第一章
貴女のお名前は?
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翌朝、八戒を深い眠りの底から呼び起こしたのは窓から燦々と差し込む朝日ではなく控えめなノックの音だった。
眉を顰めて薄目を開け、鈍い動作で身を起こす。
昨夜、追い出されるまで店で管を巻いていた悟浄は、部屋に戻ってきてからも缶ビール片手に尽きることない悲憤慷慨を八戒と悟空に吐き出していた。
今日ばかりは致し方無しと船を漕ぎつつも辛抱強く付き合っていた八戒が意識を手放すことを許されたのは、太陽が完全に顔を出した頃―――つい数刻前のことだった。
ベッドの下、敷かれた布団に転がる屍二体と散乱する空き缶を蹴飛ばしながらも何とか音源を辿り、扉を開ける。
「はい…」
「おはよ、八戒。ごめん、もしかして起こした?」
心配そうに見上げ来る灰銀の瞳。
その背後から
「お前がこの時間まで寝てるとは珍しいな」
届けられた、何の感慨もなさそうな不躾な声。
いつになく晴れ晴れとした表情に思えるのは、見方が穿ちすぎているだろうか。
掠れた声を咳払いで整え、笑みを貼り付ける。
「おはようございます。名無子、三蔵。すみません、今起きました」
「…悟浄もまだ寝てる?」
部屋を覗き込んだ名無子の視線を追って苦笑い。
「ご覧の通りですが―――ちょっと待っててください」
「いや、いいよ。起きてからで」
「大丈夫ですよ。それに、悲報訃報は一刻も早く伝えた方がいい」
二人して部屋を訪ねてきた名無子と三蔵。
皺の消えた三蔵の眉間。何やら悟浄を気にしている名無子。
鈍痛に苛まれる頭でも状況は容易に想像がつく。
覚束ない足取りで部屋の中へ。背後で途切れた声を振り返り、首を傾げた。
「あれ?違いました??」
「……ううん、違わない」
丸く見開かれた瞳が神妙な面持ちに変わり、首を横に振る。
八戒は小さく笑い、悟浄の肩を揺すった。
「ほら、悟浄。起きてください。悟浄」
「―――煩ぇ…揺すんな…吐く……」
「名無子が貴方に話があるそうですよ」
顔を顰めて固く目を瞑り、唸るように言った悟浄の瞳が一瞬で見開かれた。
「―――ッ…名無子!?ちょっ…ちょい待ち!顔洗ってくる!」
名無子の姿を視認するや否や飛び起きた悟浄は、布団と空き缶に足を取られながら転がり込むように洗面所へと消えていった。
苦笑いを交わし待つこと数分。
「お待たせ名無子ちゃん」
草臥れた無精髭から一転、インスタントな笑顔を煌めかせ出てきた悟浄に名無子が苦笑を返す。
「ごめんね、起こしちゃって。―――少し、外で話せる?」
「あぁ。勿論」
名無子の腰に手を添え、ドアの外へと誘う。
部屋の中、椅子に腰を下ろし煙草を咥えた三蔵と一瞬目が合ったが、互いに何も言うことなく悟浄は名無子と部屋を後にした。
宿に程近い広場、その一角のベンチに名無子と悟浄は並んで座った。
追い駆けっこに興じる子供達の笑い声が響き、温かな日差しが降り注ぐ。
この上なく平和で穏やかに見える風景の中で、名無子が話を切り出すのを待つ悟浄の心音だけが不安に掻き乱されていた。
沈黙に耐えきれず、悟浄がポケットの中の煙草に手を伸ばしたその時。
「昨日の返事、だけど…」
さして大きな音でもない、寧ろ辺りの喧騒に掻き消されそうなその声が悟浄の鼓膜を揺さぶった。
「悟浄の気持ちは、凄く嬉しかった。本当にありがとう。……でも―――」
一度は覚悟を決めたはずの心が、その続きは聞きたくないと、どうかやめてくれと足掻くように騒ぎ立てる。
「ごめんなさい。悟浄の気持ちには応えられない」
世界が音を、色を失くした―――
先程まで視界の端にちらついていた、名無子の首元を飾る鮮やかな赤いスカーフすらも鉛色となって背景に溶け消え、己の拍動だけが喧しく響く。
「三蔵…か」
無意識に呟いた名前。
「うん」
答えなど聞きたくなかったのに。聞こえなければ良かったのに。
ポケットの中、握り締めた煙草が微かな音を立てた。
「俺じゃ、ダメなんだな…」
それは自傷にも似て、思わず嘲笑が悟浄の口の端に浮かぶ。
「違うよ」
凛とした声が短く響いた。
ゆっくりと顔を上げた悟浄の瞳に写ったのは、
「悟浄がダメなんじゃない。私が、三蔵じゃなきゃダメなの」
今にも泣き出しそうな顔に、必死に笑みを繋ぎ止めた名無子の姿だった。
っっ―――痛ぇなぁ…
これまで受けたどんな傷よりも痛いとかありえねーだろ
女にフラれんのなんざ初めてでもないだろうによ
―――あぁ、そうか
初めて、だったか
全く、百戦錬磨が聞いて呆れるぜ
でもな、こんなクソダセぇ俺でもできることがまだあるだろう?
