第二章
貴女のお名前は?
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「っっ!!」
「みんな!!―――あれ?なんで??」
「ここは…」
「何…だ、こりゃ…」
眩い光に目を閉じた瞬刻に、一変した景色。
四方も天地も境のない、銀光の世界に四人の姿があった。
先程まで鬱陶しい程にその身を苛んできた痛みも、何も感じない。
烏哭の追撃と、紛うはずもなかった。
光に抱かれているような、光の海に揺蕩っているような、温かな感覚がその身を包み込んでいる。
どんなに目を凝らしても、視認できるのは銀色の空間に浮かぶ互いの姿だけ。
困惑と懐疑をその顔に映していると、
「三蔵!指輪が―――!!」
「!!?」
三蔵の左手薬指、指輪に着いた月生石が周囲の空間よりも一段強い光を放っている。
その光が一閃の光道を描き、三蔵達の視界を四角く切り取った。
写真を貼り付けたようなそのビションが、揺らめいて動き出す。
浮かび上がったのは、色とりどりの表情を纏った四人の姿と―――
「……名無子…?」
その映像に映る見覚えのない女を目に、ぽつり、悟空が零した。
「は…?いやいやいや、こんな美人忘れるはずが…て―――何だ?は??」
意図せず頬を伝った涙に、悟浄が驚愕する。
「何ですか…これ……知らないのに知っているような…でも…何かが…」
こんな女性は知らない。映し出された映像にも覚えがない。あるはずがない。
しかし己の中の確かな違和感に八戒が困惑を滲ませる。
予期せぬ薬の影響下で名無子と一夜の過ちを犯し、一時は道を違えた悟浄も、
名無子をさん付けで呼び、腹に風穴を開けられ倒れた八戒も、
為す術なく烏哭の無天経文に呑まれその存在を失した三蔵も、
それによって暴走し悟浄の喉笛を噛み切った悟空も、
そして何より、名無子という女の存在も、
全て自身の記憶に存在しないのは間違いないはずなのに。
何故だかそれを作り物とは、偽りの光景だとは思えなかった。
ないはずの記憶と、見たこともない映像が食い違うという不可思議な感覚に、皆口々に戸惑いを口にする中、ただ一人三蔵だけが黙ってそれを見詰めている。
やがてそこに映し出された光景。
闇の中、泣きじゃくる名無子が胸に手を当てる。
名無子を中心に広がった、今この空間と同じ色をした光が世界を呑み込み、暗転する。
闇から差し込んだ光の奥、
「ここから、出たいか?」
その声に、数秒、名無子が口を開いた。
「三蔵に会いたい」
(あぁ、お師匠様のことではなかったのか……)
三蔵の唇に、微笑が灯った。
「もういい。わかった」
ビションは消え、再びの月光色の空間に、三蔵の声が響く。
すると、どこからか懐かしい声が返ってきた。
「 これが、私の知ってる全て 」
姿なき声にふっと笑みを浮かべ、三蔵が呼び掛ける。
「あぁ。わかったからとっとと出て来い」
が、
「 ここでは無理だよ。だってここ、私の意識下だもん 」
「……意味が分からんが、ならさっさとここから出せ!!」
「 でも、出たら痛いの戻るよ? 」
その場に不釣り合いな、何処までも呑気な声に、三蔵の米神に青筋が浮かび上がる。
「おい、名無子……」
剣呑な低音が響き、
「 はい。承知いたしました 」
軽やかに名無子が答えた。
何の兆しもなく、一瞬で世界が色を変えた。
背に当たる固い地面の感触。
視界に広がる夜空と、銀色の満月。
それを遮った、同じ色の瞳。
「ただいま、三蔵。おかえりかな??」
顔を覗き込んだ名無子が笑う。
三蔵は痛みに軋む身体を座位に起こすと、
「遅ェよ…」
名無子の腕を引き、胸に抱き寄せた。
恐らくそれは、有り得べからざる過去。
