第一章
貴女のお名前は?
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「三蔵。この辺りで一旦休憩入れませんか?着替えもしたいですし」
「そうだな。適当な場所で停めろ」
村から数時間、河岸のやや開けた場所で、八戒はジープを停めた。
名無子を抱えたまま三蔵がジープから足を降ろすと、その振動で名無子が微かに眉を寄せ、
「ん……」
ゆるゆると開かれた灰銀が宙を彷徨い、そして三蔵を捉えた。
「気が付いたか」
「三蔵……」
安堵に細められた瞳はほんの僅かだったが、八戒は目敏くもそれを見逃さず、
「そんな顔もできるんですねぇ…」
決して本人には聞こえぬよう、口の中で小さく呟いた。
「ピィ!」
三蔵が地に降りた瞬間を見計らっていたかのように変化を解いたジープが名無子に飛びついた。
と、同時。
後部座席で惰眠を貪っていた二人が地面に放り出され悲鳴を上げる。
「いでっっ!!」
「うおっ!?なんだ!!?」
何事かと覚醒しきらない頭で周囲を見渡すが、その視線を受け取ったのは八戒の苦笑だけ。
つい先ほどまで腰を下ろしていたはずの車体は、白い竜となって名無子の周りを羽ばたいている。
「おはようジープ」
名無子の挨拶に嬉しそうに一鳴き、名無子の懐に羽を落ち着かせた。
自らの腕の中、ジープを抱き顔を綻ばせる名無子に、三蔵は小さく息を吐くと
「……立てるなら降りろ」
言葉面、吐き捨てるように言った三蔵だったが、
(((なんか……気持ち悪っ…)))
正体の掴めぬ違和感に、心中声を上げた三人。
「ごめん。もう大丈夫」
ジープを抱いたまま慌てたように三蔵の腕から離れると、再び視線は腕の中へ。
「ジープ『も』名無子のこと随分心配してたみたいですねぇ」
心做しか強調された一文字に、悟浄が逸早く口の端をにやりと上げ、三蔵がぴくり片眉を跳ねさせた。
「つーかさ、結局、何があって二人共そんな血塗れなん?名無子、服ボロボロだしさ」
普段とは何処か様子の違う三蔵にらしくもなく気を遣い、口を噤んでいた悟空が今更ながらに尋ねる。
「あー、それはですね―――」
そう言えばと苦笑い、八戒が答えを返そうとしたのと同時、
「!!」
はっと目を見開き、自身の背に顔を向けた名無子。
慌てた様子でぺたぺたと身体を触り、脇腹、手の届く背面とを確認する。
指先に、ざらりとした布の感触。焼け焦げ、大きく破れ穴が空いた法衣。
忽ちに泣き出しそうな顔で俯いた。
「名無子ちゃん?」
訳が分からず、悟浄が名無子の顔を覗き込む。
「服…ぼろぼろ……」
その呟きに問い返すよりもこちらに聞いた方が早そうだと思ったのか、何となく、理由を知っていそうな三蔵に視線が集まった。
俺を見るなと言わんばかりの表情が三蔵の顔を過ったが、すぐに溜息一つ。
「おい」
呼べば、潤んだ銀が顔を上げた。
「とりあえず、身体洗って昨日買った服に着替えろ。法衣は……八戒。後で繕ってやれ」
「僕ですか!?」
突然の流れ弾に思わず声を上げる。
「ですがここまで損傷が酷いと…」
言いかけたところで駆け寄ってきた名無子が縋るように八戒を見上げた。
「八戒、直せる…?」
果たしてこの状況でNOと答えられる者がいるだろうかと八戒は思った。
不安と期待とが入り交じる、清純な眼差しに
「………できる限りやってみます。が、あまり期待しないでくださいね」
苦笑し、そう念を押すのが精一杯だった。
名無子の顔が、雲間から陽が差し込むようにぱぁっと明るんだ。
「ありがとう八戒!着替える!」
声を跳ねさせ深々と一礼。
そして、きょろきょろと辺りを見渡す。
「おい」
いつの間に取り出したのか、三蔵が投げて寄越した新しい衣を受け取ると帯に手をかけ、
「あ、違う。だめ」
ぽつり言って再び辺りを物色する。
そして目に止まった大樹に、
「着替えてくる」
言い残し、駆け出していった。
大樹の影に隠れた名無子から視線を戻し、
「……三蔵?」
