第一章
貴女のお名前は?
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沈黙が、紫煙の揺れる部屋に満ちる。
煙草が半ば程の長さになった頃、いくらか平静を取り戻した三蔵が口を開いた。
「お前は、どうしたい」
渦中の当人でありながらずっと蚊帳の外で話を進められていた名無子に、誰ひとり尋ねなかったことを三蔵が問い、そして告げる。
「三蔵に会いたいと、そう言ったそうだが、お前の言う三蔵―――光明三蔵法師は既に鬼籍だ」
音に、したくはなかった。
その思いは誰が為か、わからぬままその顔色を伺う。
「うん。知ってる」
感情の見えない声が変わらぬ表情で答えた。
「観音に聞いたのか」
「うん。でもその前からわかってた」
なんでって聞かれても、わかんないけど。と、丁寧にも付け加えて。
顔色を変えるに至ったのは三蔵の方だった。
「いなくなったことは知ってたから、会わせて欲しいって意味で言ったわけじゃなかったんだけど……ごめんなさい」
眉を萎れさせ、目を伏せたその様子は普通の人間と何ら変わりなく、
「……謝る必要はねぇ。あいつが勝手に連れて来たんだ。今度会ったときに文句の一つでも言ってやれ」
自身でも驚くほど柔らかな声音が三蔵から放たれた。
名無子は、少しだけ驚いた顔で三蔵を見詰めてからふわりと眼を細め、謝意を紡いだ。
とくり、高鳴った鼓動に無視を決め込む三蔵の胸中を知らぬまま、名無子は続ける。
「さっきも言ったけど、もう十分。置いていってくれて構わな―――」
「そうじゃねぇ」
名無子が言い切るのを待たずそれを止めると
「お前は、どうしたいんだ」
もう一度言葉を繰り返した。
名無子の垣間見せた察しの良さと深慮を持ってすれば、言わんとすることは伝わるだろうと。
そしてそれは沈黙を経て、期待通りの回答を三蔵に齎した。
「……あそこには、戻りたくない。三蔵の…その光の傍に置いて欲しい」
絞り出すように言って、堪えきれなくなったように目を伏せた名無子を三蔵は暫く黙って見詰めていたが、やがて長く息を吐き、口を開いた。
「足手纏いになるようならそこで置いていく」
その言葉に、再び灰銀と紫暗の瞳がかち合う。
「それと、俺の言うことは絶対だ」
短くも、その意図は理解できた。しかし、信じられないとでも言うように
「………ここにいていいの?」
恐る恐る、検める。
「わかってるなら聞くんじゃねぇ」
先程悟空達の前で啖呵を切った手前、決まりの悪さは拭えず小さく舌打ちして返す。
「…うん。ありがとう。できる限り足手纏いにならないようにするし、三蔵の言うことは聞く」
含意を汲んだ名無子がそう言って心底嬉しそうに顔を綻ばせる。
柔らかで暖かな、あの日見た光を彷彿とさせる笑みが、三蔵の胸に漣を立てた。
ゆっくりと息を吸い込み、細く吐き出す。
意識を逸し、目の前の現実へ。
「先ず約束しろ」
「うん」
「俺に嘘は吐くな」
「うん。吐かない」
その約束が意味を成すのかは定かではなかったが、そう約束させた上で必要な事実確認に取り掛かる。
「観音の話に齟齬や補足はあるか」
「天界がどうのと、三蔵に会う前のことはわからない…覚えてない?なのかな。
でも不死なのは多分本当。何となくだけど、わかる」
「身を守る術は」
「たぶんない。でも守ってくれなくていい。どうせ死なないから」
まるで取り調べのように淡々とした一問一答。
遣り取り自体は不快ではなかった。
少ない言葉からも意図を汲み取り、必要な言葉だけを返してくる。
普段、皆まで言ってもわからない誰かや、余計な言葉を付け加えてくる誰かや、
わかっていてもわからないふりをするような誰かとばかり接しているせいで
これ程スムーズな会話は久しぶりにも思える。
しかし、それでも零れる嘆息は、
「だとしても、あいつらは守ろうとするだろうがな」
拭いきれないこの先への憂慮を帯びて。
「守らないように言う。あと、そもそも邪魔にならないようにする」
揺るがない、真っ直ぐ向けられる視線と言葉に、言うは易しと思いつつもそれ以上は言っても詮無きこと。
話の鋒を、妙にしつこく心の隅に残っていた澱に向ける。
咳払いを、一つ。
