第一章
貴女のお名前は?
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翌朝、悟浄が名無子の部屋をノックしたのは邪な理由からではなかった。
悟空は当然に寝ている時間だし起こしたとしてもどうせ起きやしない。
八戒は昨日寝ずの運転で疲れている上に雨の日は只でさえ眠りが浅いことを知っているが故に起こすのは忍びない。
三蔵にはそもそも用はない。
ならば眠らずこの時間も起きているであろう名無子の元を尋ねるのは至極当然―――
と言う理屈を捏ねてその実、ただ会いたかったからなどと柄にもない自分を自嘲しつつ、名無子の部屋のドアを叩く。
―――が、返ってくるのは沈黙だけ。
首を傾げつつ、仄かな期待を胸に静かにドアノブを回す。
「名無子ちゃーん…」
声を潜め、部屋を覗き込むも人の気配はない。
『 其は やがて消える 』
過った言葉に、悟浄の背が粟立った。
「……名無子!!」
名を呼び、部屋に踏み込む。
使用した形跡のないベッド、バスルーム。
どこにもその姿は見えない。
窓の外は未だ勢いの衰えない雨に濡れている。
一体何処へ―――まさか
心臓が早鐘を打ち、口の中が乾く。
(いや、落ち着け…まだそうと決まったわけじゃねーだろ…)
一先ず、探すにしても人手をと、向かったのは二つ隣の部屋。
「おい猿!起きろ!!」
ドアを壊さんばかりに開け放ち、ベッドへと早足で向かう。
「名無子がいねぇ!!探すの手伝え!」
「んぁ??名無子…?」
力任せに揺り起こされた悟空は、眠気眼を擦りながら体を起こすと
「名無子…三蔵んとこにいねぇ…?」
焦点の合わない瞳で寝言のように呟いた。
「………は?なんでそこで三蔵が出てくんだよ…」
「昨日夜、隣から名無子の声聞こえたし…今も気配…」
「っっ!?」
うつらうつら船を漕ぎながら紡がれた言葉に悟浄は直様隣室へと走った。
息を呑み、ドアノブへと手を掛ける。
開かない。鍵がかかっているようだ。
「おい三蔵!!開けろ!!」
ドアを叩く拳に力が籠もる。
物音一つしない数秒に舌打ち、正に蹴破ろうと片足を上げたその時だった。
「何事ですか悟浄」
廊下を挟んで反対側の扉が開き、八戒が顔を出した。
「名無子が部屋にいねーんだよ!」
「いないって…そこ三蔵の部屋ですよ?」
「んなこたわぁってるっつーの!悟空がここにいるんじゃねーかっつーから…」
息荒く、いつになく切羽詰まった表情の悟浄に八戒は状況を察すると、
「ちょっと待っててください」
一旦部屋へ引っ込み、そしてすぐに廊下へ出てきた。
その手には、一本の針金。
「今回は緊急事態ということで。何事もなければ怒られる役目は任せますよ」
鍵穴に針金を突っ込みながら冗談めかして言うも、その表情には悟浄と同様緊張の色が滲んでいる。
「おう任せろ。名無子が無事ならそれでいい。銃弾の一発や二発、喜んで受けてやるよ」
口の端を上げた八戒の耳に、小さな金属音が届いた。
「―――開けますよ」
部屋へ飛び込んだ二人が目にしたのは―――
「うっっ―――そだろ……」
「これは……」
膝から崩れ落ち蹲る悟浄と絶句し立ち竦む八戒の背後から、
「ふぁぁ〜…名無子、いたー?」
欠伸を零しながら悟空が部屋へ入ってきた。
二人の姿を怪訝な顔で見比べながら、向かうは八戒の視線の先。
「ほら。名無子いるじゃん」
「いる場所が問題だろうがよぉぉぉ……」
「そう…ですね…」
ベッドの上、三蔵の腕の中で寝顔を晒す探し人の姿がそこにはあった。
「そなの?ちゃんといるし寝れてるし、良かったじゃん!」
