第一章
貴女のお名前は?
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
大股で歩みを進める三蔵に手を引かれ、小走りになりながら名無子が後に続く。
口を開くことも目を合わせることもなく辿り着いた宿。
部屋に入ると三蔵は電気も付けずベッドへと向かい、勢いに任せ腰を下ろした。
項垂れた三蔵の吐き出した息が、沈黙が支配する薄暗い部屋に重く沈んだ。
ドアの前、立ち尽くしていた名無子を、三蔵が自らの隣、ベッドを叩いて呼ぶ。
示された場所に座り、おずおずと声を掛けた。
「さっきの…」
「忘れろ」
顔を上げることもなく即座に返された声が、名無子の眉間に影を落とした。
「……酔った勢いだとは思われたくねぇ」
それ以上の会話を諦めかけていた名無子の瞳が、続けられた言葉に瞬きを忘れ見開かれる。
それは、三蔵にとってこれ以上ない程の悪手だった。
自覚を機に、色を成し膨れ上がった想い。
必死に抑えつけていたそれがつまらない嫉妬と独占欲に締め上げられ、酒の力を借りて堰を切ったように溢れ出した。
その結果、名無子を置き去りにして吐き出した言の葉。
今更飲み込む術もなく、自責の念が三蔵を絞め上げる。
「三蔵」
そっと、名無子の手が三蔵の手に触れた。
ゆっくりと顔を上げる。
眉間に深く皺を刻み憔悴しきったその顔を名無子は小さく笑って、
「三蔵、大好きだよ」
三蔵の手を握った。
そして
「だから……三蔵ので、いいよ?」
少し困ったように照れ笑う。
その瞬間、三蔵を襲ったのは歓喜ではなく驚愕と、続いて猜疑だった。
不審に眉を顰め、口を開く。
「俺の言うことは…」
「絶対?」
きょとんと小首を傾げ、答えてくすり。
「だからじゃないよ」
あのね、と、続ける。
「特別、なんだって」
「何…?」
「悟空に言われた。一緒がいいと、一緒でもいいは違うって」
"他と同じ"ではないもの。
殊更に、それを求めてしまうもの。
理解はしていても実感の伴わなかった知識は、悟空の一言ですんなりと腹落ちし、名無子の胸に掛かっていた霧を春風のように晴らした。
親愛の上位互換とも言えるその感情を、人が何と呼ぶかは知っている。
それと断ずるにはまだ頼りないその想いを、同じように自身に向けていてくれたらと希ったのは、
「同じ部屋がいいって思うのも、一緒に寝たいって思うのも、三蔵だけだから」
唯一人、三蔵その人だった。
「同じ気持ちを返せるかはわからないけど……それでもいいって言ってくれるなら、私は三蔵のものがいい」
微笑に乗って届けられたその言葉に、三蔵の心臓が早鐘を打ち鳴らす。
今にも抱き寄せてしまいたい衝動を抑え、心に根を張った澱を吐き出した。
「だが…」
「……?」
「だがお前は、お師匠様のことが…」
込み上げる言い様のない不快感の正体はもう知った。
だからと言って御せるわけもなく、噛み締めた奥歯が言葉を途切れさせる。
険相を晒す三蔵を名無子は数秒、じっと見詰め、
「……なんで三蔵??」
独り言のように呟いた。
三蔵の眉間の刻印が濃度を増す。
そこで、名無子ははたと思い出した。
いつだったか、三蔵が吐露した言葉。
伝える機を逃していた答えを、今やっと音に乗せた。
「三蔵を三蔵の…光明の代わりだなんて思ったこと、一度もないよ?」
思索を凝らしたとて思い至るはずもなかった。
その繋がりを確かに感じてはいても、名無子にとっては音を同じくしているだけの別物。
代わりどころか、重ねて見たことすら一度もない。
「光明は確かに私にとって大事な存在だけど、三蔵とは違うでしょ?」