「―――それで、光明三蔵とは…」
どうにも座りの悪い感情に言葉を途切れさせた三蔵を名無子が引き取った。
「何もないよ。あの人の言葉で言えば、たぶん、発現??したときに三蔵がいて、助けてくれただけ」
春風のようにふうわりと、名無子の頬に笑みが滲む。
「それだけ。だけど、それがすごく嬉しかった」
その細められた瞳に映るのは、ほんの一時のささやかな過去。優しい人の面影。
(―――まただ……一体、何だってんだ…)
ぶり返した言い知れぬ疼きに三蔵は眉根を寄せた。
心の臓を焼けた針先で突かれているような、焦れた痛み。
追想が連れてきた慕情か、悔恨か、将又他の何かか。
「……三蔵?」
険しい表情で言葉を失くした三蔵に、不安を宿した声が届けられる。
騒ぐ胸を一掻き、努めて感情を忍ばせ
「隣の部屋。連中に話してこい」
くいと顎で隣室に面した壁を指し示しすと、
「わかった」
頷き、名無子は早足で扉に向かった。
部屋を出る間際、振り向き様に
「あ、一つだけ聞いても良い?」
と。
「なんだ」
「お姉さん、は、いらない?」
「いらん!さっさと行け!」
「はーい」
扉が閉まる瞬間、微かに捉えた横顔。
可笑しそうに笑う口元が三蔵の米神をまた痛めつけた。
「だぁーーーっもう!!三蔵のわからずや!!」
部屋を移った悟空が高らかに咆哮を響かせた。
「わからずやなのは今に始まったことじゃねーけどな」
「そうですねぇ。でも、大丈夫だと思いますよ?」
言いながら悟浄、八戒が続く。
ベッドの上、その足元、もう片方のベッドと、思い思いの場所に腰を下ろした。
「大丈夫って、何が?」
悟空の問い掛けに
「たぶん、悟空の希望通りになるかと」
答えれば、嬉しそうに金眼が見開かれる。
「マジで!?絶対!?」
「絶対とは言い切れませんが…何となく、そんな気がするんです」
「そーいやお前、なんであんなこと言ったんだ?潤いだの華だの、マジで考えてるわけじゃねーべ」
悟浄が知る八戒であれば、三蔵ほど露骨ではないにしろ女を同行させることには異を唱えていたはずと、覚えていた違和感を口にする。
「あれだって別に全くの嘘ではないんですよ?ただ…そうですね……一つは三蔵の、精神安定剤としての役目を期待して、ですかね」
「せーしんあんてーざい?」
凡そ縁のないであろう単語を悟空がオウム返しした。
「まぁ、要は三蔵が苛々したときに上手く宥めてくれる人がいればいいなぁってことです」
「あー確かに!時々むやみやたらカリカリピリピリしてたりするもんなー」
それで何度割りを食って雷を落とされたことかと、悟空は思い出しながら身を竦め納得した。
悟空用の簡易的な発言の真意。女で、かつ、同じ者を想い同じ痛みを知る相手であれば、分け合えるものもあるのかもしれないと。
(ま、実際、俺らには踏み込めねぇ部分だかんな……わざわざ踏み込む気もねぇけどさ)
悟浄は理解しつつも、
「そんな可愛げのあるタマかねぇ……で、まだあんの。理由」
疑義を含め、促す。
「もう一つは―――」
言いかけて、うーんと唸り声を零した八戒。
「いやないんかい」
「いえ、あるんですけどね……何と言ったら良いか…
―――強いて言えば、『なんとなく』、です」
長らく考え込んだ果ての漠然とした答えと苦笑いに、悟浄と悟空は顔を見合わせた。
「そりゃ当然、この旅に女性を同行させるのはどちらにとっても危険だということは重々承知しています。更に言えば女性ということで約一名、それとは別の危険を内在している人もいますし」
「おいそりゃ誰のことだ」
「エロ河童だな!」
「何言ってやがる。俺ほど紳士な男はそうそういねーよ?」
「まぁ冗談は扠置き―――」
「おいスルーすんな」
いつもの漫才を差し挟みつつ、話を続ける。
「それでも、『なんとなく』連れて行きたい……連れて行かなければならない?ような…
『なんとなく』大丈夫なような、そんな気がして……だから、『なんとなく』です。はい」
持ち前の冷静な分析力は見る影もない。
八戒が他意もなく、これほどまでに感覚的でふわふわとした物言いをするのは珍しかった。
鳩が豆鉄砲を食らったような顔を並べる悟空と悟浄。
本人も頬を掻き、バツの悪そうな顔で笑っている。
