第二章
貴女のお名前は?
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その夜、名無子の身体が淡く光を放っていたことに、傍で眠る三蔵は気付いていなかった。
ゆっくりと名無子の瞼が開かれ、光が収束する。
覚醒に導かれた名無子は、三蔵を起こさぬようそっと身体を離すとベッドの脇に足を下ろし両手で顔を覆った。
「思い出した…」
消え入りそうな嘆声が零れ、静寂に溶けた。
闇色の鳥が呼び起こした記憶を辿り、一人思考を巡らせる。
夜の底が明るみ始めた頃になって漸く顔を上げた名無子の瞳は、ただ前だけを見据えていた。
「……悟浄、どうしたの??」
朝食の席、そう尋ねた名無子に、悟浄の隣で八戒が苦笑いを浮かべた。
妙な態度で朝から一度も目を合わせようとしない悟浄。当然、名無子は不審に思う。
自分以外に対しては普通に接しているところを見ると原因は自分にあるようだがその心当たりもなく、仕方無しに直接尋ねることにしたのだ。
しかし、
「あー……いや?何もねぇよ?」
ぎこちない笑みがそう返し、一瞬かち合った瞳もすぐに逸らされてしまう。
流石に不憫に思ったのか、その事情を唯一知る八戒が助け舟を出した。
「名無子。そのうち復活すると思うので、今はそっとしておいてやってください。
決して貴女が悪いわけでもないですし、何か深い事情があるとかいう訳でもないので心配はいりませんよ」
悟浄が両手で顔を覆い、こくこくと首を縦に振る。
名無子と三蔵、悟空の訝しげな瞳が注がれていた。
それは、一刻程前に遡る―――
明け方に見た淫夢。それは、悟浄を絶望へ叩き落とす切欠として十分なものだった。
「っっ!!」
ベッドから飛び起きた悟浄が辺りを見回す。
溶け始めた闇。隣のベッドでこちらに背を向け眠る八戒。床に敷かれた布団で鼾を掻いている悟空。一人きりのベッド―――
それが夢であったことに気付き零れた吐息は安堵か落胆か。
弾けそうな程に鳴り響く鼓動。鼻の奥には淫靡な甘い香りが、汗ばんだ肌には彼の人の熱が生々しく焼き付いている。
深く息を吸い込み、吐き出して、汗で貼り付いた髪を掻き上げた。
一服して落ち着こうと煙草へと伸ばした手を、違和感が止めた。
まさか。そんなはずはと振り解こうにも、覚えのある感触は確かにそこに存在する。
恐る恐る布団を捲り、ズボンの中を覗き込んだ。
「うっ―――そだろ……」
押し留めきれなかった声が漏れ、悟浄は頭を抱えた。
汗ではない体液が下着を濡らす、長らく感じたことのなかった不快な感触。
受け入れがたい現実を前に叫び出したい気持ちを何とか抑え、悟浄は気配を殺して風呂場へと向かった。
一人部屋でないにしろ、全員同室でなかったのは不幸中の幸いだった。
冷水で身を清め、情けなさに身悶えそうになりながらも下着を洗って風呂場の外へ出ようと扉を開けたその時。
「あ、おはようございます悟浄」
出くわした八戒の視線が、悟浄の片手に握られた下着を捉えた。
「あ…お……おう。お、おはよう?いい朝だな??」
どもりながら歪に挨拶を返し、そうっとその下着を背に隠すも、
「………おねしょってことにした方が、まだ傷は浅いですかね?」
暁光にも似た爽やかな笑みが遠回しにも的確に傷を抉り、悟浄はその場に崩れ落ちたのだった。
そんなこととは露知らず、心配と不安を滲ませている名無子に悟浄の罪悪感は高まる一方だった。
八戒の言葉に未だ解せないながらも一先ず、わかったと名無子が答える。
そして食後のコーヒーを口に運びながら、続けて八戒へと問い掛けた。
「八戒。今日って時間、ある?」
「えぇ、予定は買い出しだけなので…あ、あと洗濯もですね」
その言葉に悟浄がぴくりと反応したがそれは扠置き。
「そんなに時間取らせないから、ちょっと付き合ってもらってもいい?買い出しも手伝うから」
思わぬ誘いの言葉に八戒は一瞬驚きの表情を浮かべたがすぐに目を細め、
「もちろんです。貴女からのお誘いなら最優先しますよ」
と朗らかに応じた。
