第一章
貴女のお名前は?
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「お前、何しやがった…」
突然の不穏な空気を察知し、疑問符を舞い散らせる名無子の手から三蔵が小銃を取り上げる。
その怪訝そうな様子に八戒達が歩み寄ってきた。
「どうかしたんですか?」
「何?なんかあったの?」
名無子の銃を手にまじまじとそれを見詰め、そして不安を滲ませた名無子に顔を向ける。
「三蔵のと同じのがいいなって……ダメだった…?」
問わず語りのその言葉に、三蔵の眉がぴくり動いた。
「意図してやったんだな?」
「うん……」
余程不味いことをしてしまったのだろうかと、遂には視線を伏せてしまった。
三蔵の腕の上がる気配に固く目を瞑った瞬間―――
「よくやった」
頭に降ってきた掌と声に目を見開く。
そのまま頭を撫で回され、困惑しながら見上げた先には何処か上機嫌な三蔵の顔があった。
悟空と顔を見合わせていた八戒が遠慮がちに片手を挙げ、
「えっと…三蔵?僕達にもわかるように説明してくれますか?」
説明を求めると、三蔵は咥えていた煙草に火を着けてから徐に口を開いた。
「昇霊銃だ」
「……?」
「ただの銃を、昇霊銃に変えやがった。―――そうだな?」
「うん」
昇霊銃―――三蔵が扱う、対妖怪戦闘に特化した銃。
それに変えたとはどういうことだろうか。
疑問を呈するよりも早く、三蔵が自身の銃を手に言葉を続ける。
「これもそうだが、通常は妖魔滅の法術を組み込んで製造し、法力を通して初めて昇霊銃として機能する。それをこいつは―――何をどうやった?」
答えはいつもの
「わかんない」
しかし
「だろうな。まぁ別に構わん」
再び頭を撫でてやりながら鼻で笑った。
「凄いことなのは何となくわかったけど、なんで三蔵そんな嬉しそうなんだよ…」
未だ解けぬ疑問を悟空が口にする。
「当たり前だろうが。こいつにそれができるなら俺が弾丸の残数を気にする必要はねぇ。最悪、俺の銃が壊れたとしても何とかなる。
その上こいつ自身も、使う機会があるかはわからんが妖怪相手に遠距離で対峙できる。良いこと尽くめじゃねぇか」
成程と合点。
漸く名無子の顔にも安堵の笑みが戻る。
「とりあえず、お前は暇な時に銃の練習をしておけ」
「うん。わかった」
嬉しそうに目を細めて頷いた。
斯くして謎は解けたが、
「―――ところで三蔵。僕達は何をお手伝いすれば?」
銃の扱いを教えるならば自分達は不要のはず。そもそも何故呼ばれたのかと八戒が問い質す。
「あぁ。名無子に護身用に体術を教えてやれ。最低限で構わん」
「体術ですか?」
「身を護る術はいくつあっても構わんだろう。俺は部屋に戻る。後は任せた」
言いたいことを言うだけ言って返事も待たず背を向けた三蔵を、八戒はぽかんと口を開けたまま見送ると、
「………急な過保護」
その姿が見えなくなってからぽつり零した一言に悟空が吹き出した。
「ぶはっ!確かに!」
「こうも変わるものですか…ははぁ……」
「でもなんつーか…すげぇ生き生きしてんな!」
「三蔵、ご機嫌。良かった」
嬉しそうに笑みを交わす悟空と名無子の隣で、穏やかな風が八戒の苦笑を撫でていった。
いくら歩き回ったところで胸の疼きは和らぐこともなく、結局は宿へと戻ってきた悟浄の目が、宿の前、一番会いたくなかった人物の姿を捉えた。
壁に背を預け煙草を燻らせる見慣れた金糸に舌打ちし、目も合わせずその前を素通りして宿の中へと足を向ける。
と―――
「誰にも渡さねぇんじゃなかったのか」
すれ違い様に吐き捨てられた、何の感情も乗らない言の葉がその足を止めた。
ほんの数秒の沈黙。
再び足を踏み出した悟浄の胸に灯っていたのは、憤怒とは別の炎だった。
「不器用にも程があんだろ…」
僅かに上がった口の端で小さく呟いていた。
名無子が部屋へと戻ってきたのは日が西へ傾き始めた頃だった。
疲労の滲んだ顔がただいまを口にして、三蔵が煙草を燻らせていたベッドのその隣へと腰を下ろした。
「随分疲れてんな。どうだった」
「色々教えてもらったけど実際使えるかどうかは…わかんない。みんなの凄さを改めて実感しました」
ふぅと息を吐いて三蔵の肩に頭を預ける。
黙って頭を撫でてくる掌の感触に目を細めながら続けた。
「最初八戒に護身術?教えてもらったの。
でも大分疲れてそうだったから先に戻ってもらって、そのあと悟空に相手してもらったんだけど…」
「参考にはならなかったか」
