優一郎黒野
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「……はい?」
ぽとりと食べかけのコロッケパンがデスクに落ちる。黒野先輩はそれを拾い上げてぽかんとする私の口に近付けてくる。自分で食べられるからと持とうとしたものの、頑なに手を離してくれないので諦めてもそもそとコロッケパンに齧り付いた。
すぐ側を通りかかったお姉さん先輩が「仲良しねぇ」と零して行ったけれど、これはそんなんじゃない。ペットに餌をやる飼い主の図だ。最近黒野先輩がモルモットに小松菜をあげる動画をしきりに観ていたのは知っていたが、まさかこのためだったとは。
平行ではなく斜めに傾けられたパンは顔を上げないと食べられず、私の首が悲鳴を上げている。見上げた先の黒野先輩の目はわずかに細められていて、それが楽しんでいるときの表情なのだと漸くわかってきた。相変わらず意地が悪い。
「聞こえなかったか? 今週の土曜は空いているかと訊いたんだ」
聞こえてましたよ。意図が汲み取れなかったから訊き返したんです。と言いたいものの、コロッケパンで口を塞がれてはそれもできず、うんそろそろ水分が欲しい。
土曜は掃除、洗濯、買い出しに、時間があれば溜まった録画を消化したい。特別誰かと予定があるわけではないが、私にとってはどれも大切な用事だ。
もしかして休日出勤のお知らせだろうか。この会社に入ってから何度も急な呼び出しがあったのでその可能性が高い。黒野先輩に限ってただの雑談なんてことはないだろう。どう答えるのが最適解なのか。
押し当てられていたパンがゆっくりと離された。返答を求められている。
私は自由になった口を野菜ジュースで潤して結論を伝えた。
「空いてな……むぐっ⁈」
コロッケパンの強襲に思わずむせそうになる。押し込む力がさっきよりも強い。
「すまない、聞き取れなかった」
「だから土曜は用事があ、んぐっ⁈」
「よく聞こえないな」
コロッケパンが離れては口を塞ぐのを数回繰り返してやっと理解した。この人は、優一郎黒野という人は、端からYES以外の答えを聞くつもりがない。
「で、返事は?」
「……空いてます」
グッバイ私の平穏な休日。コロッケパン最後のひとくちは血圧が上がりそうなくらい塩辛かった。
*
来たる土曜日、午前十一時、指示された場所は職場近くにある公園の噴水前。空はどんよりとした重たい雲に覆われていて、憂鬱な私の心を映しているみたいだった。
一応十分前には着くように向かったのだが、すでにそこには見慣れたシルエットが立っていて小走りで向かう。
「おはようございます黒野先輩。お待たせしてすみません」
「謝る必要はない。集合時間には間に合っている」
「ちなみにどれくらい前からいるんですか?」
「ほんの一時間前だ。存分に気にしてくれ」
「本音がだだ漏れですよ先輩。そこは気にしなくていい、です」
黒野先輩はいつも集合時間より早く来る。何でも遅れて来た相手が申し訳ない顔をするのを楽しむためらしい。最初は気にしていた私もさすがに慣れて、ツッコミを入れる余裕がでてきた。
先輩は視線を上下して、瞬いて、また上下して、眉間にこれでもかと皺を寄せた。
「なぜ私服じゃないんだ」
「黒野先輩もいつもと一緒じゃないですか」
用事を詳しく教えてもらえなかったので仕事かもしれないとスーツで来たのだが、何がいけなかったのか先輩は不満そうだ。
「せめてパンツじゃなくてスカートだろう」
「入社初日にスカートダメにしたの黒野先輩ですよ」
あの惨劇を忘れたとは言わせない。入社初日の出来事はまた後日語るとして。
「先輩今日荷物多くないですか? 持ちましょうか」
身軽い黒野先輩が紙袋にリュックにと珍しい。せめて紙袋だけでもと手を伸ばしたらさっと避けられた。
「問題ない。場所を移動するぞ」
せっかく後輩らしいことをしようと思ったのに、行き場を失った手が宙を彷徨う。その手に何かが当たった気がして空を見上げた。
ぽたり、ぽたり、真っ黒な空から大粒の雫が降って来る。私は慌てて先を行こうとする黒野先輩のシャツを引っ張った。
「黒野先輩、雨降ってきましたよ! どこか屋根のあるところに……‼︎」
先輩はこちらを一瞥したものの、名残惜しそうに行き先に顔を向けた。どこに行きたいんだこの人は。彼の向かう方向に雨宿りできそうなものは見当たらない。
「そうだ、会社に行きましょう! あそこなら濡れないし」