圧のあるオーラを三蔵に差し向けた八戒。
それを察したのか、
「あれは、先代の法衣だ」
と、短い一言を返す。
八戒であれば、それだけ言えば
「……そういうことですか…じゃあ、やれるだけやってみますよ」
溜息混じりにも折れざるを得ないとわかっていたから。
「先代って、三蔵のお師匠様?」
「あぁ」
「……やっぱ名無子ちゃんとデキて―――ッッいって!!」
脊椎目掛けて繰り出された三蔵の拳に悟浄が悲鳴を上げた。
「名無子ー。そちらは見ないようにするので川で身体も洗ってらっしゃい」
「わかったー」
「エロ河童は見張っとくから任せろ!」
「なんだ?クソ猿。そりゃフリか?」
「見張るより沈めた方が早そうだな」
「名無子ー。悟浄は三蔵が沈めとくそうなので安心してくださいー」
「わかったー」
「ちょ!沈められなくても覗かねーから!名無子ちゃん!?」
名無子に背を向けたまま交わされる日常が川面を揺らしていた。
「―――そんで?」
各々着替えと水浴びを済ませ漸く一息。
煙を吐いている三蔵に悟空が置き去りになっていた続きを促した。
「こいつが爆発に巻き込まれたが無事だった。後は知っての通りだ」
視線の先、隣でジープを膝に乗せ寛いでいる名無子がうんと頷く。
「お前、説明する気ねーだろ…」
ぽかんと口を開けた悟空の横で、呆れたように悟浄が言うが三蔵は何処吹く風。
仕方無しに八戒が苦笑いで話を引き取る。
「一番無防備になるだろう時間に、三蔵の部屋に爆弾を投げ込んで殺す算段だったんでしょう。
しかし何故か三蔵は難を逃れ、代わりに名無子が被害に遭ったと、そんなところでしょうか?」
「……何故か??」
今度ばかりは三蔵も無視を決め込むことはしなかった。
「ちょうどその時俺は洗面所にいた。扉一枚隔てて、な。
爆弾は恐らく窓から投げ込まれたんだろう。直前にガラスが割れる音がしたからな」
「それで部屋に一人でいた名無子ちゃんが……」
隣で眉間を曇らせた悟浄の視線に気付いた名無子からは、
「三蔵がいないときで良かった」
一片の陰りもない、無垢な笑みが返された。
思わず悟浄の腕が伸び、名無子の身体を引き寄せる。
「全然良くねぇって、マジで…」
「悟浄?」
腕の中、不思議そうに見上げる瞳が悟浄の胸の奥を引っ掻いた。
悟浄のその行動を誰も表立って咎めなかったのは、似たような想いを抱いていたから。
『 "其"は、不死である 』
恐らくその言葉は事実なのだろう。
何が起きたのか、実際に目にしていたのは三蔵と八戒だけだったが、穴の空いた血染めの法衣から覗いていた傷一つない真白な肌を、何事もなかったかのように笑う名無子を、悟浄も悟空も見ていた。
「それでも」
奥歯を噛み締めていた悟空が口を開く。
「ごめんな、名無子。痛かったよな」
守らなくていいと、死なないからと、そう言われたことも覚えている。
惨事を引き起こしたのは自分達ではなく敵の妖怪であることも理解している。
しかし理屈ではなかった。
心からの謝罪の言葉を口にする悟空に、黙って頭を撫でる悟浄の優しい手に、名無子は返す言葉が見付からなかった。
「名無子」
声を掛けたのは八戒だった。
「貴女が本当に不死身なのはわかりました。
ですが見ての通り、僕も含め貴方を危険に晒すことは本意ではありません。
今回は避けようのないことでしたが、これからは極力、自分の身も守ってくださいね」
真摯な声に、名無子はわかったとこくり頷く。
三人が安堵に頬を緩めた一方で。
名無子が、自身の身を呈して守ったもの。唯一人それを知っている三蔵の胸中は決して穏やかではなかった。
罪悪感からではない。
守るべき経文がなかったとしても、同じ結果になっていたことは明らかだ。
名無子が怪我を負うことにしても同行を認めた時点で可能性は織り込み済みのはず。
悟空のように、純粋な憐憫故とも思えない。
では何故―――
出口の見えない思索の迷路から引き戻したのは
「マジで!!?」
耳に響いた悟空の声だった。
