Pristinus Finis 〜最初の終わり〜
貴女のお名前は?
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その後、名無子を連れ宿へと戻った八戒と悟空。
三蔵がいるであろう部屋の隣室で、八戒は名無子にコーヒーを淹れてやり、名無子が落ち着くのを待った。
時折、落ちる涙がカップの中で水面を揺らす。
言える言葉もないままに、悟空は口を噤み、二人の様子を伺っていた。
コーヒーが空になった頃、漸く涙も途切れ、弱々しくも顔を上げた名無子が赤を纏った灰銀で八戒を見据えた。
「八戒。悟空。ごめんなさい」
再び滲み出す瞳を堪えようと眉間を顰める名無子。
その隣に八戒は移動すると、膝の上で固く握られた手に、自分の掌を重ねた。
「何があったか、話してくれますか?」
できるだけ穏やかな語気で問い掛ける。
こくりと名無子が頷き、でも、と続けた。
「途中までしか―――」
「??……覚えていない?」
再び、こくり。
「お酒飲んでて、悟空が寝ちゃったとこまでは覚えてる。でもそこから記憶が曖昧で……
でも…覚えてないけど……何が起きたかくらい、判るよ」
力ない、無理矢理繕ったような歪な笑みがそう答えた。
「……お酒、飲み過ぎてしまった?」
以前一度だけ、名無子が酔っ払った姿を目にしたことがある。
あの時は悟浄の理性がもったお陰で事なきを得たが、今回に関しては悟空を酔い潰したように、悟浄が意図的に飲ませた可能性を踏まえての確認だったのだが、意外にも名無子は首を横に振った。
「そんなに飲んでない。悟空が飲んだお酒も、私は飲んでないし」
「それじゃあ…」
やはり何か薬でも盛られたのだろうかと推し量っていると、
「もしかしたら…」
名無子が小さく呟いた。
「何か、思い当たる節でも?」
「お菓子…」
「お菓子?」
「店に入る前、露天でお菓子買って悟浄と二人で食べたの。何だっけ…カップルが仲良くなるお呪い?とか…」
さして気にしていなかったため余り記憶に残っていないながらも、話しているうちに漸く明瞭になってきた思考を凝らす。
「―――!!?まさか…」
不意に八戒が、何かに思い当たったように声を上げた。
「八戒…?」
「その露天、どこにあったか覚えてますか?」
「え…うん」
名無子から凡その場所を聞き出すと、
「少し出掛けてきます。悟空。すぐ戻るので名無子さんと一緒にいてください」
言い残し、八戒は急ぎ部屋を出て行った。
訪れた沈黙を、悟空が噛み締める。
泣き腫らした瞳で消沈する名無子。曇りのない明確な殺意を悟浄に向けた三蔵。自分の額に、銃口を突き付けた悟浄。
あの時、何かが壊れる音が確かに聞こえた。
その切欠を作ったのが悟浄だと思うと
「あのクソ河童……」
思わず漏れた悪態に、名無子がゆっくりと顔を上げた。
「悟浄を責めないであげて…」
憔悴しきった顔が弱々しく笑みを形作り言う。
「でも…」
それは無理な話だと怒りを滲ませる悟空に、不釣り合いな程に柔らかな声が届けられた。
「間違えないで、悟空。原因は全て、私にある」
事態を把握してからも、原因が悟浄にあるとは微塵も思わなかった。
悟浄の想いは―――抱いている劣情も、痛い程に知っている。
それ以上に、自身を大事に思ってくれていることも。
悟浄の想いと、悟浄自身の強さを、名無子は誰よりも信じていた。