「嫌だ」
「そんなこと言わないで、風邪引いたら大変ですよ。ね?」
駄々っ子を宥めるように説得すれば漸く先輩の足がこちらを向いた。休日に会社なんてごめんだが背に腹はかえられない。本降りになる前にと足を早めるとふいに身体が宙に浮いた。
「うわっ⁈」
「こっちの方が速い」
先輩の小脇に抱えられて雨の中を走り抜ける。これは完全に荷物と同じ扱いだ。最近体重計乗ってないけど大丈夫かなと思いながら、同じように反対側に抱えられた紙袋と目が合って、せめて邪魔にならないようにと大人しくしておいた。
*
灰島重工は表向きには土日休みとなっている。が、当然そんなはずはなく、ぽつぽつとフロアに灯りが点いていてブラックな一面が窺える。せめてグレーであれとも思うが今日はそれに救われた。
「守衛さん鍵貸してくれて良かったですね」
休日出勤届は提出してなかったが、守衛に社員証を見せたら快く室の鍵と、タオルまで貸してくれた。建物を叩く雨音は酷くなるばかりで、あのまま外にいたらずぶ濡れになっていたことだろう。
暖房を入れてタオルで濡れたところを軽く拭く。黒野先輩は渡したタオルを頭に掛けたまま座り込んで微動だにしないので、上からわしわしと拭いてやった。
「いつまで拗ねてるんですか黒野先ぱ、へっくしっ!」
鼻をすすって顔を上げると私と黒野先輩の周りを黒い煙幕が囲んでいた。ふわりと熱風を感じ、視界が晴れたときには服も髪も乾いていた。
「すご、ありがとうございます!」
黒野先輩はお礼を言う私に見向きもしないでリュックの中を漁っている。取り出した水筒の中身をコップに移してずいとこちらに差し出してきた。
ほこほこと湯気を立てるそれはコーンスープで思わず「わぁ」と声が出る。
「……美味しい‼︎」
ありがたく受け取って一口飲むとじんわりと身体の芯から温まっていくようだった。黒野先輩お手製というそれは、まさにじっくりコトコト煮込んだなんとやら。粒が見当たらないのは、型崩れしないからすり潰したんだろうなと予想がつく。
「本当ならピクニックの予定だった」
「ぴくにっく」
「青空の下で食べるのは格別だと、部長も言っていた」
「あおぞら」
黒野先輩の口から聞き慣れない単語が飛び出してきてついおうむ返ししてしまう。
「パンも開店前から並んで買った」
がさがさと紙袋の中から出てきたのはメロンパンで、可愛らしいひよこのロゴマークが入っていた。
「それ、ひよこベーカリーのメロンパン‼︎」
ひよこベーカリーはメロンパンが絶品で有名な店だ。食べてみたいと思っていたもののテレビでも取り上げられていて、叶わぬ夢だと思っていた。
それが、並んでも一瞬で売り切れるという幻のメロンパンが、今、私の目の前にある。
「青空の下でなければ意味がない」とそれをしまおうとする黒野先輩の手に私は必死にしがみついた。
「あの、黒野先輩。よかったらここでピクニックしませんか?」
*
広くはない室の中でデスクを出来るだけ端に寄せて、黒野先輩は心なしかウキウキと、どこで買ったのか気になる死神柄のピクニックシートを広げた。買ってきたパンも並べてぽんぽんと隣に座るよう催促してくる。
「お邪魔します。メロンパンが三つもある!」
「ホワイトデーのお返しは三倍返しが当たり前なのだろう?」
「それ吹き込んだのも部長ですか。ん、ホワイトデー?」
ホワイトデーはバレンタインのお返しをする日で、ああだから黒野先輩は今日、三月十四日にこだわっていたのか。でもおかしい。私バレンタインに何もあげてない。
「あの、私バレンタインに黒野先輩に何かしましたっけ?」
「忘れたのか? ちゃんとチョコをもらったが」
うそ、全く記憶がない。渡した本人が覚えてないなんてことあるのだろうか。
二月十四日、ちょうど一か月前。あの日はいつも通り仕事をして、お昼に購買でパンを買ってーー。
『黒野先輩お昼食べないんですか?』
『財布を忘れてきた。もしお前に先輩を敬う心があるならパンをくれ。チョコが入っているものしか受け付けない』
『そんなたかり方あります?黒野先輩チョコ好きだったんですね。チョコ……チョコ……このチョコチップメロンパンでいいですか?』
『……! ああ、それがいい』
あのとき渡したチョコチップメロンパンがバレンタインチョコ認定されている? そんなまさか。でも黒野先輩だからなぁ。
あの日チョコチップメロンパンの封を開けた先輩はそのあとーー。そうだ、そのあと!