「……おい。何する気だ」
悟浄相手の時程でないにしろ、快くは思わない三蔵が名無子に視線を差し向けるが
「あのね三蔵。欲しいものがあるんだけど、買ってもいい?」
名無子にしては珍しく真っ当に答えが返ってこないばかりか、無関係にも思える問いを投げ返される。
「それは構わんが…何を買う」
「ちょっと……後で話すよ」
曖昧に答えを濁され、三蔵の眉が僅かに上がった。
「まぁまぁ三蔵。何かはわかりませんが、後で話すと仰ってるんですから。
それにそんなに時間は掛からないそうですし、一先ず僕に預けてもらえませんか?」
八戒のフォローもあり、何とかその場を遣り過して暫く―――
八戒と名無子は、賑わい始めた朝の街を並んで歩いていた。
「―――それで、一体何を買うんです?」
「えっとね……あ。あの店」
名無子が指さしたのは、昨晩、街へ出た際に見掛けていたジュエリーショップだった。
こじんまりとはしているものの、周りの店に比べ少々敷居の高そうな落ち着いた雰囲気のするその店へ二人足を踏み入れる。
「いらっしゃいませ」
店主と思しき老紳士が微笑んで出迎えた。
名無子は店の中を見渡すと、ある一角へと足を進めショーケースを凝視している。
「指輪…ですか?」
「うん。そう」
装飾品に興味が出てきたのだろうか。
真剣な眼差しで商品を見ている名無子の横顔を黙って見ていると、
「何か気になるものがあればお出ししますよ」
声を掛けてきた店主に、ショーケースの中の一つを指差し
「これ、見せてもらえますか?」
と。
店主が笑顔で応じ、それを取り出す。
名無子が選んだのは、月長石の付いたシンプルな金の指輪だった。
透明な石地に仄かに青白い光を内包した、まるで月光をそのまま固めたような石。
それを囲む石座とアーム部分には、よく見ると繊細な金の装飾が施されている。
女性向けにはもう少し華奢なものの方が良いような気もするが、美しくも芯のある彼女にはよく似合いそうだ。
しかし、
「それだとサイズ、大きくないですか?」
嵌めてみるまでもなく、名無子の指よりも一回り大きいように見える輪周。
全て一点物である旨の記載がされたプレートに目を遣り八戒が尋ねると、
「そう?手、貸して」
言いながら、名無子が胸の前でハイタッチをするように掌を向けて上げた。
八戒も同じように手を上げると重ねられた掌。
そして、
「え?」
八戒の指の間に指を滑り込ませ、ぎゅっと手を握る。
思い掛けぬ熱に八戒の心臓が跳ね、当惑の声を零した。
しかし名無子は大して気にするでもなく
「多分大丈夫」
うん、と頷くと
「これ、買っていい?」
八戒へ問い掛ける。
心を落ち着かせ暫し、巡らせた思案。
「……名無子、確認なんですがそれ、誰が着けるんですか?」
改めて問う。
「三蔵に。本当は自分のお金で買いたいけど…」
「あぁ、三蔵………三蔵に!??」
「うん」
一度は納得。しかし生じた、新たな困惑。
三蔵が指輪を着けるということが今一想像できないが―――まぁ、名無子からの贈り物であれば断りはしないだろうと。
それよりも、
「なんでまた指輪を…?」
どういう流れでその選択に至ったのか。
今朝の様子を見るに、三蔵も知らないようだがと名無子に尋ねる。
「うーん……お守り??なんとなく」
小首を傾げながら淡々と答える名無子は、恋人に贈り物をするにしては余りにもさっぱりしすぎているような気がしてどうにも釈然としない。
しかしこれまでの経験上、名無子が嘘を吐いたり無意味に隠し事をする性格ではないことは判っている。
それ故、八戒は名無子の言をそれ以上詮索することはしなかった。
「そうですか。じゃあ―――すみません。この指輪と……あと、このネックレスも頂けますか?こっちはすぐ着けますので」
顔を上げ、店主に商品を指差してからカードを手渡した。
「ネックレス…?」
店主からネックレスを受け取ると、疑問符を浮かべている名無子の背後に回る。
滑らかな銀糸を避け、悟浄が贈った赤いスカーフの上から細い金色のチェーンを繋いだ。