言葉を濁した名無子のその先を難くない想像で紡いでやる。
体術に関しては四人の中でも突出しているのは間違いないが、如何せん悟空である。
八戒がいるならまだしも、単独で尚且つ戦闘経験のない名無子に戦い方を教えられるわけがないと同情を寄せた三蔵に名無子が苦笑いで答えた。
「ううん、凄く色々教えてくれたけど私が着いて行けなくて…あと体力おばけ…」
嘆息混じりの言葉に他意はないのだろう。
動物的感覚を擬音塗れの雰囲気で説明され困惑しながらもなんとか理解しようと必死に食らいついていこうとしている内に、名無子の体力が底を突く―――
そんな光景が目に浮かぶようだった。
「あの猿に着いていけるくらいなら鼻から護身術なんざ必要ねぇさ。
一先ず銃の扱いを覚えろ。護身術はその後でいい」
気持ちが急いて一気に詰め込み過ぎたと今更ながら自省し、哀れみと労いを込めてぽんと頭を叩いてやれば、それに呼応するかのようにふわりと笑みの花を咲かせた。
「うん、ありがと。ちょっと汗流してくるね」
言って、風呂場へと向かった名無子の姿が扉の奥へと消えると同時、もう一方の扉が開かれた。
「――あれ?名無子は?」
ノックもなく部屋を見回す悟空に嘆息しながらも言っても無駄と
「風呂。お前は入ってねぇのか」
答え、問いを返せば、
「うん。俺そんな動いてねーもん」
けろりとした金眼が言いながら部屋の中へと入って来た。
椅子に逆向きに腰を下ろした悟空に三蔵が尋ねた。
「名無子、体術の方はどんなだ」
本人の認識と食い違う可能性も大いにあると踏んでの確認だったが、
「んー、普通?やっぱ女の子だしさ。体力そんなねーし、銃マスターする方が早いと思う」
思いの外真っ当なコメントが返されただけだった。
「八戒は。何教えてやがった」
「えっと、暴漢に襲われたときの対処法?みたいな?」
『 いいですか名無子。護身術に関してはまず大前提として、貴女に害なす輩に一片の遠慮も慈悲もいりません。
相手が三蔵や悟浄であっても、そしてそれがどんな目的であろうと、です 』
爽やかな笑顔が紡いだ仮想敵に三蔵も含まれていたことは伏せたまま、記憶を辿る。
「羽交い締めされた時に腕すり抜ける方法とか色々やって、結局のところ―――」
『 男性相手だったらこれが一番効果的です 』
八戒が説いたのは、傍で聞いていただけの悟空までもが身震いする程の最終奥義。
「なにはともあれ金的狙えって…」
「………いや間違ってはねぇんだがな…」
その威力を知る者同士、眉間をくしゃりと歪め矛先が自身に向かないことを切に願うばかりだった。
「―――なぁなぁ三蔵」
「なんだ」
「名無子のこと、守ってもいいよな?」
ふと思い出したように放たれた言葉に、三蔵の視線が窓の外から悟空へと移る。
夕飯のメニューを尋ねるかのような軽い口調で紡がれた割にその瞳はやけに真っ直ぐで、いかにも悟空らしいと三蔵は口の端に笑みを滲ませた。
「守るなっつっても守るだろうが」
「いやそーだけど!三蔵も今はもう守るなって言わないだろ?」
伝わっていないと思ったのか、それともはぐらかされまいとしてか、言葉を変え改めて問い質してくるが、いずれも憂慮に過ぎなかった。
「あぁ。誰が言うかよ」
守る必要はないと吐き捨てた嘗ての自身に嘲りを、そして、新たな決意を胸に。
三蔵のにやりと上がった口角を目に、悟空はししっと嬉しそうに笑った。
シャワーを浴びて出てきた名無子と三人、寛ぐ部屋にはいつしか暮色が入り込んできている。
悟空の腹の虫が今にも切なげな悲鳴をあげようとしていた時、ノックの音が部屋に響いた。
「はーい」
立ち上がり、ドアを開けた名無子の視界に現れたのは悟浄だった。
目が合った瞬間、顔を強張らせた名無子に、悟浄はにっと歯を見せて笑うとその場に跪き、
「俺と一緒にディナーに行きませんか?お姫サマ」
名無子の手を取ると、その甲に口付けを落とした。
今朝方に見た陰鬱で痛ましい雰囲気が嘘のようだった。
まるで何事もなかったかのような、出会ったばかりの頃を彷彿とさせる所作にぱちぱちと目を瞬かせ佇む名無子の背後から
「おい名無子。何のために銃渡したと思ってんだ」
今撃たずにいつ撃つと言わんばかりの重低音が放たれた。
「何?銃なんて持たされたの?そんな物騒なものなくても俺が守ってやんのに」
立ち上がり流れるような動作で名無子の腰に手を回した悟浄に、三蔵が眉を上げる。
「なんだ傷心河童。部屋で枕を濡らしてたんじゃねーのか」
「濡らすならもっとイイもの濡らしたい゛ッ―――っぶねッ!!」
パンッ!