「わからないことだらけですが、直感に従ってみようかなと思いまして」
「……いーんじゃねーの、たまには。俺みたいに本能に従ってみんのも悪くねーさ」
「貴方と一緒にされるとちょっと……僕のは直感、貴方のは股間、ですし」
「うまいこと言ってんじゃね―よ!てか人聞きの悪い…―――お前は笑いすぎだっつーの!!」
笑い転げているところを足蹴にされた悟空と悟浄の間でゴングが鳴った。
「というか悟浄。彼女が同行することになったら冗談抜きで自重してくださいね?」
組んず解れつ取っ組み合いの最中に、八戒が真剣な声で言う。
「悟浄に限って無理じゃね?―――いてっっ!!」
「猿は黙ってろ!――――わーってるっつーの。そりゃ正直心臓止まるかっつーくらいの美人だったけどよ、仲間に手出して面倒なことになるような真似は……いや、真剣なお付き合いならワンチャンアリ、か…?」
「悟浄…?」
突き刺さった冷徹な視線に思わず喉から悲鳴が漏れた。
悟浄が訂正・謝罪を口にするより早く
「例えばさー、もし悟浄が名無子と結婚したら、三蔵が悟浄のギリの弟になんのか?」
放たれた無垢な疑問が部屋の時を止めた。
「…」
「……」
「………悟浄、三蔵に『お姉さんを僕にください』って言えます?」
「………想像したら『お』の時点で頭に風穴開いたわ」
「でしょうねぇ…」
「……っふ……へへっ…」
交わされるくだらない冗談に悟浄が嘆息していると、不意に漏れ聞こえてきた笑い声はその足元から。
「どしたー悟空。頭は殴ってねーぞ俺は」
「違くて…悟浄はどーでもいいんだけどさ―――名無子、弟ができたの嬉しいかなって」
そうだといいな、と、照れたように、嬉しそうに顔を綻ばせる。
嘗ての自分がそうだったように、一人じゃなくなったのなら。家族ができたのなら。
ただ純粋にそう願った。
悟空らしい言葉と想いが伝播したように、悟浄と八戒の口元にも自然と笑みが浮かぶ。
「そうですね。あんな可愛げのない弟、名無子が嫌だと言うかも知れませんが」
「んだな。やっぱ俺が家族になる方が良くね?」
「家族って、兄貴とか?」
「んにゃ。当然、愛しの旦那様っしょ」
「まだ三蔵の義弟になるの諦めてないんですか?」
「だから―――」
コン、コン
和やかなで巫山戯た空気に、ドアを叩く音が割って入る。
三蔵ならばノックはしない。何よりこの特徴的な気配。
すぐに候補を一名に絞ったうえで、八戒が声を返した。
「どうぞ。開いてますよ」
開かれたドアから、控えめな銀が姿を現した。
「あの…三蔵が話してこいって―――」
「三蔵、なんて??」
名無子が言い終わるのを待たず、食い気味に悟空が身を乗り出す。
名無子が来たということはつまりそういうことなのだろうと、八戒と悟浄は目線を合わせふっと笑みを交わした。
「えっと、足手纏いになるまで、一緒にいていいって。なので、よろしくお願いします」
微笑み、ぺこりと直角に頭を下げた名無子に、悟空が目を輝かせた。
「やっったー!!こちらこそ、よろしくな!マジ、八戒の言ったとおりだったな!」
名無子の元へ駆け寄り、八戒を振り返る。
千切れんばかりに振り回す尻尾が見えるようだと八戒は笑いながら、腰を上げた。
「はい。良かったです。―――改めて、猪八戒といいます。こちらはジープ。僕の相棒です。
弟さんをはじめ問題児ばかりで大変かと思いますが、よろしくお願いしますね。名無子」
「ううん。私の方こそ迷惑かけるかもしれないけど、頑張るのでよろしく、八戒、ジープ。
あと、お姉さんはいらないって言われた」
握手と微笑を交わす二人と名無子の周りで嬉しそうに羽ばたくジープ。
その間に割って入った悟浄が名無子の足元で片膝を着いた。
名無子の手を取り、
「だったら代わりに、俺と家族になるっていうのはどう?先ずはお友達からA to ゼ―――ってぇッッ!!」
微笑を含んだ唇を手の甲へ――落とすよりも早く八戒の華麗なる肘鉄が落とされ、床へと沈んだ。
「名無子。これ、エロ河童な」
呆れ顔で悟空が床に這い蹲る悟浄を指差す。
「八戒…マジで延髄入った……んで誰がエロ河童だコラ…」
悶絶しつつ悪態吐きつつ、何とか体を座位に起こすと、
