第一章
貴女のお名前は?
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長湯を終え、大浴場の外へと出た三蔵。
その目に飛び込んできたのは、壁際に群れ集う四人の男達と、その奥に見え隠れする銀色だった。
名無子を取り囲む男達の顔に一様に貼り付いた下卑た笑み。
一瞬で沸き立った血液が、向かう足を逸らせる。
「ねー、いーじゃん少しくらいさー」
「おい」
軽薄な声に差し挟まれた、殺気の乗った重金属のような声が男の肩を掴んだ。
「俺の連れに何か用か」
振り返った男の瞳に映ったのは悪鬼か羅刹か。
男の一人がひっ、と、声を上げた。
その様子を見ていた名無子が、ただ銃口を向けただけの方がまだ慈悲的だったのではないかと思う程の、暴力的な凶相と気配が空気を凍てつかせる。
総身を戦慄させ、誤魔化しも捨て台詞も吐く余裕もなくあっという間に蜘蛛の子を散らした男達。
その姿が見えなくなって漸く、三蔵は視線を戻した。
きょとんとした銀色の眼差しと瞳がかち合う。
そこに戸惑いも嫌悪も、恐怖の色も見えないことに安堵すると同時、
「―――邪魔したか?」
つい悪態が口を衝く。
しかし名無子はそれすらも気に止めることなくふるふると首を振って
「ううん。助けてくれてありがとう」
柔らかに微笑んだ。
ふぅと小さく息を吐き、掌を名無子の頭に降らせる。
―――妙に冷たい。
手を滑らせ、指の背でそっと名無子の頬に触れるが、その温もりは湯上がりのそれではなかった。
「…どれだけ待ってた」
片眉を上げ問えば
「…お風呂入った時間と同じくらい?」
首を傾げ感覚的に答えた名無子。
大浴場前で別れてから、既に一時間以上経っている。
四半刻も待っていたとすればさもありなんと溜息を吐いた。
「先に部屋に戻ってりゃ良かっただろうが…」
零した三蔵に、
「鍵」
独り言のようにぽつり返された言葉。
(鍵?………)
始め、その言葉の意味がわからなかった三蔵だったが、すぐに袂の中の小さな金属片に思い至った。
「…あ」
大浴場に向かう前、部屋の鍵を閉めたのは三蔵自身だった。
そして、未だにそれは手元にある。
慣れない状況に鍵を渡すことを完全に失念していたが故の待ち惚けだった。
そこに弁解の余地はない。出てくるのが更に遅かった場合のことを考えれば尚更だ。
「…すまん」
決まり悪そうに目を逸らし、三蔵に似つかわしくない頼りない声で呟く。
一瞬、ぱちぱちと瞬いた名無子の瞳がすぐに弓を描いた。
「気にしないで。戻ろ」
含みを探ることすら馬鹿らしく思えるような無防備な笑みが袖を引く。
湯の中へと引き戻されたような温かな浮力を感じながら三蔵は部屋へと足を向けた。
湯上がりの心地良さと静寂に身を任せ、ベッドの上、煙を燻らせる。
街の中心地から少し離れたこの宿までは繁華街の喧騒は届かず、時折犬の鳴き声や酔客の笑い声が微かに聞こえてくる程度。
満室だった他の宿よりも結果としては良かったと、そんなことをぼんやり思いながら視線だけを窓際へと走らせる。
椅子に座り、頬杖を着いて窓の外を眺めている横顔。
随分と見慣れてしまった気がするのは気のせいだろうか。
煙草を灰皿に押し付け、残っていた三本目の缶ビールを飲み干す。
そして電気を消して身を横たえ、久方振りに口を開いた。
「…寝ねぇのか」
僅かに三蔵へと顔を向け、
「うん。気にしないで寝て」
そう言って口元に微笑を浮かべる。
「おやすみ」
黙ったままの三蔵から視線を戻した名無子だったが、
「……来い」
その声に再び顔を向けた。
「え?」
「さっさと来いっつってんだ」
