Pristinus Finis 〜最初の終わり〜
貴女のお名前は?
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Pristinus Finis #29
悟空が襲撃を受けた日から十日余り、八戒、悟浄、悟空と名無子の四人は、とある街に滞在していた。
三蔵と離れたことによる現実的な弊害―――目下の衣食住を賄う金策のためだ。
その夜、街で一番の安宿の裏手に名無子の姿があった。
「名無子さん」
木箱に腰を下ろし、ぼんやりと夜半の空を見詰めていた名無子に八戒が声を掛ける。
「八戒」
「やっぱり、眠れませんか?」
敵襲に備えるため、そして節約のために四人相部屋を選択しているが故、落ち着けないということもあるのだろうが何より、
「三蔵と別れてから、ずっと眠っていないでしょう?」
そこにいない存在が大きいのだろうと名無子を心配していた八戒だったが、案の定な答えが返される。
「うん。でも大丈夫だよ。八戒は?寝ないの?」
「悟空の鼾で目が覚めてしまいまして…」
苦笑した八戒に、名無子があぁ、と納得の表情を浮かべた。
暫くの間、名無子の隣で虫の声に耳を傾けていた八戒が、ふと口を開く。
「―――良かったんですか?」
「何が?」
「三蔵に着いて行かなくて」
「あんな状態の二人を置いて行けないよ。何ができるわけでもないけど…」
萎れた声を間髪入れずに否定する。
「そんなことありませんよ。正直、僕だけはあの二人の面倒見きれなかったと思いますし、名無子さんが悟浄の首根っこ掴んでてくれるだけでも有り難いです」
八戒を除き、労働に縁のない面々に始めは不安しかなかった。
悟空は三日ともたずアルバイトを首になったものの、しかしあちこちで小遣い稼ぎのようなことをして走り回っている。
悟浄は名無子の為と張り切って仕事に精を出しているし、心配していた女性関係でのトラブルも見られない。
名無子も泊まっている宿の手伝いに勤しんでいるし、何とか日銭を稼ぎつつこれからの行動を検討するだけの余裕も生まれようとしている今日此頃。
それは間違いなく名無子の存在あってのことと、八戒が感謝を口にする。
「そう言ってくれると少し楽…かな」
言いながら、苦笑とも自嘲とも取れる小さな笑みを唇に乗せた名無子に、八戒は眉間を曇らせた。
悟空が暴走したあの日、八戒も、他の二人も、名無子が巻き込まれ傷を負わずに済んだことへの安堵こそあれ、名無子を責める思いなどあるはずもない。
しかし、名無子が何もできなかったと罪悪感と無力感に苛まれていることには八戒も気付いていた。
慣れないアルバイトを必死にこなしているのも、名無子にとってはせめてもの償いのつもりなのだろう。
悟浄と一夜の過ちを犯すに至ったときもそうだったが、名無子は自分に厳し過ぎると八戒は小さく息を零した。
そのくせ、悟空の顔に時折掛かる影や、悟浄の彼の人に向けられた憤懣には目敏く気付き、言葉はなくも慮る様子を見せている。
先程も、疲労回復に効くお茶をもらったと嬉しそうに笑い、皆にふるまってきたばかりだ。
その全てが自分達を慮った結果であることを考えれば嬉しくも、しかしその裏で押し殺しているものがあることを思えば心苦しくもあった。
しかし今は一先ず、隣で沈みゆく銀月を引き止めたいと八戒は意識して笑顔を貼り付け、努めて明るい口調で話の向きを変えにかかった。
「―――名無子って、呼んでもいいですか?」
脈絡のない急な申し出に顔を上げた名無子の瞳が瞬く。
「いえ、ずっとね、僕だけさん付けなの寂しいと言うか悔しいな〜って思ってたんですが変える機会がなくて…
