第一章
貴女のお名前は?
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「レディに重い荷物持たせるなんて男が廃るってもんよ」
得意げに名無子の申し出を固辞し、八戒から渡された買い物メモと買い物袋を手に二軒目の店を出た頃には、街は雨上がりの清々しい空気に満ちていた。
足元でテンポの違う水音を奏でながら二人並んで街を歩く。
が、軽やかだった足取りは始めだけ。
「あの野郎…ぜってーわざとだろ…」
いつの間にか、普段より明らかに多めの調達物資に両手を塞がれた悟浄が、見え隠れする思惑に毒吐いた。
「これじゃ手も繋げねぇじゃねーか」
ぼやく悟浄を隣から名無子が見上げる。
「手、繋ぎたかったの?」
「そりゃ…もちろん?」
笑みを引いて答えれば
「ん」
差し出された両手。
「荷物、片方持つよ」
「いや、でも…」
渋る悟浄に、
「私も騎士様にお礼したいし、役に立ちたい。だめ?」
小首を傾げ名無子が尋ねる。
そのあどけなくも凛と澄んだ眼差しに思わず足が止まる。
「どこでそんな殺し文句覚えてきたのよ…」
苦笑いを浮かべ、
「んじゃ、お言葉に甘えて」
嵩の割に軽い袋を一つ手渡した。
「うん。任せて」
満足そうに頷いた微笑がそれを受け取る。
袋を右手に抱え、左手で悟浄の空いた右手を、掌を重ね握った。
(そういや女と手繋ぐって久し振りだな…)
何の気無しの軽口。そのはずだった。
長安にいた頃も道往の街でも、女には苦労しなかったし適当に口説けば女の方から勝手に腕を絡ませてくる。
その先にある一時の快楽を目的とした道程で、そこに心の底から一喜一憂することなどなかったはずなのに。
掌から伝わる熱が緩やかに全身を巡り、心を騒がせる。
荷物のせいで重かった歩みも、気付けば羽が生えたようだった。
(割と重症じゃね?これ…)
悟浄は口の端に自嘲を滲ませると、繋いだ手を一瞬離し、指を絡ませ握り直した。
右隣から見上げてくる名無子と視線がかち合い、ふわり微笑だけが返ってくる。
不意に脳裏を過った感覚に、悟浄は口を開いた。
「あのさ、名無子ちゃん」
「??何?」
「俺ら、どっかで会ったことある?」
その言葉に、
「……ナンパ?」
少し間を置いて名無子が返した。
なぞなぞに悩んで答える子供のような、少しだけ怪訝な顔に思わず吹き出す。
「っふ……そーなるよなぁ」
出会ったときから時々顔を出す、どこか懐かしいような妙な感覚が爪先で胸を引っ掻く。
が、そんなはずはないと、いつものように早々に打ち消した。
「そういうつもりじゃなかったんだけど……ちょっと休憩してお茶しない?」
「やっぱりナンパ…」
笑い合いながら近くの飲食店へと足を向けた。
「なァんだそういうことか!」
漸く聞き出せた名無子の服の真相に、悟浄が安堵に声を弾ませた。
―――店に入り腰を落ち着けてからすぐ、そう言えばと思い出した風を装い、
朝、着ていたのとは違う名無子の白い衣から話題に上げ、
「三蔵のは返してきたよ」
の言葉から、濡れたと言っていた紫の衣の話へ、
「うん。未だ乾ききってなかったからこれ着てきた。ニ着買っといて良かった」
そして、疑惑の核心へと。
「ん?何でって……雨で?」
遠回りを経ての答えは、邪心に囚われていた悟浄にとっては余りにも単純で拍子抜けするものだった。
「何だと思ってたの??」
「ははっ…いや、そうだと思ってたぜ?風邪引くといけないから次からは傘差そうなー」
訝る名無子の視線から逃げるように
「さて、とりあえず一通り買い物は済んだか…」
煙草片手に買い物リストへ目を走らせ話題を変える。
「あと煙草とお酒だって」
名無子がコーヒーを啜りながら付け足した。
「……三蔵か?」
「うん」
「あの野郎、名無子ちゃんパシリに使うたぁいい度胸だ…」
「でも悟浄もいるでしょ?」
「……まぁ。つか、名無子は買いたい物ねーの?」
二人きりの時間に、話題ですら邪魔をされたくないと再びの方向転換を図る。
「ないよ?」
即答に、言うと思った、と。
「欲しいものも必要なものも特にないし、荷物は少ない方が良いでしょう?」
「そりゃ尤もなんだが……」
(男としちゃ、お強請りの一つくらい叶えてやりたいっつーか…)
少しの寂しさともどかしさを抱える悟浄の目に飛び込んで来たのは、窓の向こう、通りを挟んだ店の前。
「―――名無子ちゃん」
「何?」
「3分だけ、一人で待っててくれる?」
「うん、わかった」
