第二章
貴女のお名前は?
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とある森の中、足早に歩を進める三蔵と、息を切らせながらその後に続くヘイゼル達の姿があった。
「三蔵はん、えらい早足やなぁ。『ついて来い』言われたかて、追い付かれへんわ」
「…じゃあ来るな」
「…ま、ええんよ。頼まれんでもついて行きまひょ。折角三蔵はんがうちらと組んでくらはる気になったんやから」
「何の気紛れか分からしまへんけど、やっぱり三蔵はんは妖怪と一緒におらんで正解や。噂に違わぬ化け物やな。あの斉天大聖いうんは」
「……誰に聞いた」
「え?」
「その斉天大聖の話、誰に聞いた?」
「―――ところで名無子はん、大丈夫どすか?」
露骨に話を逸したヘイゼルに三蔵が眉を上げる。
「大丈…夫…」
肩で息をしながらも必死に後を追っていた名無子に、
「全く三蔵はんは…女性は大事に扱えって習わへんかったんどすか?ほら、手貸しますよって」
ヘイゼルが手を差し出したその時、
「触るな」
前方から厳しい声が飛んで来た。
ヘイゼルの手が宙で止まり、丸い目が三蔵に向けられる。
そしてにやりと口の端が上がった。
「―――へぇ。前から何か変な感じはしとったんやけど……本当に三蔵はんの恋人やったんやねぇ」
「本当に…だと?」
「やったら尚更、大事にせんとあかんのちゃいます?そんな一人で先行かんと―――」
「ヘイゼル」
名無子の声がヘイゼルの言葉を止めた。
「黙って。―――三蔵、大丈夫だから。行こう」
疲れを滲ませながらも笑みを浮かべ名無子が言う。
その姿に、三蔵の熱が漸く下降を始めた。
先程も、今も、同じことを繰り返している自分への苛立ちが舌打ちとなって漏れた。
深く息を吸い、吐き出してから近くの木の根元に腰を下ろす。
漸く休憩の運びとなったらしいことに安堵を浮かべ、ヘイゼルもまたその場に座り込む。
「名無子。来い」
三蔵は煙草に火を着けると、立ったままの名無子を呼び寄せ隣に座らせた。
くすりとヘイゼルが笑う。
「今まで随分我慢してはったんやろねぇ。悟浄はんの恋人やなんて嘘吐いてまで…そんなにうちのこと信用できまへん?」
「当然だ。それで―――斉天大聖とこいつの話を、お前は誰に聞いた」
睨め付けるも全く気にしていない様子で笑みを浮かべているヘイゼル。
その時、名無子とガトが、そして三蔵が周囲へと視線を走らせた。
「チッ…囲まれたか…」
「おや、敵さんですか?」
「名無子。座ってろ。動くんじゃねぇぞ」
「うん」
腰を落ち着けたのも束の間、鴨ネギを喜ぶ妖怪達の片付けに取り掛かることとなった。
その夜、食べ慣れない高級豪奢な食事を終えた三蔵と名無子は、気を利かせたヘイゼルが取ったダブルベッドの部屋へと戻ってきた。
精神的にも肉体的にも流石に疲れは否めず、三蔵がベッドへと倒れ込む。
そのまま眠ってしまえるならそれも良しと名無子は声も掛けず、一先ずいつものようにコーヒーを淹れた。
コーヒーカップを両手にベッドへ向かうと、一つをサイドボードの上に置き、ベッドに腰掛けてもう一つのカップを口に運ぶ。
暫くして、もぞり、三蔵が身を起こした。
「…飲む?」
「あぁ…」
差し出されたカップを受け取り、一口啜る。
二つのカップが空になった頃、三蔵が静寂を終わらせた。
「名無子」
名を呼んだ三蔵に、名無子が向き合う。
「何で俺に着いて来た」
「……駄目だった?」
話の通らないストレスに散々晒されてきた三蔵の口から舌打ちが零れた。
「もう誤魔化しは沢山だ。答えろ」
突き刺さる視線に、名無子は細く息を吐くと、その紫暗を見詰め口を開いた。
