵の動きが止まった。
「………おい」
「…?私?」
名無子が声に目を向ければ三蔵と瞳がぶつかる。
「替われ」
くいと顎で助手席を指した三蔵に、
「うん」
名無子は素直に席を移った。
「悟空。詰めろ」
「あ、うん」
助手席の後部に回り込むと、悟空が座っていたスペースに乗り込み
「出せ。八戒」
出発を告げ煙草を咥えた三蔵はどこか満足げで。
「はいはい」
バックミラーに映る、胸を撫で下ろし大きく息を吐き出す悟空と、舌打ちし不満げな表情でそっぽを向いた悟浄。
八戒は苦笑いでアクセルを踏み込んだ。
三蔵の意図とその奇妙な空気の原因がわからず、何事かあらんと探るような視線が助手席から向けられる。
「名無子。貴女は何も悪くないんですから、そんな顔しなくていいんですよ?」
「八戒。…何?これ」
「気にしない気にしない」
首を傾げつつバックミラーを気にする名無子に
「これに慣れないと、一緒に旅なんてできせんよ?」
少しだけ意地悪い口調で言う。
名無子は暫し考え込むように眼を伏せたが、すぐに顔を上げ、
「わかった。慣れる」
こくりと頷き、真剣な顔で決意を告げた。
斯くして一触即発の空気は弛緩したものの、代償として大分狭くなった後部座席で悟空は白煙に目を細めながら、ふうと息を吐いた。
時折小さく爆ぜる焚き火が、名無子の頬に滲む喜色を仄かに照らしている。
「―――なんかいい事あった?」
囁くようなその声を辿れば、薄く片目を開けた悟浄と瞳がかち合った。
「悟浄。寝れないの?」
悟浄は起き上がると名無子の隣へ移動し、腰を下ろした。
「んー、名無子ちゃんが寝物語に話聞かせてくれたら寝れるかも?」
その言葉に名無子はふふっと笑うと、再び視線を天宙へと向け話し始めた。
「いざという時、壁にくらいはなれるってわかったから」
「……は?」
「いつもタイミング良くって訳には行かないだろうけど、それでも役に立てるって嬉しい」
澄み渡った星空のように澱みのない声に悟浄は愕然と思い出す。
「まさか三蔵が無傷だったのって…」
「違う違う。それは三蔵が言ってたとおり。私は何もしてないよ」
悟浄の零した可能性を、名無子が慌てて打ち消した。
「でも、守れるものもあるってわかったんだ。
勿論、無駄に怪我するつもりはないけど、この身体だからこそできることがある。
何もできないよりずっといい」
夜光に輝く瞳にも、横顔を彩る微笑にも、一片の曇りも感じられない。
その事実に只純粋に喜ぶ名無子が、悟浄は痛かった。
頭を沈め、腹の底から絞り出すような呻き声を上げる。
思いの外、分別はある。本人の言葉通り、無茶をするようなこともないのかもしれない。
それでも、その選択肢があること自体が悟浄は我慢ならなかった。
大きく深呼吸を一つ、勢いよく顔を上げた悟浄に、名無子が丸い瞳を瞬かせる。
「―――名無子ちゃん、俺のこと好き?」
冗談を含まないその声に、名無子は躊躇なく答えを返した。
「うん。好きだよ」
「俺が怪我するの、嫌?」
「うん。嫌だ」
「怪我しても八戒が治してくれるけど?それでも嫌?」
「それでも嫌」
「俺もさ、名無子ちゃんのこと好きなんだけど?」
その含意に、名無子は返す言葉を失った。
眉を顰め、目を伏せた名無子を悟浄が抱き寄せる。
抵抗するでもなく胸に収まった名無子に、小さく溜息を降らせた。