今更ではあるんですが、もし貴女さえ嫌じゃなければ」
冗談交じりに言えば、ふわりと細められた瞳が
「うん。嬉しい」
と、柔らかな笑みを浮かべ答えた。
ほんの少し和らいだ雰囲気に息を零し、八戒は続ける。
「じゃあ、名無子。貴女は、どうしたいですか?」
「……」
僅かに萎れた眉、返された沈黙の理由はわかっている。
そして、その問いへの答えも。
しかし名無子の口から聞きたかった。
「今は僕しかいませんし、遠慮しないでいいですよ」
改めて促せば、落ちた視線が
「……三蔵に会いたい」
虫の音に掻き消されそうな声でぽつり呟いた。
「ですよねぇ…」
はぁ、と八戒が嘆息する。
恋人への心配も、離れていることへの寂しさも当然にあっただろう。
しかしその名を口にすることすらも厭う空気を察し、名無子はこれまで何も言わなかった。
加えて、これから先どうするのかも一度も尋ねてこなかったが、気になっていないはずはない。
八戒自身、このままで良い訳がないと思いつつも目の前の生活を何とかすることに無理矢理集中しているような状態だった。
自分達の足を止めている要因は唯一つ。三蔵の思惑が見えないことだ。
あの日瀕死の悟空を置いて駆け出して行ったことも、ヘイゼルと共に逆方向へと進んで行ったことも、何かしら理由があるのだろうとは思いながら理解できぬまま今に至っている。
三蔵が受けた命によって始まった旅だからというだけでなく、三蔵という存在自体が少なからず自分達の導になっていたのだと八戒は気付いた。
ならば、話を聞かないことには始まらない。
少なくとも今この状況で、全てを放り出して東へと戻る選択肢はあるはずもないのだから。
「早めに食料買い込んで、三蔵を探しに行くようにしましょう。悟浄と悟空には僕から話します」
ゆっくりと顔を上げた名無子の瞳に映ったのは、久方振りに晴れ晴れとした八戒の笑顔だった。
「……本当?いいの?」
「えぇ。あとこれからは、僕達に遠慮はしないでください。思ってることとかしたいことがあればすぐ言う事。いいですね?」
人差し指を立て、子供を諭すように言えば
「うん、わかった。ありがとう八戒」
漸く、名無子らしい笑みがその顔に咲いた。
胸に滞留していた息を吐き出し、顔を上げる。
千切れた雲が横切る、白銀の満月を見詰めながら
「三蔵も月、見てるかな…」
微笑を引いた唇で呟く。
「名無子」
名を呼んだ声に名無子が視線を向けると、
「三蔵って――――
誰ですか?」
虫の音が、止んだ―――
「こんばんは〜」
不意に響いた軽やかな声に、八戒と名無子がはっと顔を向ける。
そこに経っていたのは黒衣に身を包んだ黒髪の男だった。
黒い法衣、肩に掛けられた経文、三蔵のそれと似た出で立ち。
しかし纏う雰囲気が異様で、姿を見せるまで気配すらも感じなかった。
「!!……どちら様です…?」
警戒を走らせつつも、八戒が丁寧に尋ねる。
男の口の端がにやり、上がった。
「王子様を片付けてお姫様を攫いに来たワルモノだよ」
「ッッ!!?名無子、下がって!!」
浮薄な声が鳴らした警鐘に、八戒が一瞬で戦闘態勢を整え、名無子に退避を促す。
「うん。君には用はないから、邪魔しないでくれる?」
そう言って、男が虚空を指で弾いた。
「―――え…?」
八戒が視線を落とす。
自身の脇腹に空いた、不自然な半円状の穴。
吹き出す、生温い液体。
視界がぐらり、揺らいだ。
「八戒ッ!!!」
崩れ落ちた八戒に名無子が駆け寄る。
「名無子……逃げっ……かハッ………」
地面に広がっていく血溜まり。不快な音を立て口から溢れる赤と喘鳴。
焦がした銅のような香りが鼻につく。