名無子だけが触れた、世界の一欠片。
『 超日月光だっけ?凄いよね。世界の流れそのものにまで干渉しちゃうんだから 』
烏哭の薄ら笑いと言葉が、忌々しくも三蔵の脳裏に甦る。
「超日月光を放ちて塵刹を照らす…か…」
呟いた三蔵に、名無子が含み笑いで答える。
「そんな大層なものじゃないよ。所詮は失敗作なので」
「天上の事情なんぞ知ったことか。お前はお前だ。違うか」
それだけでいいと、何度も自身に言い聞かせてきた言葉を今初めて心から音に乗せる。
名無子の頬を伝った雫が、三蔵の血と泥に塗れた法衣に吸い込まれていった。
「三蔵。ちゃんと思い出してくれてありがとう」
柔らかな声音が、三蔵の胸底を引っ掻く。
忘れないと、そう言った。
自身の力の及ばないことだったとしても、抑えきれない自己嫌悪を眉間に浮かび上がらせた三蔵を、名無子がくすりと笑った。
「帰ってこれたのは、三蔵のお陰」
少し身体を離すと、三蔵の薬指に光る指輪にそっと触れた。
「……何が深い意味はねぇだ。大有りじゃねぇか」
鋭さの欠けた苦言に
「嘘吐きましたごめんなさい。でも、お守りにはなったでしょ?私の」
頭を下げつつ、悪びれる様子もなくにっと笑う。
三蔵は小さく嘆息を零すと、
「……おかえり」
言って、唇を重ねた。
「―――あのー…すみません。お邪魔なのはわかってるんですが…」
深く貪るような終わりの見えない口付けに堪り兼ねたように、遠慮がちにも投げられた八戒の声。
「……わかってんなら邪魔すんじゃねぇ」
渋々と唇を離し、ふてぶてしく言い放った三蔵に八戒の笑みが引き攣る。
「三蔵。ちょっと待ってて」
苦笑しながら三蔵の頭にぽんぽんと掌を降らせ、名無子が三蔵の腕から離れた。
三人の顔を見比べ、先ずは涙塗れでしゃくり上げている悟空に向き合う。
「悟空、ごめんね。嫌なもの見せちゃったね」
胸に抱き寄せ、その頭を優しく撫でてくる名無子に、小降りとなっていた涙が再び溢れ出す。
「名無子っっ…俺……ッ…!」
言葉にならない涙声を強く抱き締め、言葉を紡ぐ。
「悟空、あれはもう存在しない世界。今の貴方が貴方なの。間違えないで」
「う……ん…」
「応えてくれて―――三蔵を助けてくれてありがとう」
闇に呑まれながらも振り絞った、届かないはずの声。
それを悟空は確かに捕えてくれた。
そのことがただ嬉しかった。
体を離し、袖で悟空の涙を拭ってやる。
「ただいま、悟空」
「ッ……おかえり名無子!!」
悟空が泣き腫らした目を弓形に引き、満開の笑顔を咲かせ応えた。
次に向かうは、
「俺は……守れなかったのか…それどころか……」
怨嗟と後悔を地面に向け吐き零している悟浄の元。
「悟浄がいてくれたから、大丈夫だって信じて三蔵の元に向かえた。本当にありがとう」
抱き締め、謝辞を紡ぐ。
「いつも私のこと大事にしてくれてるの知ってる。
悟浄がいないとダメなので、これからも一緒にいてくれる?」
冗談めかした口調の裏側、三度目の別離は味わいたくないと名無子の腕に力が籠もる。
「名無子…」
「騎士様に涙は似合わないよ?」
背中に突き刺さる視線を感じながら、悟浄の濡れた頬に唇で触れた。
「俺は…まだ名無子の傍にいていいのか…?」
「いてくれないと困ります」
戸惑いを滲ませる悟浄に即時断言してやれば、鼻を啜り、悟浄が口元に笑みを浮かべた。
「もう、絶対離してやんねぇ…」
どこからか聞こえてきた舌打ちと殺気を無視し名無子を腕に抱き締める。
背を撫でる掌の温もりと胸の中の微笑みに誓いを新たにしていた。
そして最後に名無子は八戒の元へ。
「名無子、すみません…僕まだよく状況が理解できてなくて……」
