第一章
貴女のお名前は?
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「てことで、こいつを預かr「誰だ貴様は」……」
いつも通りの騒がしい夕飯から戻った三蔵達が部屋の扉を開け、観世音菩薩と見知らぬ女を視認し、観音の言を遮って三蔵が銃口を向けるまで、その間2秒足らずの出来事だった。
凡そ予想していた通りの反応、三蔵の眉間にくっきりと浮かび上がった刻印と不躾な殺気に、観音が苦笑する。
「お久しぶりです、観世音菩薩様。三蔵、一応神様ですよ、この方」
三蔵の銃を片手で制しながら、八戒が笑顔で場を執り成す。
「以前話したじゃないですか。死にかけた貴方と暴走した悟空を助けてくれた天界の観世音菩薩です。
確か…自愛と淫猥の象徴、でしたっけ?」
「"慈愛と慈悲"の象徴だ。わざと言ってんだろお前」
すかさず観音が呆れ顔でツッコミを入れる。
「あはは。そうでしたそうでした。ということなんで、とりあえずそれ下ろしましょう?」
八戒に促され、三蔵は警戒はそのままに、ゆっくりと銃を下ろした。
「で、何が『てことで』だよ。先ず説明してから言えって。主にそちらの美人さんについて」
ドア枠に身を凭れかけた悟浄が、八戒が説明するまで喧しく誰何していた悟空をヘッドロックで黙らせながら観音の右斜め後方を掌で指し示した。
「おいおい、俺には挨拶もなしか?薄情な奴だなぁ。キスまでした仲だってのによ」
「なっ!!?あんなのキスに入らねーだろーが!」
観音にふふんと誂うような調子で言われ、フラッシュバックした過去を大声で蹴散らす。
「えぇ……どんだけ見境ねーんだよ…」
下方から聞こえた、驚愕とも軽侮ともとれる声を腕で再び締め上げながらも、悟浄の視線は縫い付けられたまま。
観音の背後。恐らく、観音が開口一番『こいつ』と代名詞で指した対象であろうその女を目にした瞬間から、悟浄は視線を外すことができずにいた。
百戦錬磨を自称し、エロ河童と揶揄される彼が軽々に声を掛けることもせず黙っていたのは、空気を読んでのことではなかった。
年の頃は――悟空とそう変わらないか、少し上くらいだろうか。
月光色の長い髪。その色に少しだけ影を含ませた色をした瞳は、時折瞬きに合わせて銀が煌めいているようにも見える。
整いすぎた相貌に白磁の滑らかな肌。
『この世のものとは思えない』などという陳腐な比喩すら比喩でなくなってしまう程の、息を呑む美しさだった。
しかしそれだけならば、悟浄であれば三蔵が銃を構えている間にも口説いていたはずだった。
それができなかったのは、これまでに感じたことのない気配と、得も知れぬ感覚故。
それを感じていたのは悟浄だけではなかった。
人間のものではない、妖怪のものでもない、観世音菩薩のそれとも違う異質な気配。
そして、既視感にも似た奇妙な感覚に心がざわつく。
その根が何なのかはわからなかったが、それを齎した原因に話を聞かないことに始まらないと、八戒が同意を示した。
「そうですね。『てことで』の前後も改めて聞かせてもらいましょうか」
言って、どうぞと観世と女に椅子を勧めると、自身も既に三蔵が片膝を立て座り、紫煙を燻らせているベッドの端に腰を下ろした。
もう片方のベッドへ悟浄と悟空が、全員が落ち着いたのを確認すると、観世音菩薩は改めて口を開いた。
「こいつを旅に同行させろ。拒否権はねぇ。断ったらカードは止める」
親指で女を指し示しながら端的に、そう言い切った観音。
部屋に三蔵の舌打ちが響き、悟空と悟浄が顔を見合わせる。
続く気配のないその先を、八戒が引き攣った笑みで促した。
「理由と、あと彼女が何者なのかを伺っても?僕らの旅が生易しいものでないということを重々ご承知の上で仰っているのだとは愚考しますが…」
棘を含んだ慇懃な物言いに観音は苦笑を零すと一呼吸、
「まぁ、そう聞かれるのはわかってたんだが、いざ説明するとなると面倒だな…」
思ったままを言葉に乗せた物臭な神に、
(ぶっ殺してぇ…)
(…アンタが言うか?)