「―――烏哭を悟空達三人から引き離すため」
「なん…だと…?」
名無子の口から出た思わぬ名前に三蔵の瞳が見開かれる。
「烏哭が狙ってるのは三蔵と、そして私。あれだけの傷を負った状態で、私がいることで烏哭を再び呼び寄せる可能性を少しでもなくしたかったから。……三蔵も、そうでしょう?」
眉一つ動かさず淡々と紡がれた答えは求めていた以上に明確過ぎて、群発した疑問をどこから片付けれはいいのかわからなくなる。
が、一先ず―――
「何故その名を知っている」
始まりの疑義を問えば、
「昨日、悟空が襲われる前に攫われたから」
「何…!?」
「私の力のことも知ってた。闇の中に囚われて、ずっと悟空が襲われてからの一部始終を見せられてた。何とか脱出はできたけど……その時にはもう、全部終わってた」
目を伏せ語られたのは、己の預かり知らぬところで繰り広げられていた事態だった。
悟空が攻撃を受けたあの瞬間から、慮外になっていたのは悟空のことだけではなかった。
御することのできない憎悪が己の目を、耳を塞ぎ、純粋な殺意に駆られるままに動いた身体。
その結果、傷付き死にかけた仲間と、敵の手に落ちかけた名無子―――
目を背けていた自責と罪悪感が一気にその身に襲い掛かってくる。
眉根を寄せ奥歯を噛みしめる三蔵の手に、名無子の手が重なった。
「それとね、三蔵に着いて来たもう一つの理由」
三蔵がゆっくり顔を上げると、
「私がそうしたかったから。三蔵の傍にいたかったから」
少し困ったように微笑んだ銀灰がその視線を受け取った。
「―――他に、聞きたいことは?」
柔らかな声音が尋ねる。
相反する色の感情が混濁し、三蔵の喉を詰まらせた。
黙り込む三蔵の身体を、名無子の腕がそっと包み込んだ。
「悟空は大丈夫。八戒も、悟浄も」
優しくその背を撫でながら、名無子が言う。
「大丈夫。貴方の仲間は、みんな強いよ」
寄り添う温もりが、無意識に強張っていた身体を弛緩させていくのを感じながら、三蔵は胸の底に淀んだ息を静かに吐き出した。
名無子に腕を回し、抱き締める。
「お前もだ」
「え…?」
「お前の仲間でもある。そうだろ」
「うん」
「それに、お前も十分強ぇ」
言われ、名無子が三蔵の胸から顔を離し、訝しげに見上げる。
「強くないから何もできなかったんだよ?」
悪気のない無垢な言葉が三蔵の胸を抉ったが、事実その通りだと自嘲を滲ませた。
それにしても、
「何もできない弱いだけの女なら惚れることもなかっただろうさ」
名無子の慧眼は相も変わらず自分自身には向けられない。
最早そういう生き物だと呆れ半分で諦めかけている三蔵ではあったがそれでも。
「俺が選んだ女だ。少しは自信持ちやがれ」
言って、名無子の鼻先に噛み付いてやる。
名無子が丸い目を瞬かせたが、それはすぐに弓形に線を描き、
「それでこそ私が好きになった三蔵です」
得意げに、嬉しそうに笑った。
「ふん…言うようになったじゃねぇか」
鼻で笑い、その頭を雑に撫で回す。
腕の中、安堵に頬を緩める名無子が僅かに唇を噛んだ。
嘘は、一つもなかった。
それでも、言葉を選び、伝えるべきを避けたのは事実で。
言う必要がない事。言えない事。
何の線引もせずに全てを伝えることはもうできなくなっていた。
(大丈夫、きっと……全部終わったら…いつか…)
名無子は黙ってその目を閉じ、三蔵の胸に寄り添っていた。
軽快なエンジン音を響かせるジープの上。
広くなった後部座席と、空っぽの助手席を悟空は黙って見詰めていた。
「なんだ悟空。腹減って声も出ねぇか」
隣から声を掛けてきた悟浄が
「別に―――あだだだっ!!」
