第一章
貴女のお名前は?
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"繋いだ"と、あいつはそう言った。
お師匠様と同じ色をした光だと。
それがどういう意味なのか―――俺には聞けなかった。
名無子を送り出して暫く。
ノックもなく開け放たれた扉から名無子が放り込まれ、悟空は騒がしく声を投げ直ぐに去って行った。
既に電気も消した部屋の中、ベッドに横たえていた身体を起こした三蔵が、眉を寄せ、扉の前にとり残された名無子に視線を向ける。
三蔵が何か言うまでもなく、
「こっちのベッドで寝ろって」
名無子がきょとんとした顔で説明を紡ぐ。
「どうせ寝ないから、寝床はいらないって言ったんだけど」
そう言いながら窓際に置かれていた椅子へ腰を下ろした。
「寝ない…?」
「睡眠は必要ない。です。寝方もまだよくわからないしそれに―――」
八戒達にしたのと同じ説明を繰り返し、そして途切れた言の葉。
ぼんやりと窓の外を見詰めるその瞳に何が映っているのだろうか。
ぽつり、まるで独り言のように続けた。
「前、初めて寝たとき、起きたら三蔵いなくなってたから」
あの時眠っていなかったら、三蔵と離れずに済んだのだろうか。
結果は同じだったかも知れない。それでも、そんな『もしも』が浮かんでは消える。
「別に何もしないから。気にしないで寝ていいよ」
視線もくれず呟いた名無子に
「……好きにしろ」
三蔵はそれ以上何も言うことなく、布団へと潜り込んだ。
上限の月が西に沈み、微かに聞こえていた夜街の喧騒も闇に溶けた頃。
三蔵の枕元に立つ人影があった。
気配を殺しているわけではない。
しかし、人よりもずっと過敏なはずの三蔵の警戒網は何の反応も示すことなく、仰向けに眼を閉じ、寝息を立てている。
三蔵の額に名無子が手を伸ばす。
額から10cmほどのところで手を止め、翳したままにその動きが止んだ。
静止画のような時間がどれほど流れ頃か―――
一滴の想いが、三蔵の布団を濡らした。
見覚えのある庭が、薄く、ベールを被せたように白を纏っている。
そう、あれは、少し早い初雪が降った日だった―――
夕刻の集会をサボり、舞い降りる淡雪を庭でぼんやり眺めていると、
不意に彼の人の声が聞こえた。
「いや〜、寒いですねぇ」
「!!?お師匠様!!」
一年ほど寺を空けていたお師匠様が金山寺へと戻ってきた。
「おかえりなさいませ。今着かれたのですか?」
「えぇ。ただいま、江流。いい子にしてましたか?今はサボり中みたいですけど」
「お師匠様を見習ったまでです」
「あはは。じゃあ仕方ありませんねぇ。はい、師匠似の可愛い弟子へお土産です」
お師匠様は相変わらずの調子で笑いながら小さな袋を手渡してきた。
中に入っていたのは色とりどりの飴玉。
「それしかないので、他の皆には内緒ですよ?」
いい年したおっさんのくせに、悪戯っ子のように人差し指を口元に当て笑う。
あぁ、帰ってきたんだ―――
そんなことを思いながら、自然と口元が緩んだ。
「本当はもっと良いお土産があったはずなんですが…」
ぽつり、師が零した言葉に首を傾げると、にこりと笑って
「貴方のお姉さんです」
と。
………意味がわからない。
訝しむ俺を他所に、お師匠様が言った。
「血の繋がりなんてなくても、家族にはなれますから」
「……それはどういう―――」
「―――っ!」
暁紅の夢は、不完全なままに三蔵を覚醒に導いた。
穏やかだったあの頃を夢に見るのはいつぶりだろうか。
深く息を吸い込み、逸る心音を宥め賺していると、
「おはよう」
「!!」
その声に飛び起きた。
小首を傾げ、女がこちらを見ている。
その女が誰であるか、昨夜の騒乱を思い出すのに数秒を、そして得体の知れない存在を同室に眠りこけた自身への呵責から立ち直るのに更に数秒を要した。
嘆息を一つ。
言葉もなく起き上がり、洗面所へと足を向ける。
未だ十分に血の回らない頭で、泡沫の夢と現を咀嚼していた。
扉越しの水音に紛れて、もう一方の扉から遠慮がちなノックの音が名無子の耳に届く。
「はい」
一声返事をし、部屋の扉を開けると朝に相応しい爽やかな笑みが待ち受けていた。
「おはようございます。物音が聞こえたので起きたかなぁと思って」
「おはよう。うん、三蔵が起きた。今顔洗ってる」
「三蔵が?こんな時間に?珍しいですね…」
時計の針はほぼ真下で重なっている。
普段ならば、低血圧な彼が起きているような時間では決してない。
まぁ、警戒心の強い三蔵のこと、碌に寝れなかったのだろうと想像しながら目前の人を慮る。
「名無子は眠れました?」
すると、名無子が首を横に振り、
「でも、大丈夫。何ともないから」
と、小さく笑って答えた。
残念ながら悟空の目論見は奏功しなかったようだ。
「そうですか……他に何か不都合はありませんでしたか?三蔵が嫌なこと言ってきたり顎でこき使ってきたり寝起きに機嫌悪くて八つ当たりされたりとか―――」