「……何がだ」
一人何やら思い耽っていると思ったがやはり聞いていなかったかと呆れつつも八戒が話を差し戻す。
「あの雨を降らせたのが名無子じゃないかって話です」
「あぁ…」
視線を右に落とせば、悟浄に肩を抱かれたままの名無子と目が合った。
「…また間違えた?」
不安の影が過った名無子を、三蔵よりも早く八戒が宥める。
「いいえ、間違っていませんよ。でもどうやったかは……」
「わかんない」
「ですよねぇ」
あははと笑い、八戒は思考を浅瀬に留めることにした。
「治癒能力に天候操作ですか…名無子は凄いですねぇ」
「いや凄いで済む話か?孫褒める爺様じゃねーんだから…」
達観したのか縁側で茶でも啜りながらのような暢気な感想に呆れる悟浄。
「しかし、名無子に潜在する力はやはりその場になってみないとわからない感じですかね」
「うん。考えれば、できるかできないかくらいはわかる」
「身を守る術はないって言ってたよな。それ以外だと……」
「もしかして怪我も治せたりします?」
「……だめ」
「じゃあ何か食いもん出せたりとかは!?」
期待に満ちた瞳と鳴り響いた腹の虫に、
「ごめん無理」
名無子が苦笑いで答えた。
「缶詰なら多少ありますよ」
「やたー!食おうぜ名無子!」
「そういや朝飯もまだだったしな。流石に俺も腹減ったわ」
八戒が取り出した缶詰に、皆思い思い手を伸ばす中。
「私の分は悟空が食べて。私は食べなくても大丈―――」
名無子が固辞しかけたが、言うが早いか、悟空が缶詰を名無子に押し付けた。
「一人で腹一杯食うより、量は減っても一緒に食った方が美味いじゃん!」
「一緒に…」
「昨日俺らと一緒に食った飯、美味くなかった?」
問われ、即答。
「美味しかった。すごく」
「な?だから、一緒に食おうぜ!」
歯を見せ朗らかに笑う悟空に、名無子が頷く。
笑みを交わす二人を、微笑ましそうに見守る八戒が安堵の息を零した。
「僕らの"普通"に無理に合わせる必要はありませんが、もしそれが遠慮であれば不要ですよ。
遠慮なんて言葉、僕達には無縁ですから」
「どうせお前の分食った程度ではこいつの腹は満たされん。気にせず食え」
「いやそーだけど!名無子の分まで食ったりしねーよ!食うなら悟浄の分食うし」
「誰がやるか!その辺の草でも食ってろ!猿は雑食だろうが」
「苦くなくて美味い草なら食ってもいい」
「…無駄にグルメだな」
和気藹々と質素なブランチ、そして小休憩を挟み、いつもなら再び出発となるところだが、
「それで、三蔵。今日はこのままここで休みませんか?どうせ今日は野宿になりますし、あとこれ―――」
言って、八戒が指し示したのは先程名無子に託された法衣。
「血液汚れは時間が経つと落ちなくなっちゃうので」
引き受けた手前―――というのは建前かもしれない。
爆発をもろに受け、誰がどう見ても捨てた方が早いような法衣、その修繕という高難度ミッションを前に、家事の鬼の血が騒いだのだ。
それを指示した本人が拒むはずもない。
「あぁ。これも頼む」
承諾し、名無子の血に塗れた自身の法衣をついでとばかりに八戒へ押し付けた。
悟浄と悟空がニ着の法衣を覗き込む。
「改めて見るとかなりの出血量だな…」
「もういっそ全部赤く染めた方が早い気もしますねぇ」
爽やかな笑みが紡いだ冗談に、少なからず本気の色が潜んでいるように思えて
「お前な……やるなよ、マジで」
三蔵が呆れながらも念を押す。
「血塗れの真っ赤な法衣を着て銃ぶっ放す坊主って、もう怪談のレベルだろ」
「それやべぇ。怖ぇ」
「何ならお前らも染めてやろうか?」
「「遠慮しまーす」」
向けられた銃口とハンズアップ。
お約束の展開を横目に、八戒は立ち上がり川へと向かった。
「八戒、私も手伝う」
「ありがとうございます。とりあえず大丈夫ですよ。暫くの間川の流れに晒しておきましょう」
「血、落ちるかな」
「大根でもあれば良かったんですけどねぇ」
ライフハックに、と言うよりも食材、名に悟空が反応する。
