Pristinus Finis 〜最初の終わり〜
貴女のお名前は?
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「ぶぇぇっくしゅッッ!!」
ジープの上に盛大なくしゃみが鳴り響く。
「やっぱり風邪引いたんじゃないですか?出発、明日にした方が良かったんじゃ…」
「煩ぇ…。大丈夫だって言ってんだろうが」
それは、八戒だけに向けられた言葉ではなかった。
鼻を啜りながらちらりとバックミラーへと目を遣る。
滝壺から名無子を引き上げた翌日、早々に朝食を済ませ四人は再びジープを西へと走らせていた。
広くなった後部座席の片隅で、黙って目を伏せている名無子。
何を考えているかは問うまでもないが、三蔵もまた、それ以上の言葉を名無子に掛けることはしなかった。
そこにその人がいないこと、時折気不味い沈黙が流れることを除けば、これまでと何も変わらないように見える日々。
それが新しい日常となった。
折りに触れ、八戒や悟空がそれとはなしに名無子を気遣うが、いつも決まって下手くそな作り笑いと「大丈夫」という言葉が返ってくるだけ。
時間が解決することもあると距離を置いて見守っていた八戒だったが、ある日遂に限界を迎えた。
「名無子さん、少しいいですか?」
とある街に一泊した翌日。朝食後に、八戒が名無子を呼び止めた。
「うん」
「三蔵。ちょっとお借りしますね」
一応、一言断りを入れた八戒に三蔵は眉を上げこそすれ、何も言わず自室へと戻って行った。
部屋へと名無子を招き入れた八戒は、名無子に椅子を勧め、自身もベッドへと腰を下ろした。
「さて―――思ってること、全部話してください」
いきなり本題から切り出した八戒に、名無子が目を丸くする。
「思ってること…」
「何でもいいです。上手く話そうとしなくていいので。貴女が思っていること、感じていることを聞かせて欲しいんです」
名無子は暫く目を伏せて考え込むと、ぽつり、口を開いた。
「苦しい…」
「何が、苦しいんです?」
「私が原因なのに、こうやって八戒も、悟空も、私のこと心配してくれること。
悟浄のことも心配だし、三蔵にも無理させてること…」
「…無理?」
「うん」
「どうしてそう思うんですか?」
「……あの日からずっとね、三蔵、私のこと避けてるのがわかるから」
「そう…ですか?」
確かに以前に比べれば甘ったるい触れ合いは目にしていない。
しかしそれは、悟浄という敵対存在がいなくなったからだと勝手に解釈していたのだが―――
「うん。だって、もうずっと、キスもしてないし、抱いてもくれなくなった」
「え…?」
名無子の思わぬ言葉に、八戒の声が上ずった。
「一緒には寝てるけどね。それだけ」
ここ最近で見慣れてしまった歪な笑みを口元に乗せ
「嫌なら嫌って言ってほしいのに……気遣ってくれなくていいのにね」
再び視線を沈ませた名無子。
その笑みにフラッシュバックした記憶が、八戒の右目に痛みを奔らせた。
ふぅと一呼吸、八戒は思案する。
可能性の一つとして、悟浄が名無子の初めてになってしまったのではとも考えていたがどうやらそれは違っていたらしい。
それは兎も角、あの一件を機に三蔵の名無子に対する想いが変化したのだろうか。
まさか、潔癖だったか。名無子以外の女性を知らなかった三蔵なら有り得なくもないがとおかしな方向へ走り出した思考を一旦止める。
「三蔵は今回のこと、何と?」
あれ以来、悟浄の存在と共に俎上に載ることなく誰もが避けている話題だが、名無子と三蔵の間ではどう収まっているのかと思い尋ねた八戒に返されたのは、
「何も」
の、一言だった。
「…何も?」
「うん。何も言ってくれない。一切、何も聞かないし触れない。
何もなかったみたいに…悟浄なんて、始めからいなかったみたいに…」
名無子の声が震えていく。
(何も触れない…?……なかったことにでもするつもりですか…)
ならばあれからずっと、名無子は想いを消化するどころか、吐き出すこともなく今に至っていることになる。
愕然とする八戒に名無子は続ける。
「それも自分のせいだってわかってる。でも、償い方がわからない…」