「ててっ……沙、悟浄だ。こう見えて意外と紳士、控えめでミステリアスな蠍座のB型。よろしく、名無子ちゃん」
何事もなかったかのように連連と自己紹介し、右手を差し出した。
苦笑しながらもその手を取り、
「よろしく悟浄。立てる?」
「おっ、サンキュ。やーさしいねぇ名無子ちゃんは。コイツらと違って」
引き上げてやれば、流れるような動作で名無子の腰に悟浄の腕が回される。
「貴方本当に懲りませんねぇ…」
「名無子、離れた方がいいって!エロいのと赤いのが伝染るぞ!」
「エロいのが伝染せるもんなら速やかに伝染すけどな!赤いのが伝染るってなんだよ!」
言い合いながらふと視線を感じ目線を下ろすと、じっと見上げ来る銀灰の瞳。
「ん?どした?もしかして俺に見惚れちゃった?」
いつもの笑みを含んだ軽口は
「うん。綺麗な真紅だなぁって。瞳も同じ色なんだね」
「っっ!」
真っ直ぐな銀光線の眼差しに射抜かれ、それは悟浄の心臓をも貫いた。
泳ぐ視線。口元を押さえ背けた頬は微かに赤く染まっている。
虚を衝かれ、柄にもなく狼狽する悟浄を、白けた空笑みが生暖かい眼で見詰めていた。
ぱん、と手を叩き、閑話休題。
「さて、色々お話したいことはあるんですが、先ずは名無子の今夜の寝床をどうするかですね」
もう夜も遅いですし、と、八戒がベッド脇の時計に目を遣る。
「んなの、俺のベッドで良いだろ」
「それだけはねー」
「何一つ良くないです」
「いらないよ」
定形と化した遣り取りに付け加えられた、未だ聞き慣れない声の主は、
「私、寝ないから。寝床はいらない」
と、平然と言ってのけた。
「えっと…寝ない、というのは……まさか、睡眠が必要ないとか?」
浮かんだ可能性の中で一番現実味の薄いものを挙げたつもりだったが、
「うん」
と、そのまさかの答え。
「マジかよ…もしかして、今まで捕まってる間もずっと寝てない??」
愕然と問うた悟浄に、再びの、うん。
はてさて、睡眠を必要としない場合、寝床はどうすべきなのか。
大人組二人が思案する横で、悟空の思考は別のところを辿っていた。
( 岩廊にいた頃、眠っている間だけは寂しいのも感じずにいられた。
じゃあ、眠らない名無子は…? )
ぐっと奥歯を噛み、そしてふと思い出す。
「!!―――俺、布団もらってくる!」
言って部屋の外へ駆け出していった悟空を、見送って数分。
布団を抱え、ぱたぱたと戻ってきた。
「ただいま!俺、今日こっちで寝る!名無子、あっちの部屋で俺のベッド使って!」
誰もがその真意を測り兼ねている間に、悟空は名無子の手を引くと隣室へ。
扉を開け、背を押して中に押し込むと
「三蔵あとよろしく!おやすみ!また明日な!!」
名無子に、にっと笑みを見せて部屋を後にした。
戻ってくるなり、悟浄が呆れ顔で声を掛ける。
「おい、猿。一体何がしてぇんだお前は」
「三蔵のところに返してきたんですか?」
「猿言うな!うん。それが一番いい気がして」
せっせと布団を広げながら、悟空は続ける。
「寝ないとは言ったけど、『寝れない』とは言ってないだろ?それに、さっきのおばちゃんが言ってたじゃん。三蔵のお師匠さんと寝てたって」
あ、と、二人思い出す。
「流石に三蔵は添い寝したりはしないだろうけどさ、なんか同じ光がどうのって言ってたし、三蔵の傍ならもしかしたらって思ったんだ」
淡々と、らしからぬ慧眼を披露してみせた悟空に、悟浄と八戒は狐につままれたような顔を晒していた。
「悟空、お前どうしちゃったのよ…バカ猿から賢い猿に進化でもしたか??」
「先ずは猿から離れろこのクソ河童!」
「いやぁ…びっくりしました。なんというか……びっくりしました」
「そんなにかよ…悟浄より八戒の方が酷くね…?」
今は不服そうに頬を膨らませている悟空が、それだけ名無子のことを真剣に考えていたということだろうと八戒は思った。
自身の境遇と重なる部分があるとは言え少し入れ込み過ぎな気もしたが今は扠置き、悟空の成長を素直に喜ぶことにした。
「名無子のこと、色々助けてあげてくださいね」
「おう!エロ河童からも守らなきゃだしな!」
「そうですね。全力で死守しましょう」
「お前らホントさぁ……もーいいわ…」