ほんの少しの苛立ちと別の何かを声に乗せ、仰向けで横に伸ばした腕で布団をぱんと叩く。
むず痒さに目を閉じて暫く、遠慮がちな熱が腕を枕にその身に寄り添った。
「…ごめんね」
名無子の口から零れ落ちた脈絡のない謝辞に
「何がだ」
速やかに問い質せば
「覚えてないけど…一昨日の夜、私何かしちゃったんだよね?」
甦る、名無子の寝言と不快感。
しかし時間が頭を冷やしたのか、将又他の要因故か、煩わしさはすぐに息を潜め。
「…もういい」
「でも…」
「煩え。黙って寝ろ」
物言いたげな気配をぐいと抱き寄せ、力ずくで黙らせる。
火照った身体は湯上がりのそれか、酒のせいか、それとも―――
わからないままでいいと、三蔵は思考を止め睡魔の誘いに身を委ねた。
半宵に三蔵の意識を呼び戻したのは、瞼を赤く照らした光だった。
眉を顰め、薄く目を開ける。
その光源は三蔵のすぐ傍にあった。
腕の中、身を寄せる名無子が淡い光に包まれている。
目を閉じ眠る名無子の髪と同じ色をした光。
それはまるで、名無子が月影に溶けていくようで―――
三蔵の心臓が大きく跳ねた。
飛び起きるように身を起こし、名無子の肩を揺り動かす。
「おい!名無子!!」
「ん…」
僅かな反応とともに光は徐々に収束していき、名無子の瞼から覗いた銀月に飲み込まれたかのように姿を消した。
「さんぞ……どしたの…?」
寝惚け眼が三蔵を捉える。
三蔵は大きく息を吐き、両の腕で名無子を抱き寄せた。
「三蔵…?」
耳に響いてくる激しい鼓動。身が軋む程に強く抱き締めてくる両腕。微かに震える吐息。
言葉はなく、表情も窺えない。何があったのかはわからないがそれでも。
「大丈夫だよ三蔵」
呟き、その背に手を回す。
その存在を確かに伝えるかのように、温かな熱が三蔵の背を撫でていた。
三蔵の心音が平常を取り戻して暫く、腕の中の吐息が寝息へと変わった。
身を横たえたものの、結局寝付けないまま三蔵は朝を迎えていた。
失くしたくないと、思ってしまった―――
夜半の月光は、三蔵が目を背けていた想いを陰として在々と浮かび上がらせた。
最早逃げ場などないと、諦観の息を吐く。
身に覚えのない感情、しかしその名付けはいとも容易で。
いつからか、心に刺さった小さな棘のような違和感が不快なものではなくなり、やがて柔らかに心を掴んでは時折爪を立ててくるようになった。
文字でしか目にしたことのない言の葉が浮かんでは消え、その度に打ち消してはもう一人の自分がそれを嘲笑う。
いつか限界を迎えるような気はしていたが、その時に名無子が傍にいたことは僥倖だったと、腕の中の温もりを起こさぬようにそっと抱き締める。
斯くして、自身の想いを自覚したところで
(どうすりゃいいんだ…)
突き付けられた現実。
この先を、どう進むべきなのか。身の振り方がわからない。
八戒や悟浄ならば答えを持っているのかもしれないが
(それだけはねぇ…)
一蹴し、幾度目かもわからぬ嘆息を零す。
身悶えるような想いと温もりを胸に、三蔵は窓から差し込む朝日を睨み付けていた。
「―――ぞう…三蔵!聞いてますか?」
「……あ?」
漸くこちらを向いた三蔵に八戒が呆れ顔で嘆息をぶつける。
「どうしたんですか一体…ずっとそんな調子で…」
今朝もまた、三蔵の様子がおかしかった。
しかし一昨日の朝のような、不機嫌を眉間に濃縮し殺気立っているわけではない。
何を言っても上の空で空返事。
普段ならば目くじらを立てるような、悟浄の邪心を孕んだ軽口にも取り合わず、銃声どころかハリセンすらも文字通りに鳴りを潜め。
「なんつーんだっけこれ…嵐の前の静けさ?なんかすげー怖ぇ…」
