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「まいど! チリちゃんやで〜」
突然バン、と勢いよくドアが開いて、その音に私は「ひっ」と小さく悲鳴を上げた。
驚いた拍子に両膝を思いきりデスクにぶつけ、しかし痛みに呻くより先に、視界の端で飲みかけのエナジードリンクがぐらりと傾くのが見えた。
「わっ……と、セーフ!」
倒れかけた缶を掴んだ瞬間にちゃぷりと水音がしたものの、パッと見た感じ中身がこぼれた形跡はない。
我ながらナイス動体視力、ナイス反射神経と褒めたいところだけれど、全てはデスクに散らばる資料がパァになるのを避けたいがため。
エナジードリンク、コーヒー、カップ麺。自業自得とはいえ、かつてそれらが倒れたせいで何度泣いたかわからない。
でも、経験は人を強くする。私は散らかったデスクの上に汁物や飲み物を置くことはやめられなかったが、代わりにそれらを倒さないための特殊能力を手に入れた。デスクに液体がこぼれそうになるその瞬間のみ身体能力が向上するという、そんな能力を。
今回もその能力のおかげで何とか命拾いしたもののーー。
「チ〜リ〜」
私はくるりとドアのほうを振り向き、そこに立つ人影をキッと睨み付けた。しかし私の怒りなんてどこ吹く風、その人物はひらひらとこちらに向かって呑気に手を振り返してきた。
「なはは、美人さんやからってそない見つめんといてや〜。穴あいてしもたらどないするん」
悪びれる様子もなく豪快に笑うのは、友人のチリだ。彼女はひとつに束ねられた長い髪を揺らしながらこちらにやって来て、誰に断りを入れるでもなく私の隣のデスクに座った。パソコンの横にイルカマンのフィギュアの置かれたそこは、最近入ってきたばかりの新人の席だった。
「で、何してんの?」
「見ての通り残業だよ、残業」
時刻はあと少しで二十二時に差し掛かろうかというところ。仕事でなければこんな時間まで職場に残ったりしない。今日こそは早く家に帰って、録り溜めていたアニメ消化をしたかったのに。なかなか思い通りにいかないものだ。
「そらお疲れさん。ほな、頑張っとるご褒美にチリちゃんがええもんあげよか」
長時間パソコンに向かい合っていたせいでカチカチになった肩を回していると、チリが手にしていた紙袋を差し出してきた。
「いいもの?」
「そ。めっちゃええもん」
受け取った紙袋はほんのり温かかった。それに何だか、いい匂いもする。かさりと袋を開けて覗き込めば、中には揚げたてのポテトとケサディーヤが入っていた。
「これ、喫茶室なぎさのだ!」
お気に入りのお店の料理に思わずテンションが上がる。
「たまたま視察帰りに寄ってな。小腹満たすのにちょうどええかなと思って買うたんやけど、ここまだ電気ついとるし、自分おるし。折角なら一緒に食べよー思て」
どうせまだ食べてへんのやろ? と指摘され、私は素直に頷くことしかできなかった。
お昼以降に口にしたのは糖分補給用のタブレットいくつかとエナジードリンクくらいで、ちゃんとした食事をとった覚えがない。食べなければと思いつつすっかり忘れ、こんな時間まできてしまった。目の前のことに集中しすぎて食事を後回しにしがちなのはエンジニアあるあるで、悪いところだ。私はお礼を言って、チリの厚意に甘えることにした。
揚げたてほくほくのスパイシーポテトをつまんでから、ケサディーヤを頬張る。まだ温かいケサディーヤのチーズのとろけ具合が堪らない。私が「おいしい」と呟くのと、チリが「うまっ!」と驚くのがほぼ同時で、思わず顔を見合わせて笑った。
「チリも残業? 珍しいね」
四天王の一人であるチリは、チャンピオンテスト一次試験の面接官も担っている。そんな彼女は多忙には違いないけれど、業務時間外、それもこんな遅くまで残るなんてことは、今までなかったように思う。
「最近ネモ以来の新チャンピオン登場に、ジムに挑戦するトレーナーたちにも熱が入っとってな。おもろいやつおらんかなって色々回っとったらこんな時間になっとったわ」
つまりは視察に夢中になっていて、時間が経つのを忘れていたと。
「なんだ、私と一緒じゃん」