鳴り響いた発砲音の源は三蔵の右手に握られた小銃だった。
振り返り、丸い目でそれを確認した名無子に
「いいか。こうやって使うんだ」
三蔵が人差し指でガンスピンしながら事もなさげに言った。
「何教え込んでんだよ!髪掠っただろうが!」
「すまんな手元が狂った。次は脳天に当ててやるからそこから動くな」
「だッッ―――あーもう!話が進まねぇ!いーからお前ら、飯行くぞ飯!八戒もすぐ来る」
頭をガシガシと掻きながら言う悟浄の視線が向かったのは三蔵と悟空。
てっきり、
「あれ?名無子と二人で行くんじゃねーの?」
名無子だけを誘っているものと思っていた悟空が首を傾げた。
「行かせるわけねぇだろ」
間髪入れず口を挟んだ三蔵を無視し、
「そうしたいのは山々なんだけどよ。煩えのがいるから―――名無子ちゃんまた今度な」
片目を瞑ってみせる。
狐につままれたような顔で戸惑いながらも、うんと返した名無子。
「うぜぇ…」
久方振り、三蔵が眉間に刻印を刻み込み、低く唸った。
テーブルの上を埋め尽くす料理の数々。いつもと何ら変わらぬ、賑やかな食事の席。
その中にあって、どうにも釈然としないものを抱えていたのは八戒だった。
「名無子」
向かいの席の名無子に、少し前屈みになって顔を近付け声を潜める。
「悟浄と何話したんです?」
昼過ぎになっても戻らぬ悟浄への僅かばかりの憂慮を胸に仮眠を取った八戒だったが、目覚めてみれば普段と何ら変わらぬ様子の悟浄が夕食に誘ってきた。
そして今も、名無子の隣に座り軽口を叩きながら悟空と料理を奪い合っている。
始めは去勢を張っての空元気かとも思ったがそうでもないようで、自分が寝ている間に何事かあったのかと尋ねてみたのだが、
「何も?わかんないけど、元気になって良かった」
原因かと思われた名無子も答えを持たず、嬉しそうに笑うばかりだった。
そんな小声の会話を耳聡く拾った悟空が、八戒と同じ気持ちを、八戒とは違い音にして悟浄へと届ける。
「悟浄さ、フラレたんじゃなかったの?」
余りにもストレートな物言いに、お茶を口に含んでいた八戒が噎せ返り、悟浄が呆れ顔で嘆息を吐いた。
「お猿ちゃんよ…ちったぁデリカシーってもの覚えた方がいいんでない?」
「だって、意味わかんねーんだもん。復活早すぎねぇ?」
八戒の発言と今朝の名無子の様子からさしもの悟空ですら多少心配していただけに、今の悟浄の様子はどうにも納得がいかず、拗ねたような表情で視線を差し向ける。
その隣で八戒が同意を示すように深く頷いている。
悟浄は少しだけバツの悪そうな顔で苦笑いすると、
「お子様にはわかんねーだろうけどな、フラレるイコール『終わり』じゃねーのよ。躓いてからが本当の勝負ってな」
「は?」
一同呆気にとられる中、その変化の原因に心当たりのある三蔵だけが黙って箸を口に運んでいた。
「一度フラレたくらいで諦めるようなヤワな惚れ方してねぇってこと。―――てことで名無子ちゃん、これからもよろしく。覚悟しててネ」
名無子の髪を一房指に絡め口付けてきた悟浄の、口調に反して真剣な色をした瞳が名無子の心臓を高鳴らせた。
「おい、色ボケ河童」
常人であればその声音だけで震えが来そうな、低く殺気を帯びた声が飛んできたが、悟浄にとっては日常茶飯事である。
フラレたことも、名無子が選んだのが三蔵であることも、今の悟浄にとってはどうでもいい些細な事だった。