さぁ、笑えよ
今この時、俺以上に心を痛めているはずの愛しい女のために―――
「そっか。わかった」
精一杯の強がりが咲かせた歪な笑みを餞に、悟浄は立ち上がり天を仰ぐと大きく息を吸い込んだ。
「…喜んでやれなくて、ゴメンな」
小さく呟き、その声が震えていなかったことに安堵しながら名無子に背を向ける。
「ちょっと散歩して戻るわ。先戻ってて」
片手を挙げ去っていく悟浄の後ろ姿を、名無子は見えなくなるまでただ見詰めていた。
名無子と悟浄が出て行った部屋の中、残された八戒はベッドに腰を下ろすと三蔵に向き合った。
「良かったんですか?二人で行かせて」
「…この場でフラせる程鬼じゃねーよ」
煙草を燻らせながら視線も向けず返された言葉に八戒が目を瞬かせる。
正に、鬼の目にも涙、と言ったところだろうか。
それとも、それだけ余裕ができた故なのか。
いずれにせよ―――
「三蔵にも情けというものがあったんですねぇ」
笑みとともに率直な感想を述べてみる。
「お前は俺を何だと思ってんだ…」
鬼畜生臭坊主、とは答えないでおいた。
代わりに、
「それで?貴方も一緒に来たってことは、報告はしてくれるんですよね?」
話を変え、本題を切り出す。
すると、
「昨日言った通りだ」
一言。続くは吐き出された白煙ばかり。
八戒の不動の笑みに青筋が薄っすらと浮き上がったが、鍛え上げられた忍耐力を駆使して問いを重ねる。
「名無子とお付き合いすることになった、で、合ってますか?」
「あぁ」
「昨夜は順番が前後してたように見えましたが?」
「……結果が同じなら別に良いだろうが」
ちくり、棘を刺してやればふてぶてしくも泳ぐ視線。
三蔵なりに、多少なりとも反省はあるようだと一先ず矛を収める。
深呼吸を一つ、
「やっと収まるところに収まりましたか」
苦笑と共にやれやれと零した八戒に、三蔵の眉がぴくり反応を示した。
「…どういう意味だ」
八戒は緩慢な動作で床に散らかったゴミを片付けつつ、何となくですけどね、と、話し始めた。
「目の前に完成間近なジグソーパズルがあって、その最後の1ピースを三蔵が持っているのに何故かそこに嵌めるのを拒否して持て余しているような―――ずっとそんなもどかしさがあったもので」
名無子の事となると妙に曖昧で感覚的な物言いをする八戒だが、実際、八戒の言う通り最後のパーツが嵌ったような充足感は三蔵も少なからず感じていた。
否定もせず、煙草を灰皿に押し付けると足元で布団に包まる悟空へと視線を落とした。
「後で悟空にも伝えておけ―――おい、悟空。猿のくせに狸寝入り決めてんじゃねーよ」
脇腹を足で小突かれた悟空がバツの悪そうな顔で苦笑い。三蔵を見上げる。
「なんでバレた??」
「顔がニヤけてんだよ…」
呆れ顔で嘆息を吐いた三蔵に、悟空は身を起こし布団に胡座をかくと
「良かったな三蔵!」
寝癖のついた頭に、曇りのない満開の笑みを添えて言った。
屈託のないその笑顔に、あぁ、と短く応える。
微笑と呼ぶには不確かな、それでも三蔵にしては柔らかな表情に、八戒も悟空も目を細めていた。
「―――じゃあさ、やっぱ悟浄、フラレ河童?」
欠伸を零しながらの悪気ない悟空の言葉に八戒が苦笑する。
「悟空、今日くらいは優しくしてあげてくださいね」
「女にフラレるのは慣れたもんだろうよ」
「とは言え、今回は…三蔵もわからないわけじゃないでしょう?」
いつもの女遊びの延長ならいざ知らず、真剣に名無子を想い、柄にもない真っ当な告白をしてみせた上での玉砕だ。
それこそ普段悟浄に対して当たりの強い三蔵が、細やかながらも配慮を滲ませるくらいには事態は軽くないと慮る八戒に対して
「それで心折れるならその程度だったってことだろ」
ふんと吐き捨てるように三蔵が言う。
何が”その程度”なのかは扠置き、
「でも折れなかったら折れなかったで?」
八戒が問いを続ければ、
「………この上なくうぜぇ…」
想像を至らせた三蔵が眉間を不愉快そうに歪めた。
閑話休題、八戒が三蔵に向き合い居を正す。
