壱百満天原サロメ
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時刻は十四時少し前。からん、とドアベルが鳴り、私はグラスを磨いていた手を止めて顔を上げました。お客様のご来店です。
「いらっしゃいませ」
しかし私はすぐに目を丸くしました。店先の扉に立っていたのが年若いお嬢さんだったからです。ここはレトロというよりも古臭いという言葉が似合うような喫茶店で、お客様も昔から通われている同年代の常連さんばかり。若い方のご来店は、それはもう珍しいのです。
「あの、まだ開いてますかしら?」
驚いてしばし固まる私に、彼女がおずおずと声をかけてきました。ハッとして、それから彼女の丁寧な言葉遣いにこちらも背筋が伸びます。
「ええ、もちろん。お好きな席にどうぞ」
そう伝えると、彼女はほっとしたように微笑んで窓側の席に座りました。私はすぐにレモン水とおしぼりを持って彼女の元へと向かいます。彼女の視線はメニュー表に注がれていましたが、私が近づくと顔を上げ何か言いたげに口を開けました。
「お決まりになりましたか?」
何を言おうか言葉を探しているようでしたので、こちらから訊ねてみます。すると彼女ははにかみながらメニュー表を指差しました。
「実はお紅茶の種類がたくさんあって迷ってましたの。マスターのおすすめを教えていただけますかしら?」
可愛らしい質問に思わず笑みが溢れます。私は彼女の好みを訊き、茶葉の説明をし、そして彼女があまりにも目をキラキラさせて話を聞いてくださるものですから、ついついおいしい淹れ方から茶葉ごとの蒸らし時間の違いまで話し込んでしまいました。ここの常連のお客様たちはコーヒーを頼まれることが多いので、久しぶりに紅茶について語ることができて嬉しかったのかもしれません。……といっても彼女にお話したことはすべて今は亡き妻の受け売りなのですが。
店長失格かもしれませんが、この時ばかりは他にお客様がいなくて本当によかったと思います。
それから彼女は時折この喫茶店に訪れるようになりました。初めて彼女がここを訪れてからもう一年になるでしょうか。もう立派な常連様です。そしてお客様が誰もいない時に限り、カウンター越しに紅茶の特別講義が始まります。
「先生、今日はどんなお話をしてくださいますの?」
先生と初めて呼ばれた時は気恥ずかしくありましたが、今やそれらしく振る舞うようになりました。生徒である彼女がとても勤勉なので、こちらもしっかりせねばとなるのです。紅茶好きの妻に教えてもらったたくさんのこと。それだけでは足りないので私も日夜勉強です。本当のことを言えば私はコーヒー派なのですが、紅茶に関する知識のほうが豊富いつしか豊富になってしまいました。もしかしたら妻よりも詳しくなってしまったかも……。ふふ、そんなことを言ったら天国の彼女に怒られてしまいそうなのでやめておきましょう。
「今日はスプリングダージリンと、ダージリンサマーゴールドの違いを勉強しましょうか」
「まあ! 素敵ですわね」
「味わいの違いも面白いですよ。そして今日が、私の最後の授業になります」
「え……?」
彼女の表情にぎゅっと胸が締め付けられます。けれどこれはもう決定事項です。私ももうそれなりの年齢、いつまでも亡き妻との思い出の場所に留まっていられません。一緒に住もうと言ってくれた息子夫婦に我が儘を言って、一年だけ店を続けさせてもらって。とうとう約束の日が来てしまいました。思い出に浸るだけの一年になると思っていましたが、最後に、あなたに会えて本当によかった。
「先生、嫌よ! 先生がいないとわたくし……」
「申し訳ありません。あなたとの時間が楽しくてずっと伝えられませんでした。でもあなたなら私がいなくても大丈夫」
「っ、先生!」
「最後に店に残っている茶葉を受け取ってもらえますか? このまま捨てるよりあなたに飲んでいただけたほうが私も、きっと妻も喜ぶでしょう」