浮かない表情の悟空の米神に拳を見舞った。
「とりあえずはよ、食料と服だけでもどっかで調達しなけりゃはじまんねーだろ」
「ん……」
あの夜から三日経って漸く目を覚ました後、聞かされた記憶のない一部始終。
いなくなった三蔵と名無子。頭に響いた、何かが壊れる音―――
深く陰を落としたまま、腹の虫さえ息を潜めていた。
「―――大丈夫」
不意に、悟浄が呟いた。
「え?」
「名無子ちゃんがな、別れ際、大丈夫だって。悟空にも伝えてくれとさ」
「……名無子…」
「最初は"名無子が"大丈夫って意味かと思ったけどな。多分、違ぇんだろ」
「―――そうでしょうね。名無子のことですから」
あの日、悟空を止めようと駆け出した名無子。
悟浄も八戒も、名無子が何かを知っていたのだと後になって気付いた。
何があったのかは知らない。
それでも、名無子が大丈夫と、"悟空に"も伝えてくれと言い残したのには何か理由があるのだろう。
そしてその理由はいつも決まって、名無子自身ではなく自分達を思ってのことであることを、痛い程に知っている。
「あぁ。だから…大丈夫なんじゃねぇの」
あの時も、傷だらけの悟空と八戒を前に泣きそうな顔をしながらもそれをぐっと堪えていたことを悟浄は思い出す。
その名無子が自分達を置いて三蔵に着いて行ったのは、恋人だからという単純な理由ではないように思えた。
ならば、大丈夫と残された言葉を信じて、大丈夫なようにするだけだと。
「……腹、減ってきたかも」
ぽつり弱々しくも言った、
(悟空も含めて…な…)
悟浄が片方の口角に笑みを上らせた。
「そりゃ良かったな」
僅かながらも空気が晴れたことを確認し、八戒が控えさせていた現実を差し出す。
「あのー…お二人とも気付いてないみたいなんで一応言っておきますけど―――ほぼ一文無しですよ、僕ら」
「「……え」」
「名無子に極貧生活させずに済んだことだけでも喜びましょうかねぇ」
あははと笑っていられるのも今のうちであることを、八戒はまだ知らなかった。
「おばんどすえ〜。街の人に高っい酒もろたさかい、お裾分けに来ましたえ〜……って、名無子はん。三蔵はんはお留守どすか?」
ノックもなく開かれた扉から上機嫌のヘイゼルが顔を出す。
名無子は鍵を締め忘れていたことを後悔しながら、
「お風呂」
短く言葉を返した。
「おや。んじゃ少し待たせてもらいまひょかね。名無子はんもお酒好きでっしゃろ?」
「……」
名無子の向かい側のソファへと腰を下ろしワインのボトルを開けながら尋ねるが、返事はなく視線すらも寄越さない。
「………もしかして名無子はん…うちのこと、嫌い?」
眉を萎れさせさも悲しそうな表情を浮かべるヘイゼルに名無子は嘆息を吐いてゆっくりと顔を上げた。
「―――私の大事な人を化け物と呼んで殺そうとした人を、嫌いじゃないはずがないでしょう」
明確に嫌悪と敵意を乗せた冷たい視線がヘイゼルに突き刺さる。
「それは……」
「先に言っておく。三蔵がそうしろって言わない限り、貴方に手を貸すつもりはない」
きっぱりと言い切り、名無子は席を立ってベッドへと向かうと、ヘッドボードに背を預け座った。
少しの間、ヘイゼルは目を伏せ何やら考え込んでいたが、
「名無子はん」
顔を上げ名無子を呼ぶと、両膝に手を着いて頭を下げた。
「あんさんの友人を侮辱したことは謝ります。えろすんませんでした。
―――でもな、名無子はんの力はこんなところで埋もれさせてええもんと違う。
名無子はんの力があればもっと沢山の人を救えるんや。どうかうちに手ぇ貸してください。
お願いします」
「嫌です。たとえ誰も救えなくても、多くの人を犠牲にしたとしても、貴方が言う『こんなところ』以外に行くつもりはない」