脳天気な笑顔の主は、情けない呻き声を上げる悟浄など気にも止めず
「すげー。三蔵の眉間に皺がねぇ。そんで全然起きねー!」
三蔵の眉間を指で押しながらけらけら笑っている。
「いや、まぁ…最悪な事態は免れて良かったですが……」
「そぉねぇぇ……最悪から数えて三番目に悪い事態だけどな…」
「この場合、銃弾の二、三発は受けますか…?」
「寧ろ撃ち込んでやりてーわ。あと勝手に増やすんじゃねー……」
「…ところで、最悪から二番目は何です?」
「そりゃあお前…三蔵と名無子ちゃんがはだk「あ、もう結構です」」
早々に精神疲労困憊の二人は扠置き、悟空が気付いた。
「あ、名無子起きる」
ぴくり動いた瞼から、焦点の合わない銀月が顔を出す。
「はよー名無子。ゆっくり寝れた?」
「っ!!」
顔を覗き込んだ悟空に、一瞬で覚醒。そして現状を理解。
勢い良く飛び起きた名無子の頭が三蔵の顎を直撃した。
「ぐッッ!!」
「あ、ごめん!…三蔵?」
「名無子大丈夫?すげー音したけど…たんこぶ出来てね??」
「う…うん、平気」
ベッドに身を起こした名無子の頭を悟空が心配そうに擦っていると、
「いっっ…てェ……なんだ…」
顎を擦りながらの見慣れた表情が、殺気混じりの視線を突き刺した。
それに怯むでもなく
「何だじゃありませんよ」
ぴしゃり、八戒の声が部屋の空気を変える。
「朝っぱらから名無子がいないって悟浄が大騒ぎするもんで探しに来てみれば…まさかこんなところに連れ込まれてるとは思いませんでしたよ」
怒気を孕んだ笑顔に慣れていない名無子の顔が見る見る内に青褪め、ベッドから飛び降り八戒に駆け寄った。
「違うよ、八戒。私が頼んでここにいさせてもらったの。
それにみんなが起きてくる前に戻れって言われてたのに寝ちゃってて…」
必死に訴えてくるが、八戒には後段の方が聞き捨てならなかった。
(つまりバレればこうなるのはわかっていたと…)
三蔵が引き込んだのでないにしろ、後ろめたい気持ちがあったのではないかと邪推もしたくなる。
「……三蔵…?」
その饒舌な視線と、恨めしげな視線と、不安げな視線と、特に何も考えていなそうな視線に、三蔵は血の巡りの遅い頭で状況を漸く把握。
(……面倒くせぇ…)
思わず零した舌打ちに、八戒の怒りゲージが上昇する。
「大体、あんなにがっちり抱き締められてたら起きたとしても戻るに戻れませんよ」
「あぁ?誰がンなこと―――」
「貴方ですよ三蔵。数分前までの貴方です!」
「は……はぁ!?」
記憶を辿っても、確かに背を向けて寝たはずと。
全く以て身に覚えのない事実を指摘され、流石に動揺の色が隠せなかった。
「八戒あのね」
「良いんですよ名無子。貴方に怒ってる訳じゃありませんから」
萎れ眉が釈明の気配を見せるがそれを笑顔で往なし、
「どういうことか説明してもらえますか?三蔵?」
器用に三蔵にだけ怒気の矛先を向ける。
一歩も引かないその態度に三蔵は肺の底から沸き上がるような溜息を吐くと、さも煩わしそうに言った。
「今こいつが言っただろうが。こいつがそれを望んで、俺が承知した。それだけの話だ。
朝っぱらから揃いも揃って何のつもりかは知らんが、外野はすっこんでろ」
その言葉が、負ったダメージを回復させるべく静観していた悟浄の癇に障った。
おろおろと狼狽え立ち竦む名無子の腰をぐいと抱き寄せ、顔を近付けると
「名無子ちゃん、今夜は俺と一緒に寝ない?」
笑顔を復活させ誘い掛ける。
空気を読まないその発言に名無子が目を白黒させ、
「あぁ?」
三蔵が威圧的な低音を響かせ、
「悟浄、貴方いきなり何言ってるんですか!」
八戒が悲鳴にも似た声で窘める。