ぽんと名無子の頭に掌を落とし、早足に店を出ていく悟浄の後ろ姿を名無子が見送る。
そして、丁度3分後―――
「お待たせ。イイ子にしてた?」
「うん。そんなに急がなくても、ゆっくりしてくれば良かったのに」
窓越し、向かいの店からダッシュで戻ってきた悟浄を見ていた名無子が苦笑で出迎えた。
「この俺が約束破ってイイ女を待たせるなんて真似するわけないっしょ―――はい、これ。あげる」
軽口を叩きながら息を整え、差し出した正方形の紙袋。
名無子がそれを開けると
「……スカーフ?」
真紅の絹布に、銀糸で花の刺繍があしらわれたスカーフだった。
「デートのお礼。それなら嵩張らないし、そのシンプルな服でも差し色に丁度いいっしょ?」
「この色…」
「ん?勿論、俺"は"わかっててやってる」
不敵な笑みを唇に乗せて言った悟浄に苦笑する。
焔のような鮮やかな真紅の一角、刺繍で描かれた放射状の花弁を指でなぞり、小さく呟いた。
「紫苑…」
「…シオン?」
耳慣れない音を繰り返すも答えはなく、代わりに、名無子はそのスカーフを首に巻くと
「似合う?」
照れたように笑って尋ねた。
「すっっっ……げー良く似合ってる。ヤベぇ」
少々華美過ぎるかとも思ったが、真白な雪のような肌と銀色の髪に合わせれば思った通り真紅が差し色となってその美しさを際立たせる。
言葉に力が籠もる悟浄にありがとうと笑う頬が赤いのはスカーフの反射のせいだろうか。
「―――名無子ちゃんさ、この色の意味、聞いた?」
自身の髪を一房指に絡め尋ねる。
「ううん。何も」
「真紅の髪と瞳って、妖怪と人間のハーフ……禁忌の子の証なのよ」
そう告げた悟浄を銀灰の瞳が見詰める。
そこには驚愕の色も、憐憫の色もなく、悟浄は僅かに張り詰めていた緊張の糸が緩むのを感じていた。
「悟浄はその色、嫌い?」
その問い掛けに
「んにゃ。まぁ昔は思うところがなかったわけじゃねーけど、今は特に何とも。名無子ちゃんも綺麗だって言ってくれたしな」
紫煙を揺らし笑みを滲ませながら答える。
「なら良かった。―――私は好きだよ」
その単語に、違うとわかっていても心臓が跳ねた。
「綺麗で、強くて、あったかくて、悟浄と同じ色」
目を細め、愛おしそうに名無子が微笑む。
(あ、やべ……)
俄に目頭が熱を帯び、悟浄はその衝動を堪えるべく煙草を深く吸い込んだ。
そして手を伸ばし、名無子の頭を撫で回す。
「さんきゅな。名無子ちゃん」
「んーん。こちらこそありがとう。大事にするね」
嬉しそうにスカーフに触れ笑う名無子を前に、確信へと変わった想いが悟浄の胸を激しく打ち鳴らしていた。
その夜、八戒は明日の出立に備え部屋で荷物の整理に勤しんでいた。
若干の当て付けで悟浄に大量の買い出しを任せた結果、思いの外荷物が膨らんでしまったのだ。
このままでは座席が埋まり、悟浄が名無子を膝に乗せるとか言い出しかねないと、整頓術を駆使して嵩を減らしていく。
「悟空、貴方も明日の準備してくださいね」
「はーい。後でやるー」
床に座りジープと戯れている悟空がこちらを見るでもなく声だけを返した。
ちらり、隣室へと視線を走らせる。
少し前、部屋に現れた悟浄は大量の荷物を八戒に押し付けると、
「ほらよ。ったく、ここぞとばかりこき使いやがって」
「おかえりなさい悟浄。夕食は?」
「外で済ませてきた。部屋で飲み直すわ。んじゃな」
「あ、悟浄!名無子は?」
「俺と一緒。心配いらねーから邪魔すんなよ」
にやりと口の端を上げ、手を振って早々に部屋を出て行った。
(二人だけで部屋飲みとか…心配するなって言う方が無理でしょう…)
せめて何かあればすぐ駆けつけられるようにと、手は動かしつつも耳を済ましていた。
「……ん??」
ふと悟空が顔を上げた。
「なんか今…」
「…!!隣ですか!?」
悟空の視線を辿り八戒が勢い良く立ち上がったその時―――
「 ――っかい……八戒!!ヘルプ!! 」
壁越しに八戒の耳にも届いたその悲鳴は名無子のものではなかった。
三蔵が乗り込んででも来たのだろうか。
切迫した救援要請に一転、気乗りしないながらも渋々隣室へ向かった。
「一体何事です―――か……」
扉を開いた八戒は、目の前に広がる光景に言葉を失い立ち竦むしかなかった。
「どったの??―――うおっ!?」
その背後から部屋を覗き込んだ悟空が喫驚の声を上げる。
そこには、ベッドの上、悟浄に撓垂れ、その首元に抱きついて頬を寄せる名無子と、
「助けて…頼む……」
情けない声で零しながら笑みを引き攣らせ、両手を高く上げた悟浄の姿があった。