例えどんな"要因"があったにせよ、"原因"―――つまり自分がいなければ起こり得なかったことである。
そしてその結果、壊れた―――壊してしまった"四人"の関係。
それは、名無子が四人と出会った日から何よりも恐れていたことであり、三蔵の手を取ったその日に、決してそうはすまいと心に誓ったことでもあった。
「名無子…」
そんなことはないと、口にするのは容易かった。
しかし、その言葉はもう届かないと、優しく微笑む名無子を見てわかってしまった。
何も言えない、何も出来ないもどかしさに悟空の瞳が沈む。
ふと、名無子が席を立った。
「ごめん、悟空。少し、一人にして」
部屋を出ていこうとする名無子に、悟空が慌てて問い掛ける。
「えっ?どこ行くんだよ?」
「お散歩。大丈夫だから」
「……ちゃんと、帰ってくるよな?…いなくなったりしないよな??」
不安を隠せない悟空に、名無子は振り返り、
「うん」
と、微笑を浮かべ答えた。
分厚い雲が日差しを遮り、冷たい北風が道行く人々を凍えさせている。
名無子は一人宛もなく歩き続け、辿り着いたのは街から少し離れた森の奥。
10数メートルの高さから爆音を轟かせ流れ落ちる清流が水飛沫を上げている。
肌を刺すような寒さも気に留めることなく、その脇で名無子は服を脱ぐと、滝壺へと足を進めた。
汗でべとついた身体を洗い清め、そのまま澄んだ水中へと全身を沈める。
名無子は肺の底から空気を吐き出すと、水中で膝を抱えた。
浮力を保つことが出来ず、沈んでいく身体。
深く、深く。光の届かない水底へ―――
どんなに苦しくても、死が訪れないことはわかっている。
故に、自死を狙った行為ではなかった。
言わば自傷のようなものだが、それすらも大して叶わないことを名無子は理解していた。
身を裂くような痛みも、苦しみも、心が発するものに比べれば些末なもの。
そしてそれ以上の苦痛を味わっているはずの―――自身が味わわせてしまっているはずの愛しい者達を想う。壊してしまったものを想う。戻らないものを想う。
痛みは意識を手放すことさえ許さず、後悔と自責の渦に身を委ねてどれくらいが経っただろうか。
闇が揺らぎ、金色の光が視界を掠めた。
名無子が部屋を出て暫く、悟空は一人部屋の中で二人の帰りを待ち侘びていた。
やはり、名無子に着いて行った方が良かったのだろうか。
しかしこんなときに、一人にすらなれないというのは寧ろ可哀想にも思える。
第一、起きた事を考えれば男である自分達と一緒にいたくないのかもしれない。
悶々と無為な思考を重ねる中、腹の虫は鳴りを潜め、食欲も湧かなかった。
ふと、扉越しに感じた気配に顔を上げる。
「只今戻りました―――悟空、名無子さんは?」
走って戻ってきたのだろうか、息を切らせながら現れた八戒が部屋を見渡し尋ねる。
「……少し一人になりたいって。出てった」
少し躊躇いを見せて口にした悟空に、八戒が目を見開いた。
「何ですって!?どうして一人で行かせたんですか!!」
「だって名無子が…!」
「だってじゃありません!どうするんです名無子さんに万が一のことがあったら!」
思わず声を荒らげた八戒に、悟空は眉を寄せ、ぐっと一度奥歯を噛むと
「………名無子が言ったんだ。いなくなったりしないって」
真っ直ぐに八戒を睨み付け口を開いた。
「俺だって思ったさ!名無子一人にして何かあったらって。でも―――三蔵だって八戒だって好き勝手してんじゃん!どうして名無子は駄目なんだよ!