「一緒やないですー。チリちゃんは今日たまたまですー」
確かに、頻度でいえば私のほうが圧倒的に多いけれど。まあ、似たようなものだ。
「そっちは?」
「ん?」
「仕事、まだかかりそうなん?」
「あー。もうちょっとかな。できれば今日中に終わらせたくて」
スパイシーポテトを口に放り込んだチリが、デスクに散らばる資料を見て「大変そうやなぁ」と呟く。しかし、その内容を見た彼女の口元は言葉に反して笑っていた。
「これ、例のやつやん」
「そうそう。例のL Pシステムの件」
少し前にポケモンリーグのL Pシステムが外部からハッキングされ、LPが不正発行されていたことが発覚した。それだけでもここ情報システム部の面々は騒然としたのに、犯人がアカデミーの年若い学生ときたものだからそれはもう驚きである。
「結局トップに怒られたん?」
「怒られは……しなかったかな」
L Pシステムの運営は、私の仕事の一つだった。それがハッキングされ、しかも犯人が名乗り出るまで気付かないとあっては、大目玉もいいところだろう。
しかしトップであるオモダカさんは、「今後このようなことがないよう、より一層励んでください」とにこやかに告げただけで、私の心配したようなことは何も起こらなかった。
事件が発覚した当初、クビになったらどうしようと落ち込んで、気を紛らわそうと強くもない癖にお酒を飲んで、挙句チリに泣きつく、なんてこともあったのに。今や記憶から消したい、恥ずかしいだけの過去である。
そして予想外なことは、もう一つあった。
オモダカさんが励むよう告げたのが、私だけではなかったことだ。その相手は、オモダカさんが連れてきた女の子。彼女は、いや彼女こそがLPシステムをハッキングした張本人、ボタンちゃんだった。
「……あの時の気まずさったらないよ」
「なっはっは、そらそうや!」
見たかったわーと笑うチリに、私も彼女がいてくれたらどれだけよかったかと思う。それくらいあの時は空気が重かった。今後一緒にエンジニアとして働くとはいえ、ハッキングした側とされた側が対面して、仲良く挨拶なんてできるはずがない。トップの手前、よろしくと握手を交わしはしたけれど、お互い気まずくて目は一切合わなかった。
「けど、今は上手くやれてんのやろ?」
「まあ、それなりにね」
チリの言う通り、気まずかったのは最初だけだった。割とすぐにお互いアニメ好きと判明し、それからポツポツ話すようになり、今では好きなエナジードリンクやカップ麺の話題で盛り上がるくらいには仲がいい。
そして何より、ボタンちゃんは仕事ができる。
私が見たかぎりでは、L Pシステムのセキュリティに問題はないように思えた。実際に私がこの仕事に就いてから今まで一度だってハッキングを許したことはなかったのだ。だからLPが不正発行されていると知った時は信じられなかったし、調べても痕跡ひとつ見つけられなかった。
けれどボタンちゃんは実際にやって見せのだ。針に糸を通すような難しいハッキングを、私の目の前で。
『こんな感じで。そんな難しくなくて……』
彼女の言葉に嘘はないのだろう。確かにこの方法なら簡単にシステムにアクセスできて、証拠も残らない。でもこんなことを考えついて実行できるのは、うちのエンジニアでも一人いるかいないかだ。
「ほんとすごいよ、あの子」
短い奉仕活動時間の中、隣の席で淡々とキーボードを叩くボタンちゃんを思い出す。私は今、彼女と一緒に彼女の見つけた抜け道を塞ぐ作業をしている。といっても私は軽くアドバイスするくらいで、セキュリティ構築のほとんどをボタンちゃん本人がやっているわけだけども。できあがったシステムのチェックは上司である私の仕事だ。それもあと、もう一踏ん張りで終わる。この最終チェックが通れば、きっとオモダカさんも納得の成果が得られるはずだ。
「ボタンちゃん、ここに就職してくれないかなー」
「なんやえらい期待しとるんやな、その子のこと」
「そりゃするよ。あの子ならもっと仕事ができるようになるだろうし、そうなれば私の仕事も減る。そしたらアニメ消化も余裕でできるし、心置きなく彼氏も作れそう」