「それより三蔵。貴方が覚悟を決めて、名無子がそれに応えたのなら文句は言いません。
ただ、もし名無子を泣かせるようなことがあったら、今後の旅程は徒歩だと思ってください」
悟空の頭の上、同意を示すようにジープがキューと鳴いた。
「お前に言われるまでもねぇよ」
既に散々泣かせた覚えもあるが、あれはノーカウントで良いだろうと自己完結させた。
「それと。酔っていたとは言え『俺の女』は如何なものかと思いますよ?」
「…おい。文句言わねぇんじゃなかったのか」
「貴方達が付き合うことに関しては、です。いいですか、貴方が傲慢なのは今に始まったことじゃないですし女性経験がないのも知っていますが、これからはもう少し女性に対する接し方も学ばなくては。いくら名無子が普通の女性とは違うとは言えデリカシーというものが―――」
「あーもう煩ぇ!!悟空、飯行くぞ!さっさと顔洗って来い!!」
「あーい。飯ー!」
「三蔵!まだ話は―――」
結局降り出した小言の雨から逃れるべく三蔵は速やかに部屋の外へ。
扉で遮り、ふぅと息を吐き出した。
三蔵が食後のコーヒーに手を付けた頃、食堂に姿を見せた名無子の表情は三蔵が予期していた通りのものだった。
「あれ?名無子、悟浄は?」
「散歩して帰るって」
悟空の問いに何事もなくそう答え、三蔵の隣の席に座った名無子。
平静を装ってはいるものの、隠しきれない陰りが顔を覆っている。
「…大丈夫か」
「うん。大丈夫」
視線を合わせ頷いたその頭に、三蔵は何も言わずぽんと掌を落とした。
その光景に、追加のコーヒーを注文していた八戒が
「慣れませんねぇ…」
ぽつり零した言葉を、
「何が?」
皿に残った最後の一口を掻き集めていた悟空が横目で拾った。
「『優しい三蔵』…いえ、『甘い三蔵』、ですかね。ほら、もう文字面が違和感ありますもん」
「あー、わかる。なんか……『塩っぱい砂糖』みたいな」
「それもうただの塩だろ…」
「矛盾してるんですよねぇ」
しみじみと違和感を噛み締める八戒に
「お前らな…」
三蔵が視線を突き刺してくる。その割に、さして煩わしそうでもなく青筋も浮き出ていないのはやはり
「三蔵は前から優しいよ?」
不思議そうな顔で訂正を入れてくる名無子の存在故だろうかと八戒は思った。
「そりゃ名無子に対してだけだって。普段の俺らへの態度と全然違ぇじゃん!」
「お前らの言動がそうさせてんだ!つーかお前らと同じな方が問題だろうが!」
「私は同じでも大丈夫だよ?」
「何言ってるんですか名無子!三蔵、そんなこと絶対許しませんからね!」
「するわけがねェ…」
三蔵が疲れを滲ませ力ない突っ込みを入れた。
そんな二人の遣り取りが呼び水となって
「ふふっ…八戒元気」
名無子の口から漏れた漸くの笑みに、三蔵は人心地の息を白煙に紛れさせていた。
「おい、八戒。さっきからテンションおかしいぞ。もしかしてまだ酒残ってんのか」
「そーいや、俺寝た後何時まで飲んでた?」
「えーっと…朝まで、ですかね?酒は抜けてると思うんですが…睡眠不足は否めません」
苦笑いで八戒が答える。
「なんでそんな時間まで……大丈夫?」
「いやー、お姫様を攫われた騎士様の愚痴が止まらなくて」
「…悟浄……」
回復の兆しを見せていたのも束の間。八戒の一言で再び目を伏せ顔を曇らせた名無子。
三蔵が舌打ちし八戒を睨み付けた。
「余計なこと思い出させてんじゃねーよ…」
「あぁ…すみません名無子。貴女を責めたわけでも思い出させたかったわけでもないんです。
大体、貴女が気に病む必要なんてないんですから」
「そーそー。暫くしたら普通に戻ってくるって!」
慌ててフォローする八戒と悟空に、うんと小さく笑って応えるも、その程度で雲が晴らせぬことくらい三蔵はわかっていた。
「飯、食わねぇならちょっと来い」
流れを変えるべく席を立った三蔵に名無子が素直に従う。
微笑ましそうにそれを見ていた八戒だったが
「八戒、お前もだ。一眠りするつもりだろうがその前に少し手を貸せ」
まさかのご指名に目を丸くした。
「僕ですか?構いませんが…」