(さて、どうしてくれましょうか…)
(八戒が怖ぇ…何だよこれ…)
口を噤みながらも思い思いに心中で毒吐く。
がしがしと頭を掻きながら、至極億劫そうに観音は口を開いた。
「こいつは、"其"だ」
と、一言。訪れた数秒の沈黙に今度こそ耐え切れず、
「……いや、だからどれよ」
「巫山戯てんのか」
「そ?って何??」
「"それ"という意味ですよ、悟空。で、説明する気はないんですかね?」
届けられた代名詞に、疑問符と苛立ちを撒き散らし、口々に。
観音は大きく溜息を吐くと、一先ず言葉を続けることにした。
数時間前―――
「くっっ――そめんどくせぇなぁ……」
中庭に咲く睡蓮も沈みそうな程の重い溜め息と悪態を響かせながら、観音は一人、供も連れずに天帝城の渡り廊下を歩いていた。
突如として降って湧いた気の乗らない仕事に赴く足取りは、その胸中を反映した重鈍なものであったが、無情にも辿り着いてしまった部屋の扉に何度目かの嘆息をぶつけた。
取り出した鍵束が、じゃらりと鳴った。
扉に取り付けられた複数の鍵を、其々異なる鍵で、指定された順番で開ける。
面倒くさいことこの上ない作業をこなし、数分かけて漸く扉が開いた。
(金庫か何かかよ…)
厚さ10cm程の金属扉の向こう、窓のない部屋に埃が煌めいて舞う。
灯りを着け扉を閉めると部屋の片隅、ただ一冊の書物と筆記用具だけが置かれている机に向かった。
前任者の死去に伴い観音に鉢が回ってきたのは、天界でも極一部の者にしか知らされていない極秘任務。
『 観世音菩薩に"其"に係る任を命ず 』
上からの命に逆らえるはずもなく、渋々承ったその仕事は余りにも奇妙なものだった。
ぎしりと音を立て、椅子に腰を掛ける。
鍵を机上に放り、置いてあった書物に手を伸ばした。
表紙を開くと、書かれていた文字に目を走らせる。
日誌と思しきそれの一頁目には、事前に聞かされていた情報と同じ内容が短く記載されていた。
一、其は、因なく生じる現象である
一、其は、不死である
一、其は、やがて消失する
一、発現が確認され次第、速やかに確保すること
一、言葉を交わすこと、名を持たせることは厳に禁ずる。
確保時を除き非接触とすること
その下に姿絵があり、細かい特徴が書き込まれていた―――
「ちょっ…タンマタンマ!!なんて??」
其に関する情報を書かれていた文字通りに諳んじてみせた観音を制したのは悟浄だった。
ほんの幾つかの情報だけで疑問符は限界値に達し、悟空の首に至っては右に90度傾いてしまっている。
しかし今回ばかりは三蔵、八戒も似たようなもの。
一様に、話を聞く前以上に判然としない表情を並べている。
観音に任せていては埒が明かないと判断したのか、八戒が質疑を買って出た。
「順番に良いですか?」
片手を上げた八戒に、観音がどうぞと手振りで示す。
「先ず前提の確認なんですが、"其"というのは彼女のことを指している、で間違いないんですよね」
「あぁ、そうだ」
「では"現象"というのは?」
「そのままの意味だ。雷や潮の満ち引きなんかと同じ。天界はこいつを生物―――物象として見てねぇ」
「それは―――」
「それ以上は聞くな。俺にもわからん」
にべもなく言い捨てられ、これ以上の追求は諦めた。
「……因なく、というのは、発生原因がわからないということで合ってますか?」
「あぁ。もしくは、そのままの意味で、だな」
発生原因が明確になっていないだけなら兎も角、"ない"ということが有り得るのだろうか―――
とも思ったが、これ以上聞く意味いても堂々巡りになりそうだと先を続ける。
「では、不死でやがて消失するというのは?」
「これもそのままだ。其は死なない。人の形をしちゃあいるが、な。
そしてこれまで発現した其は数日から数十年で消える。これも発現と同様、因なく、だ」
「なぜ不死だとわかる」
三蔵が口を挟んだのは、観音が意図的に話の筋を逸らそうとしたことに気が付いたから。
先程から何やら思案に暮れ、聞いているのかも怪しかった三蔵だったが、いらぬところで耳聡いと観音は小さく息を吐いた。
「過去に発現した其の記録にそうあった。詳細は省くが……所謂生物的な"死"がないのは間違いない」
突き刺さる視線に無視を決め込み、言葉を濁す。
話した方が三蔵達の同情を買えることはわかっていても、どうせ強制するつもりだったし、敢えて聞かせる必要もないと判断してのことだった。
「で、その先も言ったとおりだ。天界としては発現が確認され次第速やかに確保する。
その際もその後も、極力話さず関わるなって話だ。理由は知らん。記録にもそれが読み取れるような内容は書いてねぇ。どうせ上に聞いても答えねぇだろうしな」
一気に並べ立て、
「先を話していいか?さっさと引き渡して帰りてぇんだ」
と、さも億劫そうに吐き捨てた観音に非難の声を上げそうになった悟空の口を、悟浄が掌で塞いだ。
「話が進まねぇからとりあえず黙ってろ。文句は後で言やぁいい」
くぐもった声が睨みつけるがそれを無視し、観音へさっさと話せ、と。
笑顔を静かな怒りで引き攣らせた八戒が続けてくださいと促した。
再び、観音は回顧する――――
以降のページは、これまでの"其"に関する記録だったが、主に発現の時期と場所、
確保時の状況が記載されているのみであった。
(何なんだこれは…)
現地に行けば詳細がわかるだろうとの期待を裏切る、余りにも少なすぎる情報。
見え隠れする意図に観音が眉間を曇らせる。
しかし、
(君子不近刑人、か…)
思考を引き止め、ページを捲る。
機械的に読み進めていった最終頁、観音の動きを止めたのは、
そこに記載されていた見覚えのある名だった。
そして導かれるようにその視線が部屋の奥、閉ざされた扉を捉えた。
最後に発現が確認され、確保された"其"。
