第一章
貴女のお名前は?
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一方、食堂で向かい合って座る悟空と名無子の間には、色違いの空気が流れていた。
「なぁんであんな大騒ぎすんだろーなぁ。別にいいじゃん、一緒に寝るくらい」
朝定食を速やかに平らげながら、頬杖をついて呆れたように零す悟空の前で、名無子は視線を伏せ黙り込んだまま。
事務的に箸を口に運ぶも味はせず、自分が何を食べているのかすら分からなかった。
「……」
「…名無子?」
「……みんな、怒らせちゃった…」
三蔵の言い付けを守っていれば―――そもそも一緒に寝たいと願ったこと自体が間違いであったのかもしれないと、後悔が名無子を責め立てる。
そんな名無子を、悟空は真っ直ぐ見据え口を開いた。
「さっき、三蔵が外野は引っ込んでろって言ってたじゃん?
言い方はアレだけど、尤もだと思うんだよね。本人達が良いなら別にいーじゃんって。
そりゃ名無子がいなくて焦る気持ちはわかるけどさー」
それでも、
(なんで名無子にこんな顔させんだよ…名無子なんも悪くねーのに…)
口をへの字に曲げ、空になった皿を睨みつけて業腹を紛らわす。
「……てか、そもそもなんであぁなったわけ?」
昨晩は夕食後、名無子も一度は部屋に戻ったはず。
ならばその後で三蔵の部屋に忍んで行ったのだろうか。
だとしたら随分と大胆なことをするものだと思いながら尋ねた悟空に、
「えっとね…」
名無子は、雨の中外にいた自分に三蔵が気が付いて傘を持ってきてくれたこと、無性に一人でいたくなくて、三蔵の部屋に入れてもらい共寝させてもらったことを掻い摘んで話した。
「あー、なんかわかるかも…」
悟空が想起したのは、五行山を降りて暫くした頃。
長らく感じなかったはずの寒さと心許なさが急に襲ってきて、三蔵の布団に潜り込んだことがあった。
直ぐに蹴り出されはしたが、三蔵が眠った隙に気付かれないギリギリの所で布団に丸まって眠った。
その夜、慶雲院に来て初めて熟睡できたことを覚えている。
「今はそうでもないけど、誰かの近くって落ち着くっていうか、すげーよく寝れるんだよなぁ」
名無子がこくこくと力強く頷いた。
「一人じゃないって、いいよな!」
「うん。嬉しい」
名無子の顔に笑みが戻ったことに悟空は安堵し、言葉を続ける。
「つかさ、名無子が一人部屋がいいって思うまで、三蔵と同室にしたらいいんじゃね?
そしたら名無子がいないーって誰かが騒ぐこともないしさ」
「でも、三蔵は一人部屋が良いって言いそう…」
悟空の提案に、眉間に懸念を滲ませた名無子だったが
「そっかなぁ。三蔵、嫌だったら嫌って言うぜ?
名無子抱き枕にしてあんだけ爆睡するくらいだし、大丈夫だと思うけど」
言われ、ふと思い出す。
「抱き枕……」
(そう言えばなんであんな状況になったんだっけ…)
目を覚まして直ぐ、身体を包む温もりに疑問を覚える間もなく喧騒に巻き込まれたため忘却の彼方だったが、どう頭を捻っても思い出せそうになかった。
「一人の夜―――つーか、三蔵のとこ以外で寝てないんだろ?辛くない?」
重ねられた問いに、素直に答える。
「辛くはないよ。ずっとそうだったし」
「だからこそだよ!嫌だったりしねぇ?」
「嫌……」
言葉は知っていても、果たして自分の感情にどれが見合うものなのか。
今一つぴんと来ない。
強いて言えば―――
「―――飽きた…?」
悩ましげな表情で思案に暮れた末、漸く捻り出した言葉に悟空が吹き出した。
「ぶはッ!…ははっ、そっか。そりゃ飽きるよな」
出会ったときからそうだった。
理不尽に先代三蔵の元から引き離され、隔離され、昼夜もない真っ暗な部屋の中に閉じ込められた二十年。
しかし当の名無子からは遺恨も、瘢痕も、悲哀も、感情の一切が感じられない。
そのことをほんの少し悲しく思っていた悟空にとっては、気抜けするような感情の一片ですら心弛ぶものであった。
笑いの余韻を残しながら言葉を続ける。
「じゃあさ、色々試してみれば?これから宿で相部屋になることも多いだろうし、そんときに三蔵以外とも相部屋にしてみるとか」
「でもそれ、私が決めることじゃないよ?」
「いーんだって!誰々と一緒の部屋がいい!って言えば。あれ、でもそれだと結局三蔵と相部屋になるのか…」
「……??」
「だって名無子も三蔵と同じ部屋がいいんじゃねーの?」
一周して同じところへと戻ってきた問いに、名無子は少し考えて、うん、と答えた。
「でも他のみんなと同じが嫌なわけじゃないよ?」
「うーん……でもさ、一緒"でも"いいと一緒"が"いいって、違わね?