「これは、僕から貴女に」
鏡の中、名無子の首元で指輪と同じ一粒石が揺れる。
「いいの…?」
見上げ来る名無子に、
「えぇ。お守りです」
微笑を添えて返せば、真ん丸な瞳が繊月のように細められた。
「ありがとう。大事にする」
石に指先で触れ、嬉しそうに笑みを咲き零している名無子の頭を、八戒の掌が優しく撫でていた。
そんな二人を店の外、物陰から見守る―――否、監視する者達がいた。
「八戒あの野郎…抜け駆けたぁいい度胸だ…」
友人と呼ぶには近過ぎる距離感の仲睦まじい二人の姿に、肩を震わせ悟浄が呟く。
名無子が八戒を誘った際、悟浄が口を挟まず黙って二人を見送ったのは気不味さもあったがこのためだった。
「おい…どういうことだ…」
静かに怒りを滾らせながら、三蔵が低音で零す。
当然に声は聞こえず、視覚情報のみに頼った結果、まるで恋人の目を盗んで睦み合う二人のように見えてしまったのは致し方ないことかも知れない。
「なぁ〜、もうやめようぜ?バレたら怒られるって」
否応無しに巻き込まれ連れて来られた悟空が、黒々とした笑みを浮かべる八戒を想像して身震いしながら二人の袖を引く。
「うっせ!ここまで来たら今戻っても同じだろうが」
「おい、出てきたぞ!」
「さぁて次はどちらに行かれるんですかねぇお二人さんは…」
気色ばんだ出歯亀二人に引き摺られるようにして、悟空も後に続いた。
その後、何事もなく八戒と共に買い出しを済ませ宿に戻った名無子は、続いて洗濯を手伝おうとするもやんわりと固辞され、一人部屋へと戻ってきた。
「ただいまー」
しかし返る声はなく、代わりに肩で息をする三蔵の鋭い視線が向けられる。
「……どうしたの?」
まさか悟空達と三人、先回りして猛ダッシュで戻ってきたなどと言えるはずもなく、舌打ち混じりに何でもないと誤魔化した。
名無子は首を傾げながらもそれ以上追求することなくコーヒーを淹れ、三蔵へと差し出した。
そして自身もコーヒーカップ片手にもう一つの椅子へと腰掛ける。
それきり、落ちた沈黙―――
普段、二人きりの時も会話はそう多くない。
敢えてそうしているわけではなく、元々口数が多い訳でもない二人。
一度、その様子を垣間見た悟浄が『いや熟年夫婦かよ…』と呆れるくらい、何もなければどちらも最低限の音しか発しない穏やかな清寂が二人の常だった。
ただ、今この時はそれとは明らかに違った。
いつもの解けた雰囲気の代わりに怒気を纏い険相を示した三蔵。
時折ちらりと寄越される視線は何かを言わんとしているようで、しかし口は開こうとはしない。
そんな重苦しい雰囲気に耐えかね、名無子がカップを置いて三蔵へと顔を向けた。
「……怒ってる?」
「…怒られるような覚えがあるのか」
露骨に不機嫌の滲む声が視線もくれずに返される。
「…八戒と二人で出掛けたから?」
重ねた問いに、答えはなかった。
再びの沈黙が重く伸し掛かり、名無子の頭を沈ませる。
今朝、出掛ける前に伺いを立てた時は今程不機嫌そうには見えなかったがどうやら見立てが甘かったらしいと、項垂れ、謝罪の言葉を探す。
そんな名無子の姿を横目に、三蔵が大きく息を吐き出した。
端から、名無子を疑っていた訳ではない。
ただ、想定外の事態に悋気が胸の内で拗れ、処理しきれなくなっただけの話。
しゅんと萎れ今にも自責を口にしそうな名無子に、
「…何故八戒だったんだ」
一先ず、最初の疑問をぶつけてみた。
「三蔵にね、買いたいものがあって…」
「……俺に?」
「うん。だから悟浄は連れて行けないし、どうせ買い出しに出るなら八戒に着いて来てもらおうって。悟空でも良かったんだけど、少し値が張るものだったから」
消去法の理屈はわかった。
しかし、
「…そもそも何で俺に言わねぇ」
そうすればこんな思いもせずに済んだものをと嘆息混じりに零せば、
「三蔵連れて行ったら…嫌だとか要らないって言われて買えなさそうだったので…」
おずおずと、やや気不味そうにちらりとこちらを見上げ名無子が答える。
(俺が、嫌がるもの…?)