それを、前任者は管理室―――つまり、この部屋の中に設けた獄に蔵したと書かれている。
続く記載はない。その後、其がどうなったのかも―――
引き出しを開け、ただ一つ入っていた鍵を手に立ち上がり、扉の前に立つ。
任に従うならば、それは悪手であることはわかっていた。
わかっていながら、観音の足取りに躊躇いはなかった。
鍵が、小さな音を立てる。
記録に拠れば二十年程開かれることのなかった扉は、観音ですら眉を寄せるほどの力を加えて漸く動き出した。
耳障りな音を立てて、開け放たれた扉。
暗順応した瞳に映し出されたのは、幅、奥行き共に2m程の密閉された空間、
そしてその最奥―――
それは、闇夜、雲の切れ間から顔を出した満月を彷彿とさせた。
膝を抱え蹲っていた女が、ゆっくりと顔を上げる。
観音を見据えた銀灰の瞳で、光が揺らめいた。
その姿は日誌に描かれていた通りの容貌であったが、
(何…なんだ…こいつは……)
ぞくり、観音の背が粟立つ。
幾星霜、世界を観てきた観音ですら未知の存在感に呼吸を忘れ立ち竦んでいると
「……誰?」
場違いなほど澄んだ声が意識を覚醒させた。
大きく息を吸い込み、そして吐き出す。
乾いた喉から絞り出すように言葉を紡いだ。
「ここから、出たいか?」
数秒、女が口を開く。
「三蔵に会いたい」
それは、記録にあった、其を確保時に傍にいたとされる者の名であり、そして、観音の縁に繋がる名でもあった。
「―――つーわけでな、連れてきた」
一同、視線の収束点は観音ではなかった。
思いがけず名を挙げられ怪訝を濃くした三蔵に、三人の丸い目が注がれる。
「まぁ、お前じゃねぇんだけどな」
含み笑いのその声を三蔵が睨み付け、どういうことだと問い質せば、
「二十年前、下界に発現したこいつを保護したのがお前のお師匠さん―――光明三蔵なんだと」
「!!??」
三蔵にとっては何よりも重いその名が、三蔵のざわついていた心臓を蹴り上げた。
初めてその女を目にしたときから気にかかっていた。
女が纏う白い衣。凡そ身幅に合っていないその衣が、三蔵法師のそれに酷似していたから。
掛絡こそ着けていないものの、黒のインナーと真っ白な法衣、そして、どこか見覚えのある帯が今、唯一人の存在とリンクした。
「天界が確保に向かって発見したときな、こいつ、光明三蔵の隣で寝てたらしいぞ」
笑いを零しながら齎された追加情報に、沸き立つようだった血液が一瞬で氷点下へ。
「それって…」
頬を赤らめ横目で三蔵を伺う悟空も、
「お〜お、マジで?三蔵のお師匠さんやるじゃん」
楽しげにからからと笑う悟浄も、
「…仏教って不邪淫の戒律、ありませんでしたっけ?」
言葉を選ばない八戒も、三蔵の意識の外だった。
片手で口元を覆い、思考を絞る。
「お師様に限って…いや……いくらなんでも…」
(二十年前…烏哭と各地を廻っていた頃か……当時で齢四十くらい…こいつは…)
良くも悪くも戒律に囚われない人ではあった。
しかし、どれ程の時間を共にしたか知らないが、いくらなんでも娘程も年の違う女に手を出すような人ではなかったと言い聞かせ、視線を当事者へ向ける。
「おい」
声を掛けられた女と瞳がかち合った。
「まさか…」
祈るような気持ちで紡いだ三文字に、
「同衾はしてない。添い寝してくれただけ」
思いがけず真っ当な答えが三蔵の憂色を晴らした。
「ちぇ。つまんねー」
「三蔵のお師匠様なら或いは、とか思っちゃってすみませんでした」
安堵に澄んだ鼓膜が、三蔵に昇霊銃を握らせたが
「驚いた…まともに話せんだな……」
目を丸くした観音が零した感嘆にその手が止まる。
「そんな驚くことですか?」
尋ねた八戒に目も向けず、観音が答える。
「口が聞けることすら新情報だったんだよ…記録にもそんな記述はどこにもなかったしな」
「知ろうとしなかっただけだろ」
いつになく厳しい響きを帯びた声の主は、悟空だった。
「何だよ黙って聞いてりゃさ。げんしょーとかひせっしょくとか、意味わかんねー」
不機嫌を隠すことなく言いながらベッドを飛び降りると、その足で名無子の正面に立った。
「なぁ、アンタの名前は?」
金銀の瞳が真っ直ぐに結ばれる。
「だからそいつは―――」
「名無子」
口を挟んだ観音の言葉を遮り、りん、と、鈴が鳴った。
驚愕に見開かれた観音の目を捉えることなく、悟空が笑顔を弾けさせた。
「名無子。俺、悟空。よろしくな」
歯を見せてにっと笑った悟空に、咲いた花はもう一輪。
「悟空。よろしく」
まるで夜露に抱かれた月光のような、清らかで優しい笑みが名無子の頬を染める。
柔らかな空気を打ち破ったのは、観音の咆哮にも似た呻き声だった。
「あ゛あぁぁ……」
両手で頭を抱えたその様子を、顔を見合わせ、首を傾げながら一同が伺ってほんの数秒。
「―――っっよし!もう知らん今更だ!!
その腕輪だけは外すなよそいつ出したのバレるからな後は任せた!!」
立ち上がり、一息で高々にそう宣言した観音は一瞬で空気に溶けて消えた。
「……は?」
「急だなおい…一体何だよ…」
「神様だからって勝手が過ぎるんじゃないですかねぇ」
残された混乱と憤りに、三蔵が吐き出した紫煙が舞う。
「名を付けるってことは、それだけで存在を確かなものにしちまうからな。
名付けを禁じ、敢えて"其"と呼んでいた天界のことだ。
意図はわからねぇが、そうはしたくなかったんだろうよ」
光明のあらぬ疑いが晴れ、平常に戻った心音で事も無げに説明してやる。
そして視線を宙から名無子へと移すと
「おい、お前に名をつけたのはお師匠様…光明三蔵か」
過った予感を問い質す。
「うん。そう」
予感的中。やはりか、と。
「じゃあ、三蔵の妹ですね」
人差し指を立て、爽やかに言い放った八戒に、三像の口から低めの『あ』と疑問符が零れた。
「だって、先代三蔵は確か貴方の名付け親で育ての親、でしょう?