掌よりも大きな傷跡に止血も能わず、名無子の腕の中急激に失われていく体温がその時を教えていた。
どこかで、誰かの叫び声が聞こえる―――
それが自分のものであると気付くよりも早く、背後から轟いた爆発音が名無子の肌を震わせた。
立ち上る土煙の土煙の向こう、真紅が揺らめく。
身を翻し飛び出してきた悟浄の瞳が名無子の姿を捉えると
「名無子!!逃げろ!!」
悲鳴のような警告音を響かせた直後―――
その喉元に、真っ赤な大輪の花が咲いた。
宙に吹き出す鮮血が、喉を押さえ崩れ落ちる悟浄が、まるでスローモーションのように映し出される。
地に伏した悟浄の傍で悟空が何かを吐き出し、紅く濡らした口元を歪に歪め笑った。
額から消えた金錮。尖った耳。少し前に目にしたばかりのその姿で天を仰ぐ。
「がぁぁあぁああああああ!!!!」
獣の咆哮のような声が、空気を震わせた。
「悟…空……?」
何が起きたのか、何故このようなことになっているのか、何もわからなかった。
既に硬直し出血も止まった八戒の身体を抱いたまま、ただ呆然と座り込む名無子に男が囁く。
「ここじゃ落ち着いて話もできないね。場所を、変えようか」
滲んだ視界を掠めた経文の帯。
一瞬でその身は闇の中に飲み込まれていた。
天地もわからぬ虚空。その中に白いスクリーンが浮かび上がる。
映し出されるは、頬を涙で濡らしながら街の人々へと襲い掛かっていく悟空と、真っ赤な地面に突っ伏し既に動かなくなった八戒と悟浄の姿だった。
まるで無声映画のようなその映像を見開かれた瞳に映しながら、
「なん……で…」
名無子が、譫言のように呟く。
「玄奘三蔵法師が消えた影響…かな」
すぐ隣から降ってきた声が答える。
「……え…?」
黒衣の男の口から出たその名に、名無子が顔を上げた。
「今この世界に、玄奘三蔵法師は存在しない―――しなかった、と言った方が正しいね。
本当は君の中からも消えてなきゃおかしいんだけど……やっぱり、神仏の類かな?理が通用しないみたい」
何一つ、理解できなかった。
しかし辛うじて、三蔵の身にも何か―――恐らく、最悪の事態が起きてしまったことだけは推察した名無子の瞳から、新たな雫が零れ散る。
そんな名無子の正面で男は唇に笑みを乗せ、恭しく一礼した。
「改めて―――はじめまして。月影の君」
「……誰?」
「第二十四代唐心 烏哭三蔵法師。以後お見知りおきを」
そして名無子の前に身を屈め、顎に手を当ててしげしげと涙に塗れた名無子の顔を見詰めながら、烏哭は独り言のように呟く。
「しっかし、間近で見ればなるほど……確かに光明の言ったとおりだ」
「え…?」
「君が顕現したとき、光明と同じ寺にいたからね」
口の端に微笑を浮かべ、回顧する。
それはまだ、烏哭が三蔵法師となって間もない頃、光明と共に各地を廻っていたある日のことだった―――
『あ、烏哭。おはようございます。女の子、見ませんでした?』
『……寝惚けてます?』
『いえそうじゃなくて……実は昨晩―――
―――それで、月の光がね、こう…集まって、女の子になったんですよ』
『……何を言ってるのかよくわかんないんだけど…』
『人間でも妖怪でもない……始めは阿弥陀如来様の化身か何かかと
思ったんですけど、どうも違うっぽいんですよね』
『…へぇ』
『でも、可愛らしかったんで連れて帰ろうと思ってたんですが
起きたらいなくなっちゃってまして…』
『……アンタさぁ…神仏と紛うようなモンを犬猫みたいに拾おうとするなよ…』
『だって、江流のお姉さんに良いかなぁって思ったんですもん』
『もんって言うな。頬を膨らませるな。アンタも大概だなホント…』
