第一章
貴女のお名前は?
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瞼越し、赤く燃える暁光が名無子を覚醒に導く。
目を開け、傍らに添う温もりを虚ろに見上げた。
「おはよ…」
「……起きたならどけ」
一瞥の視線も寄越さず放たれた抑揚のない声が、名無子の背に静電気のような信号を走らせた。
名残を惜しむこともせず速やかに身を起こす。
「うん。ごめん」
続いて起き上がった三蔵が、
「自分の部屋に戻って出発の準備をしろ」
そう言ってベッドを降りる。
「うん」
洗面所へ足を向けた背中を気にしながら部屋を後にしようとしていた名無子を
「おい」
呼び止めた声に立ち止まった。
「―――俺をお師匠様の代わりにするんじゃねぇ」
言い残し、三蔵は洗面所へと姿を消した。
一度も交わることのなかった視線。
閉じられた扉は、拒絶の証。
「三蔵…」
呟いた名前は受け取り手のないまま、冷寂な空気に散っていった。
「なぁ名無子…大丈夫?」
朝日を背に走るジープの後部座席で、悟空が名無子に囁きかけた。
今朝、三蔵の顔を見た瞬間すぐに気付いた。これはやべぇやつだって。
長雨が続いて夜中に何度もうなされてたときみたいな、ぴりぴりした感じ。
煙草が切れたときとかの苛々してんのとは違う、もっと重い感じのやつ。
下手なこと言えばハリセンなんかすっ飛ばして、問答無用で銃弾飛んできそうな。
なんで?昨日、名無子と一緒に寝たんじゃねーの?
喧嘩でもしたのかと思って名無子にこっそり聞いてみたけど、
今と同じように困ったみたいに、少し寂しそうに笑うだけで何も答えない。
八戒も、悟浄も気付いてる。
でも俺が何か言おうとするとやめとけって黙って合図を送ってくるんだ。
ぱっと見普通にしてるけど、肝心なことには触れない。
なぁんか―――
「気持ち悪ぃ…」
雲ひとつない晴天を見上げながら、ぼそり、悟空が呟いた。
「あ?車酔いか?それとも朝飯食い足りなかったか」
「なんで食い足りなくて気持ち悪くなんだよ!!」
「大丈夫ですか悟空?車、停めます?」
「いやいーよ。別に車のせいでも飯のせいでもねーから…」
ふぅと息を吐き、隣を見遣る。
出会った頃なら気付かなかっただろう、無表情に掛かる陰り。
八戒も気になっているのだろう。走り始めてから幾度となくバックミラーを確認している。
悟浄は車に乗り込んですぐ、名無子の肩を抱き寄せたが続く軽口は封じられていた。
前方の助手席からは、いつも以上の頻度で煙が立ち上っている。
平常を装った焦れるような空気は風に流されることもなく、いつまでも車上に滞っていた。
太陽が天頂に達するよりも早くその視界に現れた街に、悟空が歓声を上げる。
「着いたー!思ったより早く着いたな」
「早速宿探すかぁ。腹も減ったし」
緊張感に満ちた空間から一刻も早く脱したいと、今にも駆け出さんばかりの悟空と悟浄。
その足を止めたのは、地図を見ながらはてと首を傾げた八戒の声だった。
「こんな所に街はないはずなんですが……目的の街は、まだ先ですし」
その言葉に三蔵が眉を上げ、辺りを見渡す。
特に何ということもない、こじんまりとしてはいるがありふれた街の風景、街の賑わい。
自分達以外の妖気も感じない。
「念のため、個人行動は極力慎め。何があるかわからんからな。とりあえず、さっさと宿を取れ」
「「イエッサー!」」
声を揃えた二人の横、怪訝そうな表情を浮かべた名無子に八戒が気が付いた。
「……どうかしましたしたか?名無子」
四対の視線が名無子に集まる。
暫しの沈黙。その答は、
「みんな、何を言ってるの?」
眉を潜めた銀の、予期せぬ問い返し。
「…どういうことですか?」
改めて八戒が問い直すが、
「街なんて、ないよ」
名無子の返答が更なる疑問を生んだ。
「……どういうことだ」
険相を濃くした三蔵が問を重ね、悟浄と悟空が顔を見合わせる。
「街…だったかも知れないけど、今は何もないよ?」
五人の頭上に舞い踊る疑問符。
過った可能性を逸早く捉えた八戒が手を挙げる。
「ちょっと皆さん、いいですか?『せーの』で、あれが何か言ってください」