考えるまでもない程に、灼然たる事実だった。
しかし、三蔵がそうは受け取らず、あまつさえ怒りに似た反応まで示したのは―――
(―――あぁ、そっか…)
それが同じ音のせいだけではないと、名無子は気付いてしまった。
(喜んじゃだめなのに…)
三蔵にとっても重く大きな存在であるはずの光明に仄暗い感情を抱いてしまう程の想い。
人がそれを何と呼ぶのか、そしてそれを自身に向けてくれていたのかと思うと、不適当だと知りながらも溢れる欣喜が抑えきれず。
「三蔵」
名を呼び、真っ直ぐに視線を交える。
「私が傍にいたいのは玄奘三蔵、貴方だよ」
頬に喜色を滲ませ、心を告げる。
それは、三蔵が夢にまで見た愛しさを湛えた微笑みだった。
三蔵の強張っていた身体が弛緩し、忘れていた呼吸が甦る。
全ての細胞が歓喜に打ち震えるような感覚に見舞われるその一方で、どうしようもなく―――
「……クソダセぇ…」
これまでの醜態を振り返り、再び頭を抱え低く呻った三蔵を
「そなの?でも、好きだよ?」
言いながら名無子が小さく笑う。
何やら上手く言いくるめられているような気もしたが、むず痒くも悪い気はしないのだから仕方がない。
(これが世に言う惚れた弱みと言うやつか…)
三蔵は諦観の息を吐き、顔を上げて名無子へと向き直った。
灰銀と紫暗の瞳が、真っ直ぐに交わる。
「……名無子。初めて会った日の言葉は撤回する」
「うん」
「その上で、一つだけ約束しろ」
「うん」
「俺の傍にいろ。お前が何であろうと、俺の前から勝手に消えることは許さん」
「うん。わかった。消えない」
微笑を湛えたまま淡々と、当たり前のように答える。
原因が分からないならばそれを回避する術もないはずだ。
いつか消える。その現実は変わらない。
なのに―――
一片の揺らぎもない名無子の瞳に、しつこく心に根を張っていた不安は淡雪のように溶けていった。
三蔵の手が名無子の頬に触れる。
月の引力に導かれるまま顔を近付ければ、どちらのものとも知れぬ熱が肌を焦らす。
「愛している。名無子」
瞼の向こうへと銀月が姿を隠した。
暗闇の中、唇に触れた温もりは羽根のように優しく、しかし徐々に熱を増していく。
日々濃縮してゆく想いを閉じ込めていた強固な入れ物が、穿たれた針の穴から決壊するかのようだった。
抑えつけられ行き場のなかった想いが溢れ、貪るようにその唇を犯していく。
時の感覚も朧になった頃、漸く解放された名無子の唇から熱を帯びた吐息が零れ、三蔵の肌を撫でた。
僅かに開かれた瞼から覗いた、蕩け滲んだ銀月。
先程までとは色を異にした衝動が三蔵の心臓を締め上げてくる。
名無子の目の端から伝った雫を指先で掬うと、視界から外し意識を逸らすべく胸に抱き寄せた。
「―――他のやつにはさせるな」
眉を寄せ、苦悶に耐えながら言い付ける。
何処か物憂げな声に
「二つ目…」
腕の中で涙声がぽつり零した。
「……うるせぇよ」
確かに一つだけとは言ったがそれはそれ。おざなりに言葉を返し、名無子を抱いたまま仰向けにベッドへと倒れ込んだ。
法衣を握り締め、音もなく肩を震わす名無子の涙が三蔵の胸元を濡らしていく。
髪を柔らかく撫でてやりながら三蔵は小さく息を吐き出した。
「泣くんじゃねぇ。女の慰め方なんぞ俺は知らん」
言い捨てるような言葉に僅かな困惑が滲む。
「だって……っく…嬉しい……っ…」
三蔵の口の端に灯った微笑は、誰の目にも止まることなく確かにそこにあった。
名無子が泣き止むのを待って、三蔵は名無子を抱えベッドの中正しく身を横たえた。
もう、背を向け息を殺す必要も、天井を睨み付ける必要もない。