切欠は数刻前に遡る―――
悟浄と名無子は少し早めの夕食の席に着いていた。
「お。名無子ちゃん、意外とイケる口?」
初めて酒を口にした名無子の「美味しい」の一言に始まる。
仄かに朱を帯びた頬。しかし二杯三杯と進んでもそれ以上の変化は見られない。
その様子に、ならば、と。
「部屋で飲み直そうか」
「うん」
そうして二人、部屋へと戻ってきた。
あわよくば―――そう思わなかったと言えば嘘になる。
どうやらそこそこの大酒家らしき名無子に、まともに付き合えばこちらも潰れかねないと判断。早々にペース調整をかける。
慎重に、予期せぬ酒客に付き合っていった。
やがて、ふわりふわり。名無子の焦点がぼやけていく。
歪みそうになる口元をグラスで隠し、喉を鳴らした。
「―――名無子ちゃん、おいで」
ベッドの上、壁に背を預け手招く。
「う?」
グラスを置き、ベッドへと歩み寄る名無子。
四つん這いでベッドの上を移動してくる姿に唇を舐める。
と―――
「なーにごじょー」
「っ!!??」
自ら胸に飛び込んできた獲物に思わず狼狽えた。
首に腕を回し、見上げ来る瞳。
「ごじょー、すきー」
見慣れない蕩けた笑みと、甘く響く声。
アルコールの香りと相まって、仄かに香る熟しきった果実のような得も言われぬ香りが理性を揺さ振り、心臓が弾けんばかりの鼓動を脳に響かせる。
「名無子―――」
顎を掬い、潤んだ銀月の引力に惹き寄せられるように顔を近付け―――
「ッッッ…違ぇ!!」
その吐息が触れ合った瞬間、悟浄の中で衝迫とは別の何かがその動きを止めさせた。
「あ゛ぁぁー……違う、そうじゃねぇ……」
「……ごじょ?」
顔を伏せ苦悶に打ち震える悟浄を、名無子が心配そうに見詰める。
その瞳を直視することすらできず、ぎゅっと目を瞑り両手を勢い良く上げると
「っっっ―――八戒……八戒!!ヘルプ!!」
声を張り上げ、隣室へと助けを求めた。
―――そして今に至る訳だが、
「あ。みんな来た」
ふやけた笑みが八戒と悟空を捉えた。
ベッドから降りるとややふらつく足取りで八戒の元へ。
その背後で悟浄が大きく息を吐き零した。
「はっかいー」
「名無子、貴女―――!?」
立ち止まることなく体当たりの勢いで八戒に抱きついた。
「はっかいもすきー」
「いや僕も好きですけど……何事ですかこれ…」
頬を擦り寄せてくる名無子をどさくさで抱き締め、頭を撫でてやりながら悟浄へ困惑の眼差しを向ける。
が、当の悟浄は
「あ゛ー……」
立てた両膝の間に項垂れたまま悲鳴とも咆哮ともつかない声を上げるばかりで。
腕の中、名無子がもぞりと身を捩った。
八戒の腕から抜け出すと、面食らったままの悟空の元へ。
そして、
「ごくーもすきー」
再びの、ぎゅう。
「おっ、おう!!??」
狼狽し最早立像のようになっている悟空が目を白黒させながらもなすが侭にされている。
それを横目に、八戒が呆れ顔を悟浄に向けた。
「悟浄、貴方どれだけ飲ませたんですか…」
「とりあえず俺の忍耐力を褒め称えてくれ…」
「それは…まぁ……」
ちらり、視線を落とせば、名無子が喜色満面で悟空に抱きつき、桜色の頬を寄せている。
「酔うとこうなるとは…」
「名無子っ、そ、そろそろ、離れね?」
赤面が、名無子と八戒に視線を行き来させながら訴える。
その声に応じてか、名無子がぱっと顔を上げた。
「あと、さんぞー…」
焦点の合わない瞳でぽつり呟くと、悟空の脇をすり抜け部屋の外へ駆けていった。
「!?これはまさか!」
「っっ!それは見たいような見たくないような!!?」
「悟浄、意外と復活早かったですね」
「いや今は兎に角何でも良いから気を紛らわしたい」
「おもしろそー!俺も見に行こ!」
怖いもの見たさで後を追う三人。
「 おい!!なんだ一体!! 」
斜め向かいの部屋から聞こえてきた声に足を早めた。
夕食後、一人部屋に戻ってきた三蔵は真っ直ぐ風呂へと向かった。
シャワーを浴び終え、静寂に紫煙を燻らせる。
無意識に走る視線は、部屋の入り口と時計を何度となく行き来していた。
脳裏に過る人影を追い遣ろうとするかのように煙を吐き出しては煙草を灰皿に押し付ける。
電気を消し、いつもより遅く、舌打ち一つ零してベッドへと向かった。
普段ならば待つまでもないはずの睡魔が、今日に限って一向にやって来ない。
やがて諦め上体を起こした時、扉の向こうから悟浄の声が聞こえた。
(今戻ったのか…)
当然のように彼の人へ思いを馳せた自分に気付くと、小さく息を吐いた。