指さした先、目を向けた四人が無言で頷く。
「じゃあいきますよ。せーの―――」
「「「「野菜屋「廃屋?」……」」」」
一人、全く異なる単語を紡いだ名無子に、集う瞳が丸く見開かれた。
「何?どういうこと?」
「野菜屋……だよな……」
「そう、見えるんですけどねぇ」
首を傾げる面々を他所に、三蔵は思案を巡らせる。
名無子が嘘を吐いているようには思えないし、そうする理由もない。
となると名無子か、自分達四人のどちらかが幻覚を見ていることになる。
色も、匂いも、紛うことなき本物に思えるが、自身の感覚を過信するほど愚かでもなかった。
(名無子だけが幻覚を見ているというよりも、人でも妖怪でもない名無子だけがそれを免れていると考える方が自然、か…)
何にせよ―――
「幻術の類なんだろうが…一先ず街を抜けるぞ」
その言葉に四人は無言で頷くと、警戒網を広げたまま足を踏み出す。
そっと名無子の腰に悟浄の手が回されたことに気付いた八戒だったが、この時ばかりは仕方ないと黙認することにした。
「―――しっかし、どう見ても本物だよなぁ…」
「えぇ。まぁそうでないと幻術の意味がないですけど」
「うまそうな匂いまでしっかりするし……腹減るー……」
「三蔵、何かおかしなとことか、気付くことあります?」
「…いや。街の様子も空気も、特に違和感は感じられん」
「お。三蔵サマお墨付きの幻術使いたぁ、ちょっとは期待持てるんじゃねーの?」
「そんな期待しないでください悟浄。正直、結構厄介だと思いますよ?この状況」
「腹ぁ…減ったぁ……」
ただ一人、違う景色を見ているであろうその人を囲むように進む男達の足を止めたのは、
「いでッ!!」
街外れ、数歩先で屍の如き歩みを見せていた悟空の悲鳴だった。
頭を抱え蹲った悟空に皆が駆け寄る。
「どうしたんですか悟空」
「おい何があった!」
唸りつつ悟空が指さす先を辿るが、何があるでもない。
が、徐に八戒が手を伸ばすと、
「!?三蔵、これは…」
確かに感じる、何かしらの抵抗。
呼ばれた名の主もそれに続く。
「壁……結界だな」
何もない空間を拳で叩けば、コン、と小さな打撃音が響いた。
「いてて……何だよこれ……」
「ここが幻術の端っこってことか?」
額を擦りながら立ち上がった悟空、そして悟浄もその見えない壁を確認すると、徐に顔を見合わせた。
「―――おい悟空。壁に手を当てた状態で、どこまで続いてるか確認してこい」
「あぁ、うん。わかった」
三蔵の指示に素直に従い、宙に手を当て走り出した悟空を見送る。
三蔵は次に名無子の方を振り向くと
「触ってみろ」
くい、と、親指を指し向けた。
無言で頷き、名無子が手を伸ばす。
「―――あれ?」
声を上げたのは、見えない壁に肩を預け立っていた悟浄だった。
手を伸ばしたまま悟浄のいる場所よりも数歩先へ進んだ名無子に、悟浄と八戒が目を瞬かせる。
「これで決まりだな。幻術も結界も俺達を狙ったものだ。そしてこいつには効かんらしい」
平然と言って、三蔵は腰を下ろすと袂から煙草を取り出した。
「あー……つまり?」
「とりあえず現状としては、何者かの結界と幻術によって足止めされてる、ってことですね」
「あぁ。そうなるな」
「なんか前もありましたねぇ。こんなこと」
思い出すは何時ぞやのカミサマへの道程。
「??あったか?そんなの」
「悟浄は一人暴走していませんでしたからね」
「???―――てか、これからどうすんのよ」
「確か、術者か呪物を探す――でしたかね?」
視線で尋ねた八戒に、白煙越し、
「ああ」
と、短い一言が返ってくる。
すると、
「探して来ようか?」
悟浄に肩を抱かれた名無子が、荷物持ちでも申し出るかのような調子で言う。
しかしその提案は当然に
「駄目ですよ。貴女一人で行かせられるわけないじゃないですか」
「そうそう。お姫サマの居場所はナイトの隣って相場が決まってんのよ」
取り付く島もなく却下された。
それから暫く。
「おーい!みんなー」
遠くから聞こえた耳慣れた声は、予想と違わず悟空が向かった方向とは反対側から。
「やっぱり一周してましたね」
「で、どうすんだよ」