彼女は泣きながら何度も頷いてくれました。彼女はとても優しくて立派な生徒で、そんな彼女の先生でいられたことを私は誇らしく思います。
そうして私は長年続けてきた喫茶店を閉めました。嫌なことも辛いこともあったはずなのに、楽しい思い出ばかり蘇るのは店を愛してくれたお客様と、支えてくれた妻、そして私を先生と呼び慕ってくれた彼女のおかげでしょう。
あれから彼女には会っていません。店でしか会う機会がなかったのですから当然といえば当然です。この街のどこかで、今も元気にしてくれているといいのですがーー。
『壱、十、百、千、満点サロメ〜‼︎』
ふと聞こえた声に私は弾かれたように顔を上げました。リビングで隣に座ってくつろいでいた孫が驚いてこちらを見ます。
「どうしたの、おじいちゃん?」
私は辺りを見渡しました。あの彼女の声が聴こえたのです。幻聴ではなく、はっきりと。そして弾むような声はまだ聴こえています。一体どこから? そして私の目は孫の手にしていたスマートフォンに留まります。
そこにはいつかと同じように、とびきりの笑顔を向ける彼女の姿がありました。
「もしかしておじいちゃんもサロメちゃんのこと好きなの?」
「え?」
「ほらこの人! わたしの推しなの!」
嬉しそうにスマートフォンの画面を見せてくる孫に、私も顔を綻ばせます。
「ああ、私も大好きだよ。彼女はサロメさんと仰るんだね」
最近は本当に涙もろくていけません。孫が推しに夢中で、私が目元を拭ったことに気づいてなかったのは幸いでした。
そしてこの日の夜、私は久しぶりに筆を執りました。人生初の『ファンレター』なるものを書くためです。手紙を書くなんていつぶりでしょうか。付き合う前に妻に送ったきりかもしれません。
さて、何から書いていいやら。伝えたいことがたくさんあるのです。かつても今も、人を笑顔にしてくれるあなたに。
私は用意しておいた、かつての生徒のお気に入りだった紅茶を一口飲んでから、万年筆を手に取りました。
『拝啓 壱百満天原サロメ様ーー』
「いらっしゃいませ」
しかし私はすぐに目を丸くしました。店先の扉に立っていたのが年若いお嬢さんだったからです。ここはレトロというよりも古臭いという言葉が似合うような喫茶店で、お客様も昔から通われている同年代の常連さんばかり。若い方のご来店は、それはもう珍しいのです。
「あの、まだ開いてますかしら?」
驚いてしばし固まる私に、彼女がおずおずと声をかけてきました。ハッとして、それから彼女の丁寧な言葉遣いにこちらも背筋が伸びます。
「ええ、もちろん。お好きな席にどうぞ」
そう伝えると、彼女はほっとしたように微笑んで窓側の席に座りました。私はすぐにレモン水とおしぼりを持って彼女の元へと向かいます。彼女の視線はメニュー表に注がれていましたが、私が近づくと顔を上げ何か言いたげに口を開けました。
「お決まりになりましたか?」
何を言おうか言葉を探しているようでしたので、こちらから訊ねてみます。すると彼女ははにかみながらメニュー表を指差しました。
「実はお紅茶の種類がたくさんあって迷ってましたの。マスターのおすすめを教えていただけますかしら?」
可愛らしい質問に思わず笑みが溢れます。私は彼女の好みを訊き、茶葉の説明をし、そして彼女があまりにも目をキラキラさせて話を聞いてくださるものですから、ついついおいしい淹れ方から茶葉ごとの蒸らし時間の違いまで話し込んでしまいました。ここの常連のお客様たちはコーヒーを頼まれることが多いので、久しぶりに紅茶について語ることができて嬉しかったのかもしれません。……といっても彼女にお話したことはすべて今は亡き妻の受け売りなのですが。
店長失格かもしれませんが、この時ばかりは他にお客様がいなくて本当によかったと思います。
それから彼女は時折この喫茶店に訪れるようになりました。初めて彼女がここを訪れてからもう一年になるでしょうか。もう立派な常連様です。そしてお客様が誰もいない時に限り、カウンター越しに紅茶の特別講義が始まります。