どうして……どうして悟浄に襲われて一番辛いはずの名無子が無理して笑って、『全部自分のせい』なんて言わなきゃなんねーんだよ!!!」
言の葉は徐々に熱を増して行き、やがて叫びとなる。
そして彷徨った怒りの鋒は最終的に自分自身に向けられた。
「俺が名無子にできることなんて、名無子のこと信じて、名無子の好きにさせてやることくらいしかねーじゃん…」
掠れた声で言いながら涙を袖で拭い上げる悟空に、八戒は言葉を失った。
そう、名無子は完全なる被害者だった。そして、悟浄すらも―――
名無子の心当たりと自身の推察を辿った結果、その確証を得て八戒は戻ってきていた。
しかしそれがわかるまで、悟空のように一片の疑いも持たずにいただろうか。
名無子が無自覚に煽った可能性を、酔いに任せて身を委ねた可能性を、全く考えなかっただろうか。
例え何の否もなくとも、名無子が自身を責めることくらいわかりきっていたのに。
そんな名無子を放っておいて、唯一名無子の心に寄り添っていた悟空を非難してしまった自分に恥じ入るばかりだった。
「ギャーギャー煩ぇ。隣の部屋まで響いてんだよ」
不意に響いた声は部屋の入り口からだった。
「三蔵!」
扉に凭れ掛かり不機嫌そうな眼差しでこちらを見詰めている。
「……名無子は」
部屋に視線を走らせ、三蔵が静かに問う。
八戒は息を吸い込むと、意を決したように話しだした。
「三蔵、話があります。ですが今はそれよりも先に」
「…何だ」
三蔵から一旦悟空へと向き直り、
「悟空。すみません、確かにこれは僕の我儘です。それでも、僕は今の名無子さんを一人にはできません」
改めて、思いを口にする。
八戒のその言葉に、三蔵の眉がぴくりと跳ねた。
「何…?」
「―――名無子さんが一人になりたいと、出て行ったそうです」
再び視線を合わせ放たれた答えが、三蔵の瞳を見開かせる。
「っっ!!」
「三蔵!!」
踵を転じ部屋の外へと駆け出していった三蔵を八戒と悟空が追った。
黄昏色に染まる空。
名無子を探し駆け回る道すがら、八戒は明らかになった事の原因を話して聞かせた。
名無子と悟浄が露天で買って食べたと言う菓子。その露天商を八戒はつい先程見付け出した。
店主の話によれば、やはり思った通り、その菓子には催淫効果のある材料―――それも、アルコールと合わさるとより効果が強く出るものが含まれていた。
『 喧嘩してるカップルだってこれ食って一発ヤりゃあ簡単に仲直りよ! 』
そう楽しげに笑って話す店主を殴り飛ばしたい衝動に駆られたが、あくまでカップルを対象にして売っている分には問題はないのかも知れない。
例えばこれを口にしたのが三蔵と名無子だったら、売り文句通りの効果が得られたことだろう。
事実、その露天商を探す中で聞いた評判も悪くはなかった。
つまり―――
「今回のことは、誰の悪意にも過失にも依らない、完全な事故だったんです」
八戒の言葉に、三蔵は息を切らせながら舌打ちを響かせた。
果たして、街の方方を探してもその姿は見当たらない。
手分けして街の外まで足を伸ばすことになり、三蔵は一人森の奥へと足を運んでいた。
妖怪の気配はない。大丈夫だ。帰ってくると言ったのなら、名無子が言葉を違えるはずがないと自分に言い聞かせる。
しかしもし―――避けようのない事態が過ぎっては消える。
乱れた呼吸も、耳障りな鼓動も構わず足を進めていると木々が途切れた。
凍えるような湿った冷気が爆音に乗って肌を撫でる。
滝壺のほとり、三蔵の瞳が見慣れた白い法衣を捉えた。
(まさか―――)
視線が滝壺へと走る。
「名無子!!」
声を張り上げるが、返事はない。
法衣を脱ぎ捨て、何かに誘われるように滝壺へと飛び込んだ。