「面倒だが、仕方ねぇ」
煙草を地面で揉み消し、億劫そうに腰を上げた三蔵の元に悟空が駆け寄った。
「この壁、一周してるみたいだぜ?全然途切れねー」
「まぁ、そうだろうな」
「なんだよ、わかってたんなら行かなくて良かったじゃんか!」
「念のためだ」
頬を膨らませ座り込んだ悟空に、構うことなく
「悟空。服を脱げ」
言えば、丸い金目がぱちぱちと瞬いた。
「はぁ!?何で?」
「ほら悟空、前悟浄を探しにカミサマの屋敷に行った時…」
八戒に誘われ、巡った思考が想起させた記憶に悟空が声を跳ねさせる。
「げっ!!またあれやんのか!?」
「うるせぇ。さっさと脱げ」
有無を言わさぬ三蔵に、げんなりした表情で渋々とそれに従う。
その様子を、首を傾げ見守る名無子と悟浄。
「まぁ、見てればわかりますよ」
のほほんと笑みを浮かべ言う八戒に従って待つこと数十分―――
「ぶッ……はははっ!!なんだそりゃ!」
堪えきれず吹き出した悟浄が指さすその先には、経を纏った半裸の悟空が肩を震わせ立っていた。
「笑うな!俺だってやりたくねーんだよ!!」
地団駄踏まんばかりの膨れっ面で、笑い転げる悟浄を睨み付ける。
「さっさと探してこい。術者か、鏡やら呪物の類だ」
涼しい顔で指示を飛ばした三蔵は、一仕事終えた後の一服に取り掛かっていた。
すると、
「悟空、あっち」
名無子が一言、結界の向こうを彼方を指さす。
「何か、わかるんですか?」
「人――じゃない、多分妖怪がいる」
名無子の視線を辿るも、人影どころか何の遮蔽物も見当たらない。
が、
「あっちだな!行ってくる!」
何の疑問も呈すことなく走り出した悟空は、先程と違い何にも遮られることなく、姿を小さくして行った。
「―――とりあえず、結界は越えられたみたいですね」
「じゃ、後は待つのみ、だな」
見えない壁に背を預け、あぐらをかいた悟浄が欠伸を零しながら言う。
街の喧騒が僅かに聞こえてくる。
周囲に気を配りつつも、暫しの休息―――も、束の間だった。
ふと、名無子が顔を上げ立ち上がる。
三蔵達もまた、こちらに向かって歩いてくる敵の一団を視認していた。
「お、やっと敵さんのお出ましか?」
「―――待ってください。名無子、今見えてるものを教えてくれますか?」
何かがおかしい。これまでの情報から判断してそう感じた八戒が戦闘態勢を整えつつ尋ねる。
「妖怪。7…8人。正面から」
「8人だと?」
「どう見ても20人はくだら……あ」
漸く悟浄もその事に気が付いた。
「そうですね。恐らく僕達が見てる敵は幻覚でしょう」
名無子の目に映っているものと、自分達の目に映っているもの。
それが異なるということはつまり―――
「…なぁ、幻覚の攻撃って喰らわねーと思う?」
「さぁ、どうでしょうか。以前の賑やかな催眠術師さんの例もありますから…」
「虚実混在の同時攻撃というわけか。しかも実像は俺達には見えず、虚像からの攻撃も避けた方が無難、と」
忌々しそうに三蔵が総括し立ち上がる。
「この状況……ちょっとマズくね?」
悟浄の笑みから余裕の色が消えた。
「悟空が結界を破ってくれるまで遣り過ごすしかないですね…」
八戒が普段より強化したバリアを張ろうと気を練る最中、それが形を成すより早く
「っ!!」
八戒の前に立ち塞がり、名無子が両手を広げた。
視界に映る妖怪達からの攻撃ではない。
しかし、名無子の背中にじわり花弁を広げていく赤い花と、歪ませた口の端から零れた同じ色の液体が起こった事態を三人に知らしめた。
名無子が背を向けたまま、膝から崩れ落ちる。
その手が宙に伸び、空気を掻いた。
「名無子!!」
「ッッぐ…!!」
三蔵が足を踏み出した瞬間、何かに弾かれた悟浄がぶつかり、諸共に吹き飛ばされた。
目に見える攻撃をバリアで受け流し、八戒が名無子に駆け寄る。
「名無子!」
「だ…じょぶ…ッ…」
「喋らないで!」
名無子の腹部には、背に咲いた花よりも大きな赤が衣を染めている。
歯噛みした八戒の頬に、名無子の指が触れた。
「ごめ…後で、謝る……」
眉を顰めながらも笑みを繕った名無子が、八戒を支えに震える足で立ち上がった。