それから暫くして、待ち人は現れた。
しかしどこか様子がおかしい。
ノックもなく開かれたドアからつかつかと部屋の中に入ってきた名無子は、そのまま勢い任せに三蔵の胸へと身を投げ出した。
「さんぞーだいすきー」
「っっ!?」
よじ登るようにして顔を近付け、首元に頬を擦り寄せてくる。
「おい!!なんだ一体!!」
肌を擽る吐息と共に、微かにアルコールの香りが鼻に届いた。
「お前……酔ってんのか…」
「よってないです」
即答するも、イントネーションが迷子になっている。
三蔵が深々と溜息を吐いていると、部屋の明かりが灯った。
眉を顰め、扉の方を睨み付ける。
「あー、やっぱり」
「でも意外と落ち着いてますね」
「クッッソ!やっぱ助けなんて呼ぶんじゃなかった!」
「お前ら……」
静穏を裂いてやってきた喧しの面々に米神がひくつく。
その間も懐では体を預けた名無子がうにゃうにゃと何やら呟いている。
「はぁ……おい、誰かこいつを自分の部屋に連れて行け」
苛立ちを抑え言うが、返ってくる声はない。
もう一度。
「……おい」
「―――三蔵」
答える代わり、無闇に爽やかな笑みが名を呼んだ。
「あ?何だ」
「最高僧の自制心を信じてますよ」
「はぁっ!?」
「この俺が耐えたんだ。手出したらマジぶっ殺すからな」
「何の話だ!」
「頑張れーさんぞー」
「ちょ…おい!!待―――」
電気が消え、ばたん。
半端な言の葉が閉じた扉にぶつかって落ちた。
「……さんぞ?」
呆気に取られ固まる三蔵の胸元から声がする。
視線を落とせば、一瞬で苛立ちと怒りは霧散した。
水面に映る銀月のように光を揺らす瞳。
首元を彩る赤いスカーフに近しい色に染まった肌が、月明かりに照らされ妙に艶めかしい。
「ッッ…!」
扇情的なその姿に息を呑む。
自身の腕は理性を嘲笑うようにいつの間にか名無子に回されていた。
天井を見上げ、目を閉じる。
深く、限界まで息を吸い込み、吐き出す。
幾度か繰り返す間、名無子は黙って三蔵の胸に身を寄せていた。
「っっ―――はぁ……」
暫くして漸く平常を取り戻した心音。三蔵が地響きのような嘆声を降らせた。
「……どんだけ飲んだんだ」
「えっと…いっぱい」
「…だろうな」
「さんぞーも飲んだ?」
「飲んでねぇ。お前が買って来なかったんだろうが」
「買ってきたよ?たぶんー…はっかいのとこ」
「………あいつ…」
八戒が、名無子が悟浄と部屋飲みしている事実を三蔵に知らせることを憚った結果なのだが、三蔵は知る由もない。
「ちゃんとね、味見して、おいしーの買ったよ」
「…そうか」
「明日、一緒にのもーね」
「……お前はもう酒禁止だ」
「えー…うぅん……はい…」
不満げに呻って、しかし最後には是と答える名無子に、三蔵は微笑を滲ませた。
名無子の両肩に手を掛け、身体を起こす。
「……どけ」
しゅんと萎れた眉が、無言で従う。
三蔵は身体を仰向けに横たえると布団を捲り、
「さっさと寝ろ」
素っ気なく言った。
一瞬、丸く見開かれた満月は弧を描き繊月へと変わり、心底幸せそうな笑みを満面に咲かせた。
「うん」
布団に潜り込み、三蔵の方を向いて寄り添う。
熱を持つ左腕がどうにも落ち着かなかった三蔵は、少し思案し、
「―――頭、上げろ」
「ん」
その腕を広げ、名無子の首の下へと伸ばした。
腕一本分の隙間を埋めるように名無子が身体を寄せてくる。
昨日よりも熱く感じるのは酒のせいだろうか。
「さんぞー」
「…なんだ」
「だいすきー」
「……黙って寝やがれ」
ぽん、とその頭を軽く叩けば、嬉しそうに笑った吐息が三蔵の首筋を擽った。
幾許もなく、その吐息が柔らかな寝息へと変わる。
しかし三蔵は、
(………寝れやしねぇ……)
眉を顰め、天井を睨め付けていた。
現状も、自身の感情も、意図的に考えないようにしていた。
考え始めれば思いは尽きないことを知っていたし、そこに答えを見出す覚悟もない。
ならば、そんな事に心を煩わされるより、錯覚だろうと仮初めだろうと、今この瞬間の心地良さに身を委ねていたかった。
しかし、そんな刹那主義的な思いを許さないのもまた、目を背けている自身の感情だった。
「さん…ぞ……」
ふと腕の中、微かな呟きが聞こえた。
自然と上がる口の端。
そっと髪を撫でていた手は
「もう……離れない……今度こそ…」
肩に伝った冷たい雫と言葉によってその動きを止めた。
師に向けられただろう言葉が深く、深く突き刺さり、
その傷口から封じていたはずの感情が黒く染まって溢れ出していく。