オモダカさんが学生を連れてきた時はどうなることかと思ったけれど、さすがと言わざるを得ない采配だった。奉仕活動の一貫ということで勤務時間は限られているものの、ボタンちゃんは貴重な即戦力で、優秀なエンジニアが一人増えればその分ほかのエンジニアの負担が減る。押し付けはよくないが、将来的にここに就職してくれたらと思わずにはいられない。
「……自分、彼氏ほしいん?」
「そこに食いつくんだ。でもそうだね。私もいい歳だし、彼氏くらいほしいかな」
今までは仕事に追われてそんな余裕もなかったけれど、私にだって人並みに恋をして、幸せになりたい欲はある。LPシステムの件が終われば少し落ち着くから、今流行りのマッチングアプリでも始めようかとも。そう話せば、チリは頬杖をついたまま、心底つまらなそうに呟いた。
「彼氏、なあ」
ぽつりとこぼれた声に刺々しさを感じたのは、気のせいだろうか。でも何となく嫌な感じがして、言い返す言葉にも熱がこもる。
「なに? 私が彼氏ほしがってるの、そんなにおかしい?」
「別におかしくはないで。ただ彼氏作って何したいんかなって思っただけや」
「それは……二人で楽しく遊んだり、おいしいもの食べたり、映画行ったり?」
「くだらん話して笑ったり? つらい時には相談のってもろたり?」
「そう、それ!」
わかってるじゃん、といえば、チリは呆れたようにため息をついた。
「それ全部チリちゃんで間に合うとるやん」
「え?」
「夏に一緒に海行ったし、ずっと行きたい言うとった宝食堂にも行った。アニメ映画も観に行ったし、くだらん話はしょっちゅうしとる。この前飲んだくれて泣きついてきた時は、自分が寝落ちるまで話聞いたった」
チリの言葉に、確かにと頷きかけてハッとする。
「だから、私はそれを友達とじゃなくて彼氏としたいんだってば!」
どんなに楽しくても、友達と恋人は別物だと思う。優劣はなくても、その関係性には大きな違いがある。
「恋したいよ、やっぱり。彼氏ほしい」
「……なんやねん。初めて会うた時、チリちゃんのこと好きって言うとった癖に」
「あれはチリのこと男の人だと思ってたから……って、忘れてよ。そんな昔のこと」
四天王のチリと接点のないエンジニアの私がここまで仲良くなったのは、私たちがオモダカさんに同時期にスカウトされた同期みたいなものだからだ。たまたま同じ日に出社することになって、そこで初めてチリを見て、一目惚れして。気付けば私は本人を前に「好きです」と口走っていた。チリもその時すぐに女だと言ってくれればよかったのに、「おおきに」としか言ってくれなくて。向けられた笑顔に、私の心臓はずっとドキドキしっぱなしだった。
あの後遅れてやってきたオモダカさんがチリのことを「彼女」と呼んだ瞬間に、見事に失恋したわけだけど。
「あーもう、好きにせえ」
わしわしと頭を掻いて、チリが長い足を投げ出した。さっきよりも長いため息までついて、私の話に付き合ってられなくなったのかもしれない。
「……せいぜいきばりや」
「うん、そのつもり」
「まあ無理やと思うけど」
「えっ、ひどくない?!」
「そらそうやろ」
不意にするりと頬を撫でられて、びくりと肩が跳ねる。手袋をしていないその手は、少しひんやりしていた。「チ、チリ……?」私の呼びかけに、彼女は赤い目を細めて意地悪く笑った。同性とわかっているのに、その艶っぽい笑みにドキリとしてしまう。目が、離せない。
「……見すぎ」
ふっと表情を崩したチリが、むにっと私の頬をつねった。
「ご、ごめん!」
私は慌ててチリから視線を逸らした。見つめすぎたのを悪いと思ったのもあるけれど、それ以上に真っ赤になっているであろう顔を見られたくなかったからだ。隣で笑うような気配を感じたから、今さらではあるけれど。
「ま、ええけど。これで自分もようわかったやろ」
チリの言葉に、何がとは訊けなかった。彼女の言うように、私は気付かされてしまったのだから。
いまだに熱の引かない顔はそのままに、ちらりと視線だけを動かす。そこにいるのは美人で、かっこよくて、面白い、気遣いのできる私の友人。
そんな彼女は、ぞっとするほど美しい笑顔を私だけに向けて、現実を突きつけた。