それってやっぱ三蔵が特別ってことじゃねーの?」
「特別……」
そうなのだろうか。名無子にとってはここに来てからの全てが特別であったし、その中でより特別なものなど考えたことがなかった。
(一緒"でも"いい、と、一緒"が"いい……)
再び思考を凝らし始めたが、
「名無子、三蔵のこと、好き?」
続けられた平明な問いには迷いなく答えることができた。
「うん」
悟空にとっては、その答えだけで十分で。
「他のみんなが何考えてるかはわかんねーけどさ」
と前置きして、
「弟でも何でも、名無子になんか特別なものとか好きなものができたなら俺は嬉しいし、名無子が笑っていられるならそれでいいや」
言って、笑った。
夏日に咲く向日葵のような笑顔が名無子の心に掛かる靄を晴らしていく。
込み上げてくる嬉しさで頬が緩み、潤んだ目を細める名無子を見て、悟空もまた笑みを咲かせる。
優しく柔らかな空気が二人の間を満たしていた。
「名無子」
その声に、食後のコーヒーを持つ手が止まった。
悟浄と二人、食堂へ現れた八戒が名無子の横で膝を着いた。
名無子が目を丸くし、悟空が黙ってそれを見詰めている。
神妙な面持ちで八戒が口を開いた。
「さっきはすみませんでした。悟空の言う通り、貴女の話も聞かず…感情が先走りすぎました」
その横で決まり悪そうに頭を掻きながら、悟浄が言う。
「俺も…悪ぃ。ごめんな」
そもそもあの場において、名無子の中に二人への快も不快もなかった。
あったのはただ、三蔵の言付けを守れなかったこと、そしてその結果生じた摩擦への自責と悲哀だけだった。
だからこそ、頭を垂れる二人に名無子は困惑を隠せず、
「………なんで二人が謝るの??」
助けを求めるような視線を悟空へ送った。
それを察したのか、
「気にしてねーなら『いいよ』で良いんじゃね?」
あっけらかんと悟空が答える。
そんな二人の遣り取りに滲みそうになる苦笑を今は堪え、八戒は名無子の言葉を待つ。
名無子の瞳が八戒と悟浄を行き来し、
「いいよ…?」
戸惑いに首を傾げつつ言った。
安堵に眉間を緩めた二人に向け、続ける。
「私の方こそ、ごめんなさい。さっきも、心配かけて」
膝に両手をつき、頭を下げた名無子を八戒が慌てて静止した。
「名無子、謝らないでください」
「そうそう。名無子ちゃんが謝ることじゃねーって」
「でも―――」
「でもじゃないで―――じゃ、なくて」
八戒は言葉を飲み込み、咳払いと深呼吸を一つしてから、
「すみません。続けてください」
繕った笑顔と掌で促した。
その様子を疑問に思いつつ、
「……私が我侭言わなければ…三蔵の言うこと守ってればみんな怒らせずに済んでたことだから…だから、私が原因で、ごめんなさいするのは私だと思う…」
途切れ途切れ、言葉を紡いでいく。
悟浄が眉を顰め、八戒の口からやるせない吐息が零れた。
「―――確かにそうだったかも知れません」
追わぬ肯定の言葉に、悟浄がぎょっとする。
悟空が視線を尖らせ、口を開くよりも早く
「ですが―――」
八戒がその先を口にした。
「そもそも貴女が言ったのは我侭ではなく寧ろご褒美です。そして三蔵の言った事はただの自己保身ですね。それを僕らが咎めはしても貴女を蔑ろにして良い理由にはなりません。その上貴女に余計な気苦労をさせてしまうなど言語道断です。よって、謝るべきは貴女ではなく僕達ということになります。ご理解いただけましたか?」
勢い任せの様相でその実理詰め。連々と流暢に語りきった鉄壁の笑みに、
「ごほ…??……はい…」
名無子は言い返す言葉もなく、鳩が豆鉄砲を食らったような顔でこくり頷くしかなかった。
「よく噛まずに言えるよなぁ…」
悟空が思わず零す。こちらを向いた笑みに、反射的に肩が跳ねる。