で、彼女の名付け親でもあると。
だったら兄妹じゃないですか」
なるほどと頷く悟空、悟浄に、なんでそうなると嘆息する三蔵。
「………江流?」
名無子から漏れた、久しく聞くことのなかった名に三蔵が勢いよく顔を上げた。
「それって…」
思い当たった八戒が三蔵を見遣り、視線が集まる。
「だったら、妹じゃなくてお姉さん」
名無子の口から続けられた言葉に、舞い散る疑問符。
それを察したのか、
「お姉さんになってあげてって、三蔵が」
恐らく、二十年前の記憶。
違う響きを帯びたその名―――光明三蔵法師が紡いだ言の葉。
再びの、自身が知らない師の過去。
三蔵の胸中が、痛みを伴って掻き乱される。
そんな思いを知る由もなく、堪えきれずに悟浄が吹き出し、八戒が口を押さえて肩を震わせる。
「お姉さん…三蔵が弟……っく…」
「…っふ…いや、良いと思いますよ…ふふっ…」
三蔵の額に浮き出た血管、袂に差し入れられた手に、悟空はいち早く危険を察知。
速やかに名無子の背後に回ると、名無子の両の耳を掌で押さえた。
連続した破裂音が部屋に響く。
悟空にとっては見慣れた軌跡を辿り、振り切られたハリセンに二人が頭を抱える。
「っっ…てぇーーー!」
「あー、久々に食らった気がしますねぇ」
「てめーら少し黙ってろ!!」
普段どおりの光景。しかし初見の名無子は見開いた目を瞬かせて固まってしまっている。
「もー、やめろってー。名無子がびっくりしてんじゃん!ごめんな名無子。でも、慣れてな」
片手でごめんと、目を細めた悟空に名無子がこくり頷いた。
「慣れる必要が何処にある」
新しい煙草に火を着けながら、三蔵が言った。
「だってこれから一緒にいるんだったら―――」
「勝手に決めるんじゃねぇ」
ぴしゃり。遮られた言葉の主が眉を上げる。
「とは言え三蔵、カードを質に取られてはこのまま放り出すわけにも…」
「俺としてはいい加減むさ苦しい面子にもうんざりしてたし、美人さん同行は願ったり叶ったりなんだけど?」
「足手纏いはいらん。カードを止めて旅が進まなくなれば困るのは天界だ。大体、今の話じゃこいつを出したことがバレてマズいのは観音だろう。なら止めるわけがねぇ。
せいぜいこの街なり、受け入れ先を探せばいいだけの話だ」
予想はしていたものの、取り付く島もない三蔵の言葉に悟空が噛み付く。
「なんでそんなこと言うんだよ!!俺のことも助けてくれたじゃんか!」
悟空にとって、話の大半は理解に及ばないものだった。
しかしそれでも、"よくわからない"理屈で名無子が人間扱いどころか、生き物としてすら扱われていなかったこと。
名付け親から引き離され、誰とも言葉を交わすことも触れ合うこともなく、外すら見えない狭い暗闇に二十年もの間幽閉されていたことはわかった。
そしてそれは、自身の過去の痛みを甦らせるには十分過ぎるものだった。
それを察しているはずの三蔵も、
「あの時と今じゃ状況が違ぇだろうが!!」
と声を荒らげ、折れる気配はない。
初対面の男所帯に置き去りにされ、その上見知らぬ街に置いていかれようとしている名無子を、悟空は見放すことはできなかった。
奥歯を噛み、こうなればとことんやってやると息を吸い込む。
その時―――
「いいよ」
割って入った澄んだ声が視線を集めた。
「迷惑かけたいわけじゃないから。置いていってくれていい。
三蔵には会えなかったけど、同じ"光"を見れたから、それだけでいいよ」
作り損なった笑みのような、泣き顔の余韻のような顔で、名無子が言った。
" 光 "
その時、三蔵の脳裏に呼び起こされたのは、三蔵が光明に見た光だった。
「……光?」
首を傾げ八戒が繰り返す。
「うん。三蔵と色が同じ。波動は違うけど。三蔵が"繋いだ"んでしょ?」
すぅっと手を上げ、名無子が指さした先は三蔵の額―――三蔵法師の証たる印。
何が映っているのか、光を奔らせた銀眼に射竦められたように三蔵は息を呑んだ。
恐らく、人の身には理解し得ぬ何かだろうと早々に追求を放棄し、八戒は険しくも理解十分な目の前の障壁に向き合うことにした。
「三蔵、貴方の言うことはわかります。ですが……ここで彼女を放り出せば、後悔するのは貴方な気がするんです」
八戒が苦笑を滲ませつつ、諭すように言う。
詳しくは知らずとも、三蔵にとって師がどういう存在であるかを理解しているからこそ、その縁を手放して何も思わないはずがないと。
そして色を変え、朗らかに続ける。
「僕としても保護者が増えるのは有り難いですし、悟浄じゃないですが潤いと華があった方が精神衛生上良いと思うんですよ」
三蔵の性格上―――
(僕達に押し切られて渋々、と言う方が受け入れ易いでしょうから)
そんな思惑を含んだ発言だった。
そして期待通りに悟浄がそれに乗っかる。
「そーそー、間違いなくストレスの緩和にはなるしな。
野郎のためじゃモチベーション上がんねーけど名無子ちゃんみたいな美人さんのためならいくらでも働けるっつーもんよ」
