優一郎黒野
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黒猫が前を横切ったら不吉だと言ったのは、誰だったか。
テレビで観たのだったか親に聞いたのだったかは忘れてしまったけれど、とりあえずあまり縁起はよくなかったはずだ。
唐突にそんなことを思い出したのは、今まさにそういう状況に直面しているからだ。
昼夜問わず薄暗い研究棟の廊下、その奥からするりと現れた影。しなやかな肢体に黒い尾と三角の耳を持つそれは、黒猫と呼ぶに相応しい姿をしていた。けれど彼にはすでに呼び名があった。『死神』という、不気味且つらしい呼び名が。
優一郎黒野。恐らく灰島でその名前を知らない人はいないだろう。弱者を虐げることが趣味の狂人で、以前研究員の知り合いが首を絞められたとかどうとか言っていた。そんな人間とは絶対に関わりたくなかったのだが、まさかこんなところで出くわしてしまうなんて。
私の部署と優一郎黒野の部署はほとんど仕事で関わらないから、完全に油断していた。私は思わず「ひっ」と声を上げそうになったのを慌てて両手で押さえ、息を潜めて前を横切る人影を見送る。幸いなことに優一郎黒野の視界に私は入っていないようで、彼はぶつぶつと何事かをぼやきながら歩いていく。どうかそのまま、私に気づかず行ってほしい。噂によれば興味を持たれたら最後、彼の気の済むまでいたぶられるらしいから。それにしてもーー。
(なぜ彼はあんな姿をしているのだろう?)
最狂の死神、優一郎黒野。直接彼を目にしたのはこれが初めてだったけれど、最初に感じた恐怖は頭についた可愛らしい猫耳によってだいぶ薄らいでいた。あの姿の理由は見当もつかないが意外にも似合っていて、遠ざかっていく彼の揺れる尻尾を恐る恐るも目で追ってしまう。いつもああなら、親やすいかもしれない。関わりたいとは思わないけど。
視界から優一郎黒野が消えてから、私は詰めていた息を吐いて再び廊下を歩き始めた。そして目を付けられなくてよかったと気を抜きすぎていたのだろう。持っていた書類を落としてしまい、「ひっ⁈」ぎょろりとこちらに向けられた視線に悲鳴を上げた。
黒猫が笑っている。
薄闇の中でも目立つ金色の目を細め、にぃっと唇を吊り上げて。静かにこちらににじり寄ってくる気配に、私は夢中でその場から逃げ出した。
***
黒猫が不吉の象徴というのは、あながち間違っていなかったらしい。
猫耳姿の優一郎黒野から逃げ出した私は、明日提出予定の書類を拾い損ね、おろしたばかりのパンプスのヒールは折れ、無理に走ったせいか靴擦れして、両踵が悲惨なことになっている。こういう日は家に引きこもるに限ると会社を早退したのだけれど、財布をどこかで落としてしまったようで、本当にツイていない。
「はあ」
何度目かわからない溜め息を吐いて、私は重力のままソファに沈み込んだ。今日はもう疲れた。うと、うとと閉じたがる瞼に従って目を閉じると、すぐに心地よい眠気に誘われた。しかしピンポーンと玄関のチャイムがそれを邪魔して、なかなか寝付けない。居留守を決めようとするもチャイムはなかなか鳴り止まず、結局私が根負けした。セールスだったら即お帰り願おう。
「はい」
ガチャリと扉を開けると同時に黒い革靴が飛び込んできて、一瞬何が起こったのかわからなかった。
「やあ、会いたかったよ」
心臓がばくばくと危険信号を出していた。恐る恐る顔を上げると見覚えのある金色が私を見下ろしていて、恐怖でその場から動けなくなる。なんで。どうして彼が私の家に。
「君は本当にいい顔をするな」
玄関の扉をこじ開けて入ってきた優一郎黒野の手には私の落とした書類と財布が握られていた。その目は爛々としていて、口元は笑っている。すでにその頭に猫耳はなかったが、あの時と同じ、心底楽しそうな笑みだった。
「もう逃げないのか。ああ、逃げられないのか」
優一郎黒野は納得したように頷き、腰を抜かした私の腕を掴んで部屋の奥へと引きずっていく。抵抗すればするほど彼はうっそりと目を細め、熱を孕んだ息を吐いた。
「君は運がいいな」
「……は?」
「書類も財布も無事戻ってきただろう」
それはそれだけで済めばの話だ。優一郎黒野に目を付けられるくらいなら、書類も財布も戻ってこなくてよかった。
黒猫が目の前を横切ったから、私は今こんな目に遭っている。そう訴えると、彼は呆れたように肩を竦めて私に告げた。
「知らないのか。黒猫は幸運を招くんだぞ」