「悟空も、すみませんでした。あと、ありがとうございます。お陰で頭が冷えました」
「!?おう!いーよ!」
不意を突かれたが笑顔で返した。
空いた席に二人、漸く腰を下ろす。
「でさ、名無子ちゃん」
名無子の隣、切り出した悟浄。
「さっきの……一緒に寝ようは忘れてくれていいんだけどさ…」
どうにも調子が戻らないのか、歯切れが悪い。
前方から突き刺さる二つの視線から目を逸し、咳払いをして
「後で、俺とデートしねぇ?」
無理矢理、いつもの軽薄さを装って言う。
「ついでに買い出し行ってきてやるよ」
と、八戒に向け真っ当な理由を後付けて。
「それはまぁ、助かりますが…雨、まだ降ってますよ?」
「イイ女となら雨の日でも心は快晴、ってな」
「買い出しするなら俺も着いて行こうか?」
「お前も八戒とお留守番しとけ。さっきの詫びってことで」
「名無子と二人きりが良いだけだろ」
「とーぜん」
ふふんと得意げに笑う悟浄と、呆れ顔の悟空、苦笑いの八戒。
漸く人心地つけたようで、名無子は唇に笑みを灯した。
「うん。行こう」
ガッツポーズを決めた悟浄の横で、名無子は席を立ち言った。
「その前に、三蔵に謝ってくる。あと着替えなきゃ」
その言葉に悟浄が耳聡く反応する。
「!!……名無子!」
「何?」
「その……服って…」
先程の八戒の言葉を思い出し、悟浄が恐る恐る尋ねると、
「あぁ。昨日濡れちゃったから乾かしてる。その間の着替え借りたの」
「濡れ…ッッ……!!」
「じゃあ、また後でねー」
何の感慨もない声で言い残し、名無子は去って行った。
テーブルに肘を着き、がっくりと項垂れ
「濡れちゃってって……」
怨嗟の呪文のように呟く悟浄と、
「まぁ多分、そういう意味じゃないと思いますけど…」
苦笑いの八戒。
「何が?濡れたらまずいの??」
無垢な瞳で首を傾げる悟空。
三者三様の日常が戻っていた。
扉を叩く、控えめな音に三蔵が顔を上げる。
「開いてる。入れ」
声を掛ければ、予想通りの人影が姿を現した。
「お腹、空いてない?」
部屋に入ってきた名無子が差し出したのは、先程食堂を出る前に調達してきた弁当だった。
読んでいた新聞を脇に置き、答える。
「あぁ、貰う」
手渡された弁当と、何も言わずお茶を淹れ、差し出された湯呑。
そしてそのまま洗面所へと向かった名無子を横目で追いながら三蔵は箸を握った。
暫くして戻ってきた名無子は、昨晩の紫色の衣に着替えていた。
借りていた法衣をベッドに広げ、丁寧に畳む。
そのまま黙って、ベットの端に腰を下ろした。
静寂に響く雨音を聞きながら、三蔵が食事を終えるのを待って口を開いた。
「さっきはごめんなさい。あと服、貸してくれてありがとう」
三蔵は食後の一服を吸い込み、白煙を吐き出してから答えた。
「―――何の謝罪だ」
「みんなが起きる前に、起きれなくて」
あぁ、と。
そんなことを言ったような、名無子が言っていたような気もする。
自身の感情を誤魔化すため、照れ隠しにも近い心持ちで吐いた言葉が、
そして、その言葉通りにならなかったことを悪しく思っていない自分自身がどうにもむず痒く、
しかしそれを心底悔いているらしき名無子を見ると有耶無耶にするのも気が引けた。
一先ず、糸口を見付けるべく尋ねる。
「あいつらに何か言われたか」
名無子が横に首を振った。
「寧ろ謝られた」
それを聞き、なら良い、と完結しかけた思考を引き戻す。
不安の影を滲ませる銀月に何と言葉を掛けるべきか悩んだ末、
「なら、もう無理に起きる必要はねぇ」
口をついて出た言葉に三蔵は驚愕した。
(これじゃまるで―――)
熱が上った顔面を片手で押さえ、視線を避けるように顔を背ける。
何のことかと首を傾げでもしてくれればと鈍感力に期待するも、
「……それって…」
それが叶わないことは三蔵が一番良く知っていた。