冷たい水を掻き、光から遠ざかる。
息の続く限り、深く、深く。
闇の向こう、立ち上る銀糸が僅かな光を反射した。
「名無子!!」
水中から引き上げられた名無子が、ゆっくりと瞼を開く。
三蔵は漸く呼吸を許されたように息を吐き出すと、氷のように冷え切ったその身体をきつく抱き締めた。
「……大丈夫だよ…私は死なないから…」
力なく上げられた腕が、三蔵の頭を撫でて言う。
そんなことは、わかっていたはずだった。
消えないと、そう言った名無子のことも信じている。
それでも。
襲い来る恐怖は理屈で御しきれるものではなかった。
三蔵の腕が微かに震える。
「ごめんなさい……」
謝ってばかりだと、名無子は思った。
愛する人を傷付け、不安に陥れ―――願うことは真逆のはずなのに。
零れた一筋の涙。
遠くで、八戒と悟空の声が聞こえた。
三蔵がいるであろう部屋の隣室で、八戒は名無子にコーヒーを淹れてやり、名無子が落ち着くのを待った。
時折、落ちる涙がカップの中で水面を揺らす。
言える言葉もないままに、悟空は口を噤み、二人の様子を伺っていた。
コーヒーが空になった頃、漸く涙も途切れ、弱々しくも顔を上げた名無子が赤を纏った灰銀で八戒を見据えた。
「八戒。悟空。ごめんなさい」
再び滲み出す瞳を堪えようと眉間を顰める名無子。
その隣に八戒は移動すると、膝の上で固く握られた手に、自分の掌を重ねた。
「何があったか、話してくれますか?」
できるだけ穏やかな語気で問い掛ける。
こくりと名無子が頷き、でも、と続けた。
「途中までしか―――」
「??……覚えていない?」
再び、こくり。
「お酒飲んでて、悟空が寝ちゃったとこまでは覚えてる。でもそこから記憶が曖昧で……
でも…覚えてないけど……何が起きたかくらい、判るよ」
力ない、無理矢理繕ったような歪な笑みがそう答えた。
「……お酒、飲み過ぎてしまった?」
以前一度だけ、名無子が酔っ払った姿を目にしたことがある。
あの時は悟浄の理性がもったお陰で事なきを得たが、今回に関しては悟空を酔い潰したように、悟浄が意図的に飲ませた可能性を踏まえての確認だったのだが、意外にも名無子は首を横に振った。
「そんなに飲んでない。悟空が飲んだお酒も、私は飲んでないし」
「それじゃあ…」
やはり何か薬でも盛られたのだろうかと推し量っていると、
「もしかしたら…」
名無子が小さく呟いた。
「何か、思い当たる節でも?」
「お菓子…」
「お菓子?」
「店に入る前、露天でお菓子買って悟浄と二人で食べたの。何だっけ…カップルが仲良くなるお呪い?とか…」
さして気にしていなかったため余り記憶に残っていないながらも、話しているうちに漸く明瞭になってきた思考を凝らす。
「―――!!?まさか…」
不意に八戒が、何かに思い当たったように声を上げた。
「八戒…?」
「その露天、どこにあったか覚えてますか?」
「え…うん」
名無子から凡その場所を聞き出すと、
「少し出掛けてきます。悟空。すぐ戻るので名無子さんと一緒にいてください」
言い残し、八戒は急ぎ部屋を出て行った。
訪れた沈黙を、悟空が噛み締める。
泣き腫らした瞳で消沈する名無子。曇りのない明確な殺意を悟浄に向けた三蔵。自分の額に、銃口を突き付けた悟浄。
あの時、何かが壊れる音が確かに聞こえた。
その切欠を作ったのが悟浄だと思うと
「あのクソ河童……」
思わず漏れた悪態に、名無子がゆっくりと顔を上げた。
「悟浄を責めないであげて…」
憔悴しきった顔が弱々しく笑みを形作り言う。
「でも…」
それは無理な話だと怒りを滲ませる悟空に、不釣り合いな程に柔らかな声が届けられた。
「間違えないで、悟空。原因は全て、私にある」
