第一章
貴女のお名前は?
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出立を翌日に控え、早めの就寝となったその日の夜。
三蔵がどうにも寝付けずにいたのは、時間が早いせいでも、午睡のせいでもなかった。
三蔵が背を向けている窓辺、昨晩と同じ場所で椅子に座り、窓から通りを見下ろしている名無子。
おやすみと言ったきり、息を殺しているかのように物音一つ立てずにいるその存在を、意識から追い遣れずにいた
『 寝なくても大丈夫 』
なら、好きにすればいいさ
『 お姉さんになってあげってって 』
せめて妹だろうが、どう見ても
『 其はやがて消える 』
そう、それまでやり過ごせばいい
『 血の繋がりなんかなくても、家族にはなれますから 』
家族なんかいりません、お師匠様
『 ありがとう、三蔵 』
――――――
静寂が駆り立てる、無為空疎な思考。
やがて三蔵は諦観したかのように細く息を吐き出した。
「おい」
言葉を、絞り出す。
「ベッド、半分貸してやる。さっさと寝ろ」
ベッドの中央から端に身体をずらし、耳障りな音を奏でる心臓に眉根を寄せつつ背後の気配の反応を待つ。
「……いいの?」
「…二度は言わん」
暫くして、僅かにベッドが背中側に沈んだ。
「眠れんならそれでもいい。目を閉じて横になってろ」
騒ぐ胸の内を悟られぬよう、努めて平常を装い言う。
「…うん」
目を閉じ、心頭滅却。
嘗て―――恐らく今でも、退屈で苦行でしかないはずの集会を思い返しながら邪念を押し鎮める。
「三蔵」
静黙を途切れさせたその声に、心臓が再び目を覚ました。
「少しだけ、傍に寄ってもいい?」
遠慮がちに紡がれた言の葉に、
「……好きにしろ」
と、身動ぎ一つせず返す。
謝辞が送られ、背中にほんの僅か、触れた温もり。
まるで全身の神経がそこに集中したかのようだった。
熱が、鼓動に乗って全身を駆け巡る。
その煩わしさに眉を顰めるも、三蔵は離れろとは言わなかった。
自身の胸の奥、湧き上がる見覚えのない感情を持て余したまま、いつしか意識は微睡みの中に溶けていった。
夜の闇が滲み始める頃、晨鶏よりも早く三蔵は瞼を開いた。
背後の温もりからそっと離れ、身を起こす。
微かな吐息と安らかな寝顔に視線を落とすと、ベッドを揺らさぬよう静かに立ち上がり、洗面所へと向かった。
顔を洗い、鏡を見る。
寝起きにお決まりの眉間の皺も、半ばまでしか開いていない瞼もなく、
やけに解けた顔をしていると、自嘲と困惑の息を鏡の中の自分にぶつける。
パリン
不意に、背後でガラスが割れるような音がした。
一瞬で走った緊張感。
洗面所のドアノブに手をかけた瞬間―――
耳を劈く爆発音と建物を大きく揺らした衝撃、肌を刺す熱風に三蔵は反射的に身を屈めた。
耳鳴りが不吉を告げるサイレンかのように鳴り響く。
煙り、不明瞭な視界を、目を細め凝らす。
鼻を刺激する火薬の匂い。
辛うじてそこに留まってはいるものの、斜めに外れ穴の空いたドア。
その隙間から見える真っ赤な炎。
「名無子」
三蔵の口から零れたその名は、その渦中にいるはずの女の名前だった。
"其"は死なない。
観音に押し付けられただけのただの足手纏い。
何の意味もなさない得体の知れない女。
師の縁だとしても、俺には関係ない。
そのはずなのに。
わかっているのに。
耳鳴りで音が消えた鼓膜に、心音だけが銅鑼の音のように喧しく響く。
急激に視界が狭まり、全身の血が凍てついたような感覚を覚えた。
思考よりも早く三蔵の体は床を踏み、ドアを強かに蹴り破った。
口元を袂で覆い、煙の染みる目を顰め、部屋を確認する。
異臭も熱も増した室内は瓦礫が散乱し、あちこちから炎が上がっている。
それらを避け、足元を確認しながら慎重に進む。
洗面所に近い、二晩使われていなかったベッドは一部炎に覆われ、置かれていた荷物の上に木やガラスの破片が積もっている。