喧しく頭に響くは己の心音か、近付いてくる足音か。
「嫌じゃ…ない?」
視線は向けずに、答える。
「……嫌なら最初からそう言ってる」
「うん、そうだね…」
途切れた言の葉。
沈黙に焦れる三蔵の瞳に、多幸が染め上げた、暗雲を裂いて降り注ぐ陽の光にも似た笑みは映ってはいなかった。
「この後ちょっとお出掛けするから、夜また来ても良い?」
「……好きにしろ」
「うん」
部屋のドアに向け、遠ざっていく気配に小さく息を吐いた。
「何か買ってくるものある?」
「煙草と酒―――出掛けるって、この雨の中何処にだ」
答え、ふと疑問を呈する。
「買い出し。あと、悟浄とデート」
「……」
聞かなければ良かったと眉を顰め、そう思ってしまった事実からも意識的に目を背ける。
「……気を付けて行って来い」
「うん。行ってきます」
扉が閉まり、再び部屋に雨音が満ちる。
妙に浮足立ち、制御不能に陥っている自覚は十二分にある。
自身への戸惑いと、見覚えのない感情にざわめき立つ心。
これ以上踏み込むべきでないと鳴り響く警鐘に、そんなことはわかっていると。
何処を取っても煩わしさは拭えない。
なのに―――
その全てがどうでもいい事のように思えてならなかった。
水滴が伝う窓を少しだけ開けてみる。
吹き込んでくる風は湿り気を帯びて、濡れた草木の香りと共に部屋に滞った煙を薄くしていく。
雨はまだ止まないが、遠くの雲は薄く、橙色の光を纏っている。
名無子が戻ってくる頃には、雨は止んでいるだろうか。
そんな柄にもないことをぼんやりと考えていた。
「なぁんであんな大騒ぎすんだろーなぁ。別にいいじゃん、一緒に寝るくらい」
朝定食を速やかに平らげながら、頬杖をついて呆れたように零す悟空の前で、名無子は視線を伏せ黙り込んだまま。
事務的に箸を口に運ぶも味はせず、自分が何を食べているのかすら分からなかった。
「……」
「…名無子?」
「……みんな、怒らせちゃった…」
三蔵の言い付けを守っていれば―――そもそも一緒に寝たいと願ったこと自体が間違いであったのかもしれないと、後悔が名無子を責め立てる。
そんな名無子を、悟空は真っ直ぐ見据え口を開いた。
「さっき、三蔵が外野は引っ込んでろって言ってたじゃん?
言い方はアレだけど、尤もだと思うんだよね。本人達が良いなら別にいーじゃんって。
そりゃ名無子がいなくて焦る気持ちはわかるけどさー」
それでも、
(なんで名無子にこんな顔させんだよ…名無子なんも悪くねーのに…)
口をへの字に曲げ、空になった皿を睨みつけて業腹を紛らわす。
「……てか、そもそもなんであぁなったわけ?」
昨晩は夕食後、名無子も一度は部屋に戻ったはず。
ならばその後で三蔵の部屋に忍んで行ったのだろうか。
だとしたら随分と大胆なことをするものだと思いながら尋ねた悟空に、
「えっとね…」
名無子は、雨の中外にいた自分に三蔵が気が付いて傘を持ってきてくれたこと、無性に一人でいたくなくて、三蔵の部屋に入れてもらい共寝させてもらったことを掻い摘んで話した。
「あー、なんかわかるかも…」
悟空が想起したのは、五行山を降りて暫くした頃。
長らく感じなかったはずの寒さと心許なさが急に襲ってきて、三蔵の布団に潜り込んだことがあった。
直ぐに蹴り出されはしたが、三蔵が眠った隙に気付かれないギリギリの所で布団に丸まって眠った。
その夜、慶雲院に来て初めて熟睡できたことを覚えている。
「今はそうでもないけど、誰かの近くって落ち着くっていうか、すげーよく寝れるんだよなぁ」
名無子がこくこくと力強く頷いた。
「一人じゃないって、いいよな!」
「うん。嬉しい」
名無子の顔に笑みが戻ったことに悟空は安堵し、言葉を続ける。
「つかさ、名無子が一人部屋がいいって思うまで、三蔵と同室にしたらいいんじゃね?