「名無子何を―――」
視線を前方に据えたまま、すぅ、と、名無子が息を吸い込む。
「八戒、一時方向上方にバリア!」
「っ!!」
放たれた名無子の指示を受け、八戒がバリアを展開する。
音もなく、衝撃だけが空気を伝う。
その間に、名無子はバリアを避け足を踏み出すと、左に身を躱し再び宙へと手を伸ばした。
同時並行して、三蔵が虚像と呼んだ目に見える敵からの波状攻撃は執拗に三人を襲ってくる。
個々の威力は大したものではなかったが、過多な情報を処理しながらの戦闘では目の前の刃を凌ぐだけで精一杯だった。
「名無子!!っっ―――クソッ…うざってぇ!!」
「っっ…チッ!!」
銃声と風切音が辺りに響く。
思うように距離を詰めることもできず苛立つ三人の視界で、急に名無子の身体が1m程宙に浮いて天を仰いだ。
苦しそうに喘いだ名無子がぎゅっと目を瞑り、何もない空間を右手で掴むと同時、その体は重力に従い地面に落下する。
その時―――
「三蔵悟浄!左に飛べ!!」
視界に飛び込んできた悟空の声に、二人が反射的に地を踏んだ。
「「「!!!」」」
大きく一薙ぎされた如意棒が大気を裂いた。
その隙間、崩れ落ちる一人の妖怪と更にその向こう、地に倒れた名無子に向かって振り下ろされつつある大斧を、三人は見逃さなかった。
すかさず三蔵が引き金を引く。
幻覚が再び靄のように大気を覆う間際、放たれた銃弾が大斧を持つ妖怪の額を貫通したのをその目が捉えた。
「お前ら伏せろ!!」
吠えた悟浄に身を屈めれば、三日月が風を切って幾重かの円を描く。
血飛沫を撒き散らした幻覚の奥に、確かな手応えがあった。
世界が滲み、背景となっている荒廃した街並みが見え隠れする。
三蔵は舌打ちを一つ、敢えて目を瞑り視覚を手放すと感覚を研ぎ澄ます。
辿った先は
「八戒!!俺の指差す方へ気功砲を撃て!」
何もない空の彼方。幻のその向こう。
即時是と応えた八戒は、ありったけを空へ放った。
轟く爆音。
霧が晴れるように、辺りの景色が色を変えた―――
「名無子!!」
力なく悟空の腕に抱かれる名無子の元へ三人が駆け寄る。
「……みんな、無事…?」
注がれた瞳を一巡り、血の滲む口元を上げた名無子に四人の表情が同じ色に染まる。
腹部の破れた布地の奥、既にほぼ塞がった傷跡を確かめた三蔵が辺りを見遣れば、足元に転がる妖怪達の屍。
その半数程には、傷の一つも見当たらなかった。
「……名無子。少し休め」
慎重に、その心音を悟られないよう紡いだ三蔵に名無子は微かな笑みを滲ませ頷くと、その意識を手放した。
固く握った拳。
悟浄の噛み締めた唇から血が滴る。
八戒はその肩にそっと手を置くと、辺りを見渡してから視線を三蔵へと送った。
「三蔵。とりあえず、ここを離れましょう」
「……あぁ。その前に幻術の源を確認してこい。悟空、悟浄。生き残りがいたら殺せ」
冷酷な声が言い放つ。
悟空が三蔵へと名無子を差し出すと無言で立ち上がった。
「行くぞ」
肩を拳で叩いた悟浄に、悟空が続く。
その背を見送り、八戒は頭を垂れ深く嘆息した。
「―――ジープ」
八戒が弱々しくも名を呼べば、白い翼が姿を変える。
「二人が戻り次第発ちましょう」
名無子を抱いたまま助手席に乗り込む三蔵に、八戒はそれ以上何も言わなかった。
「結局、あの幻覚は何だったんでしょう」
エンジン音だけが響く車上。
戻ってきた二人を乗せ、走り出したジープの上は重く沈んで。
自身を責めるような沈黙に耐えきれず、八戒が口を開いた。
「わかんね。誰もいなかったしそれらしいものもなかったけど、なんかでっかい貝が焼けてたぜ」
「貝?」
「そう。貝。焼き蛤。くっそうまそうだった」
悟空がこんなにも険しい顔で「うまそう」という言葉を使うなんて、と、八戒はその心中を察しながらも小さく苦笑した。
「大蛤……蜃か」
「??三蔵?」
ぼそりと呟いた三蔵に、八戒が問い掛ける。
「気を吐いて幻覚の楼閣を作り出すとされている。大方、悟空が倒してきた呪術師が術具として使ったんだろう」
「なるほど…しかし、今回はなかなか危なかったですね…」
「あぁ」
努めて平常を装う八戒の気遣いも虚しく、再びジープに沈黙が落ちる。
