第一章
貴女のお名前は?
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それは、月見日和とは言い難い夜だった。
秋宵に降り出した驟雨が庭を濡らし、雨足は時と共に弱まってはきたものの
しつこく空気を湿らせ、薄い雲が空を覆っている。
その彼方にあるはずの望月を何とはなしに待ちながら、とある寺院の縁側で盃を傾けている男が一人。
長い黄金色の髪を一つに束ね、縁の柱に背を預けたその男は、どこに視線を定めるでもなく
ぼんやりと庭の方へ向き、片膝を立て座っている。
月見酒の予定であった今宵にあって、思いがけず望月を隠した雨雲を恨めしむこともなく
雨夜もそれはそれで一興と、唇に薄く浮かぶ微笑を酒で濡らしながら目を閉じ、
何処からか漂ってくる淡い銀桂の香を聞いている。
元より、月に誘われて酒席を設けたわけではない。
月見も、所詮は口実だった。
月が出れば月を、雨が降れば雨を、凪の闇夜ですらその静寂を肴に酒を愉しむ。
光明三蔵とはそういった男であった。
「―――おや」
瓶子の酒も半ばとなった頃、不意に光明の視界が明るんだ。
細雨に煙る大気の向こう、千切れた雲の裂け間から顔を出したのは銀色に輝く望月。
待ち侘びた―――と言っても既に今宵相見えることは諦めつつあったのだが―――
その姿に光明は微笑むと、盃を月に掲げた。
「挙杯邀明月 対影成三人、ですかね」
夜更けの思わぬ戯雨と銀月の共演に盃は進む。
細められた双眸を見開かせたのは、空になった瓶子ではなかった。
雨に濡れ静まり返った庭を照らす月光。
その光が、まるでレンズを通したかのように空から一点に収束してゆく。
揺らぎ、瞬き、踊るように集まった光は徐々にその形を成し、
やがて一つの影をその空間に描き上げた。
それは、人の形をしていた。
こちらに背を向け、地面よりも一尺ほど上方の空間に浮かんでいる。
腰よりも長い、月光を紡いだような銀糸の髪に、すらりと伸びた細い四肢。
朽ちた襤褸布を巻き付けただけのようにも見える衣を唯一つ纏ったその背姿を、
光明は暫し瞬きも忘れ見詰めていたが、ふと我に返り、
「本当に三人になりましたねぇ…」
小さく呟き、腰を上げた。
「風邪、引きますよ」
そう言って差し出された傘に、女が振り返る。
いつの間にか地に足を着き、見上げ来るその瞳は闇夜に滲む銀月に似た色をしていた。
雨を含んだ髪から落ちた雫が足元の水溜りに波紋を広げた。
嫦娥か魔魅か―――
例え顕現するその瞬間を目にしていなかったとしても、そう思ったことだろう。
人の形をしている。女の形をしている。
しかし、その恐ろしいまでに整い過ぎた相貌が、
何よりその気配が人間のそれとも、妖怪のそれとも思わせなかった。
強いて言えば、天の向こうに御わすはずの慈愛と慈悲の象徴たる一柱のそれに似ている気もしたがどこか違う。
言い知れぬ感覚を扠置き、光明は口を開いた。
「えっと……良かったら、中に入りませんか?」
酩酊したかのように碌に働かない思考から何とか絞り出した言葉は
その場の全てに相応しくない言葉に思えて、光明は自嘲気味に困り顔の頬を掻いた。
感情の見えない人形のような表情が、柔らかな夜風にも似た微笑を浮かべた。
「とりあえず、これに着替えてください」
女を連れ自室に入った光明は、一先ずと女にタオルと自身の法衣と肌付けを差し出した。
それを受け取った女が、徐にずぶ濡れの衲衣に手をかける。
「ちょっ!と待ってください!!」
その動作の先を予見し、息を吹き返した良識が思わず声を跳ねさせる。
手を伸ばしそれを静止すると、光明は女に背を向けその場に座した。
「身体拭いて、着替え終わったら声掛けてください」
咳払いで心音を誤魔化し、そう言って息を吐く。