「悟空も言ってたろ。そこんとこ、忘れないでくれよ頼むから」
「だけど……ただでさえ迷惑かけてるし…足手纏いになったら、一緒にいられなくなる…」
「名無子…」
「でも、いざというときに少しでも役に立てれば一緒にいるの許してもらえるかなって…」
夜に溶けそうなか細い声に、悟浄ははたと気が付いた。
第一印象は、美しい人形。
無機質で無感情な、人の形をした何か。
しかし、この短い時間でも十分にわかった。
口数こそ多くないものの、そこに滲む感情。
特異な性質を除けば、察しが良くて心根の優しいただの女に過ぎなかった。
先程までのように嬉しければ笑うし、当然、傷付きもする。
名無子は何も言わなかったが、自分達の戸惑いと被った面倒事への不満は十二分に感じ取っていたはず。
そして幾度となく紡がれた『足手纏い』の文字に、何も思わなかったはずがないと。
悟浄はがしがしと頭を掻くと、露骨に舌打ちを響かせた。
「あ゛ーー……どこのどいつがンなこと言ったんだろうなぁ」
ぴくりともしない三蔵の背中を睨みつける悟浄に、
「でも、それは当然のことだから」
萎れた眉が小さく笑う。
悟浄はふぅと息を吐き出し、その顎を指で掬い言った。
「役に立ちたい、か……んじゃさ、名無子ちゃんにしかできないお役目、やる?」
その言葉に、狸寝入り中の若干名がエロ河童センサーを反応させる中、
「何…?」
名無子が首を傾げる。
にやり、悟浄が口の端を上げた。
「俺の、お姫様役」
「……??」
訳が分からず傾いたままの名無子を笑い、
「ナイトはお姫様守るときが一番力発揮できんだぜ」
額に口付けを降らせた。
擽ったそうに目を細めた名無子を再び胸に抱き寄せる。
「名無子ちゃんがお姫様やってくれるなら、俺のモチベーション爆上がりよ?
まぁ軽く三割増しで戦えるね」
「三割増し…」
「これなら名無子ちゃんも役に立てるし俺も名無子ちゃんの傍にいれるしナイトとして株も上がるし一石三鳥ってね。
いかがですか?お姫サマ」
優しく頭を撫でながら饒舌に語る悟浄の言葉を咀嚼する。
そして、でも、と、悟浄を見上げた。
「私守るのに怪我したり―――」
「しねぇ。約束する」
言葉を被せ答えたのは、先程までの浮薄な声ではなかった。
「……本当に?」
「俺のこと、信じられない?」
「……私、悟浄の役に立てる?」
「モチロン。今まで野郎とばっか顔付き合わせて鬱陶しい妖怪共相手してさ、もうごじょさんの心はカッサカサだったわけですよ。
名無子ちゃんが来てからどれだけ俺の心が潤ってると思う?マジ感謝しかないって」
真っ直ぐ重なっていた視線が緩められ、唇に浮かんだ微笑が二つになった。
悟浄は小さく安堵の息を吐くと、名無子の耳元に口を寄せ、
「欲を言えば心だけでなく身体も潤してもらいたいところだけど、まぁそれは追々、な」
名無子にだけ聞こえるよう囁き、片目を瞑った。
満月のような瞳がぱちぱちと瞬く。
やがて細く弧を描き、
「…台無し」
そう零して失笑した。
霧の晴れた表情で笑う名無子に、悟浄の口元も綻ぶ。
「そうやって笑ってなよ。イイ女には笑顔が一番似合うんだからさ」
心地良い笑いの波が引いた頃、悟浄はぽつり口を開いた。
「昨日、八戒が旅の目的話したべ?」
「うん」