一様に重苦しい表情を浮かべる面々に、八戒は黙ってアクセルを踏み込んだ。
目を開け、傍らに添う温もりを虚ろに見上げた。
「おはよ…」
「……起きたならどけ」
一瞥の視線も寄越さず放たれた抑揚のない声が、名無子の背に静電気のような信号を走らせた。
名残を惜しむこともせず速やかに身を起こす。
「うん。ごめん」
続いて起き上がった三蔵が、
「自分の部屋に戻って出発の準備をしろ」
そう言ってベッドを降りる。
「うん」
洗面所へ足を向けた背中を気にしながら部屋を後にしようとしていた名無子を
「おい」
呼び止めた声に立ち止まった。
「―――俺をお師匠様の代わりにするんじゃねぇ」
言い残し、三蔵は洗面所へと姿を消した。
一度も交わることのなかった視線。
閉じられた扉は、拒絶の証。
「三蔵…」
呟いた名前は受け取り手のないまま、冷寂な空気に散っていった。
「なぁ名無子…大丈夫?」
朝日を背に走るジープの後部座席で、悟空が名無子に囁きかけた。
今朝、三蔵の顔を見た瞬間すぐに気付いた。これはやべぇやつだって。
長雨が続いて夜中に何度もうなされてたときみたいな、ぴりぴりした感じ。
煙草が切れたときとかの苛々してんのとは違う、もっと重い感じのやつ。
下手なこと言えばハリセンなんかすっ飛ばして、問答無用で銃弾飛んできそうな。
なんで?昨日、名無子と一緒に寝たんじゃねーの?
喧嘩でもしたのかと思って名無子にこっそり聞いてみたけど、
今と同じように困ったみたいに、少し寂しそうに笑うだけで何も答えない。
八戒も、悟浄も気付いてる。
でも俺が何か言おうとするとやめとけって黙って合図を送ってくるんだ。
ぱっと見普通にしてるけど、肝心なことには触れない。
なぁんか―――
「気持ち悪ぃ…」
雲ひとつない晴天を見上げながら、ぼそり、悟空が呟いた。
「あ?車酔いか?それとも朝飯食い足りなかったか」
「なんで食い足りなくて気持ち悪くなんだよ!!」
「大丈夫ですか悟空?車、停めます?」
「いやいーよ。別に車のせいでも飯のせいでもねーから…」
ふぅと息を吐き、隣を見遣る。
出会った頃なら気付かなかっただろう、無表情に掛かる陰り。
八戒も気になっているのだろう。走り始めてから幾度となくバックミラーを確認している。
悟浄は車に乗り込んですぐ、名無子の肩を抱き寄せたが続く軽口は封じられていた。
前方の助手席からは、いつも以上の頻度で煙が立ち上っている。
平常を装った焦れるような空気は風に流されることもなく、いつまでも車上に滞っていた。
太陽が天頂に達するよりも早くその視界に現れた街に、悟空が歓声を上げる。
「着いたー!思ったより早く着いたな」
「早速宿探すかぁ。腹も減ったし」
緊張感に満ちた空間から一刻も早く脱したいと、今にも駆け出さんばかりの悟空と悟浄。
その足を止めたのは、地図を見ながらはてと首を傾げた八戒の声だった。
「こんな所に街はないはずなんですが……目的の街は、まだ先ですし」
その言葉に三蔵が眉を上げ、辺りを見渡す。
特に何ということもない、こじんまりとしてはいるがありふれた街の風景、街の賑わい。
自分達以外の妖気も感じない。
「念のため、個人行動は極力慎め。何があるかわからんからな。とりあえず、さっさと宿を取れ」
「「イエッサー!」」
声を揃えた二人の横、怪訝そうな表情を浮かべた名無子に八戒が気が付いた。
「……どうかしましたしたか?名無子」
四対の視線が名無子に集まる。
暫しの沈黙。その答は、
「みんな、何を言ってるの?」
眉を潜めた銀の、予期せぬ問い返し。
「…どういうことですか?」
改めて八戒が問い直すが、
「街なんて、ないよ」
名無子の返答が更なる疑問を生んだ。
「……どういうことだ」
険相を濃くした三蔵が問を重ね、悟浄と悟空が顔を見合わせる。
「街…だったかも知れないけど、今は何もないよ?」
五人の頭上に舞い踊る疑問符。
過った可能性を逸早く捉えた八戒が手を挙げる。
「ちょっと皆さん、いいですか?『せーの』で、あれが何か言ってください」
指さした先、目を向けた四人が無言で頷く。
「じゃあいきますよ。せーの―――」