止めに、
「どうしても名無子置いてくっつーんなら……俺も残る!一人にはさせたくねー!」
悟空の、真っ直ぐで偽りない鉄壁の決意。
四対の瞳が答えを待つ。
三蔵は掌で顔を覆い、深々と息を吐き出した。
ただでさえ情報過多。加えて三人の好き勝手な発言に、散々痛めつけられた米神が疼く。
「出ていけ…」
不機嫌さを凝縮した、地鳴りにも似た声が張り詰めた室内に響いた。
「三蔵!」
悟空が声を張り上げ、これでもまだ懐柔できないかと八戒と悟浄が呆れたように嘆息すると、
「お前は残れ」
続けられた思わぬ言葉は視線とともに名無子の元へ。
銀灰が驚きの光を纏って瞬く。
一瞬、呆気にとられた八戒だったが、意図を理解すると
「隣の部屋にいますね。行きましょう、悟浄、悟空」
「へいへい。行くぞ猿」
「う、うん…」
二人を伴い、自身と悟浄に割り当てられていた部屋へと足を向ける。
不安げに、後ろ髪を引かれながらの悟空の姿が扉に隠れると同時、三蔵は幾度目かの重々しい溜息を吐き出し、代わりに新しい煙を吸い込んだ。
いつも通りの騒がしい夕飯から戻った三蔵達が部屋の扉を開け、観世音菩薩と見知らぬ女を視認し、観音の言を遮って三蔵が銃口を向けるまで、その間2秒足らずの出来事だった。
凡そ予想していた通りの反応、三蔵の眉間にくっきりと浮かび上がった刻印と不躾な殺気に、観音が苦笑する。
「お久しぶりです、観世音菩薩様。三蔵、一応神様ですよ、この方」
三蔵の銃を片手で制しながら、八戒が笑顔で場を執り成す。
「以前話したじゃないですか。死にかけた貴方と暴走した悟空を助けてくれた天界の観世音菩薩です。
確か…自愛と淫猥の象徴、でしたっけ?」
「"慈愛と慈悲"の象徴だ。わざと言ってんだろお前」
すかさず観音が呆れ顔でツッコミを入れる。
「あはは。そうでしたそうでした。ということなんで、とりあえずそれ下ろしましょう?」
八戒に促され、三蔵は警戒はそのままに、ゆっくりと銃を下ろした。
「で、何が『てことで』だよ。先ず説明してから言えって。主にそちらの美人さんについて」
ドア枠に身を凭れかけた悟浄が、八戒が説明するまで喧しく誰何していた悟空をヘッドロックで黙らせながら観音の右斜め後方を掌で指し示した。
「おいおい、俺には挨拶もなしか?薄情な奴だなぁ。キスまでした仲だってのによ」
「なっ!!?あんなのキスに入らねーだろーが!」
観音にふふんと誂うような調子で言われ、フラッシュバックした過去を大声で蹴散らす。
「えぇ……どんだけ見境ねーんだよ…」
下方から聞こえた、驚愕とも軽侮ともとれる声を腕で再び締め上げながらも、悟浄の視線は縫い付けられたまま。
観音の背後。恐らく、観音が開口一番『こいつ』と代名詞で指した対象であろうその女を目にした瞬間から、悟浄は視線を外すことができずにいた。
百戦錬磨を自称し、エロ河童と揶揄される彼が軽々に声を掛けることもせず黙っていたのは、空気を読んでのことではなかった。
年の頃は――悟空とそう変わらないか、少し上くらいだろうか。
月光色の長い髪。その色に少しだけ影を含ませた色をした瞳は、時折瞬きに合わせて銀が煌めいているようにも見える。
整いすぎた相貌に白磁の滑らかな肌。
『この世のものとは思えない』などという陳腐な比喩すら比喩でなくなってしまう程の、息を呑む美しさだった。
しかしそれだけならば、悟浄であれば三蔵が銃を構えている間にも口説いていたはずだった。
それができなかったのは、これまでに感じたことのない気配と、得も知れぬ感覚故。
それを感じていたのは悟浄だけではなかった。
人間のものではない、妖怪のものでもない、観世音菩薩のそれとも違う異質な気配。
そして、既視感にも似た奇妙な感覚に心がざわつく。
その根が何なのかはわからなかったが、それを齎した原因に話を聞かないことに始まらないと、八戒が同意を示した。
「そうですね。『てことで』の前後も改めて聞かせてもらいましょうか」
言って、どうぞと観世と女に椅子を勧めると、自身も既に三蔵が片膝を立て座り、紫煙を燻らせているベッドの端に腰を下ろした。
もう片方のベッドへ悟浄と悟空が、全員が落ち着いたのを確認すると、観世音菩薩は改めて口を開いた。
「こいつを旅に同行させろ。拒否権はねぇ。断ったらカードは止める」
親指で女を指し示しながら端的に、そう言い切った観音。
部屋に三蔵の舌打ちが響き、悟空と悟浄が顔を見合わせる。
続く気配のないその先を、八戒が引き攣った笑みで促した。
「理由と、あと彼女が何者なのかを伺っても?僕らの旅が生易しいものでないということを重々ご承知の上で仰っているのだとは愚考しますが…」
棘を含んだ慇懃な物言いに観音は苦笑を零すと一呼吸、
「まぁ、そう聞かれるのはわかってたんだが、いざ説明するとなると面倒だな…」
思ったままを言葉に乗せた物臭な神に、
(ぶっ殺してぇ…)
(…アンタが言うか?)