そしたら名無子がいないーって誰かが騒ぐこともないしさ」
「でも、三蔵は一人部屋が良いって言いそう…」
悟空の提案に、眉間に懸念を滲ませた名無子だったが
「そっかなぁ。三蔵、嫌だったら嫌って言うぜ?
名無子抱き枕にしてあんだけ爆睡するくらいだし、大丈夫だと思うけど」
言われ、ふと思い出す。
「抱き枕……」
(そう言えばなんであんな状況になったんだっけ…)
目を覚まして直ぐ、身体を包む温もりに疑問を覚える間もなく喧騒に巻き込まれたため忘却の彼方だったが、どう頭を捻っても思い出せそうになかった。
「一人の夜―――つーか、三蔵のとこ以外で寝てないんだろ?辛くない?」
重ねられた問いに、素直に答える。
「辛くはないよ。ずっとそうだったし」
「だからこそだよ!嫌だったりしねぇ?」
「嫌……」
言葉は知っていても、果たして自分の感情にどれが見合うものなのか。
今一つぴんと来ない。
強いて言えば―――
「―――飽きた…?」
悩ましげな表情で思案に暮れた末、漸く捻り出した言葉に悟空が吹き出した。
「ぶはッ!…ははっ、そっか。そりゃ飽きるよな」
出会ったときからそうだった。
理不尽に先代三蔵の元から引き離され、隔離され、昼夜もない真っ暗な部屋の中に閉じ込められた二十年。
しかし当の名無子からは遺恨も、瘢痕も、悲哀も、感情の一切が感じられない。
そのことをほんの少し悲しく思っていた悟空にとっては、気抜けするような感情の一片ですら心弛ぶものであった。
笑いの余韻を残しながら言葉を続ける。
「じゃあさ、色々試してみれば?これから宿で相部屋になることも多いだろうし、そんときに三蔵以外とも相部屋にしてみるとか」
「でもそれ、私が決めることじゃないよ?」
「いーんだって!誰々と一緒の部屋がいい!って言えば。あれ、でもそれだと結局三蔵と相部屋になるのか…」
「……??」
「だって名無子も三蔵と同じ部屋がいいんじゃねーの?」
一周して同じところへと戻ってきた問いに、名無子は少し考えて、うん、と答えた。
「でも他のみんなと同じが嫌なわけじゃないよ?」
「うーん……でもさ、一緒"でも"いいと一緒"が"いいって、違わね?
それってやっぱ三蔵が特別ってことじゃねーの?」
「特別……」
そうなのだろうか。名無子にとってはここに来てからの全てが特別であったし、その中でより特別なものなど考えたことがなかった。
(一緒"でも"いい、と、一緒"が"いい……)
再び思考を凝らし始めたが、
「名無子、三蔵のこと、好き?」
続けられた平明な問いには迷いなく答えることができた。
「うん」
悟空にとっては、その答えだけで十分で。
「他のみんなが何考えてるかはわかんねーけどさ」
と前置きして、
「弟でも何でも、名無子になんか特別なものとか好きなものができたなら俺は嬉しいし、名無子が笑っていられるならそれでいいや」
言って、笑った。
夏日に咲く向日葵のような笑顔が名無子の心に掛かる靄を晴らしていく。
込み上げてくる嬉しさで頬が緩み、潤んだ目を細める名無子を見て、悟空もまた笑みを咲かせる。
優しく柔らかな空気が二人の間を満たしていた。
「名無子」
その声に、食後のコーヒーを持つ手が止まった。
悟浄と二人、食堂へ現れた八戒が名無子の横で膝を着いた。
名無子が目を丸くし、悟空が黙ってそれを見詰めている。
神妙な面持ちで八戒が口を開いた。
「さっきはすみませんでした。悟空の言う通り、貴女の話も聞かず…感情が先走りすぎました」
その横で決まり悪そうに頭を掻きながら、悟浄が言う。
「俺も…悪ぃ。ごめんな」
そもそもあの場において、名無子の中に二人への快も不快もなかった。
あったのはただ、三蔵の言付けを守れなかったこと、そしてその結果生じた摩擦への自責と悲哀だけだった。