ぽたり、握った拳へと水滴が落ちた。
「ねぇ八戒、どうしたらいい?私に何ができる?お願い教えて…っ…」
涙声の名無子に、八戒が立ち上がる。
そっと肩に触れ、それからゆっくりと震える身体に腕を回した。
事の繊細さから、これまで敢えて静観に徹し当事者たる三蔵に任せていた八戒だったが、
(完全に見誤りました……)
後悔に唇を噛む。
自責にその心を切り刻まれながらも決して助けてとは言わない名無子が泣き止むまで、ただ頭を撫で、強く抱き締めていた。
「名無子さん、もう少しだけ我慢してください。必ず僕が何とかしますから」
最後にそう告げ、名無子を部屋へ返した八戒は、その足で悟空の部屋へと向かった。
「悟空。ちょっと手を貸してください」
部屋の中、ベッドに寝転んでいた悟空が顔を上げる。
「何?八戒」
「悟浄を探しますよ」
「……へ?」
思いがけぬ言葉に気の抜けた声を返すと、
「殴りたくないですか?悟浄のこと」
いつになく清々しい笑みが放った問に
「殴りたい!!」
一も二もなく即答した。
「でしょう?それには先ず本体を見付けないと」
「でも…どこ行ったかわかんの?」
「西に向かえとだけ伝えておきました。足がないので今は大分後方だと思いますが、徒歩の方が早く着く道もあるのでどこかで合流できる可能性ももしかしたら」
「……三蔵は?何て?」
「三蔵はこれから何とかします」
何とかって、と、喉元まで出掛かったが、八戒がそう言うならそうなんだろうと己を納得させた。
「つってもさ、俺らに見付かるようなとこにいねぇよな。三蔵、次会ったら殺すーみたいなこと言ってたし…」
わかってはいたものの前途多難。悟空が眉を萎れさせるが、
「えぇ、でしょうね。でも悟浄の行動パターンはよく知っていますから。僕達が出入りせず、かつ路銀を稼ぐために悟浄が現れそうな場所と言えば…」
「……あ。俺わかった!!」
「はい。恐らく正解です。流石にこの街にはいないでしょうが、何か情報があるかも知れません。そこから当たってみましょう」
「了解っ!行こうぜ!!」
見えてきた希望の光。
立ち止まり嘆くだけなど性に合わない。今の自分に、少しでもできることをと、二人、街へと繰り出していった。
部屋の前、名無子は深呼吸を一つして扉を開けた。
椅子に腰掛けた三蔵が新聞から視線を上げる。
「ただいま」
「…あぁ」
赤く滲んだ名無子の瞳に気付くと僅かに眉間を曇らせた三蔵だったが、そのまま視線を戻した。
何を話していたのか、問う声はない。
名無子はベッドへと腰を下ろし、三蔵に気付かれぬよう細く息を零した。
一頻り泣いて、吐き出して、多少は晴れた気もする心の内。
しかし結局は何一つ変わっていない。
いつからか色を変えた、二人の間に落ちる沈黙も、相変わらず重いままだ。
『何とかする』。八戒はそう言ってくれたが、自分にできることはないのだろうか。
しかし自分が動くことで、今以上に関係が悪化してしまったら―――
既に犯してしまった拭えない過ちは名無子から自信を奪い、踏み出す足も、掴み取る腕ももぎ取っていた。
(何だろう…あの暗い部屋にいた頃に比べればずっと幸せなはずなのに……すごく、窮屈だ…)
滝壺に潜っていたときのような圧迫感と息苦しさが纏わり付いて、名無子は酸素を求めるようにゆっくりと、深く息を吸い込む。
同じ感覚を、三蔵も味わっていたのだろうか。
徐に立ち上がると、
「少し出てくる。八戒か悟空と一緒にいろ」
そう言い残し、部屋を出て行った。
糸が切れたように、名無子はベッドに倒れ込んだ。
大きく息を吐き出し、天井を見上げる。
(今、できること…)
名無子は思考を閉ざし、三蔵の言にただ従うことを選んだ。
起き上がり、再び八戒の部屋へと向かう。
しかし、
(それすらもできない…)
八戒も悟空も姿が見えず、結局一人部屋に戻ってきた名無子は、ベッドで膝を抱え嘆息した。
(探しに行くよりも、待ってた方がいい…よね…)
最早自分の選択すらも信じられなくなっていた。
ただ息を潜め、三蔵の帰りを待つ。
そうしているうち、ふと感じた気配に頭を擡げた。
それは、待ち人のものではなく―――
(ちゃんと一人で出来たら…褒めてくれるかな…)