「「「「野菜屋「廃屋?」……」」」」
一人、全く異なる単語を紡いだ名無子に、集う瞳が丸く見開かれた。
「何?どういうこと?」
「野菜屋……だよな……」
「そう、見えるんですけどねぇ」
首を傾げる面々を他所に、三蔵は思案を巡らせる。
名無子が嘘を吐いているようには思えないし、そうする理由もない。
となると名無子か、自分達四人のどちらかが幻覚を見ていることになる。
色も、匂いも、紛うことなき本物に思えるが、自身の感覚を過信するほど愚かでもなかった。
(名無子だけが幻覚を見ているというよりも、人でも妖怪でもない名無子だけがそれを免れていると考える方が自然、か…)
何にせよ―――
「幻術の類なんだろうが…一先ず街を抜けるぞ」
その言葉に四人は無言で頷くと、警戒網を広げたまま足を踏み出す。
そっと名無子の腰に悟浄の手が回されたことに気付いた八戒だったが、この時ばかりは仕方ないと黙認することにした。
「―――しっかし、どう見ても本物だよなぁ…」
「えぇ。まぁそうでないと幻術の意味がないですけど」
「うまそうな匂いまでしっかりするし……腹減るー……」
「三蔵、何かおかしなとことか、気付くことあります?」
「…いや。街の様子も空気も、特に違和感は感じられん」
「お。三蔵サマお墨付きの幻術使いたぁ、ちょっとは期待持てるんじゃねーの?」
「そんな期待しないでください悟浄。正直、結構厄介だと思いますよ?この状況」
「腹ぁ…減ったぁ……」
ただ一人、違う景色を見ているであろうその人を囲むように進む男達の足を止めたのは、
「いでッ!!」
街外れ、数歩先で屍の如き歩みを見せていた悟空の悲鳴だった。
頭を抱え蹲った悟空に皆が駆け寄る。
「どうしたんですか悟空」
「おい何があった!」
唸りつつ悟空が指さす先を辿るが、何があるでもない。
が、徐に八戒が手を伸ばすと、
「!?三蔵、これは…」
確かに感じる、何かしらの抵抗。
呼ばれた名の主もそれに続く。
「壁……結界だな」
何もない空間を拳で叩けば、コン、と小さな打撃音が響いた。
「いてて……何だよこれ……」
「ここが幻術の端っこってことか?」
額を擦りながら立ち上がった悟空、そして悟浄もその見えない壁を確認すると、徐に顔を見合わせた。
「―――おい悟空。壁に手を当てた状態で、どこまで続いてるか確認してこい」
「あぁ、うん。わかった」
三蔵の指示に素直に従い、宙に手を当て走り出した悟空を見送る。
三蔵は次に名無子の方を振り向くと
「触ってみろ」
くい、と、親指を指し向けた。
無言で頷き、名無子が手を伸ばす。
「―――あれ?」
声を上げたのは、見えない壁に肩を預け立っていた悟浄だった。
手を伸ばしたまま悟浄のいる場所よりも数歩先へ進んだ名無子に、悟浄と八戒が目を瞬かせる。
「これで決まりだな。幻術も結界も俺達を狙ったものだ。そしてこいつには効かんらしい」
平然と言って、三蔵は腰を下ろすと袂から煙草を取り出した。
「あー……つまり?」
「とりあえず現状としては、何者かの結界と幻術によって足止めされてる、ってことですね」
「あぁ。そうなるな」
「なんか前もありましたねぇ。こんなこと」
思い出すは何時ぞやのカミサマへの道程。
「??あったか?そんなの」
「悟浄は一人暴走していませんでしたからね」
「???―――てか、これからどうすんのよ」
「確か、術者か呪物を探す――でしたかね?」
視線で尋ねた八戒に、白煙越し、
「ああ」
と、短い一言が返ってくる。
すると、
「探して来ようか?」
悟浄に肩を抱かれた名無子が、荷物持ちでも申し出るかのような調子で言う。
しかしその提案は当然に
「駄目ですよ。貴女一人で行かせられるわけないじゃないですか」
「そうそう。お姫サマの居場所はナイトの隣って相場が決まってんのよ」
取り付く島もなく却下された。
それから暫く。
「おーい!みんなー」
遠くから聞こえた耳慣れた声は、予想と違わず悟空が向かった方向とは反対側から。
「やっぱり一周してましたね」
「で、どうすんだよ」
「面倒だが、仕方ねぇ」
煙草を地面で揉み消し、億劫そうに腰を上げた三蔵の元に悟空が駆け寄った。