だからこそ、頭を垂れる二人に名無子は困惑を隠せず、
「………なんで二人が謝るの??」
助けを求めるような視線を悟空へ送った。
それを察したのか、
「気にしてねーなら『いいよ』で良いんじゃね?」
あっけらかんと悟空が答える。
そんな二人の遣り取りに滲みそうになる苦笑を今は堪え、八戒は名無子の言葉を待つ。
名無子の瞳が八戒と悟浄を行き来し、
「いいよ…?」
戸惑いに首を傾げつつ言った。
安堵に眉間を緩めた二人に向け、続ける。
「私の方こそ、ごめんなさい。さっきも、心配かけて」
膝に両手をつき、頭を下げた名無子を八戒が慌てて静止した。
「名無子、謝らないでください」
「そうそう。名無子ちゃんが謝ることじゃねーって」
「でも―――」
「でもじゃないで―――じゃ、なくて」
八戒は言葉を飲み込み、咳払いと深呼吸を一つしてから、
「すみません。続けてください」
繕った笑顔と掌で促した。
その様子を疑問に思いつつ、
「……私が我侭言わなければ…三蔵の言うこと守ってればみんな怒らせずに済んでたことだから…だから、私が原因で、ごめんなさいするのは私だと思う…」
途切れ途切れ、言葉を紡いでいく。
悟浄が眉を顰め、八戒の口からやるせない吐息が零れた。
「―――確かにそうだったかも知れません」
追わぬ肯定の言葉に、悟浄がぎょっとする。
悟空が視線を尖らせ、口を開くよりも早く
「ですが―――」
八戒がその先を口にした。
「そもそも貴女が言ったのは我侭ではなく寧ろご褒美です。そして三蔵の言った事はただの自己保身ですね。それを僕らが咎めはしても貴女を蔑ろにして良い理由にはなりません。その上貴女に余計な気苦労をさせてしまうなど言語道断です。よって、謝るべきは貴女ではなく僕達ということになります。ご理解いただけましたか?」
勢い任せの様相でその実理詰め。連々と流暢に語りきった鉄壁の笑みに、
「ごほ…??……はい…」
名無子は言い返す言葉もなく、鳩が豆鉄砲を食らったような顔でこくり頷くしかなかった。
「よく噛まずに言えるよなぁ…」
悟空が思わず零す。こちらを向いた笑みに、反射的に肩が跳ねる。
「悟空も、すみませんでした。あと、ありがとうございます。お陰で頭が冷えました」
「!?おう!いーよ!」
不意を突かれたが笑顔で返した。
空いた席に二人、漸く腰を下ろす。
「でさ、名無子ちゃん」
名無子の隣、切り出した悟浄。
「さっきの……一緒に寝ようは忘れてくれていいんだけどさ…」
どうにも調子が戻らないのか、歯切れが悪い。
前方から突き刺さる二つの視線から目を逸し、咳払いをして
「後で、俺とデートしねぇ?」
無理矢理、いつもの軽薄さを装って言う。
「ついでに買い出し行ってきてやるよ」
と、八戒に向け真っ当な理由を後付けて。
「それはまぁ、助かりますが…雨、まだ降ってますよ?」
「イイ女となら雨の日でも心は快晴、ってな」
「買い出しするなら俺も着いて行こうか?」
「お前も八戒とお留守番しとけ。さっきの詫びってことで」
「名無子と二人きりが良いだけだろ」
「とーぜん」
ふふんと得意げに笑う悟浄と、呆れ顔の悟空、苦笑いの八戒。
漸く人心地つけたようで、名無子は唇に笑みを灯した。
「うん。行こう」
ガッツポーズを決めた悟浄の横で、名無子は席を立ち言った。
「その前に、三蔵に謝ってくる。あと着替えなきゃ」
その言葉に悟浄が耳聡く反応する。
「!!……名無子!」
「何?」
「その……服って…」
先程の八戒の言葉を思い出し、悟浄が恐る恐る尋ねると、
「あぁ。昨日濡れちゃったから乾かしてる。その間の着替え借りたの」
「濡れ…ッッ……!!」
「じゃあ、また後でねー」
何の感慨もない声で言い残し、名無子は去って行った。
テーブルに肘を着き、がっくりと項垂れ