「名無子はん―――」
尚も食い下がろうとするヘイゼルに
「てめェも大概しつけぇな。人の質問には碌に答えもしねぇ癖によ」
風呂場から出てきた三蔵の不機嫌な声が飛んだ。
「三蔵はん…」
「―――名無子。こいつをどうしたい」
「速やかに出て行ってほしいです」
「だ、そうだ。さっさとお帰り願おうか」
取り付く島もない二人に、ヘイゼルは撤退を余儀なくされた。
苦笑を滲ませ、席を立つ。
「今夜のところは大人しく帰りまひょ。このままじゃ三蔵はんにまで嫌われてまう」
「既に嫌われてるとは思わねぇのか…」
「嫌よ嫌よも好きのうち言いますやろ?」
「言わん。帰れ。とっとと帰れ!」
抜かれた小銃から逃げるように去って行ったヘイゼル。
三蔵が深々と嘆息し、名無子は足早にドアの鍵を締めに向かった。
そしてソファへ移動し、手付かずのワイングラスを手に取ると、
「三蔵、お酒飲もう?」
先程までとは打って変わって、ふわりと柔らかな笑みを讃え三蔵を呼んだ。
唇をワインで濡らしながら目を細める名無子の隣へと三蔵が腰を下ろす。
「酒、我慢してたのか…」
「お酒に罪はないもん。と言うか、どこから聞いてたの?」
「嫌いじゃないはずがない辺りからだな」
「ほぼ最初」
「あいつの意図を確かめるためにな」
「確かめるまでもなくわかってたでしょう?」
三蔵は紫煙を細くたなびかせながら天井を仰ぐ。
名無子は言った。烏哭が、名無子の力のことも知っていたと。
斉天大聖の話と名無子の話を吹き込んだのが同一人物であるならば―――
「名無子」
「はい」
「これからは常に、俺の目の届く範囲にいろ」
「…お風呂は?」
「……」
「一緒に入る?」
「………」
猜疑心と警戒感を一瞬で上塗りした邪心に諦観の溜息を吐き出すと、グラスを一息に空け
「っっ!!三蔵!?」
「入んだろ。風呂」
名無子を抱きかかえ、本日二度目の風呂場へと足を向けた。
「三蔵はん、えらい早足やなぁ。『ついて来い』言われたかて、追い付かれへんわ」
「…じゃあ来るな」
「…ま、ええんよ。頼まれんでもついて行きまひょ。折角三蔵はんがうちらと組んでくらはる気になったんやから」
「何の気紛れか分からしまへんけど、やっぱり三蔵はんは妖怪と一緒におらんで正解や。噂に違わぬ化け物やな。あの斉天大聖いうんは」
「……誰に聞いた」
「え?」
「その斉天大聖の話、誰に聞いた?」
「―――ところで名無子はん、大丈夫どすか?」
露骨に話を逸したヘイゼルに三蔵が眉を上げる。
「大丈…夫…」
肩で息をしながらも必死に後を追っていた名無子に、
「全く三蔵はんは…女性は大事に扱えって習わへんかったんどすか?ほら、手貸しますよって」
ヘイゼルが手を差し出したその時、
「触るな」
前方から厳しい声が飛んで来た。
ヘイゼルの手が宙で止まり、丸い目が三蔵に向けられる。
そしてにやりと口の端が上がった。
「―――へぇ。前から何か変な感じはしとったんやけど……本当に三蔵はんの恋人やったんやねぇ」
「本当に…だと?」
「やったら尚更、大事にせんとあかんのちゃいます?そんな一人で先行かんと―――」
「ヘイゼル」
名無子の声がヘイゼルの言葉を止めた。
「黙って。―――三蔵、大丈夫だから。行こう」
疲れを滲ませながらも笑みを浮かべ名無子が言う。
その姿に、三蔵の熱が漸く下降を始めた。
先程も、今も、同じことを繰り返している自分への苛立ちが舌打ちとなって漏れた。
深く息を吸い、吐き出してから近くの木の根元に腰を下ろす。
漸く休憩の運びとなったらしいことに安堵を浮かべ、ヘイゼルもまたその場に座り込む。