「お前は人を何だと思ってんだ」
妙に生き生きと例示を並べ立てていた八戒を、洗面所から出てきた三蔵が正に今不機嫌そうに窘めた。
「おはようございます三蔵。珍しく早起きですね」
八戒の攻防一体の笑顔に舌打ち、
「お前こそ、こんな時間に何の用だ」
速やかに本題へ。
「いえ、僕達も早く目が覚めてしまったので、名無子が起きているなら朝食に誘おうと思いまして。まさか三蔵まで起きているとは思いませんでしたが」
「……悟空も起きてんのか」
「はい。何なら一番早起きでしたよ?」
――
―――少し前、八戒が目を覚ますと既に身を起こし、布団の上で胡座をかいている悟空がいた。
「悟空…?どうしたんですか、こんな時間に」
通常であれば悟浄に足蹴にされでもして漸く目を覚ます悟空が
「あ、おはよう。なんか目ぇ覚めちゃって」
言いながら、ちらりと視線を奔らせた壁の向こう、気掛かりの正体に八戒は思い至る。
「名無子、大丈夫かなぁ。よく考えたら三蔵って初対面の女の人に優しくするようなタイプじゃないじゃん?同行させるのも嫌がってたし…
三蔵そもそも口悪いから、なんか嫌なこととか言われてなきゃ良いけど…」
睡眠をとったことで少し冷静になったのだろうか。
今更な不安に顔を曇らせている悟空を、八戒が笑った。
「名無子が追い返されてきてないってことは大丈夫なんじゃないですか。
まぁ、優しく…は期待できないですが、最低限大人な対応はしてると思いますよ?」
「意外と、オトコの対応してたりしてな」
隣のベッドから飛んできた軽薄な声に視線を向けると、薄目を開けた悟浄がにやりと口の端を上げた。
「ま実際、チェリーちゃんには無理だろうけど」
よっこいせと身を起こし、サイドボードに置かれた煙草に手を伸ばす悟浄に、八戒も悟空も呆れ顔。
「貴方は朝から通常運転ですねぇ…」
「いや俺もよ、よくよく考えてみりゃあの美人さんを野郎と二人だけの部屋で寝かすってどーなのよって思ってな。俺のベッドで寝かすのは却下されたのによ?」
「貴方の場合は明確に邪な目的があるからでしょう」
「そーだそーだエロ河童!」
「…お前らな。散々人をエロ河童だの何だと言いやがるけどよ―――」
悟浄が吸い込んだ煙草が、じり、と小さく音を立てた。
「男として、だ。エロいと言われるのと、同じ部屋で女と寝ても何も起きるわけがないと確信されてんのと、どっちがマシかっつー話よ」
男の矜持に関わる話と、身を乗り出し至極真剣な表情で言う。
「あー…それは……」
つい本気で考え込んでしまった八戒が答えを選択するより早く、
「つか何の話だよ…―――あ、今音した!」
悟空の鼓膜が、隣室から漏れてきた僅かな音を察知した。
「名無子起きたかな??」
「相変わらず獣じみた聴覚してんなぁ」
「様子見に行ってきましょうか。三蔵はどうせ寝てるでしょうけど、もし名無子が起きてたら朝ご飯に行きましょう」
「飯!!そう言えば腹減った!!」
「悟空が腹減ってるのに気付かないとか……天変地異の前触れか??」
「悟浄?変なフラグ立てるのやめてもらえますか…?」
「とりあえず見てこい八戒。万が一事に及んでたらマズイからこっそり行けよ!」
「悟浄……はぁ、もういいです。行ってきますよ…」
そんなこんなで、今に至るわけだが―――
「あの悟空が起きてんのか…雪でも降るんじゃねぇのか」
自分を棚に上げ、いけしゃあしゃ。
八戒はいつものことと軽く受け流し、話を戻す。
「貴方がそれを言いますか…―――で、どうします?朝食」
「あぁ―――行く」
歩を進め、部屋の外へ。
着いて来る気配のない背後を振り返り、おい、と名無子に声を掛ける。
「……私、ご飯いらないよ?」
無表情のまま返された言葉に、やはりか、と。
昨日の一件で耐性がついたのか、然程驚くでもなく、
「―――食えんわけじゃねぇんだろ。なら着いて来い」
言えば、
「わかった」
素直に答え、後に続いた。
肉、肉、米、魚、麺、肉、甘味、野菜、肉、甘味―――
これまでより一人増えて囲む円卓は、朝食と言うには多すぎる量で埋め尽くされていた。
「完全に頼みすぎましたね…」
「いいんじゃね?食いきれなくてもうちには優秀な残飯処理マシーンがあんだから」
「腹壊しても知らねぇぞ…」
初めての食事と聞き、ならばこれを、折角だからこれも、と、主に三人が注文を出していった結果だった。
「名無子。好きなもん食えよな!」
料理と名無子に気を取られ不名誉な二つ名を聞き逃した悟空が勧める。
「―――ずっとさ、飯、食ってなかったんだろう?」
不意に陰りを帯びた表情で問い掛けた悟空に、名無子が音無く頷く。
「腹、減ってね?」
「……よく、わからない」
その感覚は、四人の中で唯一悟空にしか理解できないものだった。
「―――俺もさ、ずっと岩牢で独りぼっちだったんだ。三蔵が出してくれたけどさ」
時間の感覚も曖昧になる程の久遠、たった一人、鎖に繋がれ続けた過去。