が、本人はそれらを気にも止めず、三蔵を睨み付けると
「その理屈だったら、名無子ちゃんが承知すれば問題ないってこったろ。外野は黙ってろ」
苛立ちを挑発的な笑みで覆い隠し言い放った。
「ッッ…!」
思わず押し黙った三蔵から名無子へ視線を戻し、
「で、どう?名無子ちゃん。俺じゃダメ?」
片目を瞑り問い掛ける。
名無子が口を開くより早く、八戒の叱声が飛んだ。
「ダメに決まってるでしょう!そもそも貴方、女性関係で信用ないんですから!」
「おいおい。名無子ちゃんはもう身内みたいなもんだせ?お前が考えてるようなことマジですると思ってんのか?」
「それは……」
「どいつもこいつも…ギャーギャー煩ぇ!騒ぐなら余所でやれ!!」
「煩いって…三蔵貴方ねぇ!」
熱を増していく着地点の見えない諍いを終わらせたのは、
「名無子、飯行こうぜ」
そう言って名無子の腕を引いた悟空だった。
「悟空!話はまだ―――」
引き留めようとした八戒に返された声は、
「だってさ、みんな名無子の話全然聞かねーじゃん。だったらいてもいなくても一緒だろ」
その出処を怪しむ程に酷く冷徹で、誰もが動きを止め言葉を失う。
「行こ」
悟空に手を引かれた名無子が、不安げな眼差しを残して部屋を後にした。
扉の閉まる音から数秒、八戒は片手で顔を覆い嘆声を溢れさせた。
「三蔵、貴方一体どういうつもりなんですか…」
「どうもこうもあるか。さっき名無子が言った通りだ。それ以上でもそれ以下でもねぇ」
「はっ!説明は女に任せて自分はダンマリってか。流石チェリーちゃんはやることが違うねぇ」
「何だと…?」
「あーもう!!ちょっと悟浄こっちに!」
悟空のお陰で冷めた空気も、面子が変わらなければ元の木阿弥。
話が進まないと八戒は悟浄の腕を引き場所を変えることにした。
遠ざかっていく二人の声を静寂が拭い去る。
残された三蔵は煙草を咥えるとベッドのヘッドボードに背を預け、漸く訪れた安寧を胸一杯に吸い込んだ。
窓の向こう、雨はまだ止む気配もない。
無理矢理に覚醒させられた気怠さと、朝っぱらから喧騒へと叩き落された苛立ち。
好き放題言って去っていった連中の忌々しさと自身の行動に向けられる戸惑い。
妖怪の襲撃にあった方がまだマシだと思えるくらいには最悪の朝だったはず。
が―――
不思議と不快感が後を引かず、紫煙の如く解けていく。
ふと、何とはなしに視線を落とし、布団の傍らに手を伸ばした。
僅かに残った温もりを指でなぞってみる。
ふっと口の端に浮かんだ笑みは、誰の目にも止まらずとも確かにそこにあった。
部屋へ戻った八戒は、らしくもない荒い所作で椅子を引き身体を放るようにして腰を下ろした。
太腿に肘を付き項垂れ、吐き出した息が重く沈む。
その様子に空気を読んだ悟浄は黙って煙草に火を着け、八戒が口を開くのを待った。
「―――悟浄。貴方、どこまで本気なんです?」
顔を伏せたまま紡がれた問いに、
「んー…正直俺にもわかんね」
悟浄が答える。
それは、何の偽りも誤魔化しもない本心だった。
名無子が消えた―――その可能性が過ったときの血の一滴まで凍えるような感覚も、
三蔵に抱かれ眠る名無子を目にしたときの脳が沸騰するような感覚も、
それと断ずるには十分なものではあったが、
(出会って間もない女に抱く感情じゃねーべ…)
自身でも違和感は拭えず。
怪訝な表情で揺蕩う白煙を見詰める悟浄を、八戒が横目で見遣る。
(本気か遊びか、いずれかで即答できるようならまだ遣り様もあったんですが…)
ふぅと息を零し、額を押さえ天を仰ぐ。
「――と言うか、なんで僕こんなに憤慨してるんですかね…」