『でも何故か、そうしなきゃいけない気がしたんですよねぇ……』
『……ふぅん……月影の君、ねぇ…』
そして、焦点を結ばない名無子の瞳も意に介さず烏哭は続ける。
「時間を遡らせて生き返らせるだの、進めて殺すだの、やってることは確かに神仏のそれだ。
しかしそのものでもなさそうな君が何なのか、非常に興味深い。
その上、何しても死なないなんて研究対象としてこれ以上ない存在だよね。
まぁ、突然消えられるのは困るけど……そういう物だって言うなら仕方ない。
それまでは色々調べさせてもらうよ」
嬉々として語る烏哭の声も、名無子の耳には届いていなかった。
烏哭の背後、闇に浮かぶビジョンの中、全身を返り血に染めていく悟空を瞬きもせずに見詰めている。
烏哭はちらりとその映像に目を遣ると、
「―――いやはや、凄いね彼。箍が外れるって正にこういう事だ」
含み笑いで感嘆し、再び名無子に向き直った。
「安心しなよ。玄奘が消えたのも、八戒と悟浄が死んだのも、悟空がただの化け物に成り果てたのも、彼らが皆弱かったからだ。君のせいじゃないよ」
わざとらしく憐憫を含んだ声で言って、名無子の耳元に口を寄せた。
「まぁ…君に出会わなければ違う未来があったのかも知れないけどね」
嘲るような微笑も、名無子の瞳には映らなかった。
「―――弱くなんか、ない」
小さく呟き目を閉じると、両手を重ね胸に当てる。
朧な銀光が、やがて輪郭を描き出す。
「っっ!!?―――まさか―――!!」
名無子を中心に広がった目も眩む程の月光が、音もなく闇を呑み込んだ。
烏哭の言う通り、出会わなければ良かっただけなのかも知れない。
私さえいなければ、皆は生きて笑っていられたのかも。
それでも―――
光が消え、世界が暗転する。
どれだけの時が過ぎた頃か、闇から差し込んだ、一閃の光。
「ここから、出たいか?」
観音の声に、名無子は答えた。
「三蔵に会いたい」
悟空が襲撃を受けた日から十日余り、八戒、悟浄、悟空と名無子の四人は、とある街に滞在していた。
三蔵と離れたことによる現実的な弊害―――目下の衣食住を賄う金策のためだ。
その夜、街で一番の安宿の裏手に名無子の姿があった。
「名無子さん」
木箱に腰を下ろし、ぼんやりと夜半の空を見詰めていた名無子に八戒が声を掛ける。
「八戒」
「やっぱり、眠れませんか?」
敵襲に備えるため、そして節約のために四人相部屋を選択しているが故、落ち着けないということもあるのだろうが何より、
「三蔵と別れてから、ずっと眠っていないでしょう?」
そこにいない存在が大きいのだろうと名無子を心配していた八戒だったが、案の定な答えが返される。
「うん。でも大丈夫だよ。八戒は?寝ないの?」
「悟空の鼾で目が覚めてしまいまして…」
苦笑した八戒に、名無子があぁ、と納得の表情を浮かべた。
暫くの間、名無子の隣で虫の声に耳を傾けていた八戒が、ふと口を開く。
「―――良かったんですか?」
「何が?」
「三蔵に着いて行かなくて」
「あんな状態の二人を置いて行けないよ。何ができるわけでもないけど…」
萎れた声を間髪入れずに否定する。
「そんなことありませんよ。正直、僕だけはあの二人の面倒見きれなかったと思いますし、名無子さんが悟浄の首根っこ掴んでてくれるだけでも有り難いです」
八戒を除き、労働に縁のない面々に始めは不安しかなかった。
悟空は三日ともたずアルバイトを首になったものの、しかしあちこちで小遣い稼ぎのようなことをして走り回っている。
悟浄は名無子の為と張り切って仕事に精を出しているし、心配していた女性関係でのトラブルも見られない。