(さて、どうしてくれましょうか…)
(八戒が怖ぇ…何だよこれ…)
口を噤みながらも思い思いに心中で毒吐く。
がしがしと頭を掻きながら、至極億劫そうに観音は口を開いた。
「こいつは、"其"だ」
と、一言。訪れた数秒の沈黙に今度こそ耐え切れず、
「……いや、だからどれよ」
「巫山戯てんのか」
「そ?って何??」
「"それ"という意味ですよ、悟空。で、説明する気はないんですかね?」
届けられた代名詞に、疑問符と苛立ちを撒き散らし、口々に。
観音は大きく溜息を吐くと、一先ず言葉を続けることにした。
数時間前―――
「くっっ――そめんどくせぇなぁ……」
中庭に咲く睡蓮も沈みそうな程の重い溜め息と悪態を響かせながら、観音は一人、供も連れずに天帝城の渡り廊下を歩いていた。
突如として降って湧いた気の乗らない仕事に赴く足取りは、その胸中を反映した重鈍なものであったが、無情にも辿り着いてしまった部屋の扉に何度目かの嘆息をぶつけた。
取り出した鍵束が、じゃらりと鳴った。
扉に取り付けられた複数の鍵を、其々異なる鍵で、指定された順番で開ける。
面倒くさいことこの上ない作業をこなし、数分かけて漸く扉が開いた。
(金庫か何かかよ…)
厚さ10cm程の金属扉の向こう、窓のない部屋に埃が煌めいて舞う。
灯りを着け扉を閉めると部屋の片隅、ただ一冊の書物と筆記用具だけが置かれている机に向かった。
前任者の死去に伴い観音に鉢が回ってきたのは、天界でも極一部の者にしか知らされていない極秘任務。
『 観世音菩薩に"其"に係る任を命ず 』
上からの命に逆らえるはずもなく、渋々承ったその仕事は余りにも奇妙なものだった。
ぎしりと音を立て、椅子に腰を掛ける。
鍵を机上に放り、置いてあった書物に手を伸ばした。
表紙を開くと、書かれていた文字に目を走らせる。
日誌と思しきそれの一頁目には、事前に聞かされていた情報と同じ内容が短く記載されていた。
一、其は、因なく生じる現象である
一、其は、不死である
一、其は、やがて消失する
一、発現が確認され次第、速やかに確保すること
一、言葉を交わすこと、名を持たせることは厳に禁ずる。
確保時を除き非接触とすること
その下に姿絵があり、細かい特徴が書き込まれていた―――
「ちょっ…タンマタンマ!!なんて??」
其に関する情報を書かれていた文字通りに諳んじてみせた観音を制したのは悟浄だった。
ほんの幾つかの情報だけで疑問符は限界値に達し、悟空の首に至っては右に90度傾いてしまっている。
しかし今回ばかりは三蔵、八戒も似たようなもの。
一様に、話を聞く前以上に判然としない表情を並べている。
観音に任せていては埒が明かないと判断したのか、八戒が質疑を買って出た。
「順番に良いですか?」
片手を上げた八戒に、観音がどうぞと手振りで示す。
「先ず前提の確認なんですが、"其"というのは彼女のことを指している、で間違いないんですよね」
「あぁ、そうだ」
「では"現象"というのは?」
「そのままの意味だ。雷や潮の満ち引きなんかと同じ。天界はこいつを生物―――物象として見てねぇ」
「それは―――」
「それ以上は聞くな。俺にもわからん」
にべもなく言い捨てられ、これ以上の追求は諦めた。
「……因なく、というのは、発生原因がわからないということで合ってますか?」
「あぁ。もしくは、そのままの意味で、だな」
発生原因が明確になっていないだけなら兎も角、"ない"ということが有り得るのだろうか―――
とも思ったが、これ以上聞く意味いても堂々巡りになりそうだと先を続ける。
「では、不死でやがて消失するというのは?」
「これもそのままだ。其は死なない。人の形をしちゃあいるが、な。
そしてこれまで発現した其は数日から数十年で消える。これも発現と同様、因なく、だ」
「なぜ不死だとわかる」
三蔵が口を挟んだのは、観音が意図的に話の筋を逸らそうとしたことに気が付いたから。
先程から何やら思案に暮れ、聞いているのかも怪しかった三蔵だったが、いらぬところで耳聡いと観音は小さく息を吐いた。
「過去に発現した其の記録にそうあった。詳細は省くが……所謂生物的な"死"がないのは間違いない」
突き刺さる視線に無視を決め込み、言葉を濁す。
話した方が三蔵達の同情を買えることはわかっていても、どうせ強制するつもりだったし、敢えて聞かせる必要もないと判断してのことだった。
「で、その先も言ったとおりだ。天界としては発現が確認され次第速やかに確保する。
その際もその後も、極力話さず関わるなって話だ。理由は知らん。記録にもそれが読み取れるような内容は書いてねぇ。どうせ上に聞いても答えねぇだろうしな」
一気に並べ立て、
「先を話していいか?さっさと引き渡して帰りてぇんだ」
と、さも億劫そうに吐き捨てた観音に非難の声を上げそうになった悟空の口を、悟浄が掌で塞いだ。
「話が進まねぇからとりあえず黙ってろ。文句は後で言やぁいい」
くぐもった声が睨みつけるがそれを無視し、観音へさっさと話せ、と。
笑顔を静かな怒りで引き攣らせた八戒が続けてくださいと促した。
再び、観音は回顧する――――
以降のページは、これまでの"其"に関する記録だったが、主に発現の時期と場所、
確保時の状況が記載されているのみであった。
(何なんだこれは…)
現地に行けば詳細がわかるだろうとの期待を裏切る、余りにも少なすぎる情報。
見え隠れする意図に観音が眉間を曇らせる。
しかし、
(君子不近刑人、か…)
思考を引き止め、ページを捲る。
機械的に読み進めていった最終頁、観音の動きを止めたのは、
そこに記載されていた見覚えのある名だった。
そして導かれるようにその視線が部屋の奥、閉ざされた扉を捉えた。
最後に発現が確認され、確保された"其"。