向かい合わせ、枕に頭を並べる。
ふと、三蔵の手が名無子の首元に伸びた。
名無子の細い首を彩っていた赤いスカーフを黙々と外し、ベッドの外へとそれを放る。
そしてさも満足げにふんと鼻を鳴らした三蔵に、名無子が吹き出した。
察しが良過ぎるのも困りものである。
眉間に馴染みの皺を刻み
「……うるせぇ…」
不貞腐れたように言って胸に押し付けるように抱き寄せれば、
「今度は何も言ってない…っふ…」
笑いの余韻を滲ませながら返した名無子に嘆息を浴びせた。
二人分の鼓動と微かな呼吸音が夜の静寂を揺らす。
腕の中、一回り小さな温もりに全身を包み込まれているかのように感じていた。
空いていた穴が埋まったような、探し求めていた場所に辿り着いたような充足感が三蔵を支配する。
銀桂に似た淡い香りを胸一杯に吸い込み、惜しむようにゆっくりと吐き出した。
言い知れぬ多幸感に身を委ねている三蔵の胸元で、ふと、銀が蠢いた。
「ねぇ、三蔵」
「何だ」
見上げ来る瞳が紡いだのは、
「三蔵も、ずっと一緒にいてくれる…?」
少し前に三蔵の脳天に直撃した、別の男へと吐かれた言葉だった。
思わず眉間を曇らせた三蔵に
「だめ…?」
語気を弱め、名無子が尋ねる。
その頭を撫でながら
「駄目な訳あるか。望むところだ。ただ……あいつの次っていうのが気に食わんだけだ」
素直にも、口をへの字に曲げ溜息交じりに、渋々と言った体で答えた三蔵。
名無子が、怒られないようにと遠慮がちに苦笑する。
「だって、何でも言うこと聞く券くれたの悟空だけだったし」
「そういう問題じゃねぇ…」
言葉を濁したところで今更なのはわかっていた。
過去の言動に滲んでいたであろう淡い悋気も独占欲も、今となっては名無子の中ではそれと理解されているに違いない。
しかし某氏のように、それを殊更に論うことをしないところが名無子の美点だと無自覚に惚気けていた三蔵の耳に、
「まぁ、何でも言うこと聞く券は口実ではあったんだけど―――悟空なら余計なこと考えずにうんって言ってくれるかなって思って」
届けられた名無子の思惑。
「他の三人はきっと、先ず私が消えること、心配しちゃうでしょう?
かといって『私が消えるまで』なんて言ったら、もっと悲しい顔させちゃうのわかってるから」
困ったように笑う名無子の、厳冬の空に冴える銀月のような瞳は一体何処まで見通しているのだろうか―――
ふとそんな考えが頭を過る。
『俺の傍にいろ』と、そう言った。
それだけしか願えなかった。
消えるなと命じておきながら無意識に避けていた己の弱さを突き付けられたようで、三蔵の奥歯が軋む。
そんな三蔵の胸中を知ってか知らずか、名無子は三蔵の胸に頬を寄せると、
「消えたくないから。消えないよ」
穏やかな声でそう告げた。
「何の根拠も保証もないけど、三蔵を置いては消えたりしない。約束したから」
何の慰めにもならないはずの言葉。
それでも、名無子が紡ぐだけで確かなものに思えてくるのは何故だろうか。
不思議に思いながらも、今はそれだけで十分だと。
肺に滞っていた息をゆっくりと吐き出した。
「―――あぁ、そうしてくれ。俺の心臓がもたん。あと夜中に光るな」
勢いが過ぎて、つい口走った昨夜の悪夢に、怪訝な顔が三蔵を見上げる。
「三蔵?私、光らないよ…?」
「……頭大丈夫かとでも言いたげな顔してんじゃねぇ」
鼻を摘み、誤魔化すように額に口付けを降らせた。
「覚えてねぇならいい」
「むぅ…いいならいいけど…」
不服の陰を残した名無子を胸に抱き、目を閉じる。
瞼に焼き付いた笑み。温もりと拍動。呼吸音と、淡い香り。