「黒野先輩ストッ……」
「む?」
ふわふわの柔らかいメロンパンが黒野先輩の手の中で形を変えていく。一瞬の出来事なのにまるでスローモーションを見ているようだった。
「ああっ‼︎」
遅かった。また助けられなかった。雲のようにふわふわなのが売りのメロンパンは無残にも押し潰されてしまった。
「前も思いましたけど何でそんな食べ方するんですか! メロンパンが可愛そうでしょう」
「この柔らかさ、押し潰してくれと言っているようなものだろう。味も凝縮されて美味いぞ」
黒野先輩に差し出されるとつい口を開けてしまう。変な癖が付いてしまったなと思いながら、私は潰れたメロンパンを齧った。
普通に美味しい。けれど私の求めていたメロンパンはこれじゃない。
「いいですか、黒野先輩。メロンパンはサクふわ食感を楽しむべきです。柔らかいもの好きですよね?騙されたと思ってこのまま食べてみてください」
今度は私が黒野先輩にメロンパンを差し出す。本当は先に自分で食べたかったけれど、このまま食べる美味しさをわかってもらわないと残りも全部潰されかねない。
なかなか受け取ってくれないので仕方なく口まで持っていくと、先輩は大人しく口を開けた。
おっと、これは。
意地悪で何を考えているかわからない黒野先輩が、されるがまま私の手からパンを食べている。猛獣を餌付けした気分だ。何だか可愛く見えてきて、もぐもぐと膨らむ頬を突ついたら噛まれるだろうか。
「思っていたほど悪くない」
「そうでしょう!じゃあ私も食べたいので残りは自分で持って……」
黒野先輩はあんぐりと口を開けて待っている。自分で持つ気はさらさらなさそうだ。諦めてパンを近付けると手首をがっちり固定され、食べ終わるまで離すつもりもないらしい。
サクふわのメロンパンはゆっくりと食べられて、残すは最後のひとくちだけ。黒野先輩が私のほうを見ながら大きな口を開ける。
やっと解放されると思った矢先、
「ぎゃっ⁈」
私の親指を黒野先輩が食んでいる。驚いて声が裏返ってしまったけれど痛みはない。甘噛みだ。
「黒野先輩それメロンパンじゃないです!私の指です‼︎」
「そうか、気付かなかった」
指先に息がかかり、先輩の唇が弧を描いているのが見えた。わざとだ。この人は私の様子を見て楽しんでいる。男は心は幼いまま云々と先輩はよく言っているが、この人こそそれが当てはまるんじゃないかと思う。
「美味かった」
「そうですか、それは何よりです」
その後も散々弄られたせいで、解放された頃には私の精神力が底を尽きそうだった。
やっとありつけたサクふわのメロンパンは想像を超える美味しさで、頬っぺたが落ちるとはまさにこのことだ。
黒野先輩が買ってきてくれなかったら食べられなかったんだよなぁ。
粒はないけど温かくて美味しい手作りコーンスープも、早朝から並ばないと買えないメロンパンも、似つかわしくないピクニック用品も。全部私のために先輩が用意してくれたと思うと感謝しかない。
絶対に言わないけれど、チョコチップメロンパンごときで律儀にここまでしてくれる黒野先輩のことを私はそれなりに尊敬している。
「黒野先輩、今日はありがとうございました。外ではできなかったですけど、ピクニック楽しかったです」
「俺もだ。青空の下じゃなくても格別だとわかった」
「ピクニックそんなに気に入ったんですか。あとこんなにしてもらって申し訳ないので来年のバレンタインはちゃんとしたものを用意しますね」
「ああ、楽しみにしておく」
この日の出来事を彼は初デートの想い出と語る。この時はまだ付き合っていなかったはずでは、と思うのだが、隣に座る恋人が楽しそうなのでそれを眺めながら私は青空の下、懐かしいメロンパンを頬張るのだった。
ぽとりと食べかけのコロッケパンがデスクに落ちる。黒野先輩はそれを拾い上げてぽかんとする私の口に近付けてくる。自分で食べられるからと持とうとしたものの、頑なに手を離してくれないので諦めてもそもそとコロッケパンに齧り付いた。
すぐ側を通りかかったお姉さん先輩が「仲良しねぇ」と零して行ったけれど、これはそんなんじゃない。ペットに餌をやる飼い主の図だ。最近黒野先輩がモルモットに小松菜をあげる動画をしきりに観ていたのは知っていたが、まさかこのためだったとは。