名無子が銃を握り、息を吸い込んだ。
宿を出た三蔵は一人、宛もなく街を彷徨い歩いていた。
あの日感じた憎悪と憤怒は、時間が経っても未消化のまま胸の奥底で燻っている。
女性関係に関しては兎も角、少なからず信頼を置いていた悟浄の裏切りは、それが外的要因に依るものだと八戒に聞かされた後も尚、三蔵に影を落としたまま拭い去ることが出来ずにいた。
名無子の口から溢れ、呪文のように繰り返された謝罪の言葉も、必死に取り繕うような不器用な作り笑いも、泣き腫らしそれでも悲嘆を預けようとはしない頑なな瞳も、全てが癇に障る。
名無子のせいではない。
この状況を生んだ悟浄と、なす術も言葉も持たない自分自身に対しての憤り故のことだと、頭では理解している。
それでも―――
舌打ちを零し、袂に腕を突っ込み煙草を漁る。
ここ暫く、消費の激しい煙草の最後の一本を咥えた時、
「あれ?三蔵?」
悟空の声に手を止め、顔を上げた。
駆け寄ってくる悟空の後ろに、八戒の姿を確認すると
「お前ら…名無子はどうした」
姿の見えないもう一人を問い質した。
「え…三蔵と一緒じゃなかったんですか?」
疑問を返してきた八戒に、更に問いを重ねる。
「……お前ら、いつから外にいた」
「名無子さんと話をし終わってすぐ、悟空と一緒に…」
ならば、名無子は―――
状況把握した頭を掠めた嫌な予感。咥えていた煙草がぽたりと落ちる。
一瞬で氷点下に達した脳からの指令を待たず、三蔵の足は地を踏んだ。
逸る鼓動に突き動かされ帰ってきた宿。
扉を勢い任せに開け放ち、夜の帳が落ちた真っ暗な部屋に目を凝らす。
手探りで電気を点ければ、部屋に広がった光景に三蔵は息を呑んだ。
壁に飛び散った血痕。倒れた椅子と、テーブルに突き刺さった斧。
床に転がる数人の妖怪とそして―――膝を抱え、蹲る名無子。
「っっ!!名無子!!」
駆け寄り肩を掴んだ三蔵の手に、ぬるりとした生温い感触が触れた。
血に塗れ、大きく裂けた服。その細い体に傷は残されていなかったが、何があったかは一目瞭然だった。
ゆるゆると名無子が顔を上げる。
「ごめんなさい……八戒も悟空もいなくて…探しに行くよりも安全って思ったんだけど…」
視線は伏せたまま、血の飛んだ頬を歪に歪ませて苦笑いじみたものを浮かべる名無子に三蔵は眉根を寄せた。
「もういい、喋るな」
言って、強張った身体を強く抱き締める。
こんな時ですら碌に掛ける言葉を持たないもどかしさに、噛み締めた奥歯が小さく鳴った。
「っ…ごめ…ごめんなさいっ……」
譫言のように繰り返し、やがて名無子は三蔵の腕の中で意識を手放した。
三蔵と共に宿に戻ってきた八戒と悟空だったが、名無子の無事を確認し息を緩めたのも束の間、痛ましい名無子の姿に言葉もなく立ち尽くしていた。
暫くして、
「―――三蔵。ちょっと顔、貸してくれませんか」
八戒が酷く寒々しい声で三蔵の背に声を掛ける。
「…後にしろ」
「いいえ。今すぐに」
静かにも語気を強め、引く気配のない八戒を三蔵が睨み付ける。
が、それ以上何も言わず名無子を抱いたまま立ち上がった。
「悟空は名無子さんを僕の部屋に運んでください」
「う、うん。わかった」
「ちゃんと見ていてくださいね」
柔らかな八戒の笑顔に悟空が強く頷く。
三蔵は黙って悟空に名無子を預け、八戒の後に続いた。
宿の裏庭、三蔵に向き合った八戒が口を開く。
「悟浄を半殺しにして済ませませんか?」
まだ生きていれば、ですが、と。そう付け加えて。
「時間が解決してくれることを願っていましたがもう限界です。僕も悟空も、誰よりも名無子さんが。貴方だってそうじゃないんですか?」
三蔵は何も答えない。
しかし八戒は気に留めることもなく続ける。
「名無子さんは何より、貴方を傷付け僕達の関係を壊してしまったことを気に病んでいる。つまり悟浄が戻らないことには何も変わらないんです。
そして不幸中の幸い、名無子が悟浄と関係を持ってしまったこと自体を二の次に出来ている原因はこれだと思うのですが―――名無子さん、あの夜のことは何も覚えていないそうです」
「……何?」
「それすらも聞いていなかったんでしょう?