この世界にたった二人だけとなったような、そんな甘美な錯覚に身を委ね、二人微睡みの奥底へと連れ立って行った。
口を開くことも目を合わせることもなく辿り着いた宿。
部屋に入ると三蔵は電気も付けずベッドへと向かい、勢いに任せ腰を下ろした。
項垂れた三蔵の吐き出した息が、沈黙が支配する薄暗い部屋に重く沈んだ。
ドアの前、立ち尽くしていた名無子を、三蔵が自らの隣、ベッドを叩いて呼ぶ。
示された場所に座り、おずおずと声を掛けた。
「さっきの…」
「忘れろ」
顔を上げることもなく即座に返された声が、名無子の眉間に影を落とした。
「……酔った勢いだとは思われたくねぇ」
それ以上の会話を諦めかけていた名無子の瞳が、続けられた言葉に瞬きを忘れ見開かれる。
それは、三蔵にとってこれ以上ない程の悪手だった。
自覚を機に、色を成し膨れ上がった想い。
必死に抑えつけていたそれがつまらない嫉妬と独占欲に締め上げられ、酒の力を借りて堰を切ったように溢れ出した。
その結果、名無子を置き去りにして吐き出した言の葉。
今更飲み込む術もなく、自責の念が三蔵を絞め上げる。
「三蔵」
そっと、名無子の手が三蔵の手に触れた。
ゆっくりと顔を上げる。
眉間に深く皺を刻み憔悴しきったその顔を名無子は小さく笑って、
「三蔵、大好きだよ」
三蔵の手を握った。
そして
「だから……三蔵ので、いいよ?」
少し困ったように照れ笑う。
その瞬間、三蔵を襲ったのは歓喜ではなく驚愕と、続いて猜疑だった。
不審に眉を顰め、口を開く。
「俺の言うことは…」
「絶対?」
きょとんと小首を傾げ、答えてくすり。
「だからじゃないよ」
あのね、と、続ける。
「特別、なんだって」
「何…?」
「悟空に言われた。一緒がいいと、一緒でもいいは違うって」
"他と同じ"ではないもの。
殊更に、それを求めてしまうもの。
理解はしていても実感の伴わなかった知識は、悟空の一言ですんなりと腹落ちし、名無子の胸に掛かっていた霧を春風のように晴らした。
親愛の上位互換とも言えるその感情を、人が何と呼ぶかは知っている。
それと断ずるにはまだ頼りないその想いを、同じように自身に向けていてくれたらと希ったのは、
「同じ部屋がいいって思うのも、一緒に寝たいって思うのも、三蔵だけだから」
唯一人、三蔵その人だった。
「同じ気持ちを返せるかはわからないけど……それでもいいって言ってくれるなら、私は三蔵のものがいい」
微笑に乗って届けられたその言葉に、三蔵の心臓が早鐘を打ち鳴らす。
今にも抱き寄せてしまいたい衝動を抑え、心に根を張った澱を吐き出した。
「だが…」
「……?」
「だがお前は、お師匠様のことが…」
込み上げる言い様のない不快感の正体はもう知った。
だからと言って御せるわけもなく、噛み締めた奥歯が言葉を途切れさせる。
険相を晒す三蔵を名無子は数秒、じっと見詰め、
「……なんで三蔵??」
独り言のように呟いた。
三蔵の眉間の刻印が濃度を増す。
そこで、名無子ははたと思い出した。
いつだったか、三蔵が吐露した言葉。
伝える機を逃していた答えを、今やっと音に乗せた。
「三蔵を三蔵の…光明の代わりだなんて思ったこと、一度もないよ?」
思索を凝らしたとて思い至るはずもなかった。
その繋がりを確かに感じてはいても、名無子にとっては音を同じくしているだけの別物。
代わりどころか、重ねて見たことすら一度もない。
「光明は確かに私にとって大事な存在だけど、三蔵とは違うでしょ?」
考えるまでもない程に、灼然たる事実だった。
しかし、三蔵がそうは受け取らず、あまつさえ怒りに似た反応まで示したのは―――