「俺も着いてっていい?」
「あぁ。お前も手伝え」
八戒が名無子に視線で問い掛けるも、同じ疑問符が返されただけだった。
そうして四人、辿り着いたのは宿の裏手。少し開けた林の中で三蔵は足を止めた。
「名無子」
三蔵が差し出したのは
「これをやる。常に持ってろ」
「これ、三蔵の……じゃない?」
「同じ型だが昇霊銃じゃねぇ。普通の銃だ」
見慣れた金属の塊。
一昨日、男達に絡まれている名無子を見た時から対人間用の何かしらの自衛手段をと考えていたところ、偶然見かけた銃砲店で購入したものだった。
「お揃いとは言え、また色気のないプレゼントですねぇ…」
「すっげー三蔵らしー…」
嘆息混じりに呆れる外野二人に青筋立ったものの、一先ず無視して話を進める。
「お前自身の力はあくまで最終手段だ。それ以前の脅しとして使え。
頭に銃口を突き付けてやりゃ大体の奴は大人しくなる」
身に覚えのある二人がなるほどと納得の表情を浮かべる中、三蔵が続ける。
「が、稀にそれでも怯まない赤ゴキブリみたいな奴がいる。そういう下衆野郎は速やかに撃て」
「こらこら三蔵。物騒なこと教え込まないでください」
流石に八戒が口を挟んだ。
「…判断は任せる。ただ、その時になって躊躇はするな」
個人的は何の遠慮もいらないと思いはするが、ここまで言えば名無子ならば必要十分な理解に至るはずと。
「……撃っても死なないところに当てる?」
提示された期待に違わぬ答えに、三蔵の口の端に満足げな微笑が浮かんだ。
頭を一撫で。銃を手に説明に取り掛かる。
「ここに6発の弾が入る。撃ったら常に再装填しておけ。撃つ時はこの安全装置を外し、狙いを定めて引き金を引くだけだ」
弾を込め、指し示しながら手短に説明する三蔵に悟空が片手を高く挙げた。
「はい!さんぞーセンセー!何だっけあれ、撃つ前にガチャってしねーの?いつもやってんじゃん」
銃を持つ真似をして、右手の親指を動かしながら尋ねる。
「こいつはダブルアクションでも撃てる。素人にはその方がやりやすいし反応も早い。命中精度は下がるがな」
「ダブルアクション?」
「お前が言ってる、ハンマーを起こしてからトリガーを引くのがシングルアクション。トリガーを引くだけで発砲できるのがダブルだ」
「一回の動作で撃てるのにダブルなんですねぇ」
「逆じゃね?ややこしー」
「一度の動作でハンマーとトリガー二つ動かすんだからダブルで合ってる。―――って、そこはどうでもいい。名無子、ここまでは良いか?」
無関係な生徒達に逸らされた話を戻し、確認する。
「うん」
名無子が真剣な表情で頷いた。
「よし。なら―――」
三蔵は当たりを見渡すと、数メートル先の切り株へと足を向けた。
袂から煙草を取り出し、最後の一本を咥えると空き箱を切り株の上に立てて置く。
そして名無子の元へと戻ると名無子の身体を切り株に向け、その背後に回り込んだ。
「銃を構えろ」
「ん」
「照準を定めたら引き金をゆっくりと、均等に引く。ダブルアクションだと少しトリガーが重くなるからグリップをしっかり握っておけ。反動にも気を付けろ」
「わかった」
名無子の手に自分の手を重ね、丁寧に説明する三蔵の様子を、八戒と悟空が物珍しそうに、しかし黙って見詰めている。
「支えておく。試しに撃ってみろ」
「うん」
すぅ、と息を吸い込み、止める―――
短い発砲音が辺りに響いた。
煙草の箱の上方を辿った軌道を確認し、
「それでいい。左右はブレてねぇ。後は撃つ瞬間の衝撃で銃口が跳ねんように―――おい」
暇な時に練習しておけと言いかけた三蔵の言葉が止まる。
「??何?」
「お前、何しやがった…」
真上を見上げた名無子の頭上から降ってきた低い声に、名無子の肩がびくりと跳ねた。
眉を顰めて薄目を開け、鈍い動作で身を起こす。
昨夜、追い出されるまで店で管を巻いていた悟浄は、部屋に戻ってきてからも缶ビール片手に尽きることない悲憤慷慨を八戒と悟空に吐き出していた。
今日ばかりは致し方無しと船を漕ぎつつも辛抱強く付き合っていた八戒が意識を手放すことを許されたのは、太陽が完全に顔を出した頃―――つい数刻前のことだった。