「この壁、一周してるみたいだぜ?全然途切れねー」
「まぁ、そうだろうな」
「なんだよ、わかってたんなら行かなくて良かったじゃんか!」
「念のためだ」
頬を膨らませ座り込んだ悟空に、構うことなく
「悟空。服を脱げ」
言えば、丸い金目がぱちぱちと瞬いた。
「はぁ!?何で?」
「ほら悟空、前悟浄を探しにカミサマの屋敷に行った時…」
八戒に誘われ、巡った思考が想起させた記憶に悟空が声を跳ねさせる。
「げっ!!またあれやんのか!?」
「うるせぇ。さっさと脱げ」
有無を言わさぬ三蔵に、げんなりした表情で渋々とそれに従う。
その様子を、首を傾げ見守る名無子と悟浄。
「まぁ、見てればわかりますよ」
のほほんと笑みを浮かべ言う八戒に従って待つこと数十分―――
「ぶッ……はははっ!!なんだそりゃ!」
堪えきれず吹き出した悟浄が指さすその先には、経を纏った半裸の悟空が肩を震わせ立っていた。
「笑うな!俺だってやりたくねーんだよ!!」
地団駄踏まんばかりの膨れっ面で、笑い転げる悟浄を睨み付ける。
「さっさと探してこい。術者か、鏡やら呪物の類だ」
涼しい顔で指示を飛ばした三蔵は、一仕事終えた後の一服に取り掛かっていた。
すると、
「悟空、あっち」
名無子が一言、結界の向こうを彼方を指さす。
「何か、わかるんですか?」
「人――じゃない、多分妖怪がいる」
名無子の視線を辿るも、人影どころか何の遮蔽物も見当たらない。
が、
「あっちだな!行ってくる!」
何の疑問も呈すことなく走り出した悟空は、先程と違い何にも遮られることなく、姿を小さくして行った。
「―――とりあえず、結界は越えられたみたいですね」
「じゃ、後は待つのみ、だな」
見えない壁に背を預け、あぐらをかいた悟浄が欠伸を零しながら言う。
街の喧騒が僅かに聞こえてくる。
周囲に気を配りつつも、暫しの休息―――も、束の間だった。
ふと、名無子が顔を上げ立ち上がる。
三蔵達もまた、こちらに向かって歩いてくる敵の一団を視認していた。
「お、やっと敵さんのお出ましか?」
「―――待ってください。名無子、今見えてるものを教えてくれますか?」
何かがおかしい。これまでの情報から判断してそう感じた八戒が戦闘態勢を整えつつ尋ねる。
「妖怪。7…8人。正面から」
「8人だと?」
「どう見ても20人はくだら……あ」
漸く悟浄もその事に気が付いた。
「そうですね。恐らく僕達が見てる敵は幻覚でしょう」
名無子の目に映っているものと、自分達の目に映っているもの。
それが異なるということはつまり―――
「…なぁ、幻覚の攻撃って喰らわねーと思う?」
「さぁ、どうでしょうか。以前の賑やかな催眠術師さんの例もありますから…」
「虚実混在の同時攻撃というわけか。しかも実像は俺達には見えず、虚像からの攻撃も避けた方が無難、と」
忌々しそうに三蔵が総括し立ち上がる。
「この状況……ちょっとマズくね?」
悟浄の笑みから余裕の色が消えた。
「悟空が結界を破ってくれるまで遣り過ごすしかないですね…」
八戒が普段より強化したバリアを張ろうと気を練る最中、それが形を成すより早く
「っ!!」
八戒の前に立ち塞がり、名無子が両手を広げた。
視界に映る妖怪達からの攻撃ではない。
しかし、名無子の背中にじわり花弁を広げていく赤い花と、歪ませた口の端から零れた同じ色の液体が起こった事態を三人に知らしめた。
名無子が背を向けたまま、膝から崩れ落ちる。
その手が宙に伸び、空気を掻いた。
「名無子!!」
「ッッぐ…!!」
三蔵が足を踏み出した瞬間、何かに弾かれた悟浄がぶつかり、諸共に吹き飛ばされた。
目に見える攻撃をバリアで受け流し、八戒が名無子に駆け寄る。
「名無子!」
「だ…じょぶ…ッ…」
「喋らないで!」
名無子の腹部には、背に咲いた花よりも大きな赤が衣を染めている。
歯噛みした八戒の頬に、名無子の指が触れた。
「ごめ…後で、謝る……」
眉を顰めながらも笑みを繕った名無子が、八戒を支えに震える足で立ち上がった。
「名無子何を―――」
視線を前方に据えたまま、すぅ、と、名無子が息を吸い込む。