噛み締めた奥歯が軋み、小さく音を立てた。
鋭利な感情の鋒は向かう宛もなく、夜の虚空をただ彷徨っていた。
得意げに名無子の申し出を固辞し、八戒から渡された買い物メモと買い物袋を手に二軒目の店を出た頃には、街は雨上がりの清々しい空気に満ちていた。
足元でテンポの違う水音を奏でながら二人並んで街を歩く。
が、軽やかだった足取りは始めだけ。
「あの野郎…ぜってーわざとだろ…」
いつの間にか、普段より明らかに多めの調達物資に両手を塞がれた悟浄が、見え隠れする思惑に毒吐いた。
「これじゃ手も繋げねぇじゃねーか」
ぼやく悟浄を隣から名無子が見上げる。
「手、繋ぎたかったの?」
「そりゃ…もちろん?」
笑みを引いて答えれば
「ん」
差し出された両手。
「荷物、片方持つよ」
「いや、でも…」
渋る悟浄に、
「私も騎士様にお礼したいし、役に立ちたい。だめ?」
小首を傾げ名無子が尋ねる。
そのあどけなくも凛と澄んだ眼差しに思わず足が止まる。
「どこでそんな殺し文句覚えてきたのよ…」
苦笑いを浮かべ、
「んじゃ、お言葉に甘えて」
嵩の割に軽い袋を一つ手渡した。
「うん。任せて」
満足そうに頷いた微笑がそれを受け取る。
袋を右手に抱え、左手で悟浄の空いた右手を、掌を重ね握った。
(そういや女と手繋ぐって久し振りだな…)
何の気無しの軽口。そのはずだった。
長安にいた頃も道往の街でも、女には苦労しなかったし適当に口説けば女の方から勝手に腕を絡ませてくる。
その先にある一時の快楽を目的とした道程で、そこに心の底から一喜一憂することなどなかったはずなのに。
掌から伝わる熱が緩やかに全身を巡り、心を騒がせる。
荷物のせいで重かった歩みも、気付けば羽が生えたようだった。
(割と重症じゃね?これ…)
悟浄は口の端に自嘲を滲ませると、繋いだ手を一瞬離し、指を絡ませ握り直した。
右隣から見上げてくる名無子と視線がかち合い、ふわり微笑だけが返ってくる。
不意に脳裏を過った感覚に、悟浄は口を開いた。
「あのさ、名無子ちゃん」
「??何?」
「俺ら、どっかで会ったことある?」
その言葉に、
「……ナンパ?」
少し間を置いて名無子が返した。
なぞなぞに悩んで答える子供のような、少しだけ怪訝な顔に思わず吹き出す。
「っふ……そーなるよなぁ」
出会ったときから時々顔を出す、どこか懐かしいような妙な感覚が爪先で胸を引っ掻く。
が、そんなはずはないと、いつものように早々に打ち消した。
「そういうつもりじゃなかったんだけど……ちょっと休憩してお茶しない?」
「やっぱりナンパ…」
笑い合いながら近くの飲食店へと足を向けた。
「なァんだそういうことか!」
漸く聞き出せた名無子の服の真相に、悟浄が安堵に声を弾ませた。
―――店に入り腰を落ち着けてからすぐ、そう言えばと思い出した風を装い、
朝、着ていたのとは違う名無子の白い衣から話題に上げ、
「三蔵のは返してきたよ」
の言葉から、濡れたと言っていた紫の衣の話へ、
「うん。未だ乾ききってなかったからこれ着てきた。ニ着買っといて良かった」
そして、疑惑の核心へと。
「ん?何でって……雨で?」
遠回りを経ての答えは、邪心に囚われていた悟浄にとっては余りにも単純で拍子抜けするものだった。
「何だと思ってたの??」
「ははっ…いや、そうだと思ってたぜ?風邪引くといけないから次からは傘差そうなー」
訝る名無子の視線から逃げるように
「さて、とりあえず一通り買い物は済んだか…」
煙草片手に買い物リストへ目を走らせ話題を変える。
「あと煙草とお酒だって」
名無子がコーヒーを啜りながら付け足した。
「……三蔵か?」
「うん」
「あの野郎、名無子ちゃんパシリに使うたぁいい度胸だ…」
「でも悟浄もいるでしょ?」
「……まぁ。つか、名無子は買いたい物ねーの?」
二人きりの時間に、話題ですら邪魔をされたくないと再びの方向転換を図る。
「ないよ?」
即答に、言うと思った、と。
「欲しいものも必要なものも特にないし、荷物は少ない方が良いでしょう?」
「そりゃ尤もなんだが……」
(男としちゃ、お強請りの一つくらい叶えてやりたいっつーか…)
少しの寂しさともどかしさを抱える悟浄の目に飛び込んで来たのは、窓の向こう、通りを挟んだ店の前。
「―――名無子ちゃん」
「何?」
「3分だけ、一人で待っててくれる?」
「うん、わかった」
ぽんと名無子の頭に掌を落とし、早足に店を出ていく悟浄の後ろ姿を名無子が見送る。
そして、丁度3分後―――
「お待たせ。イイ子にしてた?」