「チリちゃんよりええ男探すの、相当大変やで」
突然バン、と勢いよくドアが開いて、その音に私は「ひっ」と小さく悲鳴を上げた。
驚いた拍子に両膝を思いきりデスクにぶつけ、しかし痛みに呻くより先に、視界の端で飲みかけのエナジードリンクがぐらりと傾くのが見えた。
「わっ……と、セーフ!」
倒れかけた缶を掴んだ瞬間にちゃぷりと水音がしたものの、パッと見た感じ中身がこぼれた形跡はない。
我ながらナイス動体視力、ナイス反射神経と褒めたいところだけれど、全てはデスクに散らばる資料がパァになるのを避けたいがため。
エナジードリンク、コーヒー、カップ麺。自業自得とはいえ、かつてそれらが倒れたせいで何度泣いたかわからない。
でも、経験は人を強くする。私は散らかったデスクの上に汁物や飲み物を置くことはやめられなかったが、代わりにそれらを倒さないための特殊能力を手に入れた。デスクに液体がこぼれそうになるその瞬間のみ身体能力が向上するという、そんな能力を。
今回もその能力のおかげで何とか命拾いしたもののーー。
「チ〜リ〜」
私はくるりとドアのほうを振り向き、そこに立つ人影をキッと睨み付けた。しかし私の怒りなんてどこ吹く風、その人物はひらひらとこちらに向かって呑気に手を振り返してきた。
「なはは、美人さんやからってそない見つめんといてや〜。穴あいてしもたらどないするん」
悪びれる様子もなく豪快に笑うのは、友人のチリだ。彼女はひとつに束ねられた長い髪を揺らしながらこちらにやって来て、誰に断りを入れるでもなく私の隣のデスクに座った。パソコンの横にイルカマンのフィギュアの置かれたそこは、最近入ってきたばかりの新人の席だった。
「で、何してんの?」
「見ての通り残業だよ、残業」
時刻はあと少しで二十二時に差し掛かろうかというところ。仕事でなければこんな時間まで職場に残ったりしない。今日こそは早く家に帰って、録り溜めていたアニメ消化をしたかったのに。なかなか思い通りにいかないものだ。
「そらお疲れさん。ほな、頑張っとるご褒美にチリちゃんがええもんあげよか」
長時間パソコンに向かい合っていたせいでカチカチになった肩を回していると、チリが手にしていた紙袋を差し出してきた。
「いいもの?」
「そ。めっちゃええもん」
受け取った紙袋はほんのり温かかった。それに何だか、いい匂いもする。かさりと袋を開けて覗き込めば、中には揚げたてのポテトとケサディーヤが入っていた。
「これ、喫茶室なぎさのだ!」
お気に入りのお店の料理に思わずテンションが上がる。
「たまたま視察帰りに寄ってな。小腹満たすのにちょうどええかなと思って買うたんやけど、ここまだ電気ついとるし、自分おるし。折角なら一緒に食べよー思て」
どうせまだ食べてへんのやろ? と指摘され、私は素直に頷くことしかできなかった。
お昼以降に口にしたのは糖分補給用のタブレットいくつかとエナジードリンクくらいで、ちゃんとした食事をとった覚えがない。食べなければと思いつつすっかり忘れ、こんな時間まできてしまった。目の前のことに集中しすぎて食事を後回しにしがちなのはエンジニアあるあるで、悪いところだ。私はお礼を言って、チリの厚意に甘えることにした。
揚げたてほくほくのスパイシーポテトをつまんでから、ケサディーヤを頬張る。まだ温かいケサディーヤのチーズのとろけ具合が堪らない。私が「おいしい」と呟くのと、チリが「うまっ!」と驚くのがほぼ同時で、思わず顔を見合わせて笑った。
「チリも残業? 珍しいね」
四天王の一人であるチリは、チャンピオンテスト一次試験の面接官も担っている。そんな彼女は多忙には違いないけれど、業務時間外、それもこんな遅くまで残るなんてことは、今までなかったように思う。
「最近ネモ以来の新チャンピオン登場に、ジムに挑戦するトレーナーたちにも熱が入っとってな。おもろいやつおらんかなって色々回っとったらこんな時間になっとったわ」
つまりは視察に夢中になっていて、時間が経つのを忘れていたと。
「なんだ、私と一緒じゃん」
「一緒やないですー。チリちゃんは今日たまたまですー」