名無子の肩に腕を回し、抱き寄せ、
「渡すつもりはねぇ。そう言ったろ?」
意味有りげに、にやり。
呼応した三蔵の米神に青筋が浮き出た。
ぐいと名無子の腕を引き、奪い返して胸に抱く。
「俺の女だっつったろーが。頭だけじゃなく耳まで悪いのか」
睨み合う二人の間を、きょとんとした顔で視線を往復させ、
「……仲良し」
独り言ちた名無子に
「「どこが!?」だ!!」
跳ねた声がシンクロした。
それを笑いながら
「私は三蔵のだけど、悟浄もみんなも大好き」
名無子が幸せそうに言う。
「…少なくともコイツを含めるんじゃねぇ」
「三蔵サマったらヤキモチ?小せぇなぁ。そんなんじゃ近い内に愛想尽かされるぜ」
「ふん、最初から土俵に上がれてねぇお前に言われても痛くも痒くもねぇ」
「その土俵から引き摺り落として吠え面かかせてやるよ」
「やっぱり仲良「お前は黙ってろ」むぐ」
隙あらば火花を散らす二人と、三蔵に口を塞がれ、不満そうに見上げる名無子。
今一つ締まりに欠ける、ちぐはぐな三つ巴。
早くも見慣れてしまった―――寧ろ、どこか懐かしささえ覚える光景を前に
「―――大丈夫ですよ悟空。何も変わらないようです」
「…だな」
八戒と悟空は苦くも安堵の笑みを交わしていた。
突然の不穏な空気を察知し、疑問符を舞い散らせる名無子の手から三蔵が小銃を取り上げる。
その怪訝そうな様子に八戒達が歩み寄ってきた。
「どうかしたんですか?」
「何?なんかあったの?」
名無子の銃を手にまじまじとそれを見詰め、そして不安を滲ませた名無子に顔を向ける。
「三蔵のと同じのがいいなって……ダメだった…?」
問わず語りのその言葉に、三蔵の眉がぴくり動いた。
「意図してやったんだな?」
「うん……」
余程不味いことをしてしまったのだろうかと、遂には視線を伏せてしまった。
三蔵の腕の上がる気配に固く目を瞑った瞬間―――
「よくやった」
頭に降ってきた掌と声に目を見開く。
そのまま頭を撫で回され、困惑しながら見上げた先には何処か上機嫌な三蔵の顔があった。
悟空と顔を見合わせていた八戒が遠慮がちに片手を挙げ、
「えっと…三蔵?僕達にもわかるように説明してくれますか?」
説明を求めると、三蔵は咥えていた煙草に火を着けてから徐に口を開いた。
「昇霊銃だ」
「……?」
「ただの銃を、昇霊銃に変えやがった。―――そうだな?」
「うん」
昇霊銃―――三蔵が扱う、対妖怪戦闘に特化した銃。
それに変えたとはどういうことだろうか。
疑問を呈するよりも早く、三蔵が自身の銃を手に言葉を続ける。
「これもそうだが、通常は妖魔滅の法術を組み込んで製造し、法力を通して初めて昇霊銃として機能する。それをこいつは―――何をどうやった?」
答えはいつもの
「わかんない」
しかし
「だろうな。まぁ別に構わん」
再び頭を撫でてやりながら鼻で笑った。
「凄いことなのは何となくわかったけど、なんで三蔵そんな嬉しそうなんだよ…」
未だ解けぬ疑問を悟空が口にする。
「当たり前だろうが。こいつにそれができるなら俺が弾丸の残数を気にする必要はねぇ。最悪、俺の銃が壊れたとしても何とかなる。
その上こいつ自身も、使う機会があるかはわからんが妖怪相手に遠距離で対峙できる。良いこと尽くめじゃねぇか」
成程と合点。
漸く名無子の顔にも安堵の笑みが戻る。
「とりあえず、お前は暇な時に銃の練習をしておけ」