ベッドの下、敷かれた布団に転がる屍二体と散乱する空き缶を蹴飛ばしながらも何とか音源を辿り、扉を開ける。
「はい…」
「おはよ、八戒。ごめん、もしかして起こした?」
心配そうに見上げ来る灰銀の瞳。
その背後から
「お前がこの時間まで寝てるとは珍しいな」
届けられた、何の感慨もなさそうな不躾な声。
いつになく晴れ晴れとした表情に思えるのは、見方が穿ちすぎているだろうか。
掠れた声を咳払いで整え、笑みを貼り付ける。
「おはようございます。名無子、三蔵。すみません、今起きました」
「…悟浄もまだ寝てる?」
部屋を覗き込んだ名無子の視線を追って苦笑い。
「ご覧の通りですが―――ちょっと待っててください」
「いや、いいよ。起きてからで」
「大丈夫ですよ。それに、悲報訃報は一刻も早く伝えた方がいい」
二人して部屋を訪ねてきた名無子と三蔵。
皺の消えた三蔵の眉間。何やら悟浄を気にしている名無子。
鈍痛に苛まれる頭でも状況は容易に想像がつく。
覚束ない足取りで部屋の中へ。背後で途切れた声を振り返り、首を傾げた。
「あれ?違いました??」
「……ううん、違わない」
丸く見開かれた瞳が神妙な面持ちに変わり、首を横に振る。
八戒は小さく笑い、悟浄の肩を揺すった。
「ほら、悟浄。起きてください。悟浄」
「―――煩ぇ…揺すんな…吐く……」
「名無子が貴方に話があるそうですよ」
顔を顰めて固く目を瞑り、唸るように言った悟浄の瞳が一瞬で見開かれた。
「―――ッ…名無子!?ちょっ…ちょい待ち!顔洗ってくる!」
名無子の姿を視認するや否や飛び起きた悟浄は、布団と空き缶に足を取られながら転がり込むように洗面所へと消えていった。
苦笑いを交わし待つこと数分。
「お待たせ名無子ちゃん」
草臥れた無精髭から一転、インスタントな笑顔を煌めかせ出てきた悟浄に名無子が苦笑を返す。
「ごめんね、起こしちゃって。―――少し、外で話せる?」
「あぁ。勿論」
名無子の腰に手を添え、ドアの外へと誘う。
部屋の中、椅子に腰を下ろし煙草を咥えた三蔵と一瞬目が合ったが、互いに何も言うことなく悟浄は名無子と部屋を後にした。
宿に程近い広場、その一角のベンチに名無子と悟浄は並んで座った。
追い駆けっこに興じる子供達の笑い声が響き、温かな日差しが降り注ぐ。
この上なく平和で穏やかに見える風景の中で、名無子が話を切り出すのを待つ悟浄の心音だけが不安に掻き乱されていた。
沈黙に耐えきれず、悟浄がポケットの中の煙草に手を伸ばしたその時。
「昨日の返事、だけど…」
さして大きな音でもない、寧ろ辺りの喧騒に掻き消されそうなその声が悟浄の鼓膜を揺さぶった。
「悟浄の気持ちは、凄く嬉しかった。本当にありがとう。……でも―――」
一度は覚悟を決めたはずの心が、その続きは聞きたくないと、どうかやめてくれと足掻くように騒ぎ立てる。
「ごめんなさい。悟浄の気持ちには応えられない」
世界が音を、色を失くした―――
先程まで視界の端にちらついていた、名無子の首元を飾る鮮やかな赤いスカーフすらも鉛色となって背景に溶け消え、己の拍動だけが喧しく響く。
「三蔵…か」
無意識に呟いた名前。
「うん」
答えなど聞きたくなかったのに。聞こえなければ良かったのに。
ポケットの中、握り締めた煙草が微かな音を立てた。
「俺じゃ、ダメなんだな…」
それは自傷にも似て、思わず嘲笑が悟浄の口の端に浮かぶ。
「違うよ」
凛とした声が短く響いた。
ゆっくりと顔を上げた悟浄の瞳に写ったのは、
「悟浄がダメなんじゃない。私が、三蔵じゃなきゃダメなの」
今にも泣き出しそうな顔に、必死に笑みを繋ぎ止めた名無子の姿だった。
っっ―――痛ぇなぁ…
これまで受けたどんな傷よりも痛いとかありえねーだろ
女にフラれんのなんざ初めてでもないだろうによ
―――あぁ、そうか
初めて、だったか
全く、百戦錬磨が聞いて呆れるぜ
でもな、こんなクソダセぇ俺でもできることがまだあるだろう?