そんなものをわざわざ名無子が買おうとする理由が見当たらない。
怪しみつつ、答え合わせ。
「何買った。見せろ」
差し出した三蔵の掌に、小さな箱が遠慮がちに置かれた。
その箱を開ければ、満月をそのまま小さくしたような石の付いた指輪が。
目を瞬かせる三蔵の前で、名無子が手を伸ばし指先で石に触れた。
その瞬間、石が銀光を放ち始める。
目が眩む程に膨らんだ光はすぐに収束し、微かな銀の煌めきを残して石の中へと吸い込まれるように消えていった。
少し困ったような顔で小さく笑みを引き、名無子が口を開く。
「お守り。深い意味はないから、貰ってくれる?」
三蔵は呆気に取られたまま、何をしたのかを問うことも忘れて、
「意味はねェのかよ…」
思わず突っ込みを入れる。
「あった方が良かった?」
くすり笑った名無子に、燻っていた仄暗い感情は最早影を潜めていた。
三蔵は指輪を手に取ると、それを左手の薬指に嵌めた。
ぱちぱちと瞬いた物言いたげな瞳に、三蔵の口の端が僅かに上がる。
「深い意味はねぇ。右は銃を扱うのに差し障るからな」
尤もらしい理由を添えての意趣返し。
その意図が伝わらないはずもなく、
「…そっか。そうだね」
可笑しそうに笑みを零している名無子に手を伸ばした。
腕を引き、自身の膝の上へと座らせる。
慣れないながらもぴたり指に嵌まった指輪を見詰める。
「よくサイズわかったな」
自分でも指輪のサイズなど知らない。いつの間に計ったのかと素朴な感嘆を口にすると、
「いつも手、繋いでるからね」
そう言って三蔵の左手に自分の指を絡め、誇らしげに笑う。
部屋に漂っていた凍えるような空気はいつの間にか霧散し、腕に抱く温もりと同じ色に染まっていた。
「ふふっ…お揃い」
嬉しそうに言って、首元の同じ色の石にそっと触れた名無子に、
「他の野郎からのプレゼントとお揃いでもな…」
気が緩んだせいか、つい零してしまった本音。
今更口を押さえても手遅れである。
当然に、
「………何で八戒からのプレゼントって知ってるの?」
突き刺さる視線。
無言で顔を横に向けた三蔵の頬に名無子の両手が添えられ、再び向き合わされる。
「怒ってたの、そのせい?」
「………」
何故知っているのかと問いながら、名無子の関心事はそこではないらしい。
安堵しつつも襲い来る羞恥と後ろめたさ。
顔を歪め、目を合わせられずにいる三蔵に名無子がぷっと吹き出し、その仄かに朱を帯びた頬に口付けた。
腕を回しぎゅうと抱き締め、視線から解放してやれば、応えるように三蔵の腕がその身を抱いた。
「プレゼントとお揃いは、だめ?」
髪を撫でてくる手に目を細めながら、笑みを含んだ声が尋ねる。
三蔵は指に光る指輪の冷たい感触と、腕の中の温もりに想いを馳せ、一呼吸。
「……ちゃんと用意してやる。それまで、指は空けとけ」
今の三蔵にとって、精一杯の答えを返した。
名無子が三蔵の胸からゆっくりと顔を離し、三蔵を見上げる。
雷にでも打たれたように驚愕と混乱を湛えている銀月をふっと笑い、
「大人しく待ってろ」
その瞼へと唇を落とした。
淡く橙を帯びた斜陽が差し込む部屋に、名無子の啜り泣く声が微かに響く。
「全く…よく泣くなお前は」
呆れたような口調にも滲む慈愛は、背を撫でる掌からも温もりと共に確かに伝わっていた。
「大体三蔵のせい…」
むくれたように言いながら、名無子が顔を上げた。
目を擦り、三蔵を真っ直ぐに見詰める。
「三蔵」
指を絡ませ繋いだ手。名無子の指が、指輪に触れる。
「これ見て、私のこと思い出してね」
呟いた言葉に、三蔵の眉がぴくりと上がる。
「…深い意味はないよ?」
赤い目が、上目遣いに付け足した。
名無子にしては不透明で謎めいた言の葉。
しかし、
「……そもそも忘れるかよ」
これ程までに深く根を張った想いを、手放すことなどあるはずがないと。
強く手を握り返し答える。
「ならいい」
微笑みの奥、瞼を閉じた煙月が闇を見詰めていた。