「名無子。来い」
三蔵は煙草に火を着けると、立ったままの名無子を呼び寄せ隣に座らせた。
くすりとヘイゼルが笑う。
「今まで随分我慢してはったんやろねぇ。悟浄はんの恋人やなんて嘘吐いてまで…そんなにうちのこと信用できまへん?」
「当然だ。それで―――斉天大聖とこいつの話を、お前は誰に聞いた」
睨め付けるも全く気にしていない様子で笑みを浮かべているヘイゼル。
その時、名無子とガトが、そして三蔵が周囲へと視線を走らせた。
「チッ…囲まれたか…」
「おや、敵さんですか?」
「名無子。座ってろ。動くんじゃねぇぞ」
「うん」
腰を落ち着けたのも束の間、鴨ネギを喜ぶ妖怪達の片付けに取り掛かることとなった。
その夜、食べ慣れない高級豪奢な食事を終えた三蔵と名無子は、気を利かせたヘイゼルが取ったダブルベッドの部屋へと戻ってきた。
精神的にも肉体的にも流石に疲れは否めず、三蔵がベッドへと倒れ込む。
そのまま眠ってしまえるならそれも良しと名無子は声も掛けず、一先ずいつものようにコーヒーを淹れた。
コーヒーカップを両手にベッドへ向かうと、一つをサイドボードの上に置き、ベッドに腰掛けてもう一つのカップを口に運ぶ。
暫くして、もぞり、三蔵が身を起こした。
「…飲む?」
「あぁ…」
差し出されたカップを受け取り、一口啜る。
二つのカップが空になった頃、三蔵が静寂を終わらせた。
「名無子」
名を呼んだ三蔵に、名無子が向き合う。
「何で俺に着いて来た」
「……駄目だった?」
話の通らないストレスに散々晒されてきた三蔵の口から舌打ちが零れた。
「もう誤魔化しは沢山だ。答えろ」
突き刺さる視線に、名無子は細く息を吐くと、その紫暗を見詰め口を開いた。
「―――烏哭を悟空達三人から引き離すため」
「なん…だと…?」
名無子の口から出た思わぬ名前に三蔵の瞳が見開かれる。
「烏哭が狙ってるのは三蔵と、そして私。あれだけの傷を負った状態で、私がいることで烏哭を再び呼び寄せる可能性を少しでもなくしたかったから。……三蔵も、そうでしょう?」
眉一つ動かさず淡々と紡がれた答えは求めていた以上に明確過ぎて、群発した疑問をどこから片付けれはいいのかわからなくなる。
が、一先ず―――
「何故その名を知っている」
始まりの疑義を問えば、
「昨日、悟空が襲われる前に攫われたから」
「何…!?」
「私の力のことも知ってた。闇の中に囚われて、ずっと悟空が襲われてからの一部始終を見せられてた。何とか脱出はできたけど……その時にはもう、全部終わってた」
目を伏せ語られたのは、己の預かり知らぬところで繰り広げられていた事態だった。
悟空が攻撃を受けたあの瞬間から、慮外になっていたのは悟空のことだけではなかった。
御することのできない憎悪が己の目を、耳を塞ぎ、純粋な殺意に駆られるままに動いた身体。
その結果、傷付き死にかけた仲間と、敵の手に落ちかけた名無子―――
目を背けていた自責と罪悪感が一気にその身に襲い掛かってくる。
眉根を寄せ奥歯を噛みしめる三蔵の手に、名無子の手が重なった。
「それとね、三蔵に着いて来たもう一つの理由」
三蔵がゆっくり顔を上げると、
「私がそうしたかったから。三蔵の傍にいたかったから」
少し困ったように微笑んだ銀灰がその視線を受け取った。
「―――他に、聞きたいことは?」
柔らかな声音が尋ねる。
相反する色の感情が混濁し、三蔵の喉を詰まらせた。
黙り込む三蔵の身体を、名無子の腕がそっと包み込んだ。
「悟空は大丈夫。八戒も、悟浄も」
優しくその背を撫でながら、名無子が言う。
「大丈夫。貴方の仲間は、みんな強いよ」