と、悟空に使い慣れない慣用句を使わしめる程の動揺を齎していた。
名無子に尋ねても
「わかんない。けど、怒ってないよ?」
と、微笑むばかり。
怒声の轟かない朝がこんなにも落ち着かないものであったかと八戒が苦笑を滲ませていた。
いつしか日は高く昇り、三蔵の部屋で八戒と二人。
やっと話が通じそうだと八戒が言葉を続けた。
「今夜、名無子の歓迎会をしようって話です」
三蔵が気付かぬ間に最後の一本となっていた煙草を取り出し、箱を握り潰す。
「あぁ、好きにしろ―――って、何するつもりだ」
「何か特別なことを考えているわけではないのですが、まぁ歓迎の意を込めて目一杯飲み食いしようかと」
「既に散々やってるじゃねぇか…」
ふうと白煙を吐き出しながら辺りを見渡す。
「で、その本人は何処に行った」
「悟浄とお出かけですよ。どれだけ聞いてなかったんですか…」
呆れながらの答えに三蔵の眉がぴくりと跳ねたが、いつものことと気にせず続ける。
「因みに悟空は名無子に何か贈り物をしたいそうで。別行動で街に出て行きました」
「贈り物…?」
「えぇ。ほら、この前悟浄が名無子に赤いスカーフ上げてたでしょう?それで、『俺だけ何も上げれてないー!』って言い出しまして」
「……俺もお前も何もやってねぇだろ」
「三蔵はあの紫色の服選んであげたでしょう?僕は服を修繕したのをカウントされてるみたいです」
「なんだそりゃ…」
一先ず疑問は解け、再び思案の沼に足を踏み入れかけた三蔵を八戒が引き止めた。
「それで。一体何をそんなに考え込んでたんです?」
八戒がこの類の爽やかな笑みを浮かべているときは自身にとって面倒な流れになると身をもって知っている三蔵は、早々に会話の切り上げを図る。
「……お前には関係ねぇことだ」
が、そうはさせないのが八戒だった。
「もし名無子のことだったら関係ありますよ?名無子を幸せにするって決めたんですから」
「……あぁ?」
「それが僕の手ででなくとも、彼女には幸せになって欲しいんです。
だから見守るところは見守りつつ、覚悟のない輩からは積極的に手を下して守るつもりです」
何処か誇らしげにそう宣言した八戒に頭痛がしてくる。
「お前はどの立場で物言ってんだ…」
「そうですねぇ。父親…は、三蔵のお師匠様がいますから…義父か母親ですかね」
「いいのかそれで…」
「はい。何か問題でも?」
「…勝手に言ってろ」
言いたいことは山程あったが、なにやら絶好調な八戒には何を言っても徒労に終わると、顔を背け新しい煙草に手を伸ばした。
「ところで三蔵」
「…今度は何だ」
「名無子のことなのは否定しないんですね」
「……」
最早喧嘩を売られている気すらもしてきたが、切りがない。
煙草を袂に仕舞い、立ち上がる。
「……出掛けてくる」
「おや、どちらへ?」
「お前がいないところだ!」
青筋立て声を大にして言い放った三蔵をふふっと笑って。
「いってらっしゃい。夕飯までには帰ってきてくださいね」
見送りの言葉は、扉の閉まるけたたましい音に弾かれた。
街の誼譟から離れ、三蔵は宛もなく一人歩く。
いつしか辿り着いた閑静な町外れ。
人通りも少なく、穏やかな生活の気配が漂っている。
道端にぽつり置かれたベンチに腰を下ろし、一服休憩。
千切れた雲が空を流れていくのをぼんやりと眺めながら、彼の人を想う。
時折視界に帯を描いては消えてゆく白煙とは違い、唯一つの存在がずっと胸に焼き付いて離れなかった。
その笑み、泣き顔、香り、声、温もり。
目を閉じれば全てが鮮やかに甦る。