(最高僧だって男なんですよ……)
それがどんな存在であれ、女の形をしている以上―――寧ろ見目麗し過ぎる美貌の持ち主相手だからこそ、か、平静を装うことだけで精一杯だった。
修行時にもそうそう顔を出さない集中力をもって、背後に聞こえる布擦れの音を極力意識の外に。
そうして数分、
「着替えたよ」
繊細な薄硝子の鈴を鳴らしたような声が光明の耳に届けられた。
一抹の不安とともに、振り返る。
その存在の不明瞭さに、果たして言葉が通じるのかすら怪しんでいた光明だったが
幸いにもそれは杞憂に終わったらしい。
期待していたとおりに着替えを終え、余った着丈も腰元で器用に端折って帯で留め、身丈に合わせているようだ。
しかし、頭に載せられたままの白いタオルにくすり、笑みを零し
「座ってください」
と促す。
言われるが侭に座った女の背後に回ると、光明もまた腰を下ろした。
「さて、何を言えばよいのやら…」
夜雨を含んだ髪を拭いてやりながら、心の内をそのまま音にした。
聞きたいことは山ほどある。そのはずなのに、何故かその全てがどうでも良いことのようにも思えた。
纏まらない思考を暫し諦め、糸口を探すべく杓子定規な問いを投げてみる。
「とりあえず…お名前は?」
僅かに顔と視線を上方に向けた女が、
「ない……わからない…?」
言って、首を傾げた。
ふむ、と光明。
さして驚きもせず、問いを重ねる。
「どうしてここに?」
「何か、探していた気もするけど…思い出せない。
気が付いたらここにいて、貴方がいた」
凡そ想定の範囲内。しかし、光明の当惑は一層深まる。
それを察したのだろうか、
「ごめん、何もわからない…」
俯いた銀色が、小さな声を零した。
思いがけず瞬いた光明だったが、すぐに唇に笑みを戻し、重さを増したタオルを手に立ち上がると女の正面に再び座し
「第三十代唐亜光明三蔵と言います。こんばんは」
今更な名乗りと、場違いにも思える挨拶を微笑に乗せた。
その名の響きに、女の鼓動が揺らぐ。
何かが心を掠めた気がしたが、その根を辿ることはできなかった。
丸く見開かれた、光を含んだ薄墨の瞳が、やがて柔らかく細められる。
「三蔵……こんばんは」
今し方目にしたばかりの、空から降り注ぐ月光を想起させる微笑みに、
光明の胸に懸かっていた薄雲のような不安は一瞬で霧散した。
(まぁ…いいじゃないですか、何でも)
自身をくすりと笑い、漸く正常となった思考をここぞとばかりに働かせる。
(女人禁制…は、何とかなるとして…)
どんなに厳格な戒律も、光明の前では大した意味をなさない。
それは最高僧たる地位に依るものではなく、光明三蔵生来の性質によるもの。
周囲からの小言も諫言も今更だ。
とは言え、今回に関しては多少手回しと理論武装が必要かとも思いつつ、知略を巡らせる。
何が光明にそうさせたのか、光明自身も判りかねていたものの、
まるでそれが当然で、必然であるかのように感じていた。
「…三蔵?」
少し不安げな声に、光明は顔を上げた。
「あぁ、すみません。どうやって貴女を連れて行こうかと思案していまして」
何でもないことのようにそう言って光明が笑う。
ぱち、ぱち、と、目を瞬かせた女が口を開いた。
「連れて行ってくれるの?」
「はい。嫌ですか?」
当人の意向など端から慮外ではあったものの、念の為、と尋ねてみれば
「ううん、行く」
勢いよく横に振られた首と、小さな花が咲くような笑顔がそう答えた。
「良かったです。では先ず―――寝ましょうか」
口元に笑みを引いたまま、ぱん、と手を打った光明に女が首を傾げる。
至極当然の反応を笑いながら、光明は言葉を続けた。
「もう夜も遅いですしねぇ。悪巧みは起きてからにしましょう」
悪戯っぽくそう言って傍らに敷いてあった布団に手を伸ばし、それを軽く叩いてみせる。