食べる物もなかったが、腹は空かなかった。
しかし今、回顧して甦るのは苦しさや寂しさではなく、牢を出て初めて空腹を感じた瞬間の喜びと、そして、三蔵と、皆で囲んだ暖かな食卓だった。
「出してもらった後さ、なんか妙に腹減ってたから、名無子もきっと腹減ってるって!」
にっと歯を見せて笑った悟空に、悟浄が苦笑しながら口を挟む。
「おいおい猿。お前と名無子ちゃんじゃそもそもの体が違ぇだろうが」
「うっせーなぁ、食べてみないとわかんないじゃん!とにかく食えって名無子。きっと美味いからさ!」
促され、頷いていただきます、と。
名無子の一挙一動を、箸を進めながら横目で見守る三人と、未だ箸も取らず食い入るように見守る悟空。
届けられたのは、
「……美味しい」
の一言だった。
ぱぁっと顔中に花を咲かせた悟空に、安堵の笑みを唇に乗せた八戒、悟浄と、
「食えるなら好きなもんさっさと食え。悟空に食われる前にな」
つっけんどんに言いながらも杏仁豆腐の器を押し遣る三蔵。
「食わねーよ!名無子のはな!さ、俺も食おう。いっただきまーす!」
「つか、前も言ったけど食う順番おかしくね?三蔵サマ。甘味は食後っしょ」
「どう食おうがお前に関係ねぇだろうが。それに、大体の女は甘味好きなもんじゃねぇのか」
「人によるんじゃないですか?まぁ朝っぱらから大量の唐揚げを食べさせられるよりはマシでしょうが」
「え、唐揚げって朝食うもんじゃねぇの??」
「量次第ですが、僕はせめて昼からですねぇ」
「朝は魚だろう」
「やっぱじじむせー…」
「何か言ったか」
「何でも良いけど銃だけはねーわ。ほら、名無子ちゃん、これも美味いぜ。食いな」
やいのやいのと賑やかな食卓に圧倒されつつも、名無子の顔は自然と綻ぶ。
「…嬉しい」
誰にも届かぬ声で小さく呟いた。
それから小一時間、
「もしかして、と思わなくはなかったんですけどね…」
「んだな…」
「やべぇ…」
八戒、悟浄、三蔵の口から零れた驚嘆の矛先は、
「ごちそーさまでした!!美味かったぁ!!」
いつもの大飯食らい―――ではなく、
「よく食ったなぁ、名無子ちゃん……」
いつの間にやら、悟空に匹敵する量を平らげた名無子に向けられていた。
「食べ過ぎた…?」
悟浄の言葉にはっとして、眉を顰め申し訳なさそうに見上げてきた名無子に、悟浄の口からぐぅと苦悶の声が漏れ、八戒が失笑する。
咳払いで平静を装い、悟浄は名無子の頭を撫でて言った。
「ぜーんぜん。二十年分、しっかり食いな」
「……悟浄さ、俺には、んなこと言ったことねーよなぁ」
「たりめーだろ。お前の食い方は正に猿並だからな。見ろこの違いを!」
悟浄の指先。
悟空の前の皿、名無子の前の皿、テーブルクロスの染みの数。
うーんと腕組みし、一言。
「―――なぁ、名無子。どうすりゃそんな綺麗に食えるんだ?」
「アホか。いつもいつもがっついて食うからそうなるんだろうが」
「だって!美味いんだからしょうがねーじゃん!!」
そんないつもの二人に構うことなく、
「これからは今まで以上に食料買い貯めしとかないといけませんねぇ」
苦笑混じりに零した八戒に、名無子の表情が再び曇る。
「八戒。私本当に食べなくても平気だから」
その言葉に八戒が慌てて口を開くよりも早く、
「気にするな。どうせ金出してるのは天界だ。どうせなら気が済むまで食って連中を破産させてやりゃいい」
三蔵が、煙草を咥え、ケースを握り潰しながら言い捨てるように。
「マジで!?やったー!!」
「お前には言ってねぇ…」
「三蔵サマやっさしー」
「喧しい!こっちだって迷惑被ってんだ。それくらいの補償はして当然だろうが」
「直接文句言う前にいなくなっちゃいましたからねぇ、あの人―――あ、そういえば」
八戒が思い出したように言う。
名無子が噛み締めた唇は、誰の目にも入っていなかった。
「三蔵、こちら側の説明って名無子にしました?旅の目的とか、この世界の状況とか」
「してねぇ」
さも当然のように即答した三蔵に呆れつつ、想定の範囲内。
「そんなことだろうと思いました…―――名無子、簡単に説明しておきますね」
そして始まった改めての説明会。
「―――というわけで、貴方にも危険が及ぶことがあるかも知れませんが…」
「守らなくていいから」
「え…?」
「昨日、言いそびれた。三蔵には話したけど、たぶん私に身を守る術はない。
でも死なないから、守らなくていい」
何でもないことのように、抑揚のない声が言う。
「だからって…」
「こいつがそれでいいと言っているんだ。こちらとしても足手纏いは願い下げだ。余程余裕がある場合を除いて自分のことを優先しろ」
困惑の表情で、当然に意を呈しようとした八戒を三蔵が遮った。
「三蔵!そんな言い方ねーだろ!!」
デリカシーなど期待はしない。
それでも、余りに冷酷な物言いに食って掛かった悟空だっだが、
「お願いします。私を守るために、皆が怪我したりしてほしくないから」