それは誰にとっての幸運だろう。私は目の前の黒猫が招いたものに、幸運を見出せそうにない。
テレビで観たのだったか親に聞いたのだったかは忘れてしまったけれど、とりあえずあまり縁起はよくなかったはずだ。
唐突にそんなことを思い出したのは、今まさにそういう状況に直面しているからだ。
昼夜問わず薄暗い研究棟の廊下、その奥からするりと現れた影。しなやかな肢体に黒い尾と三角の耳を持つそれは、黒猫と呼ぶに相応しい姿をしていた。けれど彼にはすでに呼び名があった。『死神』という、不気味且つらしい呼び名が。
優一郎黒野。恐らく灰島でその名前を知らない人はいないだろう。弱者を虐げることが趣味の狂人で、以前研究員の知り合いが首を絞められたとかどうとか言っていた。そんな人間とは絶対に関わりたくなかったのだが、まさかこんなところで出くわしてしまうなんて。
私の部署と優一郎黒野の部署はほとんど仕事で関わらないから、完全に油断していた。私は思わず「ひっ」と声を上げそうになったのを慌てて両手で押さえ、息を潜めて前を横切る人影を見送る。幸いなことに優一郎黒野の視界に私は入っていないようで、彼はぶつぶつと何事かをぼやきながら歩いていく。どうかそのまま、私に気づかず行ってほしい。噂によれば興味を持たれたら最後、彼の気の済むまでいたぶられるらしいから。それにしてもーー。
(なぜ彼はあんな姿をしているのだろう?)
最狂の死神、優一郎黒野。直接彼を目にしたのはこれが初めてだったけれど、最初に感じた恐怖は頭についた可愛らしい猫耳によってだいぶ薄らいでいた。あの姿の理由は見当もつかないが意外にも似合っていて、遠ざかっていく彼の揺れる尻尾を恐る恐るも目で追ってしまう。いつもああなら、親やすいかもしれない。関わりたいとは思わないけど。
視界から優一郎黒野が消えてから、私は詰めていた息を吐いて再び廊下を歩き始めた。そして目を付けられなくてよかったと気を抜きすぎていたのだろう。持っていた書類を落としてしまい、「ひっ⁈」ぎょろりとこちらに向けられた視線に悲鳴を上げた。
黒猫が笑っている。
薄闇の中でも目立つ金色の目を細め、にぃっと唇を吊り上げて。静かにこちらににじり寄ってくる気配に、私は夢中でその場から逃げ出した。
***
黒猫が不吉の象徴というのは、あながち間違っていなかったらしい。
猫耳姿の優一郎黒野から逃げ出した私は、明日提出予定の書類を拾い損ね、おろしたばかりのパンプスのヒールは折れ、無理に走ったせいか靴擦れして、両踵が悲惨なことになっている。こういう日は家に引きこもるに限ると会社を早退したのだけれど、財布をどこかで落としてしまったようで、本当にツイていない。
「はあ」
何度目かわからない溜め息を吐いて、私は重力のままソファに沈み込んだ。今日はもう疲れた。うと、うとと閉じたがる瞼に従って目を閉じると、すぐに心地よい眠気に誘われた。しかしピンポーンと玄関のチャイムがそれを邪魔して、なかなか寝付けない。居留守を決めようとするもチャイムはなかなか鳴り止まず、結局私が根負けした。セールスだったら即お帰り願おう。
「はい」
ガチャリと扉を開けると同時に黒い革靴が飛び込んできて、一瞬何が起こったのかわからなかった。
「やあ、会いたかったよ」
心臓がばくばくと危険信号を出していた。恐る恐る顔を上げると見覚えのある金色が私を見下ろしていて、恐怖でその場から動けなくなる。なんで。どうして彼が私の家に。
「君は本当にいい顔をするな」
玄関の扉をこじ開けて入ってきた優一郎黒野の手には私の落とした書類と財布が握られていた。その目は爛々としていて、口元は笑っている。すでにその頭に猫耳はなかったが、あの時と同じ、心底楽しそうな笑みだった。
「もう逃げないのか。ああ、逃げられないのか」
優一郎黒野は納得したように頷き、腰を抜かした私の腕を掴んで部屋の奥へと引きずっていく。抵抗すればするほど彼はうっそりと目を細め、熱を孕んだ息を吐いた。
「君は運がいいな」
「……は?」
「書類も財布も無事戻ってきただろう」
それはそれだけで済めばの話だ。優一郎黒野に目を付けられるくらいなら、書類も財布も戻ってこなくてよかった。
黒猫が目の前を横切ったから、私は今こんな目に遭っている。そう訴えると、彼は呆れたように肩を竦めて私に告げた。
「知らないのか。黒猫は幸運を招くんだぞ」
それは誰にとっての幸運だろう。私は目の前の黒猫が招いたものに、幸運を見出せそうにない。