平行ではなく斜めに傾けられたパンは顔を上げないと食べられず、私の首が悲鳴を上げている。見上げた先の黒野先輩の目はわずかに細められていて、それが楽しんでいるときの表情なのだと漸くわかってきた。相変わらず意地が悪い。
「聞こえなかったか? 今週の土曜は空いているかと訊いたんだ」
聞こえてましたよ。意図が汲み取れなかったから訊き返したんです。と言いたいものの、コロッケパンで口を塞がれてはそれもできず、うんそろそろ水分が欲しい。
土曜は掃除、洗濯、買い出しに、時間があれば溜まった録画を消化したい。特別誰かと予定があるわけではないが、私にとってはどれも大切な用事だ。
もしかして休日出勤のお知らせだろうか。この会社に入ってから何度も急な呼び出しがあったのでその可能性が高い。黒野先輩に限ってただの雑談なんてことはないだろう。どう答えるのが最適解なのか。
押し当てられていたパンがゆっくりと離された。返答を求められている。
私は自由になった口を野菜ジュースで潤して結論を伝えた。
「空いてな……むぐっ⁈」
コロッケパンの強襲に思わずむせそうになる。押し込む力がさっきよりも強い。
「すまない、聞き取れなかった」
「だから土曜は用事があ、んぐっ⁈」
「よく聞こえないな」
コロッケパンが離れては口を塞ぐのを数回繰り返してやっと理解した。この人は、優一郎黒野という人は、端からYES以外の答えを聞くつもりがない。
「で、返事は?」
「……空いてます」
グッバイ私の平穏な休日。コロッケパン最後のひとくちは血圧が上がりそうなくらい塩辛かった。
*
来たる土曜日、午前十一時、指示された場所は職場近くにある公園の噴水前。空はどんよりとした重たい雲に覆われていて、憂鬱な私の心を映しているみたいだった。
一応十分前には着くように向かったのだが、すでにそこには見慣れたシルエットが立っていて小走りで向かう。
「おはようございます黒野先輩。お待たせしてすみません」
「謝る必要はない。集合時間には間に合っている」
「ちなみにどれくらい前からいるんですか?」
「ほんの一時間前だ。存分に気にしてくれ」
「本音がだだ漏れですよ先輩。そこは気にしなくていい、です」
黒野先輩はいつも集合時間より早く来る。何でも遅れて来た相手が申し訳ない顔をするのを楽しむためらしい。最初は気にしていた私もさすがに慣れて、ツッコミを入れる余裕がでてきた。
先輩は視線を上下して、瞬いて、また上下して、眉間にこれでもかと皺を寄せた。
「なぜ私服じゃないんだ」
「黒野先輩もいつもと一緒じゃないですか」
用事を詳しく教えてもらえなかったので仕事かもしれないとスーツで来たのだが、何がいけなかったのか先輩は不満そうだ。
「せめてパンツじゃなくてスカートだろう」
「入社初日にスカートダメにしたの黒野先輩ですよ」
あの惨劇を忘れたとは言わせない。入社初日の出来事はまた後日語るとして。
「先輩今日荷物多くないですか? 持ちましょうか」
身軽い黒野先輩が紙袋にリュックにと珍しい。せめて紙袋だけでもと手を伸ばしたらさっと避けられた。
「問題ない。場所を移動するぞ」
せっかく後輩らしいことをしようと思ったのに、行き場を失った手が宙を彷徨う。その手に何かが当たった気がして空を見上げた。
ぽたり、ぽたり、真っ黒な空から大粒の雫が降って来る。私は慌てて先を行こうとする黒野先輩のシャツを引っ張った。
「黒野先輩、雨降ってきましたよ! どこか屋根のあるところに……‼︎」
先輩はこちらを一瞥したものの、名残惜しそうに行き先に顔を向けた。どこに行きたいんだこの人は。彼の向かう方向に雨宿りできそうなものは見当たらない。
「そうだ、会社に行きましょう! あそこなら濡れないし」
「嫌だ」
「そんなこと言わないで、風邪引いたら大変ですよ。ね?」
駄々っ子を宥めるように説得すれば漸く先輩の足がこちらを向いた。休日に会社なんてごめんだが背に腹はかえられない。本降りになる前にと足を早めるとふいに身体が宙に浮いた。