「うん。わかった」
嬉しそうに目を細めて頷いた。
斯くして謎は解けたが、
「―――ところで三蔵。僕達は何をお手伝いすれば?」
銃の扱いを教えるならば自分達は不要のはず。そもそも何故呼ばれたのかと八戒が問い質す。
「あぁ。名無子に護身用に体術を教えてやれ。最低限で構わん」
「体術ですか?」
「身を護る術はいくつあっても構わんだろう。俺は部屋に戻る。後は任せた」
言いたいことを言うだけ言って返事も待たず背を向けた三蔵を、八戒はぽかんと口を開けたまま見送ると、
「………急な過保護」
その姿が見えなくなってからぽつり零した一言に悟空が吹き出した。
「ぶはっ!確かに!」
「こうも変わるものですか…ははぁ……」
「でもなんつーか…すげぇ生き生きしてんな!」
「三蔵、ご機嫌。良かった」
嬉しそうに笑みを交わす悟空と名無子の隣で、穏やかな風が八戒の苦笑を撫でていった。
いくら歩き回ったところで胸の疼きは和らぐこともなく、結局は宿へと戻ってきた悟浄の目が、宿の前、一番会いたくなかった人物の姿を捉えた。
壁に背を預け煙草を燻らせる見慣れた金糸に舌打ちし、目も合わせずその前を素通りして宿の中へと足を向ける。
と―――
「誰にも渡さねぇんじゃなかったのか」
すれ違い様に吐き捨てられた、何の感情も乗らない言の葉がその足を止めた。
ほんの数秒の沈黙。
再び足を踏み出した悟浄の胸に灯っていたのは、憤怒とは別の炎だった。
「不器用にも程があんだろ…」
僅かに上がった口の端で小さく呟いていた。
名無子が部屋へと戻ってきたのは日が西へ傾き始めた頃だった。
疲労の滲んだ顔がただいまを口にして、三蔵が煙草を燻らせていたベッドのその隣へと腰を下ろした。
「随分疲れてんな。どうだった」
「色々教えてもらったけど実際使えるかどうかは…わかんない。みんなの凄さを改めて実感しました」
ふぅと息を吐いて三蔵の肩に頭を預ける。
黙って頭を撫でてくる掌の感触に目を細めながら続けた。
「最初八戒に護身術?教えてもらったの。
でも大分疲れてそうだったから先に戻ってもらって、そのあと悟空に相手してもらったんだけど…」
「参考にはならなかったか」
言葉を濁した名無子のその先を難くない想像で紡いでやる。
体術に関しては四人の中でも突出しているのは間違いないが、如何せん悟空である。
八戒がいるならまだしも、単独で尚且つ戦闘経験のない名無子に戦い方を教えられるわけがないと同情を寄せた三蔵に名無子が苦笑いで答えた。
「ううん、凄く色々教えてくれたけど私が着いて行けなくて…あと体力おばけ…」
嘆息混じりの言葉に他意はないのだろう。
動物的感覚を擬音塗れの雰囲気で説明され困惑しながらもなんとか理解しようと必死に食らいついていこうとしている内に、名無子の体力が底を突く―――
そんな光景が目に浮かぶようだった。
「あの猿に着いていけるくらいなら鼻から護身術なんざ必要ねぇさ。
一先ず銃の扱いを覚えろ。護身術はその後でいい」
気持ちが急いて一気に詰め込み過ぎたと今更ながら自省し、哀れみと労いを込めてぽんと頭を叩いてやれば、それに呼応するかのようにふわりと笑みの花を咲かせた。
「うん、ありがと。ちょっと汗流してくるね」
言って、風呂場へと向かった名無子の姿が扉の奥へと消えると同時、もう一方の扉が開かれた。
「――あれ?名無子は?」