「うん。そんなに急がなくても、ゆっくりしてくれば良かったのに」
窓越し、向かいの店からダッシュで戻ってきた悟浄を見ていた名無子が苦笑で出迎えた。
「この俺が約束破ってイイ女を待たせるなんて真似するわけないっしょ―――はい、これ。あげる」
軽口を叩きながら息を整え、差し出した正方形の紙袋。
名無子がそれを開けると
「……スカーフ?」
真紅の絹布に、銀糸で花の刺繍があしらわれたスカーフだった。
「デートのお礼。それなら嵩張らないし、そのシンプルな服でも差し色に丁度いいっしょ?」
「この色…」
「ん?勿論、俺"は"わかっててやってる」
不敵な笑みを唇に乗せて言った悟浄に苦笑する。
焔のような鮮やかな真紅の一角、刺繍で描かれた放射状の花弁を指でなぞり、小さく呟いた。
「紫苑…」
「…シオン?」
耳慣れない音を繰り返すも答えはなく、代わりに、名無子はそのスカーフを首に巻くと
「似合う?」
照れたように笑って尋ねた。
「すっっっ……げー良く似合ってる。ヤベぇ」
少々華美過ぎるかとも思ったが、真白な雪のような肌と銀色の髪に合わせれば思った通り真紅が差し色となってその美しさを際立たせる。
言葉に力が籠もる悟浄にありがとうと笑う頬が赤いのはスカーフの反射のせいだろうか。
「―――名無子ちゃんさ、この色の意味、聞いた?」
自身の髪を一房指に絡め尋ねる。
「ううん。何も」
「真紅の髪と瞳って、妖怪と人間のハーフ……禁忌の子の証なのよ」
そう告げた悟浄を銀灰の瞳が見詰める。
そこには驚愕の色も、憐憫の色もなく、悟浄は僅かに張り詰めていた緊張の糸が緩むのを感じていた。
「悟浄はその色、嫌い?」
その問い掛けに
「んにゃ。まぁ昔は思うところがなかったわけじゃねーけど、今は特に何とも。名無子ちゃんも綺麗だって言ってくれたしな」
紫煙を揺らし笑みを滲ませながら答える。
「なら良かった。―――私は好きだよ」
その単語に、違うとわかっていても心臓が跳ねた。
「綺麗で、強くて、あったかくて、悟浄と同じ色」
目を細め、愛おしそうに名無子が微笑む。
(あ、やべ……)
俄に目頭が熱を帯び、悟浄はその衝動を堪えるべく煙草を深く吸い込んだ。
そして手を伸ばし、名無子の頭を撫で回す。
「さんきゅな。名無子ちゃん」
「んーん。こちらこそありがとう。大事にするね」
嬉しそうにスカーフに触れ笑う名無子を前に、確信へと変わった想いが悟浄の胸を激しく打ち鳴らしていた。
その夜、八戒は明日の出立に備え部屋で荷物の整理に勤しんでいた。
若干の当て付けで悟浄に大量の買い出しを任せた結果、思いの外荷物が膨らんでしまったのだ。
このままでは座席が埋まり、悟浄が名無子を膝に乗せるとか言い出しかねないと、整頓術を駆使して嵩を減らしていく。
「悟空、貴方も明日の準備してくださいね」
「はーい。後でやるー」
床に座りジープと戯れている悟空がこちらを見るでもなく声だけを返した。
ちらり、隣室へと視線を走らせる。
少し前、部屋に現れた悟浄は大量の荷物を八戒に押し付けると、
「ほらよ。ったく、ここぞとばかりこき使いやがって」
「おかえりなさい悟浄。夕食は?」
「外で済ませてきた。部屋で飲み直すわ。んじゃな」
「あ、悟浄!名無子は?」
「俺と一緒。心配いらねーから邪魔すんなよ」
にやりと口の端を上げ、手を振って早々に部屋を出て行った。
(二人だけで部屋飲みとか…心配するなって言う方が無理でしょう…)
せめて何かあればすぐ駆けつけられるようにと、手は動かしつつも耳を済ましていた。
「……ん??」
ふと悟空が顔を上げた。
「なんか今…」
「…!!隣ですか!?」
悟空の視線を辿り八戒が勢い良く立ち上がったその時―――
「 ――っかい……八戒!!ヘルプ!! 」
壁越しに八戒の耳にも届いたその悲鳴は名無子のものではなかった。
三蔵が乗り込んででも来たのだろうか。
切迫した救援要請に一転、気乗りしないながらも渋々隣室へ向かった。
「一体何事です―――か……」
扉を開いた八戒は、目の前に広がる光景に言葉を失い立ち竦むしかなかった。
「どったの??―――うおっ!?」
その背後から部屋を覗き込んだ悟空が喫驚の声を上げる。
そこには、ベッドの上、悟浄に撓垂れ、その首元に抱きついて頬を寄せる名無子と、
「助けて…頼む……」
情けない声で零しながら笑みを引き攣らせ、両手を高く上げた悟浄の姿があった。
切欠は数刻前に遡る―――
悟浄と名無子は少し早めの夕食の席に着いていた。