「あ、勿論私は他の部屋で寝ますので安心してください」
女は何も言わない。黙って、光明の示した布団を見詰めている。
その様子に、
「……どうしました?」
問い掛けた光明に返されたのは
「寝る……寝たことない…」
思いもよらない言葉と困り顔だった。
「えっと……眠り方がわからない…?」
こくりと女が頷く。
流石の光明も言葉に詰まった。
人ならぬものと理解ってはいたものの、生物に共通する生理的欲求の満たし方を問われると
どう答えれば良いものか。
(ただ”わからない”だけなのか、それとも必要ないのか…)
判じかね、一思案。
一先ず試しに、と、導き出した答えに光明は従うことにした。
「とりあえず、布団に入りましょうか」
布団の横へ移動すると掛け布団をめくり、女を誘う。
言われたとおり横になった女に布団を掛けてやると、自身もその布団の傍らで
肘枕に身を横たえた。
「目を閉じて、ゆっくり息をしてください。もし寝れるようならそのまま寝ちゃいましょう」
子供を寝かしつけるように、布団の上からぽん、ぽん、と一定のリズムで優しく胸元を叩いてやりながら言う。
「うん」
そのまま、暫く。
規則的な布擦れの音だけが響く部屋で、ふと、光明が口を開いた。
「―――名無子」
瞼に覆われていた女の目が銀月を覗かせ、あ、と光明が音を零した。
「あはは、すみません。眠りの邪魔をしてしまいましたね」
「名無子、って?」
布団を叩いていた手を止め、苦笑いの光明に女が視線を向ける。
「いえ、貴女の名前、何にしようかなぁって考えてたんですけど。口に出ちゃってましたね」
ないと不便でしょう?と、続けて。
数秒、天井に向いた女の視線が、再び光明を捉えた。
「名無子……うん、それがいい。私の名前」
返された言葉が光明の頬を喜色に染める。
「そうですか。気に入ってもらえたなら何よりです」
じゃあ、と微笑み、起こしたついでと光明は話し始めた。
「名無子。弟、欲しくないですか?」
「………」
怪訝そうな視線、沈黙の意味を捉え苦笑い。
「あ。いえ、私ではなくて」
「…なんだ」
人間で言えば自身の半分かそこらの年齢に見える女に、姉になって欲しいと宣うような人間に思われたのだろうかとやや消沈しつつ、話を戻す。
「もう少ししたら戻る私の寺に、私の弟子…というか、息子みたいな子がいるんです。江流っていう名前なんですけどね。
その子のお姉さんになってくれたらなぁって思いまして」
「……ここじゃなくて?」
「えぇ。今は諸国巡歴中と言いますか、明日にはここを発つ予定ですよ」
「お姉さん……」
「その性格のせいか、他の若い弟子達とは折り合いが悪いみたいで。
いえ、可愛い子なんですよ。可愛げがないだけで」
変わらぬ笑みで今一つフォローになっていないフォローを添えて、
「私が親代わりになっているとは言え、もう少し近い年で彼と仲良くできる家族がいたらなぁって」
だから、貴女さえ良ければ。と。
答えを待つ光明に、
「うん。わかった。お姉さんになる」
そう言って名無子は頷いた。
「それは良かった。ありがとうございます。帰ったら改めて紹介しますが、仲良くしてあげてくださいね」
「うん」
弾ませた声に名無子が微笑み再び頷く。
他にも話すべきことはあったはずなのに、と思いつつ、その笑みだけで何故か満たされたような、何かを果たしたような気がして。
(あとは、明日で良いですかね―――)
今一度、布団を叩く手を動かし、仕切り直し。
「邪魔してすみませんでした。名無子。おやすみなさい」
「うん。おやすみなさい、三蔵」
交わした名が、辞が、互いの口の端を彩る。
閉じられた瞼。
微かな吐息が色を変え、いつしか二つ重なり、静寂に溶けていく。
” おはよう ”