身悶える程の感情の荒波に心を掻き乱され、ふとした瞬間に我に返っては、結局何一つ解決していないし一歩も前に進めていないことに気付いて嘆息を溢れさせる。
そんな無為なループを止めたのは、三蔵の視界に飛び込んできた見慣れた横顔だった。
「あ、三蔵」
ほぼ同時に悟空も三蔵に気付いて駆け寄ってくる。
「何してんのこんなとこで。散歩?」
「お前こそ何してんだ」
「名無子へのプレゼント探し!―――だったんだけど…どれもピンとこなくて」
しょんぼりと影を落とし、視線を伏せた。
名無子のことだ。何を贈っても喜びそうなものだが、贈る側としては頭を悩ませるところ。
それが身近に女性がいなかった悟空となれば尚更だ。
その点、三蔵も似たようなものであるが故、何か良い提案ができるだけの抽斗があるわけでもない。
しかしその心中は察するに余りあって。
一呼吸、思案。
煙と共に言葉を吐き出す。
「何かやりたいのかあいつを喜ばせたいのか、どっちだ」
すると、返る即答。
「喜ばせたい!」
「なら別にモノじゃなくてもいいだろ」
「物以外……肩たたき券とか??」
首を傾げ例示された至極悟空らしいアイテム。
そう言えば前に貰った気もするがあれは何処に行っただろうか。使った覚えはないが。
などと、逸れた思考を一先ず引き戻し、
「知らん。自分で考えろ。その方があいつも喜ぶだろう」
と、尤もなことを宣ってみる。
華やいだ金眼が、うんと大きく頷いた。
「そーだな!もーちょい色々見ながら考えてみる!サンキュ、三蔵!」
そう言って街の方へ向け駆け出して行った悟空を黙って見送った。
然して再び一人となった三蔵は辺りを見渡す。
その目に止まったのは、一軒の建物に掲げられた煤けた板切れだった。
その目的に反し、多くの者に知らしめることを忌避したかのようにひっそりと掲げられた看板に描かれていた絵が、その店の取扱商品を三蔵に教える。
今の悟空ですらも覗こうとはしないだろうその店へ向け、三蔵は足を踏み出した。
その目に飛び込んできたのは、壁際に群れ集う四人の男達と、その奥に見え隠れする銀色だった。
名無子を取り囲む男達の顔に一様に貼り付いた下卑た笑み。
一瞬で沸き立った血液が、向かう足を逸らせる。
「ねー、いーじゃん少しくらいさー」
「おい」
軽薄な声に差し挟まれた、殺気の乗った重金属のような声が男の肩を掴んだ。
「俺の連れに何か用か」
振り返った男の瞳に映ったのは悪鬼か羅刹か。
男の一人がひっ、と、声を上げた。
その様子を見ていた名無子が、ただ銃口を向けただけの方がまだ慈悲的だったのではないかと思う程の、暴力的な凶相と気配が空気を凍てつかせる。
総身を戦慄させ、誤魔化しも捨て台詞も吐く余裕もなくあっという間に蜘蛛の子を散らした男達。
その姿が見えなくなって漸く、三蔵は視線を戻した。
きょとんとした銀色の眼差しと瞳がかち合う。
そこに戸惑いも嫌悪も、恐怖の色も見えないことに安堵すると同時、
「―――邪魔したか?」
つい悪態が口を衝く。
しかし名無子はそれすらも気に止めることなくふるふると首を振って
「ううん。助けてくれてありがとう」
柔らかに微笑んだ。
ふぅと小さく息を吐き、掌を名無子の頭に降らせる。
―――妙に冷たい。
手を滑らせ、指の背でそっと名無子の頬に触れるが、その温もりは湯上がりのそれではなかった。
「…どれだけ待ってた」
片眉を上げ問えば
「…お風呂入った時間と同じくらい?」
首を傾げ感覚的に答えた名無子。
大浴場前で別れてから、既に一時間以上経っている。
四半刻も待っていたとすればさもありなんと溜息を吐いた。
「先に部屋に戻ってりゃ良かっただろうが…」
零した三蔵に、
「鍵」
独り言のようにぽつり返された言葉。