名無子がいなくなった途端どっと湧き上がってきた疲労感と徒労感に押し潰されるがまま、悟浄はベッドに身を投げ枕に顔を埋めた。
煙草が半ば程の長さになった頃、いくらか平静を取り戻した三蔵が口を開いた。
「お前は、どうしたい」
渦中の当人でありながらずっと蚊帳の外で話を進められていた名無子に、誰ひとり尋ねなかったことを三蔵が問い、そして告げる。
「三蔵に会いたいと、そう言ったそうだが、お前の言う三蔵―――光明三蔵法師は既に鬼籍だ」
音に、したくはなかった。
その思いは誰が為か、わからぬままその顔色を伺う。
「うん。知ってる」
感情の見えない声が変わらぬ表情で答えた。
「観音に聞いたのか」
「うん。でもその前からわかってた」
なんでって聞かれても、わかんないけど。と、丁寧にも付け加えて。
顔色を変えるに至ったのは三蔵の方だった。
「いなくなったことは知ってたから、会わせて欲しいって意味で言ったわけじゃなかったんだけど……ごめんなさい」
眉を萎れさせ、目を伏せたその様子は普通の人間と何ら変わりなく、
「……謝る必要はねぇ。あいつが勝手に連れて来たんだ。今度会ったときに文句の一つでも言ってやれ」
自身でも驚くほど柔らかな声音が三蔵から放たれた。
名無子は、少しだけ驚いた顔で三蔵を見詰めてからふわりと眼を細め、謝意を紡いだ。
とくり、高鳴った鼓動に無視を決め込む三蔵の胸中を知らぬまま、名無子は続ける。
「さっきも言ったけど、もう十分。置いていってくれて構わな―――」
「そうじゃねぇ」
名無子が言い切るのを待たずそれを止めると
「お前は、どうしたいんだ」
もう一度言葉を繰り返した。
名無子の垣間見せた察しの良さと深慮を持ってすれば、言わんとすることは伝わるだろうと。
そしてそれは沈黙を経て、期待通りの回答を三蔵に齎した。
「……あそこには、戻りたくない。三蔵の…その光の傍に置いて欲しい」
絞り出すように言って、堪えきれなくなったように目を伏せた名無子を三蔵は暫く黙って見詰めていたが、やがて長く息を吐き、口を開いた。
「足手纏いになるようならそこで置いていく」
その言葉に、再び灰銀と紫暗の瞳がかち合う。
「それと、俺の言うことは絶対だ」
短くも、その意図は理解できた。しかし、信じられないとでも言うように
「………ここにいていいの?」
恐る恐る、検める。
「わかってるなら聞くんじゃねぇ」
先程悟空達の前で啖呵を切った手前、決まりの悪さは拭えず小さく舌打ちして返す。
「…うん。ありがとう。できる限り足手纏いにならないようにするし、三蔵の言うことは聞く」
含意を汲んだ名無子がそう言って心底嬉しそうに顔を綻ばせる。
柔らかで暖かな、あの日見た光を彷彿とさせる笑みが、三蔵の胸に漣を立てた。
ゆっくりと息を吸い込み、細く吐き出す。
意識を逸し、目の前の現実へ。
「先ず約束しろ」
「うん」
「俺に嘘は吐くな」
「うん。吐かない」
その約束が意味を成すのかは定かではなかったが、そう約束させた上で必要な事実確認に取り掛かる。
「観音の話に齟齬や補足はあるか」
「天界がどうのと、三蔵に会う前のことはわからない…覚えてない?なのかな。
でも不死なのは多分本当。何となくだけど、わかる」
「身を守る術は」
「たぶんない。でも守ってくれなくていい。どうせ死なないから」
まるで取り調べのように淡々とした一問一答。
遣り取り自体は不快ではなかった。
少ない言葉からも意図を汲み取り、必要な言葉だけを返してくる。
普段、皆まで言ってもわからない誰かや、余計な言葉を付け加えてくる誰かや、
わかっていてもわからないふりをするような誰かとばかり接しているせいで
これ程スムーズな会話は久しぶりにも思える。
しかし、それでも零れる嘆息は、
「だとしても、あいつらは守ろうとするだろうがな」
拭いきれないこの先への憂慮を帯びて。
「守らないように言う。あと、そもそも邪魔にならないようにする」
揺るがない、真っ直ぐ向けられる視線と言葉に、言うは易しと思いつつもそれ以上は言っても詮無きこと。
話の鋒を、妙にしつこく心の隅に残っていた澱に向ける。
咳払いを、一つ。
「―――それで、光明三蔵とは…」
どうにも座りの悪い感情に言葉を途切れさせた三蔵を名無子が引き取った。