その奥で床が、途切れた。
そこは、つい先程まで自身が、そして名無子が寝ていたベッドがあったはずの場所だった。
吹き込む風が視界を晴らし、炎に照らされる。
窓があった壁はすっかりなくなり、床は半分程が階下に崩れ落ちている。
天井も窓に近い部分が抉られ、暁の空が赤く染まっていた。
そこに飛び込んできた一つの影。
見るまでもない、機知の気配だった。
尖った耳、首から顔にかけて浮かぶ文様。
音のない世界で、一匹の妖怪と三蔵の瞳がかち合う。
三蔵の姿を捉えた妖怪は驚いたように目を見開き、何事かを叫ぶように口を動かすと手に持っていた剣を振り翳し飛び掛かってきた。
ひらり身を躱し、妖怪の鳩尾を目一杯に蹴り飛ばす。
妖怪の姿が崩れた床に落ちて視界から消えた。
銃は、ない。
しかし、想定される場所にそれがあるのならば。
呪を唱え、魔戒天浄を発する。
崩れ落ちた階下から経文が立ち上る。
妖怪の悲鳴が三蔵の鼓膜を微かに揺らした。
背後で破られたドアから無事を問う八戒の声が響くも振り向くことなく瓦礫を踏み、崩壊した床を階下へと下る。
途中何度も瓦礫に足を取られ、炎が法衣を、金糸を焦がすのも構わず足を進め、収束した経文の根を辿った。
瓦礫を掻き分ける手に滲んだ血も、痛みも、荒い呼吸も、けたたましく鳴る心音も、三蔵の妨げにはならなかった。
やがて、その目に飛び込んできたのは見覚えのある銀色と、炎よりも鮮やかな、赤。
三蔵は息を飲んだ。
延焼し立ち上る炎も、崩れ落ちる瓦礫の音も、誰かの悲鳴も、遠く霞む。
血染めの見知った法衣に甦る、あの夜―――
何かを抱き抱えるような体勢で瓦礫に埋もれていた名無子の法衣は炎に焦がされ、そして背部を中心に真っ赤に染め上げられていた。
「名無子!!」
「さん……ぞ……」
抱き起こしたその手に触れた、生温い液体の感触。
肉が抉られ、白い骨を覗かせる複数の傷。
口から漏れる異様な喘鳴。
そして肋骨付近、深く突き刺さった木片は、それを抜くことすら許さず。
三蔵の眉間の刻印が一層深まる。
「三蔵…だいじょ…ぶ…?」
「喋るな。俺は大丈夫だ」
掠れた声が呼んだ名に、自らを省みない不相応な憂慮に、そして、
「やっと……呼んでくれた……なま…え…」
弱々しくも腕を上げると指先で三蔵の頬に触れ、痛みに顰む顔が成した微笑に、三蔵は奥歯を噛み締めた。
「嬉しい…」
名無子が消え入りそうな声で呟く。
もう片方の腕の中には銀色の小銃と、今し方妖怪を滅した一本の巻物が抱かれていた。
爆発の衝撃、炎から身を挺して守り抜かれたであろうそれらは、僅かな傷みもなく。
沸き立つ怒りにも似た感情を抑え、三蔵は経文を取り肩に掛けると、そっと、しかし確りと守人の身を抱き抱えた。
瓦礫の山を降り、火の手を避けて声を振り絞る。
「八戒!!」
悲痛な声に、直ぐにその名の主が駆けつけた。
爆発の直後、隣室で飛び起きた八戒は直様状況を把握。
悟空と悟浄に宿泊客らの避難と、辺りに満ちた気配から恐らく襲撃してきたであろう妖怪に気を付けるよう言付け、三蔵達の部屋へと向かった。
傾いたドアを気功砲で吹き飛ばすと、目に飛び込んできたのは半壊した部屋と、炎の中佇む三蔵の背中だった。
声を掛けるも、振り返ることなく吹き飛んだ部屋の外へと身を躍らせた三蔵を追う。
見下ろした階下、通りには逃げ惑う人々と、妖怪の群れと刃を交わす悟空、悟浄の姿があった。
宿から上がった火の手は既に隣の建物まで燃え広がっている。
住民達に避難と消火を促すと共に襲いかかってくる妖怪を退けつつ、未だその姿を確認できていないもう一人に思いを巡らせていると、響いた、自らを名指しで呼ぶ声。
八戒は予想の範囲内、できれば起こり得ないでほしいと願っていた可能性の一つに息を呑んだ。
声のした方へ足を急がせれば、宿から少し離れた木々の奥に見慣れた金糸を捉えた。
「三蔵!」
駆け寄った八戒の視界に飛び込んできたのは、赤に染まった法衣が二つ。