寄り添う温もりが、無意識に強張っていた身体を弛緩させていくのを感じながら、三蔵は胸の底に淀んだ息を静かに吐き出した。
名無子に腕を回し、抱き締める。
「お前もだ」
「え…?」
「お前の仲間でもある。そうだろ」
「うん」
「それに、お前も十分強ぇ」
言われ、名無子が三蔵の胸から顔を離し、訝しげに見上げる。
「強くないから何もできなかったんだよ?」
悪気のない無垢な言葉が三蔵の胸を抉ったが、事実その通りだと自嘲を滲ませた。
それにしても、
「何もできない弱いだけの女なら惚れることもなかっただろうさ」
名無子の慧眼は相も変わらず自分自身には向けられない。
最早そういう生き物だと呆れ半分で諦めかけている三蔵ではあったがそれでも。
「俺が選んだ女だ。少しは自信持ちやがれ」
言って、名無子の鼻先に噛み付いてやる。
名無子が丸い目を瞬かせたが、それはすぐに弓形に線を描き、
「それでこそ私が好きになった三蔵です」
得意げに、嬉しそうに笑った。
「ふん…言うようになったじゃねぇか」
鼻で笑い、その頭を雑に撫で回す。
腕の中、安堵に頬を緩める名無子が僅かに唇を噛んだ。
嘘は、一つもなかった。
それでも、言葉を選び、伝えるべきを避けたのは事実で。
言う必要がない事。言えない事。
何の線引もせずに全てを伝えることはもうできなくなっていた。
(大丈夫、きっと……全部終わったら…いつか…)
名無子は黙ってその目を閉じ、三蔵の胸に寄り添っていた。
軽快なエンジン音を響かせるジープの上。
広くなった後部座席と、空っぽの助手席を悟空は黙って見詰めていた。
「なんだ悟空。腹減って声も出ねぇか」
隣から声を掛けてきた悟浄が
「別に―――あだだだっ!!」
浮かない表情の悟空の米神に拳を見舞った。
「とりあえずはよ、食料と服だけでもどっかで調達しなけりゃはじまんねーだろ」
「ん……」
あの夜から三日経って漸く目を覚ました後、聞かされた記憶のない一部始終。
いなくなった三蔵と名無子。頭に響いた、何かが壊れる音―――
深く陰を落としたまま、腹の虫さえ息を潜めていた。
「―――大丈夫」
不意に、悟浄が呟いた。
「え?」
「名無子ちゃんがな、別れ際、大丈夫だって。悟空にも伝えてくれとさ」
「……名無子…」
「最初は"名無子が"大丈夫って意味かと思ったけどな。多分、違ぇんだろ」
「―――そうでしょうね。名無子のことですから」
あの日、悟空を止めようと駆け出した名無子。
悟浄も八戒も、名無子が何かを知っていたのだと後になって気付いた。
何があったのかは知らない。
それでも、名無子が大丈夫と、"悟空に"も伝えてくれと言い残したのには何か理由があるのだろう。
そしてその理由はいつも決まって、名無子自身ではなく自分達を思ってのことであることを、痛い程に知っている。
「あぁ。だから…大丈夫なんじゃねぇの」
あの時も、傷だらけの悟空と八戒を前に泣きそうな顔をしながらもそれをぐっと堪えていたことを悟浄は思い出す。
その名無子が自分達を置いて三蔵に着いて行ったのは、恋人だからという単純な理由ではないように思えた。
ならば、大丈夫と残された言葉を信じて、大丈夫なようにするだけだと。
「……腹、減ってきたかも」
ぽつり弱々しくも言った、
(悟空も含めて…な…)
悟浄が片方の口角に笑みを上らせた。
「そりゃ良かったな」
僅かながらも空気が晴れたことを確認し、八戒が控えさせていた現実を差し出す。
「あのー…お二人とも気付いてないみたいなんで一応言っておきますけど―――ほぼ一文無しですよ、僕ら」
「「……え」」
「名無子に極貧生活させずに済んだことだけでも喜びましょうかねぇ」