ゆっくりと名無子の瞼が開かれ、光が収束する。
覚醒に導かれた名無子は、三蔵を起こさぬようそっと身体を離すとベッドの脇に足を下ろし両手で顔を覆った。
「思い出した…」
消え入りそうな嘆声が零れ、静寂に溶けた。
闇色の鳥が呼び起こした記憶を辿り、一人思考を巡らせる。
夜の底が明るみ始めた頃になって漸く顔を上げた名無子の瞳は、ただ前だけを見据えていた。
「……悟浄、どうしたの??」
朝食の席、そう尋ねた名無子に、悟浄の隣で八戒が苦笑いを浮かべた。
妙な態度で朝から一度も目を合わせようとしない悟浄。当然、名無子は不審に思う。
自分以外に対しては普通に接しているところを見ると原因は自分にあるようだがその心当たりもなく、仕方無しに直接尋ねることにしたのだ。
しかし、
「あー……いや?何もねぇよ?」
ぎこちない笑みがそう返し、一瞬かち合った瞳もすぐに逸らされてしまう。
流石に不憫に思ったのか、その事情を唯一知る八戒が助け舟を出した。
「名無子。そのうち復活すると思うので、今はそっとしておいてやってください。
決して貴女が悪いわけでもないですし、何か深い事情があるとかいう訳でもないので心配はいりませんよ」
悟浄が両手で顔を覆い、こくこくと首を縦に振る。
名無子と三蔵、悟空の訝しげな瞳が注がれていた。
それは、一刻程前に遡る―――
明け方に見た淫夢。それは、悟浄を絶望へ叩き落とす切欠として十分なものだった。
「っっ!!」
ベッドから飛び起きた悟浄が辺りを見回す。
溶け始めた闇。隣のベッドでこちらに背を向け眠る八戒。床に敷かれた布団で鼾を掻いている悟空。一人きりのベッド―――
それが夢であったことに気付き零れた吐息は安堵か落胆か。
弾けそうな程に鳴り響く鼓動。鼻の奥には淫靡な甘い香りが、汗ばんだ肌には彼の人の熱が生々しく焼き付いている。
深く息を吸い込み、吐き出して、汗で貼り付いた髪を掻き上げた。
一服して落ち着こうと煙草へと伸ばした手を、違和感が止めた。
まさか。そんなはずはと振り解こうにも、覚えのある感触は確かにそこに存在する。
恐る恐る布団を捲り、ズボンの中を覗き込んだ。
「うっ―――そだろ……」
押し留めきれなかった声が漏れ、悟浄は頭を抱えた。
汗ではない体液が下着を濡らす、長らく感じたことのなかった不快な感触。
受け入れがたい現実を前に叫び出したい気持ちを何とか抑え、悟浄は気配を殺して風呂場へと向かった。
一人部屋でないにしろ、全員同室でなかったのは不幸中の幸いだった。
冷水で身を清め、情けなさに身悶えそうになりながらも下着を洗って風呂場の外へ出ようと扉を開けたその時。
「あ、おはようございます悟浄」
出くわした八戒の視線が、悟浄の片手に握られた下着を捉えた。
「あ…お……おう。お、おはよう?いい朝だな??」
どもりながら歪に挨拶を返し、そうっとその下着を背に隠すも、
「………おねしょってことにした方が、まだ傷は浅いですかね?」
暁光にも似た爽やかな笑みが遠回しにも的確に傷を抉り、悟浄はその場に崩れ落ちたのだった。
そんなこととは露知らず、心配と不安を滲ませている名無子に悟浄の罪悪感は高まる一方だった。
八戒の言葉に未だ解せないながらも一先ず、わかったと名無子が答える。
そして食後のコーヒーを口に運びながら、続けて八戒へと問い掛けた。
「八戒。今日って時間、ある?」
「えぇ、予定は買い出しだけなので…あ、あと洗濯もですね」
その言葉に悟浄がぴくりと反応したがそれは扠置き。
「そんなに時間取らせないから、ちょっと付き合ってもらってもいい?買い出しも手伝うから」
思わぬ誘いの言葉に八戒は一瞬驚きの表情を浮かべたがすぐに目を細め、
「もちろんです。貴女からのお誘いなら最優先しますよ」
と朗らかに応じた。
「……おい。何する気だ」
悟浄相手の時程でないにしろ、快くは思わない三蔵が名無子に視線を差し向けるが
「あのね三蔵。欲しいものがあるんだけど、買ってもいい?」