三蔵と、その腕の中、力なく抱かれた名無子の姿だった。
名無子の肺を深々と貫く木片に八戒が目を見開く。
「抜くと同時に止血を頼む」
三蔵の声が僅かに震えた気がしたのは気のせいか。
固く名無子の手を握る三蔵に、八戒は、はい、とだけ短く答え、その側に腰を屈めて手を翳した。
三蔵が素早く最小限の所作で木片を抜けば、吹き上げた血が三蔵の頬を濡らした。
名無子の顔が苦しげに歪められ、噛みしめた口の端から血が溢れ出す。
ふと、八戒の手に触れた冷たい指。
「だい……じょぶ……」
「名無子、黙ってろ」
三蔵が声を厳しく諫めるも、まるで届いていないかのように言葉を続ける。
「治さな……て…いい……」
「三蔵!これ……!!」
八戒が上げた声。追うように目を向ければ、肉を見せ血を流していた傷が見る見るうちに口を閉じていく。
「火……消す……」
名無子が独り言のように呟いた。
視線だけを動かし、光を内包した銀眼が天を見据える。
時が止まってしまったかのような長い長い数秒。
名無子の頬に落ちた一滴の滴。
すっと力尽きたように瞼を閉じた名無子と、ただ見守ることしかできずにいた三蔵達に降り注いだのは大粒の雨。
「火が……」
曙景を白く染める叢雨が燃え盛る火柱を飲み込み、辺りを闇へと帰していく。
既に、そこにあったはずの傷口は跡形もない。
今確かに目の当たりにしたはずの現実すらも霞んでいくようで、三蔵は腕の中意識を失くした名無子をただきつく抱き締めていた。
「あ、いた!―――名無子!?」
「おい!!何があった!?」
雨が止み、散った雲が朝日に照らされた頃、現れた悟浄、悟空は三蔵の腕に抱かれた名無子に気付くと、血の気の引いた顔でその足を早め駆け寄って来た。
「大丈夫ですよ。それより、他の方々は無事ですか?」
普段通りの落ち着いた口調で返す八戒と、真っ白な法衣を赤く染めた三蔵と名無子。
「大丈夫って……」
「気を失っているだけですから。心配いりません」
そのコントラストに疑義はあったものの、一先ず八戒の言葉を信じることにして、悟浄は頭を掻きながら口を開いた。
「街の連中は…まぁ、無事は無事なんだけどよ……」
その歯切れの悪さに三蔵の眉が上がる。
「けど、なんだ。さっさと言え」
「何かあったんですか?」
悟浄は、陰りを帯びて俯いた悟空をちらりと見遣ると、嘆息混じりに言葉を繋げた。
「一言で言うと『さっさと出てけ』って感じ?妖怪共が俺達名指しで襲ってきてんのに気付いたみたいでな。
完全にびびっちまって、火も消えたことだし今度は俺らを追い出そう、と」
「あー。なるほど……」
「俺さっき石投げられた…」
悟空が萎れ眉で呟く。
これが初めてではない。
だが、何度同じ目にあっても慣れることはなく。
いつものように、誰かの口から漏れた諦めの嘆息。
「とりあえず、宿から荷物を回収してきてもらえますか?僕、車回しておきますので」
八戒の声にピィと応え、ジープが車へと姿を変えた。
「りょーかい。行くぞ悟空」
「へーい…」
「俺の部屋からも回収してこい」
「??三蔵は行かねーの?」
答えることなく、三蔵はジープの定位置へと乗り込むと、煙草に火を着けた。
三蔵と、その腕に抱かれたままの名無子に物言いたげな視線が注がれるが、誰もその事に触れようとしない。
八戒は小さく苦笑し、二人の背を押すと車へと乗り込んだ。
荷物を回収し終えた一行は、朝日を背に再び走り出す。
「そう言えば宿代、お支払いしてないですねぇ」
「いいんじゃね?お望み通りさっと出てってやったわけで」
「買い出しもしてませんよ?」
「!!??じゃあ飯は!??次飯食える街着くのいつだ!?」
「2日位は野宿になりそうなので……現地調達ですね」
「だぁーーーー!!マジか!!」
「喧しい!お前の頭ン中には食うことしかねぇのか!!」
「朝っぱらから動いたら腹減ったー……三蔵、飯ー」
「俺は飯じゃねぇ」
暫くは助手席へ探るような視線が向けられていたが、それもいつしか解け。