ノックもなく部屋を見回す悟空に嘆息しながらも言っても無駄と
「風呂。お前は入ってねぇのか」
答え、問いを返せば、
「うん。俺そんな動いてねーもん」
けろりとした金眼が言いながら部屋の中へと入って来た。
椅子に逆向きに腰を下ろした悟空に三蔵が尋ねた。
「名無子、体術の方はどんなだ」
本人の認識と食い違う可能性も大いにあると踏んでの確認だったが、
「んー、普通?やっぱ女の子だしさ。体力そんなねーし、銃マスターする方が早いと思う」
思いの外真っ当なコメントが返されただけだった。
「八戒は。何教えてやがった」
「えっと、暴漢に襲われたときの対処法?みたいな?」
『 いいですか名無子。護身術に関してはまず大前提として、貴女に害なす輩に一片の遠慮も慈悲もいりません。
相手が三蔵や悟浄であっても、そしてそれがどんな目的であろうと、です 』
爽やかな笑顔が紡いだ仮想敵に三蔵も含まれていたことは伏せたまま、記憶を辿る。
「羽交い締めされた時に腕すり抜ける方法とか色々やって、結局のところ―――」
『 男性相手だったらこれが一番効果的です 』
八戒が説いたのは、傍で聞いていただけの悟空までもが身震いする程の最終奥義。
「なにはともあれ金的狙えって…」
「………いや間違ってはねぇんだがな…」
その威力を知る者同士、眉間をくしゃりと歪め矛先が自身に向かないことを切に願うばかりだった。
「―――なぁなぁ三蔵」
「なんだ」
「名無子のこと、守ってもいいよな?」
ふと思い出したように放たれた言葉に、三蔵の視線が窓の外から悟空へと移る。
夕飯のメニューを尋ねるかのような軽い口調で紡がれた割にその瞳はやけに真っ直ぐで、いかにも悟空らしいと三蔵は口の端に笑みを滲ませた。
「守るなっつっても守るだろうが」
「いやそーだけど!三蔵も今はもう守るなって言わないだろ?」
伝わっていないと思ったのか、それともはぐらかされまいとしてか、言葉を変え改めて問い質してくるが、いずれも憂慮に過ぎなかった。
「あぁ。誰が言うかよ」
守る必要はないと吐き捨てた嘗ての自身に嘲りを、そして、新たな決意を胸に。
三蔵のにやりと上がった口角を目に、悟空はししっと嬉しそうに笑った。
シャワーを浴びて出てきた名無子と三人、寛ぐ部屋にはいつしか暮色が入り込んできている。
悟空の腹の虫が今にも切なげな悲鳴をあげようとしていた時、ノックの音が部屋に響いた。
「はーい」
立ち上がり、ドアを開けた名無子の視界に現れたのは悟浄だった。
目が合った瞬間、顔を強張らせた名無子に、悟浄はにっと歯を見せて笑うとその場に跪き、
「俺と一緒にディナーに行きませんか?お姫サマ」
名無子の手を取ると、その甲に口付けを落とした。
今朝方に見た陰鬱で痛ましい雰囲気が嘘のようだった。
まるで何事もなかったかのような、出会ったばかりの頃を彷彿とさせる所作にぱちぱちと目を瞬かせ佇む名無子の背後から
「おい名無子。何のために銃渡したと思ってんだ」
今撃たずにいつ撃つと言わんばかりの重低音が放たれた。
「何?銃なんて持たされたの?そんな物騒なものなくても俺が守ってやんのに」
立ち上がり流れるような動作で名無子の腰に手を回した悟浄に、三蔵が眉を上げる。
「なんだ傷心河童。部屋で枕を濡らしてたんじゃねーのか」
「濡らすならもっとイイもの濡らしたい゛ッ―――っぶねッ!!」
パンッ!