名無子も泊まっている宿の手伝いに勤しんでいるし、何とか日銭を稼ぎつつこれからの行動を検討するだけの余裕も生まれようとしている今日此頃。
それは間違いなく名無子の存在あってのことと、八戒が感謝を口にする。
「そう言ってくれると少し楽…かな」
言いながら、苦笑とも自嘲とも取れる小さな笑みを唇に乗せた名無子に、八戒は眉間を曇らせた。
悟空が暴走したあの日、八戒も、他の二人も、名無子が巻き込まれ傷を負わずに済んだことへの安堵こそあれ、名無子を責める思いなどあるはずもない。
しかし、名無子が何もできなかったと罪悪感と無力感に苛まれていることには八戒も気付いていた。
慣れないアルバイトを必死にこなしているのも、名無子にとってはせめてもの償いのつもりなのだろう。
悟浄と一夜の過ちを犯すに至ったときもそうだったが、名無子は自分に厳し過ぎると八戒は小さく息を零した。
そのくせ、悟空の顔に時折掛かる影や、悟浄の彼の人に向けられた憤懣には目敏く気付き、言葉はなくも慮る様子を見せている。
先程も、疲労回復に効くお茶をもらったと嬉しそうに笑い、皆にふるまってきたばかりだ。
その全てが自分達を慮った結果であることを考えれば嬉しくも、しかしその裏で押し殺しているものがあることを思えば心苦しくもあった。
しかし今は一先ず、隣で沈みゆく銀月を引き止めたいと八戒は意識して笑顔を貼り付け、努めて明るい口調で話の向きを変えにかかった。
「―――名無子って、呼んでもいいですか?」
脈絡のない急な申し出に顔を上げた名無子の瞳が瞬く。
「いえ、ずっとね、僕だけさん付けなの寂しいと言うか悔しいな〜って思ってたんですが変える機会がなくて…
今更ではあるんですが、もし貴女さえ嫌じゃなければ」
冗談交じりに言えば、ふわりと細められた瞳が
「うん。嬉しい」
と、柔らかな笑みを浮かべ答えた。
ほんの少し和らいだ雰囲気に息を零し、八戒は続ける。
「じゃあ、名無子。貴女は、どうしたいですか?」
「……」
僅かに萎れた眉、返された沈黙の理由はわかっている。
そして、その問いへの答えも。
しかし名無子の口から聞きたかった。
「今は僕しかいませんし、遠慮しないでいいですよ」
改めて促せば、落ちた視線が
「……三蔵に会いたい」
虫の音に掻き消されそうな声でぽつり呟いた。
「ですよねぇ…」
はぁ、と八戒が嘆息する。
恋人への心配も、離れていることへの寂しさも当然にあっただろう。
しかしその名を口にすることすらも厭う空気を察し、名無子はこれまで何も言わなかった。
加えて、これから先どうするのかも一度も尋ねてこなかったが、気になっていないはずはない。
八戒自身、このままで良い訳がないと思いつつも目の前の生活を何とかすることに無理矢理集中しているような状態だった。
自分達の足を止めている要因は唯一つ。三蔵の思惑が見えないことだ。
あの日瀕死の悟空を置いて駆け出して行ったことも、ヘイゼルと共に逆方向へと進んで行ったことも、何かしら理由があるのだろうとは思いながら理解できぬまま今に至っている。
三蔵が受けた命によって始まった旅だからというだけでなく、三蔵という存在自体が少なからず自分達の導になっていたのだと八戒は気付いた。
ならば、話を聞かないことには始まらない。
少なくとも今この状況で、全てを放り出して東へと戻る選択肢はあるはずもないのだから。
「早めに食料買い込んで、三蔵を探しに行くようにしましょう。悟浄と悟空には僕から話します」
ゆっくりと顔を上げた名無子の瞳に映ったのは、久方振りに晴れ晴れとした八戒の笑顔だった。
「……本当?いいの?」
「えぇ。あとこれからは、僕達に遠慮はしないでください。思ってることとかしたいことがあればすぐ言う事。いいですね?」