「大根で血落ちんの?」
「えぇ。カブとかレモンでも良いです」
「探してくる!ついでに食い物も!」
「食い物がメインじゃねーの?んじゃ俺は薪でも集めて来るかね」
「なんかそんな話あったよな。お婆さんは川へ洗濯へ、お爺さんは山へ芝刈りにって」
「誰がお爺さんだ。どんぶらこしてきたらお前中身まで食っちまいそうだな」
「中身は食わねーよ!あれ種の中に入ってんだろ?」
「種の代わりに、じゃねぇの?つか食わねぇ理由そっちかよ」
言い合いながら林の奥に向かった二人の背に、
「……桃…?」
小首を傾げ、名無子が独り言ちた。
「おい」
無愛想な呼び声に振り向くと、三蔵が手招きしている。
名無子は呼ばれるままに歩み寄り、三蔵の隣へと腰を下ろした。
幾度か、煙が宙に溶けていくのを眺めて暫く、
「―――助かった。礼を言う」
ぽつり、発せられた言葉に
「お礼??」
疑問符を添えて繰り返す。
「…経文。お前のお陰で被害を免れた」
言われ、あぁ、と。
今朝方、窓を割って飛び込んできた掌に収まるサイズの黒い塊。
導火線の先端で弾ける火花を目にした瞬間、反射的に枕の下の経文と昇霊銃を胸に抱いた。
名無子にとってはただそれだけのことで、三蔵からのその言葉は思いがけないものであったが、
「三蔵の大事なもの、守れて良かった」
素直にその心を音にして笑う。
その響きは、笑みは、どちらに向けられたものだっただろうか。
つきん、と、三蔵の胸に針で突かれたような痛みが奔った。
(まただ……一体何だってんだ…)
眉間を僅かに曇らせた三蔵に、名無子は気付くことなく微笑みを湛えている。
「嬉しい。できることがあって本当に良かった」
顔を綻ばせ言って、続いた微かな声。
「……まだ、一緒にいていいかな」
「……」
胸中のざわめきに掻き消されそうになった違和感を掬い上げ、
「おい―――」
三蔵が発した声は
「名無子ー、ちょっと手伝ってもらえますか?」
八戒の呼び声によって届くことなく霧散した。
「はーい」
立ち上がり駆けて行く名無子の背に、三蔵は小さく息を零していた。
「そうだな。適当な場所で停めろ」
村から数時間、河岸のやや開けた場所で、八戒はジープを停めた。
名無子を抱えたまま三蔵がジープから足を降ろすと、その振動で名無子が微かに眉を寄せ、
「ん……」
ゆるゆると開かれた灰銀が宙を彷徨い、そして三蔵を捉えた。
「気が付いたか」
「三蔵……」
安堵に細められた瞳はほんの僅かだったが、八戒は目敏くもそれを見逃さず、
「そんな顔もできるんですねぇ…」
決して本人には聞こえぬよう、口の中で小さく呟いた。
「ピィ!」
三蔵が地に降りた瞬間を見計らっていたかのように変化を解いたジープが名無子に飛びついた。
と、同時。
後部座席で惰眠を貪っていた二人が地面に放り出され悲鳴を上げる。
「いでっっ!!」
「うおっ!?なんだ!!?」
何事かと覚醒しきらない頭で周囲を見渡すが、その視線を受け取ったのは八戒の苦笑だけ。
つい先ほどまで腰を下ろしていたはずの車体は、白い竜となって名無子の周りを羽ばたいている。
「おはようジープ」
名無子の挨拶に嬉しそうに一鳴き、名無子の懐に羽を落ち着かせた。
自らの腕の中、ジープを抱き顔を綻ばせる名無子に、三蔵は小さく息を吐くと
「……立てるなら降りろ」
言葉面、吐き捨てるように言った三蔵だったが、
(((なんか……気持ち悪っ…)))
正体の掴めぬ違和感に、心中声を上げた三人。
「ごめん。もう大丈夫」
ジープを抱いたまま慌てたように三蔵の腕から離れると、再び視線は腕の中へ。
「ジープ『も』名無子のこと随分心配してたみたいですねぇ」
心做しか強調された一文字に、悟浄が逸早く口の端をにやりと上げ、三蔵がぴくり片眉を跳ねさせた。
「つーかさ、結局、何があって二人共そんな血塗れなん?名無子、服ボロボロだしさ」
普段とは何処か様子の違う三蔵にらしくもなく気を遣い、口を噤んでいた悟空が今更ながらに尋ねる。