掌で制し、頭を下げた名無子に、ぐっと奥歯を噛み締める。
呼吸を一つ、自制を働かせて名無子を見据えた。
「―――なぁ、名無子。怪我しても、痛みはねーの?」
「わかんないけど感覚はあるからたぶん、ある。でも大丈夫―――」
「じゃあ駄目じゃん!つーか、痛くなくても名無子に怪我してほしくねーよ!」
一方でそう甘いことを言っていられるほど安穏な旅ではないとわかっていながらも、当たり前のように想いをぶつける悟空が、
「悪いけど、いくらイイ女の頼みでもそれは聞けねーわ。
それに傍にいる女一人守れないほどヤワじゃねーから安心しなって。少なくとも、俺はな」
三蔵に挑発的な視線をぶつけながら、さらりと名無子の肩を抱き寄せる悟浄が、八戒は羨ましかった。
ただ現実問題、いつ顕在化してもおかしくないリスクが目の前に存在する以上、八戒にできるのは
「兎に角、今ここで言っていてもしょうがない話です。
名無子のことは、極力守る。但しいざというときは自分を優先する、くらいでここは」
今にも着火しそうな導火線に砂を掛け、その場をやり過ごすことだけだった。
三蔵にとって悟空達のリアクションは想定内。
例に寄って余計な一言を付け加えた悟浄には苛立ちはしたものの、舌打ち一つで収めてやる。
幸いにして噴火は免れたようだとほっと胸を撫で下ろした八戒は、更なる燃料が透過される前にと
「さて、食事も済んだことですし、買い物に行きましょう。名無子の着替えとか日用品も買い足さなきゃですし」
色を変え、朗らかに提案して立ち上がった。
当然のようにそれに続いた悟空、悟浄と、
「煙草も頼む」
こちらもまた当然に動く素振りもなく言って、カードを八戒に手渡す三蔵。
「……三蔵は行かないの?」
席を立った名無子が尋ねれば、当人より早く
「弟くんはお留守番してるってさ」
と、悟浄が答えた。
「三蔵はお留守番が常なんで気にしないでください」
「基本動かねーかんな」
「イイコで待っててね、三蔵サマ♡」
「喧しい!さっさと行ってこい!」
遠ざかる喧騒を溜息で見送る。
暫くして三蔵は満たされなかった睡眠を補うべく食堂を後にした。
名無子の手を引き、何やら話しながら時折笑顔を咲かせている悟空。
その少し後に八戒と悟浄が並んで続く。
「とても微笑ましい光景ですが、程々に…とはいかないですよねぇ」
ぽつり零した八戒に悟浄が足も止めずに視線を向ければ
「情が移りすぎると、別れが辛くなるでしょう?」
困ったような笑顔が、そう答えた。
「……どゆこと?」
「観音の話が本当だとすれば―――其は、数日から数十年で消えるらしいですから」
「あー…」
人間からすれば酷く幅のある期間を経て、やがて消える存在。
"名無子"に関して言えば、既に発現から二十年は経過しているはず。
何の前触れもなく、いつ消えてもおかしくはない。
「あ、だからこその"現象"なんですかね」
止まない雨はないし虹はやがて消える。
確固とした存在ではなくその場限りの、移り行くものとしての"現象"。
「―――そもそも、"其"はずっと"同じ其"なんでしょうかね」
「…どゆこと??」
独り言のような八戒の言葉に、悟浄が疑問を呈する。
「別個体であっても、現象としては同一、ということがあり得るんじゃないかと」
「は?」
「今吹いている風と、明日吹く風。貴方はこれを同じだと思いますか?別物だと思いますか?」
「それは…」
「風という現象としてはいつどこで吹こうが同じ"風"です。でも物象として見れば、別物と考えることもできる」
「……同じ性質を持った別個体が数千年前から現れては消えしてるっつーことか…?」
「あくまで可能性の話ですよ。それに結局のところ、誰も答えを持っていないわけですから」
神のみぞ、どころか、神様でも知らぬことを考えても仕方がないと。
妙に冴えてしまった思考を放棄し、苦笑する。
「考えることは山程あるのに、考えてもしょうがないことばかりですね」
ふぅ、と息を吐いて、名無子と手を繋いだまま露天の肉まんに釘付けになっている悟空の背をぼんやり見詰める。
「ほんっっとお前、難儀な性格してんね…」
心底呆れたように悟浄が零す。
昨日『なんとなく』を連呼していたやけに楽観的な八戒はどこへやら。
しかし本来の八戒はこちらの方。
何かと気を揉み、厄介事を放っておけない苦労性。
今回は一人で抱え込まず、口に出しただけまだマシかと悟浄は苦笑いした。
「僕もそう思います」
八戒が他人事のように言ってはははと笑う。
「お前は一々考え過ぎなんだよ。ちったぁ悟空見習ってみたらどーよ。
見てみろあれ。食いもんのことしか考えてねーぞ」
「良いんですか?僕がそうなると、色々収拾つかなくなると思いますけど」
「……やっぱヤメテ。―――ん?」
保父さんの異名を取る八戒が悟空化した三蔵一行に思いを馳せ、速やかに発言を撤回した悟浄の視界。
悟空が一人路地裏に駆けて行った。
その後に名無子が続く。
「…何かあったんですかね?」