人差し指を立て、子供を諭すように言えば
「うん、わかった。ありがとう八戒」
漸く、名無子らしい笑みがその顔に咲いた。
胸に滞留していた息を吐き出し、顔を上げる。
千切れた雲が横切る、白銀の満月を見詰めながら
「三蔵も月、見てるかな…」
微笑を引いた唇で呟く。
「名無子」
名を呼んだ声に名無子が視線を向けると、
「三蔵って――――
誰ですか?」
虫の音が、止んだ―――
「こんばんは〜」
不意に響いた軽やかな声に、八戒と名無子がはっと顔を向ける。
そこに経っていたのは黒衣に身を包んだ黒髪の男だった。
黒い法衣、肩に掛けられた経文、三蔵のそれと似た出で立ち。
しかし纏う雰囲気が異様で、姿を見せるまで気配すらも感じなかった。
「!!……どちら様です…?」
警戒を走らせつつも、八戒が丁寧に尋ねる。
男の口の端がにやり、上がった。
「王子様を片付けてお姫様を攫いに来たワルモノだよ」
「ッッ!!?名無子、下がって!!」
浮薄な声が鳴らした警鐘に、八戒が一瞬で戦闘態勢を整え、名無子に退避を促す。
「うん。君には用はないから、邪魔しないでくれる?」
そう言って、男が虚空を指で弾いた。
「―――え…?」
八戒が視線を落とす。
自身の脇腹に空いた、不自然な半円状の穴。
吹き出す、生温い液体。
視界がぐらり、揺らいだ。
「八戒ッ!!!」
崩れ落ちた八戒に名無子が駆け寄る。
「名無子……逃げっ……かハッ………」
地面に広がっていく血溜まり。不快な音を立て口から溢れる赤と喘鳴。
焦がした銅のような香りが鼻につく。
掌よりも大きな傷跡に止血も能わず、名無子の腕の中急激に失われていく体温がその時を教えていた。
どこかで、誰かの叫び声が聞こえる―――
それが自分のものであると気付くよりも早く、背後から轟いた爆発音が名無子の肌を震わせた。
立ち上る土煙の土煙の向こう、真紅が揺らめく。
身を翻し飛び出してきた悟浄の瞳が名無子の姿を捉えると
「名無子!!逃げろ!!」
悲鳴のような警告音を響かせた直後―――
その喉元に、真っ赤な大輪の花が咲いた。
宙に吹き出す鮮血が、喉を押さえ崩れ落ちる悟浄が、まるでスローモーションのように映し出される。
地に伏した悟浄の傍で悟空が何かを吐き出し、紅く濡らした口元を歪に歪め笑った。
額から消えた金錮。尖った耳。少し前に目にしたばかりのその姿で天を仰ぐ。
「がぁぁあぁああああああ!!!!」
獣の咆哮のような声が、空気を震わせた。
「悟…空……?」
何が起きたのか、何故このようなことになっているのか、何もわからなかった。
既に硬直し出血も止まった八戒の身体を抱いたまま、ただ呆然と座り込む名無子に男が囁く。
「ここじゃ落ち着いて話もできないね。場所を、変えようか」
滲んだ視界を掠めた経文の帯。
一瞬でその身は闇の中に飲み込まれていた。
天地もわからぬ虚空。その中に白いスクリーンが浮かび上がる。
映し出されるは、頬を涙で濡らしながら街の人々へと襲い掛かっていく悟空と、真っ赤な地面に突っ伏し既に動かなくなった八戒と悟浄の姿だった。
まるで無声映画のようなその映像を見開かれた瞳に映しながら、
「なん……で…」
名無子が、譫言のように呟く。
「玄奘三蔵法師が消えた影響…かな」
すぐ隣から降ってきた声が答える。
「……え…?」
黒衣の男の口から出たその名に、名無子が顔を上げた。
「今この世界に、玄奘三蔵法師は存在しない―――しなかった、と言った方が正しいね。
本当は君の中からも消えてなきゃおかしいんだけど……やっぱり、神仏の類かな?理が通用しないみたい」
何一つ、理解できなかった。