「お。名無子ちゃん、意外とイケる口?」
初めて酒を口にした名無子の「美味しい」の一言に始まる。
仄かに朱を帯びた頬。しかし二杯三杯と進んでもそれ以上の変化は見られない。
その様子に、ならば、と。
「部屋で飲み直そうか」
「うん」
そうして二人、部屋へと戻ってきた。
あわよくば―――そう思わなかったと言えば嘘になる。
どうやらそこそこの大酒家らしき名無子に、まともに付き合えばこちらも潰れかねないと判断。早々にペース調整をかける。
慎重に、予期せぬ酒客に付き合っていった。
やがて、ふわりふわり。名無子の焦点がぼやけていく。
歪みそうになる口元をグラスで隠し、喉を鳴らした。
「―――名無子ちゃん、おいで」
ベッドの上、壁に背を預け手招く。
「う?」
グラスを置き、ベッドへと歩み寄る名無子。
四つん這いでベッドの上を移動してくる姿に唇を舐める。
と―――
「なーにごじょー」
「っ!!??」
自ら胸に飛び込んできた獲物に思わず狼狽えた。
首に腕を回し、見上げ来る瞳。
「ごじょー、すきー」
見慣れない蕩けた笑みと、甘く響く声。
アルコールの香りと相まって、仄かに香る熟しきった果実のような得も言われぬ香りが理性を揺さ振り、心臓が弾けんばかりの鼓動を脳に響かせる。
「名無子―――」
顎を掬い、潤んだ銀月の引力に惹き寄せられるように顔を近付け―――
「ッッッ…違ぇ!!」
その吐息が触れ合った瞬間、悟浄の中で衝迫とは別の何かがその動きを止めさせた。
「あ゛ぁぁー……違う、そうじゃねぇ……」
「……ごじょ?」
顔を伏せ苦悶に打ち震える悟浄を、名無子が心配そうに見詰める。
その瞳を直視することすらできず、ぎゅっと目を瞑り両手を勢い良く上げると
「っっっ―――八戒……八戒!!ヘルプ!!」
声を張り上げ、隣室へと助けを求めた。
―――そして今に至る訳だが、
「あ。みんな来た」
ふやけた笑みが八戒と悟空を捉えた。
ベッドから降りるとややふらつく足取りで八戒の元へ。
その背後で悟浄が大きく息を吐き零した。
「はっかいー」
「名無子、貴女―――!?」
立ち止まることなく体当たりの勢いで八戒に抱きついた。
「はっかいもすきー」
「いや僕も好きですけど……何事ですかこれ…」
頬を擦り寄せてくる名無子をどさくさで抱き締め、頭を撫でてやりながら悟浄へ困惑の眼差しを向ける。
が、当の悟浄は
「あ゛ー……」
立てた両膝の間に項垂れたまま悲鳴とも咆哮ともつかない声を上げるばかりで。
腕の中、名無子がもぞりと身を捩った。
八戒の腕から抜け出すと、面食らったままの悟空の元へ。
そして、
「ごくーもすきー」
再びの、ぎゅう。
「おっ、おう!!??」
狼狽し最早立像のようになっている悟空が目を白黒させながらもなすが侭にされている。
それを横目に、八戒が呆れ顔を悟浄に向けた。
「悟浄、貴方どれだけ飲ませたんですか…」
「とりあえず俺の忍耐力を褒め称えてくれ…」
「それは…まぁ……」
ちらり、視線を落とせば、名無子が喜色満面で悟空に抱きつき、桜色の頬を寄せている。
「酔うとこうなるとは…」
「名無子っ、そ、そろそろ、離れね?」
赤面が、名無子と八戒に視線を行き来させながら訴える。
その声に応じてか、名無子がぱっと顔を上げた。
「あと、さんぞー…」
焦点の合わない瞳でぽつり呟くと、悟空の脇をすり抜け部屋の外へ駆けていった。
「!?これはまさか!」
「っっ!それは見たいような見たくないような!!?」
「悟浄、意外と復活早かったですね」
「いや今は兎に角何でも良いから気を紛らわしたい」
「おもしろそー!俺も見に行こ!」
怖いもの見たさで後を追う三人。
「 おい!!なんだ一体!! 」
斜め向かいの部屋から聞こえてきた声に足を早めた。
夕食後、一人部屋に戻ってきた三蔵は真っ直ぐ風呂へと向かった。
シャワーを浴び終え、静寂に紫煙を燻らせる。
無意識に走る視線は、部屋の入り口と時計を何度となく行き来していた。
脳裏に過る人影を追い遣ろうとするかのように煙を吐き出しては煙草を灰皿に押し付ける。
電気を消し、いつもより遅く、舌打ち一つ零してベッドへと向かった。
普段ならば待つまでもないはずの睡魔が、今日に限って一向にやって来ない。
やがて諦め上体を起こした時、扉の向こうから悟浄の声が聞こえた。
(今戻ったのか…)
当然のように彼の人へ思いを馳せた自分に気付くと、小さく息を吐いた。
それから暫くして、待ち人は現れた。
しかしどこか様子がおかしい。