鳴り響いた発砲音の源は三蔵の右手に握られた小銃だった。
振り返り、丸い目でそれを確認した名無子に
「いいか。こうやって使うんだ」
三蔵が人差し指でガンスピンしながら事もなさげに言った。
「何教え込んでんだよ!髪掠っただろうが!」
「すまんな手元が狂った。次は脳天に当ててやるからそこから動くな」
「だッッ―――あーもう!話が進まねぇ!いーからお前ら、飯行くぞ飯!八戒もすぐ来る」
頭をガシガシと掻きながら言う悟浄の視線が向かったのは三蔵と悟空。
てっきり、
「あれ?名無子と二人で行くんじゃねーの?」
名無子だけを誘っているものと思っていた悟空が首を傾げた。
「行かせるわけねぇだろ」
間髪入れず口を挟んだ三蔵を無視し、
「そうしたいのは山々なんだけどよ。煩えのがいるから―――名無子ちゃんまた今度な」
片目を瞑ってみせる。
狐につままれたような顔で戸惑いながらも、うんと返した名無子。
「うぜぇ…」
久方振り、三蔵が眉間に刻印を刻み込み、低く唸った。
テーブルの上を埋め尽くす料理の数々。いつもと何ら変わらぬ、賑やかな食事の席。
その中にあって、どうにも釈然としないものを抱えていたのは八戒だった。
「名無子」
向かいの席の名無子に、少し前屈みになって顔を近付け声を潜める。
「悟浄と何話したんです?」
昼過ぎになっても戻らぬ悟浄への僅かばかりの憂慮を胸に仮眠を取った八戒だったが、目覚めてみれば普段と何ら変わらぬ様子の悟浄が夕食に誘ってきた。
そして今も、名無子の隣に座り軽口を叩きながら悟空と料理を奪い合っている。
始めは去勢を張っての空元気かとも思ったがそうでもないようで、自分が寝ている間に何事かあったのかと尋ねてみたのだが、
「何も?わかんないけど、元気になって良かった」
原因かと思われた名無子も答えを持たず、嬉しそうに笑うばかりだった。
そんな小声の会話を耳聡く拾った悟空が、八戒と同じ気持ちを、八戒とは違い音にして悟浄へと届ける。
「悟浄さ、フラレたんじゃなかったの?」
余りにもストレートな物言いに、お茶を口に含んでいた八戒が噎せ返り、悟浄が呆れ顔で嘆息を吐いた。
「お猿ちゃんよ…ちったぁデリカシーってもの覚えた方がいいんでない?」
「だって、意味わかんねーんだもん。復活早すぎねぇ?」
八戒の発言と今朝の名無子の様子からさしもの悟空ですら多少心配していただけに、今の悟浄の様子はどうにも納得がいかず、拗ねたような表情で視線を差し向ける。
その隣で八戒が同意を示すように深く頷いている。
悟浄は少しだけバツの悪そうな顔で苦笑いすると、
「お子様にはわかんねーだろうけどな、フラレるイコール『終わり』じゃねーのよ。躓いてからが本当の勝負ってな」
「は?」
一同呆気にとられる中、その変化の原因に心当たりのある三蔵だけが黙って箸を口に運んでいた。
「一度フラレたくらいで諦めるようなヤワな惚れ方してねぇってこと。―――てことで名無子ちゃん、これからもよろしく。覚悟しててネ」
名無子の髪を一房指に絡め口付けてきた悟浄の、口調に反して真剣な色をした瞳が名無子の心臓を高鳴らせた。
「おい、色ボケ河童」
常人であればその声音だけで震えが来そうな、低く殺気を帯びた声が飛んできたが、悟浄にとっては日常茶飯事である。
フラレたことも、名無子が選んだのが三蔵であることも、今の悟浄にとってはどうでもいい些細な事だった。
名無子の肩に腕を回し、抱き寄せ、
「渡すつもりはねぇ。そう言ったろ?」
意味有りげに、にやり。
呼応した三蔵の米神に青筋が浮き出た。
ぐいと名無子の腕を引き、奪い返して胸に抱く。
「俺の女だっつったろーが。頭だけじゃなく耳まで悪いのか」
睨み合う二人の間を、きょとんとした顔で視線を往復させ、
「……仲良し」
独り言ちた名無子に
「「どこが!?」だ!!」
跳ねた声がシンクロした。
それを笑いながら
「私は三蔵のだけど、悟浄もみんなも大好き」
名無子が幸せそうに言う。
「…少なくともコイツを含めるんじゃねぇ」
「三蔵サマったらヤキモチ?小せぇなぁ。そんなんじゃ近い内に愛想尽かされるぜ」
「ふん、最初から土俵に上がれてねぇお前に言われても痛くも痒くもねぇ」
「その土俵から引き摺り落として吠え面かかせてやるよ」
「やっぱり仲良「お前は黙ってろ」むぐ」
隙あらば火花を散らす二人と、三蔵に口を塞がれ、不満そうに見上げる名無子。
今一つ締まりに欠ける、ちぐはぐな三つ巴。
早くも見慣れてしまった―――寧ろ、どこか懐かしささえ覚える光景を前に
「―――大丈夫ですよ悟空。何も変わらないようです」
「…だな」
八戒と悟空は苦くも安堵の笑みを交わしていた。