その急な温度変化に思わず悟浄が肩を滑らせる。
「うぉい。なぁに急に冷静になってんのよ…」
呆れ顔の悟浄に、八戒は苦笑とも自嘲ともとれる微妙な形の笑みを口元に浮かべた。
「大事にしたいだけなんですけどね…結果名無子を蔑ろにして悟空に指摘されるなんて…」
あの場において、一番冷静だったのは間違いなく悟空だった。
感情に駆られた自身を振り返り、悟浄もまた決まり悪そうに口を歪める。
「本当なら、喜ぶべきことなのに…」
ぽつり、独り言のように続けられた言葉を拾い、悟浄が問い返した。
「喜ぶ?なんで」
「名無子が自分から何かを望むなんて初めてでしょう?いつも僕達のことばかりで…
少しは自分のことを望めるようになればと、そうなって欲しいと思っていたはずなんですが、こうなるのは予想外過ぎて…少々感情的になってしまいました」
宙に向けて吐かれた懺悔じみた言葉に、恐る恐る問い質す。
「……お前こそ割りと本気だったりする?」
「本気ですよ。多分、貴方とは意味合いが違いますが」
即答し、ふふっと小さく笑った。
「なんでしょう。娘を持つ父親ってこんな感じなんですかね…」
「父親って…」
「半端な男には嫁にやりたくないんですよ」
「……それ、どんな男でもなんやかんや難癖つけて許さないやつじゃね?」
「そうですね。『お父さんと結婚するー』って言ってたあの頃が懐かしいです」
「おーい。記憶捏造してんじゃねーぞー」
「悟浄おじさんを警戒してたら三蔵おじさんに掻っ攫われるなんて」
「攫われてねぇよな?よな!?つかツッコミが追い付かねぇんだが!?」
困惑を滲ませる悟浄を横目に漸く調子が戻ってきたのか、八戒はいつもの微笑を引いて悟浄に向き合った。
「悟浄、二つだけ約束してくれませんか?」
「……何よ」
「一つは、ノリと勢いだけで手を出さないこと。名無子は想像以上に聡いですが、色恋に関しては子供みたいなものですから自衛は期待できません。
だからこそもう一つ。名無子の意に沿わないことは絶対にしないこと。
できますか?」
「一つ目はまぁ…気を付けるわ。二つ目に関しては端からそのつもりはねぇよ。わかってんだろ」
「一つ目も徹底してもらいたいところですが…まぁ二つ目が守られるなら良しとしましょう」
「俺よりも三蔵に言った方が良いんじゃねぇの?寧ろチェリーちゃんの方が何しでかすかわかったもんじゃないぜ?」
「まぁそれはわからなくはないですが、貴方程性欲持て余してる風でもないですしそれに…」
「おまっ……まぁいい。切りがねぇ…。それに?」
「名無子から一緒に寝たいって言ったのは本当みたいですから」
「………そりゃあ…あれだよ……」
「あれとは?」
「弟と一緒に寝たいー、的な?」
「少なくとも三蔵は弟のつもりは更々ないですし、僕と花喃みたいなことだってありますよ?」
双子の姉と恋仲だった八戒にそれを言われてしまうとぐうの音も出ない。
眉を寄せ、方向転換を図った。
「……ぶっちゃけ、悟浄おじさんと三蔵おじさんならどっちがアリなのよ」
「そんなの、どっちもナシに決まってるでしょう」
「言うと思った。ぜってー言うと思った!」
すっかり父親気分の八戒に嘆息をぶつける。
「……名無子ちゃん落とすよりお前納得させる方が難しそうだな」
「そう安々と大事な娘は渡しませんよ?」
にっこりと、形の良い笑みが煌めいた。
「―――ところで、話は変わるんですが」
「おう。是非変えてくれ」
「元々着てたのとデザインが同じで気付かなかったんですけどね」
「…?」
「名無子が着てたのって、三蔵の法衣ですよね。前のやつは僕の手元にありますし」
「…………話変わってねーじゃねぇか!!」