「あー、それはですね―――」
そう言えばと苦笑い、八戒が答えを返そうとしたのと同時、
「!!」
はっと目を見開き、自身の背に顔を向けた名無子。
慌てた様子でぺたぺたと身体を触り、脇腹、手の届く背面とを確認する。
指先に、ざらりとした布の感触。焼け焦げ、大きく破れ穴が空いた法衣。
忽ちに泣き出しそうな顔で俯いた。
「名無子ちゃん?」
訳が分からず、悟浄が名無子の顔を覗き込む。
「服…ぼろぼろ……」
その呟きに問い返すよりもこちらに聞いた方が早そうだと思ったのか、何となく、理由を知っていそうな三蔵に視線が集まった。
俺を見るなと言わんばかりの表情が三蔵の顔を過ったが、すぐに溜息一つ。
「おい」
呼べば、潤んだ銀が顔を上げた。
「とりあえず、身体洗って昨日買った服に着替えろ。法衣は……八戒。後で繕ってやれ」
「僕ですか!?」
突然の流れ弾に思わず声を上げる。
「ですがここまで損傷が酷いと…」
言いかけたところで駆け寄ってきた名無子が縋るように八戒を見上げた。
「八戒、直せる…?」
果たしてこの状況でNOと答えられる者がいるだろうかと八戒は思った。
不安と期待とが入り交じる、清純な眼差しに
「………できる限りやってみます。が、あまり期待しないでくださいね」
苦笑し、そう念を押すのが精一杯だった。
名無子の顔が、雲間から陽が差し込むようにぱぁっと明るんだ。
「ありがとう八戒!着替える!」
声を跳ねさせ深々と一礼。
そして、きょろきょろと辺りを見渡す。
「おい」
いつの間に取り出したのか、三蔵が投げて寄越した新しい衣を受け取ると帯に手をかけ、
「あ、違う。だめ」
ぽつり言って再び辺りを物色する。
そして目に止まった大樹に、
「着替えてくる」
言い残し、駆け出していった。
大樹の影に隠れた名無子から視線を戻し、
「……三蔵?」
圧のあるオーラを三蔵に差し向けた八戒。
それを察したのか、
「あれは、先代の法衣だ」
と、短い一言を返す。
八戒であれば、それだけ言えば
「……そういうことですか…じゃあ、やれるだけやってみますよ」
溜息混じりにも折れざるを得ないとわかっていたから。
「先代って、三蔵のお師匠様?」
「あぁ」
「……やっぱ名無子ちゃんとデキて―――ッッいって!!」
脊椎目掛けて繰り出された三蔵の拳に悟浄が悲鳴を上げた。
「名無子ー。そちらは見ないようにするので川で身体も洗ってらっしゃい」
「わかったー」
「エロ河童は見張っとくから任せろ!」
「なんだ?クソ猿。そりゃフリか?」
「見張るより沈めた方が早そうだな」
「名無子ー。悟浄は三蔵が沈めとくそうなので安心してくださいー」
「わかったー」
「ちょ!沈められなくても覗かねーから!名無子ちゃん!?」
名無子に背を向けたまま交わされる日常が川面を揺らしていた。
「―――そんで?」
各々着替えと水浴びを済ませ漸く一息。
煙を吐いている三蔵に悟空が置き去りになっていた続きを促した。
「こいつが爆発に巻き込まれたが無事だった。後は知っての通りだ」
視線の先、隣でジープを膝に乗せ寛いでいる名無子がうんと頷く。
「お前、説明する気ねーだろ…」
ぽかんと口を開けた悟空の横で、呆れたように悟浄が言うが三蔵は何処吹く風。
仕方無しに八戒が苦笑いで話を引き取る。
「一番無防備になるだろう時間に、三蔵の部屋に爆弾を投げ込んで殺す算段だったんでしょう。
しかし何故か三蔵は難を逃れ、代わりに名無子が被害に遭ったと、そんなところでしょうか?」
「……何故か??」
今度ばかりは三蔵も無視を決め込むことはしなかった。
「ちょうどその時俺は洗面所にいた。扉一枚隔てて、な。
爆弾は恐らく窓から投げ込まれたんだろう。直前にガラスが割れる音がしたからな」
「それで部屋に一人でいた名無子ちゃんが……」
隣で眉間を曇らせた悟浄の視線に気付いた名無子からは、
「三蔵がいないときで良かった」
一片の陰りもない、無垢な笑みが返された。