しかし辛うじて、三蔵の身にも何か―――恐らく、最悪の事態が起きてしまったことだけは推察した名無子の瞳から、新たな雫が零れ散る。
そんな名無子の正面で男は唇に笑みを乗せ、恭しく一礼した。
「改めて―――はじめまして。月影の君」
「……誰?」
「第二十四代唐心 烏哭三蔵法師。以後お見知りおきを」
そして名無子の前に身を屈め、顎に手を当ててしげしげと涙に塗れた名無子の顔を見詰めながら、烏哭は独り言のように呟く。
「しっかし、間近で見ればなるほど……確かに光明の言ったとおりだ」
「え…?」
「君が顕現したとき、光明と同じ寺にいたからね」
口の端に微笑を浮かべ、回顧する。
それはまだ、烏哭が三蔵法師となって間もない頃、光明と共に各地を廻っていたある日のことだった―――
『あ、烏哭。おはようございます。女の子、見ませんでした?』
『……寝惚けてます?』
『いえそうじゃなくて……実は昨晩―――
―――それで、月の光がね、こう…集まって、女の子になったんですよ』
『……何を言ってるのかよくわかんないんだけど…』
『人間でも妖怪でもない……始めは阿弥陀如来様の化身か何かかと
思ったんですけど、どうも違うっぽいんですよね』
『…へぇ』
『でも、可愛らしかったんで連れて帰ろうと思ってたんですが
起きたらいなくなっちゃってまして…』
『……アンタさぁ…神仏と紛うようなモンを犬猫みたいに拾おうとするなよ…』
『だって、江流のお姉さんに良いかなぁって思ったんですもん』
『もんって言うな。頬を膨らませるな。アンタも大概だなホント…』
『でも何故か、そうしなきゃいけない気がしたんですよねぇ……』
『……ふぅん……月影の君、ねぇ…』
そして、焦点を結ばない名無子の瞳も意に介さず烏哭は続ける。
「時間を遡らせて生き返らせるだの、進めて殺すだの、やってることは確かに神仏のそれだ。
しかしそのものでもなさそうな君が何なのか、非常に興味深い。
その上、何しても死なないなんて研究対象としてこれ以上ない存在だよね。
まぁ、突然消えられるのは困るけど……そういう物だって言うなら仕方ない。
それまでは色々調べさせてもらうよ」
嬉々として語る烏哭の声も、名無子の耳には届いていなかった。
烏哭の背後、闇に浮かぶビジョンの中、全身を返り血に染めていく悟空を瞬きもせずに見詰めている。
烏哭はちらりとその映像に目を遣ると、
「―――いやはや、凄いね彼。箍が外れるって正にこういう事だ」
含み笑いで感嘆し、再び名無子に向き直った。
「安心しなよ。玄奘が消えたのも、八戒と悟浄が死んだのも、悟空がただの化け物に成り果てたのも、彼らが皆弱かったからだ。君のせいじゃないよ」
わざとらしく憐憫を含んだ声で言って、名無子の耳元に口を寄せた。
「まぁ…君に出会わなければ違う未来があったのかも知れないけどね」
嘲るような微笑も、名無子の瞳には映らなかった。
「―――弱くなんか、ない」
小さく呟き目を閉じると、両手を重ね胸に当てる。
朧な銀光が、やがて輪郭を描き出す。
「っっ!!?―――まさか―――!!」
名無子を中心に広がった目も眩む程の月光が、音もなく闇を呑み込んだ。
烏哭の言う通り、出会わなければ良かっただけなのかも知れない。
私さえいなければ、皆は生きて笑っていられたのかも。
それでも―――
光が消え、世界が暗転する。
どれだけの時が過ぎた頃か、闇から差し込んだ、一閃の光。
「ここから、出たいか?」
観音の声に、名無子は答えた。
「三蔵に会いたい」
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