「八戒、一時方向上方にバリア!」
「っ!!」
放たれた名無子の指示を受け、八戒がバリアを展開する。
音もなく、衝撃だけが空気を伝う。
その間に、名無子はバリアを避け足を踏み出すと、左に身を躱し再び宙へと手を伸ばした。
同時並行して、三蔵が虚像と呼んだ目に見える敵からの波状攻撃は執拗に三人を襲ってくる。
個々の威力は大したものではなかったが、過多な情報を処理しながらの戦闘では目の前の刃を凌ぐだけで精一杯だった。
「名無子!!っっ―――クソッ…うざってぇ!!」
「っっ…チッ!!」
銃声と風切音が辺りに響く。
思うように距離を詰めることもできず苛立つ三人の視界で、急に名無子の身体が1m程宙に浮いて天を仰いだ。
苦しそうに喘いだ名無子がぎゅっと目を瞑り、何もない空間を右手で掴むと同時、その体は重力に従い地面に落下する。
その時―――
「三蔵悟浄!左に飛べ!!」
視界に飛び込んできた悟空の声に、二人が反射的に地を踏んだ。
「「「!!!」」」
大きく一薙ぎされた如意棒が大気を裂いた。
その隙間、崩れ落ちる一人の妖怪と更にその向こう、地に倒れた名無子に向かって振り下ろされつつある大斧を、三人は見逃さなかった。
すかさず三蔵が引き金を引く。
幻覚が再び靄のように大気を覆う間際、放たれた銃弾が大斧を持つ妖怪の額を貫通したのをその目が捉えた。
「お前ら伏せろ!!」
吠えた悟浄に身を屈めれば、三日月が風を切って幾重かの円を描く。
血飛沫を撒き散らした幻覚の奥に、確かな手応えがあった。
世界が滲み、背景となっている荒廃した街並みが見え隠れする。
三蔵は舌打ちを一つ、敢えて目を瞑り視覚を手放すと感覚を研ぎ澄ます。
辿った先は
「八戒!!俺の指差す方へ気功砲を撃て!」
何もない空の彼方。幻のその向こう。
即時是と応えた八戒は、ありったけを空へ放った。
轟く爆音。
霧が晴れるように、辺りの景色が色を変えた―――
「名無子!!」
力なく悟空の腕に抱かれる名無子の元へ三人が駆け寄る。
「……みんな、無事…?」
注がれた瞳を一巡り、血の滲む口元を上げた名無子に四人の表情が同じ色に染まる。
腹部の破れた布地の奥、既にほぼ塞がった傷跡を確かめた三蔵が辺りを見遣れば、足元に転がる妖怪達の屍。
その半数程には、傷の一つも見当たらなかった。
「……名無子。少し休め」
慎重に、その心音を悟られないよう紡いだ三蔵に名無子は微かな笑みを滲ませ頷くと、その意識を手放した。
固く握った拳。
悟浄の噛み締めた唇から血が滴る。
八戒はその肩にそっと手を置くと、辺りを見渡してから視線を三蔵へと送った。
「三蔵。とりあえず、ここを離れましょう」
「……あぁ。その前に幻術の源を確認してこい。悟空、悟浄。生き残りがいたら殺せ」
冷酷な声が言い放つ。
悟空が三蔵へと名無子を差し出すと無言で立ち上がった。
「行くぞ」
肩を拳で叩いた悟浄に、悟空が続く。
その背を見送り、八戒は頭を垂れ深く嘆息した。
「―――ジープ」
八戒が弱々しくも名を呼べば、白い翼が姿を変える。
「二人が戻り次第発ちましょう」
名無子を抱いたまま助手席に乗り込む三蔵に、八戒はそれ以上何も言わなかった。
「結局、あの幻覚は何だったんでしょう」
エンジン音だけが響く車上。
戻ってきた二人を乗せ、走り出したジープの上は重く沈んで。
自身を責めるような沈黙に耐えきれず、八戒が口を開いた。
「わかんね。誰もいなかったしそれらしいものもなかったけど、なんかでっかい貝が焼けてたぜ」
「貝?」
「そう。貝。焼き蛤。くっそうまそうだった」
悟空がこんなにも険しい顔で「うまそう」という言葉を使うなんて、と、八戒はその心中を察しながらも小さく苦笑した。
「大蛤……蜃か」
「??三蔵?」
ぼそりと呟いた三蔵に、八戒が問い掛ける。
「気を吐いて幻覚の楼閣を作り出すとされている。大方、悟空が倒してきた呪術師が術具として使ったんだろう」
「なるほど…しかし、今回はなかなか危なかったですね…」
「あぁ」
努めて平常を装う八戒の気遣いも虚しく、再びジープに沈黙が落ちる。
一様に重苦しい表情を浮かべる面々に、八戒は黙ってアクセルを踏み込んだ。