「うわっ⁈」
「こっちの方が速い」
先輩の小脇に抱えられて雨の中を走り抜ける。これは完全に荷物と同じ扱いだ。最近体重計乗ってないけど大丈夫かなと思いながら、同じように反対側に抱えられた紙袋と目が合って、せめて邪魔にならないようにと大人しくしておいた。
*
灰島重工は表向きには土日休みとなっている。が、当然そんなはずはなく、ぽつぽつとフロアに灯りが点いていてブラックな一面が窺える。せめてグレーであれとも思うが今日はそれに救われた。
「守衛さん鍵貸してくれて良かったですね」
休日出勤届は提出してなかったが、守衛に社員証を見せたら快く室の鍵と、タオルまで貸してくれた。建物を叩く雨音は酷くなるばかりで、あのまま外にいたらずぶ濡れになっていたことだろう。
暖房を入れてタオルで濡れたところを軽く拭く。黒野先輩は渡したタオルを頭に掛けたまま座り込んで微動だにしないので、上からわしわしと拭いてやった。
「いつまで拗ねてるんですか黒野先ぱ、へっくしっ!」
鼻をすすって顔を上げると私と黒野先輩の周りを黒い煙幕が囲んでいた。ふわりと熱風を感じ、視界が晴れたときには服も髪も乾いていた。
「すご、ありがとうございます!」
黒野先輩はお礼を言う私に見向きもしないでリュックの中を漁っている。取り出した水筒の中身をコップに移してずいとこちらに差し出してきた。
ほこほこと湯気を立てるそれはコーンスープで思わず「わぁ」と声が出る。
「……美味しい‼︎」
ありがたく受け取って一口飲むとじんわりと身体の芯から温まっていくようだった。黒野先輩お手製というそれは、まさにじっくりコトコト煮込んだなんとやら。粒が見当たらないのは、型崩れしないからすり潰したんだろうなと予想がつく。
「本当ならピクニックの予定だった」
「ぴくにっく」
「青空の下で食べるのは格別だと、部長も言っていた」
「あおぞら」
黒野先輩の口から聞き慣れない単語が飛び出してきてついおうむ返ししてしまう。
「パンも開店前から並んで買った」
がさがさと紙袋の中から出てきたのはメロンパンで、可愛らしいひよこのロゴマークが入っていた。
「それ、ひよこベーカリーのメロンパン‼︎」
ひよこベーカリーはメロンパンが絶品で有名な店だ。食べてみたいと思っていたもののテレビでも取り上げられていて、叶わぬ夢だと思っていた。
それが、並んでも一瞬で売り切れるという幻のメロンパンが、今、私の目の前にある。
「青空の下でなければ意味がない」とそれをしまおうとする黒野先輩の手に私は必死にしがみついた。
「あの、黒野先輩。よかったらここでピクニックしませんか?」
*
広くはない室の中でデスクを出来るだけ端に寄せて、黒野先輩は心なしかウキウキと、どこで買ったのか気になる死神柄のピクニックシートを広げた。買ってきたパンも並べてぽんぽんと隣に座るよう催促してくる。
「お邪魔します。メロンパンが三つもある!」
「ホワイトデーのお返しは三倍返しが当たり前なのだろう?」
「それ吹き込んだのも部長ですか。ん、ホワイトデー?」
ホワイトデーはバレンタインのお返しをする日で、ああだから黒野先輩は今日、三月十四日にこだわっていたのか。でもおかしい。私バレンタインに何もあげてない。
「あの、私バレンタインに黒野先輩に何かしましたっけ?」
「忘れたのか? ちゃんとチョコをもらったが」
うそ、全く記憶がない。渡した本人が覚えてないなんてことあるのだろうか。
二月十四日、ちょうど一か月前。あの日はいつも通り仕事をして、お昼に購買でパンを買ってーー。
『黒野先輩お昼食べないんですか?』
『財布を忘れてきた。もしお前に先輩を敬う心があるならパンをくれ。チョコが入っているものしか受け付けない』
『そんなたかり方あります?黒野先輩チョコ好きだったんですね。チョコ……チョコ……このチョコチップメロンパンでいいですか?』
『……! ああ、それがいい』
あのとき渡したチョコチップメロンパンがバレンタインチョコ認定されている? そんなまさか。でも黒野先輩だからなぁ。
あの日チョコチップメロンパンの封を開けた先輩はそのあとーー。そうだ、そのあと!