対となるはずのその言葉は、最後まで交わることはなかった。
秋宵に降り出した驟雨が庭を濡らし、雨足は時と共に弱まってはきたものの
しつこく空気を湿らせ、薄い雲が空を覆っている。
その彼方にあるはずの望月を何とはなしに待ちながら、とある寺院の縁側で盃を傾けている男が一人。
長い黄金色の髪を一つに束ね、縁の柱に背を預けたその男は、どこに視線を定めるでもなく
ぼんやりと庭の方へ向き、片膝を立て座っている。
月見酒の予定であった今宵にあって、思いがけず望月を隠した雨雲を恨めしむこともなく
雨夜もそれはそれで一興と、唇に薄く浮かぶ微笑を酒で濡らしながら目を閉じ、
何処からか漂ってくる淡い銀桂の香を聞いている。
元より、月に誘われて酒席を設けたわけではない。
月見も、所詮は口実だった。
月が出れば月を、雨が降れば雨を、凪の闇夜ですらその静寂を肴に酒を愉しむ。
光明三蔵とはそういった男であった。
「―――おや」
瓶子の酒も半ばとなった頃、不意に光明の視界が明るんだ。
細雨に煙る大気の向こう、千切れた雲の裂け間から顔を出したのは銀色に輝く望月。
待ち侘びた―――と言っても既に今宵相見えることは諦めつつあったのだが―――
その姿に光明は微笑むと、盃を月に掲げた。
「挙杯邀明月 対影成三人、ですかね」
夜更けの思わぬ戯雨と銀月の共演に盃は進む。
細められた双眸を見開かせたのは、空になった瓶子ではなかった。
雨に濡れ静まり返った庭を照らす月光。
その光が、まるでレンズを通したかのように空から一点に収束してゆく。
揺らぎ、瞬き、踊るように集まった光は徐々にその形を成し、
やがて一つの影をその空間に描き上げた。
それは、人の形をしていた。
こちらに背を向け、地面よりも一尺ほど上方の空間に浮かんでいる。
腰よりも長い、月光を紡いだような銀糸の髪に、すらりと伸びた細い四肢。
朽ちた襤褸布を巻き付けただけのようにも見える衣を唯一つ纏ったその背姿を、
光明は暫し瞬きも忘れ見詰めていたが、ふと我に返り、
「本当に三人になりましたねぇ…」
小さく呟き、腰を上げた。
「風邪、引きますよ」
そう言って差し出された傘に、女が振り返る。
いつの間にか地に足を着き、見上げ来るその瞳は闇夜に滲む銀月に似た色をしていた。
雨を含んだ髪から落ちた雫が足元の水溜りに波紋を広げた。
嫦娥か魔魅か―――
例え顕現するその瞬間を目にしていなかったとしても、そう思ったことだろう。
人の形をしている。女の形をしている。
しかし、その恐ろしいまでに整い過ぎた相貌が、
何よりその気配が人間のそれとも、妖怪のそれとも思わせなかった。
強いて言えば、天の向こうに御わすはずの慈愛と慈悲の象徴たる一柱のそれに似ている気もしたがどこか違う。
言い知れぬ感覚を扠置き、光明は口を開いた。
「えっと……良かったら、中に入りませんか?」
酩酊したかのように碌に働かない思考から何とか絞り出した言葉は
その場の全てに相応しくない言葉に思えて、光明は自嘲気味に困り顔の頬を掻いた。
感情の見えない人形のような表情が、柔らかな夜風にも似た微笑を浮かべた。
「とりあえず、これに着替えてください」
女を連れ自室に入った光明は、一先ずと女にタオルと自身の法衣と肌付けを差し出した。
それを受け取った女が、徐にずぶ濡れの衲衣に手をかける。
「ちょっ!と待ってください!!」
その動作の先を予見し、息を吹き返した良識が思わず声を跳ねさせる。
手を伸ばしそれを静止すると、光明は女に背を向けその場に座した。
「身体拭いて、着替え終わったら声掛けてください」
咳払いで心音を誤魔化し、そう言って息を吐く。
(最高僧だって男なんですよ……)
それがどんな存在であれ、女の形をしている以上―――寧ろ見目麗し過ぎる美貌の持ち主相手だからこそ、か、平静を装うことだけで精一杯だった。