何も聞かず何も言わず……それで?いつまで続けるつもりですか」
「…お前に何がわかる」
「わかりませんよ。たかが一夜の過ちでしょう」
「…何だと?」
問答でどうにかなる問題ではないと半ば諦観し言うに任せていた三蔵の神経を、侮蔑の色の滲む"たかが"の一言が逆撫でした。
それでも尚、八戒の言葉は止まない。
真っ直ぐに視線を突き刺したまま、静かに宣告する。
「この際なのではっきり言います。汚れてしまった名無子さんに抵抗があるならさっさと解放しなさい。真綿で首を締め続けるより余程マシです」
「さっきから黙って聞いてりゃ…部外者が余計な口を挟むんじゃねェ!!」
苛立ちを抑えきれず、三蔵が八戒の胸倉を掴みかかった。
「挟まなかった結果がこの体たらくでしょう。何も出来ずに名無子放ったらかして一人でうじうじ悩んでただけじゃないですか。やらかしたことを直様理解して殺処分を受け入れた悟浄の方がいくらか潔かったですよ」
はっと短く笑い、一目でそれとわかる嘲笑を浮かべてみせた八戒に三蔵の中で何かが音を立てた。
拳を握りその顔面に向け殴り掛かるが、八戒はそれを容易く避けると攻守を転じ、組み伏せて三蔵の腕を捻り上げた。
「っっ!!」
「頭に血の上った貴方の拳が、僕に届くはずがないでしょう」
「貴様ッッ…!!」
「まだわかりませんか?傷跡の一つも受け入れてやれない狭量な男に、娘はやれないって言ってるんですよ」
どんなに辛かろうと、傷を負ったのは三蔵ではなく名無子だ。
その傷は女性にとって、別の男を愛する想いが強ければ強い程深いものであることを八戒は知っている。
その傷が原因で、自ら命を絶ってしまうことすらもあると―――
だからこそ、理解できないからこそ寄り添うしかないのだ。
間違っても、自身の怒りや憤りにかまけている場合ではない。
その想いが、堰を切って溢れ出す。
「貴方のその怒りは誰に向けての怒りですか。それは何よりも大事にすべき人の痛みから目を背けてまで…それどころか加えて苦しませてまで貫くべきものなんですか。
―――答えなさい三蔵!!」
八戒の声が、辺りに響いた。
誰に向けての怒りか?そんなものは決まっている。
お前の言う通り、名無子から目を背けるしかできねぇ自分自身だ。
傷跡を受け入れられない?ふざけんじゃねぇ。
今まで幾つの傷をこの身に刻んできた。
その度に相手をぶちのめしてここまできたんだ。
なんだ―――簡単なことじゃねぇか。
「離せ…」
三蔵が低く呟いた。
「離せと言っている」
八戒を睨め上げたのは、強靭な信念を内包した紫暗の瞳だった。
これまでどんな苦境からもしぶとく立ち上がってきた揺るぎない瞳。
八戒のよく知る三蔵が漸く戻ってきたことに安堵の息を零し、八戒は腕の拘束を解いた。
三蔵は立ち上がると、法衣に付いた土を叩きながら八戒へ鋭い視線を差し向ける。
「それだけの啖呵切っておいて見付からなかったなんて言わせねぇぞ」
「どの口が―――とは思いますが、まぁいいです。何なら去勢して連れてきましょうか?」
いつも通りの口調、いつも通りの笑みで爽やかに提案する八戒を、三蔵がふんと鼻で笑った。
「それは俺がやる。半殺しにするついでにな」
「そうですか……わかりました。多少戻ることになっても構いませんね?」
「あぁ。だが名無子には黙ってろ。余計な期待はさせたくねぇ」
「じゃあ忘れ物を取りにとでも言っておきましょうかね」
漸く一息。先程まで決められていた肩を回しながら、部屋へ戻ろうと踵を返した三蔵を八戒が呼び止める。
「あと三蔵」
「今度は何だ」
「一つだけ、アドバイスさせてください」
「…いらん」
眉間に不快感を示し丁重に断るが、
「まぁまぁ、そう言わず」
鉄壁の笑顔を纏った八戒が聞くはずもなかった。
声を潜め、囁くように言う。
「早く上書きしてしまいなさい。―――それができるって、幸せなことですよ?」
「上書き…?」
意味がわからず復唱した三蔵に、八戒は意味ありげな微笑だけを返した。
ジープの上に盛大なくしゃみが鳴り響く。