「最初その話が来た時、悟空は当然のように三蔵に着いて行くし、八戒も何だかんだ三蔵に恩を感じてっとこもあっから着いてくことになったけど、俺は成り行きっつーか…
桃源郷の異変を止めるとか、奪われた大事なもん取り返すとか大層な志は持っちゃいねぇのよ。
当然、ここまで来て放り出すような真似するつもりはないけどな」
ぼんやり空を見詰めながら語る悟浄の言葉に、名無子はその腕の中黙って耳を傾けていた。
「まぁ何が言いたいかっつーとだ」
何かを誤魔化すように咳払いを一つ、
「俺ですらこんなんなんだから名無子ちゃんがそんなに気負う必要はねぇし、少なくとも俺は、名無子ちゃんのこと迷惑とも足手纏いだとも思っちゃいねぇよ」
頭を撫でながら紡がれた言葉が、名無子の胸の奥を締め付けた。
「……私、邪魔じゃない?」
「ぜーんぜん」
「…ここに、いてもいい?」
「駄目って言うやつがいたら俺がぶっ飛ばしてやるよ」
「……ぶっ飛ばすのは、だめ…」
「ははっ。優しいねぇ、名無子ちゃんは」
生真面目で心優しい、人でも妖怪でもない何か―――
モノですらないとか、不死身だとか、そんなの知ったことかよ。
俺にとっちゃただのイイ女で、それだけで十分だ。
腕の中の柔らかな温もりに、いつしか悟浄の意識は淡く溶けていった。
翌朝、五人を乗せ再び走り出したジープの上に流れる一触即発の空気。
悟空は一人冷や汗をかきながら固唾を呑み込み、その只中にいるはずの名無子に至っては気にする素振りもなく後部座席の真ん中で気持ち良さそうに風を浴びていた。
ほんの少し前。導火線に火を着けたのは、
「揺れると危ないからな」
そう言って後部座席中央に座る名無子の肩に回し、その身を引き寄せた悟浄の腕だった。
瞬間、ぴり、と震えた空気。
経験上、舌打ち、ハリセン、最悪の場合鉛玉が飛んでくることを予感した悟空の肩がぴくりと跳ねたが、予想に反して何事も起こらない。
しかし前方からは気合いの入った殺気が確かに突き刺さってくる。
いつ爆発するともしれない爆弾を括り着けられているような緊張感に、悟空は為す術もなく晒されていた。
(悟浄、完全に調子付いてますね…)
心中毒吐きながら、八戒はバックミラーに視線を向けた。
至極ご機嫌な悟浄の隣では名無子が特段嫌がるでもなく、流れる景色を眺めている。
昨晩、床を出た悟浄の気配に、念の為と耳を欹てていた。
結果、齎されたのは細やかな良心の呵責と色を濃くした不安要素。
(名無子は…果たしてどこまで理解しているのでしょうか…)
これまで接している限り、赤子同然の純朴無垢というわけではないように思う。
わかった上で、悟浄のことも上手くあしらってくれればいうのは期待が過ぎるだろうか。
しかし今はそれよりも。
(どうしたものでしょうかねぇ…なんなら、名無子よりわかっていなさそうな人を……)
八戒はちらり視線を左に走らせ、火の着いた導火線の消火方法に思考を巡らせていた。
(うぜェ……)
挑発的でこれ見よがしな悟浄の行動に、三蔵の眉間の刻印が増してゆく。
しかし、根本的な原因は他にあった。
名無子に出会ってから幾度となく襲いかかる、得体の知れぬ感情。
正体不明の何かに踊らされているようで、三蔵の苛立ちは増すばかりだった。
一方で妙に冷静な自身の理性が囁く。
悟浄の女好きは今に始まったことじゃないだろう。
何が悪い?
