もし高杉晋作が高校の同級生だったら
高杉重工。
新興企業でありながら、その勢いはもはや並の企業ではとどめることすらできない恐ろしい成長を遂げた奇跡の会社。
そのあまりの躍進ぶりに後ろ暗い連中との付き合いが噂される時期もあったが、それ以来マスコミの音沙汰がないということは真実ではなかったのだろう。
ともあれ、そんな高杉重工本社の前で、呆然と私は社屋を見上げていた。
天を突く本社ビルは二十階建て。社長のインタビューによると百階建てにしたかったらしいが、周りに叱られて止めたのだという。
二十階建てだとしても十二分に高層建築の域だ。それを会社を興して十年も経っていない人物が占有しているのだというのだから、その勢いが相当だということは誰の目にも明らかだった。
もちろん、私の前の職場がそんな大それた規模のものではないことは言うまでもない。
「場違い、だよね私……」
一応初日なのだからと数年越しの黒スーツを引っ張り出してきてはみたが、これではお上りさんの就活生にしか見えないだろう。
周りを行き交う洗練された雰囲気のエリートたちを見るたびに、肩身の狭い思いがして私は道の端に寄っていった。
そもそも明日ここに出勤しろとは言われていたが、どうやって入ればいいのか。
当然だが社員証なんて持たされていないし、一応名刺は渡されたが何かメモが書いてあるわけでもない。これでは受付で止められてそのまま帰ることになるだろう。
もしかしたら……「うちで働かない?」なんてただの軽口だったのかもしれない。成功者である高杉が気まぐれで言ったことを私が真に受けているだけなのかも。
そんな発想が浮かぶほど鬱々としながら、一応社屋に入る。
途端に広がっていたのは広大な玄関ホールだ。ホテルのロビーかというほど磨かれた床。なぜか設置してある噴水と、その中央に鎮座する社長の銅像。
自己顕示欲のなせるわざなのか、それとも遊び心のなせるわざなのか。不思議と後者のような気がして嫌な印象は受けなかった。
時間は朝の八時半。始業時間が九時だと仮定すれば、それほど邪魔ではない時間のはずだ。
予想を裏付けるように、出勤してきたとおぼしい社員たちが社員証をかざしてビルの奥へと入っていくのが見える。彼らは見るからに部外者の私には目もくれていない。
とにかく。受付で聞いてみないことには始まらない。
私は意を決すると、入ってすぐのところにあった受付に声をかけた。
「失礼します。私、高杉社長に言われて来た者なのですが……」
「アポイントメントをされた方ですね。何時からのお約束でしょうか」
「えっと……」
そう聞かれると困ってしまう。というか高杉は私が来ることを伝えていないのだろうか。
そうしているうちに沈黙は続き、受付の女性の目は胡乱なものになっていく。通り過ぎる社員たちの目も厳しい。
私は冷や汗をかきながらうつむいてしまう。
やっぱりあれはただの冗談だったんだ。昨日のことを本気にしていたのは私だけで――
「やあ、君じゃないか! こんなに早くにどうしたんだい?」
突然肩を抱かれ、私の体は斜めになる。
顔を上げた私の目に映ったのは長くてしなやかな赤色の髪。そして、上機嫌に細められた高杉の目だった。
「た、高杉くん……」
「いやあ、まさか30分前行動をされるとはね。受付への連絡なんて朝すればいいと思ってたのに目算が外れたよ」
「30分前も何も、時間指定されてないし……」
「おやそうだったか。それは悪いことをしたな。許してくれないか?」
肩を抱いたまま覗き込まれるものだから、至近距離で整った顔を直視してしまい、私はさすがに赤面する。
身にまとった傾いた和服からもほのかに甘い香水の香りがして落ち着かない。
「うん? どうかしたか? 急に黙って」
「えっ、ううんちょっと……良い匂いだなって……」
表情豊かな猫のような目をぱちぱちとさせながら尋ねてくるものだから、焦って的外れな返事をしてしまった。
すると高杉はふふんと嬉しそうに鼻を鳴らすと、上機嫌にさらに体を寄せてきた。
「そうだろうそうだろう! 今日の香りはバニラなんだ! 花よりも美味しそうでいいと思わないか? ほら、うなじにつけてるんだよ嗅いでみたまえ!」
「そ、それはちょっと……!」
長い髪を持ち上げて迫る高杉から私は距離を取る。ウィッグとは言っていたが髪にも気を遣っているのだろう。さらさらと落ちる髪からも落ち着いた甘い匂いが漂ってきた。
「そうかい? 遠慮しなくてもいいのにな。受付の君もそう思うだろう?」
突然無茶ぶりをされて、受付の女性は苦笑いをした。それでも慌てないところを見るに日常茶飯事なのだろう。