名無子にしては珍しく真っ当に答えが返ってこないばかりか、無関係にも思える問いを投げ返される。
「それは構わんが…何を買う」
「ちょっと……後で話すよ」
曖昧に答えを濁され、三蔵の眉が僅かに上がった。
「まぁまぁ三蔵。何かはわかりませんが、後で話すと仰ってるんですから。
それにそんなに時間は掛からないそうですし、一先ず僕に預けてもらえませんか?」
八戒のフォローもあり、何とかその場を遣り過して暫く―――
八戒と名無子は、賑わい始めた朝の街を並んで歩いていた。
「―――それで、一体何を買うんです?」
「えっとね……あ。あの店」
名無子が指さしたのは、昨晩、街へ出た際に見掛けていたジュエリーショップだった。
こじんまりとはしているものの、周りの店に比べ少々敷居の高そうな落ち着いた雰囲気のするその店へ二人足を踏み入れる。
「いらっしゃいませ」
店主と思しき老紳士が微笑んで出迎えた。
名無子は店の中を見渡すと、ある一角へと足を進めショーケースを凝視している。
「指輪…ですか?」
「うん。そう」
装飾品に興味が出てきたのだろうか。
真剣な眼差しで商品を見ている名無子の横顔を黙って見ていると、
「何か気になるものがあればお出ししますよ」
声を掛けてきた店主に、ショーケースの中の一つを指差し
「これ、見せてもらえますか?」
と。
店主が笑顔で応じ、それを取り出す。
名無子が選んだのは、月長石の付いたシンプルな金の指輪だった。
透明な石地に仄かに青白い光を内包した、まるで月光をそのまま固めたような石。
それを囲む石座とアーム部分には、よく見ると繊細な金の装飾が施されている。
女性向けにはもう少し華奢なものの方が良いような気もするが、美しくも芯のある彼女にはよく似合いそうだ。
しかし、
「それだとサイズ、大きくないですか?」
嵌めてみるまでもなく、名無子の指よりも一回り大きいように見える輪周。
全て一点物である旨の記載がされたプレートに目を遣り八戒が尋ねると、
「そう?手、貸して」
言いながら、名無子が胸の前でハイタッチをするように掌を向けて上げた。
八戒も同じように手を上げると重ねられた掌。
そして、
「え?」
八戒の指の間に指を滑り込ませ、ぎゅっと手を握る。
思い掛けぬ熱に八戒の心臓が跳ね、当惑の声を零した。
しかし名無子は大して気にするでもなく
「多分大丈夫」
うん、と頷くと
「これ、買っていい?」
八戒へ問い掛ける。
心を落ち着かせ暫し、巡らせた思案。
「……名無子、確認なんですがそれ、誰が着けるんですか?」
改めて問う。
「三蔵に。本当は自分のお金で買いたいけど…」
「あぁ、三蔵………三蔵に!??」
「うん」
一度は納得。しかし生じた、新たな困惑。
三蔵が指輪を着けるということが今一想像できないが―――まぁ、名無子からの贈り物であれば断りはしないだろうと。
それよりも、
「なんでまた指輪を…?」
どういう流れでその選択に至ったのか。
今朝の様子を見るに、三蔵も知らないようだがと名無子に尋ねる。
「うーん……お守り??なんとなく」
小首を傾げながら淡々と答える名無子は、恋人に贈り物をするにしては余りにもさっぱりしすぎているような気がしてどうにも釈然としない。
しかしこれまでの経験上、名無子が嘘を吐いたり無意味に隠し事をする性格ではないことは判っている。
それ故、八戒は名無子の言をそれ以上詮索することはしなかった。
「そうですか。じゃあ―――すみません。この指輪と……あと、このネックレスも頂けますか?こっちはすぐ着けますので」
顔を上げ、店主に商品を指差してからカードを手渡した。
「ネックレス…?」
店主からネックレスを受け取ると、疑問符を浮かべている名無子の背後に回る。
滑らかな銀糸を避け、悟浄が贈った赤いスカーフの上から細い金色のチェーンを繋いだ。
「これは、僕から貴女に」
鏡の中、名無子の首元で指輪と同じ一粒石が揺れる。