思わず悟浄の腕が伸び、名無子の身体を引き寄せる。
「全然良くねぇって、マジで…」
「悟浄?」
腕の中、不思議そうに見上げる瞳が悟浄の胸の奥を引っ掻いた。
悟浄のその行動を誰も表立って咎めなかったのは、似たような想いを抱いていたから。
『 "其"は、不死である 』
恐らくその言葉は事実なのだろう。
何が起きたのか、実際に目にしていたのは三蔵と八戒だけだったが、穴の空いた血染めの法衣から覗いていた傷一つない真白な肌を、何事もなかったかのように笑う名無子を、悟浄も悟空も見ていた。
「それでも」
奥歯を噛み締めていた悟空が口を開く。
「ごめんな、名無子。痛かったよな」
守らなくていいと、死なないからと、そう言われたことも覚えている。
惨事を引き起こしたのは自分達ではなく敵の妖怪であることも理解している。
しかし理屈ではなかった。
心からの謝罪の言葉を口にする悟空に、黙って頭を撫でる悟浄の優しい手に、名無子は返す言葉が見付からなかった。
「名無子」
声を掛けたのは八戒だった。
「貴女が本当に不死身なのはわかりました。
ですが見ての通り、僕も含め貴方を危険に晒すことは本意ではありません。
今回は避けようのないことでしたが、これからは極力、自分の身も守ってくださいね」
真摯な声に、名無子はわかったとこくり頷く。
三人が安堵に頬を緩めた一方で。
名無子が、自身の身を呈して守ったもの。唯一人それを知っている三蔵の胸中は決して穏やかではなかった。
罪悪感からではない。
守るべき経文がなかったとしても、同じ結果になっていたことは明らかだ。
名無子が怪我を負うことにしても同行を認めた時点で可能性は織り込み済みのはず。
悟空のように、純粋な憐憫故とも思えない。
では何故―――
出口の見えない思索の迷路から引き戻したのは
「マジで!!?」
耳に響いた悟空の声だった。
「……何がだ」
一人何やら思い耽っていると思ったがやはり聞いていなかったかと呆れつつも八戒が話を差し戻す。
「あの雨を降らせたのが名無子じゃないかって話です」
「あぁ…」
視線を右に落とせば、悟浄に肩を抱かれたままの名無子と目が合った。
「…また間違えた?」
不安の影が過った名無子を、三蔵よりも早く八戒が宥める。
「いいえ、間違っていませんよ。でもどうやったかは……」
「わかんない」
「ですよねぇ」
あははと笑い、八戒は思考を浅瀬に留めることにした。
「治癒能力に天候操作ですか…名無子は凄いですねぇ」
「いや凄いで済む話か?孫褒める爺様じゃねーんだから…」
達観したのか縁側で茶でも啜りながらのような暢気な感想に呆れる悟浄。
「しかし、名無子に潜在する力はやはりその場になってみないとわからない感じですかね」
「うん。考えれば、できるかできないかくらいはわかる」
「身を守る術はないって言ってたよな。それ以外だと……」
「もしかして怪我も治せたりします?」
「……だめ」
「じゃあ何か食いもん出せたりとかは!?」
期待に満ちた瞳と鳴り響いた腹の虫に、
「ごめん無理」
名無子が苦笑いで答えた。
「缶詰なら多少ありますよ」
「やたー!食おうぜ名無子!」
「そういや朝飯もまだだったしな。流石に俺も腹減ったわ」
八戒が取り出した缶詰に、皆思い思い手を伸ばす中。
「私の分は悟空が食べて。私は食べなくても大丈―――」
名無子が固辞しかけたが、言うが早いか、悟空が缶詰を名無子に押し付けた。
「一人で腹一杯食うより、量は減っても一緒に食った方が美味いじゃん!」
「一緒に…」
「昨日俺らと一緒に食った飯、美味くなかった?」
問われ、即答。
「美味しかった。すごく」
「な?だから、一緒に食おうぜ!」
歯を見せ朗らかに笑う悟空に、名無子が頷く。
笑みを交わす二人を、微笑ましそうに見守る八戒が安堵の息を零した。
「僕らの"普通"に無理に合わせる必要はありませんが、もしそれが遠慮であれば不要ですよ。
遠慮なんて言葉、僕達には無縁ですから」