「まあいいか。初出勤を邪魔してすまないね。じゃあ、僕はこれで」
「ち、ちょっと待って高杉くん!」
慌てて呼び止めると、高杉はつまらなそうな表情で振り返った。相変わらずの感情ジェットコースターっぷりだが、ここで見捨てられたら元の木阿弥だ。
「わ、私これからどこに行けばいいかわかってなくて……!」
「……ああ! そうだよな! わかってるわかってる。からかっただけだって」
「……本当に? 忘れていただけじゃなくて?」
「ははは、まさか!」
ごまかすように高笑いをする高杉に私はほっと息を吐く。
「じゃあ……案内お願いしてもいい?」
「いいとも。光栄に思いたまえよ、社長直々のご案内だ」
「あはは……」
どうやら社長専用らしい通路を通って、私は社屋の奥へと進む。
周囲の人間がいなくなったところで、高杉は私に顔を寄せてきた。
「あとここでは高杉社長と呼びなよ。周りに示しがつかないだろう?」
「す、すみません、高杉社長」
「よろしい。……でも同輩に社長呼びされるのってなんか背徳的だな。そういうプレイに聞こえないか? 僕、社会的に大丈夫か?」
「うーん、他の同級生に会ったらどう言われるか……」
「嘘だろう!? この年でそういうのはさすがに嫌だぞ!?」
大げさにショックを受ける高杉に私はくすくすと笑ってしまう。そんな私を見て、高杉は満足そうな顔になった。
「よし。ようやく笑ったな!」
「え?」
「どんな仕事でも面白くなければ始まらないからな! どんな経緯であれ、ここで働く以上は今までみたいな辛気くさい顔はごめんだぞ!」
どこからか扇子を取り出して高杉は笑う。私はまたそれを見て笑ってしまいながら礼を言う。
「なんか……ありがとう、気を遣ってくれて」
「いいってことさ。婦女子を泣かせたままにしておくのは長州一の色男のすることじゃないからな」
「あはは、何それ」
高杉の軽妙なトークで、これまで体を縛っていた陰鬱とした気分と緊張がほぐれていくのを感じる。
「しかしプレイ疑惑はよろしくないな。よし、身内だけのときはくん付けで呼ぶことを特別に許そうじゃないか!」
「身内って?」
「これから紹介するさ。君も会ったことがある奴もいるかもな?」
新興企業でありながら、その勢いはもはや並の企業ではとどめることすらできない恐ろしい成長を遂げた奇跡の会社。
そのあまりの躍進ぶりに後ろ暗い連中との付き合いが噂される時期もあったが、それ以来マスコミの音沙汰がないということは真実ではなかったのだろう。
ともあれ、そんな高杉重工本社の前で、呆然と私は社屋を見上げていた。
天を突く本社ビルは二十階建て。社長のインタビューによると百階建てにしたかったらしいが、周りに叱られて止めたのだという。
二十階建てだとしても十二分に高層建築の域だ。それを会社を興して十年も経っていない人物が占有しているのだというのだから、その勢いが相当だということは誰の目にも明らかだった。
もちろん、私の前の職場がそんな大それた規模のものではないことは言うまでもない。
「場違い、だよね私……」
一応初日なのだからと数年越しの黒スーツを引っ張り出してきてはみたが、これではお上りさんの就活生にしか見えないだろう。
周りを行き交う洗練された雰囲気のエリートたちを見るたびに、肩身の狭い思いがして私は道の端に寄っていった。
そもそも明日ここに出勤しろとは言われていたが、どうやって入ればいいのか。
当然だが社員証なんて持たされていないし、一応名刺は渡されたが何かメモが書いてあるわけでもない。これでは受付で止められてそのまま帰ることになるだろう。
もしかしたら……「うちで働かない?」なんてただの軽口だったのかもしれない。成功者である高杉が気まぐれで言ったことを私が真に受けているだけなのかも。
そんな発想が浮かぶほど鬱々としながら、一応社屋に入る。
途端に広がっていたのは広大な玄関ホールだ。ホテルのロビーかというほど磨かれた床。なぜか設置してある噴水と、その中央に鎮座する社長の銅像。
自己顕示欲のなせるわざなのか、それとも遊び心のなせるわざなのか。不思議と後者のような気がして嫌な印象は受けなかった。
時間は朝の八時半。始業時間が九時だと仮定すれば、それほど邪魔ではない時間のはずだ。
予想を裏付けるように、出勤してきたとおぼしい社員たちが社員証をかざしてビルの奥へと入っていくのが見える。彼らは見るからに部外者の私には目もくれていない。
とにかく。受付で聞いてみないことには始まらない。