「やっぱり風邪引いたんじゃないですか?出発、明日にした方が良かったんじゃ…」
「煩ぇ…。大丈夫だって言ってんだろうが」
それは、八戒だけに向けられた言葉ではなかった。
鼻を啜りながらちらりとバックミラーへと目を遣る。
滝壺から名無子を引き上げた翌日、早々に朝食を済ませ四人は再びジープを西へと走らせていた。
広くなった後部座席の片隅で、黙って目を伏せている名無子。
何を考えているかは問うまでもないが、三蔵もまた、それ以上の言葉を名無子に掛けることはしなかった。
そこにその人がいないこと、時折気不味い沈黙が流れることを除けば、これまでと何も変わらないように見える日々。
それが新しい日常となった。
折りに触れ、八戒や悟空がそれとはなしに名無子を気遣うが、いつも決まって下手くそな作り笑いと「大丈夫」という言葉が返ってくるだけ。
時間が解決することもあると距離を置いて見守っていた八戒だったが、ある日遂に限界を迎えた。
「名無子さん、少しいいですか?」
とある街に一泊した翌日。朝食後に、八戒が名無子を呼び止めた。
「うん」
「三蔵。ちょっとお借りしますね」
一応、一言断りを入れた八戒に三蔵は眉を上げこそすれ、何も言わず自室へと戻って行った。
部屋へと名無子を招き入れた八戒は、名無子に椅子を勧め、自身もベッドへと腰を下ろした。
「さて―――思ってること、全部話してください」
いきなり本題から切り出した八戒に、名無子が目を丸くする。
「思ってること…」
「何でもいいです。上手く話そうとしなくていいので。貴女が思っていること、感じていることを聞かせて欲しいんです」
名無子は暫く目を伏せて考え込むと、ぽつり、口を開いた。
「苦しい…」
「何が、苦しいんです?」
「私が原因なのに、こうやって八戒も、悟空も、私のこと心配してくれること。
悟浄のことも心配だし、三蔵にも無理させてること…」
「…無理?」
「うん」
「どうしてそう思うんですか?」
「……あの日からずっとね、三蔵、私のこと避けてるのがわかるから」
「そう…ですか?」
確かに以前に比べれば甘ったるい触れ合いは目にしていない。
しかしそれは、悟浄という敵対存在がいなくなったからだと勝手に解釈していたのだが―――
「うん。だって、もうずっと、キスもしてないし、抱いてもくれなくなった」
「え…?」
名無子の思わぬ言葉に、八戒の声が上ずった。
「一緒には寝てるけどね。それだけ」
ここ最近で見慣れてしまった歪な笑みを口元に乗せ
「嫌なら嫌って言ってほしいのに……気遣ってくれなくていいのにね」
再び視線を沈ませた名無子。
その笑みにフラッシュバックした記憶が、八戒の右目に痛みを奔らせた。
ふぅと一呼吸、八戒は思案する。
可能性の一つとして、悟浄が名無子の初めてになってしまったのではとも考えていたがどうやらそれは違っていたらしい。
それは兎も角、あの一件を機に三蔵の名無子に対する想いが変化したのだろうか。
まさか、潔癖だったか。名無子以外の女性を知らなかった三蔵なら有り得なくもないがとおかしな方向へ走り出した思考を一旦止める。
「三蔵は今回のこと、何と?」
あれ以来、悟浄の存在と共に俎上に載ることなく誰もが避けている話題だが、名無子と三蔵の間ではどう収まっているのかと思い尋ねた八戒に返されたのは、
「何も」
の、一言だった。
「…何も?」
「うん。何も言ってくれない。一切、何も聞かないし触れない。
何もなかったみたいに…悟浄なんて、始めからいなかったみたいに…」
名無子の声が震えていく。
(何も触れない…?……なかったことにでもするつもりですか…)
ならばあれからずっと、名無子は想いを消化するどころか、吐き出すこともなく今に至っていることになる。
愕然とする八戒に名無子は続ける。
「それも自分のせいだってわかってる。でも、償い方がわからない…」
ぽたり、握った拳へと水滴が落ちた。
「ねぇ八戒、どうしたらいい?私に何ができる?お願い教えて…っ…」
涙声の名無子に、八戒が立ち上がる。
そっと肩に触れ、それからゆっくりと震える身体に腕を回した。