「さぁ。饅頭でも落ちてたんじゃねーの」
首を傾げつつ二人、その背を追った。
お師匠様と同じ色をした光だと。
それがどういう意味なのか―――俺には聞けなかった。
名無子を送り出して暫く。
ノックもなく開け放たれた扉から名無子が放り込まれ、悟空は騒がしく声を投げ直ぐに去って行った。
既に電気も消した部屋の中、ベッドに横たえていた身体を起こした三蔵が、眉を寄せ、扉の前にとり残された名無子に視線を向ける。
三蔵が何か言うまでもなく、
「こっちのベッドで寝ろって」
名無子がきょとんとした顔で説明を紡ぐ。
「どうせ寝ないから、寝床はいらないって言ったんだけど」
そう言いながら窓際に置かれていた椅子へ腰を下ろした。
「寝ない…?」
「睡眠は必要ない。です。寝方もまだよくわからないしそれに―――」
八戒達にしたのと同じ説明を繰り返し、そして途切れた言の葉。
ぼんやりと窓の外を見詰めるその瞳に何が映っているのだろうか。
ぽつり、まるで独り言のように続けた。
「前、初めて寝たとき、起きたら三蔵いなくなってたから」
あの時眠っていなかったら、三蔵と離れずに済んだのだろうか。
結果は同じだったかも知れない。それでも、そんな『もしも』が浮かんでは消える。
「別に何もしないから。気にしないで寝ていいよ」
視線もくれず呟いた名無子に
「……好きにしろ」
三蔵はそれ以上何も言うことなく、布団へと潜り込んだ。
上限の月が西に沈み、微かに聞こえていた夜街の喧騒も闇に溶けた頃。
三蔵の枕元に立つ人影があった。
気配を殺しているわけではない。
しかし、人よりもずっと過敏なはずの三蔵の警戒網は何の反応も示すことなく、仰向けに眼を閉じ、寝息を立てている。
三蔵の額に名無子が手を伸ばす。
額から10cmほどのところで手を止め、翳したままにその動きが止んだ。
静止画のような時間がどれほど流れ頃か―――
一滴の想いが、三蔵の布団を濡らした。
見覚えのある庭が、薄く、ベールを被せたように白を纏っている。
そう、あれは、少し早い初雪が降った日だった―――
夕刻の集会をサボり、舞い降りる淡雪を庭でぼんやり眺めていると、
不意に彼の人の声が聞こえた。
「いや〜、寒いですねぇ」
「!!?お師匠様!!」
一年ほど寺を空けていたお師匠様が金山寺へと戻ってきた。
「おかえりなさいませ。今着かれたのですか?」
「えぇ。ただいま、江流。いい子にしてましたか?今はサボり中みたいですけど」
「お師匠様を見習ったまでです」
「あはは。じゃあ仕方ありませんねぇ。はい、師匠似の可愛い弟子へお土産です」
お師匠様は相変わらずの調子で笑いながら小さな袋を手渡してきた。
中に入っていたのは色とりどりの飴玉。
「それしかないので、他の皆には内緒ですよ?」
いい年したおっさんのくせに、悪戯っ子のように人差し指を口元に当て笑う。
あぁ、帰ってきたんだ―――
そんなことを思いながら、自然と口元が緩んだ。
「本当はもっと良いお土産があったはずなんですが…」
ぽつり、師が零した言葉に首を傾げると、にこりと笑って
「貴方のお姉さんです」
と。
………意味がわからない。
訝しむ俺を他所に、お師匠様が言った。
「血の繋がりなんてなくても、家族にはなれますから」
「……それはどういう―――」
「―――っ!」
暁紅の夢は、不完全なままに三蔵を覚醒に導いた。
穏やかだったあの頃を夢に見るのはいつぶりだろうか。
深く息を吸い込み、逸る心音を宥め賺していると、
「おはよう」
「!!」
その声に飛び起きた。
小首を傾げ、女がこちらを見ている。
その女が誰であるか、昨夜の騒乱を思い出すのに数秒を、そして得体の知れない存在を同室に眠りこけた自身への呵責から立ち直るのに更に数秒を要した。
嘆息を一つ。
言葉もなく起き上がり、洗面所へと足を向ける。
未だ十分に血の回らない頭で、泡沫の夢と現を咀嚼していた。
扉越しの水音に紛れて、もう一方の扉から遠慮がちなノックの音が名無子の耳に届く。
「はい」
一声返事をし、部屋の扉を開けると朝に相応しい爽やかな笑みが待ち受けていた。
「おはようございます。物音が聞こえたので起きたかなぁと思って」
「おはよう。うん、三蔵が起きた。今顔洗ってる」
「三蔵が?こんな時間に?珍しいですね…」
時計の針はほぼ真下で重なっている。
普段ならば、低血圧な彼が起きているような時間では決してない。
まぁ、警戒心の強い三蔵のこと、碌に寝れなかったのだろうと想像しながら目前の人を慮る。
「名無子は眠れました?」
すると、名無子が首を横に振り、
「でも、大丈夫。何ともないから」
と、小さく笑って答えた。
残念ながら悟空の目論見は奏功しなかったようだ。
「そうですか……他に何か不都合はありませんでしたか?三蔵が嫌なこと言ってきたり顎でこき使ってきたり寝起きに機嫌悪くて八つ当たりされたりとか―――」
「お前は人を何だと思ってんだ」