修行時にもそうそう顔を出さない集中力をもって、背後に聞こえる布擦れの音を極力意識の外に。
そうして数分、
「着替えたよ」
繊細な薄硝子の鈴を鳴らしたような声が光明の耳に届けられた。
一抹の不安とともに、振り返る。
その存在の不明瞭さに、果たして言葉が通じるのかすら怪しんでいた光明だったが
幸いにもそれは杞憂に終わったらしい。
期待していたとおりに着替えを終え、余った着丈も腰元で器用に端折って帯で留め、身丈に合わせているようだ。
しかし、頭に載せられたままの白いタオルにくすり、笑みを零し
「座ってください」
と促す。
言われるが侭に座った女の背後に回ると、光明もまた腰を下ろした。
「さて、何を言えばよいのやら…」
夜雨を含んだ髪を拭いてやりながら、心の内をそのまま音にした。
聞きたいことは山ほどある。そのはずなのに、何故かその全てがどうでも良いことのようにも思えた。
纏まらない思考を暫し諦め、糸口を探すべく杓子定規な問いを投げてみる。
「とりあえず…お名前は?」
僅かに顔と視線を上方に向けた女が、
「ない……わからない…?」
言って、首を傾げた。
ふむ、と光明。
さして驚きもせず、問いを重ねる。
「どうしてここに?」
「何か、探していた気もするけど…思い出せない。
気が付いたらここにいて、貴方がいた」
凡そ想定の範囲内。しかし、光明の当惑は一層深まる。
それを察したのだろうか、
「ごめん、何もわからない…」
俯いた銀色が、小さな声を零した。
思いがけず瞬いた光明だったが、すぐに唇に笑みを戻し、重さを増したタオルを手に立ち上がると女の正面に再び座し
「第三十代唐亜光明三蔵と言います。こんばんは」
今更な名乗りと、場違いにも思える挨拶を微笑に乗せた。
その名の響きに、女の鼓動が揺らぐ。
何かが心を掠めた気がしたが、その根を辿ることはできなかった。
丸く見開かれた、光を含んだ薄墨の瞳が、やがて柔らかく細められる。
「三蔵……こんばんは」
今し方目にしたばかりの、空から降り注ぐ月光を想起させる微笑みに、
光明の胸に懸かっていた薄雲のような不安は一瞬で霧散した。
(まぁ…いいじゃないですか、何でも)
自身をくすりと笑い、漸く正常となった思考をここぞとばかりに働かせる。
(女人禁制…は、何とかなるとして…)
どんなに厳格な戒律も、光明の前では大した意味をなさない。
それは最高僧たる地位に依るものではなく、光明三蔵生来の性質によるもの。
周囲からの小言も諫言も今更だ。
とは言え、今回に関しては多少手回しと理論武装が必要かとも思いつつ、知略を巡らせる。
何が光明にそうさせたのか、光明自身も判りかねていたものの、
まるでそれが当然で、必然であるかのように感じていた。
「…三蔵?」
少し不安げな声に、光明は顔を上げた。
「あぁ、すみません。どうやって貴女を連れて行こうかと思案していまして」
何でもないことのようにそう言って光明が笑う。
ぱち、ぱち、と、目を瞬かせた女が口を開いた。
「連れて行ってくれるの?」
「はい。嫌ですか?」
当人の意向など端から慮外ではあったものの、念の為、と尋ねてみれば
「ううん、行く」
勢いよく横に振られた首と、小さな花が咲くような笑顔がそう答えた。
「良かったです。では先ず―――寝ましょうか」
口元に笑みを引いたまま、ぱん、と手を打った光明に女が首を傾げる。
至極当然の反応を笑いながら、光明は言葉を続けた。
「もう夜も遅いですしねぇ。悪巧みは起きてからにしましょう」
悪戯っぽくそう言って傍らに敷いてあった布団に手を伸ばし、それを軽く叩いてみせる。
「あ、勿論私は他の部屋で寝ますので安心してください」
女は何も言わない。黙って、光明の示した布団を見詰めている。