(―――あぁ、そっか…)
それが同じ音のせいだけではないと、名無子は気付いてしまった。
(喜んじゃだめなのに…)
三蔵にとっても重く大きな存在であるはずの光明に仄暗い感情を抱いてしまう程の想い。
人がそれを何と呼ぶのか、そしてそれを自身に向けてくれていたのかと思うと、不適当だと知りながらも溢れる欣喜が抑えきれず。
「三蔵」
名を呼び、真っ直ぐに視線を交える。
「私が傍にいたいのは玄奘三蔵、貴方だよ」
頬に喜色を滲ませ、心を告げる。
それは、三蔵が夢にまで見た愛しさを湛えた微笑みだった。
三蔵の強張っていた身体が弛緩し、忘れていた呼吸が甦る。
全ての細胞が歓喜に打ち震えるような感覚に見舞われるその一方で、どうしようもなく―――
「……クソダセぇ…」
これまでの醜態を振り返り、再び頭を抱え低く呻った三蔵を
「そなの?でも、好きだよ?」
言いながら名無子が小さく笑う。
何やら上手く言いくるめられているような気もしたが、むず痒くも悪い気はしないのだから仕方がない。
(これが世に言う惚れた弱みと言うやつか…)
三蔵は諦観の息を吐き、顔を上げて名無子へと向き直った。
灰銀と紫暗の瞳が、真っ直ぐに交わる。
「……名無子。初めて会った日の言葉は撤回する」
「うん」
「その上で、一つだけ約束しろ」
「うん」
「俺の傍にいろ。お前が何であろうと、俺の前から勝手に消えることは許さん」
「うん。わかった。消えない」
微笑を湛えたまま淡々と、当たり前のように答える。
原因が分からないならばそれを回避する術もないはずだ。
いつか消える。その現実は変わらない。
なのに―――
一片の揺らぎもない名無子の瞳に、しつこく心に根を張っていた不安は淡雪のように溶けていった。
三蔵の手が名無子の頬に触れる。
月の引力に導かれるまま顔を近付ければ、どちらのものとも知れぬ熱が肌を焦らす。
「愛している。名無子」
瞼の向こうへと銀月が姿を隠した。
暗闇の中、唇に触れた温もりは羽根のように優しく、しかし徐々に熱を増していく。
日々濃縮してゆく想いを閉じ込めていた強固な入れ物が、穿たれた針の穴から決壊するかのようだった。
抑えつけられ行き場のなかった想いが溢れ、貪るようにその唇を犯していく。
時の感覚も朧になった頃、漸く解放された名無子の唇から熱を帯びた吐息が零れ、三蔵の肌を撫でた。
僅かに開かれた瞼から覗いた、蕩け滲んだ銀月。
先程までとは色を異にした衝動が三蔵の心臓を締め上げてくる。
名無子の目の端から伝った雫を指先で掬うと、視界から外し意識を逸らすべく胸に抱き寄せた。
「―――他のやつにはさせるな」
眉を寄せ、苦悶に耐えながら言い付ける。
何処か物憂げな声に
「二つ目…」
腕の中で涙声がぽつり零した。
「……うるせぇよ」
確かに一つだけとは言ったがそれはそれ。おざなりに言葉を返し、名無子を抱いたまま仰向けにベッドへと倒れ込んだ。
法衣を握り締め、音もなく肩を震わす名無子の涙が三蔵の胸元を濡らしていく。
髪を柔らかく撫でてやりながら三蔵は小さく息を吐き出した。
「泣くんじゃねぇ。女の慰め方なんぞ俺は知らん」
言い捨てるような言葉に僅かな困惑が滲む。
「だって……っく…嬉しい……っ…」
三蔵の口の端に灯った微笑は、誰の目にも止まることなく確かにそこにあった。
名無子が泣き止むのを待って、三蔵は名無子を抱えベッドの中正しく身を横たえた。
もう、背を向け息を殺す必要も、天井を睨み付ける必要もない。
向かい合わせ、枕に頭を並べる。
ふと、三蔵の手が名無子の首元に伸びた。