事態を把握してからも、原因が悟浄にあるとは微塵も思わなかった。
悟浄の想いは―――抱いている劣情も、痛い程に知っている。
それ以上に、自身を大事に思ってくれていることも。
悟浄の想いと、悟浄自身の強さを、名無子は誰よりも信じていた。
例えどんな"要因"があったにせよ、"原因"―――つまり自分がいなければ起こり得なかったことである。
そしてその結果、壊れた―――壊してしまった"四人"の関係。
それは、名無子が四人と出会った日から何よりも恐れていたことであり、三蔵の手を取ったその日に、決してそうはすまいと心に誓ったことでもあった。
「名無子…」
そんなことはないと、口にするのは容易かった。
しかし、その言葉はもう届かないと、優しく微笑む名無子を見てわかってしまった。
何も言えない、何も出来ないもどかしさに悟空の瞳が沈む。
ふと、名無子が席を立った。
「ごめん、悟空。少し、一人にして」
部屋を出ていこうとする名無子に、悟空が慌てて問い掛ける。
「えっ?どこ行くんだよ?」
「お散歩。大丈夫だから」
「……ちゃんと、帰ってくるよな?…いなくなったりしないよな??」
不安を隠せない悟空に、名無子は振り返り、
「うん」
と、微笑を浮かべ答えた。
分厚い雲が日差しを遮り、冷たい北風が道行く人々を凍えさせている。
名無子は一人宛もなく歩き続け、辿り着いたのは街から少し離れた森の奥。
10数メートルの高さから爆音を轟かせ流れ落ちる清流が水飛沫を上げている。
肌を刺すような寒さも気に留めることなく、その脇で名無子は服を脱ぐと、滝壺へと足を進めた。
汗でべとついた身体を洗い清め、そのまま澄んだ水中へと全身を沈める。
名無子は肺の底から空気を吐き出すと、水中で膝を抱えた。
浮力を保つことが出来ず、沈んでいく身体。
深く、深く。光の届かない水底へ―――
どんなに苦しくても、死が訪れないことはわかっている。
故に、自死を狙った行為ではなかった。
言わば自傷のようなものだが、それすらも大して叶わないことを名無子は理解していた。
身を裂くような痛みも、苦しみも、心が発するものに比べれば些末なもの。
そしてそれ以上の苦痛を味わっているはずの―――自身が味わわせてしまっているはずの愛しい者達を想う。壊してしまったものを想う。戻らないものを想う。
痛みは意識を手放すことさえ許さず、後悔と自責の渦に身を委ねてどれくらいが経っただろうか。
闇が揺らぎ、金色の光が視界を掠めた。
名無子が部屋を出て暫く、悟空は一人部屋の中で二人の帰りを待ち侘びていた。
やはり、名無子に着いて行った方が良かったのだろうか。
しかしこんなときに、一人にすらなれないというのは寧ろ可哀想にも思える。
第一、起きた事を考えれば男である自分達と一緒にいたくないのかもしれない。
悶々と無為な思考を重ねる中、腹の虫は鳴りを潜め、食欲も湧かなかった。
ふと、扉越しに感じた気配に顔を上げる。
「只今戻りました―――悟空、名無子さんは?」
走って戻ってきたのだろうか、息を切らせながら現れた八戒が部屋を見渡し尋ねる。
「……少し一人になりたいって。出てった」
少し躊躇いを見せて口にした悟空に、八戒が目を見開いた。
「何ですって!?どうして一人で行かせたんですか!!」
「だって名無子が…!」
「だってじゃありません!どうするんです名無子さんに万が一のことがあったら!」
思わず声を荒らげた八戒に、悟空は眉を寄せ、ぐっと一度奥歯を噛むと
「………名無子が言ったんだ。いなくなったりしないって」
真っ直ぐに八戒を睨み付け口を開いた。
「俺だって思ったさ!名無子一人にして何かあったらって。でも―――三蔵だって八戒だって好き勝手してんじゃん!どうして名無子は駄目なんだよ!