「先生、今日はどんなお話をしてくださいますの?」
先生と初めて呼ばれた時は気恥ずかしくありましたが、今やそれらしく振る舞うようになりました。生徒である彼女がとても勤勉なので、こちらもしっかりせねばとなるのです。紅茶好きの妻に教えてもらったたくさんのこと。それだけでは足りないので私も日夜勉強です。本当のことを言えば私はコーヒー派なのですが、紅茶に関する知識のほうが豊富いつしか豊富になってしまいました。もしかしたら妻よりも詳しくなってしまったかも……。ふふ、そんなことを言ったら天国の彼女に怒られてしまいそうなのでやめておきましょう。
「今日はスプリングダージリンと、ダージリンサマーゴールドの違いを勉強しましょうか」
「まあ! 素敵ですわね」
「味わいの違いも面白いですよ。そして今日が、私の最後の授業になります」
「え……?」
彼女の表情にぎゅっと胸が締め付けられます。けれどこれはもう決定事項です。私ももうそれなりの年齢、いつまでも亡き妻との思い出の場所に留まっていられません。一緒に住もうと言ってくれた息子夫婦に我が儘を言って、一年だけ店を続けさせてもらって。とうとう約束の日が来てしまいました。思い出に浸るだけの一年になると思っていましたが、最後に、あなたに会えて本当によかった。
「先生、嫌よ! 先生がいないとわたくし……」
「申し訳ありません。あなたとの時間が楽しくてずっと伝えられませんでした。でもあなたなら私がいなくても大丈夫」
「っ、先生!」
「最後に店に残っている茶葉を受け取ってもらえますか? このまま捨てるよりあなたに飲んでいただけたほうが私も、きっと妻も喜ぶでしょう」
彼女は泣きながら何度も頷いてくれました。彼女はとても優しくて立派な生徒で、そんな彼女の先生でいられたことを私は誇らしく思います。
そうして私は長年続けてきた喫茶店を閉めました。嫌なことも辛いこともあったはずなのに、楽しい思い出ばかり蘇るのは店を愛してくれたお客様と、支えてくれた妻、そして私を先生と呼び慕ってくれた彼女のおかげでしょう。
あれから彼女には会っていません。店でしか会う機会がなかったのですから当然といえば当然です。この街のどこかで、今も元気にしてくれているといいのですがーー。
『壱、十、百、千、満点サロメ〜‼︎』
ふと聞こえた声に私は弾かれたように顔を上げました。リビングで隣に座ってくつろいでいた孫が驚いてこちらを見ます。
「どうしたの、おじいちゃん?」
私は辺りを見渡しました。あの彼女の声が聴こえたのです。幻聴ではなく、はっきりと。そして弾むような声はまだ聴こえています。一体どこから? そして私の目は孫の手にしていたスマートフォンに留まります。
そこにはいつかと同じように、とびきりの笑顔を向ける彼女の姿がありました。
「もしかしておじいちゃんもサロメちゃんのこと好きなの?」
「え?」
「ほらこの人! わたしの推しなの!」
嬉しそうにスマートフォンの画面を見せてくる孫に、私も顔を綻ばせます。
「ああ、私も大好きだよ。彼女はサロメさんと仰るんだね」
最近は本当に涙もろくていけません。孫が推しに夢中で、私が目元を拭ったことに気づいてなかったのは幸いでした。
そしてこの日の夜、私は久しぶりに筆を執りました。人生初の『ファンレター』なるものを書くためです。手紙を書くなんていつぶりでしょうか。付き合う前に妻に送ったきりかもしれません。
さて、何から書いていいやら。伝えたいことがたくさんあるのです。かつても今も、人を笑顔にしてくれるあなたに。
私は用意しておいた、かつての生徒のお気に入りだった紅茶を一口飲んでから、万年筆を手に取りました。
『拝啓 壱百満天原サロメ様ーー』
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