妙に生き生きと例示を並べ立てていた八戒を、洗面所から出てきた三蔵が正に今不機嫌そうに窘めた。
「おはようございます三蔵。珍しく早起きですね」
八戒の攻防一体の笑顔に舌打ち、
「お前こそ、こんな時間に何の用だ」
速やかに本題へ。
「いえ、僕達も早く目が覚めてしまったので、名無子が起きているなら朝食に誘おうと思いまして。まさか三蔵まで起きているとは思いませんでしたが」
「……悟空も起きてんのか」
「はい。何なら一番早起きでしたよ?」
――
―――少し前、八戒が目を覚ますと既に身を起こし、布団の上で胡座をかいている悟空がいた。
「悟空…?どうしたんですか、こんな時間に」
通常であれば悟浄に足蹴にされでもして漸く目を覚ます悟空が
「あ、おはよう。なんか目ぇ覚めちゃって」
言いながら、ちらりと視線を奔らせた壁の向こう、気掛かりの正体に八戒は思い至る。
「名無子、大丈夫かなぁ。よく考えたら三蔵って初対面の女の人に優しくするようなタイプじゃないじゃん?同行させるのも嫌がってたし…
三蔵そもそも口悪いから、なんか嫌なこととか言われてなきゃ良いけど…」
睡眠をとったことで少し冷静になったのだろうか。
今更な不安に顔を曇らせている悟空を、八戒が笑った。
「名無子が追い返されてきてないってことは大丈夫なんじゃないですか。
まぁ、優しく…は期待できないですが、最低限大人な対応はしてると思いますよ?」
「意外と、オトコの対応してたりしてな」
隣のベッドから飛んできた軽薄な声に視線を向けると、薄目を開けた悟浄がにやりと口の端を上げた。
「ま実際、チェリーちゃんには無理だろうけど」
よっこいせと身を起こし、サイドボードに置かれた煙草に手を伸ばす悟浄に、八戒も悟空も呆れ顔。
「貴方は朝から通常運転ですねぇ…」
「いや俺もよ、よくよく考えてみりゃあの美人さんを野郎と二人だけの部屋で寝かすってどーなのよって思ってな。俺のベッドで寝かすのは却下されたのによ?」
「貴方の場合は明確に邪な目的があるからでしょう」
「そーだそーだエロ河童!」
「…お前らな。散々人をエロ河童だの何だと言いやがるけどよ―――」
悟浄が吸い込んだ煙草が、じり、と小さく音を立てた。
「男として、だ。エロいと言われるのと、同じ部屋で女と寝ても何も起きるわけがないと確信されてんのと、どっちがマシかっつー話よ」
男の矜持に関わる話と、身を乗り出し至極真剣な表情で言う。
「あー…それは……」
つい本気で考え込んでしまった八戒が答えを選択するより早く、
「つか何の話だよ…―――あ、今音した!」
悟空の鼓膜が、隣室から漏れてきた僅かな音を察知した。
「名無子起きたかな??」
「相変わらず獣じみた聴覚してんなぁ」
「様子見に行ってきましょうか。三蔵はどうせ寝てるでしょうけど、もし名無子が起きてたら朝ご飯に行きましょう」
「飯!!そう言えば腹減った!!」
「悟空が腹減ってるのに気付かないとか……天変地異の前触れか??」
「悟浄?変なフラグ立てるのやめてもらえますか…?」
「とりあえず見てこい八戒。万が一事に及んでたらマズイからこっそり行けよ!」
「悟浄……はぁ、もういいです。行ってきますよ…」
そんなこんなで、今に至るわけだが―――
「あの悟空が起きてんのか…雪でも降るんじゃねぇのか」
自分を棚に上げ、いけしゃあしゃ。
八戒はいつものことと軽く受け流し、話を戻す。
「貴方がそれを言いますか…―――で、どうします?朝食」
「あぁ―――行く」
歩を進め、部屋の外へ。
着いて来る気配のない背後を振り返り、おい、と名無子に声を掛ける。
「……私、ご飯いらないよ?」
無表情のまま返された言葉に、やはりか、と。
昨日の一件で耐性がついたのか、然程驚くでもなく、
「―――食えんわけじゃねぇんだろ。なら着いて来い」
言えば、
「わかった」
素直に答え、後に続いた。
肉、肉、米、魚、麺、肉、甘味、野菜、肉、甘味―――
これまでより一人増えて囲む円卓は、朝食と言うには多すぎる量で埋め尽くされていた。
「完全に頼みすぎましたね…」
「いいんじゃね?食いきれなくてもうちには優秀な残飯処理マシーンがあんだから」
「腹壊しても知らねぇぞ…」
初めての食事と聞き、ならばこれを、折角だからこれも、と、主に三人が注文を出していった結果だった。
「名無子。好きなもん食えよな!」
料理と名無子に気を取られ不名誉な二つ名を聞き逃した悟空が勧める。
「―――ずっとさ、飯、食ってなかったんだろう?」
不意に陰りを帯びた表情で問い掛けた悟空に、名無子が音無く頷く。
「腹、減ってね?」
「……よく、わからない」
その感覚は、四人の中で唯一悟空にしか理解できないものだった。
「―――俺もさ、ずっと岩牢で独りぼっちだったんだ。三蔵が出してくれたけどさ」
時間の感覚も曖昧になる程の久遠、たった一人、鎖に繋がれ続けた過去。
食べる物もなかったが、腹は空かなかった。