名無子の細い首を彩っていた赤いスカーフを黙々と外し、ベッドの外へとそれを放る。
そしてさも満足げにふんと鼻を鳴らした三蔵に、名無子が吹き出した。
察しが良過ぎるのも困りものである。
眉間に馴染みの皺を刻み
「……うるせぇ…」
不貞腐れたように言って胸に押し付けるように抱き寄せれば、
「今度は何も言ってない…っふ…」
笑いの余韻を滲ませながら返した名無子に嘆息を浴びせた。
二人分の鼓動と微かな呼吸音が夜の静寂を揺らす。
腕の中、一回り小さな温もりに全身を包み込まれているかのように感じていた。
空いていた穴が埋まったような、探し求めていた場所に辿り着いたような充足感が三蔵を支配する。
銀桂に似た淡い香りを胸一杯に吸い込み、惜しむようにゆっくりと吐き出した。
言い知れぬ多幸感に身を委ねている三蔵の胸元で、ふと、銀が蠢いた。
「ねぇ、三蔵」
「何だ」
見上げ来る瞳が紡いだのは、
「三蔵も、ずっと一緒にいてくれる…?」
少し前に三蔵の脳天に直撃した、別の男へと吐かれた言葉だった。
思わず眉間を曇らせた三蔵に
「だめ…?」
語気を弱め、名無子が尋ねる。
その頭を撫でながら
「駄目な訳あるか。望むところだ。ただ……あいつの次っていうのが気に食わんだけだ」
素直にも、口をへの字に曲げ溜息交じりに、渋々と言った体で答えた三蔵。
名無子が、怒られないようにと遠慮がちに苦笑する。
「だって、何でも言うこと聞く券くれたの悟空だけだったし」
「そういう問題じゃねぇ…」
言葉を濁したところで今更なのはわかっていた。
過去の言動に滲んでいたであろう淡い悋気も独占欲も、今となっては名無子の中ではそれと理解されているに違いない。
しかし某氏のように、それを殊更に論うことをしないところが名無子の美点だと無自覚に惚気けていた三蔵の耳に、
「まぁ、何でも言うこと聞く券は口実ではあったんだけど―――悟空なら余計なこと考えずにうんって言ってくれるかなって思って」
届けられた名無子の思惑。
「他の三人はきっと、先ず私が消えること、心配しちゃうでしょう?
かといって『私が消えるまで』なんて言ったら、もっと悲しい顔させちゃうのわかってるから」
困ったように笑う名無子の、厳冬の空に冴える銀月のような瞳は一体何処まで見通しているのだろうか―――
ふとそんな考えが頭を過る。
『俺の傍にいろ』と、そう言った。
それだけしか願えなかった。
消えるなと命じておきながら無意識に避けていた己の弱さを突き付けられたようで、三蔵の奥歯が軋む。
そんな三蔵の胸中を知ってか知らずか、名無子は三蔵の胸に頬を寄せると、
「消えたくないから。消えないよ」
穏やかな声でそう告げた。
「何の根拠も保証もないけど、三蔵を置いては消えたりしない。約束したから」
何の慰めにもならないはずの言葉。
それでも、名無子が紡ぐだけで確かなものに思えてくるのは何故だろうか。
不思議に思いながらも、今はそれだけで十分だと。
肺に滞っていた息をゆっくりと吐き出した。
「―――あぁ、そうしてくれ。俺の心臓がもたん。あと夜中に光るな」
勢いが過ぎて、つい口走った昨夜の悪夢に、怪訝な顔が三蔵を見上げる。
「三蔵?私、光らないよ…?」
「……頭大丈夫かとでも言いたげな顔してんじゃねぇ」
鼻を摘み、誤魔化すように額に口付けを降らせた。
「覚えてねぇならいい」
「むぅ…いいならいいけど…」
不服の陰を残した名無子を胸に抱き、目を閉じる。
瞼に焼き付いた笑み。温もりと拍動。呼吸音と、淡い香り。
この世界にたった二人だけとなったような、そんな甘美な錯覚に身を委ね、二人微睡みの奥底へと連れ立って行った。