「何もないよ。あの人の言葉で言えば、たぶん、発現??したときに三蔵がいて、助けてくれただけ」
春風のようにふうわりと、名無子の頬に笑みが滲む。
「それだけ。だけど、それがすごく嬉しかった」
その細められた瞳に映るのは、ほんの一時のささやかな過去。優しい人の面影。
(―――まただ……一体、何だってんだ…)
ぶり返した言い知れぬ疼きに三蔵は眉根を寄せた。
心の臓を焼けた針先で突かれているような、焦れた痛み。
追想が連れてきた慕情か、悔恨か、将又他の何かか。
「……三蔵?」
険しい表情で言葉を失くした三蔵に、不安を宿した声が届けられる。
騒ぐ胸を一掻き、努めて感情を忍ばせ
「隣の部屋。連中に話してこい」
くいと顎で隣室に面した壁を指し示しすと、
「わかった」
頷き、名無子は早足で扉に向かった。
部屋を出る間際、振り向き様に
「あ、一つだけ聞いても良い?」
と。
「なんだ」
「お姉さん、は、いらない?」
「いらん!さっさと行け!」
「はーい」
扉が閉まる瞬間、微かに捉えた横顔。
可笑しそうに笑う口元が三蔵の米神をまた痛めつけた。
「だぁーーーっもう!!三蔵のわからずや!!」
部屋を移った悟空が高らかに咆哮を響かせた。
「わからずやなのは今に始まったことじゃねーけどな」
「そうですねぇ。でも、大丈夫だと思いますよ?」
言いながら悟浄、八戒が続く。
ベッドの上、その足元、もう片方のベッドと、思い思いの場所に腰を下ろした。
「大丈夫って、何が?」
悟空の問い掛けに
「たぶん、悟空の希望通りになるかと」
答えれば、嬉しそうに金眼が見開かれる。
「マジで!?絶対!?」
「絶対とは言い切れませんが…何となく、そんな気がするんです」
「そーいやお前、なんであんなこと言ったんだ?潤いだの華だの、マジで考えてるわけじゃねーべ」
悟浄が知る八戒であれば、三蔵ほど露骨ではないにしろ女を同行させることには異を唱えていたはずと、覚えていた違和感を口にする。
「あれだって別に全くの嘘ではないんですよ?ただ…そうですね……一つは三蔵の、精神安定剤としての役目を期待して、ですかね」
「せーしんあんてーざい?」
凡そ縁のないであろう単語を悟空がオウム返しした。
「まぁ、要は三蔵が苛々したときに上手く宥めてくれる人がいればいいなぁってことです」
「あー確かに!時々むやみやたらカリカリピリピリしてたりするもんなー」
それで何度割りを食って雷を落とされたことかと、悟空は思い出しながら身を竦め納得した。
悟空用の簡易的な発言の真意。女で、かつ、同じ者を想い同じ痛みを知る相手であれば、分け合えるものもあるのかもしれないと。
(ま、実際、俺らには踏み込めねぇ部分だかんな……わざわざ踏み込む気もねぇけどさ)
悟浄は理解しつつも、
「そんな可愛げのあるタマかねぇ……で、まだあんの。理由」
疑義を含め、促す。
「もう一つは―――」
言いかけて、うーんと唸り声を零した八戒。
「いやないんかい」
「いえ、あるんですけどね……何と言ったら良いか…
―――強いて言えば、『なんとなく』、です」
長らく考え込んだ果ての漠然とした答えと苦笑いに、悟浄と悟空は顔を見合わせた。
「そりゃ当然、この旅に女性を同行させるのはどちらにとっても危険だということは重々承知しています。更に言えば女性ということで約一名、それとは別の危険を内在している人もいますし」
「おいそりゃ誰のことだ」
「エロ河童だな!」
「何言ってやがる。俺ほど紳士な男はそうそういねーよ?」
「まぁ冗談は扠置き―――」
「おいスルーすんな」
いつもの漫才を差し挟みつつ、話を続ける。
「それでも、『なんとなく』連れて行きたい……連れて行かなければならない?ような…
『なんとなく』大丈夫なような、そんな気がして……だから、『なんとなく』です。はい」
持ち前の冷静な分析力は見る影もない。
八戒が他意もなく、これほどまでに感覚的でふわふわとした物言いをするのは珍しかった。
鳩が豆鉄砲を食らったような顔を並べる悟空と悟浄。
本人も頬を掻き、バツの悪そうな顔で笑っている。
「わからないことだらけですが、直感に従ってみようかなと思いまして」