未だ混乱の渦中から抜け出せずにいる八戒に腕を回し、ぎゅうと抱き締めた。
「私が見せたものは、理解しなくていいよ。私の存在定義なんかも。
難しいことは考えないで今まで通り、傍にいて?」
「それは勿論…なんですが…」
"違う"と頭ではわかっていても、今際の際、最期に胸に刻まれた名無子を守れなかったことへの悔恨が今の八戒を蝕む。
それを察してか、名無子は八戒の背を撫でながら優しく語りかける。
「守ってくれようとしたの、知ってる。でも守れなかったわけじゃないよ。だって今、ここに私はいるんだから」
「名無子…」
「これからもよろしくね、八戒。頼りにしてます」
いつもどんなときも、誰よりも気を揉んで気遣ってくれる八戒へ心からの感謝を込めて。
「ッッ……こちらこそ…これからも、よろしくお願いしますね」
涙を堪え、精一杯の笑顔で八戒が応えた。
「あ…ヤバい……」
小さな呟きと何かが倒れる音に名無子が振り返る。
「泣いたら最後の力……使い果たしたかも…」
見れば、仰向けに大の字になった悟空の瞼が今にも閉じかけていた。
「待て悟空…今寝たら……いや…寝るなら名無子の胸…で…」
「駄目ですって…みんな……名無子を一人にするわけには……今度こそ…」
悟空の言葉通り、限界を迎えた面々が地面に横たわりその意識を手放す。
「あーあ…どうしよう。とりあえずジープ呼びに行って―――」
立ち上がろうと腰を上げた名無子だったが、
「おい」
「わっ!」
三蔵の腕に引かれ、体勢を崩したところを三蔵が抱き止める。
「もう、どこにも行くな…」
半ば閉じた瞳で寝言のように呟き、その腕に力を込める。
名無子の耳に届いた微かな寝息と響く鼓動、全身を包む熱は確かに生と存在の証だった。
「うん。今度こそ、約束」
答えた名無子の微笑を、月だけが見ていた。
「それで、烏哭はどうなったの?ヘイゼル達は??」
幸いにして妖怪の襲撃に遭うこともなく、どうにか再びジープを走らせることができるまで回復した面々に名無子が尋ねた。
が、返ってきたのはすぐ傍の渋面と、運転席の苦笑い。
(ありゃ…)
どうやら完勝とはいかなかったらしいと状況を察した。
「……つーかお前、どこまで覚えてんだ」
問い返した三蔵に名無子が答える。
「うーん…無天に呑まれるまで?そこから三蔵が思い出してくれるまでは多分完全に消えてたんじゃないかな」
烏哭が語っていた、存在の消滅。
事も無げに名無子は言っているが、自身が―――それ以上に、名無子が闇に呑まれそうになったあの瞬間の恐怖は
(正直、思い出したくもねぇ…)
と、眉を寄せた。
「結果としては、何とか撤退させるに至った…というところでしょうか。ヘイゼルさんは崖から落ちて行方知れず、ガトさんは残念ながら…」
「そっか…」
事の顛末だけを掻い摘んで話して聞かせた八戒に、名無子が物憂げな表情を浮かべると、
「もう会いたくないなぁ、あのおじさん…」
と、ぽつり。
至極尤もではあるのだか、どうにも気抜けする感想に三蔵が思わず吹き出した。
「あ、三蔵笑った」
「珍しいもの見れましたねぇ」
「そんな変なこと言った…?」
肩を震わす三蔵を悟空と八戒が囃し立て、名無子が怪訝そうに首を傾げている。
和やかな雰囲気に割って入ったのは、
「つーかよ、お前マジそのポジショニング何なの!?どー考えてもおかしいだろ!!」
少し広めの後部座席、憤懣を顕にした悟浄だった。
そう、いつもならばすぐ隣にあるはずのその人の姿は、三蔵の膝の上にあった。
以前のように怪我をした訳でもなく、何ならその身のダメージは一番軽い名無子をさも当然のように膝に乗せその腰を抱いている三蔵に、遅ればせながら苦情を申し立てる。