しかし今、回顧して甦るのは苦しさや寂しさではなく、牢を出て初めて空腹を感じた瞬間の喜びと、そして、三蔵と、皆で囲んだ暖かな食卓だった。
「出してもらった後さ、なんか妙に腹減ってたから、名無子もきっと腹減ってるって!」
にっと歯を見せて笑った悟空に、悟浄が苦笑しながら口を挟む。
「おいおい猿。お前と名無子ちゃんじゃそもそもの体が違ぇだろうが」
「うっせーなぁ、食べてみないとわかんないじゃん!とにかく食えって名無子。きっと美味いからさ!」
促され、頷いていただきます、と。
名無子の一挙一動を、箸を進めながら横目で見守る三人と、未だ箸も取らず食い入るように見守る悟空。
届けられたのは、
「……美味しい」
の一言だった。
ぱぁっと顔中に花を咲かせた悟空に、安堵の笑みを唇に乗せた八戒、悟浄と、
「食えるなら好きなもんさっさと食え。悟空に食われる前にな」
つっけんどんに言いながらも杏仁豆腐の器を押し遣る三蔵。
「食わねーよ!名無子のはな!さ、俺も食おう。いっただきまーす!」
「つか、前も言ったけど食う順番おかしくね?三蔵サマ。甘味は食後っしょ」
「どう食おうがお前に関係ねぇだろうが。それに、大体の女は甘味好きなもんじゃねぇのか」
「人によるんじゃないですか?まぁ朝っぱらから大量の唐揚げを食べさせられるよりはマシでしょうが」
「え、唐揚げって朝食うもんじゃねぇの??」
「量次第ですが、僕はせめて昼からですねぇ」
「朝は魚だろう」
「やっぱじじむせー…」
「何か言ったか」
「何でも良いけど銃だけはねーわ。ほら、名無子ちゃん、これも美味いぜ。食いな」
やいのやいのと賑やかな食卓に圧倒されつつも、名無子の顔は自然と綻ぶ。
「…嬉しい」
誰にも届かぬ声で小さく呟いた。
それから小一時間、
「もしかして、と思わなくはなかったんですけどね…」
「んだな…」
「やべぇ…」
八戒、悟浄、三蔵の口から零れた驚嘆の矛先は、
「ごちそーさまでした!!美味かったぁ!!」
いつもの大飯食らい―――ではなく、
「よく食ったなぁ、名無子ちゃん……」
いつの間にやら、悟空に匹敵する量を平らげた名無子に向けられていた。
「食べ過ぎた…?」
悟浄の言葉にはっとして、眉を顰め申し訳なさそうに見上げてきた名無子に、悟浄の口からぐぅと苦悶の声が漏れ、八戒が失笑する。
咳払いで平静を装い、悟浄は名無子の頭を撫でて言った。
「ぜーんぜん。二十年分、しっかり食いな」
「……悟浄さ、俺には、んなこと言ったことねーよなぁ」
「たりめーだろ。お前の食い方は正に猿並だからな。見ろこの違いを!」
悟浄の指先。
悟空の前の皿、名無子の前の皿、テーブルクロスの染みの数。
うーんと腕組みし、一言。
「―――なぁ、名無子。どうすりゃそんな綺麗に食えるんだ?」
「アホか。いつもいつもがっついて食うからそうなるんだろうが」
「だって!美味いんだからしょうがねーじゃん!!」
そんないつもの二人に構うことなく、
「これからは今まで以上に食料買い貯めしとかないといけませんねぇ」
苦笑混じりに零した八戒に、名無子の表情が再び曇る。
「八戒。私本当に食べなくても平気だから」
その言葉に八戒が慌てて口を開くよりも早く、
「気にするな。どうせ金出してるのは天界だ。どうせなら気が済むまで食って連中を破産させてやりゃいい」
三蔵が、煙草を咥え、ケースを握り潰しながら言い捨てるように。
「マジで!?やったー!!」
「お前には言ってねぇ…」
「三蔵サマやっさしー」
「喧しい!こっちだって迷惑被ってんだ。それくらいの補償はして当然だろうが」
「直接文句言う前にいなくなっちゃいましたからねぇ、あの人―――あ、そういえば」
八戒が思い出したように言う。
名無子が噛み締めた唇は、誰の目にも入っていなかった。
「三蔵、こちら側の説明って名無子にしました?旅の目的とか、この世界の状況とか」
「してねぇ」
さも当然のように即答した三蔵に呆れつつ、想定の範囲内。
「そんなことだろうと思いました…―――名無子、簡単に説明しておきますね」
そして始まった改めての説明会。
「―――というわけで、貴方にも危険が及ぶことがあるかも知れませんが…」
「守らなくていいから」
「え…?」
「昨日、言いそびれた。三蔵には話したけど、たぶん私に身を守る術はない。
でも死なないから、守らなくていい」
何でもないことのように、抑揚のない声が言う。
「だからって…」
「こいつがそれでいいと言っているんだ。こちらとしても足手纏いは願い下げだ。余程余裕がある場合を除いて自分のことを優先しろ」
困惑の表情で、当然に意を呈しようとした八戒を三蔵が遮った。
「三蔵!そんな言い方ねーだろ!!」
デリカシーなど期待はしない。
それでも、余りに冷酷な物言いに食って掛かった悟空だっだが、
「お願いします。私を守るために、皆が怪我したりしてほしくないから」
掌で制し、頭を下げた名無子に、ぐっと奥歯を噛み締める。
呼吸を一つ、自制を働かせて名無子を見据えた。