私は意を決すると、入ってすぐのところにあった受付に声をかけた。
「失礼します。私、高杉社長に言われて来た者なのですが……」
「アポイントメントをされた方ですね。何時からのお約束でしょうか」
「えっと……」
そう聞かれると困ってしまう。というか高杉は私が来ることを伝えていないのだろうか。
そうしているうちに沈黙は続き、受付の女性の目は胡乱なものになっていく。通り過ぎる社員たちの目も厳しい。
私は冷や汗をかきながらうつむいてしまう。
やっぱりあれはただの冗談だったんだ。昨日のことを本気にしていたのは私だけで――
「やあ、君じゃないか! こんなに早くにどうしたんだい?」
突然肩を抱かれ、私の体は斜めになる。
顔を上げた私の目に映ったのは長くてしなやかな赤色の髪。そして、上機嫌に細められた高杉の目だった。
「た、高杉くん……」
「いやあ、まさか30分前行動をされるとはね。受付への連絡なんて朝すればいいと思ってたのに目算が外れたよ」
「30分前も何も、時間指定されてないし……」
「おやそうだったか。それは悪いことをしたな。許してくれないか?」
肩を抱いたまま覗き込まれるものだから、至近距離で整った顔を直視してしまい、私はさすがに赤面する。
身にまとった傾いた和服からもほのかに甘い香水の香りがして落ち着かない。
「うん? どうかしたか? 急に黙って」
「えっ、ううんちょっと……良い匂いだなって……」
表情豊かな猫のような目をぱちぱちとさせながら尋ねてくるものだから、焦って的外れな返事をしてしまった。
すると高杉はふふんと嬉しそうに鼻を鳴らすと、上機嫌にさらに体を寄せてきた。
「そうだろうそうだろう! 今日の香りはバニラなんだ! 花よりも美味しそうでいいと思わないか? ほら、うなじにつけてるんだよ嗅いでみたまえ!」
「そ、それはちょっと……!」
長い髪を持ち上げて迫る高杉から私は距離を取る。ウィッグとは言っていたが髪にも気を遣っているのだろう。さらさらと落ちる髪からも落ち着いた甘い匂いが漂ってきた。
「そうかい? 遠慮しなくてもいいのにな。受付の君もそう思うだろう?」
突然無茶ぶりをされて、受付の女性は苦笑いをした。それでも慌てないところを見るに日常茶飯事なのだろう。
「まあいいか。初出勤を邪魔してすまないね。じゃあ、僕はこれで」
「ち、ちょっと待って高杉くん!」
慌てて呼び止めると、高杉はつまらなそうな表情で振り返った。相変わらずの感情ジェットコースターっぷりだが、ここで見捨てられたら元の木阿弥だ。
「わ、私これからどこに行けばいいかわかってなくて……!」
「……ああ! そうだよな! わかってるわかってる。からかっただけだって」
「……本当に? 忘れていただけじゃなくて?」
「ははは、まさか!」
ごまかすように高笑いをする高杉に私はほっと息を吐く。
「じゃあ……案内お願いしてもいい?」
「いいとも。光栄に思いたまえよ、社長直々のご案内だ」
「あはは……」
どうやら社長専用らしい通路を通って、私は社屋の奥へと進む。
周囲の人間がいなくなったところで、高杉は私に顔を寄せてきた。
「あとここでは高杉社長と呼びなよ。周りに示しがつかないだろう?」
「す、すみません、高杉社長」
「よろしい。……でも同輩に社長呼びされるのってなんか背徳的だな。そういうプレイに聞こえないか? 僕、社会的に大丈夫か?」
「うーん、他の同級生に会ったらどう言われるか……」
「嘘だろう!? この年でそういうのはさすがに嫌だぞ!?」
大げさにショックを受ける高杉に私はくすくすと笑ってしまう。そんな私を見て、高杉は満足そうな顔になった。
「よし。ようやく笑ったな!」
「え?」
「どんな仕事でも面白くなければ始まらないからな! どんな経緯であれ、ここで働く以上は今までみたいな辛気くさい顔はごめんだぞ!」
どこからか扇子を取り出して高杉は笑う。私はまたそれを見て笑ってしまいながら礼を言う。
「なんか……ありがとう、気を遣ってくれて」
「いいってことさ。婦女子を泣かせたままにしておくのは長州一の色男のすることじゃないからな」
「あはは、何それ」
高杉の軽妙なトークで、これまで体を縛っていた陰鬱とした気分と緊張がほぐれていくのを感じる。
「しかしプレイ疑惑はよろしくないな。よし、身内だけのときはくん付けで呼ぶことを特別に許そうじゃないか!」
「身内って?」
「これから紹介するさ。君も会ったことがある奴もいるかもな?」
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