「いいの…?」
見上げ来る名無子に、
「えぇ。お守りです」
微笑を添えて返せば、真ん丸な瞳が繊月のように細められた。
「ありがとう。大事にする」
石に指先で触れ、嬉しそうに笑みを咲き零している名無子の頭を、八戒の掌が優しく撫でていた。
そんな二人を店の外、物陰から見守る―――否、監視する者達がいた。
「八戒あの野郎…抜け駆けたぁいい度胸だ…」
友人と呼ぶには近過ぎる距離感の仲睦まじい二人の姿に、肩を震わせ悟浄が呟く。
名無子が八戒を誘った際、悟浄が口を挟まず黙って二人を見送ったのは気不味さもあったがこのためだった。
「おい…どういうことだ…」
静かに怒りを滾らせながら、三蔵が低音で零す。
当然に声は聞こえず、視覚情報のみに頼った結果、まるで恋人の目を盗んで睦み合う二人のように見えてしまったのは致し方ないことかも知れない。
「なぁ〜、もうやめようぜ?バレたら怒られるって」
否応無しに巻き込まれ連れて来られた悟空が、黒々とした笑みを浮かべる八戒を想像して身震いしながら二人の袖を引く。
「うっせ!ここまで来たら今戻っても同じだろうが」
「おい、出てきたぞ!」
「さぁて次はどちらに行かれるんですかねぇお二人さんは…」
気色ばんだ出歯亀二人に引き摺られるようにして、悟空も後に続いた。
その後、何事もなく八戒と共に買い出しを済ませ宿に戻った名無子は、続いて洗濯を手伝おうとするもやんわりと固辞され、一人部屋へと戻ってきた。
「ただいまー」
しかし返る声はなく、代わりに肩で息をする三蔵の鋭い視線が向けられる。
「……どうしたの?」
まさか悟空達と三人、先回りして猛ダッシュで戻ってきたなどと言えるはずもなく、舌打ち混じりに何でもないと誤魔化した。
名無子は首を傾げながらもそれ以上追求することなくコーヒーを淹れ、三蔵へと差し出した。
そして自身もコーヒーカップ片手にもう一つの椅子へと腰掛ける。
それきり、落ちた沈黙―――
普段、二人きりの時も会話はそう多くない。
敢えてそうしているわけではなく、元々口数が多い訳でもない二人。
一度、その様子を垣間見た悟浄が『いや熟年夫婦かよ…』と呆れるくらい、何もなければどちらも最低限の音しか発しない穏やかな清寂が二人の常だった。
ただ、今この時はそれとは明らかに違った。
いつもの解けた雰囲気の代わりに怒気を纏い険相を示した三蔵。
時折ちらりと寄越される視線は何かを言わんとしているようで、しかし口は開こうとはしない。
そんな重苦しい雰囲気に耐えかね、名無子がカップを置いて三蔵へと顔を向けた。
「……怒ってる?」
「…怒られるような覚えがあるのか」
露骨に不機嫌の滲む声が視線もくれずに返される。
「…八戒と二人で出掛けたから?」
重ねた問いに、答えはなかった。
再びの沈黙が重く伸し掛かり、名無子の頭を沈ませる。
今朝、出掛ける前に伺いを立てた時は今程不機嫌そうには見えなかったがどうやら見立てが甘かったらしいと、項垂れ、謝罪の言葉を探す。
そんな名無子の姿を横目に、三蔵が大きく息を吐き出した。
端から、名無子を疑っていた訳ではない。
ただ、想定外の事態に悋気が胸の内で拗れ、処理しきれなくなっただけの話。
しゅんと萎れ今にも自責を口にしそうな名無子に、
「…何故八戒だったんだ」
一先ず、最初の疑問をぶつけてみた。
「三蔵にね、買いたいものがあって…」
「……俺に?」
「うん。だから悟浄は連れて行けないし、どうせ買い出しに出るなら八戒に着いて来てもらおうって。悟空でも良かったんだけど、少し値が張るものだったから」
消去法の理屈はわかった。
しかし、
「…そもそも何で俺に言わねぇ」
そうすればこんな思いもせずに済んだものをと嘆息混じりに零せば、
「三蔵連れて行ったら…嫌だとか要らないって言われて買えなさそうだったので…」
おずおずと、やや気不味そうにちらりとこちらを見上げ名無子が答える。
(俺が、嫌がるもの…?)