「―――なぁ、名無子。怪我しても、痛みはねーの?」
「わかんないけど感覚はあるからたぶん、ある。でも大丈夫―――」
「じゃあ駄目じゃん!つーか、痛くなくても名無子に怪我してほしくねーよ!」
一方でそう甘いことを言っていられるほど安穏な旅ではないとわかっていながらも、当たり前のように想いをぶつける悟空が、
「悪いけど、いくらイイ女の頼みでもそれは聞けねーわ。
それに傍にいる女一人守れないほどヤワじゃねーから安心しなって。少なくとも、俺はな」
三蔵に挑発的な視線をぶつけながら、さらりと名無子の肩を抱き寄せる悟浄が、八戒は羨ましかった。
ただ現実問題、いつ顕在化してもおかしくないリスクが目の前に存在する以上、八戒にできるのは
「兎に角、今ここで言っていてもしょうがない話です。
名無子のことは、極力守る。但しいざというときは自分を優先する、くらいでここは」
今にも着火しそうな導火線に砂を掛け、その場をやり過ごすことだけだった。
三蔵にとって悟空達のリアクションは想定内。
例に寄って余計な一言を付け加えた悟浄には苛立ちはしたものの、舌打ち一つで収めてやる。
幸いにして噴火は免れたようだとほっと胸を撫で下ろした八戒は、更なる燃料が透過される前にと
「さて、食事も済んだことですし、買い物に行きましょう。名無子の着替えとか日用品も買い足さなきゃですし」
色を変え、朗らかに提案して立ち上がった。
当然のようにそれに続いた悟空、悟浄と、
「煙草も頼む」
こちらもまた当然に動く素振りもなく言って、カードを八戒に手渡す三蔵。
「……三蔵は行かないの?」
席を立った名無子が尋ねれば、当人より早く
「弟くんはお留守番してるってさ」
と、悟浄が答えた。
「三蔵はお留守番が常なんで気にしないでください」
「基本動かねーかんな」
「イイコで待っててね、三蔵サマ♡」
「喧しい!さっさと行ってこい!」
遠ざかる喧騒を溜息で見送る。
暫くして三蔵は満たされなかった睡眠を補うべく食堂を後にした。
名無子の手を引き、何やら話しながら時折笑顔を咲かせている悟空。
その少し後に八戒と悟浄が並んで続く。
「とても微笑ましい光景ですが、程々に…とはいかないですよねぇ」
ぽつり零した八戒に悟浄が足も止めずに視線を向ければ
「情が移りすぎると、別れが辛くなるでしょう?」
困ったような笑顔が、そう答えた。
「……どゆこと?」
「観音の話が本当だとすれば―――其は、数日から数十年で消えるらしいですから」
「あー…」
人間からすれば酷く幅のある期間を経て、やがて消える存在。
"名無子"に関して言えば、既に発現から二十年は経過しているはず。
何の前触れもなく、いつ消えてもおかしくはない。
「あ、だからこその"現象"なんですかね」
止まない雨はないし虹はやがて消える。
確固とした存在ではなくその場限りの、移り行くものとしての"現象"。
「―――そもそも、"其"はずっと"同じ其"なんでしょうかね」
「…どゆこと??」
独り言のような八戒の言葉に、悟浄が疑問を呈する。
「別個体であっても、現象としては同一、ということがあり得るんじゃないかと」
「は?」
「今吹いている風と、明日吹く風。貴方はこれを同じだと思いますか?別物だと思いますか?」
「それは…」
「風という現象としてはいつどこで吹こうが同じ"風"です。でも物象として見れば、別物と考えることもできる」
「……同じ性質を持った別個体が数千年前から現れては消えしてるっつーことか…?」
「あくまで可能性の話ですよ。それに結局のところ、誰も答えを持っていないわけですから」
神のみぞ、どころか、神様でも知らぬことを考えても仕方がないと。
妙に冴えてしまった思考を放棄し、苦笑する。
「考えることは山程あるのに、考えてもしょうがないことばかりですね」
ふぅ、と息を吐いて、名無子と手を繋いだまま露天の肉まんに釘付けになっている悟空の背をぼんやり見詰める。
「ほんっっとお前、難儀な性格してんね…」
心底呆れたように悟浄が零す。
昨日『なんとなく』を連呼していたやけに楽観的な八戒はどこへやら。
しかし本来の八戒はこちらの方。
何かと気を揉み、厄介事を放っておけない苦労性。
今回は一人で抱え込まず、口に出しただけまだマシかと悟浄は苦笑いした。
「僕もそう思います」
八戒が他人事のように言ってはははと笑う。
「お前は一々考え過ぎなんだよ。ちったぁ悟空見習ってみたらどーよ。
見てみろあれ。食いもんのことしか考えてねーぞ」
「良いんですか?僕がそうなると、色々収拾つかなくなると思いますけど」
「……やっぱヤメテ。―――ん?」
保父さんの異名を取る八戒が悟空化した三蔵一行に思いを馳せ、速やかに発言を撤回した悟浄の視界。
悟空が一人路地裏に駆けて行った。
その後に名無子が続く。
「…何かあったんですかね?」
「さぁ。饅頭でも落ちてたんじゃねーの」
首を傾げつつ二人、その背を追った。