それを、前任者は管理室―――つまり、この部屋の中に設けた獄に蔵したと書かれている。
続く記載はない。その後、其がどうなったのかも―――
引き出しを開け、ただ一つ入っていた鍵を手に立ち上がり、扉の前に立つ。
任に従うならば、それは悪手であることはわかっていた。
わかっていながら、観音の足取りに躊躇いはなかった。
鍵が、小さな音を立てる。
記録に拠れば二十年程開かれることのなかった扉は、観音ですら眉を寄せるほどの力を加えて漸く動き出した。
耳障りな音を立てて、開け放たれた扉。
暗順応した瞳に映し出されたのは、幅、奥行き共に2m程の密閉された空間、
そしてその最奥―――
それは、闇夜、雲の切れ間から顔を出した満月を彷彿とさせた。
膝を抱え蹲っていた女が、ゆっくりと顔を上げる。
観音を見据えた銀灰の瞳で、光が揺らめいた。
その姿は日誌に描かれていた通りの容貌であったが、
(何…なんだ…こいつは……)
ぞくり、観音の背が粟立つ。
幾星霜、世界を観てきた観音ですら未知の存在感に呼吸を忘れ立ち竦んでいると
「……誰?」
場違いなほど澄んだ声が意識を覚醒させた。
大きく息を吸い込み、そして吐き出す。
乾いた喉から絞り出すように言葉を紡いだ。
「ここから、出たいか?」
数秒、女が口を開く。
「三蔵に会いたい」
それは、記録にあった、其を確保時に傍にいたとされる者の名であり、そして、観音の縁に繋がる名でもあった。
「―――つーわけでな、連れてきた」
一同、視線の収束点は観音ではなかった。
思いがけず名を挙げられ怪訝を濃くした三蔵に、三人の丸い目が注がれる。
「まぁ、お前じゃねぇんだけどな」
含み笑いのその声を三蔵が睨み付け、どういうことだと問い質せば、
「二十年前、下界に発現したこいつを保護したのがお前のお師匠さん―――光明三蔵なんだと」
「!!??」
三蔵にとっては何よりも重いその名が、三蔵のざわついていた心臓を蹴り上げた。
初めてその女を目にしたときから気にかかっていた。
女が纏う白い衣。凡そ身幅に合っていないその衣が、三蔵法師のそれに酷似していたから。
掛絡こそ着けていないものの、黒のインナーと真っ白な法衣、そして、どこか見覚えのある帯が今、唯一人の存在とリンクした。
「天界が確保に向かって発見したときな、こいつ、光明三蔵の隣で寝てたらしいぞ」
笑いを零しながら齎された追加情報に、沸き立つようだった血液が一瞬で氷点下へ。
「それって…」
頬を赤らめ横目で三蔵を伺う悟空も、
「お〜お、マジで?三蔵のお師匠さんやるじゃん」
楽しげにからからと笑う悟浄も、
「…仏教って不邪淫の戒律、ありませんでしたっけ?」
言葉を選ばない八戒も、三蔵の意識の外だった。
片手で口元を覆い、思考を絞る。
「お師様に限って…いや……いくらなんでも…」
(二十年前…烏哭と各地を廻っていた頃か……当時で齢四十くらい…こいつは…)
良くも悪くも戒律に囚われない人ではあった。
しかし、どれ程の時間を共にしたか知らないが、いくらなんでも娘程も年の違う女に手を出すような人ではなかったと言い聞かせ、視線を当事者へ向ける。
「おい」
声を掛けられた女と瞳がかち合った。
「まさか…」
祈るような気持ちで紡いだ三文字に、
「同衾はしてない。添い寝してくれただけ」
思いがけず真っ当な答えが三蔵の憂色を晴らした。
「ちぇ。つまんねー」
「三蔵のお師匠様なら或いは、とか思っちゃってすみませんでした」
安堵に澄んだ鼓膜が、三蔵に昇霊銃を握らせたが
「驚いた…まともに話せんだな……」
目を丸くした観音が零した感嘆にその手が止まる。
「そんな驚くことですか?」
尋ねた八戒に目も向けず、観音が答える。
「口が聞けることすら新情報だったんだよ…記録にもそんな記述はどこにもなかったしな」
「知ろうとしなかっただけだろ」
いつになく厳しい響きを帯びた声の主は、悟空だった。
「何だよ黙って聞いてりゃさ。げんしょーとかひせっしょくとか、意味わかんねー」
不機嫌を隠すことなく言いながらベッドを飛び降りると、その足で名無子の正面に立った。
「なぁ、アンタの名前は?」
金銀の瞳が真っ直ぐに結ばれる。
「だからそいつは―――」
「名無子」
口を挟んだ観音の言葉を遮り、りん、と、鈴が鳴った。
驚愕に見開かれた観音の目を捉えることなく、悟空が笑顔を弾けさせた。
「名無子。俺、悟空。よろしくな」
歯を見せてにっと笑った悟空に、咲いた花はもう一輪。
「悟空。よろしく」
まるで夜露に抱かれた月光のような、清らかで優しい笑みが名無子の頬を染める。
柔らかな空気を打ち破ったのは、観音の咆哮にも似た呻き声だった。
「あ゛あぁぁ……」
両手で頭を抱えたその様子を、顔を見合わせ、首を傾げながら一同が伺ってほんの数秒。
「―――っっよし!もう知らん今更だ!!
その腕輪だけは外すなよそいつ出したのバレるからな後は任せた!!」
立ち上がり、一息で高々にそう宣言した観音は一瞬で空気に溶けて消えた。
「……は?」
「急だなおい…一体何だよ…」
「神様だからって勝手が過ぎるんじゃないですかねぇ」
残された混乱と憤りに、三蔵が吐き出した紫煙が舞う。
「名を付けるってことは、それだけで存在を確かなものにしちまうからな。
名付けを禁じ、敢えて"其"と呼んでいた天界のことだ。
意図はわからねぇが、そうはしたくなかったんだろうよ」
光明のあらぬ疑いが晴れ、平常に戻った心音で事も無げに説明してやる。
そして視線を宙から名無子へと移すと
「おい、お前に名をつけたのはお師匠様…光明三蔵か」
過った予感を問い質す。
「うん。そう」
予感的中。やはりか、と。
「じゃあ、三蔵の妹ですね」
人差し指を立て、爽やかに言い放った八戒に、三像の口から低めの『あ』と疑問符が零れた。
「だって、先代三蔵は確か貴方の名付け親で育ての親、でしょう?