ジープに流れる空気はいつもの日常。
唯一人、三蔵だけが晴れぬ胸の内を抱えていた。
三蔵がどうにも寝付けずにいたのは、時間が早いせいでも、午睡のせいでもなかった。
三蔵が背を向けている窓辺、昨晩と同じ場所で椅子に座り、窓から通りを見下ろしている名無子。
おやすみと言ったきり、息を殺しているかのように物音一つ立てずにいるその存在を、意識から追い遣れずにいた
『 寝なくても大丈夫 』
なら、好きにすればいいさ
『 お姉さんになってあげってって 』
せめて妹だろうが、どう見ても
『 其はやがて消える 』
そう、それまでやり過ごせばいい
『 血の繋がりなんかなくても、家族にはなれますから 』
家族なんかいりません、お師匠様
『 ありがとう、三蔵 』
――――――
静寂が駆り立てる、無為空疎な思考。
やがて三蔵は諦観したかのように細く息を吐き出した。
「おい」
言葉を、絞り出す。
「ベッド、半分貸してやる。さっさと寝ろ」
ベッドの中央から端に身体をずらし、耳障りな音を奏でる心臓に眉根を寄せつつ背後の気配の反応を待つ。
「……いいの?」
「…二度は言わん」
暫くして、僅かにベッドが背中側に沈んだ。
「眠れんならそれでもいい。目を閉じて横になってろ」
騒ぐ胸の内を悟られぬよう、努めて平常を装い言う。
「…うん」
目を閉じ、心頭滅却。
嘗て―――恐らく今でも、退屈で苦行でしかないはずの集会を思い返しながら邪念を押し鎮める。
「三蔵」
静黙を途切れさせたその声に、心臓が再び目を覚ました。
「少しだけ、傍に寄ってもいい?」
遠慮がちに紡がれた言の葉に、
「……好きにしろ」
と、身動ぎ一つせず返す。
謝辞が送られ、背中にほんの僅か、触れた温もり。
まるで全身の神経がそこに集中したかのようだった。
熱が、鼓動に乗って全身を駆け巡る。
その煩わしさに眉を顰めるも、三蔵は離れろとは言わなかった。
自身の胸の奥、湧き上がる見覚えのない感情を持て余したまま、いつしか意識は微睡みの中に溶けていった。
夜の闇が滲み始める頃、晨鶏よりも早く三蔵は瞼を開いた。
背後の温もりからそっと離れ、身を起こす。
微かな吐息と安らかな寝顔に視線を落とすと、ベッドを揺らさぬよう静かに立ち上がり、洗面所へと向かった。
顔を洗い、鏡を見る。
寝起きにお決まりの眉間の皺も、半ばまでしか開いていない瞼もなく、
やけに解けた顔をしていると、自嘲と困惑の息を鏡の中の自分にぶつける。
パリン
不意に、背後でガラスが割れるような音がした。
一瞬で走った緊張感。
洗面所のドアノブに手をかけた瞬間―――
耳を劈く爆発音と建物を大きく揺らした衝撃、肌を刺す熱風に三蔵は反射的に身を屈めた。
耳鳴りが不吉を告げるサイレンかのように鳴り響く。
煙り、不明瞭な視界を、目を細め凝らす。
鼻を刺激する火薬の匂い。
辛うじてそこに留まってはいるものの、斜めに外れ穴の空いたドア。
その隙間から見える真っ赤な炎。
「名無子」
三蔵の口から零れたその名は、その渦中にいるはずの女の名前だった。
"其"は死なない。
観音に押し付けられただけのただの足手纏い。
何の意味もなさない得体の知れない女。
師の縁だとしても、俺には関係ない。
そのはずなのに。
わかっているのに。
耳鳴りで音が消えた鼓膜に、心音だけが銅鑼の音のように喧しく響く。
急激に視界が狭まり、全身の血が凍てついたような感覚を覚えた。
思考よりも早く三蔵の体は床を踏み、ドアを強かに蹴り破った。
口元を袂で覆い、煙の染みる目を顰め、部屋を確認する。
異臭も熱も増した室内は瓦礫が散乱し、あちこちから炎が上がっている。
それらを避け、足元を確認しながら慎重に進む。
洗面所に近い、二晩使われていなかったベッドは一部炎に覆われ、置かれていた荷物の上に木やガラスの破片が積もっている。
その奥で床が、途切れた。
そこは、つい先程まで自身が、そして名無子が寝ていたベッドがあったはずの場所だった。