「黒野先輩ストッ……」
「む?」
ふわふわの柔らかいメロンパンが黒野先輩の手の中で形を変えていく。一瞬の出来事なのにまるでスローモーションを見ているようだった。
「ああっ‼︎」
遅かった。また助けられなかった。雲のようにふわふわなのが売りのメロンパンは無残にも押し潰されてしまった。
「前も思いましたけど何でそんな食べ方するんですか! メロンパンが可愛そうでしょう」
「この柔らかさ、押し潰してくれと言っているようなものだろう。味も凝縮されて美味いぞ」
黒野先輩に差し出されるとつい口を開けてしまう。変な癖が付いてしまったなと思いながら、私は潰れたメロンパンを齧った。
普通に美味しい。けれど私の求めていたメロンパンはこれじゃない。
「いいですか、黒野先輩。メロンパンはサクふわ食感を楽しむべきです。柔らかいもの好きですよね?騙されたと思ってこのまま食べてみてください」
今度は私が黒野先輩にメロンパンを差し出す。本当は先に自分で食べたかったけれど、このまま食べる美味しさをわかってもらわないと残りも全部潰されかねない。
なかなか受け取ってくれないので仕方なく口まで持っていくと、先輩は大人しく口を開けた。
おっと、これは。
意地悪で何を考えているかわからない黒野先輩が、されるがまま私の手からパンを食べている。猛獣を餌付けした気分だ。何だか可愛く見えてきて、もぐもぐと膨らむ頬を突ついたら噛まれるだろうか。
「思っていたほど悪くない」
「そうでしょう!じゃあ私も食べたいので残りは自分で持って……」
黒野先輩はあんぐりと口を開けて待っている。自分で持つ気はさらさらなさそうだ。諦めてパンを近付けると手首をがっちり固定され、食べ終わるまで離すつもりもないらしい。
サクふわのメロンパンはゆっくりと食べられて、残すは最後のひとくちだけ。黒野先輩が私のほうを見ながら大きな口を開ける。
やっと解放されると思った矢先、
「ぎゃっ⁈」
私の親指を黒野先輩が食んでいる。驚いて声が裏返ってしまったけれど痛みはない。甘噛みだ。
「黒野先輩それメロンパンじゃないです!私の指です‼︎」
「そうか、気付かなかった」
指先に息がかかり、先輩の唇が弧を描いているのが見えた。わざとだ。この人は私の様子を見て楽しんでいる。男は心は幼いまま云々と先輩はよく言っているが、この人こそそれが当てはまるんじゃないかと思う。
「美味かった」
「そうですか、それは何よりです」
その後も散々弄られたせいで、解放された頃には私の精神力が底を尽きそうだった。
やっとありつけたサクふわのメロンパンは想像を超える美味しさで、頬っぺたが落ちるとはまさにこのことだ。
黒野先輩が買ってきてくれなかったら食べられなかったんだよなぁ。
粒はないけど温かくて美味しい手作りコーンスープも、早朝から並ばないと買えないメロンパンも、似つかわしくないピクニック用品も。全部私のために先輩が用意してくれたと思うと感謝しかない。
絶対に言わないけれど、チョコチップメロンパンごときで律儀にここまでしてくれる黒野先輩のことを私はそれなりに尊敬している。
「黒野先輩、今日はありがとうございました。外ではできなかったですけど、ピクニック楽しかったです」
「俺もだ。青空の下じゃなくても格別だとわかった」
「ピクニックそんなに気に入ったんですか。あとこんなにしてもらって申し訳ないので来年のバレンタインはちゃんとしたものを用意しますね」
「ああ、楽しみにしておく」
この日の出来事を彼は初デートの想い出と語る。この時はまだ付き合っていなかったはずでは、と思うのだが、隣に座る恋人が楽しそうなのでそれを眺めながら私は青空の下、懐かしいメロンパンを頬張るのだった。