で、彼女の名付け親でもあると。
だったら兄妹じゃないですか」
なるほどと頷く悟空、悟浄に、なんでそうなると嘆息する三蔵。
「………江流?」
名無子から漏れた、久しく聞くことのなかった名に三蔵が勢いよく顔を上げた。
「それって…」
思い当たった八戒が三蔵を見遣り、視線が集まる。
「だったら、妹じゃなくてお姉さん」
名無子の口から続けられた言葉に、舞い散る疑問符。
それを察したのか、
「お姉さんになってあげてって、三蔵が」
恐らく、二十年前の記憶。
違う響きを帯びたその名―――光明三蔵法師が紡いだ言の葉。
再びの、自身が知らない師の過去。
三蔵の胸中が、痛みを伴って掻き乱される。
そんな思いを知る由もなく、堪えきれずに悟浄が吹き出し、八戒が口を押さえて肩を震わせる。
「お姉さん…三蔵が弟……っく…」
「…っふ…いや、良いと思いますよ…ふふっ…」
三蔵の額に浮き出た血管、袂に差し入れられた手に、悟空はいち早く危険を察知。
速やかに名無子の背後に回ると、名無子の両の耳を掌で押さえた。
連続した破裂音が部屋に響く。
悟空にとっては見慣れた軌跡を辿り、振り切られたハリセンに二人が頭を抱える。
「っっ…てぇーーー!」
「あー、久々に食らった気がしますねぇ」
「てめーら少し黙ってろ!!」
普段どおりの光景。しかし初見の名無子は見開いた目を瞬かせて固まってしまっている。
「もー、やめろってー。名無子がびっくりしてんじゃん!ごめんな名無子。でも、慣れてな」
片手でごめんと、目を細めた悟空に名無子がこくり頷いた。
「慣れる必要が何処にある」
新しい煙草に火を着けながら、三蔵が言った。
「だってこれから一緒にいるんだったら―――」
「勝手に決めるんじゃねぇ」
ぴしゃり。遮られた言葉の主が眉を上げる。
「とは言え三蔵、カードを質に取られてはこのまま放り出すわけにも…」
「俺としてはいい加減むさ苦しい面子にもうんざりしてたし、美人さん同行は願ったり叶ったりなんだけど?」
「足手纏いはいらん。カードを止めて旅が進まなくなれば困るのは天界だ。大体、今の話じゃこいつを出したことがバレてマズいのは観音だろう。なら止めるわけがねぇ。
せいぜいこの街なり、受け入れ先を探せばいいだけの話だ」
予想はしていたものの、取り付く島もない三蔵の言葉に悟空が噛み付く。
「なんでそんなこと言うんだよ!!俺のことも助けてくれたじゃんか!」
悟空にとって、話の大半は理解に及ばないものだった。
しかしそれでも、"よくわからない"理屈で名無子が人間扱いどころか、生き物としてすら扱われていなかったこと。
名付け親から引き離され、誰とも言葉を交わすことも触れ合うこともなく、外すら見えない狭い暗闇に二十年もの間幽閉されていたことはわかった。
そしてそれは、自身の過去の痛みを甦らせるには十分過ぎるものだった。
それを察しているはずの三蔵も、
「あの時と今じゃ状況が違ぇだろうが!!」
と声を荒らげ、折れる気配はない。
初対面の男所帯に置き去りにされ、その上見知らぬ街に置いていかれようとしている名無子を、悟空は見放すことはできなかった。
奥歯を噛み、こうなればとことんやってやると息を吸い込む。
その時―――
「いいよ」
割って入った澄んだ声が視線を集めた。
「迷惑かけたいわけじゃないから。置いていってくれていい。
三蔵には会えなかったけど、同じ"光"を見れたから、それだけでいいよ」
作り損なった笑みのような、泣き顔の余韻のような顔で、名無子が言った。
" 光 "
その時、三蔵の脳裏に呼び起こされたのは、三蔵が光明に見た光だった。
「……光?」
首を傾げ八戒が繰り返す。
「うん。三蔵と色が同じ。波動は違うけど。三蔵が"繋いだ"んでしょ?」
すぅっと手を上げ、名無子が指さした先は三蔵の額―――三蔵法師の証たる印。
何が映っているのか、光を奔らせた銀眼に射竦められたように三蔵は息を呑んだ。
恐らく、人の身には理解し得ぬ何かだろうと早々に追求を放棄し、八戒は険しくも理解十分な目の前の障壁に向き合うことにした。
「三蔵、貴方の言うことはわかります。ですが……ここで彼女を放り出せば、後悔するのは貴方な気がするんです」
八戒が苦笑を滲ませつつ、諭すように言う。
詳しくは知らずとも、三蔵にとって師がどういう存在であるかを理解しているからこそ、その縁を手放して何も思わないはずがないと。
そして色を変え、朗らかに続ける。
「僕としても保護者が増えるのは有り難いですし、悟浄じゃないですが潤いと華があった方が精神衛生上良いと思うんですよ」
三蔵の性格上―――
(僕達に押し切られて渋々、と言う方が受け入れ易いでしょうから)
そんな思惑を含んだ発言だった。
そして期待通りに悟浄がそれに乗っかる。
「そーそー、間違いなくストレスの緩和にはなるしな。
野郎のためじゃモチベーション上がんねーけど名無子ちゃんみたいな美人さんのためならいくらでも働けるっつーもんよ」
止めに、
「どうしても名無子置いてくっつーんなら……俺も残る!一人にはさせたくねー!」
悟空の、真っ直ぐで偽りない鉄壁の決意。
四対の瞳が答えを待つ。
三蔵は掌で顔を覆い、深々と息を吐き出した。
ただでさえ情報過多。加えて三人の好き勝手な発言に、散々痛めつけられた米神が疼く。
「出ていけ…」
不機嫌さを凝縮した、地鳴りにも似た声が張り詰めた室内に響いた。
「三蔵!」
悟空が声を張り上げ、これでもまだ懐柔できないかと八戒と悟浄が呆れたように嘆息すると、
「お前は残れ」
続けられた思わぬ言葉は視線とともに名無子の元へ。
銀灰が驚きの光を纏って瞬く。
一瞬、呆気にとられた八戒だったが、意図を理解すると
「隣の部屋にいますね。行きましょう、悟浄、悟空」
「へいへい。行くぞ猿」
「う、うん…」
二人を伴い、自身と悟浄に割り当てられていた部屋へと足を向ける。
不安げに、後ろ髪を引かれながらの悟空の姿が扉に隠れると同時、三蔵は幾度目かの重々しい溜息を吐き出し、代わりに新しい煙を吸い込んだ。