「……いーんじゃねーの、たまには。俺みたいに本能に従ってみんのも悪くねーさ」
「貴方と一緒にされるとちょっと……僕のは直感、貴方のは股間、ですし」
「うまいこと言ってんじゃね―よ!てか人聞きの悪い…―――お前は笑いすぎだっつーの!!」
笑い転げているところを足蹴にされた悟空と悟浄の間でゴングが鳴った。
「というか悟浄。彼女が同行することになったら冗談抜きで自重してくださいね?」
組んず解れつ取っ組み合いの最中に、八戒が真剣な声で言う。
「悟浄に限って無理じゃね?―――いてっっ!!」
「猿は黙ってろ!――――わーってるっつーの。そりゃ正直心臓止まるかっつーくらいの美人だったけどよ、仲間に手出して面倒なことになるような真似は……いや、真剣なお付き合いならワンチャンアリ、か…?」
「悟浄…?」
突き刺さった冷徹な視線に思わず喉から悲鳴が漏れた。
悟浄が訂正・謝罪を口にするより早く
「例えばさー、もし悟浄が名無子と結婚したら、三蔵が悟浄のギリの弟になんのか?」
放たれた無垢な疑問が部屋の時を止めた。
「…」
「……」
「………悟浄、三蔵に『お姉さんを僕にください』って言えます?」
「………想像したら『お』の時点で頭に風穴開いたわ」
「でしょうねぇ…」
「……っふ……へへっ…」
交わされるくだらない冗談に悟浄が嘆息していると、不意に漏れ聞こえてきた笑い声はその足元から。
「どしたー悟空。頭は殴ってねーぞ俺は」
「違くて…悟浄はどーでもいいんだけどさ―――名無子、弟ができたの嬉しいかなって」
そうだといいな、と、照れたように、嬉しそうに顔を綻ばせる。
嘗ての自分がそうだったように、一人じゃなくなったのなら。家族ができたのなら。
ただ純粋にそう願った。
悟空らしい言葉と想いが伝播したように、悟浄と八戒の口元にも自然と笑みが浮かぶ。
「そうですね。あんな可愛げのない弟、名無子が嫌だと言うかも知れませんが」
「んだな。やっぱ俺が家族になる方が良くね?」
「家族って、兄貴とか?」
「んにゃ。当然、愛しの旦那様っしょ」
「まだ三蔵の義弟になるの諦めてないんですか?」
「だから―――」
コン、コン
和やかなで巫山戯た空気に、ドアを叩く音が割って入る。
三蔵ならばノックはしない。何よりこの特徴的な気配。
すぐに候補を一名に絞ったうえで、八戒が声を返した。
「どうぞ。開いてますよ」
開かれたドアから、控えめな銀が姿を現した。
「あの…三蔵が話してこいって―――」
「三蔵、なんて??」
名無子が言い終わるのを待たず、食い気味に悟空が身を乗り出す。
名無子が来たということはつまりそういうことなのだろうと、八戒と悟浄は目線を合わせふっと笑みを交わした。
「えっと、足手纏いになるまで、一緒にいていいって。なので、よろしくお願いします」
微笑み、ぺこりと直角に頭を下げた名無子に、悟空が目を輝かせた。
「やっったー!!こちらこそ、よろしくな!マジ、八戒の言ったとおりだったな!」
名無子の元へ駆け寄り、八戒を振り返る。
千切れんばかりに振り回す尻尾が見えるようだと八戒は笑いながら、腰を上げた。
「はい。良かったです。―――改めて、猪八戒といいます。こちらはジープ。僕の相棒です。
弟さんをはじめ問題児ばかりで大変かと思いますが、よろしくお願いしますね。名無子」
「ううん。私の方こそ迷惑かけるかもしれないけど、頑張るのでよろしく、八戒、ジープ。
あと、お姉さんはいらないって言われた」
握手と微笑を交わす二人と名無子の周りで嬉しそうに羽ばたくジープ。
その間に割って入った悟浄が名無子の足元で片膝を着いた。
名無子の手を取り、
「だったら代わりに、俺と家族になるっていうのはどう?先ずはお友達からA to ゼ―――ってぇッッ!!」
微笑を含んだ唇を手の甲へ――落とすよりも早く八戒の華麗なる肘鉄が落とされ、床へと沈んだ。
「名無子。これ、エロ河童な」
呆れ顔で悟空が床に這い蹲る悟浄を指差す。
「八戒…マジで延髄入った……んで誰がエロ河童だコラ…」
悶絶しつつ悪態吐きつつ、何とか体を座位に起こすと、
「ててっ……沙、悟浄だ。こう見えて意外と紳士、控えめでミステリアスな蠍座のB型。よろしく、名無子ちゃん」