あははと笑っていられるのも今のうちであることを、八戒はまだ知らなかった。
「おばんどすえ〜。街の人に高っい酒もろたさかい、お裾分けに来ましたえ〜……って、名無子はん。三蔵はんはお留守どすか?」
ノックもなく開かれた扉から上機嫌のヘイゼルが顔を出す。
名無子は鍵を締め忘れていたことを後悔しながら、
「お風呂」
短く言葉を返した。
「おや。んじゃ少し待たせてもらいまひょかね。名無子はんもお酒好きでっしゃろ?」
「……」
名無子の向かい側のソファへと腰を下ろしワインのボトルを開けながら尋ねるが、返事はなく視線すらも寄越さない。
「………もしかして名無子はん…うちのこと、嫌い?」
眉を萎れさせさも悲しそうな表情を浮かべるヘイゼルに名無子は嘆息を吐いてゆっくりと顔を上げた。
「―――私の大事な人を化け物と呼んで殺そうとした人を、嫌いじゃないはずがないでしょう」
明確に嫌悪と敵意を乗せた冷たい視線がヘイゼルに突き刺さる。
「それは……」
「先に言っておく。三蔵がそうしろって言わない限り、貴方に手を貸すつもりはない」
きっぱりと言い切り、名無子は席を立ってベッドへと向かうと、ヘッドボードに背を預け座った。
少しの間、ヘイゼルは目を伏せ何やら考え込んでいたが、
「名無子はん」
顔を上げ名無子を呼ぶと、両膝に手を着いて頭を下げた。
「あんさんの友人を侮辱したことは謝ります。えろすんませんでした。
―――でもな、名無子はんの力はこんなところで埋もれさせてええもんと違う。
名無子はんの力があればもっと沢山の人を救えるんや。どうかうちに手ぇ貸してください。
お願いします」
「嫌です。たとえ誰も救えなくても、多くの人を犠牲にしたとしても、貴方が言う『こんなところ』以外に行くつもりはない」
「名無子はん―――」
尚も食い下がろうとするヘイゼルに
「てめェも大概しつけぇな。人の質問には碌に答えもしねぇ癖によ」
風呂場から出てきた三蔵の不機嫌な声が飛んだ。
「三蔵はん…」
「―――名無子。こいつをどうしたい」
「速やかに出て行ってほしいです」
「だ、そうだ。さっさとお帰り願おうか」
取り付く島もない二人に、ヘイゼルは撤退を余儀なくされた。
苦笑を滲ませ、席を立つ。
「今夜のところは大人しく帰りまひょ。このままじゃ三蔵はんにまで嫌われてまう」
「既に嫌われてるとは思わねぇのか…」
「嫌よ嫌よも好きのうち言いますやろ?」
「言わん。帰れ。とっとと帰れ!」
抜かれた小銃から逃げるように去って行ったヘイゼル。
三蔵が深々と嘆息し、名無子は足早にドアの鍵を締めに向かった。
そしてソファへ移動し、手付かずのワイングラスを手に取ると、
「三蔵、お酒飲もう?」
先程までとは打って変わって、ふわりと柔らかな笑みを讃え三蔵を呼んだ。
唇をワインで濡らしながら目を細める名無子の隣へと三蔵が腰を下ろす。
「酒、我慢してたのか…」
「お酒に罪はないもん。と言うか、どこから聞いてたの?」
「嫌いじゃないはずがない辺りからだな」
「ほぼ最初」
「あいつの意図を確かめるためにな」
「確かめるまでもなくわかってたでしょう?」
三蔵は紫煙を細くたなびかせながら天井を仰ぐ。
名無子は言った。烏哭が、名無子の力のことも知っていたと。
斉天大聖の話と名無子の話を吹き込んだのが同一人物であるならば―――
「名無子」
「はい」
「これからは常に、俺の目の届く範囲にいろ」
「…お風呂は?」
「……」
「一緒に入る?」
「………」
猜疑心と警戒感を一瞬で上塗りした邪心に諦観の溜息を吐き出すと、グラスを一息に空け
「っっ!!三蔵!?」
「入んだろ。風呂」
名無子を抱きかかえ、本日二度目の風呂場へと足を向けた。