事の繊細さから、これまで敢えて静観に徹し当事者たる三蔵に任せていた八戒だったが、
(完全に見誤りました……)
後悔に唇を噛む。
自責にその心を切り刻まれながらも決して助けてとは言わない名無子が泣き止むまで、ただ頭を撫で、強く抱き締めていた。
「名無子さん、もう少しだけ我慢してください。必ず僕が何とかしますから」
最後にそう告げ、名無子を部屋へ返した八戒は、その足で悟空の部屋へと向かった。
「悟空。ちょっと手を貸してください」
部屋の中、ベッドに寝転んでいた悟空が顔を上げる。
「何?八戒」
「悟浄を探しますよ」
「……へ?」
思いがけぬ言葉に気の抜けた声を返すと、
「殴りたくないですか?悟浄のこと」
いつになく清々しい笑みが放った問に
「殴りたい!!」
一も二もなく即答した。
「でしょう?それには先ず本体を見付けないと」
「でも…どこ行ったかわかんの?」
「西に向かえとだけ伝えておきました。足がないので今は大分後方だと思いますが、徒歩の方が早く着く道もあるのでどこかで合流できる可能性ももしかしたら」
「……三蔵は?何て?」
「三蔵はこれから何とかします」
何とかって、と、喉元まで出掛かったが、八戒がそう言うならそうなんだろうと己を納得させた。
「つってもさ、俺らに見付かるようなとこにいねぇよな。三蔵、次会ったら殺すーみたいなこと言ってたし…」
わかってはいたものの前途多難。悟空が眉を萎れさせるが、
「えぇ、でしょうね。でも悟浄の行動パターンはよく知っていますから。僕達が出入りせず、かつ路銀を稼ぐために悟浄が現れそうな場所と言えば…」
「……あ。俺わかった!!」
「はい。恐らく正解です。流石にこの街にはいないでしょうが、何か情報があるかも知れません。そこから当たってみましょう」
「了解っ!行こうぜ!!」
見えてきた希望の光。
立ち止まり嘆くだけなど性に合わない。今の自分に、少しでもできることをと、二人、街へと繰り出していった。
部屋の前、名無子は深呼吸を一つして扉を開けた。
椅子に腰掛けた三蔵が新聞から視線を上げる。
「ただいま」
「…あぁ」
赤く滲んだ名無子の瞳に気付くと僅かに眉間を曇らせた三蔵だったが、そのまま視線を戻した。
何を話していたのか、問う声はない。
名無子はベッドへと腰を下ろし、三蔵に気付かれぬよう細く息を零した。
一頻り泣いて、吐き出して、多少は晴れた気もする心の内。
しかし結局は何一つ変わっていない。
いつからか色を変えた、二人の間に落ちる沈黙も、相変わらず重いままだ。
『何とかする』。八戒はそう言ってくれたが、自分にできることはないのだろうか。
しかし自分が動くことで、今以上に関係が悪化してしまったら―――
既に犯してしまった拭えない過ちは名無子から自信を奪い、踏み出す足も、掴み取る腕ももぎ取っていた。
(何だろう…あの暗い部屋にいた頃に比べればずっと幸せなはずなのに……すごく、窮屈だ…)
滝壺に潜っていたときのような圧迫感と息苦しさが纏わり付いて、名無子は酸素を求めるようにゆっくりと、深く息を吸い込む。
同じ感覚を、三蔵も味わっていたのだろうか。
徐に立ち上がると、
「少し出てくる。八戒か悟空と一緒にいろ」
そう言い残し、部屋を出て行った。
糸が切れたように、名無子はベッドに倒れ込んだ。
大きく息を吐き出し、天井を見上げる。
(今、できること…)
名無子は思考を閉ざし、三蔵の言にただ従うことを選んだ。
起き上がり、再び八戒の部屋へと向かう。
しかし、
(それすらもできない…)
八戒も悟空も姿が見えず、結局一人部屋に戻ってきた名無子は、ベッドで膝を抱え嘆息した。
(探しに行くよりも、待ってた方がいい…よね…)
最早自分の選択すらも信じられなくなっていた。
ただ息を潜め、三蔵の帰りを待つ。
そうしているうち、ふと感じた気配に頭を擡げた。
それは、待ち人のものではなく―――
(ちゃんと一人で出来たら…褒めてくれるかな…)
名無子が銃を握り、息を吸い込んだ。
宿を出た三蔵は一人、宛もなく街を彷徨い歩いていた。