すると、
「うるせぇ黙れ殺すぞ」
返ってきたのは短くも殺気の乗った罵声の三連発。
「なっ!!?」
その原因は、今の今まで黙って息を潜めていた悟浄が一番よくわかっていた。
そして八戒もまた、
「案の定ですが……ぶり返してますねぇ…」
十分に予期していた事態でもあった。
ルームミラー越し、後部座席で舌打ちし、それでも言い返すこともせずにそっぽを向いた悟浄から、すぐ隣で眉間に刻印を浮かび上がらせている三蔵へと、名無子が目を向ける。
「三蔵?」
「……」
違う世界で、名無子と関係を持った悟浄。
それは自身が辿った過去ではないと、三蔵も頭では理解している。
いっそのこと、単純に"過去の記憶が甦った"ということであれば、それを飲み下したところまで自身のものとして受け入れられたのかも知れなかったが、中途半端にも自分のものでない記憶と経験が、魂の奥底にこびり着いているような奇妙な感覚だけがある状態だった。
視線も寄越さず険相を湛えている三蔵に名無子は小さく息を零した。
名無子一人が辿った、もう一つの世界線。
見せてしまった、全て。
(取捨選択して見せられれば良かったんだけど出来なかったんだよねぇ……どうしよ…)
伴う感情までも高解像度で甦らせてしまったのは大きな誤算だった。
以前であれば三蔵を傷付けてしまったことを思い悩んでいただろう。
だが今は、もう不必要に不安になることもない。
名無子は知っている。三蔵の強さを。そして、その想いを。
痛みと絶望を経て、倍の時間をかけ培ってきた確固たる信頼が今の名無子を支えている。
静かに深呼吸を一つ、視線を逸らしたままの三蔵を真っ直ぐに見据えた。
「あれはあくまで私の世界で、私の記憶。
あの三蔵は今の三蔵じゃないし、あの悟浄も今の悟浄じゃない。
ただ実際、あれを見せる選択をしたのは私だからその責任は取るよ。
もし三蔵がどうしてもあれをただの過去としてしか見れないって言うんだったら、その上で私は償い続ける。
でも―――どうか悟浄を、あの瞬間だけを切り取った悟浄と同一視するのだけはやめてください」
言って、お願いします、と頭を下げた。
三蔵は思った。
責めるでも誤魔化すでもない、ただ有りの儘、想いを乗せただけの言の葉に何度救われただろう。
いつからかその中に――名無子自身に光を見出し、必死で追い求めてきた。
そしてそれは、これからも変わらないと。
どんなに惑っても、どんなに心を乱されても、この光さえ見失わなければ、手放すことさえなければきっと大丈夫だと、そう思えた。
その想いは淡く微笑となって三蔵の口の端を彩る。
「―――おい。悟浄」
静かに名を呼んだ三蔵に、悟浄が身構えた。
「なんだよ…」
「悪かった」
「………はぇ??」
全く思いがけぬ―――どころか、三蔵の口から初めて聞く言葉に悟浄の声が上ずった。
「二度は言わん」
「三蔵今……」
「三蔵が悟浄に……謝った…??」
ぽかんと口を開け、名無子に映像を見せられたとき以上の困惑をその目に映している三人から視線を外すと、腕の中、嬉しそうに微笑みを湛えている名無子へと目を向ける。
「お前も。すまなかった」
心から、何の抵抗も覚えずに謝罪を口にし、唇を重ねた。
「三蔵、大好き」
首に腕を回し、ぎゅうと抱き着いてきた名無子の頭を、三蔵の手が優しく撫でる。
「なんか二人共、前より仲良くなったな!」
ししっと嬉しそうに笑う悟空と、
「あはは……当面は当てられそうですねぇ」
苦笑いの八戒と、
「八戒、次の街で酔い止めと胃薬買ってくれ…頼む……」
深く項垂れ悲嘆に暮れる悟浄。
三蔵はそれを鼻で笑い、ルームミラーに反射した朝日と腕の中の温もりに目を細めていた。