それどころか、三蔵の部屋に突撃したときの心境にまで引き戻された悟浄の叫喚が部屋に木霊した。
悟空は当然に寝ている時間だし起こしたとしてもどうせ起きやしない。
八戒は昨日寝ずの運転で疲れている上に雨の日は只でさえ眠りが浅いことを知っているが故に起こすのは忍びない。
三蔵にはそもそも用はない。
ならば眠らずこの時間も起きているであろう名無子の元を尋ねるのは至極当然―――
と言う理屈を捏ねてその実、ただ会いたかったからなどと柄にもない自分を自嘲しつつ、名無子の部屋のドアを叩く。
―――が、返ってくるのは沈黙だけ。
首を傾げつつ、仄かな期待を胸に静かにドアノブを回す。
「名無子ちゃーん…」
声を潜め、部屋を覗き込むも人の気配はない。
『 其は やがて消える 』
過った言葉に、悟浄の背が粟立った。
「……名無子!!」
名を呼び、部屋に踏み込む。
使用した形跡のないベッド、バスルーム。
どこにもその姿は見えない。
窓の外は未だ勢いの衰えない雨に濡れている。
一体何処へ―――まさか
心臓が早鐘を打ち、口の中が乾く。
(いや、落ち着け…まだそうと決まったわけじゃねーだろ…)
一先ず、探すにしても人手をと、向かったのは二つ隣の部屋。
「おい猿!起きろ!!」
ドアを壊さんばかりに開け放ち、ベッドへと早足で向かう。
「名無子がいねぇ!!探すの手伝え!」
「んぁ??名無子…?」
力任せに揺り起こされた悟空は、眠気眼を擦りながら体を起こすと
「名無子…三蔵んとこにいねぇ…?」
焦点の合わない瞳で寝言のように呟いた。
「………は?なんでそこで三蔵が出てくんだよ…」
「昨日夜、隣から名無子の声聞こえたし…今も気配…」
「っっ!?」
うつらうつら船を漕ぎながら紡がれた言葉に悟浄は直様隣室へと走った。
息を呑み、ドアノブへと手を掛ける。
開かない。鍵がかかっているようだ。
「おい三蔵!!開けろ!!」
ドアを叩く拳に力が籠もる。
物音一つしない数秒に舌打ち、正に蹴破ろうと片足を上げたその時だった。
「何事ですか悟浄」
廊下を挟んで反対側の扉が開き、八戒が顔を出した。
「名無子が部屋にいねーんだよ!」
「いないって…そこ三蔵の部屋ですよ?」
「んなこたわぁってるっつーの!悟空がここにいるんじゃねーかっつーから…」
息荒く、いつになく切羽詰まった表情の悟浄に八戒は状況を察すると、
「ちょっと待っててください」
一旦部屋へ引っ込み、そしてすぐに廊下へ出てきた。
その手には、一本の針金。
「今回は緊急事態ということで。何事もなければ怒られる役目は任せますよ」
鍵穴に針金を突っ込みながら冗談めかして言うも、その表情には悟浄と同様緊張の色が滲んでいる。
「おう任せろ。名無子が無事ならそれでいい。銃弾の一発や二発、喜んで受けてやるよ」
口の端を上げた八戒の耳に、小さな金属音が届いた。
「―――開けますよ」
部屋へ飛び込んだ二人が目にしたのは―――
「うっっ―――そだろ……」
「これは……」
膝から崩れ落ち蹲る悟浄と絶句し立ち竦む八戒の背後から、
「ふぁぁ〜…名無子、いたー?」
欠伸を零しながら悟空が部屋へ入ってきた。
二人の姿を怪訝な顔で見比べながら、向かうは八戒の視線の先。
「ほら。名無子いるじゃん」
「いる場所が問題だろうがよぉぉぉ……」
「そう…ですね…」
ベッドの上、三蔵の腕の中で寝顔を晒す探し人の姿がそこにはあった。
「そなの?ちゃんといるし寝れてるし、良かったじゃん!」
脳天気な笑顔の主は、情けない呻き声を上げる悟浄など気にも止めず
「すげー。三蔵の眉間に皺がねぇ。そんで全然起きねー!」