ノックもなく開かれたドアからつかつかと部屋の中に入ってきた名無子は、そのまま勢い任せに三蔵の胸へと身を投げ出した。
「さんぞーだいすきー」
「っっ!?」
よじ登るようにして顔を近付け、首元に頬を擦り寄せてくる。
「おい!!なんだ一体!!」
肌を擽る吐息と共に、微かにアルコールの香りが鼻に届いた。
「お前……酔ってんのか…」
「よってないです」
即答するも、イントネーションが迷子になっている。
三蔵が深々と溜息を吐いていると、部屋の明かりが灯った。
眉を顰め、扉の方を睨み付ける。
「あー、やっぱり」
「でも意外と落ち着いてますね」
「クッッソ!やっぱ助けなんて呼ぶんじゃなかった!」
「お前ら……」
静穏を裂いてやってきた喧しの面々に米神がひくつく。
その間も懐では体を預けた名無子がうにゃうにゃと何やら呟いている。
「はぁ……おい、誰かこいつを自分の部屋に連れて行け」
苛立ちを抑え言うが、返ってくる声はない。
もう一度。
「……おい」
「―――三蔵」
答える代わり、無闇に爽やかな笑みが名を呼んだ。
「あ?何だ」
「最高僧の自制心を信じてますよ」
「はぁっ!?」
「この俺が耐えたんだ。手出したらマジぶっ殺すからな」
「何の話だ!」
「頑張れーさんぞー」
「ちょ…おい!!待―――」
電気が消え、ばたん。
半端な言の葉が閉じた扉にぶつかって落ちた。
「……さんぞ?」
呆気に取られ固まる三蔵の胸元から声がする。
視線を落とせば、一瞬で苛立ちと怒りは霧散した。
水面に映る銀月のように光を揺らす瞳。
首元を彩る赤いスカーフに近しい色に染まった肌が、月明かりに照らされ妙に艶めかしい。
「ッッ…!」
扇情的なその姿に息を呑む。
自身の腕は理性を嘲笑うようにいつの間にか名無子に回されていた。
天井を見上げ、目を閉じる。
深く、限界まで息を吸い込み、吐き出す。
幾度か繰り返す間、名無子は黙って三蔵の胸に身を寄せていた。
「っっ―――はぁ……」
暫くして漸く平常を取り戻した心音。三蔵が地響きのような嘆声を降らせた。
「……どんだけ飲んだんだ」
「えっと…いっぱい」
「…だろうな」
「さんぞーも飲んだ?」
「飲んでねぇ。お前が買って来なかったんだろうが」
「買ってきたよ?たぶんー…はっかいのとこ」
「………あいつ…」
八戒が、名無子が悟浄と部屋飲みしている事実を三蔵に知らせることを憚った結果なのだが、三蔵は知る由もない。
「ちゃんとね、味見して、おいしーの買ったよ」
「…そうか」
「明日、一緒にのもーね」
「……お前はもう酒禁止だ」
「えー…うぅん……はい…」
不満げに呻って、しかし最後には是と答える名無子に、三蔵は微笑を滲ませた。
名無子の両肩に手を掛け、身体を起こす。
「……どけ」
しゅんと萎れた眉が、無言で従う。
三蔵は身体を仰向けに横たえると布団を捲り、
「さっさと寝ろ」
素っ気なく言った。
一瞬、丸く見開かれた満月は弧を描き繊月へと変わり、心底幸せそうな笑みを満面に咲かせた。
「うん」
布団に潜り込み、三蔵の方を向いて寄り添う。
熱を持つ左腕がどうにも落ち着かなかった三蔵は、少し思案し、
「―――頭、上げろ」
「ん」
その腕を広げ、名無子の首の下へと伸ばした。
腕一本分の隙間を埋めるように名無子が身体を寄せてくる。
昨日よりも熱く感じるのは酒のせいだろうか。
「さんぞー」
「…なんだ」
「だいすきー」
「……黙って寝やがれ」
ぽん、とその頭を軽く叩けば、嬉しそうに笑った吐息が三蔵の首筋を擽った。
幾許もなく、その吐息が柔らかな寝息へと変わる。
しかし三蔵は、
(………寝れやしねぇ……)
眉を顰め、天井を睨め付けていた。
現状も、自身の感情も、意図的に考えないようにしていた。
考え始めれば思いは尽きないことを知っていたし、そこに答えを見出す覚悟もない。
ならば、そんな事に心を煩わされるより、錯覚だろうと仮初めだろうと、今この瞬間の心地良さに身を委ねていたかった。
しかし、そんな刹那主義的な思いを許さないのもまた、目を背けている自身の感情だった。
「さん…ぞ……」
ふと腕の中、微かな呟きが聞こえた。
自然と上がる口の端。
そっと髪を撫でていた手は
「もう……離れない……今度こそ…」
肩に伝った冷たい雫と言葉によってその動きを止めた。
師に向けられただろう言葉が深く、深く突き刺さり、
その傷口から封じていたはずの感情が黒く染まって溢れ出していく。
噛み締めた奥歯が軋み、小さく音を立てた。
鋭利な感情の鋒は向かう宛もなく、夜の虚空をただ彷徨っていた。