あの日感じた憎悪と憤怒は、時間が経っても未消化のまま胸の奥底で燻っている。
女性関係に関しては兎も角、少なからず信頼を置いていた悟浄の裏切りは、それが外的要因に依るものだと八戒に聞かされた後も尚、三蔵に影を落としたまま拭い去ることが出来ずにいた。
名無子の口から溢れ、呪文のように繰り返された謝罪の言葉も、必死に取り繕うような不器用な作り笑いも、泣き腫らしそれでも悲嘆を預けようとはしない頑なな瞳も、全てが癇に障る。
名無子のせいではない。
この状況を生んだ悟浄と、なす術も言葉も持たない自分自身に対しての憤り故のことだと、頭では理解している。
それでも―――
舌打ちを零し、袂に腕を突っ込み煙草を漁る。
ここ暫く、消費の激しい煙草の最後の一本を咥えた時、
「あれ?三蔵?」
悟空の声に手を止め、顔を上げた。
駆け寄ってくる悟空の後ろに、八戒の姿を確認すると
「お前ら…名無子はどうした」
姿の見えないもう一人を問い質した。
「え…三蔵と一緒じゃなかったんですか?」
疑問を返してきた八戒に、更に問いを重ねる。
「……お前ら、いつから外にいた」
「名無子さんと話をし終わってすぐ、悟空と一緒に…」
ならば、名無子は―――
状況把握した頭を掠めた嫌な予感。咥えていた煙草がぽたりと落ちる。
一瞬で氷点下に達した脳からの指令を待たず、三蔵の足は地を踏んだ。
逸る鼓動に突き動かされ帰ってきた宿。
扉を勢い任せに開け放ち、夜の帳が落ちた真っ暗な部屋に目を凝らす。
手探りで電気を点ければ、部屋に広がった光景に三蔵は息を呑んだ。
壁に飛び散った血痕。倒れた椅子と、テーブルに突き刺さった斧。
床に転がる数人の妖怪とそして―――膝を抱え、蹲る名無子。
「っっ!!名無子!!」
駆け寄り肩を掴んだ三蔵の手に、ぬるりとした生温い感触が触れた。
血に塗れ、大きく裂けた服。その細い体に傷は残されていなかったが、何があったかは一目瞭然だった。
ゆるゆると名無子が顔を上げる。
「ごめんなさい……八戒も悟空もいなくて…探しに行くよりも安全って思ったんだけど…」
視線は伏せたまま、血の飛んだ頬を歪に歪ませて苦笑いじみたものを浮かべる名無子に三蔵は眉根を寄せた。
「もういい、喋るな」
言って、強張った身体を強く抱き締める。
こんな時ですら碌に掛ける言葉を持たないもどかしさに、噛み締めた奥歯が小さく鳴った。
「っ…ごめ…ごめんなさいっ……」
譫言のように繰り返し、やがて名無子は三蔵の腕の中で意識を手放した。
三蔵と共に宿に戻ってきた八戒と悟空だったが、名無子の無事を確認し息を緩めたのも束の間、痛ましい名無子の姿に言葉もなく立ち尽くしていた。
暫くして、
「―――三蔵。ちょっと顔、貸してくれませんか」
八戒が酷く寒々しい声で三蔵の背に声を掛ける。
「…後にしろ」
「いいえ。今すぐに」
静かにも語気を強め、引く気配のない八戒を三蔵が睨み付ける。
が、それ以上何も言わず名無子を抱いたまま立ち上がった。
「悟空は名無子さんを僕の部屋に運んでください」
「う、うん。わかった」
「ちゃんと見ていてくださいね」
柔らかな八戒の笑顔に悟空が強く頷く。
三蔵は黙って悟空に名無子を預け、八戒の後に続いた。
宿の裏庭、三蔵に向き合った八戒が口を開く。
「悟浄を半殺しにして済ませませんか?」
まだ生きていれば、ですが、と。そう付け加えて。
「時間が解決してくれることを願っていましたがもう限界です。僕も悟空も、誰よりも名無子さんが。貴方だってそうじゃないんですか?」
三蔵は何も答えない。
しかし八戒は気に留めることもなく続ける。
「名無子さんは何より、貴方を傷付け僕達の関係を壊してしまったことを気に病んでいる。つまり悟浄が戻らないことには何も変わらないんです。
そして不幸中の幸い、名無子が悟浄と関係を持ってしまったこと自体を二の次に出来ている原因はこれだと思うのですが―――名無子さん、あの夜のことは何も覚えていないそうです」
「……何?」
「それすらも聞いていなかったんでしょう?