さぁ、笑えよ
今この時、俺以上に心を痛めているはずの愛しい女のために―――
「そっか。わかった」
精一杯の強がりが咲かせた歪な笑みを餞に、悟浄は立ち上がり天を仰ぐと大きく息を吸い込んだ。
「…喜んでやれなくて、ゴメンな」
小さく呟き、その声が震えていなかったことに安堵しながら名無子に背を向ける。
「ちょっと散歩して戻るわ。先戻ってて」
片手を挙げ去っていく悟浄の後ろ姿を、名無子は見えなくなるまでただ見詰めていた。
名無子と悟浄が出て行った部屋の中、残された八戒はベッドに腰を下ろすと三蔵に向き合った。
「良かったんですか?二人で行かせて」
「…この場でフラせる程鬼じゃねーよ」
煙草を燻らせながら視線も向けず返された言葉に八戒が目を瞬かせる。
正に、鬼の目にも涙、と言ったところだろうか。
それとも、それだけ余裕ができた故なのか。
いずれにせよ―――
「三蔵にも情けというものがあったんですねぇ」
笑みとともに率直な感想を述べてみる。
「お前は俺を何だと思ってんだ…」
鬼畜生臭坊主、とは答えないでおいた。
代わりに、
「それで?貴方も一緒に来たってことは、報告はしてくれるんですよね?」
話を変え、本題を切り出す。
すると、
「昨日言った通りだ」
一言。続くは吐き出された白煙ばかり。
八戒の不動の笑みに青筋が薄っすらと浮き上がったが、鍛え上げられた忍耐力を駆使して問いを重ねる。
「名無子とお付き合いすることになった、で、合ってますか?」
「あぁ」
「昨夜は順番が前後してたように見えましたが?」
「……結果が同じなら別に良いだろうが」
ちくり、棘を刺してやればふてぶてしくも泳ぐ視線。
三蔵なりに、多少なりとも反省はあるようだと一先ず矛を収める。
深呼吸を一つ、
「やっと収まるところに収まりましたか」
苦笑と共にやれやれと零した八戒に、三蔵の眉がぴくり反応を示した。
「…どういう意味だ」
八戒は緩慢な動作で床に散らかったゴミを片付けつつ、何となくですけどね、と、話し始めた。
「目の前に完成間近なジグソーパズルがあって、その最後の1ピースを三蔵が持っているのに何故かそこに嵌めるのを拒否して持て余しているような―――ずっとそんなもどかしさがあったもので」
名無子の事となると妙に曖昧で感覚的な物言いをする八戒だが、実際、八戒の言う通り最後のパーツが嵌ったような充足感は三蔵も少なからず感じていた。
否定もせず、煙草を灰皿に押し付けると足元で布団に包まる悟空へと視線を落とした。
「後で悟空にも伝えておけ―――おい、悟空。猿のくせに狸寝入り決めてんじゃねーよ」
脇腹を足で小突かれた悟空がバツの悪そうな顔で苦笑い。三蔵を見上げる。
「なんでバレた??」
「顔がニヤけてんだよ…」
呆れ顔で嘆息を吐いた三蔵に、悟空は身を起こし布団に胡座をかくと
「良かったな三蔵!」
寝癖のついた頭に、曇りのない満開の笑みを添えて言った。
屈託のないその笑顔に、あぁ、と短く応える。
微笑と呼ぶには不確かな、それでも三蔵にしては柔らかな表情に、八戒も悟空も目を細めていた。
「―――じゃあさ、やっぱ悟浄、フラレ河童?」
欠伸を零しながらの悪気ない悟空の言葉に八戒が苦笑する。
「悟空、今日くらいは優しくしてあげてくださいね」
「女にフラレるのは慣れたもんだろうよ」
「とは言え、今回は…三蔵もわからないわけじゃないでしょう?」
いつもの女遊びの延長ならいざ知らず、真剣に名無子を想い、柄にもない真っ当な告白をしてみせた上での玉砕だ。
それこそ普段悟浄に対して当たりの強い三蔵が、細やかながらも配慮を滲ませるくらいには事態は軽くないと慮る八戒に対して
「それで心折れるならその程度だったってことだろ」
ふんと吐き捨てるように三蔵が言う。
何が”その程度”なのかは扠置き、
「でも折れなかったら折れなかったで?」
八戒が問いを続ければ、
「………この上なくうぜぇ…」