旅の邪魔にさえならなければ、悟浄が言う通り三割増しで働けるならそれでいい。
名無子が足手纏いなのは紛れもない事実で、間違ったことは何一つ言っていない。
なのに―――
宛てのない堂々巡りを繰り返し、煙草を消費していく。
三蔵の中で燻っていた謎の火種が悟浄によって煽られ、それでもその根がわからぬが故に感情の発露に至ることができない。
車内は正に、不完全燃焼によって発生した毒煙が漂っているような状況だった。
悟空の腹の虫すら鳴りを潜めた、ひりつくような沈黙を裂いたのは
「三蔵一行ォォォっ!!今日こそはその経文貰い受ける!!」
聞き飽きたお決まりの文句。
ジープが完全に動きを止めるより早くジープから飛び降りたのは、車内に流れる空気に毒され辟易していた悟空と、当たり処を求めていた三蔵だった。
「おーお。どうした、三蔵サマ珍しくやる気じゃん」
「悟浄あなたねぇ…頭に気を付けた方が良いですよ。本当に」
既に銃声と悲鳴が鳴り響く中、悟浄に続いて八戒は呆れ顔でジープから降りた。
「名無子ちゃん、すぐ終わるから大人しく―――あれ?」
悟浄の視線が一瞬名無子の姿を見失ったが、少し視線を下げると
「大丈夫。ちゃんと隠れとく」
後部座席の足元で身を屈め蹲る名無子が僅かに顔を上げて頷いた。
「ははっ。流石俺のお姫サマ」
「馬鹿言ってる間に騎士様の出番なくなりそうですよ?」
「うぉっ!?ちょ、俺の分残しとけって!!」
錫杖を手に駆け出していった悟浄を溜息で見送る。
戦況は圧倒的。八戒はジープの傍に敢えて残った。
「…八戒は行かないの?」
「えぇ。僕の出番はなさそうですし。たまには楽させてもらいます」
「……私がいるから?」
声に潜む不安の影に、八戒が苦笑した。
「いいえ。いや、まぁ口実ではあるのですが…名無子、あれ見てください」
指さされた先を、助手席の影から覗き見る。
十倍近い数を歯牙にも掛けず、いっそ楽しげに生き生きと敵を蹴散らしていく三人の姿がそこにはあった。
「ね?みんなちゃんと強いでしょう?悟空はいつものことながら、普段やる気のない三蔵も今回はあの鬼神の如き働きっぷりですし、悟浄も宣言通り三割増しで稼働中です」
「……起きてた?」
目を逸らさぬままに耳聡く反応した名無子を空笑いで誤魔化し、言葉を続ける。
「加えて、今僕がサボれているのも貴女のお陰です。
―――さて、そんな貴女はただの足手纏いでしょうか?」
冗談めかした言葉の裏側に、名無子は視線を向けた。
くすり、八戒が笑う。
「いいんですよ、頼ってくれて。貴女の騎士の役目なら僕も喜んで承りますから」
穏やかな声が心に染み入り澱を溶かしていくようで、いつしか名無子の頬には微笑が戻っていた。
「ありがとう。八戒」
一仕事を終え晴れやかな表情で戻ってくる三人を、二つの笑みが出迎えた。
「あーすっきりした!」
「お疲れ様でした皆さん」
「名無子ちゃん、俺の活躍ちゃんと見てた?」
「うん。見てた。凄かった」
満面の笑みで名無子の頭を撫でる悟浄を目に、助手席へと乗り込もうとしていた三蔵の動きが止まった。
「………おい」
「…?私?」
名無子が声に目を向ければ三蔵と瞳がぶつかる。
「替われ」
くいと顎で助手席を指した三蔵に、
「うん」
名無子は素直に席を移った。
「悟空。詰めろ」
「あ、うん」
助手席の後部に回り込むと、悟空が座っていたスペースに乗り込み
「出せ。八戒」
出発を告げ煙草を咥えた三蔵はどこか満足げで。
「はいはい」
バックミラーに映る、胸を撫で下ろし大きく息を吐き出す悟空と、舌打ちし不満げな表情でそっぽを向いた悟浄。
八戒は苦笑いでアクセルを踏み込んだ。
三蔵の意図とその奇妙な空気の原因がわからず、何事かあらんと探るような視線が助手席から向けられる。
「名無子。貴女は何も悪くないんですから、そんな顔しなくていいんですよ?」
「八戒。…何?これ」
「気にしない気にしない」
首を傾げつつバックミラーを気にする名無子に
「これに慣れないと、一緒に旅なんてできせんよ?」
少しだけ意地悪い口調で言う。
名無子は暫し考え込むように眼を伏せたが、すぐに顔を上げ、
「わかった。慣れる」
こくりと頷き、真剣な顔で決意を告げた。
斯くして一触即発の空気は弛緩したものの、代償として大分狭くなった後部座席で悟空は白煙に目を細めながら、ふうと息を吐いた。