(鍵?………)
始め、その言葉の意味がわからなかった三蔵だったが、すぐに袂の中の小さな金属片に思い至った。
「…あ」
大浴場に向かう前、部屋の鍵を閉めたのは三蔵自身だった。
そして、未だにそれは手元にある。
慣れない状況に鍵を渡すことを完全に失念していたが故の待ち惚けだった。
そこに弁解の余地はない。出てくるのが更に遅かった場合のことを考えれば尚更だ。
「…すまん」
決まり悪そうに目を逸らし、三蔵に似つかわしくない頼りない声で呟く。
一瞬、ぱちぱちと瞬いた名無子の瞳がすぐに弓を描いた。
「気にしないで。戻ろ」
含みを探ることすら馬鹿らしく思えるような無防備な笑みが袖を引く。
湯の中へと引き戻されたような温かな浮力を感じながら三蔵は部屋へと足を向けた。
湯上がりの心地良さと静寂に身を任せ、ベッドの上、煙を燻らせる。
街の中心地から少し離れたこの宿までは繁華街の喧騒は届かず、時折犬の鳴き声や酔客の笑い声が微かに聞こえてくる程度。
満室だった他の宿よりも結果としては良かったと、そんなことをぼんやり思いながら視線だけを窓際へと走らせる。
椅子に座り、頬杖を着いて窓の外を眺めている横顔。
随分と見慣れてしまった気がするのは気のせいだろうか。
煙草を灰皿に押し付け、残っていた三本目の缶ビールを飲み干す。
そして電気を消して身を横たえ、久方振りに口を開いた。
「…寝ねぇのか」
僅かに三蔵へと顔を向け、
「うん。気にしないで寝て」
そう言って口元に微笑を浮かべる。
「おやすみ」
黙ったままの三蔵から視線を戻した名無子だったが、
「……来い」
その声に再び顔を向けた。
「え?」
「さっさと来いっつってんだ」
ほんの少しの苛立ちと別の何かを声に乗せ、仰向けで横に伸ばした腕で布団をぱんと叩く。
むず痒さに目を閉じて暫く、遠慮がちな熱が腕を枕にその身に寄り添った。
「…ごめんね」
名無子の口から零れ落ちた脈絡のない謝辞に
「何がだ」
速やかに問い質せば
「覚えてないけど…一昨日の夜、私何かしちゃったんだよね?」
甦る、名無子の寝言と不快感。
しかし時間が頭を冷やしたのか、将又他の要因故か、煩わしさはすぐに息を潜め。
「…もういい」
「でも…」
「煩え。黙って寝ろ」
物言いたげな気配をぐいと抱き寄せ、力ずくで黙らせる。
火照った身体は湯上がりのそれか、酒のせいか、それとも―――
わからないままでいいと、三蔵は思考を止め睡魔の誘いに身を委ねた。
半宵に三蔵の意識を呼び戻したのは、瞼を赤く照らした光だった。
眉を顰め、薄く目を開ける。
その光源は三蔵のすぐ傍にあった。
腕の中、身を寄せる名無子が淡い光に包まれている。
目を閉じ眠る名無子の髪と同じ色をした光。
それはまるで、名無子が月影に溶けていくようで―――
三蔵の心臓が大きく跳ねた。
飛び起きるように身を起こし、名無子の肩を揺り動かす。
「おい!名無子!!」
「ん…」
僅かな反応とともに光は徐々に収束していき、名無子の瞼から覗いた銀月に飲み込まれたかのように姿を消した。
「さんぞ……どしたの…?」
寝惚け眼が三蔵を捉える。
三蔵は大きく息を吐き、両の腕で名無子を抱き寄せた。
「三蔵…?」
耳に響いてくる激しい鼓動。身が軋む程に強く抱き締めてくる両腕。微かに震える吐息。
言葉はなく、表情も窺えない。何があったのかはわからないがそれでも。
「大丈夫だよ三蔵」
呟き、その背に手を回す。
その存在を確かに伝えるかのように、温かな熱が三蔵の背を撫でていた。
三蔵の心音が平常を取り戻して暫く、腕の中の吐息が寝息へと変わった。