想像を至らせた三蔵が眉間を不愉快そうに歪めた。
閑話休題、八戒が三蔵に向き合い居を正す。
「それより三蔵。貴方が覚悟を決めて、名無子がそれに応えたのなら文句は言いません。
ただ、もし名無子を泣かせるようなことがあったら、今後の旅程は徒歩だと思ってください」
悟空の頭の上、同意を示すようにジープがキューと鳴いた。
「お前に言われるまでもねぇよ」
既に散々泣かせた覚えもあるが、あれはノーカウントで良いだろうと自己完結させた。
「それと。酔っていたとは言え『俺の女』は如何なものかと思いますよ?」
「…おい。文句言わねぇんじゃなかったのか」
「貴方達が付き合うことに関しては、です。いいですか、貴方が傲慢なのは今に始まったことじゃないですし女性経験がないのも知っていますが、これからはもう少し女性に対する接し方も学ばなくては。いくら名無子が普通の女性とは違うとは言えデリカシーというものが―――」
「あーもう煩ぇ!!悟空、飯行くぞ!さっさと顔洗って来い!!」
「あーい。飯ー!」
「三蔵!まだ話は―――」
結局降り出した小言の雨から逃れるべく三蔵は速やかに部屋の外へ。
扉で遮り、ふぅと息を吐き出した。
三蔵が食後のコーヒーに手を付けた頃、食堂に姿を見せた名無子の表情は三蔵が予期していた通りのものだった。
「あれ?名無子、悟浄は?」
「散歩して帰るって」
悟空の問いに何事もなくそう答え、三蔵の隣の席に座った名無子。
平静を装ってはいるものの、隠しきれない陰りが顔を覆っている。
「…大丈夫か」
「うん。大丈夫」
視線を合わせ頷いたその頭に、三蔵は何も言わずぽんと掌を落とした。
その光景に、追加のコーヒーを注文していた八戒が
「慣れませんねぇ…」
ぽつり零した言葉を、
「何が?」
皿に残った最後の一口を掻き集めていた悟空が横目で拾った。
「『優しい三蔵』…いえ、『甘い三蔵』、ですかね。ほら、もう文字面が違和感ありますもん」
「あー、わかる。なんか……『塩っぱい砂糖』みたいな」
「それもうただの塩だろ…」
「矛盾してるんですよねぇ」
しみじみと違和感を噛み締める八戒に
「お前らな…」
三蔵が視線を突き刺してくる。その割に、さして煩わしそうでもなく青筋も浮き出ていないのはやはり
「三蔵は前から優しいよ?」
不思議そうな顔で訂正を入れてくる名無子の存在故だろうかと八戒は思った。
「そりゃ名無子に対してだけだって。普段の俺らへの態度と全然違ぇじゃん!」
「お前らの言動がそうさせてんだ!つーかお前らと同じな方が問題だろうが!」
「私は同じでも大丈夫だよ?」
「何言ってるんですか名無子!三蔵、そんなこと絶対許しませんからね!」
「するわけがねェ…」
三蔵が疲れを滲ませ力ない突っ込みを入れた。
そんな二人の遣り取りが呼び水となって
「ふふっ…八戒元気」
名無子の口から漏れた漸くの笑みに、三蔵は人心地の息を白煙に紛れさせていた。
「おい、八戒。さっきからテンションおかしいぞ。もしかしてまだ酒残ってんのか」
「そーいや、俺寝た後何時まで飲んでた?」
「えーっと…朝まで、ですかね?酒は抜けてると思うんですが…睡眠不足は否めません」
苦笑いで八戒が答える。
「なんでそんな時間まで……大丈夫?」
「いやー、お姫様を攫われた騎士様の愚痴が止まらなくて」
「…悟浄……」
回復の兆しを見せていたのも束の間。八戒の一言で再び目を伏せ顔を曇らせた名無子。
三蔵が舌打ちし八戒を睨み付けた。
「余計なこと思い出させてんじゃねーよ…」
「あぁ…すみません名無子。貴女を責めたわけでも思い出させたかったわけでもないんです。
大体、貴女が気に病む必要なんてないんですから」
「そーそー。暫くしたら普通に戻ってくるって!」
慌ててフォローする八戒と悟空に、うんと小さく笑って応えるも、その程度で雲が晴らせぬことくらい三蔵はわかっていた。
「飯、食わねぇならちょっと来い」
流れを変えるべく席を立った三蔵に名無子が素直に従う。