吹き込む風が視界を晴らし、炎に照らされる。
窓があった壁はすっかりなくなり、床は半分程が階下に崩れ落ちている。
天井も窓に近い部分が抉られ、暁の空が赤く染まっていた。
そこに飛び込んできた一つの影。
見るまでもない、機知の気配だった。
尖った耳、首から顔にかけて浮かぶ文様。
音のない世界で、一匹の妖怪と三蔵の瞳がかち合う。
三蔵の姿を捉えた妖怪は驚いたように目を見開き、何事かを叫ぶように口を動かすと手に持っていた剣を振り翳し飛び掛かってきた。
ひらり身を躱し、妖怪の鳩尾を目一杯に蹴り飛ばす。
妖怪の姿が崩れた床に落ちて視界から消えた。
銃は、ない。
しかし、想定される場所にそれがあるのならば。
呪を唱え、魔戒天浄を発する。
崩れ落ちた階下から経文が立ち上る。
妖怪の悲鳴が三蔵の鼓膜を微かに揺らした。
背後で破られたドアから無事を問う八戒の声が響くも振り向くことなく瓦礫を踏み、崩壊した床を階下へと下る。
途中何度も瓦礫に足を取られ、炎が法衣を、金糸を焦がすのも構わず足を進め、収束した経文の根を辿った。
瓦礫を掻き分ける手に滲んだ血も、痛みも、荒い呼吸も、けたたましく鳴る心音も、三蔵の妨げにはならなかった。
やがて、その目に飛び込んできたのは見覚えのある銀色と、炎よりも鮮やかな、赤。
三蔵は息を飲んだ。
延焼し立ち上る炎も、崩れ落ちる瓦礫の音も、誰かの悲鳴も、遠く霞む。
血染めの見知った法衣に甦る、あの夜―――
何かを抱き抱えるような体勢で瓦礫に埋もれていた名無子の法衣は炎に焦がされ、そして背部を中心に真っ赤に染め上げられていた。
「名無子!!」
「さん……ぞ……」
抱き起こしたその手に触れた、生温い液体の感触。
肉が抉られ、白い骨を覗かせる複数の傷。
口から漏れる異様な喘鳴。
そして肋骨付近、深く突き刺さった木片は、それを抜くことすら許さず。
三蔵の眉間の刻印が一層深まる。
「三蔵…だいじょ…ぶ…?」
「喋るな。俺は大丈夫だ」
掠れた声が呼んだ名に、自らを省みない不相応な憂慮に、そして、
「やっと……呼んでくれた……なま…え…」
弱々しくも腕を上げると指先で三蔵の頬に触れ、痛みに顰む顔が成した微笑に、三蔵は奥歯を噛み締めた。
「嬉しい…」
名無子が消え入りそうな声で呟く。
もう片方の腕の中には銀色の小銃と、今し方妖怪を滅した一本の巻物が抱かれていた。
爆発の衝撃、炎から身を挺して守り抜かれたであろうそれらは、僅かな傷みもなく。
沸き立つ怒りにも似た感情を抑え、三蔵は経文を取り肩に掛けると、そっと、しかし確りと守人の身を抱き抱えた。
瓦礫の山を降り、火の手を避けて声を振り絞る。
「八戒!!」
悲痛な声に、直ぐにその名の主が駆けつけた。
爆発の直後、隣室で飛び起きた八戒は直様状況を把握。
悟空と悟浄に宿泊客らの避難と、辺りに満ちた気配から恐らく襲撃してきたであろう妖怪に気を付けるよう言付け、三蔵達の部屋へと向かった。
傾いたドアを気功砲で吹き飛ばすと、目に飛び込んできたのは半壊した部屋と、炎の中佇む三蔵の背中だった。
声を掛けるも、振り返ることなく吹き飛んだ部屋の外へと身を躍らせた三蔵を追う。
見下ろした階下、通りには逃げ惑う人々と、妖怪の群れと刃を交わす悟空、悟浄の姿があった。
宿から上がった火の手は既に隣の建物まで燃え広がっている。
住民達に避難と消火を促すと共に襲いかかってくる妖怪を退けつつ、未だその姿を確認できていないもう一人に思いを巡らせていると、響いた、自らを名指しで呼ぶ声。
八戒は予想の範囲内、できれば起こり得ないでほしいと願っていた可能性の一つに息を呑んだ。
声のした方へ足を急がせれば、宿から少し離れた木々の奥に見慣れた金糸を捉えた。
「三蔵!」
駆け寄った八戒の視界に飛び込んできたのは、赤に染まった法衣が二つ。
三蔵と、その腕の中、力なく抱かれた名無子の姿だった。
名無子の肺を深々と貫く木片に八戒が目を見開く。