何も聞かず何も言わず……それで?いつまで続けるつもりですか」
「…お前に何がわかる」
「わかりませんよ。たかが一夜の過ちでしょう」
「…何だと?」
問答でどうにかなる問題ではないと半ば諦観し言うに任せていた三蔵の神経を、侮蔑の色の滲む"たかが"の一言が逆撫でした。
それでも尚、八戒の言葉は止まない。
真っ直ぐに視線を突き刺したまま、静かに宣告する。
「この際なのではっきり言います。汚れてしまった名無子さんに抵抗があるならさっさと解放しなさい。真綿で首を締め続けるより余程マシです」
「さっきから黙って聞いてりゃ…部外者が余計な口を挟むんじゃねェ!!」
苛立ちを抑えきれず、三蔵が八戒の胸倉を掴みかかった。
「挟まなかった結果がこの体たらくでしょう。何も出来ずに名無子放ったらかして一人でうじうじ悩んでただけじゃないですか。やらかしたことを直様理解して殺処分を受け入れた悟浄の方がいくらか潔かったですよ」
はっと短く笑い、一目でそれとわかる嘲笑を浮かべてみせた八戒に三蔵の中で何かが音を立てた。
拳を握りその顔面に向け殴り掛かるが、八戒はそれを容易く避けると攻守を転じ、組み伏せて三蔵の腕を捻り上げた。
「っっ!!」
「頭に血の上った貴方の拳が、僕に届くはずがないでしょう」
「貴様ッッ…!!」
「まだわかりませんか?傷跡の一つも受け入れてやれない狭量な男に、娘はやれないって言ってるんですよ」
どんなに辛かろうと、傷を負ったのは三蔵ではなく名無子だ。
その傷は女性にとって、別の男を愛する想いが強ければ強い程深いものであることを八戒は知っている。
その傷が原因で、自ら命を絶ってしまうことすらもあると―――
だからこそ、理解できないからこそ寄り添うしかないのだ。
間違っても、自身の怒りや憤りにかまけている場合ではない。
その想いが、堰を切って溢れ出す。
「貴方のその怒りは誰に向けての怒りですか。それは何よりも大事にすべき人の痛みから目を背けてまで…それどころか加えて苦しませてまで貫くべきものなんですか。
―――答えなさい三蔵!!」
八戒の声が、辺りに響いた。
誰に向けての怒りか?そんなものは決まっている。
お前の言う通り、名無子から目を背けるしかできねぇ自分自身だ。
傷跡を受け入れられない?ふざけんじゃねぇ。
今まで幾つの傷をこの身に刻んできた。
その度に相手をぶちのめしてここまできたんだ。
なんだ―――簡単なことじゃねぇか。
「離せ…」
三蔵が低く呟いた。
「離せと言っている」
八戒を睨め上げたのは、強靭な信念を内包した紫暗の瞳だった。
これまでどんな苦境からもしぶとく立ち上がってきた揺るぎない瞳。
八戒のよく知る三蔵が漸く戻ってきたことに安堵の息を零し、八戒は腕の拘束を解いた。
三蔵は立ち上がると、法衣に付いた土を叩きながら八戒へ鋭い視線を差し向ける。
「それだけの啖呵切っておいて見付からなかったなんて言わせねぇぞ」
「どの口が―――とは思いますが、まぁいいです。何なら去勢して連れてきましょうか?」
いつも通りの口調、いつも通りの笑みで爽やかに提案する八戒を、三蔵がふんと鼻で笑った。
「それは俺がやる。半殺しにするついでにな」
「そうですか……わかりました。多少戻ることになっても構いませんね?」
「あぁ。だが名無子には黙ってろ。余計な期待はさせたくねぇ」
「じゃあ忘れ物を取りにとでも言っておきましょうかね」
漸く一息。先程まで決められていた肩を回しながら、部屋へ戻ろうと踵を返した三蔵を八戒が呼び止める。
「あと三蔵」
「今度は何だ」
「一つだけ、アドバイスさせてください」
「…いらん」
眉間に不快感を示し丁重に断るが、
「まぁまぁ、そう言わず」
鉄壁の笑顔を纏った八戒が聞くはずもなかった。
声を潜め、囁くように言う。
「早く上書きしてしまいなさい。―――それができるって、幸せなことですよ?」
「上書き…?」
意味がわからず復唱した三蔵に、八戒は意味ありげな微笑だけを返した。