三蔵の眉間を指で押しながらけらけら笑っている。
「いや、まぁ…最悪な事態は免れて良かったですが……」
「そぉねぇぇ……最悪から数えて三番目に悪い事態だけどな…」
「この場合、銃弾の二、三発は受けますか…?」
「寧ろ撃ち込んでやりてーわ。あと勝手に増やすんじゃねー……」
「…ところで、最悪から二番目は何です?」
「そりゃあお前…三蔵と名無子ちゃんがはだk「あ、もう結構です」」
早々に精神疲労困憊の二人は扠置き、悟空が気付いた。
「あ、名無子起きる」
ぴくり動いた瞼から、焦点の合わない銀月が顔を出す。
「はよー名無子。ゆっくり寝れた?」
「っ!!」
顔を覗き込んだ悟空に、一瞬で覚醒。そして現状を理解。
勢い良く飛び起きた名無子の頭が三蔵の顎を直撃した。
「ぐッッ!!」
「あ、ごめん!…三蔵?」
「名無子大丈夫?すげー音したけど…たんこぶ出来てね??」
「う…うん、平気」
ベッドに身を起こした名無子の頭を悟空が心配そうに擦っていると、
「いっっ…てェ……なんだ…」
顎を擦りながらの見慣れた表情が、殺気混じりの視線を突き刺した。
それに怯むでもなく
「何だじゃありませんよ」
ぴしゃり、八戒の声が部屋の空気を変える。
「朝っぱらから名無子がいないって悟浄が大騒ぎするもんで探しに来てみれば…まさかこんなところに連れ込まれてるとは思いませんでしたよ」
怒気を孕んだ笑顔に慣れていない名無子の顔が見る見る内に青褪め、ベッドから飛び降り八戒に駆け寄った。
「違うよ、八戒。私が頼んでここにいさせてもらったの。
それにみんなが起きてくる前に戻れって言われてたのに寝ちゃってて…」
必死に訴えてくるが、八戒には後段の方が聞き捨てならなかった。
(つまりバレればこうなるのはわかっていたと…)
三蔵が引き込んだのでないにしろ、後ろめたい気持ちがあったのではないかと邪推もしたくなる。
「……三蔵…?」
その饒舌な視線と、恨めしげな視線と、不安げな視線と、特に何も考えていなそうな視線に、三蔵は血の巡りの遅い頭で状況を漸く把握。
(……面倒くせぇ…)
思わず零した舌打ちに、八戒の怒りゲージが上昇する。
「大体、あんなにがっちり抱き締められてたら起きたとしても戻るに戻れませんよ」
「あぁ?誰がンなこと―――」
「貴方ですよ三蔵。数分前までの貴方です!」
「は……はぁ!?」
記憶を辿っても、確かに背を向けて寝たはずと。
全く以て身に覚えのない事実を指摘され、流石に動揺の色が隠せなかった。
「八戒あのね」
「良いんですよ名無子。貴方に怒ってる訳じゃありませんから」
萎れ眉が釈明の気配を見せるがそれを笑顔で往なし、
「どういうことか説明してもらえますか?三蔵?」
器用に三蔵にだけ怒気の矛先を向ける。
一歩も引かないその態度に三蔵は肺の底から沸き上がるような溜息を吐くと、さも煩わしそうに言った。
「今こいつが言っただろうが。こいつがそれを望んで、俺が承知した。それだけの話だ。
朝っぱらから揃いも揃って何のつもりかは知らんが、外野はすっこんでろ」
その言葉が、負ったダメージを回復させるべく静観していた悟浄の癇に障った。
おろおろと狼狽え立ち竦む名無子の腰をぐいと抱き寄せ、顔を近付けると
「名無子ちゃん、今夜は俺と一緒に寝ない?」
笑顔を復活させ誘い掛ける。
空気を読まないその発言に名無子が目を白黒させ、
「あぁ?」
三蔵が威圧的な低音を響かせ、
「悟浄、貴方いきなり何言ってるんですか!」
八戒が悲鳴にも似た声で窘める。
が、本人はそれらを気にも止めず、三蔵を睨み付けると
「その理屈だったら、名無子ちゃんが承知すれば問題ないってこったろ。外野は黙ってろ」