そんなものをわざわざ名無子が買おうとする理由が見当たらない。
怪しみつつ、答え合わせ。
「何買った。見せろ」
差し出した三蔵の掌に、小さな箱が遠慮がちに置かれた。
その箱を開ければ、満月をそのまま小さくしたような石の付いた指輪が。
目を瞬かせる三蔵の前で、名無子が手を伸ばし指先で石に触れた。
その瞬間、石が銀光を放ち始める。
目が眩む程に膨らんだ光はすぐに収束し、微かな銀の煌めきを残して石の中へと吸い込まれるように消えていった。
少し困ったような顔で小さく笑みを引き、名無子が口を開く。
「お守り。深い意味はないから、貰ってくれる?」
三蔵は呆気に取られたまま、何をしたのかを問うことも忘れて、
「意味はねェのかよ…」
思わず突っ込みを入れる。
「あった方が良かった?」
くすり笑った名無子に、燻っていた仄暗い感情は最早影を潜めていた。
三蔵は指輪を手に取ると、それを左手の薬指に嵌めた。
ぱちぱちと瞬いた物言いたげな瞳に、三蔵の口の端が僅かに上がる。
「深い意味はねぇ。右は銃を扱うのに差し障るからな」
尤もらしい理由を添えての意趣返し。
その意図が伝わらないはずもなく、
「…そっか。そうだね」
可笑しそうに笑みを零している名無子に手を伸ばした。
腕を引き、自身の膝の上へと座らせる。
慣れないながらもぴたり指に嵌まった指輪を見詰める。
「よくサイズわかったな」
自分でも指輪のサイズなど知らない。いつの間に計ったのかと素朴な感嘆を口にすると、
「いつも手、繋いでるからね」
そう言って三蔵の左手に自分の指を絡め、誇らしげに笑う。
部屋に漂っていた凍えるような空気はいつの間にか霧散し、腕に抱く温もりと同じ色に染まっていた。
「ふふっ…お揃い」
嬉しそうに言って、首元の同じ色の石にそっと触れた名無子に、
「他の野郎からのプレゼントとお揃いでもな…」
気が緩んだせいか、つい零してしまった本音。
今更口を押さえても手遅れである。
当然に、
「………何で八戒からのプレゼントって知ってるの?」
突き刺さる視線。
無言で顔を横に向けた三蔵の頬に名無子の両手が添えられ、再び向き合わされる。
「怒ってたの、そのせい?」
「………」
何故知っているのかと問いながら、名無子の関心事はそこではないらしい。
安堵しつつも襲い来る羞恥と後ろめたさ。
顔を歪め、目を合わせられずにいる三蔵に名無子がぷっと吹き出し、その仄かに朱を帯びた頬に口付けた。
腕を回しぎゅうと抱き締め、視線から解放してやれば、応えるように三蔵の腕がその身を抱いた。
「プレゼントとお揃いは、だめ?」
髪を撫でてくる手に目を細めながら、笑みを含んだ声が尋ねる。
三蔵は指に光る指輪の冷たい感触と、腕の中の温もりに想いを馳せ、一呼吸。
「……ちゃんと用意してやる。それまで、指は空けとけ」
今の三蔵にとって、精一杯の答えを返した。
名無子が三蔵の胸からゆっくりと顔を離し、三蔵を見上げる。
雷にでも打たれたように驚愕と混乱を湛えている銀月をふっと笑い、
「大人しく待ってろ」
その瞼へと唇を落とした。
淡く橙を帯びた斜陽が差し込む部屋に、名無子の啜り泣く声が微かに響く。
「全く…よく泣くなお前は」
呆れたような口調にも滲む慈愛は、背を撫でる掌からも温もりと共に確かに伝わっていた。
「大体三蔵のせい…」
むくれたように言いながら、名無子が顔を上げた。
目を擦り、三蔵を真っ直ぐに見詰める。
「三蔵」
指を絡ませ繋いだ手。名無子の指が、指輪に触れる。
「これ見て、私のこと思い出してね」
呟いた言葉に、三蔵の眉がぴくりと上がる。
「…深い意味はないよ?」
赤い目が、上目遣いに付け足した。
名無子にしては不透明で謎めいた言の葉。
しかし、
「……そもそも忘れるかよ」
これ程までに深く根を張った想いを、手放すことなどあるはずがないと。
強く手を握り返し答える。
「ならいい」
微笑みの奥、瞼を閉じた煙月が闇を見詰めていた。