「抜くと同時に止血を頼む」
三蔵の声が僅かに震えた気がしたのは気のせいか。
固く名無子の手を握る三蔵に、八戒は、はい、とだけ短く答え、その側に腰を屈めて手を翳した。
三蔵が素早く最小限の所作で木片を抜けば、吹き上げた血が三蔵の頬を濡らした。
名無子の顔が苦しげに歪められ、噛みしめた口の端から血が溢れ出す。
ふと、八戒の手に触れた冷たい指。
「だい……じょぶ……」
「名無子、黙ってろ」
三蔵が声を厳しく諫めるも、まるで届いていないかのように言葉を続ける。
「治さな……て…いい……」
「三蔵!これ……!!」
八戒が上げた声。追うように目を向ければ、肉を見せ血を流していた傷が見る見るうちに口を閉じていく。
「火……消す……」
名無子が独り言のように呟いた。
視線だけを動かし、光を内包した銀眼が天を見据える。
時が止まってしまったかのような長い長い数秒。
名無子の頬に落ちた一滴の滴。
すっと力尽きたように瞼を閉じた名無子と、ただ見守ることしかできずにいた三蔵達に降り注いだのは大粒の雨。
「火が……」
曙景を白く染める叢雨が燃え盛る火柱を飲み込み、辺りを闇へと帰していく。
既に、そこにあったはずの傷口は跡形もない。
今確かに目の当たりにしたはずの現実すらも霞んでいくようで、三蔵は腕の中意識を失くした名無子をただきつく抱き締めていた。
「あ、いた!―――名無子!?」
「おい!!何があった!?」
雨が止み、散った雲が朝日に照らされた頃、現れた悟浄、悟空は三蔵の腕に抱かれた名無子に気付くと、血の気の引いた顔でその足を早め駆け寄って来た。
「大丈夫ですよ。それより、他の方々は無事ですか?」
普段通りの落ち着いた口調で返す八戒と、真っ白な法衣を赤く染めた三蔵と名無子。
「大丈夫って……」
「気を失っているだけですから。心配いりません」
そのコントラストに疑義はあったものの、一先ず八戒の言葉を信じることにして、悟浄は頭を掻きながら口を開いた。
「街の連中は…まぁ、無事は無事なんだけどよ……」
その歯切れの悪さに三蔵の眉が上がる。
「けど、なんだ。さっさと言え」
「何かあったんですか?」
悟浄は、陰りを帯びて俯いた悟空をちらりと見遣ると、嘆息混じりに言葉を繋げた。
「一言で言うと『さっさと出てけ』って感じ?妖怪共が俺達名指しで襲ってきてんのに気付いたみたいでな。
完全にびびっちまって、火も消えたことだし今度は俺らを追い出そう、と」
「あー。なるほど……」
「俺さっき石投げられた…」
悟空が萎れ眉で呟く。
これが初めてではない。
だが、何度同じ目にあっても慣れることはなく。
いつものように、誰かの口から漏れた諦めの嘆息。
「とりあえず、宿から荷物を回収してきてもらえますか?僕、車回しておきますので」
八戒の声にピィと応え、ジープが車へと姿を変えた。
「りょーかい。行くぞ悟空」
「へーい…」
「俺の部屋からも回収してこい」
「??三蔵は行かねーの?」
答えることなく、三蔵はジープの定位置へと乗り込むと、煙草に火を着けた。
三蔵と、その腕に抱かれたままの名無子に物言いたげな視線が注がれるが、誰もその事に触れようとしない。
八戒は小さく苦笑し、二人の背を押すと車へと乗り込んだ。
荷物を回収し終えた一行は、朝日を背に再び走り出す。
「そう言えば宿代、お支払いしてないですねぇ」
「いいんじゃね?お望み通りさっと出てってやったわけで」
「買い出しもしてませんよ?」
「!!??じゃあ飯は!??次飯食える街着くのいつだ!?」
「2日位は野宿になりそうなので……現地調達ですね」
「だぁーーーー!!マジか!!」
「喧しい!お前の頭ン中には食うことしかねぇのか!!」
「朝っぱらから動いたら腹減ったー……三蔵、飯ー」
「俺は飯じゃねぇ」
暫くは助手席へ探るような視線が向けられていたが、それもいつしか解け。
ジープに流れる空気はいつもの日常。
唯一人、三蔵だけが晴れぬ胸の内を抱えていた。