「どうせお前の分食った程度ではこいつの腹は満たされん。気にせず食え」
「いやそーだけど!名無子の分まで食ったりしねーよ!食うなら悟浄の分食うし」
「誰がやるか!その辺の草でも食ってろ!猿は雑食だろうが」
「苦くなくて美味い草なら食ってもいい」
「…無駄にグルメだな」
和気藹々と質素なブランチ、そして小休憩を挟み、いつもなら再び出発となるところだが、
「それで、三蔵。今日はこのままここで休みませんか?どうせ今日は野宿になりますし、あとこれ―――」
言って、八戒が指し示したのは先程名無子に託された法衣。
「血液汚れは時間が経つと落ちなくなっちゃうので」
引き受けた手前―――というのは建前かもしれない。
爆発をもろに受け、誰がどう見ても捨てた方が早いような法衣、その修繕という高難度ミッションを前に、家事の鬼の血が騒いだのだ。
それを指示した本人が拒むはずもない。
「あぁ。これも頼む」
承諾し、名無子の血に塗れた自身の法衣をついでとばかりに八戒へ押し付けた。
悟浄と悟空がニ着の法衣を覗き込む。
「改めて見るとかなりの出血量だな…」
「もういっそ全部赤く染めた方が早い気もしますねぇ」
爽やかな笑みが紡いだ冗談に、少なからず本気の色が潜んでいるように思えて
「お前な……やるなよ、マジで」
三蔵が呆れながらも念を押す。
「血塗れの真っ赤な法衣を着て銃ぶっ放す坊主って、もう怪談のレベルだろ」
「それやべぇ。怖ぇ」
「何ならお前らも染めてやろうか?」
「「遠慮しまーす」」
向けられた銃口とハンズアップ。
お約束の展開を横目に、八戒は立ち上がり川へと向かった。
「八戒、私も手伝う」
「ありがとうございます。とりあえず大丈夫ですよ。暫くの間川の流れに晒しておきましょう」
「血、落ちるかな」
「大根でもあれば良かったんですけどねぇ」
ライフハックに、と言うよりも食材、名に悟空が反応する。
「大根で血落ちんの?」
「えぇ。カブとかレモンでも良いです」
「探してくる!ついでに食い物も!」
「食い物がメインじゃねーの?んじゃ俺は薪でも集めて来るかね」
「なんかそんな話あったよな。お婆さんは川へ洗濯へ、お爺さんは山へ芝刈りにって」
「誰がお爺さんだ。どんぶらこしてきたらお前中身まで食っちまいそうだな」
「中身は食わねーよ!あれ種の中に入ってんだろ?」
「種の代わりに、じゃねぇの?つか食わねぇ理由そっちかよ」
言い合いながら林の奥に向かった二人の背に、
「……桃…?」
小首を傾げ、名無子が独り言ちた。
「おい」
無愛想な呼び声に振り向くと、三蔵が手招きしている。
名無子は呼ばれるままに歩み寄り、三蔵の隣へと腰を下ろした。
幾度か、煙が宙に溶けていくのを眺めて暫く、
「―――助かった。礼を言う」
ぽつり、発せられた言葉に
「お礼??」
疑問符を添えて繰り返す。
「…経文。お前のお陰で被害を免れた」
言われ、あぁ、と。
今朝方、窓を割って飛び込んできた掌に収まるサイズの黒い塊。
導火線の先端で弾ける火花を目にした瞬間、反射的に枕の下の経文と昇霊銃を胸に抱いた。
名無子にとってはただそれだけのことで、三蔵からのその言葉は思いがけないものであったが、
「三蔵の大事なもの、守れて良かった」
素直にその心を音にして笑う。
その響きは、笑みは、どちらに向けられたものだっただろうか。
つきん、と、三蔵の胸に針で突かれたような痛みが奔った。
(まただ……一体何だってんだ…)
眉間を僅かに曇らせた三蔵に、名無子は気付くことなく微笑みを湛えている。
「嬉しい。できることがあって本当に良かった」
顔を綻ばせ言って、続いた微かな声。
「……まだ、一緒にいていいかな」
「……」
胸中のざわめきに掻き消されそうになった違和感を掬い上げ、
「おい―――」
三蔵が発した声は
「名無子ー、ちょっと手伝ってもらえますか?」
八戒の呼び声によって届くことなく霧散した。
「はーい」
立ち上がり駆けて行く名無子の背に、三蔵は小さく息を零していた。