確かに、頻度でいえば私のほうが圧倒的に多いけれど。まあ、似たようなものだ。
「そっちは?」
「ん?」
「仕事、まだかかりそうなん?」
「あー。もうちょっとかな。できれば今日中に終わらせたくて」
スパイシーポテトを口に放り込んだチリが、デスクに散らばる資料を見て「大変そうやなぁ」と呟く。しかし、その内容を見た彼女の口元は言葉に反して笑っていた。
「これ、例のやつやん」
「そうそう。例のL Pシステムの件」
少し前にポケモンリーグのL Pシステムが外部からハッキングされ、LPが不正発行されていたことが発覚した。それだけでもここ情報システム部の面々は騒然としたのに、犯人がアカデミーの年若い学生ときたものだからそれはもう驚きである。
「結局トップに怒られたん?」
「怒られは……しなかったかな」
L Pシステムの運営は、私の仕事の一つだった。それがハッキングされ、しかも犯人が名乗り出るまで気付かないとあっては、大目玉もいいところだろう。
しかしトップであるオモダカさんは、「今後このようなことがないよう、より一層励んでください」とにこやかに告げただけで、私の心配したようなことは何も起こらなかった。
事件が発覚した当初、クビになったらどうしようと落ち込んで、気を紛らわそうと強くもない癖にお酒を飲んで、挙句チリに泣きつく、なんてこともあったのに。今や記憶から消したい、恥ずかしいだけの過去である。
そして予想外なことは、もう一つあった。
オモダカさんが励むよう告げたのが、私だけではなかったことだ。その相手は、オモダカさんが連れてきた女の子。彼女は、いや彼女こそがLPシステムをハッキングした張本人、ボタンちゃんだった。
「……あの時の気まずさったらないよ」
「なっはっは、そらそうや!」
見たかったわーと笑うチリに、私も彼女がいてくれたらどれだけよかったかと思う。それくらいあの時は空気が重かった。今後一緒にエンジニアとして働くとはいえ、ハッキングした側とされた側が対面して、仲良く挨拶なんてできるはずがない。トップの手前、よろしくと握手を交わしはしたけれど、お互い気まずくて目は一切合わなかった。
「けど、今は上手くやれてんのやろ?」
「まあ、それなりにね」
チリの言う通り、気まずかったのは最初だけだった。割とすぐにお互いアニメ好きと判明し、それからポツポツ話すようになり、今では好きなエナジードリンクやカップ麺の話題で盛り上がるくらいには仲がいい。
そして何より、ボタンちゃんは仕事ができる。
私が見たかぎりでは、L Pシステムのセキュリティに問題はないように思えた。実際に私がこの仕事に就いてから今まで一度だってハッキングを許したことはなかったのだ。だからLPが不正発行されていると知った時は信じられなかったし、調べても痕跡ひとつ見つけられなかった。
けれどボタンちゃんは実際にやって見せのだ。針に糸を通すような難しいハッキングを、私の目の前で。
『こんな感じで。そんな難しくなくて……』
彼女の言葉に嘘はないのだろう。確かにこの方法なら簡単にシステムにアクセスできて、証拠も残らない。でもこんなことを考えついて実行できるのは、うちのエンジニアでも一人いるかいないかだ。
「ほんとすごいよ、あの子」
短い奉仕活動時間の中、隣の席で淡々とキーボードを叩くボタンちゃんを思い出す。私は今、彼女と一緒に彼女の見つけた抜け道を塞ぐ作業をしている。といっても私は軽くアドバイスするくらいで、セキュリティ構築のほとんどをボタンちゃん本人がやっているわけだけども。できあがったシステムのチェックは上司である私の仕事だ。それもあと、もう一踏ん張りで終わる。この最終チェックが通れば、きっとオモダカさんも納得の成果が得られるはずだ。
「ボタンちゃん、ここに就職してくれないかなー」
「なんやえらい期待しとるんやな、その子のこと」
「そりゃするよ。あの子ならもっと仕事ができるようになるだろうし、そうなれば私の仕事も減る。そしたらアニメ消化も余裕でできるし、心置きなく彼氏も作れそう」