「濡れちゃってって……」
怨嗟の呪文のように呟く悟浄と、
「まぁ多分、そういう意味じゃないと思いますけど…」
苦笑いの八戒。
「何が?濡れたらまずいの??」
無垢な瞳で首を傾げる悟空。
三者三様の日常が戻っていた。
扉を叩く、控えめな音に三蔵が顔を上げる。
「開いてる。入れ」
声を掛ければ、予想通りの人影が姿を現した。
「お腹、空いてない?」
部屋に入ってきた名無子が差し出したのは、先程食堂を出る前に調達してきた弁当だった。
読んでいた新聞を脇に置き、答える。
「あぁ、貰う」
手渡された弁当と、何も言わずお茶を淹れ、差し出された湯呑。
そしてそのまま洗面所へと向かった名無子を横目で追いながら三蔵は箸を握った。
暫くして戻ってきた名無子は、昨晩の紫色の衣に着替えていた。
借りていた法衣をベッドに広げ、丁寧に畳む。
そのまま黙って、ベットの端に腰を下ろした。
静寂に響く雨音を聞きながら、三蔵が食事を終えるのを待って口を開いた。
「さっきはごめんなさい。あと服、貸してくれてありがとう」
三蔵は食後の一服を吸い込み、白煙を吐き出してから答えた。
「―――何の謝罪だ」
「みんなが起きる前に、起きれなくて」
あぁ、と。
そんなことを言ったような、名無子が言っていたような気もする。
自身の感情を誤魔化すため、照れ隠しにも近い心持ちで吐いた言葉が、
そして、その言葉通りにならなかったことを悪しく思っていない自分自身がどうにもむず痒く、
しかしそれを心底悔いているらしき名無子を見ると有耶無耶にするのも気が引けた。
一先ず、糸口を見付けるべく尋ねる。
「あいつらに何か言われたか」
名無子が横に首を振った。
「寧ろ謝られた」
それを聞き、なら良い、と完結しかけた思考を引き戻す。
不安の影を滲ませる銀月に何と言葉を掛けるべきか悩んだ末、
「なら、もう無理に起きる必要はねぇ」
口をついて出た言葉に三蔵は驚愕した。
(これじゃまるで―――)
熱が上った顔面を片手で押さえ、視線を避けるように顔を背ける。
何のことかと首を傾げでもしてくれればと鈍感力に期待するも、
「……それって…」
それが叶わないことは三蔵が一番良く知っていた。
喧しく頭に響くは己の心音か、近付いてくる足音か。
「嫌じゃ…ない?」
視線は向けずに、答える。
「……嫌なら最初からそう言ってる」
「うん、そうだね…」
途切れた言の葉。
沈黙に焦れる三蔵の瞳に、多幸が染め上げた、暗雲を裂いて降り注ぐ陽の光にも似た笑みは映ってはいなかった。
「この後ちょっとお出掛けするから、夜また来ても良い?」
「……好きにしろ」
「うん」
部屋のドアに向け、遠ざっていく気配に小さく息を吐いた。
「何か買ってくるものある?」
「煙草と酒―――出掛けるって、この雨の中何処にだ」
答え、ふと疑問を呈する。
「買い出し。あと、悟浄とデート」
「……」
聞かなければ良かったと眉を顰め、そう思ってしまった事実からも意識的に目を背ける。
「……気を付けて行って来い」
「うん。行ってきます」
扉が閉まり、再び部屋に雨音が満ちる。
妙に浮足立ち、制御不能に陥っている自覚は十二分にある。
自身への戸惑いと、見覚えのない感情にざわめき立つ心。
これ以上踏み込むべきでないと鳴り響く警鐘に、そんなことはわかっていると。
何処を取っても煩わしさは拭えない。
なのに―――
その全てがどうでもいい事のように思えてならなかった。
水滴が伝う窓を少しだけ開けてみる。
吹き込んでくる風は湿り気を帯びて、濡れた草木の香りと共に部屋に滞った煙を薄くしていく。
雨はまだ止まないが、遠くの雲は薄く、橙色の光を纏っている。
名無子が戻ってくる頃には、雨は止んでいるだろうか。
そんな柄にもないことをぼんやりと考えていた。