身を横たえたものの、結局寝付けないまま三蔵は朝を迎えていた。
失くしたくないと、思ってしまった―――
夜半の月光は、三蔵が目を背けていた想いを陰として在々と浮かび上がらせた。
最早逃げ場などないと、諦観の息を吐く。
身に覚えのない感情、しかしその名付けはいとも容易で。
いつからか、心に刺さった小さな棘のような違和感が不快なものではなくなり、やがて柔らかに心を掴んでは時折爪を立ててくるようになった。
文字でしか目にしたことのない言の葉が浮かんでは消え、その度に打ち消してはもう一人の自分がそれを嘲笑う。
いつか限界を迎えるような気はしていたが、その時に名無子が傍にいたことは僥倖だったと、腕の中の温もりを起こさぬようにそっと抱き締める。
斯くして、自身の想いを自覚したところで
(どうすりゃいいんだ…)
突き付けられた現実。
この先を、どう進むべきなのか。身の振り方がわからない。
八戒や悟浄ならば答えを持っているのかもしれないが
(それだけはねぇ…)
一蹴し、幾度目かもわからぬ嘆息を零す。
身悶えるような想いと温もりを胸に、三蔵は窓から差し込む朝日を睨み付けていた。
「―――ぞう…三蔵!聞いてますか?」
「……あ?」
漸くこちらを向いた三蔵に八戒が呆れ顔で嘆息をぶつける。
「どうしたんですか一体…ずっとそんな調子で…」
今朝もまた、三蔵の様子がおかしかった。
しかし一昨日の朝のような、不機嫌を眉間に濃縮し殺気立っているわけではない。
何を言っても上の空で空返事。
普段ならば目くじらを立てるような、悟浄の邪心を孕んだ軽口にも取り合わず、銃声どころかハリセンすらも文字通りに鳴りを潜め。
「なんつーんだっけこれ…嵐の前の静けさ?なんかすげー怖ぇ…」
と、悟空に使い慣れない慣用句を使わしめる程の動揺を齎していた。
名無子に尋ねても
「わかんない。けど、怒ってないよ?」
と、微笑むばかり。
怒声の轟かない朝がこんなにも落ち着かないものであったかと八戒が苦笑を滲ませていた。
いつしか日は高く昇り、三蔵の部屋で八戒と二人。
やっと話が通じそうだと八戒が言葉を続けた。
「今夜、名無子の歓迎会をしようって話です」
三蔵が気付かぬ間に最後の一本となっていた煙草を取り出し、箱を握り潰す。
「あぁ、好きにしろ―――って、何するつもりだ」
「何か特別なことを考えているわけではないのですが、まぁ歓迎の意を込めて目一杯飲み食いしようかと」
「既に散々やってるじゃねぇか…」
ふうと白煙を吐き出しながら辺りを見渡す。
「で、その本人は何処に行った」
「悟浄とお出かけですよ。どれだけ聞いてなかったんですか…」
呆れながらの答えに三蔵の眉がぴくりと跳ねたが、いつものことと気にせず続ける。
「因みに悟空は名無子に何か贈り物をしたいそうで。別行動で街に出て行きました」
「贈り物…?」
「えぇ。ほら、この前悟浄が名無子に赤いスカーフ上げてたでしょう?それで、『俺だけ何も上げれてないー!』って言い出しまして」
「……俺もお前も何もやってねぇだろ」
「三蔵はあの紫色の服選んであげたでしょう?僕は服を修繕したのをカウントされてるみたいです」
「なんだそりゃ…」
一先ず疑問は解け、再び思案の沼に足を踏み入れかけた三蔵を八戒が引き止めた。
「それで。一体何をそんなに考え込んでたんです?」
八戒がこの類の爽やかな笑みを浮かべているときは自身にとって面倒な流れになると身をもって知っている三蔵は、早々に会話の切り上げを図る。
「……お前には関係ねぇことだ」
が、そうはさせないのが八戒だった。
「もし名無子のことだったら関係ありますよ?名無子を幸せにするって決めたんですから」