どうして……どうして悟浄に襲われて一番辛いはずの名無子が無理して笑って、『全部自分のせい』なんて言わなきゃなんねーんだよ!!!」
言の葉は徐々に熱を増して行き、やがて叫びとなる。
そして彷徨った怒りの鋒は最終的に自分自身に向けられた。
「俺が名無子にできることなんて、名無子のこと信じて、名無子の好きにさせてやることくらいしかねーじゃん…」
掠れた声で言いながら涙を袖で拭い上げる悟空に、八戒は言葉を失った。
そう、名無子は完全なる被害者だった。そして、悟浄すらも―――
名無子の心当たりと自身の推察を辿った結果、その確証を得て八戒は戻ってきていた。
しかしそれがわかるまで、悟空のように一片の疑いも持たずにいただろうか。
名無子が無自覚に煽った可能性を、酔いに任せて身を委ねた可能性を、全く考えなかっただろうか。
例え何の否もなくとも、名無子が自身を責めることくらいわかりきっていたのに。
そんな名無子を放っておいて、唯一名無子の心に寄り添っていた悟空を非難してしまった自分に恥じ入るばかりだった。
「ギャーギャー煩ぇ。隣の部屋まで響いてんだよ」
不意に響いた声は部屋の入り口からだった。
「三蔵!」
扉に凭れ掛かり不機嫌そうな眼差しでこちらを見詰めている。
「……名無子は」
部屋に視線を走らせ、三蔵が静かに問う。
八戒は息を吸い込むと、意を決したように話しだした。
「三蔵、話があります。ですが今はそれよりも先に」
「…何だ」
三蔵から一旦悟空へと向き直り、
「悟空。すみません、確かにこれは僕の我儘です。それでも、僕は今の名無子さんを一人にはできません」
改めて、思いを口にする。
八戒のその言葉に、三蔵の眉がぴくりと跳ねた。
「何…?」
「―――名無子さんが一人になりたいと、出て行ったそうです」
再び視線を合わせ放たれた答えが、三蔵の瞳を見開かせる。
「っっ!!」
「三蔵!!」
踵を転じ部屋の外へと駆け出していった三蔵を八戒と悟空が追った。
黄昏色に染まる空。
名無子を探し駆け回る道すがら、八戒は明らかになった事の原因を話して聞かせた。
名無子と悟浄が露天で買って食べたと言う菓子。その露天商を八戒はつい先程見付け出した。
店主の話によれば、やはり思った通り、その菓子には催淫効果のある材料―――それも、アルコールと合わさるとより効果が強く出るものが含まれていた。
『 喧嘩してるカップルだってこれ食って一発ヤりゃあ簡単に仲直りよ! 』
そう楽しげに笑って話す店主を殴り飛ばしたい衝動に駆られたが、あくまでカップルを対象にして売っている分には問題はないのかも知れない。
例えばこれを口にしたのが三蔵と名無子だったら、売り文句通りの効果が得られたことだろう。
事実、その露天商を探す中で聞いた評判も悪くはなかった。
つまり―――
「今回のことは、誰の悪意にも過失にも依らない、完全な事故だったんです」
八戒の言葉に、三蔵は息を切らせながら舌打ちを響かせた。
果たして、街の方方を探してもその姿は見当たらない。
手分けして街の外まで足を伸ばすことになり、三蔵は一人森の奥へと足を運んでいた。
妖怪の気配はない。大丈夫だ。帰ってくると言ったのなら、名無子が言葉を違えるはずがないと自分に言い聞かせる。
しかしもし―――避けようのない事態が過ぎっては消える。
乱れた呼吸も、耳障りな鼓動も構わず足を進めていると木々が途切れた。
凍えるような湿った冷気が爆音に乗って肌を撫でる。
滝壺のほとり、三蔵の瞳が見慣れた白い法衣を捉えた。
(まさか―――)
視線が滝壺へと走る。
「名無子!!」
声を張り上げるが、返事はない。
法衣を脱ぎ捨て、何かに誘われるように滝壺へと飛び込んだ。
冷たい水を掻き、光から遠ざかる。
息の続く限り、深く、深く。
闇の向こう、立ち上る銀糸が僅かな光を反射した。
「名無子!!」
水中から引き上げられた名無子が、ゆっくりと瞼を開く。
三蔵は漸く呼吸を許されたように息を吐き出すと、氷のように冷え切ったその身体をきつく抱き締めた。
「……大丈夫だよ…私は死なないから…」
力なく上げられた腕が、三蔵の頭を撫でて言う。
そんなことは、わかっていたはずだった。
消えないと、そう言った名無子のことも信じている。
それでも。
襲い来る恐怖は理屈で御しきれるものではなかった。
三蔵の腕が微かに震える。
「ごめんなさい……」
謝ってばかりだと、名無子は思った。
愛する人を傷付け、不安に陥れ―――願うことは真逆のはずなのに。
零れた一筋の涙。
遠くで、八戒と悟空の声が聞こえた。