苛立ちを挑発的な笑みで覆い隠し言い放った。
「ッッ…!」
思わず押し黙った三蔵から名無子へ視線を戻し、
「で、どう?名無子ちゃん。俺じゃダメ?」
片目を瞑り問い掛ける。
名無子が口を開くより早く、八戒の叱声が飛んだ。
「ダメに決まってるでしょう!そもそも貴方、女性関係で信用ないんですから!」
「おいおい。名無子ちゃんはもう身内みたいなもんだせ?お前が考えてるようなことマジですると思ってんのか?」
「それは……」
「どいつもこいつも…ギャーギャー煩ぇ!騒ぐなら余所でやれ!!」
「煩いって…三蔵貴方ねぇ!」
熱を増していく着地点の見えない諍いを終わらせたのは、
「名無子、飯行こうぜ」
そう言って名無子の腕を引いた悟空だった。
「悟空!話はまだ―――」
引き留めようとした八戒に返された声は、
「だってさ、みんな名無子の話全然聞かねーじゃん。だったらいてもいなくても一緒だろ」
その出処を怪しむ程に酷く冷徹で、誰もが動きを止め言葉を失う。
「行こ」
悟空に手を引かれた名無子が、不安げな眼差しを残して部屋を後にした。
扉の閉まる音から数秒、八戒は片手で顔を覆い嘆声を溢れさせた。
「三蔵、貴方一体どういうつもりなんですか…」
「どうもこうもあるか。さっき名無子が言った通りだ。それ以上でもそれ以下でもねぇ」
「はっ!説明は女に任せて自分はダンマリってか。流石チェリーちゃんはやることが違うねぇ」
「何だと…?」
「あーもう!!ちょっと悟浄こっちに!」
悟空のお陰で冷めた空気も、面子が変わらなければ元の木阿弥。
話が進まないと八戒は悟浄の腕を引き場所を変えることにした。
遠ざかっていく二人の声を静寂が拭い去る。
残された三蔵は煙草を咥えるとベッドのヘッドボードに背を預け、漸く訪れた安寧を胸一杯に吸い込んだ。
窓の向こう、雨はまだ止む気配もない。
無理矢理に覚醒させられた気怠さと、朝っぱらから喧騒へと叩き落された苛立ち。
好き放題言って去っていった連中の忌々しさと自身の行動に向けられる戸惑い。
妖怪の襲撃にあった方がまだマシだと思えるくらいには最悪の朝だったはず。
が―――
不思議と不快感が後を引かず、紫煙の如く解けていく。
ふと、何とはなしに視線を落とし、布団の傍らに手を伸ばした。
僅かに残った温もりを指でなぞってみる。
ふっと口の端に浮かんだ笑みは、誰の目にも止まらずとも確かにそこにあった。
部屋へ戻った八戒は、らしくもない荒い所作で椅子を引き身体を放るようにして腰を下ろした。
太腿に肘を付き項垂れ、吐き出した息が重く沈む。
その様子に空気を読んだ悟浄は黙って煙草に火を着け、八戒が口を開くのを待った。
「―――悟浄。貴方、どこまで本気なんです?」
顔を伏せたまま紡がれた問いに、
「んー…正直俺にもわかんね」
悟浄が答える。
それは、何の偽りも誤魔化しもない本心だった。
名無子が消えた―――その可能性が過ったときの血の一滴まで凍えるような感覚も、
三蔵に抱かれ眠る名無子を目にしたときの脳が沸騰するような感覚も、
それと断ずるには十分なものではあったが、
(出会って間もない女に抱く感情じゃねーべ…)
自身でも違和感は拭えず。
怪訝な表情で揺蕩う白煙を見詰める悟浄を、八戒が横目で見遣る。
(本気か遊びか、いずれかで即答できるようならまだ遣り様もあったんですが…)
ふぅと息を零し、額を押さえ天を仰ぐ。
「――と言うか、なんで僕こんなに憤慨してるんですかね…」
その急な温度変化に思わず悟浄が肩を滑らせる。
「うぉい。なぁに急に冷静になってんのよ…」