「……あぁ?」
「それが僕の手ででなくとも、彼女には幸せになって欲しいんです。
だから見守るところは見守りつつ、覚悟のない輩からは積極的に手を下して守るつもりです」
何処か誇らしげにそう宣言した八戒に頭痛がしてくる。
「お前はどの立場で物言ってんだ…」
「そうですねぇ。父親…は、三蔵のお師匠様がいますから…義父か母親ですかね」
「いいのかそれで…」
「はい。何か問題でも?」
「…勝手に言ってろ」
言いたいことは山程あったが、なにやら絶好調な八戒には何を言っても徒労に終わると、顔を背け新しい煙草に手を伸ばした。
「ところで三蔵」
「…今度は何だ」
「名無子のことなのは否定しないんですね」
「……」
最早喧嘩を売られている気すらもしてきたが、切りがない。
煙草を袂に仕舞い、立ち上がる。
「……出掛けてくる」
「おや、どちらへ?」
「お前がいないところだ!」
青筋立て声を大にして言い放った三蔵をふふっと笑って。
「いってらっしゃい。夕飯までには帰ってきてくださいね」
見送りの言葉は、扉の閉まるけたたましい音に弾かれた。
街の誼譟から離れ、三蔵は宛もなく一人歩く。
いつしか辿り着いた閑静な町外れ。
人通りも少なく、穏やかな生活の気配が漂っている。
道端にぽつり置かれたベンチに腰を下ろし、一服休憩。
千切れた雲が空を流れていくのをぼんやりと眺めながら、彼の人を想う。
時折視界に帯を描いては消えてゆく白煙とは違い、唯一つの存在がずっと胸に焼き付いて離れなかった。
その笑み、泣き顔、香り、声、温もり。
目を閉じれば全てが鮮やかに甦る。
身悶える程の感情の荒波に心を掻き乱され、ふとした瞬間に我に返っては、結局何一つ解決していないし一歩も前に進めていないことに気付いて嘆息を溢れさせる。
そんな無為なループを止めたのは、三蔵の視界に飛び込んできた見慣れた横顔だった。
「あ、三蔵」
ほぼ同時に悟空も三蔵に気付いて駆け寄ってくる。
「何してんのこんなとこで。散歩?」
「お前こそ何してんだ」
「名無子へのプレゼント探し!―――だったんだけど…どれもピンとこなくて」
しょんぼりと影を落とし、視線を伏せた。
名無子のことだ。何を贈っても喜びそうなものだが、贈る側としては頭を悩ませるところ。
それが身近に女性がいなかった悟空となれば尚更だ。
その点、三蔵も似たようなものであるが故、何か良い提案ができるだけの抽斗があるわけでもない。
しかしその心中は察するに余りあって。
一呼吸、思案。
煙と共に言葉を吐き出す。
「何かやりたいのかあいつを喜ばせたいのか、どっちだ」
すると、返る即答。
「喜ばせたい!」
「なら別にモノじゃなくてもいいだろ」
「物以外……肩たたき券とか??」
首を傾げ例示された至極悟空らしいアイテム。
そう言えば前に貰った気もするがあれは何処に行っただろうか。使った覚えはないが。
などと、逸れた思考を一先ず引き戻し、
「知らん。自分で考えろ。その方があいつも喜ぶだろう」
と、尤もなことを宣ってみる。
華やいだ金眼が、うんと大きく頷いた。
「そーだな!もーちょい色々見ながら考えてみる!サンキュ、三蔵!」
そう言って街の方へ向け駆け出して行った悟空を黙って見送った。
然して再び一人となった三蔵は辺りを見渡す。
その目に止まったのは、一軒の建物に掲げられた煤けた板切れだった。
その目的に反し、多くの者に知らしめることを忌避したかのようにひっそりと掲げられた看板に描かれていた絵が、その店の取扱商品を三蔵に教える。
今の悟空ですらも覗こうとはしないだろうその店へ向け、三蔵は足を踏み出した。