微笑ましそうにそれを見ていた八戒だったが
「八戒、お前もだ。一眠りするつもりだろうがその前に少し手を貸せ」
まさかのご指名に目を丸くした。
「僕ですか?構いませんが…」
「俺も着いてっていい?」
「あぁ。お前も手伝え」
八戒が名無子に視線で問い掛けるも、同じ疑問符が返されただけだった。
そうして四人、辿り着いたのは宿の裏手。少し開けた林の中で三蔵は足を止めた。
「名無子」
三蔵が差し出したのは
「これをやる。常に持ってろ」
「これ、三蔵の……じゃない?」
「同じ型だが昇霊銃じゃねぇ。普通の銃だ」
見慣れた金属の塊。
一昨日、男達に絡まれている名無子を見た時から対人間用の何かしらの自衛手段をと考えていたところ、偶然見かけた銃砲店で購入したものだった。
「お揃いとは言え、また色気のないプレゼントですねぇ…」
「すっげー三蔵らしー…」
嘆息混じりに呆れる外野二人に青筋立ったものの、一先ず無視して話を進める。
「お前自身の力はあくまで最終手段だ。それ以前の脅しとして使え。
頭に銃口を突き付けてやりゃ大体の奴は大人しくなる」
身に覚えのある二人がなるほどと納得の表情を浮かべる中、三蔵が続ける。
「が、稀にそれでも怯まない赤ゴキブリみたいな奴がいる。そういう下衆野郎は速やかに撃て」
「こらこら三蔵。物騒なこと教え込まないでください」
流石に八戒が口を挟んだ。
「…判断は任せる。ただ、その時になって躊躇はするな」
個人的は何の遠慮もいらないと思いはするが、ここまで言えば名無子ならば必要十分な理解に至るはずと。
「……撃っても死なないところに当てる?」
提示された期待に違わぬ答えに、三蔵の口の端に満足げな微笑が浮かんだ。
頭を一撫で。銃を手に説明に取り掛かる。
「ここに6発の弾が入る。撃ったら常に再装填しておけ。撃つ時はこの安全装置を外し、狙いを定めて引き金を引くだけだ」
弾を込め、指し示しながら手短に説明する三蔵に悟空が片手を高く挙げた。
「はい!さんぞーセンセー!何だっけあれ、撃つ前にガチャってしねーの?いつもやってんじゃん」
銃を持つ真似をして、右手の親指を動かしながら尋ねる。
「こいつはダブルアクションでも撃てる。素人にはその方がやりやすいし反応も早い。命中精度は下がるがな」
「ダブルアクション?」
「お前が言ってる、ハンマーを起こしてからトリガーを引くのがシングルアクション。トリガーを引くだけで発砲できるのがダブルだ」
「一回の動作で撃てるのにダブルなんですねぇ」
「逆じゃね?ややこしー」
「一度の動作でハンマーとトリガー二つ動かすんだからダブルで合ってる。―――って、そこはどうでもいい。名無子、ここまでは良いか?」
無関係な生徒達に逸らされた話を戻し、確認する。
「うん」
名無子が真剣な表情で頷いた。
「よし。なら―――」
三蔵は当たりを見渡すと、数メートル先の切り株へと足を向けた。
袂から煙草を取り出し、最後の一本を咥えると空き箱を切り株の上に立てて置く。
そして名無子の元へと戻ると名無子の身体を切り株に向け、その背後に回り込んだ。
「銃を構えろ」
「ん」
「照準を定めたら引き金をゆっくりと、均等に引く。ダブルアクションだと少しトリガーが重くなるからグリップをしっかり握っておけ。反動にも気を付けろ」
「わかった」
名無子の手に自分の手を重ね、丁寧に説明する三蔵の様子を、八戒と悟空が物珍しそうに、しかし黙って見詰めている。
「支えておく。試しに撃ってみろ」
「うん」
すぅ、と息を吸い込み、止める―――
短い発砲音が辺りに響いた。
煙草の箱の上方を辿った軌道を確認し、
「それでいい。左右はブレてねぇ。後は撃つ瞬間の衝撃で銃口が跳ねんように―――おい」
暇な時に練習しておけと言いかけた三蔵の言葉が止まる。
「??何?」
「お前、何しやがった…」
真上を見上げた名無子の頭上から降ってきた低い声に、名無子の肩がびくりと跳ねた。