呆れ顔の悟浄に、八戒は苦笑とも自嘲ともとれる微妙な形の笑みを口元に浮かべた。
「大事にしたいだけなんですけどね…結果名無子を蔑ろにして悟空に指摘されるなんて…」
あの場において、一番冷静だったのは間違いなく悟空だった。
感情に駆られた自身を振り返り、悟浄もまた決まり悪そうに口を歪める。
「本当なら、喜ぶべきことなのに…」
ぽつり、独り言のように続けられた言葉を拾い、悟浄が問い返した。
「喜ぶ?なんで」
「名無子が自分から何かを望むなんて初めてでしょう?いつも僕達のことばかりで…
少しは自分のことを望めるようになればと、そうなって欲しいと思っていたはずなんですが、こうなるのは予想外過ぎて…少々感情的になってしまいました」
宙に向けて吐かれた懺悔じみた言葉に、恐る恐る問い質す。
「……お前こそ割りと本気だったりする?」
「本気ですよ。多分、貴方とは意味合いが違いますが」
即答し、ふふっと小さく笑った。
「なんでしょう。娘を持つ父親ってこんな感じなんですかね…」
「父親って…」
「半端な男には嫁にやりたくないんですよ」
「……それ、どんな男でもなんやかんや難癖つけて許さないやつじゃね?」
「そうですね。『お父さんと結婚するー』って言ってたあの頃が懐かしいです」
「おーい。記憶捏造してんじゃねーぞー」
「悟浄おじさんを警戒してたら三蔵おじさんに掻っ攫われるなんて」
「攫われてねぇよな?よな!?つかツッコミが追い付かねぇんだが!?」
困惑を滲ませる悟浄を横目に漸く調子が戻ってきたのか、八戒はいつもの微笑を引いて悟浄に向き合った。
「悟浄、二つだけ約束してくれませんか?」
「……何よ」
「一つは、ノリと勢いだけで手を出さないこと。名無子は想像以上に聡いですが、色恋に関しては子供みたいなものですから自衛は期待できません。
だからこそもう一つ。名無子の意に沿わないことは絶対にしないこと。
できますか?」
「一つ目はまぁ…気を付けるわ。二つ目に関しては端からそのつもりはねぇよ。わかってんだろ」
「一つ目も徹底してもらいたいところですが…まぁ二つ目が守られるなら良しとしましょう」
「俺よりも三蔵に言った方が良いんじゃねぇの?寧ろチェリーちゃんの方が何しでかすかわかったもんじゃないぜ?」
「まぁそれはわからなくはないですが、貴方程性欲持て余してる風でもないですしそれに…」
「おまっ……まぁいい。切りがねぇ…。それに?」
「名無子から一緒に寝たいって言ったのは本当みたいですから」
「………そりゃあ…あれだよ……」
「あれとは?」
「弟と一緒に寝たいー、的な?」
「少なくとも三蔵は弟のつもりは更々ないですし、僕と花喃みたいなことだってありますよ?」
双子の姉と恋仲だった八戒にそれを言われてしまうとぐうの音も出ない。
眉を寄せ、方向転換を図った。
「……ぶっちゃけ、悟浄おじさんと三蔵おじさんならどっちがアリなのよ」
「そんなの、どっちもナシに決まってるでしょう」
「言うと思った。ぜってー言うと思った!」
すっかり父親気分の八戒に嘆息をぶつける。
「……名無子ちゃん落とすよりお前納得させる方が難しそうだな」
「そう安々と大事な娘は渡しませんよ?」
にっこりと、形の良い笑みが煌めいた。
「―――ところで、話は変わるんですが」
「おう。是非変えてくれ」
「元々着てたのとデザインが同じで気付かなかったんですけどね」
「…?」
「名無子が着てたのって、三蔵の法衣ですよね。前のやつは僕の手元にありますし」
「…………話変わってねーじゃねぇか!!」
それどころか、三蔵の部屋に突撃したときの心境にまで引き戻された悟浄の叫喚が部屋に木霊した。