その様子に、
「……どうしました?」
問い掛けた光明に返されたのは
「寝る……寝たことない…」
思いもよらない言葉と困り顔だった。
「えっと……眠り方がわからない…?」
こくりと女が頷く。
流石の光明も言葉に詰まった。
人ならぬものと理解ってはいたものの、生物に共通する生理的欲求の満たし方を問われると
どう答えれば良いものか。
(ただ”わからない”だけなのか、それとも必要ないのか…)
判じかね、一思案。
一先ず試しに、と、導き出した答えに光明は従うことにした。
「とりあえず、布団に入りましょうか」
布団の横へ移動すると掛け布団をめくり、女を誘う。
言われたとおり横になった女に布団を掛けてやると、自身もその布団の傍らで
肘枕に身を横たえた。
「目を閉じて、ゆっくり息をしてください。もし寝れるようならそのまま寝ちゃいましょう」
子供を寝かしつけるように、布団の上からぽん、ぽん、と一定のリズムで優しく胸元を叩いてやりながら言う。
「うん」
そのまま、暫く。
規則的な布擦れの音だけが響く部屋で、ふと、光明が口を開いた。
「―――名無子」
瞼に覆われていた女の目が銀月を覗かせ、あ、と光明が音を零した。
「あはは、すみません。眠りの邪魔をしてしまいましたね」
「名無子、って?」
布団を叩いていた手を止め、苦笑いの光明に女が視線を向ける。
「いえ、貴女の名前、何にしようかなぁって考えてたんですけど。口に出ちゃってましたね」
ないと不便でしょう?と、続けて。
数秒、天井に向いた女の視線が、再び光明を捉えた。
「名無子……うん、それがいい。私の名前」
返された言葉が光明の頬を喜色に染める。
「そうですか。気に入ってもらえたなら何よりです」
じゃあ、と微笑み、起こしたついでと光明は話し始めた。
「名無子。弟、欲しくないですか?」
「………」
怪訝そうな視線、沈黙の意味を捉え苦笑い。
「あ。いえ、私ではなくて」
「…なんだ」
人間で言えば自身の半分かそこらの年齢に見える女に、姉になって欲しいと宣うような人間に思われたのだろうかとやや消沈しつつ、話を戻す。
「もう少ししたら戻る私の寺に、私の弟子…というか、息子みたいな子がいるんです。江流っていう名前なんですけどね。
その子のお姉さんになってくれたらなぁって思いまして」
「……ここじゃなくて?」
「えぇ。今は諸国巡歴中と言いますか、明日にはここを発つ予定ですよ」
「お姉さん……」
「その性格のせいか、他の若い弟子達とは折り合いが悪いみたいで。
いえ、可愛い子なんですよ。可愛げがないだけで」
変わらぬ笑みで今一つフォローになっていないフォローを添えて、
「私が親代わりになっているとは言え、もう少し近い年で彼と仲良くできる家族がいたらなぁって」
だから、貴女さえ良ければ。と。
答えを待つ光明に、
「うん。わかった。お姉さんになる」
そう言って名無子は頷いた。
「それは良かった。ありがとうございます。帰ったら改めて紹介しますが、仲良くしてあげてくださいね」
「うん」
弾ませた声に名無子が微笑み再び頷く。
他にも話すべきことはあったはずなのに、と思いつつ、その笑みだけで何故か満たされたような、何かを果たしたような気がして。
(あとは、明日で良いですかね―――)
今一度、布団を叩く手を動かし、仕切り直し。
「邪魔してすみませんでした。名無子。おやすみなさい」
「うん。おやすみなさい、三蔵」
交わした名が、辞が、互いの口の端を彩る。
閉じられた瞼。
微かな吐息が色を変え、いつしか二つ重なり、静寂に溶けていく。
” おはよう ”
対となるはずのその言葉は、最後まで交わることはなかった。
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