何事もなかったかのように連連と自己紹介し、右手を差し出した。
苦笑しながらもその手を取り、
「よろしく悟浄。立てる?」
「おっ、サンキュ。やーさしいねぇ名無子ちゃんは。コイツらと違って」
引き上げてやれば、流れるような動作で名無子の腰に悟浄の腕が回される。
「貴方本当に懲りませんねぇ…」
「名無子、離れた方がいいって!エロいのと赤いのが伝染るぞ!」
「エロいのが伝染せるもんなら速やかに伝染すけどな!赤いのが伝染るってなんだよ!」
言い合いながらふと視線を感じ目線を下ろすと、じっと見上げ来る銀灰の瞳。
「ん?どした?もしかして俺に見惚れちゃった?」
いつもの笑みを含んだ軽口は
「うん。綺麗な真紅だなぁって。瞳も同じ色なんだね」
「っっ!」
真っ直ぐな銀光線の眼差しに射抜かれ、それは悟浄の心臓をも貫いた。
泳ぐ視線。口元を押さえ背けた頬は微かに赤く染まっている。
虚を衝かれ、柄にもなく狼狽する悟浄を、白けた空笑みが生暖かい眼で見詰めていた。
ぱん、と手を叩き、閑話休題。
「さて、色々お話したいことはあるんですが、先ずは名無子の今夜の寝床をどうするかですね」
もう夜も遅いですし、と、八戒がベッド脇の時計に目を遣る。
「んなの、俺のベッドで良いだろ」
「それだけはねー」
「何一つ良くないです」
「いらないよ」
定形と化した遣り取りに付け加えられた、未だ聞き慣れない声の主は、
「私、寝ないから。寝床はいらない」
と、平然と言ってのけた。
「えっと…寝ない、というのは……まさか、睡眠が必要ないとか?」
浮かんだ可能性の中で一番現実味の薄いものを挙げたつもりだったが、
「うん」
と、そのまさかの答え。
「マジかよ…もしかして、今まで捕まってる間もずっと寝てない??」
愕然と問うた悟浄に、再びの、うん。
はてさて、睡眠を必要としない場合、寝床はどうすべきなのか。
大人組二人が思案する横で、悟空の思考は別のところを辿っていた。
( 岩廊にいた頃、眠っている間だけは寂しいのも感じずにいられた。
じゃあ、眠らない名無子は…? )
ぐっと奥歯を噛み、そしてふと思い出す。
「!!―――俺、布団もらってくる!」
言って部屋の外へ駆け出していった悟空を、見送って数分。
布団を抱え、ぱたぱたと戻ってきた。
「ただいま!俺、今日こっちで寝る!名無子、あっちの部屋で俺のベッド使って!」
誰もがその真意を測り兼ねている間に、悟空は名無子の手を引くと隣室へ。
扉を開け、背を押して中に押し込むと
「三蔵あとよろしく!おやすみ!また明日な!!」
名無子に、にっと笑みを見せて部屋を後にした。
戻ってくるなり、悟浄が呆れ顔で声を掛ける。
「おい、猿。一体何がしてぇんだお前は」
「三蔵のところに返してきたんですか?」
「猿言うな!うん。それが一番いい気がして」
せっせと布団を広げながら、悟空は続ける。
「寝ないとは言ったけど、『寝れない』とは言ってないだろ?それに、さっきのおばちゃんが言ってたじゃん。三蔵のお師匠さんと寝てたって」
あ、と、二人思い出す。
「流石に三蔵は添い寝したりはしないだろうけどさ、なんか同じ光がどうのって言ってたし、三蔵の傍ならもしかしたらって思ったんだ」
淡々と、らしからぬ慧眼を披露してみせた悟空に、悟浄と八戒は狐につままれたような顔を晒していた。
「悟空、お前どうしちゃったのよ…バカ猿から賢い猿に進化でもしたか??」
「先ずは猿から離れろこのクソ河童!」
「いやぁ…びっくりしました。なんというか……びっくりしました」
「そんなにかよ…悟浄より八戒の方が酷くね…?」
今は不服そうに頬を膨らませている悟空が、それだけ名無子のことを真剣に考えていたということだろうと八戒は思った。
自身の境遇と重なる部分があるとは言え少し入れ込み過ぎな気もしたが今は扠置き、悟空の成長を素直に喜ぶことにした。
「名無子のこと、色々助けてあげてくださいね」
「おう!エロ河童からも守らなきゃだしな!」
「そうですね。全力で死守しましょう」
「お前らホントさぁ……もーいいわ…」
名無子がいなくなった途端どっと湧き上がってきた疲労感と徒労感に押し潰されるがまま、悟浄はベッドに身を投げ枕に顔を埋めた。