オモダカさんが学生を連れてきた時はどうなることかと思ったけれど、さすがと言わざるを得ない采配だった。奉仕活動の一貫ということで勤務時間は限られているものの、ボタンちゃんは貴重な即戦力で、優秀なエンジニアが一人増えればその分ほかのエンジニアの負担が減る。押し付けはよくないが、将来的にここに就職してくれたらと思わずにはいられない。
「……自分、彼氏ほしいん?」
「そこに食いつくんだ。でもそうだね。私もいい歳だし、彼氏くらいほしいかな」
今までは仕事に追われてそんな余裕もなかったけれど、私にだって人並みに恋をして、幸せになりたい欲はある。LPシステムの件が終われば少し落ち着くから、今流行りのマッチングアプリでも始めようかとも。そう話せば、チリは頬杖をついたまま、心底つまらなそうに呟いた。
「彼氏、なあ」
ぽつりとこぼれた声に刺々しさを感じたのは、気のせいだろうか。でも何となく嫌な感じがして、言い返す言葉にも熱がこもる。
「なに? 私が彼氏ほしがってるの、そんなにおかしい?」
「別におかしくはないで。ただ彼氏作って何したいんかなって思っただけや」
「それは……二人で楽しく遊んだり、おいしいもの食べたり、映画行ったり?」
「くだらん話して笑ったり? つらい時には相談のってもろたり?」
「そう、それ!」
わかってるじゃん、といえば、チリは呆れたようにため息をついた。
「それ全部チリちゃんで間に合うとるやん」
「え?」
「夏に一緒に海行ったし、ずっと行きたい言うとった宝食堂にも行った。アニメ映画も観に行ったし、くだらん話はしょっちゅうしとる。この前飲んだくれて泣きついてきた時は、自分が寝落ちるまで話聞いたった」
チリの言葉に、確かにと頷きかけてハッとする。
「だから、私はそれを友達とじゃなくて彼氏としたいんだってば!」
どんなに楽しくても、友達と恋人は別物だと思う。優劣はなくても、その関係性には大きな違いがある。
「恋したいよ、やっぱり。彼氏ほしい」
「……なんやねん。初めて会うた時、チリちゃんのこと好きって言うとった癖に」
「あれはチリのこと男の人だと思ってたから……って、忘れてよ。そんな昔のこと」
四天王のチリと接点のないエンジニアの私がここまで仲良くなったのは、私たちがオモダカさんに同時期にスカウトされた同期みたいなものだからだ。たまたま同じ日に出社することになって、そこで初めてチリを見て、一目惚れして。気付けば私は本人を前に「好きです」と口走っていた。チリもその時すぐに女だと言ってくれればよかったのに、「おおきに」としか言ってくれなくて。向けられた笑顔に、私の心臓はずっとドキドキしっぱなしだった。
あの後遅れてやってきたオモダカさんがチリのことを「彼女」と呼んだ瞬間に、見事に失恋したわけだけど。
「あーもう、好きにせえ」
わしわしと頭を掻いて、チリが長い足を投げ出した。さっきよりも長いため息までついて、私の話に付き合ってられなくなったのかもしれない。
「……せいぜいきばりや」
「うん、そのつもり」
「まあ無理やと思うけど」
「えっ、ひどくない?!」
「そらそうやろ」
不意にするりと頬を撫でられて、びくりと肩が跳ねる。手袋をしていないその手は、少しひんやりしていた。「チ、チリ……?」私の呼びかけに、彼女は赤い目を細めて意地悪く笑った。同性とわかっているのに、その艶っぽい笑みにドキリとしてしまう。目が、離せない。
「……見すぎ」
ふっと表情を崩したチリが、むにっと私の頬をつねった。
「ご、ごめん!」
私は慌ててチリから視線を逸らした。見つめすぎたのを悪いと思ったのもあるけれど、それ以上に真っ赤になっているであろう顔を見られたくなかったからだ。隣で笑うような気配を感じたから、今さらではあるけれど。
「ま、ええけど。これで自分もようわかったやろ」
チリの言葉に、何がとは訊けなかった。彼女の言うように、私は気付かされてしまったのだから。
いまだに熱の引かない顔はそのままに、ちらりと視線だけを動かす。そこにいるのは美人で、かっこよくて、面白い、気遣いのできる私の友人。
そんな彼女は、ぞっとするほど美しい笑顔を私だけに向けて、現実を突きつけた。
「チリちゃんよりええ男探すの、相当大変やで」